「1966年5月の青空」
小島章司フラメンコ舞踊団『一瞬と永遠』 2003.11.29 公演プログラムより
- 古屋
- 『一瞬と永遠』は、最近の小島さんの舞台には珍しく抽象的なタイトルですね。多義的といいますか、色々な解釈が可能な言葉です。
- 小島
- さまざまな思いを込めた結果、この言葉がいちばんふさわしいと思って選びました。
- 古屋
- ここ数年を振り返ってみますと、具体的なタイトルが多いことに気づきます。ロルカの生誕百周年にあたる98年が『ガルシア・ロルカへのオマージュ』、99年が『Luna~フラメンコの魂を求めて』。ベルナルダ・アルバを髣髴させる踊りのラストに巨大な月(luna)が浮かびました。月はロルカの詩の世界に頻出する具体的なイメージですね。
- 小島
- そうです。
- 古屋
- 翌年の『1929』は日本にスペイン舞踊が初めて紹介された年がテーマで、一昨年春が『黒い音』、演出補佐を務めさせていただきましたが、これは抽象的なタイトルでしたね。
- 小島
- ええ。でもご存知の通り、これはロルカの言葉です。
- 古屋
- 「ドゥエンデの理論とからくり」という講演の一節に出てきますね。秋の『アトランティダ幻想』はファリャのカンタータ『アトランティダ』がモチーフで、去年の『邂逅』は、これも抽象的といえば抽象的ですが、畏友クリスティーナ・オヨスとの出会いがベースです。続く『クアドロ・フラメンコ』は1921年のディアギレフの同名公演へのオマージュでした。近年の小島さんはロルカを中心として主に1920年代から30年代に深く関わっていらっしゃいますね。
- 小島
- やはりロルカという存在がとても大きなものとして常に私の中にあるんですね。
- 古屋
- この時代のスペインは〈銀の時代〉という呼び名があります。セルバンテスやベラスケスなどの大芸術家を輩出した16~17世紀は〈黄金世紀〉と呼ばれますが、それに匹敵する才能が、19世紀末から1930年代にかけて数多く生まれたという意味なのですが、フラメンコが劇場芸術になったのもちょうどこの時代ですね。ですからここ数年の小島さんは、20世紀のフラメンコの歴史を総括すると同時に、それをいかに超越して21世紀へ繋げるかという大きな作業をなさってきたのだと思います。
- 小島
- ちょっと大袈裟な気もしますが(笑)、そういうことになるかも知れませんね。
- 古屋
- こうした流れの中で今回の『一瞬と永遠』がどういう位置づけになるのか、そのあたりのことを伺いたいのですが。
- 小島
- たしかに抽象的なタイトルですね。でも私が思い描いているのはとても具体的なものです。自分の原点に返ろう、そこからもう一度出発して新しいフラメンコを探ってみようということです。
- 古屋
- こういっては失礼かも知れませんが、すでに還暦をお迎えになっていらっしゃいます。年齢との関係もあるのでしょうか。
- 小島
- そうですね。若い頃のようには体が動かなくなってきていますから。いつまで踊れるか分かりませんし。
- 古屋
- いえいえ。
- 小島
- でも、今だから踊れる踊りもあると思うんです。そう考えると、今の自分を見つめなおすには、1966年のマドリーで過ごした時間、いくつもの出会いがあった稽古場〈アモール・デ・ディオス〉での修行時代の精神に立ち戻る必要があると思ったんです。
- 古屋
- それが第一部のアイデアの元なのですね。
- 小島
- そうです。もうひとつのきっかけは、今回共演してくれるイズラエル・ガルバンとの出会いですね。
- 古屋
- 第二部がイズラエルとの共演ですが、最初からバイラオール(男性舞踊家)とのデュオを考えていらっしゃったのですか?
- 小島
- いえ、男性女性というのではなく、若い人と踊りたいと願っていたのです。バルセローナでイズラエルの踊りを見て、ああ、この人と踊ったら面白いものが生まれるんじゃないかなと直感しました。
- 古屋
- やはり具体的な出会いが根柢にあるのですね。「一瞬と永遠」というフレーズを伺って最初に思い浮かべたのは、実はフラメンコとは何の関係もない『永遠と一日』というギリシア映画でした。監督はテオ・アンゲロプロスという人で、98年のカンヌ映画祭でパルム・ドールを獲ったのですが、余命いくばくもない老作家が人身売買されそうだったアルバニア人の少年を救って過ごす一日を描いたものです。これに限らず、ある瞬間や一点が永遠の時間に繋がるというテーマは多くの芸術作品にみられると思うのですが。
- 小島
- 舞踊もぱっと輝くのはほんの一瞬ですから、踊ることそのものが一瞬の出来事なのだとも言えますね。
- 古屋
- 一瞬性といいますか、繰り返せない一回性というものが舞踊の本質にあるということですね。
- 小島
- そうです。
- 古屋
- 1966年といいますとかれこれ40年近く前の話です。近頃は日本がアメリカと戦争をしたことさえ知らない人もいるそうですから(笑)、ましてや当時のマドリーとなると若い人にはほとんどイメージが浮かばないのではないかと思います。かくいう私も当時一歳ですので(笑)、今日は当時のマドリーの様子、60年代後半のスペインの雰囲気を伺いたいと思うのですが、いかがでしょうか。
- 小島
- そうしましょうか。
- 古屋
- ではよろしくお願いいたします。
- 小島
- こちらこそよろしくお願いします。どこから始めましょうか。スペインへ発ってマドリーに着いたのは66年の5月。横浜から船に乗って。ソビエト、ポーランド経由でフランスに入ってパリに。石の文化っていうのかな、街並全てが印象深い光景として今もって脳裏に焼きついています。
- 古屋
- 66年といえば前の年に海外渡航が自由化されたばかりで、持ち出せるお金もまだ500ドルでしたね。
- 小島
- そうです。でも父が遠洋漁船を持っていて、当時その船がラス・パルマスによく入港していたんです。船員さんたちがドルを集めてこっそり送金してくれたりして。そういう意味では、ほかの人たちより少しは恵まれていたかも知れません。
- 古屋
- パリにはどのくらいいらっしゃったんですか。
- 小島
- 結構いましたよ、見るものなんでも興味深くてね。「ショージはフラメンコを勉強しに来たんだから早くスペインに行け」って友だちに言われて。そのままパリに居ついちゃうんじゃないかって、心配だったのかな。(笑)
- 古屋
- いよいよスペインですね。
- 小島
- 国境の町アンダイエ、スペイン側はイルンっていう町、そこで乗り換えて。スペインとフランス両国の線路の幅がちがうから今は客車ごと持ち上げるでしょう。あの頃は荷物持って全員降りて乗りかえました。周りが急にスペイン語になって、なつかしい感じがしましたね。コンパートメントで一緒になった人がボカディージョをくれたりして言いようのない喜びに満たされました。
- 古屋
- なつかしさは四国での暮らしとも関係が?
- 小島
- そうですね。幼年期から四国八十八ヶ所を巡るお遍路さんが来たら何かを施すとか、近隣の人たちから教わってましたね。ブルゴス、バリャドリーを通ってマドリーはエスタシオン・デル・ノルテ(北駅)に到着しました。まだチャマルティン駅がない頃で、ひなびた駅でしたね。ノルテ駅って今でも残っていますか。
- 古屋
- 建物は残ってます。マドリーの最初の印象はいかがでしたか。
- 小島
- 抜けるような青空。むこうは空が高いでしょ。5月、まさに花盛りの五月(マジョ・フロリード)。
- 古屋
- いちばんいい季節ですね。
- 小島
- 森羅万象全てが輝いて、心の中にも希望が溢れていました。それとやっぱり石の建物の美しさ。永遠っていうのかな、何世紀も経ってるわけでしょう。今の日本だと作っては壊し、作っては壊しだけど。
- 古屋
- マヨール広場の周りは17世紀のアパートがそのまま使われていますね。
- 小島
- 亭々たる木立とか、レティーロ公園とか。レティーロ公園では本屋さんがいっぱい並んで出店していました。
- 古屋
- フェリア・デ・リブロス(春の書籍市)ですね。
- 小島
- 最初に住んだのはアルカラ通り126番地、4º(クアルト)A(アー)でした。ドニャ・エミリア・ペーニャ・ガリードっていう人のところです。もう大部前に亡くなってしまったけどとても優しい心で接してくれました。忘れ得ぬ人の一人です。その足で近くのナシオネス通り11番地のパコ・レージェス先生の所へレッスンに通いました。ゴヤ駅から歩いてすぐのエルマーノス・ミラージェス通りに〈エストゥディオ・カルボ〉っていう稽古場が有って、そこでベティ先生にお目にかかったんです。
- 古屋
- ビクトリア・エウヘニアですね。
- 小島
- ぼくたちは Bety って呼んでました。〈アモール・デ・ディオス〉の稽古場に足を運んだのはそのすぐあとのことです。
- 古屋
- 伝説の、というより、私のような若造には神話的な稽古場です。
- 小島
- いらっしゃいました?
- 古屋
- はい。86年なのでずいぶん最近の話ですが。入口が意外に貧相でした。
- 小島
- みすぼらしいほどでしたね。でも中は広くて。部屋は10以上あったんじゃないかな。
- 古屋
- 当時の〈アモール・デ・ディオス〉のお話をじっくり伺いたいのですが、その前に66年のスペインの雰囲気、具体的には芸能の世界ですが、ローラ・フローレスが活躍していた時代でしょうか。
- 小島
- 大スターでしたね。テレビや映画で歌って踊って。美空ひばりみたいな存在なんでしょうけど、彼女はとってもフラメンカな花のある存在でしたね。"Pena Penita Pena" とか "La luna y el toro" が大流行していました。千五百人くらい入るカルデロン劇場で連日超満員の盛況でした。
- 古屋
- ほかにはどんな人が?
- 小島
- ラファエル・ファリーナとかホアニート・バルデラーマ、アントニータ・モレーノ、ナティ・ミストラル、ホアニータ・レイナ、カルメン・セビージャ、マリフェ・デ・トリアナ等がいましたね。ポピュラーな歌手ではニノ・ブラーボ、マッシエル、ラファエル等が流行していました。フリオ・イグレシアスもちょうどその頃歌手デビューしましたね。
- 古屋
- 今ちょうど来日しています。
- 小島
- そうなんですか?モンセラー・カバリェがニューヨークで華々しくオペラ界にデビューしたのもその頃でした。
- 古屋
- フラメンコ以外で、よくご覧になった舞台はありますか。
- 小島
- スペイン滞在中はオペラはあまり観なかったけどサルスエラにはよく行きましたね。あの頃の劇場は今言ったような大歌手たちが一ヶ月続く大興行をやっていてよく見に行きました。タブラオでは〈ロス・カナステーロス〉のカラコール一家。カラコールの従妹ガブリエラ・オルテガという朗誦家がいて。ガルシア・ロルカの世界を朗誦し、その化身のような朗誦で、聞く度にその奧深さに鳥肌が立つのを思い出します。詩の朗誦なんだけど声そのものがフラメンコで情感に満ちていました。カラコールの娘婿のアルトゥーロ・パボンがピアノを弾いて娘が歌ったり。カンタオーラのアデーラ・ラ・チャケータもいたりで、連日賑わっていました。〈トーレス・ベルメーハス〉はバンビーノというルンバとブレリーアしか歌わない人がいて、キュッとつまった声の響きがとても素晴しく、すごい人気で、彼も〈カナステーロス〉でデビューしたと言ってました。
- 古屋
- 〈カナステーロス〉にはいわゆるプリスタ(純粋主義者)が集まっていたのでしょうか。
- 小島
- そうですね、エセンシア(本質)っていうのかな。そういう奧深いものを表現する人が多く出演していました。プリスタの集まったタブラオは、プラド美術館のそばにあった旧い〈サンブラ〉でした。
- 古屋
- 具体的にはどんな人たちですか。
- 小島
- 〈サンブラ〉にはラファエル・ロメーロを筆頭にペペ・エル・クラータ、それにホアニート・バレアとかいった錚々たる歌い手がいて。踊り手ではロサ・ドゥラン。とてもクラシックなバイラオーラで、いつも、どの踊りでもバータ・デ・コーラを身に着けて踊っていました。カンテの黄金期でもありましたね。〈コラル・デ・ラ・モレリーア〉はカスタネットのルセーロ・テナがいて。ギタリストのセラニートがずっと弾いてましたね。〈カフェ・デ・チニータス〉ができたのは後年だと思います。60年代じゃないと思う。そのあと〈コラール・デ・ラ・パチェーカ〉等ができました。
- 古屋
- チニータスは70年、パチェーカは71年のようです。
- 小島
- 他に私が出演した〈ビジャ・ローサ〉や〈クエバス・デ・ネメシオ〉〈フラメンコ・クルブ〉とかがありました。一方ではも深夜のナイトスポットがあって。いわゆるタブラオの客がはねる時間帯が過ぎてからフラメンケーロスが集まる場所がいくつかあって、そういう場がフラメンコの喜びや奧義を授けてくれました。稽古場とは違った仕事場兼道場みたいな本物のフラメンコたちの熱い時間の共有でした。情報交換の場でもありました。
- 古屋
- 稽古場がどこだとか、どの先生に習っているとかは関係ないんですね。
- 小島
- そうですね。タブラオがハネてからフラメンコの愛好家の人たちが明け方3時4時から始めて、朝の9時10時とか、お昼近くまで歌ったりギターを弾いたりとかいうこともあるし。だから今だにフラメンコの人たちは宵っ張りで朝寝坊の人が多いんですね。
- 古屋
- アントニオ・マイレーナはその頃どうでしたか。
- 小島
- 僕がセビリアの〈ロス・ガジョス〉に出演していた間、アルカラ・デ・グヮダイラの城跡とかプエブラ・デ・カサージャとか、そういったアンダルシアの町々の夏のフェスティバルでよく聴きました。もう大御所としての風格と存在感で他を圧していました。
- 古屋
- 安心して聴ける、という感じでしょうか。
- 小島
- そうですね。「彼の歌はクールすぎる」っていう人も中にはいますけど、彼こそマエストロ中のマエストロと呼ぶべきカンタオールなんでしょうね。舞踊家アントニオのカンパニーでチャノ・ロバートと一緒に舞台で踊りの伴唱するのも聞きました。だから、カンテ・アランテもカンテ・アトラスもちゃんと両方務められる苦労人だと思います。踊りの伴唱もできるしソロもできる。たくさん勉強して知識と経験に裏づけられた大きな芸術的財産があったんだと思います。
- 古屋
- ええ。
- 小島
- 今ほど、こうソニケーテ、ソニケーテっていうんじゃなくて、おおらかな時代だったんだとも思います。
- 古屋
- 当時の町の雰囲気で印象に残っていることは?
- 小島
- 今から降り返ってみると、治安の良さが印象に残っています。
- 古屋
- あの頃のスペインをご存知の方はみなさん口を揃えておっしゃいますね。
- 小島
- フラメンコの人たちは夜が遅いでしょう。タブラオが始まるのが11時ぐらいで、スターが登場するのが早くても12時とか1時。最後にもう一度その他大勢で閉じがあって、全部終わると3時半とか4時になるわけです。
- 古屋
- そのあとは、あらためてフラメンケーロスたちの道場へ。
- 小島
- ええ。でも毎晩というわけではないんですね。ですから、タブラオを出て、アパートまでぷっかりぷっかり歩くんです。
- 古屋
- 「ぷっかりぷっかり」は雰囲気がとてもよく伝わります。(笑)
- 小島
- シベーレス広場を抜けてアルカラ通りをずーっと通って、レティーロ公園の前を歩いて。夏はとにかく暑いから、ときどき噴水の中に足を突っ込んで大の字になったりしました。
- 古屋
- (笑)
- 小島
- 今では考えられない治安の良さですね。もちろんフランコの目がそこかしこに光っていたのでしょうけれど。それとセレーノ!
- 古屋
- 夜警というか、夜回りですね。
- 小島
- あなたがいらっしゃった頃はまだいましたか?
- 古屋
- 80年代半ばだったので、もういませんでした。今は誰でも合鍵を持っていますから。
- 小島
- そうですよね。あの頃はアパートに着いたら「セレーノォォォ!」って呼んで開けてもらいました。びっくりするくらいたくさん鍵を持っていましてね。
- 古屋
- フランコ時代独特の習慣ですね。
- 小島
- セレーノはとても印象に残っています。
- 古屋
- 20世紀のフラメンコの歴史を紐解いてみますと、ディアギレフが劇場にフラメンコを進出させて、ファリャやロルカが22年にコンクルソ・デ・カンテ・ホンドを主催して以降、50年代半ばまで沈滞していたのが、コルドバでコンクルソが開かれるようになったあたりから息を吹き返したようで、60年代半ばはフラメンコを学ぶのに絶好の時期だったように思えるんですが。
- 小島
- そうかも知れませんね。〈アモール・デ・ディオス〉には本当にいろんな人たちがいましたからね。
- 古屋
- 先月場所を変えてリニューアルオープンしましたが、当時の〈アモール・デ・ディオス〉はどんな感じでしたか。
- 小島
- 活気がありましたね。先生方も沢山いらっしゃって。フラメンコではロサ・メルセーやトマス・デ・マドリー、アンヘル・トーレス、パコ・フェルナンデス、ラ・タティ等がいて。ホタのペドロ・アソリン、フアンホ・リナーレスがガリシア地方の踊りを教え、アントニオ・マリンもよく顔を出していました。
- 古屋
- 指導を受ける機会がいちばん多かったのは?
- 小島
- ロサ・メルセーとトマス・デ・マドリーです。いろんな人が出入りしましたよ。アントニオ・ガデスも来てました。
- 古屋
- あの頃のガデスはどうでしたか。
- 小島
- 線が美しく流麗でしたね。
- 古屋
- 私が見たのはずいぶんあとですが、肉の塊というよりも幾何学的な線が動いている、そんな感じがしました。
- 小島
- ビセンテ・エスクデーロの流れを汲むと言われていましたね。
- 古屋
- そうです。
- 小島
- クリスティーナ・オヨスも1966年にセビージャから上京していたし。今思えば錚々たる顔ぶれと遭遇していた訳です。マノロ・カラコールやアントニオ・マイレーナにも会えたわけですから。
- 古屋
- マノロ・カラコールは22年の伝説のコンクルソで聴衆の度肝を抜いた人で、ロルカの前で歌ったカラコールに小島さんが出会っていらっしゃる。まさにこれが歴史というものですね。
- 小島
- その時何歳だったのですか?とても若かったという印象がありますが。
- 古屋
- 1909年生まれですから、12歳くらいでしょうね。
- 小島
- 71年にウトレーラでマノロ・カラコールへのオマージュが開かれて、舞台を共にしました。私のスペイン時代の大きな一ページとなっています。
- 古屋
- (パンフレットを見ながら)第15回ウトレーラのジプシー祭 Potage Gitano ですね。お名前が Koyima になっていますが。
- 小島
- Kojima だったり Koyima だったり。ホタ(J)だとコヒマと発音してしまいますから。(笑) これ。
- 古屋
- (新聞記事を見て)ヒターノ・ハポネス。〈日本のジプシー〉という小島さんの通称ですね。初めてこう呼んだのはラファエル・ファリーナだったんですね。
- 小島
- そうなんです。エル・ヒターノ・ハポネスと芸名を付けて下さり、彼の一ヶ月の興行に華々しくデビューさせて下さった恩人です。〈アモール・デ・ディオス〉には、クリスティーナ・オヨス始めマリオ・マヤの奥さんだったカルメン・モラ、カルメン・アマーヤと一緒に映画『バルセロナ物語』に主演したサラ・レサーナ、メルチェ・エスメラルダとか、スターダンサーたちが一斉にパコ・フェルナンデスのレッスン受けている姿は、それはそれは華やかでしたよ。だから、今のこのフラメンコの隆盛を目の当りにするにつけ、その元になっているものはあの頃に溯るのかも知れませんね。
- 古屋
- ええ。
- 小島
- あそこでいろんなものを見聞きしました。若いパコ・デ・ルシアも来てましたしね。いろんな「もの」や「こと」に触れること。直接習わなくたって、ちょっと見せてもらうとか。触れ合うこと、通りすがることすべてにおいて、ひとつの潮流みたいなものができて、今があるのだと感じていますね。
- 古屋
- 「直接教わらなくても」というのは意外に大事な気がします。たとえば落語でも、大成する人はとにかく人の高座を横でじっと見て芸を盗みますから。
- 小島
- そうでしょうね。
- 古屋
- お話を伺っていますと、20年代の文学者や知識人にとってのマドリーの学生寮と・・・。
- 小島
- ああ、あのお三方、ロルカとダリとブニュエルが同時期に学んでいたと言う。
- 古屋
- ええ。ヨーロッパ中の知識人が来て講演をした、スペインのケンブリッジと呼ばれたあの学生寮ですが、フラメンコの世界では〈アモール・デ・ディオス〉にそういう感じがするのですが。
- 小島
- そうですね。すべての人知、叡智が結集されていて。世界中から集まって来た人たちのあらゆるダンスが有りました。稽古場の部屋数が、最初はそうでもなかったんだけど、こっちにも、隣にもってだんだん増えていって。わかりますよね?スペインの建物の間取りの不思議。
- 古屋
- ええ。(笑)
- 小島
- 抜け道みたいなところがいつの間にか稽古場になって。(笑)大中小あわせて10以上あったかな。2番スタジオがホセ・グラネーロがいつも教えていたいちばん大きな稽古場。バレエとかペドロ・アソリンのホタとか床のレッスンとか。世界各国から沢山の人が集まってきていました。
- 古屋
- スペイン以外のヨーロッパの人はいましたか。たとえばソビエトとか。
- 小島
- 当時東欧の人はいませんでした。メキシコとかペルーとかコロンビアとか。
- 古屋
- スペイン語圏でもない、ヨーロッパ人でもない小島さんがその中にいらっしゃったのは珍しかったでしょうね。
- 小島
- 常時いたのはマドリード在住の岡田昌巳さんと私でしたね。チーノ、チーノ(中国人)ってよく言われてね。ベトナム戦争があった頃か、ビエトナミータとかも言われました。(笑)
- 古屋
- (笑)
- 小島
- 69年、イビサ島の〈セス・ギターレス〉っていうタブラオで一シーズン休みなく踊って。そのあとちょっと体を壊しましてね。
- 古屋
- ええ。
- 小島
- 入院したんだけれど、保険は切れてるしお金はなくなって来るしで清貧になってしまって。少し良くなった所で、中南米からの舞踊仲間たちとかスペイン人たちをも含めて「踊れない健康状態だったら少しずつ教えてくれないか」って言われて、それで〈アモール・デ・ディオス〉で教えることになったんです。
- 古屋
- そうでしたか。
- 小島
- だから「生かされてるんだ」って思って。
- 古屋
- 今回の『一瞬と永遠』のキーワードは「友(アミーゴ)」 amigo、または「友情(アミスター)」 amistad ですが、今おっしゃった「生かされている」ということが関係しているのでしょうか。
- 小島
- そうですね。日本を発つときから、たぶん生きては帰れないのではと。大時代な言い方だけど、そのくらいの気持ちで行ったんですね。持ち物も50キロくらいになって。フラメンコを極めるっていうと大袈裟だけど、なんとか一丁前になるためには一年や二年や三年ということではないと思っていたから、とりあえず十年と堅く決めていました。熱中しているうちに時代遅れの人になって帰ってきましたけど。(笑)
- 古屋
- いえいえ。
- 小島
- 二年や三年じゃ思うように踊れない、でも病気で何にもできない。友だちにお金借りて、「いいわよいつでも」って言ってくれたなあって思って安心していたら、しばらくしたら「返して」って言われたりして。(笑)
- 古屋
- (笑)
- 小島
- 世の中ってこんなもんなんだなあって思ったりして。(笑) でも、〈アモール・デ・ディオス〉の中で「おまえの踊り、とっても好きだから教えて」って言ってくれる人たちがいて、そうこうしているうちに、ちょっとずつ、ほんのちょっとずつだけどお金が貯まっていって、健康も回復して、ああ、これで自分も再びレッスン受けられるって。
- 古屋
- 嬉しいですね。
- 小島
- だから、絶望と希望っていうのは、紙一重のところで背中合せになっているのだな・・・と、つくづく思い知らされました。若かりし頃シューベルトの歌曲に熱中していた頃も詩の行間に読み取るものの中にそんな思いを抱かされていたけれど、ああ、人間ってみんなこうやって山あり谷ありの道を生きてるんだと思えましたね。そのアミスター、思いやりはありがたかったです。
- 古屋
- 絶望と希望が紙一重であるのと同じように、友情も紙一重だと思うんです。スペイン人はちょっとした顔見知りでもすぐアミーゴと呼びますね。
- 小島
- ええ。
- 古屋
- 日本語の「友だち」より適用範囲が広い。広い分、一度会ってそれっきりの場合も多いのですが、たった一度の出会いなのに、しかも北半球の真裏同士なのに、まるで昔からの知り合いかのようにたちまち意気投合してしまうこともよくあります。その理由をずっと考えているのですが、どうもアミーゴamigoの語源がラテン語の「愛する」amareから来ていることに関係しているんじゃないかと思うんです。
- 小島
- どういうことでしょう。
- 古屋
- 愛というのはわかったようなわからないような言葉ですが、とりあえず「他者の存在を肯定すること」というふうに定義してみます。他者は自分とはまったく関係がない、わけのわからない存在くらいの意味です。どこで生まれたのか、どんな人生を送ってきたのか見当がつかない。そんな人と、ふとしたきっかけで出会う。偶然の出会いですね。でも、その人の人生と自分の人生が交わるには、時間と空間の同じ一点を目指していなければ絶対に不可能です。この時代、この時間、この場所にいなければ会えないのですから。
- 小島
- そうですよね。
- 古屋
- つまり偶然の出会いは偶然ではなく必然ということになります。
- 小島
- なんだか話が大きくなってきましたね。(笑)
- 古屋
- 大風呂敷を広げるつもりはないんですが(笑)。ただ、大事なのは、その一点に向かうのはとんでもなく過酷で孤独な作業だということです。ひとりぼっちですからね。ところが、ある一点で他者と出会ってしまう。会った瞬間、他者なのにお互いにたちまち了解してしまう。
- 小島
- あなたもチラシに一文書いて下さったけど、ちょっとした眼差しで好きになるとか、もちろん恋もそうだろうけど、そんなに思っていないのに稽古場に入ったら、ああこの人はこんないいところがあるんだとか。
- 古屋
- そうです。一期一会とか袖摺りあうも他生の縁とか昔から言いますが、一点で交わるのは悠久の時の流れの中のほんの一瞬で、これは奇跡にほかなりません。でも必然的な奇跡なんですね。この一瞬のかけがえのなさ、二度と繰り返せない貴重さを自覚することが、愛するということであり、アミーゴもそこから生まれるのだと思うのです。一瞬は繰り返せない。繰り返せないからこそ、その一瞬は永遠へと繋がるのではないでしょうか。
- 小島
- 今回イズラエルが来てくれて、若い人たちがそういうことを深く理解できればと心から願っています。稽古場と舞台は違うけれど、そういうことをちょっとずつ若者たちに伝えられればいいなと思いますね。
- 古屋
- 今日はたいへん貴重なお話をありがとうございました。
(2003年秋、青空の東京にて)