拙著『超釈 日本文学の言葉』(学研教育出版)に採用されなかった原稿五篇を公開します。
小説は美術なり、実用に供ふべきものにあらねば、其実益をあげつらはむことなか/\に曲ごとなるべし。
坪内逍遥『小説神髄』(明治18年)
あらすじ●近代小説の理論と方法を説く概説書。上下巻から成る。上巻では小説が誕生した歴史とその目的、また小説のジャンル分けを解説。下巻では実際に小説をいかに書くべきかを文体論を中心に説き、創作するにあたって避けるべき項目を具体的に挙げる。
■小説は誰に対しても開かれている
小説は嫌いです、何の役にも立たないから―――こんな告白を耳にすることがある。
たしかに小説は何の役にも立たない。もともと実用のために書かれるわけではないからである。坪内逍遙の言葉を現在の言葉づかいで言い直せば、「小説は芸術である。実用に向くわけではないので、実益がないといって非難するのは的外れである」ということだ。
日本初の近代小説論である本書において逍遥が力説するのは、小説とは何よりもまず芸術だという点だ。小説はあくまでも芸術の一ジャンルである。日常生活に必須のものではない。小説の眼目は人間の心を楽しませること、すなわち娯楽である。おもしろいストーリーを通じて人生の機微や人情の尊さを描き出すのが小説だ。
小説から何かを学びとった人は、逍遙の言い方にならえば「気格が高尚」になる。つまり人間としての品格が高まる。そういう人は実人生において他人の尊敬を集めるだろう。結果として社会にとって有用な人物になるだろう。しかしこれは読書の結果としてもたらされる効果であって、作者が小説を書く目的ではない。
小説の読者は同時代の人間とは限らない。書物は半永久的に残るから、まだ生まれない未来の人間も読者になる。作家は未来の人間に作品を差し出す。読者が作品から何を学ぶかは作者にもわからない。小説はすべての読者に対して開かれているのだ。
およそ天下に、夜を一目も寝ぬはあっても、瞬をせぬ人間は決してあるまい。
泉鏡花『草迷宮』(明治41年)
あらすじ●亡き母親が歌ってくれた手鞠歌をもう一度聞きたい一心で全国を旅する書生が三浦半島の秋谷に来る。懐かしい歌声を耳にして手鞠を拾った書生は荒屋敷に逗留する。そこは魑魅魍魎に護られた美女が棲みつく家だった。一夜の宿を求めた旅の僧侶に美女が姿を現わし書生との因縁を語る。
■一瞬と永遠
仕事や勉強、あるいは看病などで徹夜することはあっても、寝ずに起きているその間に一度もまばたきをしない人はいない。一度まばたきをするくらいのほんのわずかな時間、まさしく一瞬においてさえ、水の流れは絶えず、風は吹く。森羅万象一つとしてその相貌を同じくするものはない。
時計によって刻まれる時間は機械的に計測されるから、一秒経った次は同じ長さの一秒が続く。しかし意識を持つ人間にとって時間は伸縮するものではないだろうか。
小学校時代を思い出してほしい。あの六年間は永遠に終わらないほど長く感じられたはずである。翻って三十代、四十代の六年間はとても短い。それもそのはずで、六歳児にとっての六年は自分がそれまでに生きた人生の長さに等しいから途方もない長さに感じられる。一方、還暦を迎えた老人にとっての六年は人生の十分の一に過ぎず、あっという間に思える。
うっかり足を滑らせて転倒したとき、体が一瞬宙に浮く。浮く時間はまさに一瞬だけれども、その時間が妙に長く感じられることがある。数秒間宙に浮かんだような実感がある。
ほんの刹那に、実はいろいろなことが起きる。世界を認識する私たち人間にとって、おそらく同じ長さの一秒は存在しないのだ。長さは一人ひとりにとって異なる。一瞬はかえがえがない。かけがえのないものには永遠の価値がある。
人生に三楽あり、一には読書、二には好色、三には飲酒。
永井荷風『断腸亭日乗』(大正6年~昭和34年)
あらすじ●大正6年9月16日(当時37歳)から死の前日の昭和34年4月29日(当時79歳)まで42年間にわたって書き綴った日記。断腸亭は荷風が愛した秋海棠(断腸花)にちなんだ別号。徹底的な個人主義者だった荷風が東京の変貌するさまを記した壮絶な記録。
■快楽としての学び
人生の快楽を三つ挙げよと言われたらあなたは何を挙げるだろうか。荷風は読書と好色と飲酒を挙げる。『断腸亭日乗』はこれら三大快楽についての書である。
青年時代から放蕩の限りを尽くした荷風は還暦を迎える頃まで色欲に溺れた。根っからの放蕩児だが、それでも快楽の第一に挙げるのは読書である。
発売が禁止された『歓楽』において荷風はこう述べる。「私の読書は研究ではない。勉強ではない。娯楽である。慰藉である。恋人の囁きであった」。荷風にとって読書は苦しい勉強ではなく快楽だった。学ぶということは、それ自体、楽しいことなのだ。
小説でもいい、漫画でもいい、ハウツー物などの実用書でもいい。夢中になって読める書物は頭だけではなく体全体を心地よくさせる。常日頃自分の胸の中にわだかまるもやもやとした気持ち、あるいは漠然とした思いを、うまく言葉にできず悶々とすることは誰にでもあるだろう。そんな曖昧な感情を過不足のない言葉で、まさに掌を指すように言い当てる言葉が見つかったとき、人は言いしれぬ喜びと感動を味わう。その瞬間、あなたと本の著者は時空を超えて出会うのだ。二つの魂が出会うことから発せられるメッセージは「あなたは決して一人ではない」ということである。
僕はもう処女ではない。獅子だ、傷ついた、孤独な獅子だ。
武者小路実篤『友情』(大正9年)
あらすじ●若い脚本家の野島は友人の妹杉子への恋心を親友の大宮に告白、大宮は応援する。避暑に訪れた鎌倉で野島は杉子が大宮を愛していることに気づく。大宮は野島への友情の印に日本を離れてパリに行くが、杉子との結婚を決意する。真相を知った野島は泣き崩れつつ大宮に感謝する。
■友情は金銭では買えない
信頼していた友人に裏切られる。これほどつらいことはない。心に深い傷手を負い、そのまま絶交に至る場合もあるだろう。
では、もしも友人が裏切った顛末を情理を尽くして打ち明けてくれたらどうだろう。許しを乞うためではなく、罪滅ぼしでもなく、ただ裏切った経緯をありのまま正直に語ってくれたとしたら、あなたはどう受け止めるだろう。
「聞く耳など持つものか」と突っぱねる。「傷口に塩を塗るような真似はしないでくれ」と激怒する。「聞く耳だけは持ってやろう」と言い分に耳を傾ける。「よくぞ胸のうちを明かしてくれた」と友人の真情に感謝する……。おそらく反応は十人十色だ。
人生には自分の意志ではどうにもならないことがある。人との出会いがそうだ。恋愛がそうだ。運命としか言いようがない。その結果、大切な友人を裏切ってしまうこともあるだろう。ほかならぬあなた自身が裏切り者になる可能性だってじゅうぶんにある。
裏切った経緯を相手に包み隠さず告白できるのは、友人としての最後の証だ。真情ゆえ、真心ゆえだ。その気持ちをそのまま受け取れたなら、二人はきっと強い人間になれる。傷は負っても獅子になれる。たとえその後一生言葉を交わすことがなくなったとしても、互いに相手を思いやる心は消えない。苦楽をともにした二人は、人生という書物に新たな章を書き加える。そしてその書物は決して金銭では買えない。
紀ノ川添いの嫁入りは、流れに逆ろうてはならんのやえ
有吉佐和子『紀ノ川』(昭和34年)
あらすじ●和歌山県の九度山で祖母に育てられた才色兼備の花は川下の六十谷の真谷家に嫁ぐ。大地主である夫敬策は衆議院議員になるが敗戦後の農地解放で財産を失う。長女文緒は新時代の女として花に反発する。夫に先立たれた花は外孫の華子に見守られて死の床に就く。
■伝承は因果を予示する
和歌山県を東西に流れる紀ノ川沿岸では川の流れに従って川上から川下に嫁入りするのが古くからのしきたりだと花の祖母豊乃は孫に言い聞かせ、花はその教えどおりに川下に嫁ぐ。時を経て母となった花は、大和に嫁いだばかりの次女和美が肺炎で急死した知らせを受け、祖母の言い伝えを思い出して後悔する。奈良は紀ノ川の上流にあたる。花は川の流れに逆らって娘を嫁入りさせてしまった。
科学的な根拠がないからという理由で言い伝えを迷信として斥け一顧だにしない人は多い。しかし伝説や口碑は太古から連綿と受け継がれる知恵の結晶だ。科学は人間の頭脳が発明した知的な道具に過ぎない。そもそも私たちは「科学的」な根拠によって結婚するわけではない。
川上に嫁がせたことと娘の病死には恐らく因果関係がない。しかし人は特定の出来事にはしかるべき原因があるはずだと信じて疑わないから原因を探し求める。探しあぐねた結果、何の因果関係もないはずの言い伝えが真実を告げていたのだと思い当たる。逆説的だが、因果関係がないからこそ伝承は窮極の原因になりえるのだ。