左手にホテル、ハイアット・リージェンシー・オーサカ。右手にインテックス大阪。港館の北側はなにもないが、近々ニュートラムが延びて「海浜緑地駅」ができる予定。会場の駐車場入り口に〈南風〉という看板がライトの光を浴びている。奥に巨大な体育館を思わせる客席がみえる。去年よりさらに大きいのではないか。
時計を持参し忘れ、時刻は分からないが、たぶん5時10分か15分くらいだと思う。5時から受付をはじめる、というから、去年のように、チケットに印刷されている番号順に整理券を貰えるものとばかり思って、この時間に行ったのだ。ところが、行列などなく、名物の屋台村に多少人がいる程度。もぎりのお姉さんは「6時15分から入場開始です」といってチケットを切る。急がなくてもよかったのだ。屋台村でブルースバンドが生演奏している。
6時。開場。去年の屋台村は雑然と並んでいて闇市っぽい雰囲気だったが、今年は、丸く並び、中央にかがり火を焚いて、ブルースバンドがギターとベースの生演奏で歌っている。露天はさまざま。泡盛や〈ホットリカ〉なるものを売る店。スープ屋は〈本日のスープ〉のトマトスープをパンといっしょに売っている。隣では文化鍋でココアを煮ている。シシカバブーを焼いているところあり、おでんの店あり、CDやポストカードなどの維新派グッズの店あり。ちょうど片側が斜面になっているところに座ったり露天の前に立ったりして、酒やおでんを片手に、バンドの演奏を聴いている人多し。去年は人がうごめいていたが、今年はあまり動かない。
ぴあ、ローソン、維新派と、チケットの種類ごとに整理券順に並ぶ(維新派の列の九十四番)。カップル、知人友人のグループ、家族。ひとりで来ている人もごくたまに見掛ける。二十代から四十代まで満遍なくいる。六十を越えている人もいるぞ。それぞれ五十番まで、次は百番までという具合に、一斉に入場する。四列、合計二百人がワッと入る。整理番号はあまり意味がない。入り口の上は木材で組んだ船の舳先。座席は十人がけのベンチが三列ずつ、二十段ほどある。前から十列目くらいのところの右の列の中央寄りに陣取る。通路をはさんで二列前に扇田昭彦を発見。隣の女性はどうみても白石加代子(後日記す。彼女は十月十五日から十八日まで、ロンドンで蜷川演出の『身毒丸』に出演していた)。どこかの劇団のスタッフだろうか、三十くらいの男と、五十代とおぼしき白髪混じりで眼鏡の男性もいっしょ。通路にもござを敷いて客が座る。
おそらく十分くらい押して『ヂャンヂャンオペラ☆南風』開演。中上健次の『奇蹟』に『千年の愉楽』のエピソードをちりばめたもの。維新派初の原作物。波の音。少女達。〈空飛ぶ巨大魚〉。波。奥には新宮の町と山の連なり。チンピラに追われるタイチ少年(春口智美)。日傘をさし革の鞄を提げた女たち。船であらわれるチンピラ。舞台のあちこちからニョキニョキとあばら屋がせり上がり、上手と下手の手前は回転して家があらわれ、路地の街並みが忽然と立ち現われるさまに息を呑む。石を積んだ屋根。窓の向こうの裸電球。ボロボロに朽ち果てたポスター。町が出来上がるプロセスはいつ見ても心が躍る。
タイチ、ナカモトイクオら七人の少年たち。オリュウのオバ。少年たちとカドタのマサル(木村文典)の仲間との乱闘(ここは舞台奥まで走り回り、芝居が拡散する。冗長)。〈スマートボール〉〈理髪店ロング軒〉〈玉突き蓬莱〉〈御料理一寸亭〉などの店。台風五号接近をしらせるラジオニュース。「台風見に行くぞ」と叫ぶ少年。突風。家の裸電球が揺れ屋根が飛ぶ。カドタ組のチンピラを殺してしまうタイチは「極道になったる!」と路地を出る。
二十分の休憩。冷えこんできた。屋台の三百円の〈ホット・チョコ〉で躰を暖める(後日記す。ニフティーのFSTAGEによると、ラム入り。たしかにアルコールが入っていた。コロンビアだかグアテマラだかから直輸入だという)。
後半。マフラーを首に巻く。隣の中年夫婦(兄弟か)は百円の貸し毛布で躰をすっぽり包んでいる。少女たちが魚に語る。「○○も、××も死んだ」。路地に戻ってきたタイチ(加茂大輔)。町は廃墟と化している。ダンスホール。幻想の〈ラプラタ〉。カドタ興業と名前をかえたチンピラたちとの抗争。イクオは、なにもかも銀でできている〈ラプラタ〉に迷いこんだ幻をみる。カドタ興業に入りヒロポン中毒になり、首をくくるイクオ。タイチと仲間は復讐する。カドタは路地の再開発を計画。ニシムラはヒロポンのやりすぎで死ぬ。真っ赤な月。そこへカドタのチンピラ衆が襲う。タイチはガムテープでぐるぐる巻にされ、メッタ刺しにされる。イクオとタイチがみる幻。「ここはどこだ?」。忍冬の花びらが降る。路地一面が忍冬の園と化す。下手手前のあばら屋の二階の軒先に「たま」のボーカル、知久寿焼があらわれ、オリジナルの主題歌をうたう。カーテンコール。
原作物はむずかしい。乱闘にいたるまでの説明的な台詞劇になると途端に舞台の密度が薄くなる。〈段取りでやっている〉ことがミエミエになるのだ。とくにタイチの加茂大輔の、妙な間をおいた思わせぶりな演技は芝居を壊す。演出松本雄吉。脚本は松本と大田和司(何者?)。美術林田裕至。音楽内橋和久。音楽は生演奏。〈新神戸電脳立体管弦楽団〉。ギター、トランペット、コントラバス、アルトサックス、ソプラノサックス、ドラム、ヴァイオリン。ただし、ケチャとラップをミックスさせたような歌のところのドラムはすべて〈打ち込み〉で、時折オカズを入れる程度。
舞台の「路地」は被差別部落だ。維新派はつねに、社会的マイノリティーを主人公にする。被差別部落を扱った文学作品といえば、石川淳『寒露』、北条秀司『王将』、武田繁太郎『風潮』『夢園峠』、松本清張『眼の壁』、高木彬光『破戒裁判』、菊田一夫『がしんたれ』、司馬遼太郎『胡蝶の夢』、臼井吉見『事故のてんまつ』、金達寿『眼の色』『富士の見える村』、井上光晴『地の群れ』『村』『死者の時』、高橋和巳『貧者の舞い』、小田実『冷え物』、竹内泰宏『人間の土地』、住井よしゑ『橋のない川』、大西巨人『神聖喜劇』、野間宏『青年の環』、中上健次『岬』『枯木灘』『路地』『鳳仙花』、真継伸彦『鮫』『無明』『華厳』などがあるが、松本雄吉は中上健次に取り組んだ。
タイチを始めとする少年たちの物語は主に『奇蹟』、オリュウノオバは『千年の愉楽』にそれぞれ基づいている。路地におけるチンピラたちの抗争に巻き込まれて次々に死んでいく少年たちの〈喪失〉の物語だ。この〈喪失〉〈非在〉こそ、中上的〈路地〉の根拠である。路地とは、あるのにない場所、あってはならない場所、〈非在の場所〉である。〈非在の場所〉をギリシア語でユートピアと呼ぶ。劇中、イクオは、なにもかもが銀でできている〈ラプラタ〉に迷いこんだ幻をみる。今際の際にあるタイチは忍冬の花びらが舞う、どことも知れない場所の夢をみる。だからといって、この作品を、中上健次の忠実な舞台化として評価するのは難しい。細部にはたしかに〈喪失〉〈非在〉のモチーフがちりばめられている。だがストーリー展開は、決してうまくはない役者たちの台詞に頼りすぎている。この芝居の要は、やはり、路地という共同体に吹き荒れる〈南風〉であり、舞台を埋め尽くし、路地を埋め尽くす忍冬の花びらだ。父殺し、兄弟殺しをさかんに描いた中上文学の舞台、熊野の路地は日本が抱えるありとあらゆる矛盾の巣窟である。その路地に、一瞬ユートピア的な世界を現出させた、その一点のみで、この舞台は貴重である。
会場を飛び出す。数百人とニュートラム乗車を争うのは真っ平だからだ。気掛かりなのは、パンフレットの舞台イメージ図には「立チ上ガル高層ビル(ラストシーン)」という書き込みがあちこちにあること。これはカーテンコールのあとにやったのだろうか。だとすれば、残念ながら時間がなく、見逃してしまったのが悔しい。