誰もが一度くらいは「とりかえしがつかない」思いをした経験があるだろう。家宝の壺を割ってしまった。とりかえしがつかない。だが、壺は壺だ。壺が割れたからといって、死んでお詫びをすることもあるまい。会社の極秘情報を紛失してしまった。とりかえしがつかない。山下さんはビルの屋上から身を投げる。本当にとりかえしがつかない。これは困る。
つまり問題は、本当にとりかえしがつかないこと、ではない。それでは話が終わってしまう。問われるべきは、「ほどよくとりかえしがつかないこと」とは何か、である。人は「ほどよさ」を身につけているべきである。さもなければ社会生活をつつがなく営むのは難しくなる。
たとえばこれだ。
「おたまじゃくしを、軽く、指で押す」
殺すのではない。あくまでも「軽く、指で押す」だ。一瞬動きが止まるが、やがておたまじゃくしは勢いよく泳ぎだす。「ほどよくとりかえしがつかないこと」だ。
「醤油に墨汁を適量混ぜる」
いったいなんだこれは。墨汁は分かる。分からないのは「適量」だ。一歩間違うと、とりかえしがつかない。正しく「適量」でなければならない。醤油に混ぜても危険ではない量の墨汁。学校では教えてくれない。これは厄介である。墨汁への道は険しそうだ。
「知らない人の車のドアの鍵穴にアロンアルファを注入する」
強力な瞬間接着剤だ。車の所有者がやって来る。鍵穴に鍵を入れる。入らない。いくら押しても入らない。所有者は呆然とたたずみ、事態を飲み込むと、あたりはばからず怒鳴り散らしている。当然だ。こんなことをしでかしたのは一体どこの誰だ。
だが「鍵またはドアを交換する」という逃げ道があるのだった。「ほどよくとりかえしがつかないこと」だ。ただしあなたが現場で見つかった場合、しかも相手がタクシー運転手か暴力団の場合、あなたはとんでもない目に遭う可能性がある。だめだ。これはだめだ。
「ビデオデッキの時計を十五分早める」
女子大学生。昼は授業があり、夜は家庭教師のアルバイトがある。好きな連続ドラマはいつもタイマー録画している。ところが再生してみると番組は途中から始まり、尻切れとんぼで唐突にビデオは終わる。弟だ。弟の仕業だ。とりかえしがつかない。だが彼女には親友がいる。やはりそのドラマを毎週録画したのだった。ダビングしてもらえば問題は解決だ。「ほどよくとりかえしがつかないこと」である。
「納豆をハンドバッグの中でかき回す」
バッグの中はねばねばでぐちょぐちょである。とりかえしがつかない。だが納豆を拭い取れないこともないだろう。やればできるはずだ。だが匂いが残った。臭い。消臭スプレーでも消えない。納豆の匂いがするハンドバッグ。
「ほどよさ」を身につけるのは難しい。
(2001.10.9)