夕空の法則

どちらかといえば

近所の雑貨屋で封筒と便箋を買った。598円だった。ちょうど小銭があったのでレジで支払った。レジ係の女性が言った。

「598円ちょうどお預かりします」

ちょっと待ってほしい。「お預かりします」はおかしいんじゃないか。

「預かる」とは、金品や人の身柄を一時的に手もとに置き,その保管や世話を引き受けるという意味だ。つまりあとで返してくれるはずである。だがレジ係の女性は598円をレジに入れたきり、お金を返してくれる素振りさえみせない。私はお金を預けたつもりはないのだが、相手は「預かります」と明言した。にもかかわらず返してくれない。これはどうなっているのか。「598円頂戴します」「598円確かにいただきました」なら問題ない。なのになぜか「お預かりします」である。どう考えてもおかしい。おかしいのだが、こういう時は、黙っているのがしきたりになっている。私は納得できないまま、商品を受け取った。するとレジ係の女性がレシートを渡しながら言った。

「レシートになります」

「レシートです」ではない。「レシートになります」だ。この「なります」が分からない。何かがレシートに変身したらしい。そう解釈するほかない。だが変身したのは「598円」である。598円が封筒と便箋に変わった。その領収書としてレシートが発行される。なぜ「レシートです」ではいけないのか。釈然としないまま、封筒と便箋をもらい、喫茶店に入った。コーヒーを頼んだ。ウェイトレスが言った。

「ご注文を繰り返させていただきます」

頼んだのはコーヒー一杯だ。それをなぜ繰り返すのか。

よく考えると「繰り返す」もおかしい。繰り返すとは同じことを反復するということだ。もしこの場で繰り返すべき人がいるとしたら、それは注文をした私自身にほかならない。「ご注文を繰り返して下さい」ならまだ分かる。分かるが、コーヒー一杯の注文を繰り返すのはなんだかバカげている。「ご注文を確認させていただきます」なら問題は起きない。それにしてもコーヒー一杯である。牛丼とハンバーグ定食とシェフの気まぐれサラダを三人前頼んだわけではない。

「ご注文を繰り返させていただきます」というウェイトレスがとるべき正しい態度は次のようなものになるはずだ。

「ご注文ご注文ご注文ご注文ご注文ご注文」

たしかに「ご注文」を繰り返している。これなら文句は言えない。

コーヒーが運ばれてきた。ウェイトレスが言う。

「コーヒーの方になります」

また「なります」だ。しかも「コーヒーの方」である。「方」とはなんだ。辞書で調べてみた。

ほう【方】 どちらかと言うと、そういう性質のあるもの。たぐい。「彼は親切な―だ」「私は寝つきがよい―だ」

ウェイトレスが持ってきたのは「どちらかといえばコーヒーの性質のあるもの」だった。私は「どちらかといえばコーヒーの性質のあるもの」を飲みながら、なんだか悲しくなったのだった。

(2001.11.5)