近頃気になっているのは、「はたして人はぎゃふんと言うのか」という問題である。
私は今まで「ぎゃふん」と口にした人にお目にかかったことがない。だが「ぎゃふん」は日本語としてたしかに存在している。『大辞林』によると「言い込められて言葉も出ないさま」という意味の副詞で、例文として「ぎゃふんと言わせてやる」とある。例文があるのだから、誰かがそう口にしたか、あるいは書物かなにかに書いたのだろう。だが、いくら思い出そうとしても、私は「ぎゃふん」などという言葉を口にするのを聞いたこともないし、読んだこともない。だがどこかにいるに違いない。
「そろそろあいつに、ぎゃふんと言わせてやるぜ」
そう口にする男がいるのだろう。相手をとっちめたくてうずうずしている。だが問題は、相手がはたして正しく「ぎゃふん」と言うかどうかである。相手は言い込められて言葉も出なくなる。進退極まった。そこで思わず口走る。
「にょろん」
これではいけない。いくらなんでも「にょろん」はないだろう。男は呆気にとられるに違いない。なにしろ「ぎゃふん」と言わせるつもりが、返事は「にょろん」だ。この事態をどう受け止めればいいというのか。だが相手にも一理ある。「言い込められて言葉も出ない」のだから、言葉にならない言葉を口にしたってよさそうなものだからである。だが男は諦めない。なおも責め立てる。相手はふたたび言葉につまり、ぽつりと洩らす。
「きゅうり」
また失敗である。「きゅうり」とは何事か。胡瓜のことか。それとも何かの擬音なのか。はっきりしてもらいたい。胡瓜嫌いの子供というものは結構いる。そういうことが言いたいのか。だが、とにかく「きゅうり」である。「ぎゃふん」に期待した手応えからはあまりにもかけ離れている。
ここで思い出しておきたいことは、「ぎゃふん」に匹敵する言葉を編み出した人間がひとりだけいるということである。谷啓である。谷啓は、「言い込められて言葉も出なくなる」と、こう口にしたものだ。
「ガチョーン」「ビローン」「ムヒョー」
これらの言葉は『大辞林』には載っていない。だが小林信彦編『テレビの黄金時代』にははっきり記されている。ただ、「ぎゃふん」と違う点は、この言葉を使った例文が存在しないということである。
「そろそろあいつに、ガチョーンと言わせてやるぜ」
こういう言い草はない。「ガチョーン」「ビローン」「ムヒョー」には、それらを組み込んだ例文が存在しないという悲劇がある。そして、「ぎゃふん」には、それを用いた例文が存在するにも関わらず誰ひとりとして「ぎゃふん」とは口にしないという悲劇がある。
男は疲れ果てた。「言い込められて言葉も出ない」のは今度は男の方なのである。だからといって男は決して「ぎゃふん」とは言わないのだ。
(2001.10.1)