詩の身体、身体の詩
小島章司フラメンコ舞踊団『黒い音』 2001年5月25・26日 東京・天王洲アイル・アートスフィア

「文学史というものが存在することは、以前から知っている。それが論理的に可能であるのかどうか、そこがよくわからない。そもそも歴史一般がなぜ可能なのか」。養老孟司は『身体の文学史』(新潮文庫)の書き出しでこう述べている。言うまでもないが歴史とは〈選別と排除〉の論理によって編まれた一篇の物語(history=story)である。こうした歴史の物語性は学問領域を超えて、さまざまな〈歴史〉を形成してきた。美術史、建築史、音楽史、そして文学史。今というこの瞬間の輪郭さえ曖昧なのに、それが過去のものになるとなぜ〈分かる〉のだろうか。いや、なぜ〈分かる〉と錯覚できるのだろうか。養老氏はこう自問する。

文学史において、ロルカは今世紀のスペインを代表する詩人であり劇作家だとみなされている。『ジプシー歌集』の詩人であり、『ベルナルダ・アルバの家』の劇作家というわけである。だが彼にそのようなレッテルを貼る文学史には〈選別と排除〉の機能が働いていることを忘れてはならない。

ロルカは1933年10月20日、ブエノス・アイレスで「ドゥエンデのからくりと理論」と題する講演を行なった。百科事典的知識の羅列と、めくるめくような隠喩が彩をなす、途方もなく詩的で難解だが、難解さの奥にはきわめて単純な真実が隠されている。まず驚くべきことに、「からくりと理論」と銘打ちながら、ここでは問題のドゥエンデのからくり理論も明らかにはされていない。我々に分かるのは、手持ちの文学的教養だけでは到底太刀打ちできないなにか野蛮な力が、行間に漲っていることだけである。その漲りようは尋常ならざる密度と強度で支えられている。

「ドゥエンデのからくりと理論」でロルカは詩作の神秘について語っており、詩神と天使に対してドゥエンデという概念を持ち出している。ドゥエンデはあらゆる芸術に宿る。しかし「もっとも広く宿るのは、当然のことですが、音楽であり、舞踊であり、朗誦される詩です、なぜならこれらは演奏したり演じたりする生きた肉体を必要とするからであり、未来永劫にわたって生と死を繰り返す形式であり、今という正確な瞬間のうえにその輪郭を浮かび上がらせるからなのです」。

ロルカは、いかに衒学的にみえようとも、決して形而上的な思索に耽る人間ではない。ロルカが見定めたいと必死になっているのは、〈今〉と〈ここ〉という瞬間の輪郭の曖昧さであり、その曖昧さから放たれる吐息の、背筋も凍る生暖かさである。

アリストテレスからホラティウス、ボアロー、ロシア・フォルマリストたち、バレリー、果てはバフチンまで、詩論をものした者は枚挙に遑がないが、彼等には何かが欠けている。それは身体の概念である。形而上学的文学観はロルカとはまったく相容れない。ロルカにとって、詩とは、なによりもまず身体を通して発せられる声である。それはバフチンのいう観念的な〈声〉ではなく、きわめて形而下的な、じかに耳を打つ肉声だ。そして、ドゥエンデが宿るのは、こうした形而下的な肉声とその沈黙なのである。

詩や戯曲に限らず、ロルカの作品には肉体のモチーフが横溢している。彼は生前画廊で個展を開いたほどのデッサンの腕前の持主だったが、彼が好んで描くのは、切断された手、切り落され地に転がる首、矢が刺さった聖セバスティアンなど、どれも生身の体である。その筆使いの特徴は、ピカソやダリのような揺るぎない確信に基づく堂々たる直線からは程遠く、むしろ分裂症患者を思わせるような細くてひょろひょろとした、たよりない、危なっかしい描線である。まるで喀血しながらペンを走らせた患者の手慰みとしか思えないような、見る者の網膜を直接抉り取るような凶凶しい曲線である。ここにはロルカの〈身体〉への拘泥と呪詛がある。

既存の文学史は完全に黙殺しているが、新世紀を迎えた今もっとも刺激的にみえるロルカ畢生の戯曲『観客』では、ホモセクシュアルの男同志が、裸体同然の恰好で、愛を囁き、罵り、抱き締め、突き放す。生来脚が不自由だったロルカの肉体コンプレックス故かどうかはここでは大きな問題ではない。重要なのは、ロルカにとっての詩とはつねに身体を媒介としていたという一点に尽きる。彼は詩ができあがると矢も楯もたまらず友人たちを呼び集めては朗読して聴かせたのが慣しだった。肉声を抜きにしてロルカの詩を語ることは許されない。

古来文学は、とくに歴史の長い詩は、身体をその世界から排除してきた。プラトンは書き言葉=エクリチュールを思弁の最高の形態としたが、『ソクラテスとの対話』から分かるように、彼のエクリチュールは実は肉声に支えられていた。デリダはプラトンのエクリチュール至上主義を批判するが、エクリチュールの裏には実は声が息づいているのである。

ロルカは文人でありながら、エクリチュールの世界の住人としてはいささか輪郭が大きすぎる存在である。たしかに多くのすぐれた詩を遺した。晩年の戯曲はいずれも傑作と呼ぶべきだろう。だがここで見落としてならないのは、彼の営為は〈書くこと〉にあったのではなく〈行なうこと〉、もっと正確にいえば〈演ずること〉にあったということだ。

〈演ずること〉とは英語の representation の訳語である。これは re-presentation、すなわち〈ここにはない何かをふたたび目の前に見せること〉の謂である。エクリチュールにもたしかにその機能がある。だがエクリチュールは生身の声を殺し、形而上学的な〈声〉に依拠する。生身の肉体は門前払いを食らわされる。マラルメが夢見た一冊の書物としての世界、ボルヘスが夢想した図書館としての世界という考えは、この地平に立ってこそ生まれた。

ロルカにとっての声は生身の肉体を通した声である。彼の詩はいわば〈身体の詩〉である。〈身体の詩〉は、そのままではまだエクリチュールに属している。これを〈詩の身体〉に変えてみせるのが、朗唱であり、舞踊である。詩の始源には肉体がある。朗唱と舞踊はそのことを体で教えてくれる。

数年前から日本では谷川俊太郎とねじめ正一が中心となって「詩のボクシング」という戦いを繰り広げている。ボクシングのルールに概ね則り、各自が即興の詩で相手を撃つ。撃たれた相手も即興詩で反撃する。目で読むのではなく、耳で聴く詩の体験を復興させようとする動きが出てきている。

ロルカは若い頃恩師のファリャとともにスペイン各地の民謡を収集して回った。国内を経巡る彼の脚力の源は何だったのか。それは〈黒い音〉を求めてやまない彼の血の騒ぎできなかったか。

〈黒い音〉はスペインの特権ではない。高橋竹山の津軽三味線に、武原はんの舞に、そして小島章司が畏敬するマリア・カラスの声に、我々は〈黒い音〉を聞かないだろうか。

ロルカは続ける。「ドゥエンデが反復されることは絶対にありえません、この点はとても興味深いので強調しておきます。ドゥエンデは反復されません、暴風雨で荒れ狂う海の形が反復されないのと同じです」。

反復されないもの、それは人生にほかならない。

〈今〉と〈ここ〉を真摯に生きる者のみに宿るのがドゥエンデである。それは決して反復されない。なぜなら人生は不可逆的なものだからだ。

「ドゥエンデのからくりと理論」が分析的言語で書かれていない理由もここで明らかになる。生と死にからくりや理論などない。身体は待ってくれない。いずれは死を迎え、灰となる。その窮極の真実をたちどころに了解させてしまうのが、ドゥエンデが宿る詩すなわち歌であり、舞踊である。それを表現することには、生きること以上の痛みが伴う。「ドゥエンデのからくりと理論」は詩人の痛みに充ちた声で溢れている。