夕空の法則

いい人

学生時代、友人と世間話をしていたら、いい人とはどんな人かということが話題になった。「いい人」について真剣に考えたことは、それまでなかった。友人が言った。

「いい人は二種類しかいない。『自分にとって都合のいい人』と『どうでもいい人』だ」

「自分にとって都合のいい人」はたしかに「いい人」だろう。会社で残業する。「いい人」がやってきて、「あ、それ、わたしがやります。どうぞ先に帰ってください」と言う。いい人だ。なんていい人なんだ。残業せずに済む。

会社を出る。終電車に間に合うかどうかわからない。駅までは遠い。タクシーで行こうかどうか悩む。すると待ってましたとばかりにタクシーが来る。しかも空車だ。手を上げもしないのに、横にぴたりととまる。「○○駅までなんですけどいいですか」と訊ねると、運転手は「ちょうど会社に帰る途中だ。お金はいらないよ」と言うではないか。いい人である。

ただでタクシーに乗せてもらい、駅に着く。終電車の発車時刻だ。プラットフォームに駆け上がる。一足遅かった。目の前で終電車がガタゴトと走り出す。するとどうだ。駅員が車掌に向かってなにか叫んでいる。電車がとまる。ドアが開く。わざわざ電車をとめてくれたのだ。

終電車はすし詰めだ。立錐の余地もない。この調子では終点まで立ち通しである。一時間半はかかる。諦めていたその矢先だ。目の前に座っていた青年がすっと立ち、「ぼくは次の駅で降りますから、どうぞ」と席を譲ってくれる。いい人だ。いったいどうなっているんだ。いい人ばかりだ。

「いい人」はありがたい。だが「いい人」は「自分にとって都合のいい人」だけではないと友人は言う。

「どうでもいい人」

今までに「どうでもいい人」について深く考えた人がいるだろうか。プラトンやアリストテレス、現代ならデリダやフーコーといった哲学者たちは人間について考察したが、「どうでもいい人」についてはひとことも語っていない。なぜか。

「どうでもいい人だから」

あたりまえだ。「どうでもいい人」である。考察の対象にならなくても文句は言えまい。だが冷静に考えると、「どうでもいい人」について考察すれば、プラトンもアリストテレスも考えなかったことを考えることになる。哲学の歴史にあらたな一ページを加えることができるのではないか。

「どうでもいい人の哲学」

「どうでもいい人」の正体を見極めなければなるまい。「どうでもいい人」の日常はどうなっているのか。

「目覚まし時計を五つ持っているがどれも目覚ましの設定をしていない」

なんのための目覚まし時計だ。目覚ましの設定をしてこその目覚まし時計である。だが「どうでもいい人」にとって目覚まし時計はどうでもいいのであった。

「じっと壷を見つめる」

なんの意味があるのだ。ただじっと壷を見ている。

「床を転がる」

なにかの儀式だろうか。わからない。わからないが、わかりたいとも思わない。なぜならその人は「どうでもいい人」だからだ。

(2002.1.11)