私の無農薬コットンのスカーフ、もちろん無漂白。
取り出すたびに、ミイラの包帯みたいに思えて...。
頭部をぐるぐる巻きにして、目鼻のところにイタズラ描きしたい。
そう、包帯巻きの頭を思い浮かべてしまうの。
でもさ、美人にイタズラ書きしてくれなきゃいやよぉ。
前向きに善処致します……が、やっぱりふざけてこそのイタズラ書きだからなあ。無理です。
古いひとさんの四字熟語。
ゆう天皇を、謹んで、真ん中に、真ん中に、おしいただくこと。わーい押し戴かれて嬉しいな♪……と思ってよくよく考えると、「ゆう=憂」、あたしゃ国難の元凶?
そうかも知れない。なにしろ粗忽の総元締めだし。
「ゆう」という読みの重視です。
決して憂国ではありません。
まさに杞「憂」でございました。
そして、ゆうさんの「骨折解散」。
爆笑・・・というわけじゃないけど「うまいね、どうも」と言いたくなります。
爆笑だけをめざして日夜励んでおりますだけに、まだまだ修行が足りないとの思いをあらたにしました。語義の解説文が長いとなかなか爆笑に至りません。過ぎたるは及ばざるがごとし。拳々服膺。
余談ですが、
あたしは、筒井康隆の
『関節話法』が大好きです。
『関節話法』、爆笑に次ぐ爆笑で呼吸困難に陥りますな。
筒井康隆にハズレなし。たこ焼き村さんが大好きな作家のひとりです。
何年か前に久しぶりに『農協月へ行く』を読んで抱腹絶倒。
『残像に口紅を』は空前絶後の試みで戦慄しました。
おお「関節話法」! これと「最悪の接触(ワースト・コンタクト)」(いずれも『宇宙衛星博覧会』所収)の2編は究極の絶望的異文化コミュニケーションを描いた快作です。大好きです。
そして『残像に口紅を』! すごい作品ですよね。あれが出たとき、新聞に「“あ”が消えれば“か、さ、た、な、は、ま、や、ら、わ”も全部消えなければならないはず。筒井はそんな初歩的なことも知らない、甘やかされた作家だ」という文芸評論家(誰だったか失念)の批評が載り、あきれたことを覚えています。
ゆうさん、ぜひ『残像に口紅を』のスペイン語訳をお願いします。
「関節話法」も「最悪の接触」も、電車やバスなどでは決して読んではいけない、たいへん危険な本ですね。文芸評論家、逝ってよし(半死語)。
『残像に口紅を』のスペイン語訳はジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』のサンスクリット語訳より難しいと思います><
『フィネガンズ・ウェイク』は敷居が高そうで手に取ったことがありませんが、清水義範の「船が州を上へ行く」(『私は作中の人物である』所収)は読みました。パロディーがこんなに読みにくいんだから、原著(ここで原著とは柳瀬尚紀訳のこと)はさぞかし何回でarrowと、枡枡毛胃炎仕手し末端the。
あ、たこ焼き村さんが壊れてる♪
♪ ♪ ♪~
♯≒#~
府内のすべての高校の生徒にTOEFL受験を義務づけ、上位50校に5億円の予算を配分するという構想を今年の1月ごろにぶち上げたことが印象に残っています。
当時の橋下氏のツイッターにはずいぶんと刺激的なつぶやきがあったので、いくつか保存してあります。
英語よりも日本語を、日本の文化を大事にせよ、英語なんていらんとか言ってるのは、もう先も長くないサロン的な有識者。自分はそれなりに成功して有識者に良くありがちの、無責任なサロン的会話。これから自分で飯を食っていかなきゃならない若者に、英語力は絶対に必要不可欠。
大学の入試が変われば英語教育が一気に変わるのに、大学も呑気なもの。しょうがないから大阪で高校英語教育が変わるよう誘導政策を採ります。TOEFLを軸に一定の基準点を超えた上から50番内の学校に5億円を配分します。やるかどうかは学校の判断。強制はしません。
全体の底上げに繋がるのか・・・などいつものお決まりの文句が教育現場から出ていますが、やるかどうか、達成できるかどうかは学校、そして英語教員の努力次第。今の読み書きの授業から聞く話すの授業へ。日本の大学何ぞ目指さなくても海外の大学を目指す学校が大阪から出てくることを期待します。
TOEFLを意識した授業に切り替える高校が、大阪府から続出することを狙っています。大学受験はだって?TOEFLができれば受験なんて楽勝。TOEFL授業は先生が大変なだけ。高校も言い訳せずに真正面から取り組んでもらいたいもんです。先生方、世界を見なさいって!
今の受験英語をやることは子どもたちに百害あって一利なし。子どもたちのことを考える英語教育に早く切り替えるべきです。一日も早く。こんなの文科省がやることなんだよ。まあ行政職員では、ドカーンとした判断、方向転換はできないから、こういうことこそ政治がやるべきなのにな。
TOEFL事業に5億円。現場や色んなところから批判は来るだろうけど、これは政治判断です。関西外語大学の英語教育を真剣に考えている教授を始め、世界の状況を的確に把握している有識者は皆応援してくれています。反対するのは自分の言葉に酔ってしまう無責任な言葉遊びのサロン的有識者。
「今の読み書きの授業から聞く話すの授業へ。」とおっしゃっておいでですが、管見では「読み書き」の授業が弱体化しているせいで僕たちの世代よりもさらに「聞く話す」ができなくなっているのが今の高校生・大学生なんじゃないかと思うんですが。
きのうの抑鬱亭日乘ご笑覧ありがとうございます。
「英語は達者だけど機転が利かず他者への思いやりがなく困っている人を扶ける能力がない人を優遇する社会」と「英語はチンプンカンプンだけど機転が利き他者への思いやりがあり困っている人を率先して扶ける能力がある人を優遇する社会」では、わたくしは断然後者を選びます。以上。
「府内のすべての高校の生徒にTOEFL受験を義務づけ」という部分は間違いでした。
強制はしないんですね、一応。お詫びして訂正します。
ハッシーは確かに過激ですね。
あたしは兵庫県にも住んでいたので
関西に対して悪い感情はないのですが
関西って、域外の日本人にとってズバリ
パスポートが必要ない外国です。
あのバイタリティと積極性、
コミュニケーション術を持つ
関西人の特性は賞賛されて然るべき。
外国語学習については
別に英語至上主義でなくても、
中国語でも韓国語でも
生徒が興味を持つ言語で構わないと
思います。
もし地域政治が若い魂を憂う!なら、
一例ではありますが、
携帯電話やゲーム依存症の
ケアのほうが急務ではと考えます。
たこ焼き村さん:
思い違いをみずから正す誠実さに拍手ぱちぱち。
「海外に来るといつも痛感するのですが」と前置きしてから主張を述べるその口ぶりが救いようもなく日本的であることに彼自身まったく気づいておらず、その無自覚さには溜息しか出ません。「真理は海の向こうにある、ゆえに我が国も海の向こうの真理を獲得しなければならない」というロジックが卑弥呼の昔から辺境人としての日本人のDNAにインプットされて今日に至った、この特殊な病理について精緻に論じたのが昨年新書大賞を受賞した内田樹『日本辺境論』(新潮新書)です。この本のよさは「だから日本人はダメなんだ」という凡庸な結論に至らないことで、「辺境人には特異な能力がある。だからとことん辺境人でゆこう」と積極的に自覚を促す点にあります。自覚があるのがミソ。
敗戦直後、海外渡航が自由化される前にアメリカに行くことができた特権的な人たちが帰国して、二言目には「アメリカでは…」を連発、そんな鼻持ちならない輩を〈アメション〉(=どうせ小便してきただけだろう)と呼んで嘲笑した時代から一歩も進んでいないのだなあ。
古いひとさん:
彼の過激さは「自民党をぶっ壊す」「構造改革」の小泉某にそっくり。英語帝国主義に支えられたグローバリゼーションと新自由主義を猛スピードで導入した結果、ごく少数の富者と圧倒的多数の貧者に二極分化した現在が以前より住みよい社会になったとは到底思えません。
・・・画面開きっぱなしで投稿文書きかけていたのが・・・消えてるやん。
ターコさん……まさに orz ですね……。
こうした事態を避けるために、わたくしはこんな具合に画面の右側にエディタを開いて、下書きを書いてからコピーしてます。
ゆうさんの「アメション」の話を読んで、かつて筑紫哲也氏が言ったという「出羽守(でわのかみ)」という言葉を思い出しました。
海外特派員OBが帰国後しきりに「アメリカでは」「フランスでは」など「でわ、でわ」ばかり繰り返す姿を揶揄した言葉です。
ところで、ハッシー節、またまた全開ですね。
バカボンのパパなのだ。
国旗や国歌をうやまう心は、国家とは何か、国民とか何か、つまり「公的」であるとはどういうことかを考えずには養われない心なのだ。規則で上から押しつけて「ハイわかりました、うやまいます」で済めばこんな楽な話はないのだ。
「公的」とは何か、その反対の「私的」とは何かについては、カント先生に聞くといいのだ。カント先生はこう言っておられるのだ。
--------------------------ここから--------------------------
「自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、それに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい」
「ここで私が理性の公的使用というのは、或る人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的利用というのはこうである、――公民として或る地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである」
(カント『啓蒙とは何か』岩波文庫)
--------------------------ここまで--------------------------
公務員が仕事をするのは「私的」なふるまいなのだ。
教員が起立しないと会場がざわめくのは、教員が「私的」な意志によって規則を遵守している儀式のなかに、突如「公的」な意志が出現したからなのだ。世間の常識では「逆ではないのか?」と思うかも知れないが、「公的」というのは誰の命令も受けずに意志を表明できる場のことなのだ。
起立しない先生は、公的とは何か、私的とは何か、という問いを、敢えて規則を破って、身を挺して示しているのだ。つまり、事はそう単純な話ではないということなのだ。
君が代斉唱時に起立しない教員を見た生徒は、いろんな感想を持つと思うのだ。
「なんで立たないんだ?」
「やっぱりな。立たないと思ったよ。ひねくれ者だし、あの先生」
「俺だって立ちたくないよ。でもしかたがないから立ってるんだよ」
「わざわざ波風立てることないのに!」
「先生いいな! わたしも立ちたくない! 大人になったら堂々と坐ってみせる!」
「みんな立ってるのにひとりだけ立たないってのはある意味すごいな。よほど強い信念があるんだろうな。どんな信念なんだろう」 etc.
いろんなことを考えると思うのだ。そして「いろんなことを考えさせる」ことこそが教育だとわしは思うのだ。
バカボンのパパ、すげぇ・・・
S女子大の創立記念ミサ(参加は任意)にクリスチャンでもないのに参列し、周りに合わせて「アーメン」だの「主よ、私たちの願いを聞き届けてください」だの口にしてしまう僕は、なんと私的な学者なのだろう。
クリスチャンでもないのに「アーメン」と唱和し、別に愛国心とか意識したことないけど周りのみんなが立ち上がるからなんとなく右にならえで「めんどくせえなあ」と立ち上がり、君が代の歌詞をもごもごつぶやいてみる――それでいいのだ!
どうでもいいことだが、わしは #16403 を書くのに二時間半かかったのだ。
m(_ _)m
これでいいのだ!
割とみなさん、ハッシーには批判的なんですね。英語発言にしろ、国歌斉唱にしろ、ちょっと極端すぎかなとは思いますが、現代日本人の「ほわほわ感」というかのほほんとした薄っぺらな姿に危機感をもっている識者は多いようです。
ハッシーにしても都知事(都知事と言えば、「今回の震災は日本人に対する天罰だ」発言がありましたね)にしても、上記の危機感と同じ匂いを感じています。
第二次大戦前と後の日本人の価値観の変化は、アメリカから押し付けられた憲法と戦後教育に起因するという主張があります。この主張に対して理路整然と自分の考えを書くほど頭の中は整理できていないのですが、江戸~開国~昭和(戦前)~戦後と移り変わるなかで、日本人がどう変っていったのか、いったい日本人とは何者なのだ、ということに考えを巡らせています。
その一方で、今回の震災で被災地の人に暴動が起こらなかったことに対して諸外国から賞賛の声が出ていますが、「これが日本人の血なんだな」と感動しました。
小学校の頃、道徳の授業が嫌いで「くそ食らえ」と思っていましたが、やっぱりその手の授業は何らかのかたちで必要なのではないかと感じています。
そういえば、昨日息子が一番好きな授業は道徳だと言っていました。これは喜ぶべきことなのかなと思いました。
暴動が起きないかわりに自殺者がいる。
避難を指示された飯舘村の102歳の男性、福島県須賀川市の野菜農家、妻子を喪った陸前高田市の男性。
> クリスチャンでもないのに「アーメン」と唱和し、別に愛国心とか意識したことないけど周りのみんなが立ち上がるからなんとなく右にならえで「めんどくせえなあ」と立ち上がり、君が代の歌詞をもごもごつぶやいてみる――それでいいのだ!
そーだ、それでいいのだ! といこちゃんも思う。
でもね、ここの皆さんは、いこちゃんと違って、そこそこ英語が出来るし、スペイン語に堪能だし...
いこちゃんは英語は、大人になってから初めて『外人さん』に教科書英語で簡単な何かを言ったら通じたんで、そりゃぁもう!ビックリよ!!
今でも英語が出来なくて、そのおかげで、すごく世界が狭いと感じています。
損していると思います。
上の娘は英語学科卒で、会話にも読み書きにも困らず、思い立つとサッと世界のどこにでも行ってしまう。
羨ましい。
下の娘は中高一貫のミッションスクールに出したら、公立中学とはレベルの違う(今は知らないけれど、10年ちょっと前)教育内容で、特にお勉強してなんかいっこない娘だけれど、TOEIC(←合ってるかな?)800超えていて、親はびっくりしました。
おかげで就活にもそれが活かせて、こんど外資系に転職するとか。
やっぱり英語は出来た方が良い!!!
バカボンのパパなのだ。
英語がわかれば「世界が広がる」のは事実なのだ。なにしろ公用語人口は世界一なのだ。だから中世ヨーロッパでラテン語を公用語として学んだように、英語を学び、教える意義は確かにあると思うのだ。
「就職に有利」なのも今のところ事実なのだ。だから橋下さんもTOEICの成績上位50校に五億円を配分して勉強意欲をかきたてようとしているのだ。でもそれは「英語の成績がいい人にはお金をあげるよ」と言ってるのと同じなのだ。「お金をたくさん稼ぐ人が人生の成功者である」というビジネスマンの発想なのだ。拝金主義なのだ。
目の前に札束をちらつかせて「勉強したらこれをあげるよ」と迫るのは「教える」態度に似つかわしくないのだ。「学ぶ」態度としても似つかわしくないのだ。、勉強した結果得られるものが事前にわかってしまってはダメなのだ。事前にわかっていることを学ぶのは「学び」ではないのだ。勉強したあとで、何年も過ぎてから、「あ! あのとき教わったのはこういうことだったのか!」と気づくのが「学び」なのだ。「学ぶとはどういう事態を指すのかを知る」ことが「学び」なのだ。
そこで自殺者を出してくるのはいささか乱暴な気もします。暴動が起きなかったのは日本が豊かだからでしょう。とりあえずお金はあるので買占めは起こったし。
ハッシーは好きでも嫌いでもないけど、やり手なのは確かですよね。英語が教育の真理から外れて、ただの道具だとしてもそれはそれでいいと思うの。外資の社内メールは英文だし、楽天みたい国内企業なのに英語を義務付けられたり、状況は英語を必要とする場面が増えています。・・・私だって英語がちゃんと出来たら、タイで100円の渡し船料金を100円ぼったくられる事はなかっただろうに(ハンカチを噛み締めながら)
学校はお金を貰えたら嬉しいものなの?
嬉しいなら鼻先に解りやすい目標をぶら下げられたら頑張り易いので、乱暴ながらも結果が出易い政策だと思います。
大阪はカオスな街だから自然とコミュニケーション能力が磨かれます。そこに英語力まで加わったら、将来の大阪のおばちゃんは最強でしょう。世界中どもでも生きていけるわ。
もともと専門性は大学の分野なので、さらに学びたい人は大学へ・・・じゃダメなの?
あ、ぼったくられたのは1000円ね。
バカボンのパパなのだ。
英語を学ぶのはためになるし視野が広がるから義務教育に英語の授業があるのだ。高校は義務教育ではないのだ。専門性(高等教育)は高校から始まるのだ。中学を出たらそれぞれ好きな道を進めばいいのだ。橋下さんは「英語の成績がいい学校にはお金をあげるよ」と提言して、ただし「やるかどうかは学校の判断。強制はしません」と述べてるから、これはこれでわかりやすく、筋も通っているのだ。わかりやすすぎるくらいなのだ。
わしがわからないのは、学びの動機づけに「お金」を持ち出すことなのだ。
「目に見えるかたちで見返りが事前にわかっているもの」を学びたがる人は、未来を鮮明なイメージで想定しているのだ。がんばって勉強することを「未来への投資」だと思っているのだ。「いまこれだけ投資した(=勉強した)から数十年後には○倍になって返ってくる」と信じて疑わないのだ。でも未来は不可知なのだ。不可知だから未来と呼ぶのだ。想定内の未来なんてあり得ないのだ。未来は想定内だと思っている人は、自分が知りたい情報だけを得たい人で、その人は「自分が知りたい情報が世の中に存在する」ということを既に知っているから、この時点でもう「学び」とは無縁なのだ。わしは別にそういう人たちを批判するつもりはないのだ。ご自由にどうぞ、なのだ。ただし、そういう人には「学び」や「教育」を語ってほしくないし、教育の現場に口をはさんでほしくないだけなのだ。
英語帝国主義は世界的な趨勢なのだ。英語嫌いのあのフランスでさえ英語の影響力は著しいのだ。「英語ができないと将来損するよ」というメッセージが脅迫的に地球上を覆い尽くそうとしているのだ。まさにグローバリゼーションなのだ。そしてグローバリゼーションは多様性の反対概念なのだ。みんな一斉に「これからは英語だ! 行けー!」とまっしぐらなのだ。向かってる先は崖っぷちかも知れないのだ。「みんな同じ方向に走ってるけど、ついてっていいのかな?」と疑問を持つ人がいないと、想定外の事態が起きたとき、種全体にとって危険なのだ。
一人ひとりの人間が、心の豊かさを養い、余人をもっては代えがたい存在となり、世の中のさまざまな局面で誰も思いつかないようなアイデアをひねり出して難問を解決し、困っている人を助ける、周りの人をほがらかにする、そんな人間を生み出すのが教育だと思うのだ。どうすればそんな人間を育てられるかは誰にもわからないのだ。教師にもわからないのだ。なにしろ教育は一種の「賭け」なのだ。「いま博打をやらないと将来損するから博打する」人はいないのだ。「賭け」は「投資」とはちがうのだ。
高校は義務教育と実質一緒でしょう。
中学を出て職人の道を目指す子達がたくさん出て来てくれたら嬉しいけど、京都に住んでつくづく思ったのは、職人仕事を支えているのは買ってくれる一部のお金持ちの存在。
動機づけに「お金」を持ち出すのが疑問なのは同意よ。バカボンのパパと主旨は違うと思うけど、
1、「素朴な疑問だけどTOEFLやると本当に英語が話せるの?
2、「バラ巻いたお金は全部有効に
使われるの?先生の飲み代になっては意味がない。」そこらへんが不透明。
もと竹下総理のように1億円バラ巻いて金のカツオを作って、泥棒に持って行かれた・・・みたいな事は困る。
「投資」で思いだしかけた事は、子供の教育は将来の納税者を育てる為である。と言っていた国があったような。はて、どこの国だったかしら?
英語から離れてえらく根本的な問題になってきているけど、幅が広すぎて一概に言えなーい。それこそ多種多様だから。まずお互いを認め合う事が人とのつきあいの基本だったら日本語以外も話せたらいいなあ。と一般ぴーぽーは思います。日本人以外考え方も聞いてみたいしね。
大風呂敷を広げてたいへん申し訳ないのだ。でも決して話をはぐらかすためではなく、煙に巻くためでもないのだ。そこのところはよろしく、なのだ。
橋下さんは「高校における英語教育のありかた」を論じておられるのだ。このテーマを論じるためには、まず前提として「教育とは何か」、次に「高校における教育はいかにあるべきか」を認識しておかないと話を進められないのだ。家という建築物を見たことがない宇宙人と「屋根のありかた」について議論しようとしても無理なのだ。屋根について話すには、まず「家屋とは何か」「家屋はどうあるべきか」を知った上でないと話はかみ合わないのだ。
「高校は義務教育と実質一緒」と思うのは各人の自由だけど、義務教育と高等教育は法制上まったく異なるのだ。日本でおぎゃーと生まれて日本で暮らす人は中学校まで勉強する義務があるのだ。そのあとは世の中のために働くか、勉強を続けるか、選ぶのだ(わしはバカ田大学を選んだのだ。まわりはみんなバカばかりで楽しかったのだ!)。高校への進学率が百パーセント近いから「実質一緒」に見えるとしても、本質はちがうのだ。「中卒」ということばが高い頻度で侮蔑的に用いられる傾向がある背景には、「実質的に義務教育なのになんで高校出てないの?」という考えがあるのだ。義務教育を終えた人は立派に義務を終えたのだから堂々と胸を張ればいいのだ。田中角栄さんは義務教育しか受けなかったのだ。それでも総理大臣になったのだ。
ターコさんの疑問点「1」と「2」、わしも大いに疑問なのだ! お金は怖いのだ!
「日本語以外も話せたらいいなあ」と思う人は大勢いると思うのだ。わしも同感なのだ。だから英語でも中国語でもアラビア語でもロシア語でも、学びたい言語のオプションをできるだけ多く用意すればいいのだ。オプションが多ければ多いほど「ちがう視点」を持つ人が増えて、結果的にその集団の目に映る世界は豊かに広がるのだ。
「子供の教育は将来の納税者を育てる為である」というのは、わしも大賛成なのだ。ただしそれは「できるだけ多くの高額納税者を育てるため」ではなく、「なぜ税金を納めなくてはならないのか、その理由を理解できる人を育てるため」なのだ。
――と、ターコさんの意見に刺激されていろいろ書いてきたけれど、こんなふうにわしが心のなかで思っていることを、思っているのとなるべく同じように書きことばにする、いわゆる「言文一致体」を発明したのは二葉亭四迷さんなのだ。四迷さんはロシア文学(ツルゲーネフ)を翻訳する作業でこのことばづかいを考案したのだ。百年前、ことばの最先端はロシア語やドイツ語だったのだ。四迷さんや鴎外さんは「百年後の子孫は英語に血道を上げるぞ」とは思わなかったのだ。万物は流転するのだ。
たまたま昨日の経済新聞夕刊で姫野カオルコさんが「小学生には漢文丸暗記させろ。」的な事を書いていました。それもいいよねー。
教育が納税者を育てる為ってのは、確か住みやすさランキング上位の北欧のどっかだったと思います。
福祉の為に税金がハンパないけれど、貯蓄が無くても老後や障害を負った時の生活の不安がない。そのシステムに多くの国民が納得しているらしい。
最近恐ろしい程に記憶力の低下を感じているので老後が不安だ。誰か介護してくれ!
我會投許姬野カオルコ。(=姫野カオルコさんに一票。すごくあやしい中国語)
脳みそがやわらかいうちに覚えちゃうといい。教育テレビ「にほんごであそぼ」の「ややこしや~」みたいに。
スウェーデンは食料品の消費税が12%、その他の標準消費税は25%。「びっくりしちゃうよね。でもこれこれしかじかの理由があってのことだからね」「はい、よわかりました」と納得させるのが教育ですね。
記憶力低下は「老人力(© 赤瀬川原平)がメキメキついてきた」とプラスに考えればどうってことないよ。
今朝信号待ちして歩道を見たら不思議な自転車を二台見かけてびっくり。
ママチャリなんだけど後ろに小さなリアカーみたいな二輪の台が繋がってて、リアカーの上は幌で覆われて、中を見たら黄色い帽子をかぶった幼稚園児。どうやら通園専用の自転車らしい。後部座席の上に椅子があるタイプじゃなくて、引っ張ってるのよリアカーを。タイの三輪車タクシーみたいでびっくらこいた。呼び名はあるのかな? 「幼稚園 自転車 通園」でググってみたけどヒットせず。
よくわかんないけど、なんだかエコ先進地域にお住まいなんですね、ゆうさん。
いいなあ。オシャレ。
少なくともうちの周りでは見たことないです。
本物のリヤカーはよく見ます。
道が細くて霊柩車が家の前まで来れない集落は、葬式のあと仏さんを火の見櫓の前(ここは広い)までリヤカーで運ぶ習慣が残ってるほど田舎なんで(汗)
オシャレっつーか、すごく不思議なのよ。
リヤカーみたいなんだけど車高は地面すれすれ。むしろソリみたいな。小さなタイヤが二つ付き。で乳母車みたいな幌がついてる。
自転車の前や後ろの籠に子供を乗せるのはよく見るけど、もしかしたら自転車が倒れたとき子供が地面に落ちる可能性があるから、地面すれすれのリヤカーにしたのかも。
……あ! 画像見つけた! これよこれ。
●バイクトレーラー,キッズトレーラー - リノコネクション
http://www.rino-connection.com/biketrailer1.htmバイクトレーラーの画像。わんさかあるでよ。
やっぱ知らんよこんなの。
都会じゃ、こんなん走ってんだ~
こんなんが赤い旗立ててママも子供も超ニコニコ顔で公道走ってたら・・・
ウザくて轢くかも(ごめんなさい)
公道じゃなくて歩道を走ってたんだなこれがまた。両側に一組ずつ。
使い方がいまいち
わからなかったツイッター。
だんだん活用法がわかってきた。
あたしのつぶやきはむしろブログ向き。
ツイッターは情報収集に特化した方が
現時点では使い勝手がいいようだ。
まずは好きなジャズ歌手を二人登録。
他愛のないつぶやきからライブ情報まで
フォローするだけで
気分はトロントやNY。
英語の勉強にもなるしね。
サイトトップを眺めてはいたが
なかなか本文まで読まなかった
アルジャジーラの英語版も
ツイッターだとつまみ食いしやすい。
スペインのテレビ局も
試しにフォローしてみたが
スペイン語がらみの収穫は
スィーエネエネ・メヒコ、ですな。
なんかスペイン語の勉強を、
がんばろうって気になる。
トライクなら、おばちゃんの買い物って
イメージがありますが、
そんな車両があるとは知りませんでした。
東京では見かけたことはありません。
受け狙いってことはないでしょうから
転倒防止など安全志向ってことでしょうね。
まあ、自転車の前後に
子どもを乗せてるよりは
好感をいだきます。
トライクって初耳だわ。さっそくググってみました。
三輪オートバイですね。そうか、trike > tricicle の略語ね。tri- は「三」、bicicle の bi- は「二」だものね。
ツイッター、おととしの秋に始めました。実名アカウントと別名のとふたつ。実名は滅多につぶやかないので開店休業状態ですが、別名はほぼ毎日つぶやき、他の人のは誰もフォローせず、ただひたすらつぶやき続けたらいつの間にかフォロワーが28人に。
ツイッターは便利だけどちょっと怖いところがあります。
有名人のつぶやきを毎日リアルタイムでフォローしてると、知り合いか友達になったかのような錯覚に陥ってしまう。ブログ以上に手軽に読めて書き込めるのは諸刃の剣で、実際勘違いしちゃって有名人に妙ないいがかりをつけて「炎上」してしまうケースを何度か目撃しました。
CNNメヒコもいいですし、BBCのスペイン語放送も内容が充実してます。
アドバイスありがとうございます。
あたしも講談師や落語家に
知り合いは多いのですが
距離感の維持には腐心します。
東京だと芸能人や有名作家に
不意に出くわすことがあり
思わず挨拶しそうになるのですが
よく考えてみると
こちらが一方的によく知っているだけで
向こうは私のことを全然知らない訳で。
あたかも同列にいるような
錯覚・勘違いには用心用心と
肝に銘じています。
わーお、顔が広いんですねえ。
講釈師にも噺家にも知り合いはいませんが、演芸は三度の飯より好きで、日本唯一の演芸専門誌『東京かわら版』を十五年ほど前から購読中。
今月の当サイト訪問者検索キーワード第一位は「快楽亭ブラック」。Google で調べたら拙文が13位にヒットしました。
いこちゃんの四字熟語。笑ったなあ。
実際いるんでしょうね、こういうご婦人。