スペイン文学史上の怪物
小島章司フラメンコ舞踊団『ラ・セレスティーナ ~三人のパブロ~』(2009年)プログラムより

北海道有数のスキー場で知られるニセコアンヌプリ。日本海に向けて峠を越えよう。きついカーブの坂道をチセヌプリ山麓に沿って登りきると、じきに湾が見えてくる。積丹半島の付け根にある町、岩内町だ。山の谷間に広がる平野はほとんどが畑。アスパラガスの日本発祥の地である。海辺には木田金次郎美術館。有島武夫の『生まれ出づる悩み』の主人公のモデルになった画家、木田金次郎の美術館だ。芝生が敷き詰められた広い公園の噴水では地元の子供たちが水浴びして短い夏を楽しむ。この町に来たら迷わず840号線で山を目指そう。ニセコいわない国際スキー場に向かって円山を登る。山の中腹に突然小さな美術館が姿を現す。荒井美術館。看板や標識は少ない。あっても目立たないから探し当てるのに一苦労するかもしれない。いわない高原ホテルの裏手、人目につかないところにひっそりと佇む。でも行く価値はある。ここはピカソの版画を267点所蔵しており、『ラ・セレスティーナ』の挿絵66点を常設展示しているのだ。説明書きには〈ラ・セレスティーヌ〉とあるが、これはフランス語のタイトル。スペインの原作小説のタイトルは〈ラ・セレスティーナ〉である。

三大ヒーローもしくはヒロイン

スペイン文学が生んだ世界的ヒーローもしくはヒロインを三人挙げなさい―――こんな問いに対してスペイン人が挙げる顔ぶれは昔から決まっている。ドン・キホーテ、ドン・フアン、そしてセレスティーナだ。最初の二人は説明するまでもない。セレスティーナは若干の説明を要するだろう。ゴヤに「マハとセレスティーナ」という絵があり、ピカソにも〈青の時代〉の代表作である肖像画「ラ・セレスティーナ」と、本の挿絵として各場面を描いた版画集がある。それくらいスペインでは有名だが、日本での知名度はかなり低い。日本の大劇場で『ラ・セレスティーナ』が上演されるのは今回が初めてである[註: 2003年5月に劇団クセックACTが愛知県芸術劇場小ホールで『ラ・セレスティーナ』を上演した]。しかし原作が刊行された15世紀末、その評判は国境を軽々と越え、わずか三十年足らずでフランス語版24種、イタリア語版19種、ドイツ語版2種、フラマン語版5種、ラテン語注釈本、さらにヘブライ語版も出た。『ドン・キホーテ』が世に出たのが1605年、ホセ・ソリーリャの『ドン・フアン・テノーリオ』が1844年、その種本となったティルソ・デ・モリーナの『セビーリャの色事師と石の招客』が1625年だから、セレスティーナはスペイン文学史上最初のヒロインである。いや、ヒロインというより怪物と称した方がふさわしい。

時代背景

現存する最古の版は1499年、ブルゴスで出版された。初版本はそれ以前にあったと思われる。当初のタイトルは『カリストとメリベーアの喜劇』で全16幕だったが、1507年のサラゴサ版で21幕に増え、タイトルも『カリストとメリベーアの悲喜劇』と改められた。出版後たちまち大評判となり、老婆セレスティーナの存在感が圧倒的なため、1502年には『カリストとメリベーア、及び老娼婦セレスティーナの書』という本が刊行され、セレスティーナの名が初めてタイトルに現れた。16世紀前半には早くも『ラ・セレスティーナ』の通称で知られるようになる。最初のフランス語版もタイトルは『セレスティーヌ』 Celestine だった。

1492年。コロンブスが新大陸に到達する。スペイン国内は八百年に及ぶレコンキスタ(国土回復運動)が終結し、イスラーム最後の砦グラナダが陥落、カトリックによる国土統一が成った。それまで共存していたモーロ人(イスラーム教徒)とユダヤ人は国外に追放され、国内に留まる者はカトリックへの改宗を迫られた。改宗した彼らはコンベルソ、あるいはクリスティアーノ・ヌエボ(新キリスト教徒)と呼ばれ、先祖代々カトリックで異教徒の血が混じっていないクリスティアーノ・ビエホ(旧キリスト教徒)から差別を受けた。この年は最初のスペイン語辞書が出版された年でもある。一つの宗教、一つの言語で国を統一し、多様性は排除する。宗教裁判が始まり、異端審問所が設置される。キリスト教の教義に逆らう者は拷問を受け殺された。「スペインにとって悲惨な年だった」とガルシーア・ロルカは言う。資本家であるユダヤ人を追放した結果スペインは近代化が遅れ、歴史の檜舞台からずるずると転落してゆく。中南米からもたらされる金銀は借金返済のため他のヨーロッパ諸国の銀行に吸い上げられ、国民の生活を潤しはしなかった。キリスト教徒とイスラーム教徒とユダヤ教徒が反目し合いつつ曲がりなりにも共存していた寛容の時代は遠くに去ろうとしていた。

作者フェルナンド・デ・ローハスについて

原作は匿名で出版された。ただし巻頭に記された「作者より一人の友へ」という献辞(詩文)の頭文字を縦に読むと、「学士フェルナンド・デ・ローハスが『カリストとメリベーアの喜劇』を完成させた、生まれはプエブラ・デ・モンタルバンである」と読める。プエブラ・デ・モンタルバンはトレド西方の町。修辞学で折り句と呼ばれる言葉遊びの中に、作者は自分の名前と素性をこっそり隠した。なぜ隠したか。

乏しい資料が伝えるところによれば、ローハスは改宗ユダヤ人の四代目すなわちコンベルソだった。当時のヨーロッパ最高学府の一つだったサラマンカ大学で法学を修め、その頃、作者不詳の『カリストとメリベーアの喜劇』第1幕を入手。第2幕から第16幕までを書き足した。執筆当時は22歳と推定される。第17幕から第21幕までは別人が書いたらしい。父親が異端審問で処刑されたという説もある。こうした状況証拠から、カトリックに改宗はしたものの偏見と差別を受け続けたコンベルソだからこそ社会の底辺にうごめく人間模様を活写できたと考えることができる。同時代人のコロンブスでさえ生地がどこなのかは未だに謎である。コロンブスの生まれはスペインのアラゴン王国、母語はカタルーニャ語だったという説が今年発表されたほどである。

原作には信心深い人物が一人も登場しない。娼家を営む老婆セレスティーナは妖術を使う悪魔崇拝者である。現世の快楽を追求するためには手段を選ばない。神を畏れぬばかりか、敬虔なカトリックの正しい生き方とは正反対を突き進む。実名での出版は到底許されない。ところが出版するやたちまち大評判となった。人物描写がグロテスクなほど生々しく、リアルに描かれているからだ。

構成と登場人物

全21幕から成る原作は各幕の冒頭に数行の粗筋があり、あとはすべてセリフ、それも散文で書かれている。当時の戯曲は韻文で書くのがしきたりだった。作者は上演台本としてではなく読み物として、つまり小説として書いた。黙って字面を目で追うのが現在の読書だが、黙読は近代以降の習慣である。中世から近代への過渡期だった当時は字が読める人が家族や友人知己を集め、朗読して座を楽しませるのが典型的な読書スタイルだった。

登場人物の名前にはスペイン人らしさが微塵もない。カリスト Calisto、メリベーア Melibea、センプローニオ Sempronio、パルメノ Pármenoなど、全員古代ローマ喜劇に登場しそうな名前ばかりだ。唯一の例外は主人公セレスティーナ Celestina で、「天の・空の」を表す celeste、「天上の・神の」を表す celestial に通じる。俗の極みと言うべき売春宿の女将に神々しい名前をつけたところに作者の皮肉がみてとれる。この作品以後、〈セレスティーナ〉は一般名詞になった。売春斡旋業者、いわゆるポン引きをセレスティーノ celestino という。女性ならセレスティーナ celestina。遣り手婆だ。舞台設定はカスティーリャ地方、おそらく作者が育ったトレドかサラマンカあたりと推測される。

カリストは貴族の青年で23歳、メリベーアは富裕貴族の令嬢。セレスティーナは70がらみの老婆で、針仕事を隠れ蓑に娼家を営む。彼女を知らぬ者は町に一人もいない。誰もが知っているが大っぴらには語らない、社会の必要悪的存在である。娼婦の斡旋のみならず、魔術を使い人心を操る。セレスティーナの目的はただ一つ、報酬である。カリストとメリベーアは彼女の妖術によって激しい恋に落ちるが、若き二人は結婚の「け」の字も口にせず、ひたすら肉欲に耽る。彼らの召使いも金と色事にしか興味がない。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』で主人公が聖なる結婚の契りを交わすのとは好対照である。ちなみに『ロミオとジュリエット』は1595年頃の作、『ラ・セレスティーナ』の百年後である。

圧倒的なリアリティー

喜劇的な雰囲気で始まる物語は、中盤から一気に悲劇的な様相を呈し、セレスティーナ、センプローニオ、パルメノ、カリスト、メリベーアは次々に殺され、あるいは自害する。物語を動かすモーターの働きをするのがセレスティーナだ。

人物造形と描写は凄まじいほどリアルだ。まるで映画の手持ちカメラが人物と人物のあいだに入って彼らの姿を真横から撮影するかのような臨場感がある。全編セリフだけの劇だから言葉遣いに人物の性格が如実に表れる。カリストとメリベーアは宮廷愛を模した美辞麗句で愛を語り、セレスティーナの娼家に集う面々はいかにも社会の最下層民らしく下世話で猥談に興ずる。子宮が痛むと言い出したアレウーサの体をセレスティーナが診てやるシーンなどポルノグラフィーそのものだ。「そこじゃなくてもっと上。胃のところ」「いいおっぱいだねえ!こんなにいい体をした娘はこの町に三人といないよ」。二人がやりとりするあいだ、アレウーサは陰部をさらけ出している。「せっかく神様に授かった体だ、男を楽しませないと罰が当たるよ」と、セレスティーナは都合よく神を持ち出す。このシーンひとつとってもセリフのリアリティーは強烈だ。当時の読者は舌なめずりするように味わったにちがいない。セレスティーナが魔術を用いてメリベーアを心変わりさせるのも荒唐無稽ではなく、魔術は日常生活に深く溶け込んでいた。魔女裁判は19世紀半ば近くまで続いた。現在のスペインでも魔女の存在はイエロー・ジャーナリズムの特ダネとして時々紙面を飾るほどである。ロナルド・レーガン大統領が妻のナンシーに強く勧められて占星術師にお伺いを立て政策立案に生かしたエピソードを思い出そう。朝のテレビ番組や朝刊でお馴染みの星占いと同じ役割を果たしていたのが魔術である。

センプローニオとパルメノの造形も巧みだ。ともに召使いとしてカリストに仕える二人はセンプローニオが年上でパルメノは十代後半。センプローニオは娼婦エリーシアの馴染みで、パルメノはまだ初心うぶなところのある青年である。メリベーアへの想いに身を焦がす主人カリストの相談を受けたセンプローニオは「その手の話ならうってつけの女がいますよ」と迷わずセレスティーナの名を挙げる。それを聞いたパルメノは内心穏やかではない。それもそのはずで、パルメノの母親はセレスティーナに色事のいろはを教え込んだ張本人、その道の師匠なのだ。パルメノは幼い頃セレスティーナに預けられ使い走りをやらされた。だからセレスティーナの素性を熟知している。臨機応変に立ち振る舞い、弁舌巧みに人の心を操っては報酬をたんまりせしめてほくそ笑む女。パルメノは老婆の片腕として働いたが、悪には染まらず、奸智の怖ろしさを客観的に観察した。「あんな女に頼んだら全員身ぐるみ剥がされますよ」とパルメノは主人に忠告する。恋の虜となったカリストは耳を貸さない。主人に仕えるのが下僕の使命、しかも計略の立案者はセンプローニオ。先輩風を吹かせるセンプローニオにパルメノは反論できない。にっちもさっちも行かなくなったパルメノは一大決心をする。「こうなったら破れかぶれだ、俺も加わろう。ご主人さまとセレスティーナともども丸め込んで旨い汁を吸ってやる」。パーティーでも何でもそうだが、遅くやって来た人ほど盛り上がる人間の心情が見事に描かれる。

人間を真横から見る ~スペイン文学史における位置づけ~

16世紀から17世紀にかけてスペインはセルバンテスやゴンゴラ、ケベード、ロペ・デ・ベガ、ティルソ・デ・モリーナ、カルデロンなどの文豪を輩出し、いわゆる〈黄金世紀〉を謳歌した。それ以前は叙事詩『わがシッドの歌』が12世紀中頃、イータの首席司祭による寓話『よき愛の書』と、ドン・フアン・マヌエルの教訓集『ルカノール伯爵』が14世紀前半、騎士道物語が流行したのが15世紀。後の〈ピカレスク小説〉の嚆矢となった作者不詳の小説『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』が世に出たのは1554年である。口八丁手八丁で社会の底辺から上昇してゆく悪漢ラサリーリョの人物造形にはセレスティーナの影がはっきり看てとれる。中世の文学は人間の営為を神に照らして教訓とした。『ラ・セレスティーナ』には中世の名残があるものの、神の視点はなく、人物は等身大に描かれる。さらに小説でありながら戯曲の体裁をとり、喜劇と悲劇が混在する、二重の意味でのハイブリッド文学だ。ページをめくった途端に読者はドラマの現場に立ち会う。神の視点から喜劇として描くのではなく、神を見上げて悲劇として描くのでもなく、『ラ・セレスティーナ』は人間を真横から見つめる。それまで誰もなしえなかった中世から近代への橋渡しを実現した怪物的存在だ。

人間の生は純粋な喜劇ではなく、純然たる悲劇でもない。喜劇であり悲劇でもあるのが人間の営為なのだと『ラ・セレスティーナ』は私たちに語りかける。この語りかけに応えたのが小説『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』であり、ロペ・デ・ベガやティルソ・デ・モリーナ、カルデロンなどの〈黄金世紀〉の演劇である。その末裔には、極上の悲喜劇を発表し続ける映画監督アルモドバルがいる。

映画と舞台

『ラ・セレスティーナ』はスペインで二度映画化された。最新作は1996年、ペネロペ・クルスがメリベーアを演じている。日本語版DVDのタイトルは『情熱の処女おとめ ~スペインの宝石~』。セレスティーナのセの字もないところに日本での知名度の低さがわかる。セレスティーナ役はテレレ・パベス、カリスト役はフアン・ディエゴ・ボット、メリベーアの父プレベリオを演じるのはリュイス・オマール。そして脚本はスペイン映画界ナンバーワンの脚本家で昨年他界したラファエル・アスコーナと役者は揃っているのだが、ヘラルド・ベラ監督の演出が凡庸なのがもったいない。それでも十五世紀末の雰囲気を何とか伝えようと奮闘した努力を買おう。

演劇の世界では2004年に女優ヌリア・エスペルがセレスティーナを演じた。9月にバルセロナで催されたフォーラム2004で初演、その翌年マドリードのマリア・ゲレーロ劇場でも上演された。演出はロベール・ルパージュ。1995年にシアター・コクーンで上演し絶讃された『HIROSHIMA―太田川七つの流れ』などで日本でも有名な演出家である。舞台化にあたって苦労したのはセリフだという。原作は対話形式の小説だから、そのままでは俳優が語る言葉にならない。台本を手がけたのはカナダ人ミシェル・ガルノー。『ラ・セレスティーナ』の魅力についてエスペルは「ぞっとするほど美しい」と言う。オファーを受けた当時エスペルは69歳、「役柄からして願ってもない時期だった」とインタビューに応えている。

岩内でピカソの版画を鑑賞して目を肥やしたら、次は舌の番だ。岩内は寿司である。呆れるほど旨く、冗談のように安い。