十年ほど昔の大学生時代、古ぼけたアパートに住んでいた。六畳一間、トイレは共同である。風呂はもちろん銭湯だ。その代わり家賃はとても安かった。居心地は決して悪くない。
ある日、廊下の反対側の部屋に中国人が引っ越してきた。挨拶に来てくれて、なぜかみかんをくれた。私は中国語を話せない。幸いその中国人は留学生で、片言の日本語を話せた。いつしかお互いに部屋を訪問し合う仲になった。意思の疎通ができると分かって、われわれは打ち解けた。それはいいが、なにせ相手は片言の日本語しか分からない。私は中国語がだめだ。そこでわれわれは、どちらからともなく提案した。筆談である。漢字を書けば、何となく意味が通じるから面白い。
先日インターネットでとあるサイトに出くわした。「中国現代用語辞典」という。こういう便利なものがあるのだ。中国語の現代用語の説明が日本語で読める。私が中国人留学生と親しかった頃にはまだインターネットは普及していなかった。「あのとき、あればなあ」。悔しかったが、時代が時代だから後の祭りである。私は「中国現代用語辞典」を眺めてみた。
「便利店」
コンビニの中国語だ。セブンイレブンは「七十一」だということも初めて知った。勉強になる。「これは使える」。私は「中国現代用語辞典」の続きを読んだ。
「白領麗人」
この意味が分かる人はどれくらいいるのだろうか。私は分からなかった。なにしろ「白」くて「麗しい人」だ。説明を読む。「若く美しいキャリアウーマン」。なるほど。私は唸った。
いつしか私は「中国現代用語辞典」に心を奪われてしまった。漢字なのに、意味が分からない。だが説明を読むと「なるほど」と思わず膝を打つ。これは一体どういうことなのか。ほかの例をみた。
「第三者」
これなら分かる。当事者以外の者だろう。だが説明を読んでびっくりした。「愛人」。言われてみれば、夫婦にとって愛人は第三者である。だからといって「第三者」が必ず「愛人」を指すとはいかがのものか。どうやら中国語は私の期待や予想をあらかじめ知っていて、わざとはぐらかしているようだ。私は勝負することにした。今度は負けないぞ。負けてなるものか。
「凱文・科斯特納」
いきなり負けた。想像がつかない。物なのか。物の名前なのか。だがこれは「ケビン・コスナー」なのだった。クリント・イーストウッドは「克林特・伊斯特伍徳」。ロバート・デニーロは「羅伯特・徳尼羅」。言われてみれば、なんとなくそう読める気もするが、どうも頭がむずむずする。この「むずむず」が気持ち悪い。
「哇塞」
お手上げである。ハリウッド・スターの名前ではないことは間違いない。場所の名前のような気がする。「城塞」に似ている。だが日本語訳はこうだ。「WOW! うわっ! すごい!」。やられた。感嘆の表現だった。私は完全に打ちのめされた。
「黄色録像」
ふたたび頭がむずむずした。簡単な漢字が四つ。こんな易しい文字なのに、分からない。まいった。まいりました。打ちひしがれて、涙をこらえ、私は日本語訳を読んだ。アダルト・ビデオだった。
中国語には用心した方がいい。
(2001.10.11)