来年2010年はミゲル・エルナンデス生誕百周年なのですが、遺族の了解が得られず記念行事は坐礁。遺族の代表である嫁のルシーア・イスキエルドがパブロ・イグレシアス財団に援助を求めたのが半年前。未亡人ホセフィーナ・マンレーサはアルフォンソ・ゲラ元副首相の助言を容れて遺産をエルチェ市に委託。未亡人の没後はイスキエルド氏が遺族代表となったものの進展はなし。
芸術家や学者による記念行事は何年も前からいくつも計画されてきており、企画を進めているのがミゲル・エルナンデス百周年協会という組織。この組織、メンバーは映画製作者や実業家で、彼らがイベントを牛耳り始めて以来、遺族の了承が得られない様子。なんとハリウッドでジョニー・デップ主演の伝記映画を製作するなんていう夢物語まであるそうです。
要するに権利問題でモメているわけです。アントニオ・マチャードの遺族はイアン・ギブソンが伝記を執筆する際、詩の複製を無償で譲渡。フアン・ラモン・ヒメネスの遺族も全面的に協力。
エルナンデスの遺産買取りをめぐって先週火曜日、エルチェ市とミゲル・エルナンデス百周年協会が会合を開きました。遺稿などの遺産は27年前からエルチェ市が管理中。エルチェ市は買取りに300万ユーロ(約4億円)を提示。国立図書館の見積額は210万ユーロ。しかし遺族はその三倍を要求。どうにかならないものでしょうか…。
フアンホ・リナーレス(1933年ア・コルーニャ生まれ)が昨日入院先のマドリードのラ・コンセプシオン病院で死去。
マリエンマ舞踊団、マリア・ロサ舞踊団などの第一舞踊手兼振付家として活躍。国立マドリード舞踊団の創設者。スペイン国立バレエ団にも振付作品があります。『トレドの衣裳』『マドリードの舞踊』『衣裳とスペイン舞踊に関する研究』などの著書もあります。
カルロス・サウラの新作映画『フラメンコ、フラメンコ』 Flamenco, flamenco が6週間の撮影を今週末に終えます。写真は最後のシーンを踊るサラ・バラス。撮影場所はセビーリャ万博の会場だったカルトゥーハ島の未来館。撮影監督はもちろんヴィットリオ・ストラーロ。前作『フラメンコ』が15年前。今年は舞台『今日のフラメンコ』 Flamenco Hoy を演出したりと、またフラメンコの虫が動き出したようです。
ミゲル・ポベーダ、ドランテス、ファルキート、エバ・ジェルバブエナ、アルカンヘルと、当代切ってのスターばかり。ニーニャ・パストリとトマティートは「時の伝説」をカマロン・デ・ラ・イスラに捧げるそうです。予算は400万ユーロ(約5億4千万円)。来年スペインで公開予定。
サウラとストラーロの出会いが京都だったとは。製作者フアン・レブロンを通じて知り合ったそうです。
スペイン映画界の顔、ロペス・バスケスが今月2日亡くなりました。享年87。
生家はマドリードのど真ん中、フィルムセンターがある映画館ドレ座の目の前。映画デビューは1946年。俳優として活躍する前は衣裳デザイナーでした。幼い頃の夢は画家か芸術家。『それはダマスカスで起きた』 Sucedió en Damasco (1943年)などのロペス・ルビオ監督作品に衣裳デザイナーとして参加したところ、その「無意味でちっぽけな」風貌がルイス・ガルシーア・ベルランガ監督の目にとまり、『あの幸せなカップル』に端役として出演。同監督のもとで『木曜日は奇跡』に出演し、マルコ・フェリーリの『小さなアパート』 El pisito (1958年)で人気を不動のものにします。ベルランガ作品では『プラシド』 Plácido 、『死刑執行人』 El verdugo 、『国民銃』『国有財産』『ナシオナル・第三部』の〈国民劇三部作〉に出演。その他の代表作にカルロス・サウラ『いとこアンヘリカ』『ペパーミント・フラッペ』、ホセ・マリア・フォルケー『三時に強盗』 Atraco a las tres 、ハイメ・デ・アルミニャン『お嬢様』 Mi querida señorita があります。
アルマグロ市の国立演劇博物館にはロペス・バスケスゆかりの衣裳やデッサンがたくさんあります。2007年に私物を全て寄贈したとのこと。
遺作となったのはアントニオ・メルセーロ監督の『でお前は誰だ?』 ¿Y tú quién eres? 。演劇では演出家ペドロ・オレアが『小さなアパート』を舞台化するにあたって彼の声を録音して流す予定だったのが実現されずじまいに終わりました。『小さなアパート』の出演者マリ・カリーリョとロペス・バスケスが今年相次いで他界。マドリードのマルキーナ劇場で上演された舞台版ではテテ・デルガードとペペ・ビユエラが演じました。
記事の最後にフィルモグラフィーが載ってます。
見た目は花婿 Novio a la vista (1954)マドリードの小劇場レプリカ Réplika が設立二十周年を迎えました。恥ずかしながら行ったことないんです、この劇場。
助成金などの援助はほとんどなし、演目は知名度の低い作品ばかりという環境で、グロトフスキーの理論に基づく俳優養成学校を経営して二十年というから大したもの。
女優で教師のソコーロ・アナドン Socorro Anadón と演出家で俳優のジャロスロウ・ビエルスキー Jaroslaw Bielski が1989年に設立。二人が出会ったのはポーランドのグロトフスキー研究所。ビエルスキーはポーランド生まれでスペイン国籍を取得。スペインに来てからリュイス・パスクアル、ホセ・カルロス・プラサ、ミゲル・ナロスなどスペインが誇る演出家と仕事をしてきました。
小劇場ながらもマリーア・アスケリーノやアリシア・エルミーダ、アグスティン・ゴンサレスといった実力派俳優が共演。10月30日現在、イングマール・ベルイマンの『操り人形の人生から』を上演中で、キャストはアントニオ・バレーロ、ガブリエル・ガルビス、ラウル・チャコン、ロレーナ・ロンセーロ。主宰者アナドンとビエルスキーも全作品に出演。
これまでに舞台にかけた作家はピーター・シェーファー(『エクウス』が有名)、ヨハン・ナブロッキー、ロペ・デ・ベガ、ベケット、ルイス・キャロル、シェイクスピア、ビエルスキのオリジナル作品など。デール・ワッサーマンの『カッコーの巣の上で』やジェイムズ・M・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』などの映画の舞台化も。
劇場のキャパは100席。作品によって配置を変えるのは他の小劇場と同じですが、他と一線を画しているのは芸術的一貫性を保っていること。存続のために作品を選ぶのではなく、吟味選択しているからこそ存続している。頑張れ!
ガルシーア・ロルカの詩「イグナシオ・サンチェス・メヒーアスへの哀悼歌」で有名な闘牛士サンチェス・メヒーアスが小説も手がけていたことがわかりました。彼はラファエル・アルベルティやペピン・ベーリョ、ガルシーア・ロルカと親交を深め、詩や戯曲を書くインテリ。戯曲『不合理』(1927年)ではスペイン文学史上初めてフロイトの精神分析のテーマを取り入れたほどなので、小説を書いていても不思議ではありません。
ラ・マンチャ地方シウダー・レアル市のマンサナーレス闘牛場で命を落としたのが1934年8月13日。今年は没後75周年。その記念にアンドレス・アモロースが書簡や遺稿を調べたところ、偶然未完の小説を発見。タイトルは「勝利の苦み」 La amargura del triunfo 。コルドバの出版社 Berenice から出版されました。
アモロースによると、1925年にバリャドリーで闘牛をしたあと、同日夜にアテネオ(文芸協会)で開かれた講演会で後に『カステーリャ北部』が出版したテキストを読んだ、タイトルは「黒真珠のマルヒーリャ」で、これが小説「勝利の苦み」の一章とのこと。
闘牛士ホセ・アントニオと弟子エスペレータが闘牛の世界について意見を述べ合う物語で、ホセ・アントニオは貧しい家の出で、闘牛の腕前のおかげで上流階級に仲間入りを果たした男。ラファエル・ゲーラ・ベハラーノ・〈ゲリータ〉など当時のコルドバで活躍した実在の闘牛士への言及も。
小説を書いていたことは当時誰も知らなかったらしく、1927年にアルベルティやロルカと知り合い文学の前衛に接し、小説はいったん中止して後に完成させるつもりだったのではないか、とアモロースは推測しています。
20世紀スペイン文学の巨匠フランシスコ・アヤーラが11月3日、老衰のためマドリードの自宅で亡くなりました。享年103。サン・イシードロ公園の遺体安置所では未亡人でアメリカ人スペイン文学者のキャロライン・リッチモンドと詩人のルイス・ガルシーア・モンテーロ(生誕百年祭実行委員)、ラファエル・フアレス、ビクトル・ガルシーア・デ・ラ・コンチャ王立言語アカデミー会長が遺体に付き添いました。
1906年グラナダ生まれ。1929年マドリードのコンプルテンセ大学で法学の学士号を取得。その後ドイツに移り住み政治哲学と社会学を勉強、社会学の博士号を取得し、1932年から内戦勃発までコンプルテンセ大学で社会学の講座を担当。
学生時代に『ある夜明けの物語』 Historia de un amanecer (1926年)、『模造メデゥーサ』 Medusa articial (1927年)などの小説を発表。内戦後はブエノス・アイレスに亡命し、1939年から1950年までラ・プラタ大学で社会学を講義。文芸雑誌『現実』 Realidad を創刊。
1977年に教授職を辞め、プエルトリコに移住し雑誌『塔』 La Torre を創刊。ニューヨークとシカゴに滞在した後、1980年にスペインに帰国。1984年王立スペイン言語アカデミー会員に選出。入会演説のタイトルは「ジャーナリズムのレトリック」。1999年にキャロライン・リッチモンドと結婚。
代表的な文学作品として列挙されているのは以下の作品。
羊の頭 La cabeza del cordero 1949年社会学の仕事は以下。
社会学研究 Tratado de sociología 1947年/1959年文学研究も。
叙述構造に関する省察 Reflexión sobre la estructura narrativa 1970年映画論もあります。
シネマの探究 Indagación del cinema 1929年映画、芸術とスペクタクル El cine, arte y espectáculo 1969年 民主スペインの良心というべき人でした。わたくしが折に触れて読むのは亡命生活中の時事エッセイ集『時と私、あるいは世界を背に』です。