夕空の法則

底なしの退屈

新聞を読んでいたら、連載コラムの欄に長谷川宏の文章が載っていた。

長谷川宏と聞いてピンとくる人はそう多くはないだろう。数年前にヘーゲルの『精神現象学』を平明な日本語に翻訳して絶賛されている研究者である。

『精神現象学』に限らず、ドイツ哲学といえば難解と相場が決まっている。ページを開けば「人倫」に「悟性」に「止揚」に「即自的」に「対自的」だ。これでは、読むなと言っているようなものである。そこで、つい『ヘーゲル用語事典』などを買ってしまい、「人倫」を調べ、「即自的」を調べて、結局なにもわからずため息をつく羽目になるのだ。そんな状況を打破してくれたのが長谷川宏である。

文章を書くたびに思うのだが、難しい内容を平易な言葉で表現するのはたいへん難しい。それを実現した長谷川宏はただそれだけで偉いと思う。だから私はコラムを読んだのだった。「知的好奇心」というタイトルである。

長谷川宏は知的好奇心の大切さを説く。誰だって大切だと思っている。異論を唱える人はいないだろう。問題は、いかにして養うかである。長谷川は言う。

「知的好奇心が育つには、なによりも、ぼんやりと過ごせる暇な時間が必要だ。なにもすることがなく、退屈でたまらないといった時間が、知的好奇心を育てる温床なのだ」

あの『精神現象学』をわかりやすい言葉で翻訳した長谷川の言うことだ、真実であるにちがいない。子供に知的好奇心を芽生えさせるには、なにもしない時間、無為の時間を与えることが重要だという教訓がすぐさま読み取れるから、「よし、子供に自由な時間を与えるぞ」と意を決する親がいるだろうが、私がこの文章から学んだのは、まったく別のことだった。

「ヘーゲルは暇だった」

近代哲学の頂点といわれる本を書いたヘーゲルだ。そんじょそこらの暇ではなかったにちがいない。

「底なしの退屈」

携帯電話もプレステもない時代だ。暇つぶしにインターネットというわけにもいかない。ヘーゲルはさぞかし苦しんだだろう。

「なんにもすることがないよ、ちくしょう」

することがないなら、皿でも洗ったらどうだと言いたいが、ヘーゲルの家に汚れた皿はなかったはずだ。そもそも皿があったかどうかもあやしいものである。「くそー、皿があったらな」と歯ぎしりするヘーゲルの顔が浮かぶ。そして、歯ぎしりしながらヘーゲルは不思議な行動をとる。

「ない皿を洗う」

プレステにうつつを抜かしていてはだめだ。ない皿を洗ってこそ、知的好奇心は生まれ、哲学が誕生するのだ。

(2002.6.1)