着替えと屹立――ビクトル・エリセとジョン・フォード

1. 問題としての身振り

ビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』の主人公アナが、小高い丘から、地平線を見渡せる荒野にぽつんと建っている廃屋を見つめるとき、観客は、ああ、これはまぎれもなくジョン・フォードだと思わずにいられないだろう。ジョン・フォードの西部劇には必ず地平線があった。また〈荒野〉もジョン・フォードの映画を特徴づける記号である。だが、エリセの地平線とフォードの地平線には重要な差異がある。フォードの地平線の上には、突き抜けんばかりの蒼穹が広がっていた。ひるがえってエリセの地平線には青空がない。空はかならずどんよりと曇っている。『エル・スール』の野外ロケを思い出してみよう。開巻劈頭のカット。闇に包まれていたスクリーンに少しずつ光が注がれ、主人公エストレーリャが眠る室内が薄明にぼんやりと浮かび上がる。オフの声で、エストレーリャの母が夫アグスティンを探して名を連呼するのが聞こえる。続くカットはまだ朝日が昇るまえの戸外である。空は暗い。その次に観客が空を目にするのは、幼いエステレーリャが両親と汽車でスペイン北部の家に向かうシーンである。空は一瞬車窓からうかがえるだけであり、やはりここでも陰鬱である。

空がはじめて大きな姿をあらわすのは、エストレーリャの初聖体拝領の日の朝だ。アンダルシーア地方からやってきたアグスティンの母と乳母がエストレーリャの晴れ着の着付けを見守る。すると外で銃声がとどろく。発砲しているのはアグスティンである。「こんな日にまったくとんでもない子だ」と母は嘆く。着替えが終わって純白のドレスに身を包んだエストレーリャは、晴の姿を見てもらいたくて思わず外に飛び出し、カメラに向かって走り、門を出たところで立ち止まる。カメラは次第に少女の顔に寄っていく。次のカットは荒涼とした丘と空である。アグスティンの発砲の音だけがあたりにこだまする。ここでも空は雲に覆われている。

『ミツバチのささやき』にも空は登場する。冒頭で、映画『フランケンシュタイン』のフィルムを積んだトラックが主人公の住む町にやってくる。だがやはり空は曇っている。アナたちは『フランケンシュタイン』を観る。あまりの恐怖にアナの顔はこわばり、大きく開かれた目はスクリーンに吸い寄せられんばかりである。スクリーンには、湖のほとりでフランケンシュタインの怪物と少女が出会うシーンが映し出される。湖水には月が映えている。すなわち空は闇夜である。まるで虚構の世界と実世界が共謀しているかのごとく、エリセのスクリーンにあらわれる空からは青さが剥奪されている。映画を観終わったアナは姉とともに家に走って帰る。家の門をくぐり玄関へ駆けていく姿をカメラは俯瞰ショットでとらえる。屋根の上には空がみえる。ここでも空は陰々滅々たる表情をみせている。

『ミツバチのささやき』も『エル・スール』も、スペイン内戦が主題であることはまぎれもない事実である。だからといって、空の暗さを戦争の隠喩ととらえるなどと考えるのはあまりにも安易というほかない。白人とネイティブ・インデイアンの〈戦争〉がモチーフのカラーの西部劇では、空は透き通るほど青かったではないか。しかるに、エリセを西部劇に近づけているのは地平線でもなければ空でもない。だが、エリセのフィルムにはまぎれもなくフォード的な記号がある。観客はそれをたしかに感じとることができる。ではエリセにおけるフォード的な記号とはなにか。

ジョン・フォードの西部劇を〈翻る白さの変容〉と形容したのは蓮實重彦である。ここでいう〈翻る白さ〉とは、男たちの帰還を待つ女たちのエプロンを指す。蓮實は言う。「疲弊しきった不運な男たちが地平線の向う側から戻ってくる瞬間に、それを迎え入れ、その運動を包みこんで癒やしてみるかのように、きまって大きな白い布が画面の中央に翻っているのだ。そしてその大きな白い布は、男たちが動きをとめて旅の汚れを落し、重い肉体を椅子に埋めこんでからも、なお画面を横切って揺れ続けている。いうまでもなく、その翻る白さとは、女たちの全身を覆うすその広いエプロンにほかならない」(註1)

ジョン・フォードの西部劇において、主役をつとめるのはつねに男であり、女は男を待つ存在として描かれる。女はあくまでも受動的な立場である。だが、実際にスクリーンに登場する女たちの身振りを仔細に検討してみると、いささかも受動的ではないことがわかる。それは〈立つこと〉において顕著である。そしてエリセの映画においても、〈立つこと〉で女は男よりはるかに生き生きとしている。かくして〈立つこと〉という身振りが問題として浮かび上がる。具体的にみてみよう。

2. 屹立する女

ジョン・フォードの西部劇では男たちは必ず銃を携えている。銃を手にしていないときには、馬にまたがっており、あるいは熱いコーヒーが入ったブリキのコップや、酒の瓶などを手にしている。西部劇では、男はなにかを手にしていなければ立っていることもできない、きわめて不安定で頼りない存在である。ジョン・ウェインはいつも壁や酒場のカウンターに身をゆだねてはいなかったか。ハワード・ホークスの『リオ・ブラボー』のジョン・ウェインとディーン・マーティンは、寄りかかる場所と銃がなければただの木偶の坊ではなかったか。新しいところでは『許されざる者』のクリント・イーストウッドは、豚を育てることさえできず子供たちに憐れまれるただの老いぼれではなかったか。

一方、受動的に描かれているはずの女たちはどうか。『わが谷は緑なりき』の女たちは、白いエプロン一枚で、手にはなにも持たず、屹立してはいなかったか。『許されざる者』で、ならず者に顔をナイフで無残にも斬りつけられた娼婦は、賞金稼ぎのイーストウッドたちの到来を寡黙に見つめてしっかりと立ってはいなかったか。ならず者への罰が手ぬるすぎると保安官に食ってかかったのは、男ではなく、娼婦の頭をつとめる女であり、彼女はつねに素手で屹立していなかっただろうか。このような例は枚挙に遑がない。西部劇において、男はなにかにつかまっていないと立っていられない危うげな存在であり、女は反対に、なにも持たず、仁王立ちする存在である。

ビクトル・エリセのフィルムのフォード的な記号とは、まさしく、なにかにつかまっていないと立っていられない男と、なにも持たずに仁王立ちする女である。

『エル・スール』では、オメロ・アントヌッティが演じる主人公の父アグスティンは医師であり、病院では患者が寝ているベッドのそばに腰かけている。家にいるときは、屋根裏部屋に蟄居してやはり椅子に座り、振り子を操っている。あるいはまた、同じ屋根裏部屋の椅子に腰かけて杖をとんとんと床に打ち続け、反抗期の娘の沈黙に対して沈黙で応じる。アグスティンは水占い師でもあり、仕事を受けると動物の骨で荒野の水脈を探り当てる。このように、アントヌッティがスクリーンに登場するときには、ほぼかならずなにかを手にしているか、あるいは椅子に腰かけている。昔の恋人が出演している映画を観終わって映画館を出たアントヌッティは、なにかを手にもたなければいけないという法則に従うかのように、タバコをくゆらせながら夜の街を歩く。ただし、一箇所だけ、なにももたずに立つ場面がある。それは娘エストレーリャの初聖体拝領の場面であり、舞台は教会の中なのだが、内戦以来反カトリックで教会に足を踏み入れることがなかったアントヌッティは参列者の席には座らず、入り口の闇のなかにひっそりと佇んでいる。エストレーリャは、来ないかもしれないと心配していた父の思わぬ到来に心躍らせて教会の闇へと向かう。カメラは、闇のなかに佇んでいるアントヌッティの姿をやわらかい光のなかに導き出す。しかしここでのアントヌッティは決して屹立しているのではない。杖や骨や振り子のかわりに、闇という無形の支えにもたれてかろうじて立っているのにすぎないのである。

一方エストレーリャは、初聖体拝領の朝の家の門のシーンのように、なにも持たずに立つことができる存在である。この二人がおたがいの体を支えあうシーンが一ヶ所だけある。聖体拝領が終わったあとの家でのパーティーで、父娘が「世界(エル・ムンド)」というパソドブレを踊る場面だ。カメラはエステレーリャが腰かけていたにちがいない椅子を写して次第に引いてゆき、テーブルを囲む親族たちをとらえたのちに、踊る父娘の姿をノーカットで写す。ではこの踊りで父は男らしく娘をリードしているかといえば、そうではなく、ふだんの無表情とは打って変わって珍しく微笑んではいるものの、足取りはおぼつかなく、ぎこちなく、どっちがどっちをリードしているかにわかには談じがたい不思議な踊りを踊っている。ところがエストレーリャは、おそらくは初めてであろう父との濃厚な肉体の接触に喜色満面で、足取りも軽やかである。ここでもまた、〈立つこと〉において、女は男の上位にある。だが、この上下関係は、父親のぎこちなさと、父娘の過度の身長の差によるアンバランスにより、ふとしたきっかけでがらがらと音を立てて崩れ去ってしまうかのような、きわめて不安定な関係をなしている。うっかりすると崩壊してしまうかもしれない肉体の接触。ここにビクトル・エリセの類稀なる映画作家としての資質がうかがえる。観客が瞳を凝らして見つめていないといつなんどき消え去るかもしれない父娘の共演の危うさは、『エル・スール』というフィルムが、いつなんどき映画でなくなるかもしれない危うさに等しい。そのぎりぎりの限界を生々しく生きているのが、このパーテイーの場面である。

『ミツバチのささやき』の主人公アナの父を演じるフェルナン・ゴメスは養蜂家である。彼もまた、仕事をするときは必ず道具を携え、家にいるときは椅子に座っている。そして、なにももたずに地平線を見据え、屹立するのは、彼ではなく、年端もゆかぬ幼い娘のアナである。物語は、屹立する少女をめぐって展開し、やがてフェルナン・ゴメスは物語の周縁に追いやられ、スクリーンから姿を消す。『エル・スール』でも、屹立できないアントヌッティは自ら命を絶つ。生き残るのは、いずれも、屹立する少女たちである。

3. 着替えること

だがエリセの映画にみられるフォード的な記号は、屹立する女だけではない。ここで分析されるべきなのは、ジョン・フォードの遺作『荒野の女たち』である。蓮實はエリセの空間把握が、たとえば平原の一軒家にみられると述べているが(註2) 、果たしてそれだけだろうか。エリセはたしかにジョン・フォードを崇拝しており、なかでも『荒野の女たち』が最も美しい作品だと告白している(註3) 。では『荒野の女たち』とエリセを結ぶものとはなにか。

『荒野の女たち』は西部劇ではない。舞台はモンゴルの辺境の伝道教会であり、それもハリウッドのセットでつくられたものである。主人公は、その身なりからは日本人なのか中国人なのか判断がつかない衣服を身にまとった女医アン・バンクロフトで、馬賊の首領に抱かれることによって仲間の白人たちの命を救うという、まるで荒唐無稽な物語である。

ここでふたたび蓮實重彦の批評に触れよう。蓮實は『荒野の女たち』のアン・バンクロフトを「醜い」と述べてこう言う。「醜い化粧と、醜い髪型と、醜い衣裳とで満艦飾に飾りたてたアン・バンクロフトが、これもことさら醜さを誇張したメークアップの元プロレス選手マイク・マズルキの馬賊の首領に身をまかそうとする瞬間、それよりも一瞬早く相手に盃に毒を盛り、みずからもそれをあおって命を絶つバンクロフトが、着物のすそを乱して床に崩れ落ちると、その醜い死骸のまわりで照明が暗くなってゆく。〔中略〕ジョン・フォードは、その醜さによって美しいのだ」(註4)

「美しい」という形容詞は蓮實が好んで用いる言葉である。うっかりすると審美的な美を想起してしまいそうになるが、蓮實はそうではないと言う。「美しさとは審美観の問題ではなく、映画が映画たりえなくなる限界点での瞳の体験の謂だ」(註5) 。だが形容詞は命題を立てられないということをここでの蓮實は忘れている。命題はつねに名詞で立てられねばならない。では『荒野の女たち』のフォード的記号はなにか。それは「醜い」といった形容詞であってはならない。観客の瞳が驚異を感じるのは、アン・バンクロフトが幾度も着替えをするときである。

アン・バンクロフトが伝道教会に現れるときのいでたちは、カウボーイハットに皮のジャンパーである。しかも西部劇のヒーローのように、階段に片足を乗せ、タバコを吸い、吸殻をぞんざいに投げ棄てて、口元にはシニカルな笑みすら浮かべる。ではその姿がさまになっているかといえば、そうではない。観客の誰の目にも、アン・バンクロフトのカウボーイ姿は、とってつけたような薄っぺらなものとして映る。西部劇のヒーローたちが、屹立することもできないような不安定な存在であったことを、アン・バンクロフトはここで模倣している。

不安定さを助長させるのは、アン・バンクロフトの着替えである。あたかもカウボーイ姿がかりそめの恰好であったかのごとく、伝道教会に勤務しはじめるアン・バンクロフトは女医の衣裳に着替える。そして、物語の最後に、馬賊の首領に身をゆだねるとき、彼女はふたたび着替える。髪はアップにまとめ、かんざしを挿し、着物を着るのだが、襟はだらしなく首の後ろに下がっており、したがって着物全体が背中の方にずれている。着物の柄は、日本のものか中国のものかまるでわからない怪しげな模様で、まるで出来損ないの『蝶々夫人』の主人公さながらである。

『荒野の女たち』のアン・バンクロフトには固有の衣裳というものがない。たえず着せ替え人形のように、お仕着せの衣服に身を包む。しかもいずれもさまになってはおらず、いかにもとってつけたような恰好である。蓮實が「醜悪」と呼ぶ所以である。だがここで忘れてならないのは、醜悪ながら、アン・バンクロフトは屹立する存在だということである。馬賊に身をゆだねるとき、馬賊の首領は椅子に腰かけている。あやしげな着物姿のアン・バンクロフトはそのかたわらになにももたずに立ち、軽蔑と諦念のいりまじった表情で首領を見下ろす。そして観客の魂が揺さぶられるのは、だらしない着物姿のアン・バンクロフトが、闇に包まれた廊下を奥に進むシーンだ。スクリーンの奥の闇は、男なのか女なのかさえわからないアン・バンクロフトの曖昧さと衣裳の不安定と呼応している。

では、アン・バンクロフトに等しいエリセの登場人物とはだれか。それは『ミツバチのささやき』のアナではく、『エル・スール』のエストレーリャである。すでに述べたように、開巻劈頭のエストレーリャは、南部へ旅立つ朝のベッドで眠っている。父の自殺のショックで心身消磨したエストリーリャは病床にあり、転地療養しようとしている。映画のラストのカットで、このシーンの続きが見られる。エストリーリャは遠出のために着替えを済ませている。だがその衣裳は決して華やかなものではなく、むしろ色彩を奪われた、地味なものである。

エストリーリャの着替えがもっとも重要なのはここではない。それはまず、初聖体拝領の日前日、アンダルシーアから父アグスティンの母と乳母ミラグロスがやってくるのを迎えるために母親にとっておきの服を着せられるときである。エストレーリャが着替えるときは、自ら率先して行うのではなく、必ず親の言いなりになる。首元にフリルがある青いワンピースを着せられたエストレーリャは、母が髪を七三に分けようとするのを「いやだ」と言って駄々をこねる。髪型も衣裳のひとつであってみれば、エストレーリャは自分に固有の衣裳を欲しているのだが、親はそれを許さない。次に重要なのは、翌日の初聖体拝領の日の朝である。やはりここでもエストレーリャは母に純白のドレスを着せられる。父アグスティンの乳母が「きれいだよ。花嫁みたいだね」と言うほど、その姿は凛としてさまになっている。エストレーリャは自分の姿を姿見に映して眺める。もちろん手にはなにももたず、屹立している。だが「花嫁」という喩えをエストレーリャは気に入っていない。それは前夜の寝室でのエストレーリャとミラグロスの会話からうかがえる。ミラグロスは、初聖体拝領の衣裳は花嫁のようだと言ってひとり悦に入っている。。だがエストレーリャは「花嫁はみんな間抜けの顔をしている」と言ってミラグロスを驚かせる。女なら誰でも花嫁衣裳に憧れるであろうといった通俗的な観念を、幼いエストレーリャはすでに軽蔑しているのだ。それは、〈お仕着せ〉に対する苛立ちである。固有の衣裳を身にまとえないことがエストレーリャには耐えがたいことなのだ。

アン・バンクロフトは、屹立する存在ではあるものの、固有の衣装を身につけることを許されなかったために、最後は自害する。エストレーリャは自ら命を絶つことはしないが、やはりお仕着せの衣裳を着せられることで、ラストシーンでは病を患い、転地療養を余儀なくされ、やがて舞台となったスペイン北部の町から離れることになる。固有の衣裳を身にまとえない女はスクリーンから消える。

では『ミツバチのささやき』はどうか。主人公アナとその姉は年端もゆかない幼女である。当然服は親が着せる。だが彼女たちが着替えるシーンはスクリーンに登場しない。アナは『フランケンシュタイン』を観てから怪物の妄想にとりつかれる。そして、荒野の一軒屋に脱走兵を見つけると、『フランケンシュタイン』の少女が怪物にやさしく接したように、脱走兵に食料を恵んでやる。『フランケンシュタイン』と脱走兵の逸話はもちろんアナロジーである。では『フランケンシュタイン』の少女が怪物の餌食となり湖水に静められたように、アナも脱走兵の犠牲になるかと言えば、そうではない。脱走兵はいつのまにか姿を消し、アナは生き残る。それはなぜか。言うまでもなく、アナはスクリーン上で着替えをしないからである。

スクリーン上でお仕着せの衣服を身につけさせられる女は、死ぬか遠方に追いやられる。これがフォードとエリセのフィルムに共通する法則である。だが、フォードとエリセの女たちは、屹立することで輝かしい勝利をものにする存在ではなかったか。この齟齬はなにを意味するのか。これが次の問いである。

4. 作家論からジャンル論へ

ここで西部劇の定義を再検討しておいて損はあるまい。加藤幹郎は『映画ジャンル論』で西部劇をこう定義づけている。「ハリウッド製西部劇は、我が身にふりかかった不合理な暴力はみずから銃によって合理的に排除するというイデオロギーにおいてしか成立しない」(註6) 。ハリウッド製西部劇が男たちの物語であるという前提に立つならば、この定義は正等である。だが、これまでみてきたように、西部劇ではしばしば女が男の上位にある。したがって、西部劇はあらたな定義をも可能にする。それは、「屹立する女はいったん勝利をおさめ、お仕着せの服を着せられる女はスクリーンから放逐される」ということである。西部劇において、男が不安定な存在であることは上で述べたとおりである。だが、それ以上に、女もまた、しばしば、男にまさるともおとらず不安定な存在として描かれるのだ。

前節の最後に触れた齟齬は、映画を作家主義でとらえることに由来する。日本の映画批評で作家主義を神話の領域にまで高めてしまったのはほかならぬ蓮實重彦である。浅田彰が正しく指摘するとおり、蓮實の映画論は、ゴダールがビデオで撮影を始めたときに決定的な終わりを迎えたなにものかに対するノスタルジーであり、写真の凡庸性を前提としていながらテレビの凡庸性だけは頑として受け入れず、テレビに対抗して巨大になったスクリーンの画面に固執し、貴族的な挙措、徹底したスノビズムが彼の映画論を黄昏色に染め上げている(註7)

西部劇がアメリカという国民国家を創った最大の「神話」であることに疑いの余地はない(註8) 。西部劇とは映画のひとつのジャンルにすぎない。そして「ジャンルというものはけっして消滅するのではなく、ただあるとき中心を離れて周辺に至るが、いつ何時ふたたび回帰しないとも限らない」のである(註9)

ここでふたたび西部劇とエリセの映画を比較してみよう。エリセは人工の照明を廃し、自然光で事物をとらえる。もちろんこれは卓越したカメラマンのホセ・ルイス・アルカイネの功績である。そして音声にも細心の注意を払っている。『エル・スール』の冒頭で徐々に高まってゆく犬の咆哮、アルベニスやグラナドスの楽曲の巧みな挿入など、例をあげればきりがない。だがなによりも驚かされるのは、エリセのフィルムは、音声がなくても物語が伝わる点である。幼いエストレーリャが自転車に乗って「国境」と呼ばれる家の前の並木道を奥へ走り去るシーンを思い出そう。カメラは道の真ん中に据え置かれ、左右に並木があり、道はスクリーンの奥の消失点に向かって遠ざかっている。幼いエストレーリャが消失点に向かって自転車をこぎ、やがて姿が見えなくなると、ゆっくりと木立が伸び、季節が変わり、消失点から、幼女から少女に成長したエストレーリャがやはり自転車でスクリーン手前にやってくる。これは明らかにサイレント映画の手法である。

四方田犬彦が述べるように、サイレントからトーキーへの移行が「進歩」だというのは二重の誤りである。「無声映画の登場人物においては、まず実存が本質よりも先行していた。彼らは心理的内面をもった唯一無比の人格であるより前に、滝壷に飛び込む身体であり、デパートのエスカレーターに乗ろうとしていつまで経っても失敗ばかりしている身体であった。映画は運動の純粋なる連続であり、悦びであって、文学からも演劇からも明確に独立した説話行為の一ジャンルとして市民権を得ていた。音声の導入はこうした映画のアイデンティティーを根底から揺さぶり、それを演劇に従属させることになった。〔中略〕もうひとつ忘れてならないのは、ひとたびトーキーの段階に達した映画のなかに、機会あるごとに無声映画への先祖帰りの衝動が見受けられることである」(註10) 。『ミツバチのささやき』も『エル・スール』も、音声を遮断してスクリーンを見つめるだけで物語が理解できるように撮影されている。『エル・スール』の場合、大人になったエストレーリャの美しいナレーションに従って物語が進むが、ナレーションがなくても一向にさしつかえない。リドリー・スコットは『ブレード・ランナー』のディレクターズ・カット版でハリソン・フォードのナレーションを取り去ったが、仮に『エル・スール』からナレーションが奪われたとしても、スクリーンの輝きはいささかも衰えはしない。なぜなら、エリセのフィルムの女たちは、屹立し、お仕着せの衣裳を着せられ、荒野を駆け、自転車で遠ざかる、まさに「実存が本質よりも先行している存在」だからである。ではエリセやフォードは単なるサイレント映画の反復であり模倣なのだろうか。そうではあるまい。前節で述べた齟齬はサイレント映画にはない。したがって、この齟齬は映画の新しさを意味している。

5. 臨界点の映画

エリセの映画はノスタルジーとは無縁である。フォード的記号があちこちにちりばめられているものの、西部劇というジャンルの輪郭にすっぽり収まっているわけではない。『ミツバチのささやき』と『エル・スール』を観て、フォードを思わせるのは、あくまでも「屹立する女はいったん勝利をおさめ、お仕着せの服を着せられる女はスクリーンから放逐される」という点においてであり、とりわけ『荒野の女たち』との関わりにおいてである。

『荒野の女たち』のアン・バンクロフトは、固有の衣裳をもたない、西洋人とも東洋人ともつかない、一種の怪物である。『ミツバチのささやき』のアナもまた、フランケンシュタインに心を奪われている怪物的存在といってよい。『エル・スール』のエストレーリャは、やはり怪物と呼ばざるをえない、得体の知れない父親の共犯者として描かれ、やはり怪物的側面を持ち合わせている。怪物とは、定義不可能なものの謂である。定義の不可能性は、『ミツバチのささやき』と『エル・スール』の主題であるスペイン内戦の定義の不可能性に等しい。そして、怪物的な女が主人公である映画そのものもまた、怪物となる。『ミツバチのささやき』と『エル・スール』は、『荒野の女たち』が拒むように、定義づけを拒む。だからこそ観客は、まるで生まれて初めて映画を観るかのような身震いとともにスクリーンに目を奪われる。エリセの映画は映画の臨界点を生きているのである。

(註1) 蓮實重彦『映像の詩学』筑摩書房、1989年、14頁。
(註2) 蓮實重彦『映画狂人シネマの煽動装置』河出書房新社、2001年、271頁。
(註3) 同上、272頁。
(註4) 蓮實重彦『映像の詩学』、9頁。
(註5) 同上、8頁。
(註6) 加藤幹郎『映画ジャンル論』平凡社、1996年、318頁。
(註7) 浅田彰『逃走論』ちくま文庫、1986年、299-300頁。
(註8) 港千尋『映像論』NHKブックス、1998年、260頁。
(註9) 四方田犬彦『映画史への招待』岩波書店、54頁。
(註10) 同上、52-53頁。