夕空の法則

待ちに待つ

初夏のある日のことだ。東京新聞の記事が読みたくて、ホームページを眺めていた。季節柄、記事には夏に関するものが多かった。その中に、こんな文章があった。

「いよいよ待ちに待った夏休み。子どもたちにとっては宿題の自由研究も気になるところです」

夏休みだ。自由研究は気になるだろう。だが夏休みだ。海だ。山だ。子供たちは大喜びだろう。だが私はそんなことに興味はなかった。何かが頭に引っかかっていた。もう一度読み直してみた。やっぱり気になる。冒頭の文句だ。

「いよいよ待ちに待った夏休み」

「いよいよ」と「待ちに待った」である。「いよいよ」は「いよ」が二度繰り返されている。「待ちに待った」も「待つ」の繰り返しだ。繰り返した言葉を、さらに二つ続けている。ちょっとしつこくはないだろうか。私は、繰り返さずに書けないものかと考えて、文章を直してみた。

「いよ待った夏休み」

だめだ。日本語としてこれはおかしい。「いよ」は単独では使えない。これは省こう。

「待った夏休み」

なんだか間が抜けている。待望の夏休みの到来という感じが出ない。それに、主語がないので、「夏休みが待った」と誤解される可能性もある。やはり「待ちに待った」でなければならないようだ。動詞を繰り返す。動詞と動詞のあいだには「に」を書き添える。そうすると、動詞の意味が強調される。

辞書で「に」という言葉を調べてみた。「【格助詞】(同じ動詞を重ねた間に用いて)程度のはなはだしいことを表し、その動詞の意を強める」とあった。例文が二つあった。

「待ちに待ったこの日」

「斬りに斬って斬りまくる」

二つ目の例文は凄いことになっている。なにしろ「斬りに斬って斬りまくる」だ。辺り一面血の海である。斬った人は、さぞかし斬りたかったのだろう。斬りたくて斬りたくてたまらなかった。その感じが実に鮮やかに伝わってくる。

このような表現は文法では「畳語」というらしい。言葉を畳み掛けるわけである。ではどんな動詞でも畳み掛けていいのだろうか。

「食べに食べる」

大食漢だ。もりもり食べる。その感じがよく出ている。

「泣きに泣く」

涙がとめどなく溢れている。どんな悲しい目に遭ったのか、心配だ。

「座りに座る」

ちょっと待て。これは何だ。どういう事態を説明しているのか、よく分からない。映画館で、空いている席に片っ端から座っていく、ということだろうか。それともひとつの椅子にずっと座り続けているのだろうか。判断がつかない。

「出会いに出会う」

この人は見境がない。片っ端から人に出会う。迂闊に外を歩けやしない。いつその人に出会いに出会われるか知れたものではない。

「届け出に届け出る」

なにもそんなに届け出なくてもいいだろう。

「転びに転ぶ」

転びっぱなしである。どんどん転ぶ。転び放題だ。

どうやら、どんな動詞でもやたらに畳み掛けてよいというわけではないことが分かった。

「畳み掛けに畳み掛けて畳み掛けまくる」

こうなると、もうなにがなんだか分からない。

(2001.10.14)