歩き方について考えていたのだった。
スキップ。駆け足。そぞろ歩き。千鳥足。忍足。内股歩き。さまざまな「歩き」がある。だがどれもひとりで行うものばかりだ。だが人はひとりで歩くばかりではない。
「集団で歩く」
大勢の人と一緒に歩く。こういう状況というものがある。そして、集団で歩く究極の形といえばこれだ。
「行進する」
いったい人はいつから行進するようになったのだろうか。その疑問を解いてくれた人がいる。三浦雅士の『身体の零度』という本だ。
三浦雅士によると、古来の日本人は整列行進できなかったという。なぜなら、歩き方が現在と違っていたからだ。
「ナンバ」
「ナンバ」とは、右足と同時に右手が出て、左足と同時に左手が出る歩き方である。
私が小学生の頃、運動会などで必ずこういう歩き方をする生徒が何人かいた。そして父兄に笑われていた。だが三浦雅士は、これは農耕民族の基本的な歩き方だという。
「日本民族のような純粋な農耕民族の労働は、つねに単え身でなされるから、したがって歩行のときにもその姿勢を崩さず、右足が前へ出るときは、右肩が前へ出、極端に言えば、右半身全部が前へ出るのである」
だが明治19年、高等師範学校が体操専修科という課程を設けた。兵隊にふさわしい動作を教育するのが狙いである。この方針が全国津々浦々に浸透し、「ナンバ」は衰え、現在の近代的な歩行技術が習得された。体が「近代」によって管理されたのである。現在の行進にみられる歩行は、軍隊の技術なのだ。
「体が『近代』によって管理された」と書いたが、私が小学生の頃、ということは昭和40年代後半だが、その当時でもまだ「ナンバ」は地方でみられた。ということは、「なかなか近代化されない体」があるということだ。「なかなか近代化されない体」は現代には向いていない。整列行進ができないからだ。そういう体をみると居ても立ってもいられない人がいる。
「近代化する人」
近代化する人はナンバの人を許さない。
「右足を出したら左手を出せ」
だがナンバの人はなにしろナンバの人だから、つい右手を出してしまう。
「ちがう。なっとらん。左手だ。左手を出すのだ」
ナンバの人はぎこちなく左手を出す。近代化する人が言う。
「足はどうした。足が止まっているじゃないか」
ナンバの人は、左手を出すのに精一杯で、右足のことはすっかり忘れていた。近代化する人が声を張り上げる。
「右足を出せ」
ナンバの人は右足を出す。すると自然に右手が出てしまう。近代化する人はしびれを切らす。
「よくみろ。右足をこうだ。同時に左手をこうだ」
ナンバの人は萎縮してしまい、ますますぎこちない歩き方になる。右足を出す。と同時に、左手をぶらぶらさせた。近代化する人が指摘する。
「ぶらぶらさせるな」
ナンバの人はもう泣きそうである。左足を出す。今度は左手をぐるぐる回した。
「回すな」
人が整列行進できるまでの道のりには「近代」という歴史が隠されている。
(2001.11.13)