2009年秋を最後にいったん幕を下ろしたマドリード「秋の芸術祭」 Festival de Otoño。去年は諸般の事情で時期を早めて春に開催し、名称も「春の秋の芸術祭」 Festival de Otoño en Primavera と訳のわからないことになりました。そして今年も同じ名称で5月11日から6月5日まで開催が決定。80年代から90年代にかけてスペイン随一のフェスティバルでしたが、近年はカスティーリャ・イ・レオン国際芸術祭などに押され気味。
全プログラムは公式サイトを見て頂くことにして、ここではエル・パイス紙の記事でピックアップされた作品を紹介します。まずシェイクスピアの時代に倣って出演者が男だけの英国の劇団プロペラ。エドワール・ホール演出による『間違いの喜劇』『リチャード三世』。日本では東京芸術劇場で野田秀樹芸術監督就任記念プログラムとして2009年に『ヴェニスの商人』と『夏の夜の夢』を上演しました。
ロメオ・カステルッチによる『顔の概念について、神の子を見つめながら』 On the Concept of the Face, Regarding the Son of God。オーレアン・ポリー演出、コンパニー111の『無目的/ものがない』 Sans Objet。大御所ではパトリス・ティボーのパントマイム劇『コケコッコー』 Cocorico と『ジャングル』 Jungles。ローザンヌ・ヴィディ劇場、リュック・ボンディ演出によるイヨネスコ作『椅子』。そしてピーター・ブルック演出、モーツァルトの『魔笛』。ロシアからエフゲニー・ワフタンゴフ劇場、リマス・トゥミナス演出、レールモントフ、ミハイル・ユーリエビチ作『仮面舞踏会』。
舞踊ではフラメンコの異端児イズラエル・ガルバンが『曲線』 La Curva と『黄金時代』 La edad de oro で登場。ピナ・バウシュの後継者と呼ばれるサーシャ・ヴァルツ『身体』 Körper。
スペイン語圏ではアルゼンチンのクラウディオ・トルカチール作・演出『バイオリンの風』 El viento de un violín、ラウタロ・ペロッティ『ノイズを出すもの』 Algo que ruido hace、シロ・ソルソーリ作・演出『激怒』 Estado de ira、そして女優ソレダー・ビジャミルが歌手としてエスパニョール劇場でライブ。本国スペインからはアンヘリカ・リデルの『人間を信用する男に呪いあれ: リテラシー・プロジェクト』 Maldito sea el hombre que confía en el hombre: un projet d'alphabétisation、エウセビオ・ラサロ作・演出『最強の女たち』 Las más fuertes。舞踊ではイスラエル生まれシャロン・フリードマン振付によるカンパニー・プロジェクト・イン・ムーブメントの『少なくとも顔二つ』 Al menos dos caras もスペイン制作。劇団テアトロ・デル・エストゥディオ、フアン・カルロス・コラサ演出の『コメディアト夢』 Comedia y sueño は先月ご紹介したとおり二月にグラナダで上演されました。ガルシーア・ロルカ『題名のないコメディア』とシェイクスピア『真夏の夜の夢』のテクストを全て盛り込んだ野心作。
スペイン北西部の都市、アストゥリアス公国自治州の州都オビエド。その北、カンタブリア海に面するヒホンのすぐ西に人口八万人強の小さな市アビレスがあります。そこになんとオスカー・ニーマイヤー国際文化センター(Centro Cultural Internacional Oscar Niemeyer)が堂々オープン。ブラジルの建築家オスカー・ニーマイヤー、御年百三歳。
オビエトといえばウディ・アレン。アストゥリア皇太子賞を受賞しオビエドには彼の銅像があります。先週の開館記念イベントにウディ・アレンがニューオーリンズ・ジャズ・バンドと共に出演しました。聴衆なんと一万人。
俳優ケヴィン・スペイシーも興奮。「四年半前に来たときは何もなかった。それが三日間で七万五千人もの人が来た」。ロンドンのオールド・ヴィック劇場の芸術監督を務めるスペイシーは「シェイクスピアの『リチャード三世』をやりたい。主演は僕」と張り切ってます。
3月9日のニュース。バルセロナに舞台芸術演劇博物館(Museo de las Artes Escénicas)が設立されます。場所はリウス・イ・タウレ大通りとグアルディア・ウルバーナ通りの角にある旧報道局(Casa de la Prensa)。1929年のバルセロナ万国博覧会のために建築家ペレ・ドメネクが1926年にデザインした建物。
今月8日にバルセロナ市役所と県議会が署名し、市が建物を五十年間県議会に譲渡し、2013年の開館を目指します。2013年はバルセロナ演劇学院創立百周年を記念して〈バルセロナ演劇年〉に指定されています。
収蔵品は五十万点。ルイセニョールやアドリア・グアル、アルフォンス・ムチャなどのモデルニスモ作家のポスターや、衣裳も女優マルガリータ・シルグが1935年のガルシーア・ロルカ作・演出『老嬢ドニャ・ロシータ』初演のものや(かなり小柄だそうです)、『蝶蝶夫人』でビクトリア・デ・ロス・アンヘレスが着たもの、フラメンコ舞踊家で歌手のカルメン・アマーヤやテノール歌手フランセスク・ビニャスのものなど七百着。舞台美術に関する資料はリセウ大劇場の緞帳など八千点、パウ・バルセロ、コリータ、ピラール・アイメリクなどの写真十五万点。文書は十二万五千点、なかでも黄金世紀の写本コレクションは国立図書館に次ぐ規模で、カルデロン・デ・ラ・バルカの『緩やかな流れに気をつけろ』 Guárdate del agua mansa があります。
フラメンコ専門サイト Flamenco en vivo による2月28日付の舞台評。全文紹介します。
巨星小島章司による美的澄明と練りに練った演技がフェルナンド・デ・ローハスの原作に命を吹き込むという偉業を達成した。
「巨星」と訳した部分の原語は形容詞 enorme(巨大な・大いなる)。
舞踊家総勢22人による『ラ・セレスティーナ』は、大人数で混乱を招きかねないと思われた瞬間でさえ秩序と精確さを失わずに輝いたことを誇りに思ってよい。冒頭の群舞によるカラフルなルンバの後、タラントで、セレスティーナが小島章司の体を通し姿を現した。見事な演技に焦点を絞った踊り。ほの暗く薄気味悪い提示が人物にドラマ性を加味する。この夜最初から最後まで傑出していたチクエロのギターは叙情的なメロディーで盛り上げ、ここぞと思う時に踊りに曲線を与えた。
抽象的な言葉がちょっとわかりにくい。
音楽がめまぐるしく変化しクエルポ・デ・バイレが頻りに出入りするが、カリストとセレスティーナの出逢いの輝きを妨げたりはせず、堂々たるクリスティアン・ロサーノが惜しげもなく見せるテクニックを力強く包み込んだ。メリベーア役のエスメラルダ・マンサーナスも負けず劣らず豊穣なグアヒーラを丹精込めて踊り、主要人物の顔が揃った。
うんうん。
照明の巧みなコントラストが加わり、様々なシーンがそれぞれ見事な雰囲気で展開された。
照明は大島祐夫さんです。
もう一人顕著な功績を挙げたのがハビエル・ラトーレ。視覚的な刻印を演出にしっかり刻み込み、若い恋人二人の逢瀬の場面で最高潮に達した。パブロ・ネルーダの詩「黙っているときの君が好きだ」を音楽化したファルーカ。ミュージシャンはチクエロのリーダーぶりが圧倒的。つとめを果たした意志の強さは激賞に値する。歌手エル・ロンドロとヘスス・メンデスの貢献が少なかったのは玉に瑕で残念だった。ここぞという時には確かに見事だったが、こんなに豪華な特別料理の分け前にあずかれなかったのはもったいない。エル・ロンドロはタラントスが上出来、ヘスス・メンデスはマルティネーテで聞かせた。
二人はヘレス出身なので、評者の気持ちはわかります。
カザルスのチェロによる「鳥の歌」が彩りを添えた恋人二人の最期は戦慄的。ダンスとフラメンコの均整がとれた二時間がこうして幕を下ろした。
ラストシーンは何度見ても(良い意味で)鳥肌が立ちます。
小島章司は舞踊と演技のマエストロとしての姿をさらに大きなものにするレクチャーを私たちに授けてくれた。
まさにマエストロ(師匠)という言葉がぴったりですね。
フラメンコ専門サイト Flamenco-world.com のシルビア・カラード記者による2月28日付の舞台評。全文紹介します。
なぜフラメンコに魅了されるのか。小島章司はよく比喩を使って説明する。猛禽類の鉤爪(ガーラ)のようなもの、人の心をわしづかみにする鉤爪のようなものだと。しかし本人は決して口にしないが、彼自身にも鉤爪がある。その鉤爪でついに2011年フェスティバル・デ・ヘレスの観客をわしづかみにした。何十年ものあいだ日本における厳格なフラメンコの普及者、フラメンコ大使としての経歴を持つこのベテラン芸術家にフェスティバルが初めて門戸を開いた。今回の「ヘレス」デビュー――既にバルセロナの音楽堂パラウ・デ・ラ・ムシカなどスペイン各地の舞台に数多く出演しているので「スペイン」デビューではない――に際して、彼はクオリティーの高い作品を選んで臨んだ。あらゆる細部が極上、原作はフェルナンド・デ・ローハスの中世スペイン文学『ラ・セレスティーナ』である。
「あの人にはガーラがある」「あの作品にはガーラがある」とは、小島さんが好んで口にするフレーズです。
小島の教養は広大無辺で、本作では終始一貫、彼が敬愛してやまない芸術家三人の作品を合流させ共存させる。一人は画家パブロ・ピカソ。ピカソが制作した『ラ・セレスティーナ』の版画集をヒントに舞台美術を作った。もう一人は詩人パブロ・ネルーダ。詩編をカンテの歌詞にした。そしてチェロ奏者パウ・カザルス。彼を象徴するバッハの「無伴奏チェロ組曲」と「鳥の詩」を採用した。これらを演出・振付のハビエル・ラトーレと音楽監督であり大部分の楽曲を作曲したチクエロが率いるクリエイティブなチームで実現させた。小島、ラトーレ、チクエロの三巨頭は物語の叙述から演技に至るまで、あらゆる面で高いレベルの舞台を創り出した。なかでも突出したのが主人公だ。
三人のパブロ(ピカソ、ネルーダ、カザルス)へのオマージュを達成したのが三巨頭(小島、ラトーレ、チクエロ)だという着眼はなるほど! と膝を打ちました。
小島章司が演じるセレスティーナは表現主義的である。まさにうってつけの役だ。彼は踊る、七十歳を過ぎたとは思えぬほど踊るのだが、貪欲、冷酷さ、欺瞞、魔術、悪意などを時には演劇的な演技で、時には舞踊で強調させることによって娼館の女将の心のひだを伝えてみせる。タラントなどはその動きの総合性と悲劇性に戦慄を覚えるほどだ。前景ではカリストとメリベーア役のクリスティアン・ロサーノとエスメラルダ・マンサーナスがフラメンコ的でもありスペイン舞踊的でもある精妙でエレガントで表現豊かな踊りを見せる。他の人物も同じレベルで、常に日本人の群舞に支えられている。日本人舞踊団員は非常によく鍛練を積んでおり、官能的な力と表情豊かな曲線の模索に励んできたことが分かる。形式的というよりは文化的だ。
舞踊団の皆さん! 稽古のキーワードだった「官能」がちゃんと伝わりましたよ!
照明、美術、衣装は音楽と相まってただひたすら作品の内容と流れを大きなものにし、余計なものが一切ない。
照明を担当したのは大島祐夫さん。美術は堀越千秋さん。衣装は山田尚希さんと立川広子さん。音響は田中賢さん。舞台監督は舛田勝敏さん。すばらしいお仕事でした。
歌手たちが一所懸命に歌詞を伝えようとする場面がいくつかある。というのも、パーロによる要請の他に三人(エル・ロンドロ、ヘスス・メンデス、モニカ・ナバーロ)が脚本を支える部分もあるからだ。同じことは雰囲気と感情を巧みに醸し出したチクエロの音楽にも言える。チクエロは前日不幸に襲われたが、逆境にめげずこの日の夜は立派に本番をつとめた。はっきり自覚していたのだ、本公演が小島にとっていかに大事だったかを……そしてフェスティバル・デ・ヘレスにとってもいかに大事だったかを。
ブラボー!
フラメンコ専門サイト deflamenco.com のエステラ・サタニア記者による舞台評。一部を紹介します。
主役をつとめる小島章司の芸名はヒターノ・ハポネス[=日本のジプシー]。確かにペラオ家あるいはアグヘータ家の一員のような際立った相貌だ。四十五年前、抑えがたい思いを胸にスペインにやって来た青年は、昨夜ビジャマルタ劇場に大所帯の舞踊団を連れて来た。日本人を主要メンバーとする舞踊団がこの劇場に出演するのは今回が初めてではない。しかしフラメンコとスペイン舞踊の世界最大の祭典フェスティバル・デ・ヘレスの開催中に登場したのは初めてだ。
日本のジプシー gitano japonés の芸名を授けたのはラファエル・ファリーナ。ペラオ家(Pelao)は二十世紀初頭マドリードで活躍したジプシーの一族。アグヘータ(Agujetas)は同世紀前半に活躍したヘレス出身の歌手。
七十歳を過ぎた小島の両性具有的な演技は、ちょうど同じ時間にハリウッドで開催されていた米アカデミー賞のオスカー像に値するものだった。その演技力は踊りを上回るものだった。とはいえ踊りに支障はなかった。演技の大部分は仕草や身振りによるものだった。
アカデミー賞ものの演技とはずいぶん大きく出たものです。
『ラ・セレスティーナ』は過去にもいくつかのフラメンコ版、スペイン舞踊版があり、複雑に入り組んだストーリーだが、たとえ筋を知らなくても理解するのは易しい。しかしあまりにも大所帯。スタッフを除いても舞台には約四十名いて、「少なければ少ないほど多い」のモットーが正しいことを立証した。
キャパ1266人のビジャマルタ劇場は舞台が比較的小さいので、第一場などは出演者がすし詰め状態だったようです。「少ないに越したことはない/少なければ少ないほど多い」(menos es más)はフラメンコに限らず演劇でもよく聞かれるフレーズ。アントニオ・ガデスもよく口にしました。
カディス県の地元紙ラ・ボス・ディヒタルのアントニオ・コンデ記者による『ラ・セレスティーナ』舞台評。記事のリードは「ラ・セレスティーナを演じた小島章司の極上の演技と卓越した演出がビジャマルタ劇場で大当たり」。
ヘレスの観客はきわめて特殊、とりわけ地元出身者を別格扱いにすると耳にして久しい。客席に地元の人は少なく日本人が埋め尽くしていたが、観客はみな小島の姿にひれ伏すしかなかった。それもそのはずである。セレスティーナの人物像をミリ単位で精妙に分析、研究して演じる小島の姿を感じただけで、何か素晴らしいものがこれから目の前に展開されると思えたからだ。
記事の導入として巧い。
ミュージシャンと舞踊団員合わせて三十人近い人間がひしめくカンパニーがフェルナンド・デ・ローハスの『ラ・セレスティーナ』をベースにきわめて特殊な(sui generis)舞台化を行った。ハビエル・ラトーレの手腕はいつも個性的だが、本作においてもとりわけ後半にはっきり感じられた。
悲劇が一気に加速する部分のことでしょう。
シンボリズムに満ちた悲喜劇を輝かせるのが演出の意図であることはどこから見ても明らかだった。照明の動きが大きく貢献した。一人ひとりの人物をくっきり浮かび上がらせ、その他大勢をいったん忘れさせる。と同時に、舞台を飾る副次的な視覚要素と戯れる。
照明を担当したのは大島祐夫さん。
黒いチュニックをまといタラントに合わせて小島が登場。作品の悲劇的な部分をまざまざと見せる。死の闇すれすれ、地の底からわきあがるドラマ性が、カリストとメリベーアの悦びと対置され、情熱を生み出す。それにしても小島の踊りの見事さよ、愉しさよ。全身から発せられるエネルギーに、私は作品が何の話だったか忘れてしまったくらいだ。そしてストーリーは続いていた。エスメラルダ・マンサーナスがグアヒーラでメリベーアの人格をのっとる。絶品。
お気持ち、よくわかります。
我々にとっておなじみのストーリーが始まるのは後半に入ってからだ。二人の出逢い、ロマンス、情熱。その間のヘスス・メンデスとエル・ロンドロ、モニカ・ナバーロの歌声は充分に生かされていなかった。エル・ロンドロがひとり気を吐いたタラント、それとマルティネーテを除けば、あとは三人が声を合わせて愛の物語を合唱した。残りのミュージシャンは上出来。一頭地を抜いたのがチクエロ。逆境にめげず本番をつとめた彼に本欄を通してエールを送りたい。彼の見事な音楽監督ぶりに我々は劇場でも喝采を送った。
チクエロには本当に頭が下がります。[訳注: 記事に ente tanto とあるのは誤植で正しくは entre tanto]
物語が終盤にさしかかると、絡み合った筋のほぼ全てがほどける。ファルーカが恋人の心を飾り立ててメリベーアが恋の虜になる三つの場面。狂おしい愛から一転して暗々たる闇の悲劇へ。今にも二人の召使いの手にかかってセレスティーナが殺されそうになる。ここで小島は再び出色の演技を見せ、若き主人公二人には悲劇的な結末へと向かって死の手が及ぶ。小島章司と彼がビジャマルタ劇場に連れてきてくれた素晴らしい舞踊団が大成功を収めた最大の要因は巧みな時間の処理にあるのは間違いない。
スペインの全国紙「エル・ムンド」アンダルシア版、マヌエル・マルティン・マルティン記者による『ラ・セレスティーナ』ヘレス公演の舞台評。公演翌日2月28日付。比較的短い記事なので最初の段落から全文翻訳してみます。(太字は原文どおり。写真はメリベーア役のエスメラルダ・マンサーナス・サンチェスと小島章司)
71歳の小島章司が今も現役であることは感服の至りだ。しかし1966年以来我々の最高の親善大使の一人をもって自らを任じてきたからこそフェスティバル・デ・ヘレスに招聘されたのだ。その生涯を通じて若い世代の育成にも励んできた彼に私たちはずっと前から「オレ、オレ、イ、オレ!」と言いたかったのだから。
1939年(昭和14)生まれの小島さん。今年の秋には72歳になります。
2009年にフアン・カルロス国王より文民功労勲章を授かった小島章司は、ラ・マカローナとラ・マレーナの故郷で手拍子の喝采を浴びた。東京にタブラオ「エル フラメンコ」が開業して45年経った今日、我々は受章もむべなるかなと頭を垂れるほかなかった。
ラ・マカローナ La Macarona と La Malena はヘレス・デ・ラ・フロンテーラ市生まれの女性舞踊家。カフェ・カンタンテの時代末期に活躍しました。
東京のル テアトル銀座で初演された『ラ・セレスティーナ』はハビエル・ラトーレの絶妙な振付と、夢のようなチクエロの音楽にサポートされた。チクエロは本番の数時間前に父親が交通事故で亡くなるという悲報が伝えられ、舞台の成功を事前に約束された形になったが、歌手陣も実力は折り紙付き、そして舞踊団員のレベルは朝から晩まで詐欺まがいの芸で金をとる他の舞踊団をはるかに上回る。
本番は2月27日午後9時。チクエロが悲報を知らされたのは前日の午後でした。「本番の数時間前」は事実と異なります。
その通り。舞台芸術をもたらした小島の、文句のつけようがない大成功である。フェルナンド・デ・ローハスの傑作をベースにした演劇的な味わいと威厳。カリストとメリベーアの悲恋、娘の拒絶、分け前にあずかろうとする召使いたち、娘の自殺、そして言うまでもなく小島がはまり役を見せてくれた娼館の女将セレスティーナの計略、これらのストーリーを舞踊だけで表現する。
本当にはまり役でした。
ルンバ、タラント、グアヒーラ、ブレリーアス、ベルディアル、マルティネーテ、ファルーカ、しかもパウ・カザルスの「鳥の歌」が加わり、そこにピカソとネルーダが絡み合い、力強い個性をデザインし、人生そのものの反映である雰囲気を醸し出す。原因と結果が結びつき、人物の人間的な強さが音楽によって強調され、愛と死のコントラストがセレスティーナの前に屈服する。小島の演技によってセレスティーナは良心のかけらもないモラルの化身として後世に残る。
ちょっと抽象的ですが、言いたいことは伝わります。
セレスティーナは手練手管を弄して己の目的、すなわち金を手に入れた。小島はセレスティーナの情熱を際立たせることによって己の目的、すなわち芸術を手に入れた。貪欲を、カリストの召使いたちの堕落ぶりを強調した。だからメリベーアがカリストの情熱に身をゆだねても誰も不思議には思わなかった。情熱に退屈することなんてあり得ないのだ。
ちょっと薄味というか陳腐なことばが並びますが、でもまあ褒めて下さっているのはよく伝わります。
シェリー酒の本場でフラメンコ揺籃の地のひとつ、アンダルシアのヘレス・デ・ラ・フロンテーラ市で2月25日から3月12日まで開催中のフラメンコの祭典、第15回フェスティバル・デ・ヘレス(Festival de Jerez 2011)。
2月27日(日)午後9時、小島章司フラメンコ舞踊団が外国の舞踊団として初めてメイン会場ビジャマルタ劇場に登場、『ラ・セレスティーナ ~三人のパブロ~』 La Celestina を上演しました。記事は地元紙「ヘレス日報」 Diario de Jerez のフランシスコ・サンチェス・ムヒカ記者による舞台評です。
記事のタイトル〈官能の帝国〉 El imperio de los sentidos は大島渚の映画『愛のコリーダ』のスペイン語タイトル。リードは〈昨夜日本のマエストロがラトーレ振付作品でビジャマルタ劇場を震撼させる〉。内容は大絶賛です。
シンボリックな美、並外れた視覚効果、あふれんばかりの描写力、表現主義的な明暗のコントラスト、そして力への想像力。昨夜ビジャマルタ劇場のステージで小島章司フラメンコ舞踊団が見せた特色は火を放った。
いきなりべた褒めです。
愛の行為、官能の悦び。フラメンコの神聖さを毫も損ねないばかりか、西洋にいる我々が〈奥深い芸 arte jondo〉とみなしているものへ向けてきたこれまでのいかなるまなざしをも豊かにし広げてくれる。〈奥深い芸〉は誰の専有物でもない、全ての人たちの財産なのだ。
ユネスコが去年の秋フラメンコを無形文化遺産に登録したのを思い出します。
最も厳密な意味において、マリオ・マヤ、アントニオ・ガデス、ホセ・グラネーロといった舞台の巨匠たちが開拓した劇場フラメンコ舞踊の、これぞまさしく本物のスペクタクルである。
出ました三巨人。
美術から振付まで、衣装から照明まで、どれをとっても『ラ・セレスティーナ ~三人のパブロ~』は全きトータルシアターだ。
まさにそれを目指していたのです。美術は堀越千秋さん。衣装は山田尚希さんと立川広子さん。照明は大島祐夫さん。音響は田中賢さん。舞台監督は舛田勝敏さん。
日本のマエストロ[=小島章司]は、ときには黒沢明の侍のように、ときにはバリェ・インクランの戯曲『ボヘミアの光』の主人公で歪んだ鏡に姿を映すマックス・エストレーリャのように、おどろおどろしい売春宿の女将セレスティーナを演じ、最後は床をのたうち回って観客に彼の神髄を見せてくれる。
クロサワの名前が出るところがいかにもヨーロッパです。『ボヘミアの光』 Luces de Bohemia は二十世紀スペイン劇文学の古典中の古典。スペイン演劇界の最も権威ある賞は「マックス賞」。主人公の名前に由来します。日本だと紀伊國屋演劇賞に相当。
ハビエル・ラトーレの振付は絶妙、一ミリ単位で計算された緻密で力強い振付の交響楽を奏でる。そこにチクエロ作曲の音楽が加わり、舞台はひとつの塊になり、クリエイティブな支えと連続性を得る。これら三つが鍵となって、フェルナンド・デ・ローハスの古典小説にたまった埃を払い、長大な原作を十場にまとめたドラマチックな緊張感をはぐくみ、明確に定義づけてみせる。
チクエロは本番前日の午後、父親が交通事故で亡くなるという悲報に接しました。それでも本番をキャンセルせず、最後まで立派につとめあげてくれました。
原作は悲喜劇だが本作は悲劇色が濃く、パブロ・ネルーダの詩、パブロ・ピカソが描いた『ラ・セレスティーナ』の版画集が悲劇を豊かにし、二人の恋人が息絶える幕切れではパウ・カザルスの「鳥の歌」が葬送曲のように流れる。あらゆる古典作品がそうであるように、普遍的で時間を超えた古典が劇場フラメンコ舞踊にアレンジされ、まるでサイレント映画のように、出演者の音楽と仕草と表情だけでストーリーが進められる。
はい。三人のパプロ―― Pablo Picasso, Pablo Neruda, Pau Casals――に捧げた舞台です。
チクエロを筆頭に、ミュージシャンは出色の出来。オルビード・ランサのバイオリン、リト・イグレシアスのチェロ、ヘスス・メンデスとエル・ロンドロとモニカ・ナバーロの歌も絶品。大勢のダンサー・舞踊家がひしめくキャストと完璧にマッチ。大所帯であるにもかかわらず舞台が麻痺してストップすることがない。大人数が登場する場面がいくつかあるが、空間恐怖に陥らない。ハビエル・ラトーレの手腕が光る。
最高のメンバーです。空間恐怖(horror vacui)とは、空っぽのスペースに対する恐怖感を表す美学用語。絵画・建築・舞台芸術などで空いたスペースにとにかく何でも詰め込まないと不安でしかたがない、一種の強迫観念。日本語では〈空間恐怖〉〈真空恐怖〉〈虚無への恐怖〉などの訳語が当てられます。
激しい恋の虜となったメリベーアを演じるエスメラルダ・マンサーナスのグアヒーラは極上。クリスティアン・ロサーノとのパ・ド・ドゥは熱く燃え上がり、歌手エル・ロンドロはチリの詩人パブロ・ネルーダの忘れがたき一節をファルーカで歌う――「黙っているときの君が好きだ……」。対角線の配置、無限へと伸びるブラセオ[=腕の動き]、愛撫、愛のささやきが、破格なロマンセによって歌い上げられる。二人を照らす照明は、ピカソがセレスティーナの肖像画を描いた〈青の時代〉の、あの青に染まる。
嬉しいなあ。
振付家ラトーレの名人芸を得た小島の作品には際だった特徴がある。混血の精神、異なる舞踊表現のアマルガムだ。しかしフラメンコの土台を決して蔑ろにしない。日出づる国から来た尊いマエストロの無限の手脚を動かしているのはフラメンコの土台にほかならないからだ。
単に奇をてらうだけの安易なフュージョンとは無縁、ということですね。
〈奥深い芸〉と呼ばれるフラメンコは昨年ユネスコの無形文化遺産に登録された。だからビジャマルタ劇場のステージで日本人がサパテアード[=床を踏み鳴らす]するのを見て野次が飛ぶなどということはない。フラメンコのタブラオや学校の数は東京の方がアンダルシア全部を合わせても多いのだから、これはもう脱帽するほかない。そしてありがとうと言わずにいられない。我々が愛してやまぬこの芸術がかくも大きなものであるに対して、ありがとうと。ただし誤解してはいけない。かくも大きなものであるのは小島のようなマエストロのおかげなのだ。
この舞台評の白眉です。
官能の帝国にようこそ。宵っ張りのフラメンコ中毒者の皆さん、くれぐれもノスタルジーや純粋主義(プリスモ)は控えるように。
オレ!