恋愛で悩んだことのない人はいないだろう。女性週刊誌は「恋愛」を抜きにしては成立しない。恋愛をしない人は人間ではないと言わんばかりに、恋のテクニックに始まって、果ては「恋してダイエット!」など、わけの分からないことまで載っている。
恋愛術を説いた賢人は古今東西にいる。そのなかで私のお気に入りは古代ローマのオウィディウスだ。
オウィディウス『恋の技法』(平凡社ライブラリー)
第一巻の冒頭の言葉はこうだ。
「だれかもし、この民族のうちに愛する術を知らない者があれば、これなる詩を読むがいい。そしてこの詩を読んで、術を心得、恋愛を実行するがいい。早い船が帆や橈(かい)で進むのも、技術あってのことである。軽捷な戦車の走るのも、技術あってのうえである。恋愛も技術をもって指導されなければならない」
さすがはオウィディウスである。この堂々たる断言ぶりはどうだ。古代ローマの賢人はこうでなくてはいけない。
オウィディウスは男性なので、主に男性が女性の恋心を獲得する術を伝授する。私ははやる心をおさえて読み進めた。こんな一節があった。
「広い柱廊を、暇な足で彼女がぶらぶらしていたら、そこでもまたきみは相手になっていっしょにぶらぶらしていることだ。そして時には先になって歩いたり、時には後について歩くよう気をつかいたまえ」
私は広い柱廊を歩いたことがない。どこにあるのだろう。だがオウィデゥイスは、われ関せずで、恋人と芝居見物に行った時の技法を伝授する。
「彼女が美しく着飾って席を取っているときには、きみもかならずいっしょでなければならない」
それはそうだろう。言われるまでもない。
「彼女を眺めまわしたまえ」
眺めまわす。そんなことをしたら、かえって嫌われやしないか。だがオウィディウスは「眺めまわしたまえ」という。何しろ古代ローマの賢人である。従うべきなのだろう。
「彼女が〔喝采するために〕起ち上がったら、きみも起ち上がり、彼女が坐っているあいだはきみも坐っていたまえ」
どうでもいいが、オウィディウスは「~したまえ」が好きなようである。だが恋の技法を身につけるためには彼の「したまえ」に従わなければならない。
「鼻の穴のなかには毛を一本も立てておかないようにしたまえ」
鼻毛だ。鼻毛はダメなのだ。一本でも立てたりしたら、恋は終わる。
「くさい口から不快な息を立てることのないように、牧畜の番人や主人〔のような悪臭〕が鼻をつくことのないようにしていたまえ」
口臭だ。お口くちゅくちゅモンダミンは恋になくてはならないものらしい。だが古代ローマ人はお口くちゅくちゅしていたのだろうか。
「女の膝に万一塵でも落ちかかったら、指で払いとってやらなければならない。もし塵がぜんぜんかからなかったら―――なくともやはり払いたまえ」
ない塵を払う。恋をするのも一大事である。
(2001.11.11)