夕空の法則

決まり文句

大学生のときのことだ。

マドリード留学中に知遇を得た初老の友人に手紙を書いたのだった。アンダルシア在住の画家である。毎年銀座の三越で個展を開くほど有名な人だった。十年ほど前他界した。新聞に訃報が載った。若かりし頃、森繁久彌と世界中を旅して回ったという経歴の持ち主だった。

「前略」

近況報告をしたため、結語を書いた。

「後略」

投函してから、気がついた。「後略」ってことはないじゃないか。「前略」ときたら「草々」である。迂闊だった。どうしてこんな初歩的な間違いを犯したか。

「前略・中略・後略」

「前略」には二つの用法がある。まず、手紙で、時候の挨拶などの儀礼的な文を省略するときに使う。その際の結語は「草々」だ。そしてもうひとつ。文章を引用するとき、前の部分を省略するのに使う。前の部分以外の場合は「中略」「後略」だ。わたしは、この「後略」を手紙で使ってしまったのだ。

「決まり文句」

決まり文句というものがある。とくに手紙には多い。

「立春とは名ばかりで、いつまでも寒い日が続く昨今、いかがお過ごしですか」
 「お手紙拝読しました」
 「尊翰拝誦しました」
 「貴社いよいよご清栄のこととお喜び申し上げます」
 「このたびはご丁寧なお手紙をいただき、まことに恐縮に存じますさっそくご返事差し上げるべきところ、雑事にとりまぎれ心ならずも遅延いたしました」
 「乱筆乱文お詫び申し上げます」
 「略儀ながら、お手紙にてご依頼申し上げます」

だが、決まり文句は手紙に限らない。そしてわたしが問題にしたいのは「がっかりするような決まり文句」である。

「かわいい」

主に女性が使う。闇雲に使う。たれぱんだのキャラクターグッズを見る。

「かわいい!」

友だちが新しいバッグを買った。

「かわいい!」

ケーキの箱を開ける。

「かわいい!」

学校の先生が黒板に漢字を間違えて書く。

「かわいい!」

がっかりである。なにを見ても聞いても「かわいい」だ。「かわいい」という言葉の元来の意味はそこにはない。

冬だ。冬といえば鍋だ。そして、鍋を食べると、必ず誰かが言う。

「出ました。鍋奉行」

鍋奉行。なぜ奉行なのか。

「鍋大臣」

どうもだめだ。「鍋」という苗字の大臣が将来誕生するかも知れないからこれは困る。

 「鍋軍曹」

怖い。なにしろ軍曹だ。鬼軍曹が鍋を取り仕切る。

「ネギ!ネギはどうした!春菊はまだ早い!罰として腕立て伏せ百回!」

これではおちおち鍋も食べられやしない。

「どっこいしょ」

力をこめるときに思わず人は口にする。だが、なぜか、力をこめないときにも言う。

「座る」

座るのに力はいらないだろう。なのに「どっこいしょ」だ。

決まり文句は、ある特定の状況に限って用いなければならない。「どっこいしょ」は座るときだ。

「『どっこいしょ』と言ってトライアスロン」

おまえは力があるのかないのか。はっきりしろ。

「『どっこいしょ』と言ってスキップ」

なにを言っているんだ。しかも大の大人がスキップである。スキップは恥ずかしい。

「わしとおまえはラブラブじゃ」

決まり文句には気をつけたいものである。

(2002.2.8)