夕空の法則

ストライキ

ホームページの掲示板を覗いてみたら、今月から一年間の予定でベネズエラに滞在している友人からの書き込みがあった。首都のカラカスでアパートを借りてひとり暮らしを始めたという。

ベネズエラについて、わたしは無知である。南米北部の国でカリブ海に面していること、中南米のほとんどの国がそうであるように国民はカトリック教徒でスペイン語を話していることくらいは知っているが、これでは何も知らないに等しい。外国に対して人は陳腐なイメージを描きがちである。スイスといえば「時計」で、スペインといえば「闘牛とフラメンコ」だ。こういうイメージは外国理解にとってしばしば障碍になるのだが、どれも根拠があることに異論はないだろう。だが「ベネズエラ」である。陳腐なイメージさえ浮かばない。

「日本といえばフジヤマ・ゲイシャ」

こう言う外国人をみるとがっかりするが、「ベネズエラといえば」に続く言葉が思いつかないから、がっかりしたくてもできない。「ベネズエラといえば」でがっかりしてみたい。もしかすると「サッカー」なのかも知れないが、サッカーはむしろブラジルだろうから、「サッカー」ではがっかりできない。「ジャム」だろうか。それとも「ガーデニング」だろうか。あるいは「パレード」かも知れない。

「ベネズエラといえばパイ投げ」

どんな国だ。

実を言えばわたしはベネズエラの陳腐なイメージには興味がないのである。興味をそそられたのは友人からのメッセージの最後の一文だ。

「今日はゼネストです」

血が騒いだ。ゼネスト。懐かしい。なんて懐かしい響きだ。日本も昔はゼネストをやったものだ。国中の機能が麻痺する。電車は走らず、飛行機も飛ばない。最近はゼネストはおろかストライキも滅多にやらない。たまに航空会社が行うことがあるが、せいぜい数便を欠航にするくらいで、そんなことではちっとも国民は困らない。国民の生活に支障が出ないストライキなど、ストライキの風上にもおけない。困られせてこそのストライキではないか。

だが時代はゼネストではないのだった。現代はゼネラルではなくパーソナルの時代である。ほとんどの人が携帯電話やパソコンを持っている。一人ひとりが自分の殻に閉じこもっている今、ストライキはまったく新しい形をとっているのではないか。

「ひとりストライキ」

たとえば主婦だ。家事労働に追われているのに家族は感謝のそぶりも見せない。業を煮やした主婦がストライキを起こす。

「24時間ストライキ」

朝から晩まで何もしない。寝転がってテレビを見るだけだ。子供が「お母さん、お腹減ったよ」と言えば、「文書で回答しろ」と素っ気ない返事である。

あるいは幼稚園児だ。幼稚園の行事に愛想を尽かした園児がストライキを始める。

「ぜんめんむきげんすとらいき おゆうぎ だんこはんたい」

園児がひとりバリケードを作り先生と敵対する。

ストライキは、思いもよらぬところで、ひっそりと進行しているに違いない。

(2002.4.11)