小島章司フラメンコ舞踊団『1929』
2000年11月24・25日 東京・芝 メルパルクホール

日本への架け橋―――1929年

美学者の中井正一は、1929年(昭和4年)に東京にやってきたツェッペリン飛行船をみて、「新しい機械の詩」の時代がきたと『美学入門』で述べている。といっても、軍事技術の粋を集めて作られた飛行船の機能を手放しで賛美しているのではなく、彼が瞠目するのはドイツから東京へ向かう途次、シベリア上空で七時間消息を絶ったときの出来事だ。船体に氷が張り始め、その重さのために飛行船は徐々に高度を下げてゆく。ところがそこに陽光が差し込み、氷が一片、また一片とはがれ落ち、飛行船はふたたび高度を上げる。その様子を、当時のマスメディアの代表であるラジオと新聞で知った中井は「まことにそれは美しい」と感嘆せずにいられない。飛行船はたしかに軍事目的のために開発された。だが中井は、少しずつはがれ落ちてゆく氷片の運動そのものに、古い美学ではとらえきれない新たな美学を見出した。

オルテガの『大衆の反逆』が30年に上梓されたことに象徴されるように、20年代は大衆化の時代であり、機械化が日常生活の至る所に見出せる時代である。実際、今日の我々の生活の基盤のほとんどが実現されている。29年の川端康成の『浅草紅団』は、2年前に上野~浅草間に開通した地下鉄(券売機も改札機もある)の存在を抜きにしては成立しない。大阪と福岡に現代の空港の原型となる飛行場ができ、東京と大阪、福岡に旅客定期便が飛び、町角には航空便用のポストがあった。同潤会アパートなどの欧米風アパートや、ショーウィンドーとイルミネーションにエレベーターを備えたデパート、映画館が都市を彩っていた。昭和天皇が即位した日、京都に即位に向かう天皇が朝東京を発つと、その日の昼には浅草の映画館にニュース映画がかかっていたことから、きわめて今日的な映像と速度と効率至上主義がすでに達成されていたことが分かるだろう。27年の岩波文庫刊行、29年の中央公論社単行本出版開始(『西部戦線異状なし』がベストセラー)と個人全集が普及したことはまさに大衆化の象徴である。街にはモガ・モボが溢れる。29年はモダニズムの真っ只中にあった。一例を挙げると、関東大震災後の東京の下町の小学校は、アール・デコ調の鉄筋コンクリート造りで、暖房完備、トイレは水洗という規定があったのだ。

日本は日清・日露の戦勝国でありすでに〈一等国〉の仲間入りを果たし、渋沢栄一らが大株主となってその名に恥じない帝国劇場を11年に建設し、海外から幾つもの公演を招聘していた。ロシア帝室舞踊家スミルノワ、ノマノフ夫妻(1916)、アンナ・パブロヴァ(1922)、関東大震災による劇場炎上と翌年の復興開場を経て、アメリカのデニショウ舞踊団(1925)。とりわけ人気が高かったのは舞踊で、もっとも評判をとったのはアンナ・パブロヴァだ。「僕は唯パヴロワの腕や足に白鳥の頸や翼を感じた。〔・・・〕たといデカダンスの匂はあっても、それは目をつぶれぬ事はない。僕は兎に角美しいものを見た」と芥川龍之介は感激を隠さない。そして29年に今世紀最大のスペイン舞踊家と評されるアルヘンティーナが帝劇に来る。この舞台で舞踊に目覚めたのが大野一雄だ。日本におけるギター人気のきっかけとなるアンドレス・セゴビアの来日公演があったのもこの年である。日本におけるスペイン舞踊人気にとって決定的な年であったことは疑いの余地がない。

舞踊人気と分かちがたく結びついているのはモダニズムである。大正デモクラシーの一つの核は普通選挙だが、これにより女性の社会的地位は必然的に上がる。演劇では、溯ること三百年前の1629年に女歌舞伎が禁止され、公認の劇場から女優が追放されていたが、1890年8月に警視庁がようやく「男女混合演劇は不問に付す」と公布し、初の女優、マダム貞奴が1891年11月にデビューする。ピカソは彼女に想を得てパステル画「舞踊家・貞奴」を描き、彼女はジイドやルナールの演劇論をも触発する。以後、松井須磨子などの女優が活躍し、女優の地位が確立してゆくなかでやって来たのが前述のパブロヴァでありアルヘンテイーナである。

また、大衆化は、榎本健一らが結成した〈カジノフォリー〉や、政治的無関心の現れであるエログロ・ナンセンスの猖獗に如実に反映されている。娯楽の王様は〈活動写真〉すなわち映画だ。明治に百軒以上あった東京の寄席は関東大震災後はことごとく〈活動写真館〉にかわった。〈活動写真館〉では、欧米や日本の〈活動写真〉の上映に〈活弁〉が説明を加えるのみならず、モダンなレビューも行われていた。ダンスホール花盛りの時代である。音楽はもちろんジャズ。大正末期から、アメリカやフィリピン、上海――当時の上海はジャズやバレエ、映画が盛んな国際都市である――を経由してジャズは続々と輸入されていた。28年には二村定一の『アラビヤの唄』と『あを空』(「マイ・ブルー・ヘブン」)のレコードが大ヒットとなり、日本人によるジャズ・ソングの制作が盛んになった。映画とレコードのタイアップ一号の記念すべき『東京行進曲』が24万枚売れて大流行したのも29年である。

一方、世界恐慌の余波を受けて失業者が急増し、小津が『大学は出たけれど』を撮ったのもこの年だ。美学者のクローチェを例外としてイタリアでは反ファシズム運動が徹底的に弾圧されるが、日本でも右傾化に対する労働者運動が盛んになり、日本プロレタリア演劇同盟、日本プロレタリア作家同盟が結成され、4月には日本共産党大検挙がある。ハリウッドでは第一回のアカデミー賞授賞式が行われるが、そもそも2年前にMGM副社長のルイス・B・メイヤーがアカデミーを発足させた最初の目的は、撮影所の労働者たちが組合を作ろうとしていた運動を牽制することだった。演劇界もこうした動きと無縁であるはずがない。松竹は歌舞伎役者をすべて専属にする。26年には千田是也が劇団前衛座を旗揚げし、27年には小山内薫がソビエト革命十周年記念祭に国賓としてモスクワに赴き、28年には二世市川佐団次らがソ連に赴き歌舞伎界初の海外公演を行い、モスクワ芸術座で『忠臣蔵』『鳴神』などを上演する。エイゼンシュテインは彼らのモスクワとレニングラードでの公演を観て、映画の不連続性の表現法、すなわちモンタージュ理論の正しさを確信したという。そのエイゼンシュテインはといえば、農業の集団化を正しく描いていないとスターリンに批判されて『全線』を『古きものと新しきもの』と改題することを余儀なくされ、ソ連を離れてローザンヌの国際アバンギャルド映画会議に向かい、メキシコに渡る。築地小劇場は、小山内薫の死去とともに分裂し、土方与志と山本安英らによって新築地劇団として生まれ変わる。

文壇では小林秀雄と宮本顕治がそれぞれ『改造』誌の懸賞評論でデビューし、西欧的知性と日本的感性の融合を模索しはじめる。36年に日本ペンクラブ初代会長としてアルゼンチンの国際大会に出席することになる島崎藤村は、幕末維新期をとおして時勢を描いた『夜明け前』を発表する。岡本太郎はパリに渡りピカソの影響を受け、エコール・ド・パリで脚光を浴びていた藤田嗣治は帰国する。スペイン内戦(1936‐39)に義勇兵として共和国側で戦った唯一の日本人であるジャック白井がアメリカに渡るのもこの年の秋だ。

恐慌から満州事変へと国情が右傾化してゆくのが29年だが、エログロ・ナンセンスに踊ることもできず、労働者運動に参加できない者も当然いる。彼らは新天地をめざす。たとえばグレタ・カルボと並んで20年代末には既にセックス・シンボルであったマレーネ・ディートリヒはユダヤ人のスタンバーグ監督に見出されてハリウッドに渡る(30年)。28年に『アンダルシアの犬』を撮ったダリとブニュエルと完全に訣別したロルカは失意のうちにアメリカとキューバを歴訪し、世界恐慌を目の当たりにして『ニューヨークの詩人』を書き、キューバで後のイヨネスコらの不条理劇の先駆的作品でもある『観客』を脱稿する。バタイユはブルトンらのシュルレアリストたちと袂を分かち、独自の思想運動を始める。そのバタイユが設立した「社会学研究所」に参加したのが岡本太郎であり、彼はこの年にパリに渡ってピカソの影響を受けることになる。すべて29年の出来事である。ソ連から西欧へ、あるいは西欧からアメリカへ、また日本から西欧やソ連へといった、思想家や芸術家の絶えざる移動があったのがこの時代なのだ。そして1929年は〈ファシズム〉という言葉が全体主義を揶揄する言葉として初めて用いられた年でもある。このことも忘れてはならないだろう。

右傾化する国情とそれへの抵抗。政治的無関心と大衆文化の氾濫。洋行するしないに関わらず知性を研ぎ澄ませる知識人の苦悩。新たなメディアがもたらす新たな美意識。いずれも今日の日本と寸分違わないではないか。だがそれが1929年なのである。