去年はじめて救急車のお世話になった。
時刻は夜中の一時ごろだ。眠っていたところ、突然、胃のあたりに激痛が走った。ただごとではない痛みだ。
「死ぬのではないか」
悪いときには悪いことが重なるもので、睡眠薬と精神安定剤を飲んでいた。意識は朦朧としている。だが痛みだけは感じる。目を開けようにも、睡眠薬のせいでまったく開かない。自律神経失調と長患いの病を患っており、母親が泊り込みで面倒をみてくれていたのが不幸中の幸いだった。記憶しているのは「救急車、救急車」と連呼したことだけだ。母はすぐに救急車を呼び、ほどなくして救急病院に直行してくれたらしい。「らしい」というのは、意識が薄れていてまるで覚えていないからだ。看護婦らしき女性が耳元で「聞こえますか」と何度も声をかけてくれたことは覚えている。レントゲンや血液検査などさまざまな検査をしたらしいが、気がついたときには翌朝で、家の蒲団に横になっていた。
誰でも一度くらいは「死ぬのではないか」という体験をしたことがあるのではないだろうか。
「死ぬ」
考えてみると、これは恐ろしい事態なのだが、なぜか人は気軽にこの言葉を使う。
「きのう徹夜でさ。死んだよ」
本人はピンピンしている。すこぶる元気だ。なのに「死んだ」という。疲労困憊したと言いたいのだろう。
「死ぬほど愛して」
こんな歌があったような気がする。死ぬほど愛する。どのくらい愛すればいいのだろうか。
「死ぬまで」
問題は誰が死ぬかだ。愛する者が死ぬのか。それとも愛される側が死ぬのか。どちらにせよ、片方が死ぬ。愛することは命がけらしい。
「死ぬほど腹が減った」
嘘をつけと言いたい。腹が減ったくらいで人がたやすく死ぬと思ったら大間違いである。水だけで二週間は生きる。人は存外丈夫にできているのだ。
「死ぬほど笑ったよ」
冗談も休み休み言え。笑って死んだ人間がいるか。いるのか。いたとすれば死因はなにか。
「爆笑」
新聞に訃報が載る。
「武田伸夫(たけだ・のぶお=自営業)8日、笑死。通夜は9日午後6時新宿末広亭で」
身の毛もよだつ話だが、世の中には連続殺人鬼がいる。人を殺したくてたまらない。彼らの欲望を表すにはどうすればよいか。
「死ぬほど殺したい」
殺さないと死ぬ。死にたくはないから殺す。
なぜか自殺未遂を繰り返す人もいる。睡眠薬を過剰摂取する。だが最近の睡眠薬は睡眠導入剤といって、いくら飲んでも死ねないようになっている。しかたがないので手首を切る。だが手首から血が流れるのを見るとほっとする人が多い。血をみてはじめて「生きている」と実感するらしい。そんなこんなで、人はなかなか死ねない。
「死ぬほど死にたい」
親は気が気ではない。
「早まるな」
説得するだろう。子供が応える。
「自殺させろ。させないと、死ぬぞ」
親が折れる。
「わかった。自殺させてやる。だから死ぬな」
誰でもいい。この親子を抹殺してほしい。
(2001.12.12)