世間はワールドカップで浮かれ騒いでいるが、そんなことをしている場合かと私は言いたい。なぜなら、東京で革命が勃発したことを知ってしまったからだ。なのに都民は誰も騒がないどころか、革命が着々と進行していることに気づいてすらいない。
それが社会主義革命だったら、私はうろたえたりしない。断っておくが、私は社会主義者ではない。だが革命となれば、それに賛同するにせよ反発するにせよ、思わず血わき肉躍ると思う。だが、今東京で進んでいる革命は血もわかなけれぱ肉も躍らない。それはなぜか。
「革命の主体が東京都」
こんなにだめな革命があるだろうか。だってそうじゃないか。革命といえば反体制であり、既存の秩序と価値の転覆だ。体制に逆らってこその革命である。にもかかわらず、東京の革命は、都庁が推進しているのである。さらに驚かされるのはその名称だ。
「心の東京革命」
石原都知事の肝いりで、都庁の生活文化局というところが二年前からひそかに進めている。心の革命という言葉になにやらマインド・コントロールの匂いがする。それを東京都という体制そのものが実行しているのだから、ただごとではない。
だがなにより驚愕的なのはその中身だ。
「『心の東京革命行動プラン』では、『家庭への期待』として次の取組内容を掲げています」
取組内容は14項目ある。最初はこれだ。
「一日は『おはよう』で始め、『おやすみ』で終わらせよう」
これが価値の転覆だとしたら、革命前の都民は一日を「どっこいしょ」で始め、「ごっつぁんです」で終わらせていたのだろうか。
「暑さ寒さに耐えさせよう」
革命前夜の東京の子供たちは、「暑いよちくしょう」とわめき散らし、「寒くて死んじゃうよ」と泣き叫んでいた。
「親子で共通の趣味をもとう」
革命にふさわしい趣味とはなにか。ガーデニングはきっとだめだ。ボウリングもだめだろう。
「火炎瓶作り」
これしかあるまい。だがこれで安心していてはいけないのだった。
「自然の厳しさ、自然の美しさを肌で学ばせよう」
親が我が子を滝壷に突き落とす。溺れる。川に流される。親は岸辺に仁王立ちである。いよいよ死ぬかというときになって、初めて親は我が子を救い出す。滝に虹がかかる。
「どうだ。わかったか」
わかったもなにも、子供は息も絶え絶えである。
心の東京革命。
東京にだけは住みたくない。
(2002.6.13)