ある思想家は「われわれはいつも『過渡期』に、『時代と時代の間』に生きている」といっています。ここでいう〈あいだ〉という概念はとても重要だと思われます。仏教、キリスト教、イスラム教といった世界宗教が誕生したのは、異民族が絶えず行き交っていた、共同体と共同体の〈あいだ〉においてでした。ある時代が画されるのも、異文化、異民族が交わる〈あいだ〉においてにほかなりません。
アンダルシアがわれわれの歴史感覚を刺激してやまないのも、おなじ理由によります。『われわれはどんな時代を生きているか』という著書の中で、歴史家の山内昌之氏が面白いことを述べています。10世紀から11世紀にかけて、アンダルシアの古都コルドバは、、19世紀のパリ、20世紀のロサンゼルスに比肩するかそれを凌駕するほどの世界都市だったというのです。
ここからは、アンダルシアを、もう少し厳密に、当時のイスラム教徒が呼んでいた〈アル・アンダルス〉という名で呼ぶことにしましょう。711年にウマイヤ朝の将軍がスペインに渡ってから、1942年にキリスト教徒がレコンキスタを完了させるまでのおよそ八世紀間、スペインはカトリック教とイスラム教とユダヤ教が共存するという、ほかのヨーロッパにはみられない歴史を生きることになりますが、その初期の中心地がアル・アンダルスのコルドバでした。ある統計によると、周辺地域を含めた10世紀の人口は50万人で、これに匹敵するのはコンスタンチノープルやパレルモ、バグダードくらいなもので、中世のイスラム文化が発展したのはコルドバのおかげだといっても過言ではなく、あのヴェルサイユ宮殿さえ、池の魚の餌のために毎日1万2千個のパンを費やしたというコルドバのアッ・ザフラー宮殿に較べれば亜流だといわれても仕方がないほどだったというのです。
物質的豊かさもさることながら、アル・アンダルスの知的洗練はカトリック教、いや、いにしえ古のローマをさえ凌ぐものでした。それを支えていたのがユダヤ人であることを忘れてはなりません。当時のユダヤ人は今とは較べものにならないほど高い地位にあったのです。コルドバ生まれのサムエル・ハ・ナギドはグラナダのムスリム小王朝の宰相で、イエスの時代以降、軍隊を指揮した初めてのユダヤ人だそうです。同じくコルドバに生れた思想家マイモニデスはアリストテレス哲学に磨きをかけました。彼に代表されるユダヤ人知識人たちは、哲学、数学、医学の書物をアラビア語からラテン語やロマンス諸語に翻訳し、のちのヨーロッパの知性の深化に大きく貢献しました。
こういうと、アル・アンダルスは知性と芸術が支配していた土地であり、俗っぽさなどかけらもないように思えるかもしれません。でも違います。先ほどコルドバは「世界都市」だといいました。「世界都市」の世界都市たる所以は、高尚さと卑俗さが平気な顔をして共存していることにあるのです。コルドバの軍隊にはマグレブのベルベル人や東中欧からきたスラヴ人も大勢いました。異なる文化と言葉をもつ民族があらゆる場所ですれ違い、酒池肉林の日々を過ごしていたことも明らかになっています(イスラム教徒の高官とカトリックの司祭が顔を揃えて宴会を催していたことも稀ではありませんでした)。しかし、こうした文化多元性は、今でいうところの〈原理主義者〉たちによって徐々に失われていきます。98年に公開されたエジプトとフランスの合作映画、ユーセフ・シャヒーン監督の『炎のアンダルシア』をご覧になれば、当時のコルドバがいかに国際的な都市であり、良い意味でのいかがわしさに満ちていたか、そして、『アリストテレス注解』で知られる思想家アベロエスが新興の〈原理主義者〉たちによっていかに迫害されていったかが、つぶさに見て取れます。アル・アンダルスがレコンキスタにより縮小され、最後の砦となったのがグラナダでした。〈赤い城塞〉という意味のアルハンブラ宮殿を訪れる方は、ぜひ、アル・アンダルスの栄華と智恵の豊かさに思いを馳せていただきたいと思います。
このグラナダで、今世紀のスペイン最大の詩人、ガルシーア・ロルカが生を受けました。ロルカといえばグラナダ、そしてフラメンコ、というイメージを持つ方は多いと思います。たしかに1922年にマヌエル・デ・ファリャと組んでカンテ・ホンドのコンクールを開いたり、『ジプシー歌集』などの詩集も出版し、さらにフランコ側による暗殺といういわば劇的な死を演じてしまったがゆえに、彼は長い間〈フラメンコの擁護者〉〈革命詩人〉といったロマンチックなイメージのもとに語られてきました。ですが、物事を理解するのにイメージほど質の悪いものはないのです。彼はマドリードでブニュエルやダリとともに学生時代を過ごしましたが、彼と訣別したこの二人がフランスで撮った映画『アンダルシアの犬』というタイトルは、ロルカの野暮ったさと同性愛を皮肉って考えられたものです。ロルカは1929年にニューヨークに渡り、世界恐慌を目の当たりにして詩集『ニューヨークの詩人』を書き、翌年訪れたキューバでは、のちのイヨネスコらの不条理演劇の先駆的作品といえる『観客』という戯曲を執筆しました。30年代には南米にも渡り、戯曲を上演し、講演もしました。彼は決してコスモポリタンではなく、ましてや昨今よく耳にする〈国際人〉でもありませんでした。彼は詩作と劇作に関する思考を極限にまでおし進めることによってのみ、国境を越えたのです。ソクラテスは「われはアテネ人にあらず、ギリシア人にあらずして世界市民なり」といいました。その意味で、ロルカもまた〈世界市民〉だったのです。
スペイン語には «la España de pandereta» というフレーズがあります。闘牛とフラメンコに象徴される異国情緒あふれるスペイン、といった意味です。ですが、アンダルシアには、単なる異国情緒だけではなく、現在の民族紛争や原理主義の問題を考える上で、とても示唆に富んだ歴史があります。今度アンダルシアを訪れるときには、アル・アンダルスの歴史的意義にも思いを馳せていただければと思います。