ドン・キホーテとサンチョ・パンサは、ときには仲睦まじく、ときには対立しながら遍歴の旅を続ける。その人間臭い関係をジェラルド・ブレナンは〈夫婦関係〉と呼んだ。ドン・キホーテ=夫、サンチョ・パンサ=妻である。そして最近の『ドン・キホーテ』研究は、ヤウスの読者理論の成果をとりいれて、ドン・キホーテ=書物・テクスト、サンチョ・パンサ=それを読み解く読者、という解釈をしている。
読者理論によれば、文学作品が真の意味で〈作品〉となるには〈読者〉という存在がいるからこそである。〈作品〉は作者という〈神〉の所有物ではなく、〈読者〉によってはじめて成立する、ということだ。この理論にブレナンの解釈を加えれば、サンチョ・パンサ=妻・女=読者ということになり、フェミニズム的読解が可能になる。
小説を〈真実の探求〉として読む行為はきわめて男根主義的であり、〈真実への到達〉は射精になぞらえることができる。ところが『ドン・キホーテ』という小説は〈真実=射精〉をもたらさない、過度な物語的逸脱、本筋とは無関係のエピソードがちりばめられている。とくにサンチョ・パンサは単なる世俗的農夫ではなく、主人の狂気にときには共感し、ときには諌め、主人の今際の際には、遍歴の旅という虚構の世界への郷愁さえ吐露する重層的、複合的な存在だ。
サンチョには、ドン・キホーテ的な男根主義の精神を包み込み、それを受け容れる女性性がある。すると『ドン・キホーテ』という小説は、あらたな相貌のもとに立ち現れてこないだろうか。サンチョ=女という読解は、われわれを新たな文学的冒険に誘ってくれるのである。
(2000年12月10~12日 東京・シアターX/2000年12月15~18日 大阪・HEP HALL/2001年2月24日 愛知・長久手文化の家)