二十六日に佛蘭西航空でS氏と共に日本を發ち翌日西班牙に渡り、早朝曇天のマドリードに到着す。宿は開業したばかりのホテル・エスペリア。總支配人とS氏は刎頚の友。大變現代的な内裝で雰圍氣頗る良し。斬新であり乍ら落着き寬げる。宛がはれた部屋は豪奢に淫することなく居心地眞に宜しい。二十八日は日歸りでグラナダに航空機で徃く。ファリャ財團のドニャ・エレーナ女史とノミック氏と會談。我々のファリャ追悼公演に興味を示して下さる。續けてガルシア・ロルカ記念館々長ロクサ氏と會談。今年五月のフラメンコ公演の槪要を申述べる。膝を乘出して傾聽して下さり甚だ恐縮す。氏の若き祕書とタクシーでロルカ記念公園を見學。午後九時飛行機でマドリードの宿に戾る。けふはロルカ財團の理事長と會見す。爾後、ホテルの總支配人と晝食を共に飰す。和蘭人だが西班牙語を融通無碍に操る。マドリードのホテル・リツヽの副支配人を勤めし人なれば人格卑しからず、敎養橫溢、自己中心的で夜郞自大な計營者ではなく文化への關心頗る高く、ホテル業は演劇に通ずなどゝいふ嬉しい意見を伺へ、S氏と余は快哉を叫ぶ。天氣豫報は雨だが、會食を終へると明るい日差しへ部屋に燦燦と降注ぎ大變心持が良い。體調頗る良好なり。
睡眠導入劑功を奏して熟睡す。隂欝な天氣なりしが氣分は爽快なり。數日來、原稾執筆と渡航準備で神經消磨せしが、物事はなるやうにしかならないと堪忍し、氣持ちにゆとり生ず。けふは午過ぎに東上しS氏邸に寄寓する。如何なる不慮の事態が出來しても對應出來るやう、渡航前日に東上するのが賢明と判斷す。折りしも昨日午後廣島縣を中心に大地震發生し、新幹線がすべて運行を見合はせた。かう云ふ豫期せぬ災害や事故が何時起きても不思儀ではない。
月曜來、欝の谷底に陷り悶絕せしが、主治醫に强めの抗欝劑を處方して貰つたお蔭で快方に向かふ。火曜日は病を冒して卒業式に出席。袴姿の學生たちを見るに「馬子にも衣裳」と云ふ言葉が腦裡を去來す。午後から體調愈々惡化し、謝恩會は斷腸の思ひで缺席。心配した學生たちから見舞の電話を何度も受ける。大變申し譯ない事をした。返す返すも殘念なり。岩波『科學』の原稾、病身に鞭打つて脫稾。編輯者より適切な助言と忠告を賜り、全面的に容れて改稾し送る。渡航の荷造りは昨日片附きぬ。道中氣掛かりなのは睡眠なり。睡眠導入劑に一縷の望みを託す。
春暖にしてスヱタアも重たき心地するほどなり。大學にて雜事を濟ませ、心療内科で診療を乞ふ。西班牙渡航中の備へとして藥を三週間分處方して貰ふ。午に實家に徃き兩親と妹と晝餉を食す。母上數日前に近鄰の住宅街の眞中に自家焙煎の咖啡店を發見せりと云ひ、佇まひ甚だ趣きありと訴へるに赴かむとせしが、折惡しく定休日なり。詮方なく、昨秋開店したばかりの百貨店に徃きスタアバツクスで咖啡を啜る。月曜の午後なれど幼子を連れた家族や老夫婦、年若の戀人などで殷賑を極めてをり、背景音樂耳を聾せんばかりに響き渡り、病を冒して出掛けた余は通路を逍遙するだけで眩暈を覺え、父上母上妹が夕餉の食材を贖ふのを長椅子に坐して一服し乍ら俟つ。實家に歸參せしより夕餉まで爲す事なく、持參した『斷腸亭日乘』を讀む。此の拙い『抑鬱亭日乘』の云はゞ敎科書の如き書物なれば、頁を繰る度に感興催し胸躍り、「景仰」「欷歔」「四鄰」など現時滅多に目に留まらざる熟語を見つけては片つ端から餘白に轉記す。舊字體舊假名遣ひに漸く慣れて來りしが、余は助詞或は助動詞の使ひ方が未だ下手糞なり。下のやうな件を讀むにつけ出るは溜め息ばかりなり。
帝國劇塲に徃き、梅欄芳の『醉楊妃』を聽く。華國の戲曲は余の久しく聽かむと欲せしものなり。今夕たま/\これをきくに、我邦現時の演劇に比すれば遙に藝術的品致を備へ、氣局雄大なることまさに大陸的なりといふべし。余は大に感動したり。感動とは何をかいふや。余は日本現代の文化に對して常に激烈なる嫌惡を感ずるの餘り、今更の如く支那及び西歐の文物に對して景仰の情禁じがたきを知ることなり。これ今日新に感じたることにはあらず。外國の優れたる藝術に對すれば必この感慨なきを得ざるなり。然れども日本現代の帝都に居住し、無事に晚年を送り得る所以のものは、唯不眞面目なる江戶時代の藝術があるがためのみ。川柳狂歌春畫三味線の如きは寔に他の民族に見るべからざる一種不可思議の藝術ならずや。無事平穩に日本に居住せむと欲すれば、是非にもこれらの藝術に一縷の慰藉を求めざるべからず。
長々と書き冩したる所以は、此は余の心境そのものならずやと思へばなり。夕餉を飯し、倉皇自働車で歸宅す。
晴天風暖なり。戸坂潤『科學と文學の架橋』、長山靖生『鷗外のオカルト、漱石の科學』を讀む。晡時東京より妹來り。居を遷した許りの實家に實感が沸かない樣子。過日首筋から背中に痛みが走り、二三週間に一度整骨院に診察を乞ふと云ふ。鍼と灸が痛みを治するに效ありと云ふ。額や足の裏に迄鍼を打つてもらひ、其まで曲がらなかつた脚が思ふ樣に曲がるやうになり、血色も頗る良好。ほゞ全癒したとみえる。勤務先で製造してゐる栗羊羹を土產に持參す。余は是に目がない。和菓子とも洋菓子とも云へる逸品で綠茶にも番茶にも咖啡にも大變合ふ。家族四人で夕餉を飰すのは昨秋以來なり。實家は周りの物音殆ど響かず、耳を澄ませば近鄰の犬の咆哮が微かに聞こえるのみなり。西班牙渡航を三日延期した旨兩親に報告、母上心底安堵す。六時半に夕餉を飰し、歡談するに早くも九時になりぬ。暇乞ひす。
春雨霏々。東上し新國立劇塲に永井愛作・演出『こんにちは、母さん』を看る。加藤治子、杉浦直樹、平田満と藝達者が揃ひ客席は滿席なり。芝居の出來は可もなく不可もなし。加藤治子が屡々間を外す。朝來體調に不安を覺え何處へも寄らず名古屋に戾る腹積もりだつたが、夕刻復調し、演出家のS氏を要町に訪ねる。膝附き合はせて今年と來年の演出計劃、來週の西班牙訪問計劃を練る。もうじき一歲に成る長男K君、余に興味ありしと見え顏を近づけるに右手の指の爪で鼻の頭を引掻かれ、血が滲む。幼子だが怪力の持主なり。昏暮名古屋に歸參す。
春風嫋々たり。門巷寂然晝も夜の如し。午前は晴れて一點の雲もなけれど昏暮書窓暗澹たり。數日前まで腹痛憂悶する事甚しけれど漸く痊える。されど筆を把れども懶く感興來らず。終日困臥。西班牙渡航は延期、出發は二十六日なり。
午前烟雨濛々、午後曇。下腹の痛み漸く癒えるも、どんよりと曇つた空模樣の所爲か鬱々として樂しまず臥褥にて惰眠を貪る。宅配便で『笑藝人』第四號屆く。今號の特輯は東京漫才なり。若手の漫才師の雙璧が爆笑問題と淺草キツドであると云ふ管見が裏附けられ快哉を叫ぶ。此の雜誌は笑藝に就いて語らせれば右に出る者なしの高田文夫が編輯長なれば、内容の充實ぶりには端倪すべからざるものあり。夕刻所用ありて近所まで來た父上と母上來宅す。此の抑欝亭日乘を讀み二人共呵呵と哄笑す。昨今の新聞雜誌議會は失言續きの森首相の進退を巡り百家爭鳴。されど後繼者に相應しい大人物見當たらず、當分混亂は續くであらう。株價は下がる一方で一萬二千圓を割込み、圓も安く一弗百二十一圓なり。新聞雜誌は莫迦の一つ覺えのやうに不景氣不景氣と憂へてゐるが、海外旅行に徃く人は史上最高を記錄してをり、ユニクロ等の廉價販賣店は殷賑を極めてゐる。十五年前の泡沫經濟の時代が異常なれば現今の經濟至極正當と云はざるを得ず。
春風漸く暖なり。兩親の元の住まひを大家さんに引渡す作業に立會ふ。年金生活者の兩親の代はりに余の名義で借りてゐた故なり。不動產屋からの聯絡不備で、不動產屋業者が立ち會ひに來たりて、要領を飮込めない父上困惑し、敷金の拂戾しを巡つて一悶着あり。余は精神消耗し、要件が濟むや否や直ぐに歸宅す。
内科に徃き下腹部を診てもらふ。名古屋に來て内科に行くのは初めてなり。抗欝劑と睡眠藥合はせて六種類服用してゐる旨傳へると、醫師はすかさず「ようけ飮んどるな。其れだけ飮んでたら腹も痛くなるしガスも溜まる。どれか減らして樣子を見なさい。屹度藥が原因です」とのこと。倂し今の藥を飮んでから半年經つてをり、下腹部の痛みが始まつたのは一週間前なり。腑に落ちぬ。整腸劑二種類を處方してもらつたゞけなり。どうも納得が行かぬ。
一昨日は母上余の病輕からずを知り見舞に來らる。昨日は隂晴定まりなく朝來腹中輕痛あり。心地爽快ならず。書棚を遊弋し科學に關する文獻を引張り出しては濫讀し、いざ筆秉らむとせしが感興來らず。蓐中にて咖啡を啜る。今朝は晴れて暖なり。數日前花沢徳衛の訃報に接す。澀味のある俳優だつた。下腹痛く終日困臥、臥褥にて咖啡啜る。電腦網で漢字を自動的に舊字體に變換する家頁を發見す。個人用電算機は舊字體の入力が不得手ゆゑ此は頗る重寳なり。倂し「數」や「參」など變換されざる字體あり、畫龍點睛を缺くと云はざるを得ず。更に電腦網を涉獵するに、舊字體のみならず舊假名遣ひにも自動的に變換して吳れる家頁に出會ふ。此れぞ決定版なり。「ゐ」や「ゑ」を文字毎に入力する煩瑣な手續きが此れで解決す。「まるやるま君」といふプログラムなり。無論、丸谷才一に由來する。
半隂半晴。鸚哥早朝より啼きつゞけたり。昨夜は池田晶子の『考へる日々二』を枕頭の書とし讀書深更に及ぶ。哲學用語を用ゐぬ平易な文體の哲學的思考は常人の及ばぬ筆力なり。鶴首して待望んだ三宅周太郎『演劇五十年』(鱒書房、昭和十七年)古書店より屆き欣喜雀躍す。小山内薰の孤獨を思ふ。その孤獨は斷じて浪漫主義にあらざれば現今の讀書に堪へるべし。午後空俄にくもり西北の風吹起り雪ふり來りしが須臾にして歇む。讀書黃昏に及ぶ。池田晶子の『考へる日々』一聯を讀む。週刊誌揭載の隨想集なれば讀み應へ少なく、『事象そのものへ!』を再讀す。わかき時讀みたる書を再び繙く時、思ひも掛けぬ興味を覺えてやまざることあり。またはさほどに面白しとも思はず、昔はいかにしてかくの如き書を面白しと思ひたるかなど怪しむ事もあるなり。
月曜に福岡から歸りし以來鬱烈しく食欲皆無、睡眠藥も功を奏さず昨日は終日困臥、午後九時に寢に就きぬ。今朝漸く痊えたれば朝食の際咖啡を擧ぐ。けだし病中の一大快事なり。頭中覆ひし霧が晴れる思ひす。雪もよひの空暗く風寒し。霙。漸く體調恢復。實家の引越しの荷造りを手傳う。東京から歸參した父が咳嗽甚しい。醫者の診斷はインフルエンザ。終日病臥。渡る世間は病人ばかりなり。
曇りて風なほ冷なり。金曜から昨日まで福岡に赴きI君宅に寄寓す。初日は飯塚よりW君來宅し明方三時まで歡談す。翌日入院中共に病と鬪つた戰友と再會し晝餉を共にす。幹事務めしI君は體調頗る惡く心勞察するに餘りあり。滯在中食事らしき食事は三度きりにて、消耗すること瀕死の蟬の如し。日曜午後八時、I君卒爾として大牟田に赴かんと欲し猛吹雪をついて車で海の病棟へ徃く。寒風吹きすさび思ひ出に耽る餘裕なし。昨日午後歸宅し心身共に疲勞困憊し橫臥す。
終日細雨霏々として降り夕刻歇む。隂雨に鸚哥囀らず寄添つてぢつとしてゐる。早くも三月朔なり。勤務先の同僚に摩訶不思儀な眼鏡を見せてもらう。目に宛がうと畫像受像機の映像が眼前に銀幕に寫したるが如く現れ吃驚仰天す。然らば巨大な銀幕も受像機も必要なし。世の中には便利なもの數多あり。輾轉反側の晚など蒲團に寢轉び活動寫眞を樂しむに重寶なり。倂し高價ゆゑ購ふこと能はず。夕餉を外で濟ませ歸宅し書物を繙けど懶し。陋巷に引移るを欲するは長期休暇の時期の常なり。