失われた調和を世界に取り戻すために――小島章司小論
小島章司『鳥の歌 A Pau Casals』 2005年12月3日・4日プログラムより

小島章司が踊るのを客席でじっと見つめていると、まるで世界には小島章司と、その姿を見つめるひとつの視線しか存在しないかのような感じに襲われ、怖ろしさに身震いする瞬間があります。宇宙にたったひとり小島章司がいる、それを見つめるたったひとつの視線がある、そんな感じです。見つめているのは私ですから視線はもちろん私のものなのですが、いつしか「私」という意識がはぎとられ、匿名の視線、匿名の存在になっているのです。これほど怖ろしく、また感動的な瞬間はありません。フラメンコを見ているはずなのに、フラメンコの五文字は念頭から消えています。ただ踊る身体、ただ踊る魂がそこに在るだけです。この怖ろしさはいったい何に由来するのか、ずっと考えてきました。そして最近気づいたのは、小島章司の踊りが「超越的なもの」に触れているからではないか、ということです。では「超越的なもの」とは何でしょうか。宗教的な「神」でしょうか、それとも何か別のものでしょうか。

このような問いはあまりにも抽象的でとらえどころがないようにみえます。しかし近年の小島の舞台、とりわけ『祈り』『一瞬と永遠』『ADENTRO』などでは、はっきりと世界や宇宙を意識した踊りがみられます。と同時に、小島の踊りはフラメンコという具体的なジャンルの踊りであり、オマージュを捧げるのもフェデリコ・ガルシーア・ロルカや今回のパウ・カザルスのように二十世紀スペインを生きた芸術家たちです。小島にとって、フラメンコを極めるということは、ひとりの人間が道具に頼らず身体ひとつで表現可能なことをすべて表現することと同じであるように私には思えます。「超越的なるもの」を媒介として小島の魂と身体が表現するものとはいったい何でしょうか。

宇宙の未完成交響曲

10次元の世界というものを想像することができるでしょうか。

宇宙の成り立ちを説明する現代物理学の理論に超ひも理論、または超弦理論という理論があります。量子論と特殊相対性理論、超対称性理論にひもを組み合わせたもので、今から二十年ほど前、10次元の超ひも理論が数学的に矛盾しない量子重力理論であると証明されました。私たちが生きているのは3次元空間で、物理現象を観測できるのも3次元空間に限られていますから、10次元の世界を実際に観測することはできません。概説書にはそれをわかりやすく解説するためにさまざまなイラストや図が掲載されいますが、どれも3次元に住む私たちが2次元である紙の上に描かれた模様として理解できるように、便宜上、次元を小さく還元しています。ひもも同様で、実際にひもが存在いるわけではありません。ひもに喩えると説明がつきやすいのでひもと呼んでいるだけです。つまり、ひもは隠喩(メタファー)です。うまく説明できないものは比喩を使うしかありません。聖書が比喩の宝庫であることがここで思い出されます。イエスは喩え話を用いて人びととコミュニケーションしました。比喩にはコミュニケーションの本質が隠されているようです。

現代物理学のもっとも先端的な地平を切り開いている学者のひとりにオックスフォード大学のロジャー・ペンローズがいます。ベストセラーになった『ホーキング、宇宙を語る』の著者で〈車椅子の天才物理学者〉として知られるスティーヴン・ホーキングと共同研究を行い、宇宙におけるブラックホールの特異点定理を証明し、現在は『皇帝の新しい心』や『心の影』シリーズ(ともにみすず書房)で人間の意識の正体を量子力学を応用して解明しようとしています。季刊誌『考える人』(新潮社)の2005年夏号、創刊三周年特集で茂木健一郎の長いインタビューに応じているのを読んだ方がいらっしゃるかも知れません。著書のひとつ、『心は量子で語れるか』(講談社ブルーバックス)の第一章は「宇宙の未完成交響曲」というタイトルです。ただしオリジナルの英語版のタイトルは Space-time and Cosmology (時空と宇宙論)なので、宇宙の未完成交響曲というフレーズは翻訳者である中村和幸の意訳、ということになります。

ペンローズが目指しているのは、量子論という、人間が感覚的には決してとらえることができない理論を用いて、量子重力理論を完成させ、宇宙・量子・意識の三つを統一的に記述することです。それがどのようなものか、ここで触れるつもりは毛頭ありません。ひとつだけ押さえておきたいのは、彼がプラトン主義者であることです。プラトン主義者とは、「物理的な世界は唯一で、それをまるごと記述できる観念の世界もまたひとつである、つまり、たったひとつの窮極の原理があれば世界は説明できる」と信じている人のことです。私たちがふつうにイメージする科学者のほとんどはプラトン主義者です。それさえわかれば謎がすべて解ける、その鍵を探している人です。しかし物事はそんなに単純ではないだろうと考える人も当然のことながらいます。かつての共同研究者、スティーヴン・ホーキングもそのひとりで、ホーキングは自らを「実証主義者」と呼び、理論が実在に対応しているかどうかを問うこと自体が無意味だという立場をとり、ペンローズのことを「プラトン主義者」と呼び批判しています。

最先端の物理学はいまや宇宙のしくみから人間の意識のはたらきまでを数学で記述しようとしています。その営みはまさに宇宙の未完成交響曲と呼ぶにふさわしいものです。「交響曲」はドイツ語の Orchester を森鴎外が翻訳したことばですが、オーケストラとはもともと古代ギリシアの劇場舞台手前の半円形の部分、コロスが歌い踊った場所を指していました。宇宙という名の交響曲は、その本質において、踊る場所です。

圧倒的な非対称

もう少し舞踊に近い分野に目を向けてみましょう。宗教学者の中沢新一が画期的な論考を五巻本の〈カイエ・ソバージュ〉シリーズとして完成させました。ネアンデルタール人から私たちの直接の祖先にあたるホモサピエンス・サピエンス(現生人類)、そして現在の私たちまで、およそ人間が頭で考えてきたことをすべてたどり直し未来を描くという、ペンローズより遥かに広い視野に立った学説です。中沢新一によれば、量子力学や分子生物学といった最新の理論でさえ、三万年前のまだ新石器を用いていた頃のホモサピエンス・サピエンスの脳に起こった革命的な変化が可能にした思考にすぎません。今から三万数千年前、氷河期の時代に人類は生き残りをかけて脳の仕組みを変化させました。このときの変化のおかげで人類は一神教を生み、次に科学を生み、現在に至っているのであって、根本においては三万年前の現生人類の脳と今の私たちの脳は同じであると中沢は説きます。と同時に、三万年に及ぶ思考の歴史がそろそろ限界に近づいており、一神教の発明と科学革命に次ぐ「第三の形而上学革命」の到来が予感される、その見取り図を描こうとしたのが〈カイエ・ソバージュ〉シリーズです。

第三の形而上学革命のキーワードは対称性です。中沢は対称性人類学と名づけています。一神教が生まれる前、多神教的な思想の時代には、人間集団の首長は決して権力を握りませんでした。権力、すなわち世界をコントロールしている根源的な力は人間世界の外にあると考えられ、首長はむしろ内と外の媒介者に過ぎませんでした。世界の外には人間がコントロールできない巨大な力がある、それが世界を突き動かしているという意識が対称性です。中沢はプラトン主義者ではありません。単一の原理で世界を説明するのではなく、来たるべき新しい社会を「予測」するのです。この点において彼はペンローズではなくホーキングに近い立場にいます。

ニューヨークの超高層ビルが崩壊したあの日以来、世界の非対称性ということがよく話題になりました。報復のためにアメリカが空爆を行ったアフガニスタンを実際に訪れた作家の辺見庸は坂本龍一との対談『反定義 新たな想像力へ』(朝日文庫)でアフガニスタンについて語られることの少なさに憤っています。夕方の五時を過ぎると真っ暗になる。その闇もじつに濃い。たくさんの犬が遠吠えし、夜中まで続いて臓腑にこたえたといいます。人工衛星で見ると真っ暗に写るというのが実際に行ってなるほどと納得したというのですから、日本にいるとなかなか想像がつきません。しかしこの想像力の欠如こそ、非対称性そのものではないでしょうか。

宗教学者と作家の口から対称性という同じ言葉が出てきたのは偶然ではないでしょう。私たちの世界は圧倒的な非対称性に充ちています。高度資本主義が世界を覆い尽くしつつあるように見えますが、世界にはまだ電気すらまともに通っていない地域が少なからずあることを私たちは忘れがちです。

メビウスの環

小島章司は、あるときは獣のように猛々しく、またあるときは乙女のように優雅です。タコネオの一つひとつ、ブラセオの一つひとつに、男性性と女性性がくるくると入れ替わります。男性性と女性性がせめぎあっている、これが小島の踊りの底知れぬ広さと深さの秘密を解く鍵のひとつであるのは間違いないでしょう。さらにギターやカンテの伴奏をともなわず長時間踊り続けるのをみるとき、私はそこにオーケストラを感じずにはいられません。小島の身体は楽器となって音楽を奏でます。指揮をするのは小島の精神です。劇場中に拡散している魂を一身に集めるような短いポーズのあと、たったひとりのオーケストラが始まります。観る者が居住まいを正さずにはいられない瞬間です。もともと声楽の勉強からスタートし、歌劇『フィガロの結婚』全曲を歌った際に身体表現の重要性を痛感し、バレエを学び、フラメンコにたどりついたという小島の経緯を知ると、オーケストラ―――「踊る場所」―――の比喩はあながち的外れとは言えないでしょう。オペラはギリシア悲劇を復活させるために発明されたものです。そう考えると、舞踊家小島の血には、オペラを通してギリシア悲劇まで遡る音楽の歴史のすべてが小さな粒子となって脈々と流れていることになります。

そこに日本の歌舞音曲の歴史が絡み合っているのは言うまでもありません。オペラやバレエの身体は西欧近代が開発したもので、日本には明治時代に、主に学校教育における体操として移入されました。軍隊で必要な規律の整った体をこしらえるのが目的でした。近代以前の日本人は、右足を出すと右上半身が、左足を出すと左上半身が前に出る、いわゆるナンバ歩きでした。今でこそ滅多にみられなくなりましたが、運動会の行進などで思わずナンバ歩きになる子供は昭和五十年近くに至るまで日本中に大勢いました。小島の踊りは「フラメンコに日本的精神をもたらした」という点で国内外で高い評価を受けていますが、舞踊における精神性とは身体表現そのものにほかなりません。精神がタクトを振り身体が音楽を奏でるというのは比喩であり、実際は両者は渾然一体、主従関係は流動的です。現代日本人は誰でも西洋近代と近代以前の身体をあわせもっているのですが、ふだんは意識していません。小島はそこに並外れた意識を研ぎ澄ませています。

踊る身体こそが精神であり、身体について語ろうとすると精神を語らざるを得ません。精神をみるには身体を介さずには不可能です。メビウスの環のように、どちらが表でどちらが裏であるかを指摘することはできません。このメビウスの環こそ、舞踊家小島章司を突き動かしているものの正体ではないでしょうか。表であるものが同時に裏であり、裏であるものがいつのまにか表になるのが命あるものに共通する宿命、数学でいう公理なのかも知れません。もしそうであるなら、「超越的なもの」に触れている小島は踊りを踊り続けるはずです。「超越的なるもの」はひとつの定まったかたちを持ってはいません。人間の思考では記述できないからこそ、それは「超越的なもの」なのであり、それなしには誰も一瞬たりとも生きてはいけません。

宇宙物理学や宗教人類学の話を持ち出したのは、勝手な思いつきではありません。ロジャー・ペンローズには「ペンローズの三角形」という有名なモデルがあるのですが、これはメビウスの環と同じ原理です。そして中沢新一が古代の対称性の思考モデルを説明するときに用いるのもメビウスの環なのです。

多面体としてのアポロ

カザルスは、現在はカザルス博物館として公開されているカタルーニャ・サンサルバドールの家の庭園に、友人の彫刻家ジョゼプ・クララに依頼してアポロ像を建てました。なぜアポロなのか、カザルスは神話の本を見せながらこう説明したそうです。「どうです。アポロには時代遅れになったものはないでしょう。アポロは依然として多くのものを一身に備えています。竪琴を弾いて神々を魅了した音楽の神のみでありません。詩歌の神でもあります。また医療の神です。音楽と医術が共に病を癒す力があるという点で、古代人は両者が類似していると考えたのです。アポロがスポーツの守護神であるため、多分アポロのことを運動家であると考えるでしょう。でもアポロはそれだけではない。彼は人間の肉体を神格化したのです。彼はまた射手で、その矢は戦いのためでなく、悪魔を退治するために使うのです。アポロは天体にも、この世にも調和《ハーモニー》をもたらしたのです。それからアポロが、世の中で最も素朴な人々、船乗り、旅人、移民に示した思い遣りを考えて下さい。旅人の守護神として、アポロは彼らを見守り、順風と安全な港と新しい家庭を彼らに与えるのです……」(カザルス『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』新潮社、168ページ)

カザルスは父にならって教会でオルガンを弾いた、れっきとしたカトリックでした。「鳥の歌」はカタルーニャのクリスマス・キャロルで、イエスの降誕をさまざまな鳥が祝福するという内容です。一神教のキリスト教にとってギリシア神話は多神教、邪教です。にもかかわらずルネサンス以来、多くの芸術家がアポロを崇めました。アポロをイエスに重ね合わせる絵画や文学も少なくありません。しかしカザルスがイメージするアポロ像はイエスではありません。純粋さをイメージさせがちな太陽神アポロではなく、複数の顔をもつ存在としてカザルスはアポロをとらえています。相容れないようにみえるものを統一する存在としてのアポロです。

一神教であるキリスト教にも複数の顔が潜んでいることを、私たちは忘れるべきではないでしょう。父と子と精霊による三位一体という概念にそのことは如実に現れています。多神教が一神教化する過程で排除せざるを得なかったものを、キリスト教は精霊と名づけ、自らの内部に取り込みました。カザルスが演奏する「鳥の歌」に世界中の人々が耳を傾けるのも、原理主義的ではない、おおらかで朗らかな多面体としての宗教性を感じるからでしょう。

カタルーニャ―――もうひとつの9・11

小島章司はカザルスにオマージュを捧げながら、カザルスを生んだカタルーニャの大地へと私たちの視線を誘います。十年以上小島の音楽監督を務めているチクエロ、そして特別ゲストであるカンテのミゲル・ポベーダはバルセローナ生まれです。フラメンコがアンダルシーア以外の土地の人の心をも捉えて離さないのはなにも最近始まったことではありません。カザルスはスペインで活躍していた一九三〇年に、ある友人から、今もっともすぐれたカンタオールはカタルーニャにいると聞かされていました。小島章司がフラメンコの道に進んだ大きなきっかけのひとつは、カタルーニャ生まれのカルメン・アマージャが主演した映画『バルセロナ物語』だったといいます。日本とスペインという物理的・精神的な隔たりを結びつけた小島にとって、アンダルシーアとカタルーニャの距離はさほどのものではないはずです。

地域性を考えるとき私がいつも思い出すのは津軽三味線の高橋竹山です。「わたしの三味線のことを、津軽の泥くさい匂いがこのごろなくなったなんて、いろいろ言っている人がいるけど、わたしはそれはとんでもねえ話だと思うんだ。だれにもわかるようにしゃべれば、そういう人たちが津軽というものをどう思ってるかというと、津軽なんてものはまるで人間の数に入ってないようないいぶりだ。泥の中をはいずりまわってる、土くさい津軽のヤツ、ってわけだな。そったらバカな話はねえよ」(佐藤貞樹『高橋竹山に聞く――津軽から世界へ』集英社新書、2000年、134ページ)。竹山は土俗性という通俗的なイメージを一蹴します。彼の右腕として働いた佐藤貞樹はさらにこう解説しています。「津軽三味線について、その土着性とか土俗性とかに原点を見出し、意義づけようとする人びとの論に私は賛成できない。津軽三味線がただ津軽という狭い地域性のなかにだけ生きているとすれば、それはもはや死んだも同然だろう。これまで、いかに多くの才能が『津軽』『津軽的なるもの』の狭さからの脱出を試みて悪戦苦闘し、破れ、窮乏のなかで野垂れ死にしたことか。乞食同然と見られた門付け芸にはじまった高橋竹山の三味線は、そうした歴史のなかで、ようやく実を結んだ一つの到達点なのである。」(同書、163ページ)

ここ数年、9・11という数字が人口に膾炙していますが、カタルーニャの人にとって9・11はニューヨークのテロがあった日ではなく、1714年9月11日、ハプスプルグ家の側についたバルセローナがブルボン家に敗北し陥落した日を指します。「九月十一日」を冠した通りや広場がカタルーニャにはあちこちにあります。さらにスペイン語圏全体を眺めると、1973年9月11日のチリのクーデターを忘れるわけには行きません。チリ生まれの亡命劇作家アリエル・ドルフマンは季刊誌『前夜』創刊号に寄せたエッセイ「マドリードのテロルに立ち向かうネルーダ」で、この「もうひとつの9・11」について語っています。

失われた調和を世界に取り戻すために

カタルーニャに伝わる民謡「鳥の歌」にはツグミやワシやスズメなどさまざまな鳥が登場します。スズメはスペインにももちろんいますが、よくみると日本のスズメとは模様が異なり、頬に黒い斑点がありません。ヨーロッパの市街地でみられるのはイエスズメという、日本とは別の種類で、日本人がが馴染んでいるスズメは山地に棲んでいます。もっとも身近な動物であるスズメにさえこうした違いがあります。そればかりではなく、スズメの寿命が何年なのか、誰にもわかりません。七、八年という説もありますし、生存率を考慮すれば一年くらいだろうと説く人もいます。神秘というものはどこか遠くにあるのではなく、今、私たちのすぐ目の前にあります。

スズメについてほとんど何も知らない私たちは、9・11という数字で何かを知ったつもりでいても、実は何も知らないのだと気づかされます。気づいていないあいだ、世界からは対称性が奪われています。失われた対称性を、調和を世界に取り戻すために、私たちは何かをするべきであり、それはすぐ目の前にあるはずだと、それに気づけばおのずから、生きているということは奇跡に他ならず、命あるものすべてに対する畏怖の念を覚えるはずだと、小島章司はその踊りを通して私たちに語りかけているのではないでしょうか。