NINAGAWA COMPANY' DASH 『1996・待つ』
1996年11月21日 19:00 ベニサンピット

〈待つこと〉をモチーフに休憩を挟んで九つの話をオムニバスで見せる。

客席は八段くらいの階段状で、目と鼻の先に黒い幕が天井から降りている。客電が落ちる。ハアアアァ、ハアアアァ、と大勢の人間が同時にゆっくりと大きく息を吐き出す音。広い床のあちこちが、繭のようにぼんやりと白んでゆく。水槽のような四角い容器に胎児のように手足を縮めて横たわっている、学生風やサラリーマン、OL風の人々。音楽に合わせてゆっくりと水槽から這い出て、その場で足踏みをし、徐々に猛烈なスピードでその場で駆け足をはじめ、ピタッと動きをやめ、水槽の向こう側の壁に隣接している卓袱台で、銘々が朝食風景らしき光景を演じはじめる。スポーツ新聞を読む男、念入りに化粧をする女、ヘッドホンの音楽に身を揺らしながらサンドイッチを頬張る学生……。

竹内銃一郎の『あの大鴉さえも』の三人の男がウンウン唸ってガラスを運んでくる(彼らは場の転換にしばしば現れる)

「1」は、ホンジョウという恋人がいる女(鈴木真理)が、ある日公園のベンチらしきところで拾った、子供のような大人の男のような「雛形」(山口正之輔)が命をもち、家に持ち帰り「三郎」と名づけて言葉を教えてゆく話。「三郎」は言葉を覚え、いつしかコンビニで働くまでになり、ある女とセックスをすることに成功しさえする。「母親」でしかない女は嫉妬するが、「三郎」は意に介さない。鈴木は女を演じながら、「女は~するのだった」と女を第三人称にしてナレーションも同時にする。一人称と三人称がポーズをおかずに入れ代わるのが面白い。背広姿の、自転車に乗る男(伊東千啓)が、汗をかきウンウン言いながら水槽をぬって絶えず自転車を漕いでいる。

「2」で、舞台奥のドアが開き、開場奥の通りとその向かいの家、道を通る車や通行人が舞台の一部になる。眼鏡に背広姿の男(塚本幸男だと思う)が、無断欠勤した後輩のアズマをアパートに訪ねる。スウェット姿のアズマは、何を考えているのか分からない顔で、水槽にペタンと座り、その日の(!)スポーツ新聞のヌード写真を見つめている。男がいくら詰っても、熱があるだのとボソボソ言い訳をするばかりで、ちっとも責任意識がない。男は、「窓の外に並んでいる日本酒の蓋」が気になる。そのうち、舞台奥が再び開く。近所の大工らしき若い男二人が、蓋をボールに見立てて野球遊びに興じている。男が視線を下にやると、奥の二人は口をあんぐりと開けて上を見つめる。一階と二階を同じ平面で見せる巧さ。男はアズマを引っ張り、下へ下りる。二人組みは客の目の前にきて、スローモーションで遊びをつづけ、男はアズマを二人のもとに引っ張ってゆく。「部長に電話の一本も入れられないのと、近所迷惑だからやめて下さいと言えないのとは、同じことだと俺は思っている!」。アズマを二人にあずける男。アズマはあっさり、二人に加わりピッチャーをかって出る。裏切られた、と口をあんぐりあける男(ここまで全てスローモーション)。

「3」は、暇そうな女の子が床に座っている。そこにもう一人女の子が現れる。二人目は一人目の注意を惹きたくて、アコーディオンやハーモニカを弾く。二人がコミュニケーションらしきものを続ける間に「4」がはじまる。

やはり二人の女。アパートの一室らしい(すべて照明で表現)。オオスギという男をめぐる三角関係。綺麗な方(「どうせ私は片親よ」「どうして」「チチ不在」)が妻。その友人の女性が、夫とデキている。喧嘩の真っ只中にオオスギが帰宅、友人は玄関先で妻に見えぬようキスをして出ていく。先週の従兄弟(?)の結婚式で妻が留守のとき、夫は女とドライブに行きモーテルで寝た、と女から聞かされていた女は夫を詰る。どっちを信じるんだ、と夫は反論。家を飛び出す妻。妻役が今回の芝居の美を担当している。戸津井陽子か石川素子か。

「5」は、夜の公園のカップルを双眼鏡で覗き見する三十代後半の兎年の男と、その男につきまとう、やはりハンディーカメラで覗き見する十二歳若い男の漫才風の掛け合い。三組が、微妙に時間をズラし、時にはまったく同時に、まったく同じセリフを話す。この反復が現代的でよろしい。「片目の兎」がビデオカメラのLEDランプ、というのに爆笑。最後は公園のカップルにコテンパンにやられるところを巧みなスローモーションで見せる。「あと五年で百年の総括がされる」とか「五年も待てますか」など、〈待つこと〉をもっとも全面に押し出している。

十五分休憩。

「6」。中国人と三度関った男の告白。中国人小学校の先生の説教。地下鉄内での百科事典のセールスマン。駒込に住んでいるバイト先の同僚で、一度デートに誘った帰りに新宿から逆周りの山の手線にうっかり乗せてしまい、先回りした駒込で詫びてまた誘うから、と約束はしたものの、その子の電話番号を書いた煙草の箱をうっかりゴミ箱に捨ててしまいそれから一度も会っていない女の子。客席の目の前のベンチにズラリと他の役者が座っており、地下鉄車内を演じていたが、いつしかスローモーションで全員が苦悶の表情に変わり、床をのたうちまわり表に雪崩を打って逃げ出る。サリンだ。

「7」。そのサリンの実行犯らしき、ヘッドギアとサングラス、コート姿の男が、檻のような四角い照明を頭から浴びながら、上にいる「あなた」へ向かって苦しい胸のうちを告白する。意味が分かるようで分からない言葉。

「8」。シャベルで墓穴を掘るのが仕事の、「イエズス」と呼ばれる若い男。墓穴を掘るのにうんざりし、もう厭だとシャベルを捨てる。客席上方から「イエズス!何をしているか!」「オヤジさんに報告しなければ」と怒声が飛ぶ。「オヤジさん」は彼が「やさしい顔」をしているから「イエズス」と名づけたという。「7」と「8」はオウム批判劇。

「9」は、「三条勝手口」に辿り着いてからの『あの大鴉さえも』そのまま。清家栄一、大石継太、田中哲司がいい(大石はキャラクターで笑わせ過ぎるきらいあり)。三月に水戸芸術館で観た山崎哲演出より、ずっといい。役者の器が違うのだ。

演劇において〈待つこと〉が現代的なテーマになり得ることを示したのはベケットの『ゴドーを待ちながら』である。Godot=God。たしかに「8」のエピードにはイエズスという名の男が出てくる。だが『1996・待つ』の世界ははいわゆる〈ゴドー待ち〉ではない。蜷川が待つのは新たな俳優の原石である。だからこそ、功なり名を遂げた蜷川があらたにNINAGAWA COMPANY' DASH という若手だけを集めた演劇集団をわざわざ立ち上げ、エチュードを繰り広げるのだ。そして観客たるわれわれは、新たなニナガワを、待つ。