バイレ・フラメンコは個の踊りである。劇場での群舞には群舞ならではの魅力があるが、その美しさは遠近法にもとづいて設計される劇場の構造に規定された美だ。だがその始原を思えば、ひとり踊り、個の踊りに極まる。誰かが歌を口ずさむ。手拍子が加わる。いてもたってもいられなくなった者が踊り出す。興が乗ってきたところでひとり、またひとりと、踊りの輪が広がる。
セルバンテスの『模範小説集』に「ジプシー娘」 La gitanilla という短編がある。主人公の名はプレシオーサ。愛嬌あふれる歌と踊り、類稀なる美貌で人々を魅了する。作中人物としての彼女はまことに魅力的で、のちにガルシーア・ロルカは「プレシオーサと風」という詩をダマソ・アロンソに捧げている。だが、特筆すべきは彼女の賢さだ。開巻劈頭セルバンテスは彼女の礼儀正しさとすぐれた分別をこんな風に強調している。
「プレシオーサはジプシーの中でも飛びぬけた踊り子になった。その美貌と思慮の深さは、ジプシーに限らず、才色兼備と世間で評判のどんな女も太刀打ちできないものだった。太陽の日差しや風など、ジプシーほど天候の厳しさに晒されている人間はいないが、それでもプレシオーサの顔と手の輝きは損なわれることがなかった。その上、教養とは無縁の環境で育ったはずの彼女はどう見てもジプシーではなく、もっと身分の高い家柄の出としか思えなかった。というのも、礼節と利発さが並外れていたからである」
ジプシーとは思えないと書くことで、セルバンテスは彼女の出自の曖昧さを仄めかしている。
考えてみると、小説という文学ジャンルもまた出自が曖昧である。近代小説の嚆矢は『ドン・キホーテ』、現代小説は『ボヴァリー夫人』とするのが定説だが、どちらにも共通するのは突然変異と言っていいその突発的な出現である。『ドン・キホーテ』は『アマディス・デ・ガウラ』などの騎士道物語を換骨奪胎し、騎士道物語そっくりの、言わば〈双子の片割れ〉として物語が始まり、いつしか、従来の騎士道物語とは似ても似つかない相貌を身にまとう。過去の伝統だけでは説明できない突発的な〈事故〉として生まれたのが『ドン・キホーテ』である。
同時代のスペインの演劇に目を向ければ、ロペ・デ・ベーガやティルソ・デ・モリーナ、カルデロン・デ・ラ・バルカがいる。フランスではたとえばラシーヌのようにアリストテレスの劇作法に忠実に従ってギリシア彫刻のような端正で純然たる悲劇が生まれたが、スペインの戯曲家ははこうした規則に真っ向から反対した。「規則は自分で作るもの」というのがロペやティルソの立場だった。およそ二時間の上演時間に収まるのであれば、一幕と二幕で時間や空間が飛躍しても構わない、話の筋が一貫していればよろしい。そんな彼らの作品でしばしば目にするのが、こんなセリフである。
"Yo soy lo que soy."
直訳すれば「私は私だ」である。これ以上の同語反復があるだろうか。
イギリスやフランスの文学でこのような表現を目にすることはまずない。私は私である。私の主は私ひとりである。私が従う規則は私が決める。表現こそ違うが、プレシオーサも同じような言葉をよく口にする。出自が曖昧なプレシオーサは言ってみれば〈孤児〉である。セルバンテスの『ドン・キホーテ』も文学の〈孤児〉と言えよう。いわゆるスペイン黄金世紀の戯曲家たちの作品もまた〈孤児〉なのだった。
20世紀前半の人文学者メネンデス・ピダルは、スペイン人の特質のひとつとして、その強烈な個人主義を挙げている。
「スペイン人が社会的連帯性を感じるのは即座の利益にかかわるという限りにおいてであって、間接的な利益とか身近でない利益には意を用いない傾きがある。ここから相対的利害に対するかなりの程度の無関心が生じる。つまりたんに己ばかりでなく他人をも含めた直接的個人的ケースに関しては生きいきとした理解を示すのに比べて、全体については理解が不足しているという事態である。
このような個の優先は、集団生活の二つの基本原理、すなわち集団生活を規制する正義、ならびに集団生活を秩序づける選択の概念にきわめて直接的な影響を及ぼしている」
(『スペイン精神史序説』佐々木孝訳、法政大学出版局、45頁)
現代のわれわれにとって個とはすなわち内面である。そして、内面が〈発見〉されたのは近代以降に過ぎない。中世の絵画に描かれる人物をみて、ある特定の個人がそこに描かれていると思えないのは、まだ〈内面〉が発見されていなかった証拠だ。インド北部に発したとされるジプシーの旅がイベリア半島に到達し、アンダルシーア土着の民俗文化を取り入れてバイレ・フラメンコが生まれたのも近代に入ってからである。近代以降、われわれは、舞台であれ文学であれ映画であれ、あらゆる芸術に内面の発露を求めずにはいられなくなった。逆に言えば、内面という牢獄に監禁されているのである。
〈内面〉を表すスペイン語は主にふたつある。ひとつはインテリオール interior、もうひとつはアデントロス adentros だ。もともと「中へ」「内へ」「奥へ」という意味の副詞である adentro が、名詞として使われる場合は複数形になる。日本語で「こころ」とか「内面」と口にするとき、その在処もかたちもぼんやりとはしているものの何かひとつの塊として胸の内側に漂っている感じがするものだが、アデントロスは、〈内面〉はたったひとつではなく複数から成るとはっきり宣言している。芸の魂を求めて、己の内への旅を始める。すると、そこには幾重にもかさなる茫洋たる世界が広がっている。その深淵を窺って身震いしない者はあるまい。「私は私だ」という同語反復に眩暈を覚えない者がいないように。
バイレ・フラメンコが個に立脚した踊りであり、そのルーツがいまだ曖昧な推測の域を出ないことを思えば、すなわちプレシオーサ同様バイレ・フラメンコもまた〈孤児〉なのであってみれば、踊り手が頼りにできるのは自分自身をおいてほかにない。おそらくその踊りには、その人固有の人生の論理が凝縮されているはずである。