調べたいことがあって、坪内逍遥の『児童教育と演劇』(早稲田大学出版局)を読んだ。坪内逍遥といえばシェイクスピアの翻訳家であり、『小説神髄』の評論家であり、二葉亭四迷の小説改良運動に先立って演劇改革を唱えた、文学史上の巨人である。
第五章のタイトルは「児童劇の種類及び使命」で、児童教育における演劇の有効性を訴えている。その前提として、児童教育の現況を語っている。
それから、玩具だつて、今のは非常に精巧にはなつたが、教育上からいふと昔のヽはうがいヽ。昔は物が不自由であつたから、例へば私自らの幼少の頃なぞは、粗末な絵紙を買つて來てそれを切りこまざいて細工をしたり、或は下手々々と不器用な物を拵へたりして遊んだものであつた。今では何もかも自由で且つ備はり過ぎてゐる。立派に器用に完全に出來上がつてゐる物が金さへあれば自由自在に買つて來られるから子供自身で工夫する必要がない。
昔は物が少なかった。だから、子供はおもちゃを自分で作って遊んだ、今は金さえあればなんでも買える、恵まれすぎである、とまあ、こんな内容である。
テレビゲームに夢中になって外で遊ばない子供が多い。大人は嘆く。
「最近の若者はゲームばかりだ」
大人は、つい、若者に眉をひそめるものだ。
「最近の若者」
大人にとって若者とはつねに「最近の若者」である。「最近の若者」ときたら、あとに続くのはたいていの場合「だらしない」「恵まれている」「なっとらん」「ダメだ」などである。
坪内逍遥の嘆きは止まらない。
一つは學校の課業が多過ぎ、其下見や何かに余暇がないからかういふことに成つて來たのでもあろうが、遊びや玩具の手細工に學校の課業以上の効用があることを心附かないでゐる教育家が多く、親達が多いから困る。
まるで現在の学校教育について述べているように思えるが、これが書かれたのは大正12年である。七十年以上前の学校も、授業が多くて、子供は遊ぶ時間がなかったらしい。そして、七十年以上前の坪内逍遥は「最近の若者」の将来を憂慮していたのだった。すると疑問が生まれる。
「『最近の若者』はいつ生まれたのか」
恵まれすぎて、だらしなくて、ダメな「最近の若者」。彼らはいったいいつ誕生したのか。ひょっとすると戦国時代にもいたのかもしれない。まるでなってない家来たちを見て武将が言う。
「ダメだな。まったく最近の若者はダメだな」
あるいは平安時代である。紫式部だ。世界最古の小説を書いた人だから、世の中の観察眼は優れていたに違いない。当然「最近の若者」についても考えていただろう。そして、平安時代の「最近の若者」もまた、もうあきれ果てるしかないほどだらしがなかっただろう。
「若宮参りたまひぬ。いとどこの世のものならず生臭なれば、いと情けなきかぎりなり」
わたしは「最近の若者」に同情する。
(2002.3.31)