オントロジカル・ヒステリック・シアター『バッド・ボーイ・ニーチェ!』
2000年11月17日 19:30-20:40 新宿パークタワーホール

切断・宙吊り・反復

一時間半に満たないこの芝居には、粗筋めいたものはない。したがって、物語的な要約は不可能だ。登場人物は「ニーチェ」(ギャリー・ウィルムズ)、「子供」(サラ・リリー)、「残酷な男(ケビン・ハーレー)、「美しい女」(ジュリア・フランシス)、そして四人の「攻撃的な召使いたち」。舞台は、客席との境目に透明なプラスチックの板が壁のように張られている。椅子席の前の床にじかに座るスペースがあり、その上を、左右の壁から、ちょうど客の頭をかすめるように二本のロープが走っている。舞台は粗雑なオブジェに満ちている。中央右寄りに黒いソファーセット。下手には、煙突のようなものが脇から突き出している、ドアのついた細長い箱。ソファの後ろはごてごてと塗りたくられた、人の背丈ほどの高さの壁で、その奥から、巨大な脚や、船や、魚のオブジェがときどき顔を覗かせる。小さな劇場であるにもかかわらず、客席と舞台が切断されている印象を最初から与える舞台装置である。

「ニーチェ」は、下手糞な詩人のような妙な抑揚で、だがはっきりとしたアーティキュレーションで、台詞をひとつずつ吐く。「私はダンサーだ」「私は歌手だ」。それに対して、「子供」と「残酷な男」が冷ややかに応じる。「あなたはダンスが上手ではないわね、ニーチェさん」「あなたは歌が下手だね、ニーチェさん」。ニーチェが肯定文で自分を描写すると、彼らはすかさず否定文でその描写を覆し、ニーチェの思考を分断する。ときおり思い出したかのように雷がごとく轟く、悲鳴のような甲高いヒステリックな女性の声。ニーチェの意識は絶えず寸断される。悲鳴の反復。台詞があるのは「攻撃的な召使いたち」以外の四人のみで、みな一様に、ゆっくりと、はっきりと、まるで機械仕掛けのように台詞を言う。肯定に対する否定、否定に対する肯定の、反復。

突然「子供」が馬の首のぬいぐるみをもって現れる。全員の奇妙なダンス。

「ニーチェ」が、ナイフが突き立てられたパンの塊を持ってくる。「この中には宝石(jewels)が詰まっている」。「もし本当にユダヤ人(Jews)が詰まっているなら私が食べる」と言い放つ「美しい女」。下手の箱のなかで乱交に興じる「子供」と「残酷な男」と「美しい女」。箱はパンの焼き釜であり、かつ、ユダヤ人を殺戮した収容所の暗喩となる。「子供」と「美しい女」は乳房を丸出しにして「ニーチェ」を脅かす。なすすべもなく「ニーチェ」は下半身をだらしなく露出し、横たわり、身を縮める。「美しい女」には、実生活でニーチェが崇拝したにもかかわらずその求愛を退けたザロメが投影されているようにみえる。であれば、「残酷な男」は、ザロメと同棲した彼の友人レーであるともいえよう。言葉による自己の確立が不可能になった「ニーチェ」にできることは、下半身をだらしなく露出することのみである。1889年にトリノの街頭で発狂したニーチェの姿の投影であろうか。終幕は、「残酷な男」に「あなたは嘘つきだ」と言われた「ニーチェ」が、「私はいちども嘘をついたことがない!」と胸を反らして高らかに、だが虚しく言い放つ言葉で終わる。この言葉にほかの登場人物がひとことも応じず照明が落ちることで、「ニーチェ」が狂気と正気のあわいを漂う存在であることがはっきり窺える。

存在論としてのダンス

この舞台の主題のひとつがアウシュヴィッツの問題であることは明らかだ。だがリチャード・フォアマンはその問題を、〈答え〉を要請するような〈問い〉として提示するのではなく、あくまでも宝石(jewels)ユダヤ人(Jews)という言葉遊びと、パンの焼き釜=強制収容所という装置のメタファーで仄めかすだけである。アウシュヴィッツの問題を〈ひとつの物語=歴史〉として語ることの不可能性を暗示しているのだ(これを〈ひとつの物語=歴史〉として語ってしまったのがスピルバーグの『シンドラーのリスト』である)。

登場人物たちはときおり奇妙なダンスを踊る。ダンスという身振りは、〈ひとつの物語=歴史〉という概念を受けつけない。なぜなら、踊る身体は、思考とはなにかを観る者に絶えず考えさせる営みにほかならないからだ。彼らのダンスには優美さのかけらもない。むしろおぞましく醜悪で、クラシック・バレエの身体性に対してノイズといえるような踊りである。ノイズとしてのダンスは時間の直線的な流れを宙吊りにする。直線的な時間的流れがないからこそ、この舞台はいわゆる粗筋がない。時間性の宙吊りという局面において、この作品は、オントロジカルというその名に違わず、存在論的である。