スペイン政府はキャパ千人未満の劇場での興行を観客数を減らして実施するよう求めましたが、マドリード演劇制作者協会は新型コロナウイルス蔓延防止のためマドリードの全劇場の閉鎖を決めました。期間は3月12日から26日まで。
スペイン政府が新型コロナウイルス感染拡大の予防策として観客数が千人を超える興行を禁止し、キャパ千人未満のホールでの公演は観客数を三分の一以下に減らして行うことを決めました。本日観客数を減らして初日を迎えるハロルド・ピンター作『背信』を上演するマドリードのエル・パボン・カミカゼ劇場の責任者ミゲル・デル・アルコとイスラエル・エレハルデは政府の施策は経済的な大損害になると訴えました。同劇場内のアンビグーという小劇場はキャパが約80人で、「観客数が30人以下だと経済的に成り立たず、照明をつけるだけで赤字になる」。小劇場はどこも同じ苦境に立たされており、同じくマドリードのミラドール劇場(キャパ120人)は4月1日まですべての公演を中止すると発表しました。
ABCのラウラ・レブエルタ記者によるヌリア・エスペルのインタビュー記事です。
- ――スペイン演劇界の大女優ですが、子どもの頃は女優になりたいとは夢にも思わなかったと……
- ダンサーになるつもりでした。初舞台を踏んだのは13歳、両親が詩と演劇をとても好きだったから。二人とも労働者でした、大工と織物工場に勤める妻。でも二人とも詩を暗記して、劇場にも通っていました。彼らが小さな種をまいてくれたの。私が詩を暗唱するのを誰かが聞いて両親にルメア劇場でオーディションを受けさせてくれませんかと両親に尋ねたんです、劇場ではちょうど内戦後初めてカタルーニャ語で活動する劇団が設立されるところでした。両親は大喜び。そうして私はその劇団を選びました。
- ――では一目惚れだった?
- 子どもでいるのをやめて思春期になったのね、お下げ髪を切って靴下を脱いでストッキングを穿いて。自分は若い女優なんだと感じたの、野心はもう芽生えていました、もっといい役が欲しいと思たし、もっとお金を稼ぎたかったし、評判がいい演出家と仕事をしたくて、みんなマドリードにいました。お芝居がしたくてたまらなかったの、演劇に参加して自分の内面を磨いて内面をもっとよく知りたくて……。読書が手助けになりました。私にとって礎でした、あらゆる現代演劇を読んで猛烈な欲望が目覚めたの。
- ――下層階級でありながら親がそこまで文化を好んだ理由はどう説明を?
- 文化を好んだというのは不正確です、母はほとんど読み書きができなかったし、父も……。
- ――憧れ?
- いいえ、演劇への愛。不思議だけれど父も母も演劇が好きでたまらなかったの。地元で演劇活動をして知り合って、バルセロナのランブラスでマルガリータ・シルグの演技を見たこともありました、『花の言葉』のドニャ・ロシータ役だと思います〔訳者註。フェデリコ・ガルシア・ロルカの戯曲『老嬢ドニャ・ロシータ』〕。確認はできなかったけれど、ちょうど公演があった時期なので……。それで死ぬほど好きになって、何年も経ってから当時のことをよく話していました。
- ――初期の代表作は『メデイア』です。社交界へのデビューとしてはずいぶん背伸びしましたね。
- しすぎよね。衝撃的でした。スペイン・フェスティバルという催しの最中で、いろんな芝居が全国を巡業したんです。私は劇団の端役として契約されました。作品は『メデイア』と『フエンテオベフーナ』、『シッドの青春』で、三つとも小さな役で出演しました。劇団はすっかり稽古を終えて、いよいよマドリードから主演女優が来て先頭に立ってくれるのをワクワクしながら待っていたのですが、その人が急病になって、残り二週間で作品を全部作り直す羽目になったんです。
- ――それで代役を? 足が震えませんでしたか?
- パニックになっちゃって、私はオーディションを受けました、だってさっき言ったとおりあくまでも端役でという話だったから。で、どうしようもなくなって、やけくそみたいに、十日後に初日を迎える三作品の主役をみんな私に押しつけられたの。今日は『メデイア』で、あしたは『フエンテオベフーナ』、あさっては『シッドの青春』って、全部一緒に、日替りで。自殺行為としか思えなかったのに終わってみると大成功で、私の人生は本当に変わりました、当時はそんなふうに思えなかったけれど、だってあの時誘いを受けたのには自慢できるような話は何もなかったのよ。重要なのは自分も女優になれるとわかったこと、悲劇を演じて生涯の仕事にできるということ、やるだけの価値があるということ。18歳でした、もうすぐ19歳。学んだのはそれです、この世界で一生仕事をして全人生を捧げられるという確信です。
- ――文字通り全生涯を捧げてきました! 長いキャリアの中でパワフルな役を何度も再演しました。朝も昼も夜もメデイアやベルナルダを演じるのに飽きたことは一度もない? どうやって毎年新たな命を吹きこむのですか?
- 同じ役を何度も再演したのは『メデイア』だけです。そういうことは俳優には滅多にありません。若い時にデビューしたきっかけとなった役のそばにいて、一生を通じてその役を演じて、観客は俳優と自分自身も年齢を重ねることによって生まれる変化を受けいれてゆくのだと思う。メデイアは七八回、七八人の演出家のもとで演じました。そのたびに役は私と一緒に成長して成熟していって、何か別のものへ変わっていったんです。
- ――役の成長は、女としての、そして女優としてのご自身に対応していると思うのですが、どんな感じですか?
- 最初は嫉妬と絶望に狂った女でスタートして、後にマイケル・カコヤニス――映画『その男ゾルバ』と『トロイアの女』の監督――の演出で演じたときは69歳か70歳で、違う芝居になっていました、メデイアが子どもたちを殺すのは不誠実だからで、愛ではなく恋愛でも嫉妬でもない。何年も経ってからあらためて台本を手にして驚くのは、それまでとは違うものが見えるの。デビュー当時よりも立派な台本に見える、当然よね、当時は少女だったから。メデイアは少女ではない、メデイアは女の中の女です。
- ――青春時代を、生まれ故郷のロスピタレット・ダ・リュブラガット時代を振り返るとどんな思い出がありますか? 逃げて広い世界を見たかった?
- 私が家を出たのは純白の花嫁ドレスを着て結婚するため。ロスピタレット・ダ・リュブラガットは今でこそ大都市ですけど当時は小さな区域でした。住まいはロスピタレットの労働者街。そこに住んでいたときは独身でした、でももう世界各地の劇場を巡ってツアーをしていて、いろんな仕事を目まぐるしくこなしていました、映画の吹替やラジオドラマ、演劇……。そうして自分のキャラクターが、性分が形成されていったの。ブエノスアイレス通り9番地のあの家には私がそこに住んでいたと書いてあるプレートが貼ってあるの。自分の子ども時代は、全部話し始めたら暗い時代だったように見えるでしょうけれど、実際はそんな記憶はありません、思い出すのは家の外で女の子の友だち大勢と一緒だったこと、通学した学校二つと、とてもよい近所の人たち。
- ――結婚はとても若かった?
- 20歳。
- ――経歴を振り返ると二つの顔があります。一つは生涯を通じて伝統的な女性、もう一つは今日ならエンパワーメントされた女性と呼ばれる顔です。自分でも本当にそのような一種の二重人格、つまり家事が好きな女性とパイオニアとしての顔、新たな世代へ多くの世界を開拓した女性という二重性を感じていますか?
- 生まれてからずっとそうでしたよ。家事が好きで夫と娘と孫娘が大好き。だからといってそれは自分特有の考えを持ってそれを擁護して、充実した仕事をして成長するのに必要な穏やかさと平行して生きることの妨げにはなりません。別々ではないの、一方が他方を妨げるわけではない。少なくとも私の仕事では、私の人生では、そんなことは起きませんでした。
- ――まさに意志表示ですね。
- 自分の人生を少しだけ自分の望み通りにしたとは感じています、望みは家庭を持つこと、そしてなおかつ自分独自の考え方を持ってその考えを説明して他人と分かち合う人間になるために自由であることです。もちろん、今お話ししていることはすべてフランコ体制の一番暗かった時代に考えていったことよ。
- ――20歳でアルマンド・モレノと結婚しました、自分は脇に退いて主役の地位をすべてあなたに、ステージ全体をあなたに譲った演劇人です。あの時代にはなかなかないことだったと思います。自分は恵まれていると感じたことは?
- そのとおりです。アルマンドはフェミニストでした。私は熱烈なフェミニストだけど、そうなる必要はなかったの。フェミニストだったのはアルマンドのほうよ。
- ――もちろんいわゆる内助の功ではなく、その逆ですね。それこそが間違いなく旦那さんなりの大らかな気前の良さだった。
- ええ、疑いの余地はいささかもありません。20歳の女優を選んで24歳のときに劇団を作ってくれたのはアルマンドでした。私たちは運が良かったんです、私たちのような生き方では運も大切な役を演じますから。すぐ観客から高い評価をもらいました。そして1994年にアルマンドが亡くなるまで続いた戦いが始まったんです。
- ――伝記を読み直して気になったことがあるのですが、オペラの演出を始めたときのことです。自分には向いていないどころか専門家でさえないものに首を突っ込んでしまって後悔していると告白なさっています。大女優ヌリア・エスペルが自分に驚嘆すべき謙虚さのテストを課しています。
- 降って湧いた話だったからよ、戦って勝ち取ったのではなく。私は好戦的なの。すでにやったことがあるものや誰もがやっていることに似ているものよりも挑発的で複雑なプロジェクトのほうが好き。オペラ演出の仕事はプレゼントされたんです。ロンドンでグレンダ・ジャクソンを演出していたとき、グレンダ・ジャクソンを演出したならどんなものでも演出できるだろうと思われたのね、きっと、グレンダ・ジャクソンは一緒に仕事をすると厄介な人だという評判だったから。
- ――ヌリア・エスペルの鼻をへし折ったオペラは何でしたか?
- 最初が『蝶々夫人』でした。オファーを受け入れたのはよく知っている作品だったのと、夫のアルマンドが大のオペラ好きで私をオペラの世界に近づけてくれていたから。だから『蝶々夫人』をやって、世界中で大成功しました。それからはまるで18歳のロック青年みたいに流れに身を任せて。成功に味を占めてあちこちで演出を始めて、自作の再演をして……。
- ――あのときの体験が結果的に鬱病の原因に?
- うまく行きませんでした。とても孤独で、とても寂しくて、初演があると家族が来てくれたけれど稽古を手伝ってもらうわけにはいかないし、稽古場にいられると不都合だったし……。完全に没頭する必要があるの。それで孤独が高じて病気になって、不安も原因でした、物事は上から一気に始めちゃダメなのよ。下から一歩ずつ始めないと。運が良ければ上へ登ってゆくし、運がなければ行き詰まる。でも上から、はいどうぞってプレゼントされるのは良くないわ。
- ――これまで数え切れないほどの俳優と舞台で共演してきました。避けられない質問ですが、一番息が合ったのは誰ですか?
- アルフレード・アルコンです、アルゼンチンの極めつきの大俳優、彼とは二度共演する素晴らしい幸運に恵まれました。一緒にユージン・オニールの『喪服の似合うエレクトラ』をやって、それと『ロルカを演じながら』、これはロルカのテクストに基づく芝居です。詩人のラファエル・アルベルティとも息が合いました。亡命先から帰国してからロルカを中心にスペインの詩のリサイタルを一緒に340回以上やったの。リュイス・パスクアルともヨーロッパじゅうで一緒にリサイタルをしました。
- ――ロルカ、常にロルカ。
- ロンドンの人たちはフェデリコ・ガルシア・ロルカを上演したがっていたんです、ウェストエンドでは一度も上演されたことがなくて。『イェルマ』をロンドンで二年間、二つのフェスティバルで演じたことがあったから私にお呼びがかかりました。そうしてリュイス・パスクアルとの新たなコネクションが始まって、彼がその芝居〔訳者註。『ベルナルダ・アルバの家』〕を演出して大成功したのよ。ウェストエンドで何ヶ月も何ヶ月もロングランしました。『ベルナルダ・アルバの家』は私が日本へ持って行って日本人の女優を演出して、イスラエルではアラブ人とキリスト教徒の女優を演出しました。
- ――昨今のナショナリズムを巡る動きとは正反対?
- ナショナリズムは敵です……。文化はナショナリズムには馴染みません、ナショナリズムは強制的に選ばせるから。「これはいい、これはダメ」って。ナショナリズムは毒です、とても否定的なものです。文化や思想、芸術の世界にとって、とても否定的なもの。
- ――キャリアの話に戻りますが、映画はやっていません。魅力的な役のオファーはなかった?
- 魅力的だと思えた時期であれば、まだ自分が何者で何をしたいのかわからなかった頃であれば、やったかもしれない。その後はもう興味なし。演劇の虜になって、もう他のものは入るスペースがなくなったの。映画には何本か出演しました。中には悪くない作品もあります。その他は何の意味もないし、そこに映っているのが誰なのかさえ私は知らない。映画に誘惑されたことは一度もないのよ。とても、とても魅力的な作品は生まれたけれど、気持ちが揺れたことはなかった、自分が映画に選ばれていると感じたことはないの、映画はあらかじめ選ばれていた。
- ――娘さんたちから演劇の仕事をしたいと言われたときはどう思いましたか?
- そう、それと孫娘も。無理もないと思うわ、だってそうでしょ、家でご飯を食べるときは母と子どもたち、アルマンドと私が一緒で、アルマンドと私はぞっとするようなゴタゴタに巻きこまれていて。何でも包み隠さず話をしたんです。だから娘たちは、たぶん、私たちのつらさと、そして多くの幸せも共有したのだと思います。
- ――今になって、自分の人生をまとめると?
- 演劇人としての人生は終わりがないツアーみたい。昔を振り返ると、初演のことは思い出さない、いろんな作品のツアーが甦る。そうしたツアーの最中に娘たちは親が留守をしてつらい思いをしていたんです。
- ――家庭のインフラについて気になるのですが。どうやって生計を?
- 幸い私には素晴らしい母親がいました、それが自分の人生でもう一つのとても重要なことです、そして娘たちは最高の母親に、といっても私の母ですけど、恵まれました。私は自分にできることは精一杯しました、いつも力不足ですけど。私って何かを精一杯すると、いつも不完全燃焼なの。ラテンアメリカでツアーがあるから娘たちを三ヶ月ほったらかしにするのはちっとも嬉しいことではない。いつも複雑で、みんなの手を借りなくてはならない。最初に手を貸してくれたのが母でした、20年来の付き合いだったから。私が20歳なら母は40歳。要するに、まず母がいて、そして私が払っている犠牲を評価して娘たちを何から何まで世話してくれる夫がいて、それとツアーね。それから、自分が家族のステータスを築き上げているのだと知ること。アルマンドも私も最初は一文無しだったのよ。死に物狂いで働かなくてはならなかった。それがうまく行ったの。
- ――物語はお孫さんのバルバラ、つまりアリシア・モレーノの娘さんへと続きます。
- 私ってみんなからアドバイスを求められるの、でも私、アドバイスは得意じゃないのよ、だって人生の難問は人それぞれだし、対応のしかたも人それぞれでしょ……。娘たちには一言もアドバイスをしたことがないと思う。娘たちは自分たちの人生を生きてきたから今がある、でも何をしなくてはならないかアドバイスをするなんて私にはそんな能力はないと思うし権利もないと思います。
アルモドバル監督の『ペイン・アンド・グローリー』で最優秀助演女優賞を受賞したばかりのフリエタ・セラーノとの電話インタビューです。マドリードのエスパニョール劇場のそばにある自宅で応じました。
- ――Googleに書いてあるのですが、でなければとても87歳とは思えません。
- 昔から10歳若く見えるの、母と同じで。以前はそんなことなかったけど、年をとってから鏡を見ると母の顔なのよ。母はすごくかわいくて、わたしはちっとも綺麗じゃなかったけど、母のことは大嫌いだった。ややこしい関係だった。
- ――母と娘の対立?
- 違うの、わたしはいつも女性とは仲が良かったの。モラトーのアトリエで働いていたときから、女の子ばかり10人か12人、お互いに助け合って。無意識にフェミニストになることを覚えたのね。その後は演劇で。この商売は女性同士の敵意がすごいと思われてるけど、わたしは一度も、きっとブスだったからよ。
- ――どうしてそんなに卑下するのですか?
- 子どもの頃は恥ずかしがり屋だったの、病的な恥ずかしがり屋、内戦が心の傷になって、父が連れて行ってくれたアマチュア劇団で救われたの。そこでヌリア・エスペルと出会って。わたしが13歳で彼女は11歳。とても美人な友だちがたくさんできて、みんなわたしとは違う悩みに苦しんでました。自分はあまりちやほやされたとは思わないけど、女性との関係はとても良かった。髪は16歳まで三つ編み、こんな格好じゃ間抜けすぎるって言ったの。でも内戦の話はしたくないわ、自分だけ犠牲者みたいな感じになる。
- ――今でもほかのきれいなお友だちよりお若く見えます
- あのね、あなた笑うわよ、60歳になったとき友だちはみんな美容整形して、わたしもしようかなって思ったの。でも後で考え直したの。若い役でも老けた役でもお呼びがかからないなって。整形しなくてよかったと思うわ、だってそのほうがリアルだし、わたしは観客の目の前で成熟していって、仕事は失わなかったから。
- ――『ペイン・アンド・グローリー』ではアルモドバルの母親役です。母親になった経験がないのに、どうやって演技を?
- いつか子どもができるとずっと思ってたけど、夢物語だったんだと思うわ、エネルギーは全部気の弱さと自信のなさを克服するために使っちゃったから。わたしにとって演劇はセラピーでした。しょっちゅうレズビアンだと思われてたのよ。
- ――気に障りましたか?
- ベルタ・リアサとアリシア・エルミダがわたしにとって母親みたいな存在でした。ベルタはご近所さんなの、このアパートの上に住んでて、6歳年上。あんまり仲良しだったから劇場の人たちはト一ハ一(bollero)だって言ってた。意味がわかったときはムッとしたわ、最初はわからなかったのよ。
- ――もし本当だったとしても、だから何?
- そうよ、無知だったの、わたし。オカマがいるのは知ってたし劇団にはゲイの友だちが大勢いたし。アリシアやベルタやわたしみたいに抑圧されていた女はオカマとつき
合う傾向があったの、オカマも隠れていたから。
- ――笑えるのはどんなこと?
- わたしはかわいそうな女の子でした。
- ――今はかわいそうな女?
- 恥ずかしがり屋で抑圧されて。清水の舞台から飛び降りるまで。
- ――それはいつ?
- いつヤッたか知りたいの?
- ――気が進めばですけど。心のペチコートを脱いだ時期のことです。
- あら、年齢を言うのは恥ずかしいわ。でも遅かった、とても遅かった。自分自身との戦いだった。自由で男の人と寝る勇気がある友だちが羨ましかった。でもわたしは恐怖と無知と臆病なせいで自分を抑圧していたの。今どきの子は世間の噂なんて何それよ。
- ――セックスは啓示だった?
- 大失敗、下手くそで、陰でこっそり。でも自分に言い聞かせました。前へ進まなくちゃ、続けなくちゃ、これはいいことなんだからって。性的に解放されるでずいぶんかかったのよ。乗ったのは最後尾の車両、でも電車には乗り遅れなかった。
- ――最近の若い女の子たちをどう見ていますか?
- 凄いわよ。昔は演劇ってはしたなかったの。男は家庭を持って子どもを作らなくちゃならなかった。女は結婚するか、じゃなければ尼さんになるか、あとは商売女か女優。女優は素晴らしい就職口でした。
- ――商売女的なところも。
- わたしは商売女の素質ゼロ、なるなら真っ先にスタートしないとダメ。今振り返ってみる素晴らしい人生だったわ。
- ――いちばん幸せだった時期はいつ?
- 40年代から50年代。プロの劇団でスタートしたときは幸せだった。夢が叶ったから。漫画の仕事をしていたときは自分は真似をして描くのが上手だって完璧にわかってました。女優としてはすごく直感的なの、俳優学校には全然通ったことがなくて。まわりの子たちがスタートしたときはみんなわたしより10歳年下でした。
- ――もっと遅く生まれたかった?
- ええ、10年くらい、もう少し早く電車に乗れるように。
- ――目が覚めているときにはどんな夢を描いていますか?
- 落ちつきを、心の平安を得ること、次々に出会っていく人とおつき合いすること。それと特に変な病気で理性を失ったりしないこと。