漫歩雑考
愛知県立大学スペイン学科同窓会会報『¡Hola!』第8号(2003年11月)

本 日課の早朝散歩から帰宅し、愛知医科大学が間近に見える書斎でこの原稿を書いています。今春やむなく県立大の職を辞して以来、体を根本的に鍛える必要性を痛感し、かといって生来健康のために何かをするというのが不得手なので、趣味のバードウォッチングを日課にすれば長続きするのではないかと思いつき、毎朝近所の公園を歩いています。アオサギが小魚を一瞬のうちに捕えるのを目の前で見ると、それがアオサギにとってごくあたりまえのことだとは分かっていても、〈あたりまえであること〉はそれ自体が驚異なのだという事実にあらためて気づかされます。日が昇れば目が覚め、夜が更けると眠くなるというあたりまえの暮らしのありがたさを、十年ぶりくらいに味わっています。

アリストテレスがアテネに開いたリュケイオンの学徒が逍遥学派と呼ばれていたように、歩くことと思考のあいだには密接な関係があるようです。何も考えずに歩いていても、五感はフル回転していますから、汗はかくし、そのうち足の裏も痛くなってくる。痛いのは厭なので、痛くならないように歩く方法を考えます。振り出した脚は膝を伸ばして着地させる。足の指で地面をつかむ。腕は後ろに大きく振ると脚が自然に前に出る。体にひねりが生まれる。ひねりの中心は腰なので、腰の移動に脚がついていくような感じになり、歩行が楽になる。

これで話が終わればいいのですが、「待てよ」と疑問が湧いてきます。腕を大きく振って歩くのは本当に「自然」なことなのだろうか。子供の頃、左右の腕と脚を同時に前に出す、いわゆる「ナンバ」という歩き方をする人が結構いました。三浦雅士の『身体の零度』という本によると、これは農耕民族特有の歩き方だそうです。右脚が前に出るときは右肩が前に出る、極端に言えば、右半身全部が前に出る。古来日本人は整列行進ができなかった。明治19年に高等師範学校が体操専修科という課程を設けて、兵隊にふさわしい動作を教育し、はじめて日本人の体が「近代化」された。ということは、近代的な日本人の体は軍事技術の産物ということになり、こうしてせっせと歩いている私が行きつく先は徴兵なのかと、おそろしい結論に達してしまうのですが、体のありようをたえず考える、あるいはたえず考えていなければならないのが、俳優という人たちです。

県立大講師の肩書きは失ったものの、スペイン語と演劇を専門にしている人が少ないせいでしょう、ときどき仕事の依頼を受けます。小説『容疑者の夜行列車』で今年の伊藤整賞と谷崎潤一郎賞を受賞した多和田葉子さんの戯曲『サンチョ・パンサ』をスペイン語に翻訳し、劇団らせん舘が今年の一月チリの国際演劇祭で上演、好評を博して六月のマイアミ国際ヒスパニック演劇祭に招聘されました。同じくスペイン語に翻訳した『竹取物語』を人形劇の劇団影法師が三月にメキシコで上演、演出したのは文学座の鵜山仁さんです。三月末には、十一年前に翻訳したスペインの戯曲家ホセ・ルイス・アロンソ・デ・サントスの『モロッコの甘く危険な香り』を劇団青年座が再演しました。翻訳したのは修士課程に在籍していたときで、まさか再演される日が来ようとは夢にも思いませんでした。

台詞が俳優の体をとおして客席に放たれる。翻訳者としてこれほど嬉しいことはありませんが、俳優がいろんな演劇人と交流して成長していくワークショップに立ち合うのも、これに劣らず楽しいことです。ワークショップはスペイン語で taller、年齢も経歴も異なる俳優たちが、著名な演劇人の指導のもとで肉体訓練や即興演技をする、文字どおりの「工房」です。日本演出者協会という組織があり、四年前から海外の演劇人を招いて東京で開催しています。今年は六月にプエルトリコの演出家で劇作家のラモス=ペレアさんがワークショップと講演会を開き、八月にはバルセローナで人形劇とフラメンコをミックスさせた舞台創りをしているアンドレウ・カランデールさんが招かれました。参加者は十代から七十代まで三十余名。フラメンコのフの字も知らない人たちが二日目にはブレリアやソレアの群舞を踊ったのは感動的でした。

六月に名古屋大学出版会から『スペイン黄金世紀演劇集』という翻訳集が出版されました。セルバンテスやソル・フワナなど、どれも本邦初訳で、私はカルデロンの「名誉の医師」を担当しました。どんな芝居か、毎日新聞に丸谷才一さんが書評を寄せて下さっていますので、「通読するのは面倒だけど知ったかぶりしたい」という方はインターネットの書評欄をご覧下さい。アドレスは http://www.mainichi.co.jp/life/dokusho/2003/0629/03.html です。

かくいう私も三年前からウェブサイトを運営しています。タイトルは theatrum mundi。「世界劇場」「世界は劇場である」という意味のラテン語です。スペインの演劇の紹介をモットーに始めましたが、文部科学省に叱られそうな「悪魔のスペイン語講座」やテレビ放送開始から現在に至るまでの主なコント番組の歴史をまとめた「TVコント大全」、永井荷風の『斷腸亭日乘』のスタイルでつづる日記、漫才台本など、何のサイトか分からない様相を呈しています。アドレスは http://www.theatrum-mundi.net です。

芝居や映画を観たり本を読むたびに思うのは、〈新しいとは何か〉ということです。「洋書を読んで勉強する若者が年々少なくなっている。若いときに洋書を読破すれば、中年になってから漢文を読むときにも大いに役立つのに」。こう慨嘆しているのは永井荷風で、昭和4年です。「今のおもちゃはどれも精巧だが、教育上は昔の方がいい。昔は物が不自由だったから、粗末な紙を切ってへたくそな物をこしらえて遊んだものだ。今では何でも手に入る。金があれば立派なものを何でも買える。だから子供自身で工夫する必要がない。学校の授業が多すぎて遊ぶ時間がないからこういうことになったのだろうが、手で物を作って遊ぶ方が学校の勉強より効果があることに気づいていない教育者や親が多いから困る」。坪内逍遥、大正12年です。「近頃は、自分自分と言って、どんな勝手なことをしても構わないという風潮があるが、自分の自我を尊重すると言いながら、他人の自我はちっとも認めようとしないのは不公平だ」。大正3年、漱石が学習院で講演したときの話の内容です。荷風も逍遥も漱石も、今に通じるものがあるからこそ、その著作は読まれつづけているわけですが、同時に、どうしようもなく古びてしまったところがあるのも確かです。カルデロンの「名誉の医師」では何が通用し、何が通用しないのか、感想を聞かせて下されば幸いです。