来年2月8日に行われるゴヤ賞授賞式でアントニオ・バンデラスが生涯功労賞にあたる名誉ゴヤ賞を受賞することが決まりました。54歳での受賞は史上最年少。今後の活動についてはアメリカ映画も捨てがたいが極力スペイン映画との関わりをもっと増やしてゆきたい、特に監督業と製作業において、とのこと。目下アニメーション映画『アルタミラ』の登場人物ボブ・エスポンハの吹替えを録音中で、2010年にチリのコピアポの鉱山落盤事故を描いたバンデラス主演によるメキシコ映画『三十三人』 Los 33 と、テレンス・マリック監督の Knight of cups の公開が待たれるところ。監督業については脚本を三篇執筆済みではあるけれど、いずれかを監督するには最低一年間の空き時間が必要で、今はスケジュールがたて込んでおり見通しは立たないそうです。
マドリードのラバピエス地区には市内で最も多い十五の劇場があります。長引く不況と付加価値税の増税(21%)のダブルパンチを受けて危機的状況にある演劇界を活性化させようと、来たる10月18日(土)、これら十五の劇場が連携して「演劇街ラバピエス」 Lavapiés Barrio de Teatros という連合会を発足させます。評議会システムにより運営され、目標は同地区を「マドリードのブロードウェイ」にすること。
土曜日の発足記念イベントでは来場者に無料でクーポン券を配布。クーポン券の所持者は十五の劇場で観劇するごとにスタンプを押してもらい、スタンプが十五個貯まったら次のシーズンは一人分の入場料で二人が観劇できるそうです。
対象となる劇場は―――狭い扉(La Puerta Estrecha)、ミラドール座(Sala Mirador)、イサブ・フォーラム(El Foro de Izab)、コルセテリーア(La corsetería)、ラ・インフィニート(La infinito)、隣の扉(La puerta de al lado)、ラ・ガトマキア(La Gatomaquia)、ナダ座(Sala Nada)、エスパシオ8(Espacio 8)、春の間際(El umbral de primavera)、エル・エスコンディテアトロ(El Esconditeatro)、ミニマ・ラナウ(Mínima Lanau)、芸術劇場(Teatro del Arte)、地区劇場(Teatro del Barrio)、オフ・デ・ラ・ラティーナ(Off de la Latina)―――の十五劇場。
1976年にカタルーニャ語で〈自由劇場〉を意味するテアトラ・リウラ(Teatre Lliure)を設立し、その後はジョルジョ・ストレーラー、ピーター・ブルック、アルフレード・アルコン、ヌリア・エスペル、ファビア・プッチセルベールなどの演劇界の巨人たちと仕事をし、四年前から再びテアトラ・リウラの芸術監督をつとめる演出家リュイス・パスクアル。1951年生まれ。還暦を過ぎてなお充実した仕事を続ける彼にフアン・クルス・ルイスがインタビューしました。
- ―――少年時代からとてもエネルギッシュな人とみなされてきました。
- 通俗的だけど、ときどき双子座生まれだからって答えます、内なる庭を、精神を耕す人。そして行動する人。僕は行動がないとダメ。だからずっと演出家一筋でやってきた、大好きな活動なんだ、劇場の芸術監督もやってきた。ほかの人たちが働けるようにいろんな物事をあれこれ考え出すのが幸せなんです。演出家アンドレ・ヘラーは演出家には二種類ある、坐って演出する人とギャロップで走る人だと言ったことがあります。僕はギャロップで走りながら演出する、上を下へと走り回るタイプ。だから馬鹿な冗談が生まれたんだ、ゴルドーニ作品とシェイクスピア作品を演出するのは別々だから、作品ごとに靴を履き替えるってね。
- ―――エネルギーの源は?
- 健康に恵まれたことと、それから僕の場合は演劇だけど、何かが僕たちを拉致したとき脳の一部からエネルギーを取り出してくれる、体のどこかにある酵素に恵まれたことだね。たどたどしく舞台に上がって蚊の鳴くような声しか出ない俳優や女優や歌手を僕たちはみんな見てきたよ。ところが舞台に登場すると突然完璧に歩き出し、口調も申し分ない。幕が下りると蝋燭が消えるように姿を消す。人生で試したすべてのことの中で僕はいちばんこれに向いているんだ、演劇をやることにね。そのためには馬に乗って駆け回る必要があるんだ。
- ―――もう少年ではありません。
- 年をとるにつれてギャロップがトロット(だく足)になった。誰の言葉だったか思い出せないけれど、演出するのは馬に乗って走るようなもので、片手は馬銜(はみ)をしっかり握り、もう片方の手は馬がのびのび動けるように発破をかけなくてはいけない。そういうことなんだよね、ギャロップが変化するに従って少しずつ残ってきたものだ。
- ―――舞台演出家になろうと思ったきっかけは?
- 大学では勉強と演劇を同時にやったんです。演劇をやってたし人に教えもした、でもラテン語の教師になりたかった。まるで演劇が僕を選んでくれたみたいな感じだよ、演劇をやるぞと宣言した記憶はないんだ。教えていたわけは日銭を稼ぐためで、(すでにインディペンデントの演劇人とは仕事をいくつかしていたけれど)卒業公演で『悲劇的な週』 La semana trágica を演出してほしいと頼まれたから。二日おきに上演するのが決まりで、二年間やりました。兵役の期間中にファビア・プッチセルベールと知り合いました。おかげで職業的な生活とプライベートな生活がひとつになった。当時はみんながそうだったけれど自分で規則を考え出して、見た芝居から規則を受け継ぎました。フェルナン・ゴメスのような偉大な俳優を発見して、独立系の演劇集団に入って演劇をやっていました、政治をやる能力はなかったからね。この仕事は自分で考え出さなくてはならなかったし、遺産として僕たちに遺してくれた人たちから受け継がなくてはならなかった。そうこうするうちに、誰かにバーをいちばん高いところまで上げてもらう必要が出てきたんです、学ぶ必要がでてきた、で、ポーランドに行きました。ポーランドでは演劇は国技でした、ロシア流の偉大な流派があった。そのあとイタリアのピッコロ座に移ってジョルジョ・ストレーラーと一緒に過ごし、芸術的な演劇はどうやって創るのかを二三ヶ月観察しました。でもすぐスペインに帰国したんだ、テアトラ・リウラの旗揚げが迫っていたからね。
- ―――あなたにとってファビア・プッチセルベールとストレーラーはどんな人でしたか?
- ストレーラーは先生でした。僕は男の兄弟がいなくて、大好きな妹(姉?)が一人いるだけなんだけれど、できれば兄がほしかった。兄がいなかったからフェデリコ・ガルシーア・ロルカを選んだんだ、彼とは文芸作品と遺族を通じて知り合い、自分だけのフェデリコ像を作り上げて実際に舞台で彼を演じる機会にも恵まれました。先生と呼べる人も自分で作り、それがストレーラーでした。とりわけ彼に教わったのはバーの高さを決めることと、自分の中にあるものを再確認することで、先生というものはそのために役立つんです。疑いの力を教えてくれた。演劇は絶えざる疑いで、何かを進化発展させる唯一の方法。俳優への愛、すでに自分の中にあったけれど。それと審美的なバー、光、これらすべては想像の中だけにあるのではなく、それを自由自在に操れる人が存在するということを知ること。ピーター・ブルックの教えも役立ちました、ストレーラーよりは知る機会が少なかったけれど。
- ―――そしてファビア・プッチセルベール。
- ファビアは滅多に起きないことのひとつでしたね。演劇への愛と資質、愛と情熱、人間性と仕事がぴったり合致した。僕たちは互いに惚れ合っていたし、長年パートナーだった、でも愛と演劇に惚れていたんです。ファビアとは共犯関係がうまく働いた。舞台美術とかのテーマについて話し合う必要はなかった。それについていちばん長く話したのはある日の午後だったけれど、ロルカ作『観客』の馬鹿な羊飼いの衣裳はベッドの中で生まれたんだ、彼は眠っていて、僕はどんな衣裳がいいかわからなくて彼にちょっかいを出して。
- ―――最後のパートナーだった編集者のゴンサロ・カネードは一年前に他界しました。大切な人の死に接する心境は?
- 喪の悲しみはつらく耐えがたい。二つの状況は異なりますけど。ファビアは長い闘病生活を送ったので、最期が訪れてほしい、苦しまなくて済むように嵐が過ぎ去ってほしいと願いました。ゴンサロは苦しまず、数日も経たずに不意に去ってしまった。両方のケースに共通したのは本質的に僕から奪われたもの、つまり存在です、人間なら誰もが経験することですよね、知的な共犯者がいなくなったことです。ゴンサロと僕はただ読書するだけで何時間も一緒にそばにいることができた間柄でした、互いに二人が好きなことをやっているとわかっているんです、離れ離れで本を読むのとは違う。ファビアも同じで、僕は本を読み、彼はデッサンを描いたものです。ファビアと僕は演劇以外のこともたくさん話し合いました、僕たちの共通の友人たちは一般的に演劇界の人たちではなかった[訳者註:「友人たちは」以降は誤訳の可能性あり]。同時に素直に羨ましいと思う気持ちもあるんですよ、ファビアもゴンサロも衰えを知らなかったと思うから。二人とも人生の充実期にあの世へ旅立ちました。グレタ・ガルボのように旅立った、老いを知らずに済んだ。ジェラルディン・チャップリンがインタビューで話していたけれど、「誰もがあんな最期を迎えられるものではないわ、だってここが痛くないときはあそこが痛いで、必ずがたが来るのが普通だもの」。ファビアが亡くなったときは五十歳でゴンサロは五十六歳、人生のブレーキを踏む必要のないときだった、二人のことをよく思い出すときは、こんなふうに思い出すよ。
- ―――孤独にはどうやって対処していますか?
- 難しいんだよ。自分の人生をほかの人に捧げて、その人がいなくなってしまうと、その人の手に渡した人生の部分を生きることになる、ロペ・デ・ベガ作『オルメードの騎士』がとてもうまく説明しているよ、不在の孤独をね。僕はなんとか対処しているけれど、うまくは行かない、でも良い面もあるんだ。能力や素質、仕事に立ち向かう方法は無傷のまま残りました、むしろ向上したと言ってもいいくらい、まるで二人が今も生きているみたいで、もっとましな人間になれるよう手助けしてくれているみたいなんだ、誰かを心の底から愛していれば、やることなすことすべてをその誰かのために行うからね、その人が気に入って楽しんでくれるように。僕は今はもうここにいないそうした想像上の誰かたちのために仕事をするんです。
- ―――1976年にテアトラ・リウラにいて、四十年後の今またテアトラ・リウラにいます。その間にパリとミラノ、マドリード、ベネチアでの活動がありました。今やヨーロッパで最も国際的な舞台演出家のひとりです。出発点に立ち返ることでカタルーニャと世界の演劇が作り上げる記憶に貢献したいというお気持ちなのですか?
- そういう詩的なことは考えないものだよ。テアトラ・リウラの芸術監督としてお呼びがかかったときはちょうどミラノに残ろうかどうか決めていたときだったんだ、ピッコロ座の芸術監督をやらないかってオファーを受けていたからね。迷っていたんだよ、僕にはユダヤ=キリスト教的な罪のコンプレックスがあってね、職業的には人生は僕にとてもよくしてくれて、周りの人たちも僕にほとんどすべてを与えてくれた、だからそのお返しをしなくてはダメだって考えてしまうんだよ、共産主義的ユダヤ=キリスト教的メンタリティーってとこかな(笑)。そこで二つのことをした、まず個人的な面ではゴンサロから遠く離れて暮らすことになると考えた、彼との関係はすばらしかったから、その関係を生きたいと思った。ミラノに残ってもよかったとは思うけれど、今度はテアトラ・リウラにいる番だと思えたんだ、とりわけこれまでにやってきたことをやって、劇場を大勢の人たちに、新しい世代に対して開いて再生させるためにね。長年僕は最年少の演出家だった、やりすぎだよね。六十三歳になって、今わからないなら一生わからないよ。ヌリア・エスペルに『リア王』のオファーをしたら二人とも見つめ合って彼女にこう言われたんだ。「私はエネルギーがあるわ」って。僕は言ったよ、僕にはエネルギーと年齢の積み重ねがあるって、でもあとのことはわからないけどね、なにしろ演出家は馬に乗って駆け回らないといけないから。そういうことなんだ、方法は違うけれど、自分自身を内側から変えてゆくんだ。
- ―――1976年から2014年までの間に何が変わりましたか?
- 1976年にはすごい減圧があってホッとしたよ、だってそうでしょう、あのフランコが死んだことで何が起きるか、彼の死が何を伴うか、彼の死がもたらした物理的な減圧だけでも大したものだよ、シャンパンのボトルだ、蓋があんまり勢いよく抜けたから、もうどんなことでもできるぞって思ったよ。1977年から78年にかけては困難な時代だったけれど、1976年に解禁になった。そのあと民主政治が始まり、1983年には新政権が誕生して、幸いなことに彼らは統治のしかたを知らなかった、勉強しながら統治した、それはすばらしいことだよ。1976年以降の数年間、僕たちの世界は対話の相手に満ちていた。今は後ろ向きに進んでいるね、僕たちはかつて手にした何かの結果としてあるのだから。
- ―――文化を取り巻く状況も。
- バーを下げなくてはならない、でも僕は演劇のせいにはしない[訳者註:文意不明]。演劇においては時代状況の兆候というか、より目に見えやすい形になって現れるんです。誰かが首相になぜルイス・バルセナス・グティエレスにメッセージを送ったのかと質問して、渡された封筒からは一銭も受け取っていないと言ってほしい、すでに時効になったと言ってほしいとせがむとき、その人はモラルのバーを下げているんです。あらゆることに翻訳できる、僕たちが手に入れたものすべての芸術的なバーが、人々のバーが、下がってしまった。テレビはもっと馬鹿で、昔は島があった、テレビの中に避難所があった。今の人たちはクオリティーが高いからアメリカの連続ドラマを夢中になって見ている、でもそれだけです。バーは下がる、ずべてが下がる、僕たちは後退してしまった。『ハムレット』を舞台で観ると付加価値税として21パーセントを払い、戯曲で読むと4パーセント、ポルノ版『ハムレット』ならきっと2パーセントだと思うよ。どこかおかしい、何かが起きているんだ。
- ―――テアトラ・リウラに復帰してからの数年間はカタルーニャの独立紛争と重なりました。今の状況をどうとらえていますか?
- 良くないよ。カタルーニャ人の要求の一部は理解できる、僕の立場も同じだからね、でもナショナリズムに、非合理性に訴える要求は非常に悪質で危険だと思う、統治者は引き起こしたエネルギーをあとで管理する責任を負うわけで、彼らが人々を裏切ることはないと知るためにはしっかりとした約束を取り交わさないといけない、だって統治者自身は守るつもりがないことを口にするからね。そういう感情を弄ぶのは深刻だよ。良くないよ。
- ―――でも問題はそこにあります。
- カタルーニャから発するカタルーニャ人にとっての重要な問題ではあるけれど、最優先事項ではないよ。社会的な側面のほかの多くの問題のほうがより重要です。人々は仕事がない、富裕層と貧困層とのあいだの隔たりは残忍なまでに広がってしまった、前もって準備したデザインがないのに短期間でこんなことが起きるなんて無茶な話。世界を支配するのは僕たちが知らずに意思決定をしている人たちだ。いちばん重要な問題だとは思えないから、気分が良くないんだ。
- ―――ロルカはあなたの〈創造上の兄〉だとおっしゃいますね。
- うん、いたらよかったなあと思う、頭の中ででっち上げた兄です。のちに遺族の皆さんととても仲よくなれて、特に妹のイサベルですけど、冗談でこう言われたことがある、「でもこんなことどうして知ってるの? 夜は兄としゃべってるのね」って。ロルカが生まれたのは6月5日、僕の誕生日も6月5日。彼の手紙や詩はこれまでにたくさん読んで、思わず呟くよ。「うわ、これって僕そのものじゅないか、そんな馬鹿な!」ってね。ロルカのことはよく理解できるし、彼の人物像を首尾一貫して作り上げることができます、自分が理解している何かにもとづいて詩法を説明することができる。僕にとってはフェデリコです、イサベルと話をするときの僕はフェデリコでした、僕の人生の一部になった。彼の友人で詩人のラファアル・アルベルティとは面識がなかったけれど、アルベルティは寝つけない夜にベッドから起き上がって、キッチンに行って、メロンを一個丸ごと食べながらフェデリコと会話したものだと言っていました。
- ―――演劇の視点のみならず、彼の実人生とその最期の視点から見て、ロルカは今もこの国に起きていることの象徴だと思いますか?
- うん。僕たちは後ろ向きに進んでいるんだ。あるとき治安警備隊員が兵舎でほかのカップルの権利と同じように、男のパートナーと一緒に住まわせてほしいと願い出たことがあった。意見を問われた隊長は答えた。「私の意見はどうでもいい、合法的だ、議論の余地はない」。偶然だけど、翌日ロルカの遺骨が眠っていると思われるグラナダの公園の中にあるオリーブの木の正面に坐ってロルカのソネット「ほの暗い愛」を読む治安警備隊員を見かけたんだ、で、僕は考えた。「うわ、やっと時代が追いついた」って。でも違った、追いついてはいなかった。もう少しで追いつくところだったけれどね、以前は誰もが目にできたことだったし、そんなに昔の話ではない。逆に今のほうが無理だろうね、緊張や非合理的な対決でしか一定のバランスが保てないみたいだから。80年代にはバランスがとれていた気がした。僕がマドリードの国立演劇センターでロルカの芝居を始めたとき、彼の代表作は取り上げず、別のロルカから始めた、彼が未来のために作り上げたもうひとりのロルカ、この糞忌々しい現実がみんな消え去ったあとに存在するであろうロルカをね。で、今僕たちはまた中絶法について議論している、後戻りだよ。
- ―――彼の暗殺はおそらく、やはり象徴的に、一度も解決されていないでしょう……ロルカは相変わらず苦しみ続けています。
- つい最近だけど、グラナダで彼のことをオカマと呼ぶのを耳にしたよ。非合理性という言葉を僕は毎回強調する、ロルカはまちがいなく地元の問題児だったんだ、とても近しい人たちにとってね、非合理的な何かだった、愛想がいいと同時にオカマだったから地元の〈復讐〉の的だった、我慢ならなかったんだよ。前もって計画された政治的な処刑ではなかった、獄死したミゲル・エルナンデスはたぶんそうだっただろうけれど。そうした地元の非合理的なものは復権している……そう、次の機会があれば誰かがもう一度フェデリコを殺すよ。
- ―――フェデリコと『ベルナルダ・アルバの家』の話といえば、「悪意は火星から来るわけではない」とおっしゃったことがありますね。
- 悪意は僕たち自身が作り上げるものです。アグスティン・ゴンサレスが言っていたけれど、悪意を働かせる人たちはたいてい理性をちゃんと持ってるんだよ。人間の内側には悪意が存在し、人間は悪意に喜びを感じるんだ、力が満足を与えるから。
- ―――では光は、善意は、気品は、どこにあるのでしょう?
- モーツァルトだね(笑)、だからといって彼が人間ではなくなるわけではない、あとはゴルドーニ、チェーホフ、僕たちが何かよいものを作っていると信じている人たちの中にある。フェイスブックで見つけた道具はあらゆるタイプの旋盤の台にフィットするんだ、あらゆるタイプだよ、丸いのから四角いの、八角形の、歪んだもの、なんでもこいで、思ったね。「すごい! これって発明じゃん! 一歩前進だ!」って。レアル劇場の指揮者はきのう半月板の手術を受けて、今朝リハーサルを指揮したよ。「科学には、芸術には、光がある、突然何かが生まれる」って思ったよ。
- ―――あなたの中には?
- ほかのものだね。だからきっと演劇をやっているんだ、僕は自分にできることはごく限られているという気がしてね、ひとりでいるときは文章を書くのがいちばん好きだけど、それ以外は、テレビだってひとりでは見たくない。僕は誰かのために起き上がらないと、ほかの人たちのために行わないとダメなたちでね、だから最終的に演出家になったんだ、芝居は観客のために作る、僕が楽しんできたものをお客さんにも楽しんでもらいたいし、どんなストーリーにもあるあの美しさと深さを感じてほしいから……。
- ―――ノスタルジーはお嫌いですね。これからテアトラ・リウラでやりたいことを教えて下さい。
- ヨーロッパに視線を向けた都市の劇場になればいいなと思う。誰のものでもないから、財団のもの、民間のものです、マドリードとバルセロナの間にある緊張関係がない。マドリードの人たちはテアトラ・リウラやルメア劇場やほかの劇場に芝居を観に来てくれる。僕たちは芝居をカスティーリャ語に翻訳したり、マドリードに来てテレビや映画を作る。でもバルセロナ市役所は借りがあるんです。スポーツのためには大規模な工事をしたけれど、芸術家のことは一度も考えてくれたことがない。バルセロナには市営の劇場がありません、マドリードには七つある、ジローナには二つある。そろそろ時期だと思いますよ。僕たちはありとあらゆることをしてきました、国立劇場がない時代に国民演劇をやったし、市立劇場がないときに市民のための演劇をやった。テアトラ・リウラはバルセロナ市の劇場になってほしいし、人々がそんな劇場を望んでくれれば嬉しい。
- ―――あなたのような演出家は俳優を人物に変えます。アルフレード・アルコンやヌリア・エスペルのようなすばらしい人たちを演出してきました。彼らはあなたをどんな風に変えてくれましたか?
- それはもう数え切れないくらいたくさんのものを授けてくれましたよ! さっき自分ひとりではものを作れない、集団で作ると言ったけれど、今挙げてくれたアルフレードやヌリアは自分の霊媒になってくれるんです、しかもクオリティーを付け加えてくれる。僕が好きな俳優たちは些細なことで危機に陥る、いつもナイフの刃の上にいる。ナイフの刃の上に立つのがヌリアやアルフレード、ビダルテ、リュイス・オマール……。
- ―――今のあなたは何者ですか?
- ゴンサロの死で僕は十歳老けたと思う。可能性が失われたわけでも減ったわけでもないけれど、世界を見つめる視線が変わった。今僕が歩んでいる道は、そう遠くない将来いつか訪れる死へと向かう道だということはわかっています。恐いのではなく、来た道を振り返って自分が行ってきたことをすべて見直してみると、少し違った視線があるんです。今まではもっと自由でした、二三年前に較べると今はもっと自由です、自分の仕事に満足しているし、自由が増えたと感じている、それがよい面ですね。
フェデリコ・ガルシーア・ロルカを撮影した写真は数多く、音声のない動画も存在しますが、どういうわけか彼の声の録音は見つかりません。スペインのみならずアルゼンチンを始めとする中南米諸国で数々のインタビューに応じ、ラジオにも何度も出演したにもかかわらず、です。フェデリコの姪でロルカ財団の理事長であるラウラ・ガルシーア・ロルカによると、ロルカがダリやブニュエルとともに青年時代を過ごしたマドリードの学生館(Residencia de Estudiantes)で、ある日の朝、言語学者トマス・ナバーロ・トマスの発案により彼の声を録音して〈言葉のアーカイブ〉に保存する約束があったものの、ロルカは眠ってしまって現場に出向かず、録音できなかったとのこと。
しかしながらロルカの声の録音がどこかに存在するのはほぼ間違いなさそうで、存在するとすればそれはブエノスアイレスのラジオ局ラディオ・ステントール(Radio Stentor)のアーカイブであろうとラウラは言います。「でも録音テープはすべて未整理の状態で倉庫に眠っており、何人もの研究者が探したけれど今のところは見つからない。いつかきっと見つかるはずだと信じます」とラウラ。