夕空の法則

不気味なもの

この世でもっとも不気味なものとはなんだろうか。

心霊写真や幽霊、ポルターガイストなどの超常現象や霊にまつわるものを挙げる人は多いだろう。ある種の昆虫に不気味さを感じる人もいるかもしれない。異国の風俗や習慣が苦手な向きもいるだろう。

だが私は断言する。この世でもっとも不気味なもの。それは、毎週日曜日午後六時半きっかりに、日本の茶の間に姿を現す。

「サザエさん」

登場人物がいつまで経っても年をとらない。そんなことが不気味だというのではない。長寿番組である。人物に年をとってもらっては困る。それはかまわない。私が慄然とするのは別の理由による。

「『サザエさん』の世界には〈悪〉が存在しない」

たしかにカツオは腕白坊主である。つまみ食いはするし、やたらに走り回るし、喧嘩だってする。だがどれもこれも、文字通り児戯にひとしい〈いたずら〉にすぎない。カツオは決してオヤジ狩りはしないし、地下鉄にサリンはまかない。ましてや小学生を斬り殺し、生首を小学校の校門に置くような真似はしない。

カツオだけではない。サザエさんを始め、ワカメ、タラちゃん、波平、ふね、マスオ、その他あらゆる人間が善人である。こんな不気味な世界がほかにあるだろうか。

不気味さの理由はまだある。

「徹底的な不条理性」

「サザエさん」の世界では、とんでもないことが平然と起こる。あなたが「サザエさん」の世界の住人だったとしよう。あなたは買物しようと街に出かける。着いてみると、財布を忘れたことに気づく。するとどうだ。

「みんなが笑ってる」

街中の人が、いっせいに、笑う。人口がどれくらいなのかは知らない。数千人か、あるいは数万人か。いずれにせよ、何百何千何万もの人間が、いっせいに、あなたを笑う。私なら、あまりの恐怖に身がすくんで、腰を抜かすだろう。こんな街に住民登録したことを後悔するにちがいない。

だがこれしきのことで驚いてはいけない。

「子犬も笑ってる」

子犬が笑う。舌を出してハアハア言いながら、にやにや笑う。いやだ。こんな子犬はいやだ。だがあなたは「サザエさん」の世界に住んでいるのだ。これに耐えなければ生きていけない。

あなたは料理もするだろう。今夜のおかずは魚だ。するとどら猫がやってきて魚を奪って逃げる。その時、あなたは決して靴をはかずに追いかけてはならない。なぜならとんでもないことが起きるからだ。

「お日さまも笑ってる」

太陽。赤道半径69万6千km、質量は地球の33万倍、体積は地球の130万4千倍。中心温度は1600万度。太陽系の全質量の99.9%を占める大天体である。それが、笑う。黒点が増えただけで地球の気候に変化をもたらす星だ。それが笑ったりすれば、どんな天変地異が起きても不思議ではない。だが「サザエさん」の世界は平々凡々たる日々が続くのである。これほどの不条理があってよいものか。

私は怖くてたまらない。

(2001.10.30)