ダムタイプ『S/N』
1996年2月1日 19時30分 東京芸術劇場小ホール1

壁も床も暗色、椅子も黒。舞台、といっても客席と同じ平面上のスペースだが、左右は天井から目隠しの黒幕が垂れ、床も黒(だったと思う)、奥の壁は白。舞台前面とその壁のちょうど中間に、奥の壁と平行して、高さ4メートルほどの、継ぎ目のないフラットな純白のパネル。これがスライドやビデオのスクリーンとなる。その上でもパフォーマーたちが演じる。

客電が落ちるまえに、舞台の方で発情した猫のような男の甲高い声。場内ざわめく。前身黒づくめの男が舞台にうずくまった姿勢で、ハウン、ハウン、とか意味不明の音を掛け声にして、四つ足で不思議なダンスをする。2、3分して上手からグレーのスーツをきた黒人がマイク片手に現われ、男の肩をトントンと叩く。「ヘイ、アレックス! なにしてんの」(男は聾なのだ)。ここからの二人はさながら漫才のような<掛け合い>をする。京都弁のまじる流暢な日本語をあやつる黒人が、聾の男の言い分を通訳する。曰く、タンゴを踊りたい、でもひとりじゃ難しい。男と女のダンス。それをゲイがひとりで踊る。両手にハイヒールを持って。二人とも躰にステッカーを貼っている。黒人は胸と腹に「MALE」「AMERICAN」、背中に「HOMOSEXUAL」、聾の男は胸に「MALE」「JAPANESE」。黒人は聾の男の背中に、<悌ちゃん>が使っていた「HOMOSEXUAL」のステッカーを貼ってやる。耳をつんざく強いビート。フラッシュ。白いパネルにふわっと浮かんでは消えてゆくフレーズ。「conspiracy ofsilence」「conspiracy of science」「conspiracy of scientia」。「[情けない]老人の[つぶやき]」「[ヒステリックな]女性の[愚痴]」「[ナイーブな]少年の[夢]」「[けたたましい]狂人の[叫び]」。パネルの上に一瞬だけ浮かぶパフォーマーの躰。ダンスして、立ち止る。右腕をあげたままの姿勢で、パネルの裏にまっすぐ倒れてゆく。箴言めいたフレーズが客席右手の壁からパネルを通って左手へ走り去る。「I 」「DREAM」「MY」「WILL」「DISAPPEAR」の文字が遠近法で次々に目に飛び込んでくる。

幾つかのシークエンスから成っているらしく、次は「LOVE SONG」。黒人がマイクで進行役を努め、愛とセックスの話をする。パネルの左側に演出家で去る10月にエイズで物故した古橋悌二がけばけばしい化粧をしながら話す。黒人の質問に答えるタイミングがぴったり。右半分には結婚に幻滅して風俗嬢になったという女性の映像(どうやらこれは別室にいる彼女のリアルタイムの映像らしい)。黒人は画面のなかの彼女に風俗店にくる男たちの生態を尋ね、女は一つひとつに答える。最後に、画面の女が古橋に質問をする。古橋は、かなり完成に近づいてきた化粧の手を休めることなく、どこかぶっきらぼうな口調でちゃんと答える。この場面が実にいい。古橋の、どこかオドオドしたところのある、アンニュイな喋り方、8年前(と言っても初演の92年からみてだろう)に恋人にエイズを移された経緯、ゲイのセックスの実際、などを淡々と語るが、どこかユーモラスなのがいい。道化を演じていると言って差しつかえなかろう。結局誰かを必要としているということなんだ、という結論に導かれて、進行役の黒人が、呟く。「そんな歌が、あったよねえ」。と、場内暗くなり、ミラーボールが回りだし、"People"(シャーリー・バッシーだと後で確認。『シアター・アーツ』創刊号の台本で。今回も概ねこのアデレード演劇祭の公演台本どおりだ)が流れてき、化粧の済んだ古橋が、金髪の鬘をかぶり、ハデに塗りたくった口紅とバサバサいいそうな睫という姿でふたたび画面に現われ、口パクでシャーリー・バッシーを演じる。これが圧巻。客いじりっぽい仕草まで折り込んで、なかなか芸達者なのだ。歌が終わると、パネルの上で踊っていた女性がうずくまり、ワンピースの裾に顔を埋めて声にならない叫びを断続的に漏らす。パネルには「泣かないで」「私を検閲して!」「私を亡命させて!」の文字。シミーズ姿の風俗嬢らしき太めの女が、パネルの上を走る。若い女の、独りコント風の「パスポート・コントロール」。アメリカやフランス、香港に行ったけど何も起こらなかった、フラだからこのページはいらない、とビザ証の貼ってあるパスポートのページを次々と破り捨てていく。また別のシークエンス。疾駆する列車の車窓をながれる風景が移るスウリーンに「US」と「THEM」、「THIS SIDE」と「THE OTHER」、「SELF」と「NOT-SELF」など幾つもの二項対立をあらわす単語が左右から別々に流れてきては、交差して去る。さらにフーコーの箴言。例えばこんな文章だ。

われわれは懸命にゲイになろうとすべきであって
自分は同性愛の人間であると
執拗に見極めようとすることはないのです
同性愛という問題の数々の展開が向かうのは
友情という問題なのです

シークエンスが変わる。スタンドマイクに向かって立つ聾の男。パネルに浮かぶスライドを見ないとよく聞き取れない言葉を呟く。

あなたが何を言っているのかわからない
でも
あなたが何を言いたいのかはわかる
私はあなたの愛に依存しない
あなたとの愛を発明するのだ
これは、世の中のコードに合わせるためのディシプリン
私の目に映るシグナルの暴力

「愛」を「性」「死」「生」に置き換えて上のフレーズは繰り返される。

今まであなたが発する音声によって課せられた私のノイズ
今、やっと解放します

と言い終えて、マイクに近付けた補聴器からはビー、ビーというノイズ音。パネルの上では、純白のシャツ一枚の男女が、互いに相手の手首をナイフで切り、切り口を重ね合わせる。場内を充たす「アマポーラ」(台本によると Nana Mouscouli)。パネルの上に、大股開きで椅子に腰掛けた風俗嬢がベルトコンベアに乗って現われる。彼女の秘部からは万国旗が次々と出てくる。溶暗。しみじみとした終わり方だ。

思うに、この舞台は傑作である。性と愛の関係の曖昧さ(恣意性)、HIVポジティヴであるが故に蒙る蔑視、あらゆる二項対立が辺りに蔓延させる差別を糾すのがテーマなわけだが、何よりもアートとして見事である。フラッシュを多用した照明、鮮度満点のノイズ、あの純白のパネル、そのパネルに映されるフレーズの現われ方、古橋の、ときには荒く、ときにはシャープになる映像。出演者の多くが自分の命がいつの日か古橋のように枯渇するであろうことを充分承知しているわけだが、悲愴感とか、披差別者の悪しき全体主義など微塵もないのが凄い。冒頭の漫才からはじまって、前編にユーモアが漂っている(台本には、「プロローグ:この世界と踊るための会話=ゲイで PWA(People with AIDS)の男との掛け合い漫才」とある)。