からりと晴れた日が続いていて、時期のわりには気温も高く、「このまま黙っていれば真夏になり、やがて秋になるんじゃないか」とひそかに期待していたのだが、今朝、天気予報を見たら、今日から雨続きで、このまま梅雨入りしそうだということを知り、がっかりしたのだった。
がっかりした理由は説明するまでもない。「ひょっとしたら今年は梅雨が来ないんじゃないか」などという期待をしていたからだ。では、がっかりして意気消沈しているかというと、じつはまるで反対なのである。
「がっかりできた」
最近なにかし忘れていることがあるなとずっと思っていたのだが、それがなんだかわからなかった。そして、やっと気がついた。
「がっかりしていない」
別にがっかりしなくたっていいじゃないかと反論されるかもしれないが、よく考えてほしい。「まったくがっかりしない人生」と「ときどきがっかりする人生」のうち、どちらかを選べと言われたら、人はどちらを選ぶだろうか。
「まったくがっかりしない人生」は、山もなければ谷もない、まるで起伏というものがない、のんべんだらりとした人生である。それに対して、「ときどきがっかりする人生」は、順風満帆にみえた人生のある局面で、思いもよらず、期待が裏切られ、はっとさせられる、そんなほどよい刺激がある人生だ。なんといっても「ときどきがっかりする」の「ときどき」が「ほどよさ」を保証してくれる。平坦な道よりも、少しでこぼこした道の方が、歩きがいがあるってものじゃないか。
だからこそ、私はなるべく「がっかりしたい」と思っているのだが、つい忘れてしまうから情けない。
「がっかりしなくちゃな。そろそろ、がっかりしなくちゃな」
いつもそんなことを考えていては日常生活はままならない。だから、ついうっかり忘れてしまう。そんなとき、指摘してくれる人がそばにいてくれればいいのにと思う。
「おい。がっかりしなくていいのか」
今まで、こんなことを言ってくれた人はいない。百歩譲って、わざわざ指摘してくれなくたってかまわないのだ。たとえば、家族や友人にこんな風にしゃべる人がいてくれたらどんなに助かるだろう。
「ちょっと、がっかりしてくるよ」
しまった、と思う。やられた、と、ついうなだれる。そして、「俺もぼやぼやしてはいられないな」と思うだろう。だが人は、わざわざ「がっかりしてくるよ」などと言って出かけたりはしないから、がっかりするためには、日ごろから細心の注意を払う必要がある。とりわけ「いい塩梅のがっかり」を体験するのは、針の目に糸を通すより難しい。
「九回裏ツーアウト満塁一打逆転サヨナラの場面で放送時間が終了」
これでがっかりできると思ったら大間違いである。なぜならテレビ中継では日常茶飯事だからであり、「まただよ」のひとことで片づけられてしまうからだ。
「藤原紀香だと思ったら山田花子だった」
藤原紀香だと思う方がどうかしている。
ときにはがっかりしたいものである。
(2002.6.11)