イエス・キリストの生涯を扱った芝居を観た。プエルトリコの劇作家ロベルト・ラモス=ペレアの『アヴァター』である。
題材が題材だからクライマックスが磔刑なのは予想がつく。意外だったのは、宗教学の博士論文を書いている女子学生が語る物語という構成だったことだ。学生の言葉がそのまま劇中劇になる。学生はマグダラのマリアに、大学の教官たちはイエスにまつわる人物を演じる。話の中身はもちろん架空で、イエスはインドを旅してヒンズー教と仏教の教えに触れる。
最初からイエスを登場させないのはうまいと思った。外部の視点からみるイエス像だ。芝居でも小説でも、そこでは「何か」について語られている。「何か」は「テーマ」とか「主題」といっていい。それをいきなりみせるのではなく、「『何か』を考えている人」を登場させて、その人に「何か」を語らせる。文学ではこういう「語り方」が大事だし、文学研究の重要な分野だ。それにしても『アヴァター』は「語り方」がテーマにぴったりだった。
理由を考えた。そもそも『聖書』の「語り方」が入れ子構造ではなかっただろうか。通読したことはないが、「誰々が言った」というフレーズがよく出てくるような気がするし、福音書はマタイとかルカとか、語り手の名前がついている。
『聖書』における語り方の問題はどうなっているのか。確かめたくなり、「マタイによる福音書」の新共同訳を読んだ。
はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。
イエスが書いたのではなく、イエスが語ったことについて人が書いた、それが福音書の構造だ。福音書はマタイとマルコとルカとヨハネがある。その差異について考えたいのだが、気になるのは口癖だ。
「はっきり言っておく」
たとえ話ばかりするイエスだ、弟子たちはしょっちゅう戸惑っている。「なんでこんなことがわからないんだ」と、イエスはいらいらしている。だったら最初からはっきり言えばいいじゃないかと思うが、解説を読もう。「マタイによる福音書」19章23節はこうだ。
はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。
はっきりと言っている。「いや、だからさ、あれだよあれ」とか、ふつうは口にしてしまうものだが、そこはイエスである。さすがだ。しかし、たとえ話なのだろうけれど、言っていることは、言葉に無駄がない分どうもはっきりしない。
はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
「ルカによる福音書」の4章24節である。口調はいい。だが、こんなことを自分で言っていいのか。
同じ福音書の23章43節でも、イエスは「はっきり」言っているが、もし会社の宴会で部長にこのフレーズを耳打ちされたりしたら、わたしは逃げる。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
(2003.6.28)