カシオの電子辞書EX-word XD-H7500搭載の『広辞苑』第五版から「あ」の項目を順に網羅。2015年11月26日トップページで連載開始。2017年1月17日完成。
筒井が小説を書き始めて半世紀以上になる。書きたいことはすべて書いた、いつ引退しても悔いはない、そう信じて絶筆を宣言したことさえあったが、老い先が短くなるにつれて、俺はこんなもんじゃない、まだ書ける、このまま死んでたまるかと、執筆意欲がむしろ高まってきた。しかし題材が思い浮かばない。
今朝、原節子の訃報に接した。芸能界との交渉を絶ってやはり半世紀以上になる原節子は、きっとすでに人知れず黄泉の客となったであろうと筒井は想像していたので、凶音を聞いても驚かなかった。とはいえ、正真正銘最後の銀幕スタアがこの世を去ったのだと思うと、スクリーンを見つめて胸が轟いた若き日の思い出が蘇る。筒井は文机の抽斗をあけ、昔マルベル堂で買った原節子のブロマイドを引っぱり出して眺めた。するとブロマイドの原節子が言った。
「筒井さん、辞書を使ってみてはいかがかしら」
ぎょっとした。肖像写真が口を開いたのにも驚いたが、小説の題材についてアドバイスをくれようとは思いもよらなかった。
「日本語の語彙をぜんぶ使って小説を書くんです。名案だと思いますわ」
虚を衝かれた。これまで夥しい数の小説を世に問い、小説家としての地位と名声はすっかり確立したと自負するが、指摘されてみると日本語の語彙をすべて用いた小説は書いたことがない。いや、およそ文筆家と呼ばれる者のうち、日本語のボキャブラリーを網羅した作品を創り上げた人など皆無だろう。
「『広辞苑』の項目を『あ』から順番に使うのよ。きっと面白くってよ」
雷に打たれたような衝撃を受けた。辞書に載っている言葉を最初から順番に選んでぜんぶ小説にぶちこむのだ。幸い手もとには『広辞苑』第五版がある。「名案だと思いますわ」と語りかけた原節子の声は神々しかった。永遠の処女と呼ばれただけのことはある。天啓を得た筒井は躍り上がって床を踏みならした。
「うるさい!」
階下から住人の怒号が聞こえた。足の音をしのばせ、玄関を出た筒井は家の裏手に回った。畦に中学生の男の子が三人、それぞれ網を手に、鮒でも釣るのか、それとも蛙の卵が目当てか、水田の脇を流れる小川の水面を、腰をかがめて見つめている。
「アルゼンチンのアは亜細亜の亜だよ」
「嘘つけ」
「マジだって」
「じゃあ、アフリカは?」
「アフリカは違う。阿川とか阿部の阿を使って阿弗利加と書くんだ」
「なんか嘘くさいなあ」
子どものくせに生意気だ、と筒井は独りごちた。外国の地名を漢字で書けと言われたら、俺だって書けない。伊太利亜くらいならまだしも、ハンガリーとかコートジボワールとかパプアニューギニアとかになると、まるで見当もつかない。でも、いいじゃないか。俺は小説を書き始めたのだ。ついに妙なる案を得たのだ。この悦びをどう表現したものか。遠い山に向って思いきり叫びたい気分だが、どういうわけか声が出ない。唖だ。筒井は愕然として膝をつき、外壁の漆喰、すなわち堊をかきむしった。何の前触れもなく声を失うなんて、まさに痾ではないか。
「吾が生涯も、もはやこれまでか……」
涙が頬を伝う。嗚咽をこらえて顔を上げると、山の手前にキラキラと何かが光るのが見える。
「彼は何ぞや」
筒井は目を凝らした。
「あ!」
声にならない声を上げた筒井の視線の先で、輝く物体はさっと宙に浮かび、空に素早く幾何学模様を描いて飛び去った。未確認飛行物体としか思えぬその動きに呆然となった筒井の頭上を、唖唖と啼くカラスの声が響きわたった。
「俺もああいう風に空を飛んでみたい……」
筒井は未確認飛行物体を操縦する自分を脳裏に思い描いて、思わず嗚呼とつぶやいた。あれ? 声が出るぞ。なんだ、失語症になったと思ったけれど杞憂だったか。ああいう怪しい飛行物体には、きっと人知の思い及ばない魔力があるのだ。おかげで俺は声を取り戻したのだ。――いや、待てよ。こんな話をいつかどこかで読んだ覚えがある。ワシントン・アーヴィングの随筆だったろうか。それともジョン・アーヴィングの『ガープの世界』だったろうか。どっちだったか忘れたが、たしかに読んだ記憶がある。急に暑さを感じた筒井はアーガイルチェックのセーターを脱ぎ、アーカンソー州リトルロックに旅立った昔の恋人のことを思い出した。
筒井の恋人はコンピューターのアーキテクチャーを構築するエンジニアだった。留学先のアーカンソー大学から絵葉書を送ってくれたことがある。裏面は広大なキャンパスの写真で、表の文面によればロシア生まれの彫刻家アーキペンコの作品に出会い、とりわけなめらかなアークを特徴とする技法に心を奪われたと書いてあった。それまで藝術になど興味がなかったはずの恋人の胸の内に、さながらアーク灯のアーク放電が火花を散らすがごとく美術品への関心が芽生えたのを知った筒井は当時大学の三年生で、日曜大工が趣味だった。手先が器用だったから犬小屋からちょっとしたロボットまで、大概のものは何でも自分で作った。どんな材料も巧みに扱えたが、どうしてもうまくゆかないのかアーク溶接だった。何度挑戦しても失敗する。
「アークライトの爪の垢を煎じて飲め」
同級生の高橋によく言われたものだ。高橋は筒井と同じく文学青年で、学生の頃から文士と呼ぶにふさわしい風格があった。アークライトの顰みにならいたいのは山々だ。しかし、いかんせん産業革命に大きな影響を及ぼしたイギリスの発明家で、二百年以上前に死んでいる。どうやって爪の垢を煎じて飲めというのだ。高橋の無責任な放言にはうんざりする。いっそアーク炉に突き落として感電死させてやろうか。よし、思い立ったが吉日だ。筒井は悪魔じみたアーケイックな笑顔を浮かべて、高橋をあの世へ送る決心を固めた。
大学の近くにある商店街のアーケードを歩くと、まるで天の配剤かのように高橋の姿があった。少し離れたところから観察すると、古本屋の店先に立ってショーウインドーの中のアーサー王物語の背表紙をじっと見つめている。足下を見ると、今どき珍しくゴム長を履いている。ああした本を読む人間にろくな奴はいない。筒井はああしやごしやとあざ笑った。後ろからそっと近寄って、首根っこを押さえて引きずってやろう。筒井が足音をしのばせて高橋の背後に近づき、手を伸ばして首筋に触れた瞬間、雷に打たれて全身の毛が逆立った。
しばらく気を失った筒井が我に返ったとき、高橋の姿は消えていた。あいつは体内に電気を蓄えていたのだ。人間乾電池である。ゴム長を履いていたのは、アースで漏電するのを防ぐためだったに違いない。俺がうっかり触ってしまったばっかりに感電してしまったのだ。なんて恐ろしい男だ。倒れていた筒井が上半身を起こすと、そこはアースダムのてっぺんだった。感電の衝撃で近くのダムに吹っ飛ばされたらしい。巨大なダムはアーチを描き、まるでアーチェリーの選手がきりきりと絞る弓のようである。筒井はまだ学生だったとはいえ文学を志していたから、ダムの弧が弓に見える。アーチストならではの連想に、我ながら半ば感心し半ば呆れて、アーチダムからの眺望を恣にしながら、「いい眺めだなあ」とアーティキュレーションをはっきりさせて発音し、ポケットからアーティチョークを取り出してもぐもぐ食べ始めた。
ダムには水がほとんどなく、斜面には誰が描いたのか巨大なグラフィティがある。こんなところでアートを鑑賞できようとは夢にも思わなかった筒井は、ポケットの中からくしゃくしゃになったアート紙を引っぱり出して広げ、口もとのアーティチョークを拭った。空腹が満たされて人心地がつくと、さてどうやってこのダムから家に帰ったものか、歩けない距離ではないが、きっと半日はかかるだろうし、かといって誰かに助けを求めたくてもまわりには人っ子一人いない。
「ちくしょう。これが映画だったらなあ」
もし自分が映画の登場人物だったら、きっと窮地を脱せるはずだと筒井は思った。しかし端役や脇役を簡単に殺すマイケル・ベイとかローランド・エメリッヒの作品は願い下げだ。願わくばアートシアター系がいい。スクリーンにはまず制作会社のロゴが現れ、次いで趣向を凝らしたアートタイトルが映し出されるだろう。アートタイプで印刷した細密画の複製のようなデザインであってほしい。アート・ディレクターの腕の見せどころである。
理想の映画作品を夢想しつつ、ダムの欄干から身を乗り出して底を見下ろす筒井の足が滑った。体は欄干を超え、球のように斜面を転がり落ちてゆく。半狂乱になって叫び声を上げ、気を失いそうになった瞬間、筒井は忽然としてアートマンの意味を悟った。自我の本質と霊魂を意味するアートマンと宇宙の根本原理であるブラフマンが同一であることが窮極の真理であり、ウパニシャッド哲学は正しいのだ。釈尊の従弟アーナンダに聞かせてやりたかった。
気がつくと筒井は大きな広間にいた。ダムの底に転落したはずなのに。身を起こしてあたりを見回すと、幅の広い横長のテーブルが三列に分かれて整然と並び、四方の壁は本棚だ。どうやら図書館らしい。窮極の真理を悟った瞬間、時空を超えたのだろうか。ふらつく足取りで本棚を眺める。ラグビー・スクールの校長としてパブリック・スクールの教育を刷新したイギリスの教育家トーマス・アーノルドの伝記がある。隣にはトーマスの長男で批評家のマシュー・アーノルドの『批評論集』があり、その隣はやはりイギリス人の詩人でジャーナリストのエドウィン・アーノルドの詩『アジアの光』だ。広間は自然光をふんだんに取り入れるためだろう、三角形の天井がガラス張りで、アーバニズムを特長とする建築様式のようだ。間接照明もいかにもアーバンで、誰が手がけたか知らないがアーバン・デザインの専門家がアーバン・ライフを利用者に堪能せしめんとしたのだろう。
体のどこにも怪我がないことを確かめた筒井は図書館には用がないので外に出た。すると前庭で草むしりをしていた老人が筒井のほうを向いて出し抜けに言った。
「アーベル関数論をどう思う?」
何の話だかさっぱりわからない。筒井は訊ねた。
「アーベルって、何ですか」
「決まってるだろ。ノルウェーの数学者だ」
「その人が、どうかしたんですか」
「五次以上の代数方程式は一般に代数的に解けないことを立証した男だ。そんなことも知らないのか。けしからん」
いきなり叱られてしまった。数学はチンプンカンプンだ。それより体の節々が痛む。どこかで湯治したい。
「話を変えて恐縮ですが、この近くに温泉はありませんか」
「温泉ならアーヘンに行くといい」
「アーヘンって、どこですか」
「ドイツ西端部の都市だ。世界的な温泉保養地だぞ。ものを知らないにも程がある」
また怒られた。庭師が言うには、アーヘンでは毎晩大勢の人が集まって講演や音楽を聴くアーベントという催しが行なわれ、遠くはインド西部のアーマダバードからも人が訪れるという。参加者は全員アーミー・ルックに身を包むのがしきたりで、アメリカから移住したアーミッシュの信徒がイギリスの彫刻家アーミテージの作品をハンマーで破壊するのがこの集会の目玉だそうだ。彼らはアーミンの毛皮を身にまとい、アームももちろん毛皮に覆われ、彫刻を粉々に砕きながらユゴー作『噫無情』を朗読するのだ。彫刻の破壊にはイギリスの工業家ウィリアム・ジョージ・アームストロングが開発した回転式水力発動機を使うこともあり、その時は必ずルイ・アームストロングのトランペット演奏と歌声を流し、聴衆はみなアームチェアに腰かけ、洋服の袖のアームホールを気にしながらアームレストに肘を乗せる。中にはアームレスリングに興じる者もある。破壊のパフォーマンスが終わると全員でアーメンを唱え、神に感謝しつつアーモンドを食べてお開きとなる。
アーヘンの夜会に是非参加したいと筒井は思った。しかしここは信州上田である。どうやってドイツに行けばよいのか。沈思黙考すると、ああら不思議、筒井の体がふわりと宙に浮き、猛スピードで空を飛ぶ。悪魔の仕業か、はたまた神のご加護か。いや、きっと1875年にボンベイで創設されたヒンドゥー教改革派のアーリアサマージに伝わる秘術にちがいない。いずれにせよ、このまま空を切って一気にドイツへ到達できればもっけの幸い、ついでにアーリア人になれれば申し分ない。火球となって大空を一直線に飛んでゆきながら筒井は「われをドイツに行かしめよ」とゾロアスター教の悪神アフリマンに祈りを捧げると同時に、三世紀頃の南インドの僧侶アーリヤデーヴァの霊魂にも念仏を唱えた。
ズドン! 俯せに着地した筒井が顔を上げると、眼の前にアーリントンと書かれた看板がある。アメリカ合衆国東部ヴァージニア州の郡だ。ドイツのアーヘンを目指したのに、着いた先はAachenではなくArlingtonだった。アルファベットのアールが恨めしい。あたりは広大なトウモロコシ畑である。面積はいったい何アールあるのだろう。トウモロコシは赤や黄色や青などさまざまな色が塗ってある。日本の田んぼアートにそっくりだ。フランス人はアートではなくアールと呼ぶのだろうが、おそらく地元の画家かイラストレーターがR&Dすなわち研究開発を行なって大がかりな芸術に仕立て上げたのだ。
急にめまいがした。足がふらつく。気が遠くなる。足下にぽたり、ぽたりと血が落ちる。激しく着地したときに頭から出血したらしい。Rh式血液型で言うと筒井はRhマイナスなので、輸血してもらいたくても相手は簡単には見つからない。リボ核酸、通称RNAがどんどん失われてゆくのが実感される。どこかに病院はないものか。遠くを望むと、RC造りの白い五階建てのビルが見えた。気力をふりしぼってビルに向かう。そばから見ると入口はアールデコで、建物全体がアールヌーヴォーだ。駐車場にはRVのワンボックスカーが何台も並び、白衣を着た男女が大勢、建物を出入りしている。
病院にちがいないと思った筒井は血だらけの体を引きずるようにして玄関を入った。正面奥に総合受付らしきカウンターがある。筒井は受付嬢に訊ねた。
「すいません、ここは病院ですか」
「いいえ、アーレント研究所です」
アーレント? ひょっとして『全体主義の起源』や『人間の条件』で名高い政治哲学者ハンナ・アーレントか? ああん! 病院じゃなかったのね!
失意のどん底に落ちた筒井は滅亡したアーンドラ王朝のことを想った。いかに栄華を極めた王朝でもいつかは滅ぶ。今の俺のように、王家の人々も血まみれになって死に絶えたのだろう。しかし自業自得ではないか。おごれる平家久しからず。野球で言えばアーンドラン、つまり自責点なのだ。
血と涙を顔から滴り落としながら筒井はビルの外に出た。濡れた頬を風がなでる。この風はひょっとして日本海沿岸に吹く北東の風、地元の人が言うあいではなかろうか。ヴァージニア州アーリントン郡になぜ日本海の風が吹いているのだろう。
「あいすみません」
突然背後から男の声がした。筒井が振り返ると男が三人、それぞれ一メートルほどの間を隔てて立っている。三人とも平たい笊を持ち、釣ったばかりとおぼしき鮎が山盛になっている。服装は着古した藍色の着物で、乞食かと思われる貧相な姿が哀を誘う。襟から裾まで埃まみれだ。
「一匹でもよござんす。魚を買ってくれませんか」
みすぼらしい男たちを気の毒に思った筒井は、彼らへの愛が芽生えるのを感じた。困ったときはお互い様だ。一匹くらいでよければ買ってやろうと、ポケットをまさぐって小銭を探す。すると男は、こちらへどうぞ、と、駐車場とトウモロコシ畑の間の小道を指さす。見ると、そこだけ妙に細い隘になっている。招かれるまま歩く。足下に残飯だの犬猫の死骸だのがあちこちに放置され、穢の巷だ。まるで羅生門のような陰惨な眺めに夢でも見ているのかと、筒井はアイをしばたたいた。もちろん眼をしばたたいたのだが、なにしろ居場所がヴァージニア州アーリントン郡なので、日本語で眼と言うよりは英語を使うほうがふさわしいと思われたのだ。
細道はアルファベットのIそっくりの一本道で、いつ果てるとも知れない。どこに連れて徃かれるのか、筒井はだんだん心細くなり、つい歩調が衰える。不安を悟ったかのように男が声をかけた。
「心配はご無用です。じきに目的地に到着と相成ります」
ほっとした筒井は無邪気に「あい」と返事した。
その瞬間、大地が小刻みに振動し、地獄から響くかのような大音響が耳をつんざいた。傍らに大きな看板があり、IRと書いてある。情報検索(information retrieval)の略だろうか、それとも投資家向け広報活動(investors relations)であろうか。しかし、どっちだろうと頭を悩ませる暇さえなく、筒井の後方から道に沿って一発のIRBM、すなわち中距離弾道弾が発射された。畑の一本道はミサイルの発射台だったのだ。トウモロコシの栽培と誘導弾の発射を相合に行なうために道は作られたのであり、沿道にはトウモロコシの葉が藹藹と茂り、ミサイルから噴射された燃焼ガスが靄靄と棚引いている。
弾道弾がはるか彼方に飛び去り、耳を聾せんばかりの轟音が弱まるにつれ、足下からキーキーという鳴き声が聞こえてきた。マダガスカル島にしか棲息しないはずのアイアイが、筒井の足首にじゃれついている。道端には相合井戸があり、柵に相合牛が一頭繋がれ、畑の所有者であるらしい老人と老婆が相合い傘をさして相合煙管をぷかぷか吹かしている様子がいかにも愛愛しい。
日本でも久しくお目にかからない、まるで昔話から飛び出てきたかのような純朴な老人夫婦に見とれていると、二人はやおら狂言の『相合袴』を演じ始めた。老婆は間赤の小袖を着て、老人はゴルフのアイアンを杖に見立てて幽艶に舞う。アメリカのアーリントンで狂言を鑑賞できようとは夢にも思わなかった筒井は感激して老人に訊ねた。
「失礼ですが、あなたはいったい何者ですか」
「いやあ、名乗るほどの者でもないがの」
胡麻塩頭を掻きながら老人は照れくさそうに懐から一枚の紙片を取り出して筒井に手渡した。名刺だ。肩書にIEとある。
「アイイーとおっしゃいますと……」
「インダストリアル・エンジニアリングじゃ」
てっきり農夫だと思ったら経営工学の専門家だという。呆気にとられた筒井の様子を見て老人はさも楽しそうに、驚くのも無理はないと言いたげな微笑を浮かべて問わず語りに話し始めた。
「わしは移民での。日系三世じゃ。アーリントンに来てすぐ父が死んだのじゃが、アーリントンの実業家が親代わりになって愛育してくれた。実業家といっても、商売のことしか頭にないような堅物ではなく、芸事が好きな人じゃった。ヨーロッパの歌劇が好きで、特にヴェルディの『アイーダ』は歌詞をぜんぶ諳んじていたほどじゃった。よくメトロポリタン歌劇場に連れて行ってくれたものじゃ。やれオペラだ、やれコンサートだと、会社をほったらかしにして遊び暮らしていた時期もあってのう、頭の固い専務たちとは相容れない関係じゃった。ついに取締役たちが合印を盗んで会社を第三者に売り渡してしまった。父は――もちろん血の繋がりはないがのう――『アイーダ』のレコードをかけては哀韻を含んだ歌にひとり暗涙を催したものじゃった。音楽だけでは気休めにならなかったようで、カリフォルニアワインを愛飲したものじゃ。酔いが回ると『俺はこんなもんじゃない。俺は騎士道物語アイヴァンホーの生まれ変わりだ。今に見ていろ』と言うのが口癖でのう。唯一残った財産が、ほれ、この畑じゃ。晩春になると藍植うと言って、藍の苗を苗床から移植したものじゃ。畑仕事のかたわら、好きな音楽をよく聴いていた。無調、復調、引用を駆使したアメリカの作曲家アイヴズの作品は殊にお気に入りじゃった。いつじゃったか、ヴェルディとアイヴスのどっちが偉大か、友人と言い争って喧嘩になり、相撃ちになったこともあったよ。まさに肉弾相撃つ、それはもうすさまじい戦いじゃった。幸い九死に一生を得て、畑で採れた藍を使って葛飾北斎風の藍絵を販売したところ、これが大当たりしてな、一挙に巨万の富を得て、のちにIAEAの理事長になった。そうじゃよ、国際原子力機関じゃ」
老人の数奇な半生を知った筒井は、記念写真を撮ってもいいですかと老人に訊ねながら、ポケットから今どき珍しい「写ルンです」を取り出した。
「写真はええが、そのカメラはISOがちと足らんと思うがのう」
「え? 何のことです?」
「ISO感度じゃよ。イソ感度とも言うようじゃが、ほれ、今日はこんな曇り空じゃから、あまりよく写らんと思う。わしの家にデジタルカメラがあるが、よかったら家に寄らんか」
筒井は好意に甘えて老人夫婦の家に行った。『大草原の小さな家』のインガルス家のような木造の二階建てで、インターネットにも接続できると老人が説明してくれたが、回線を調べてみるとISDNで、やはり地平線まで広がるトウモロコシ畑の真ん中にある農家だけあってブロードバンドは普及していないのだなと筒井は納得した。
「何のお構いもできないが、コーヒーを淹れるから、まあゆっくりしていきなさい」
「ありがとうございます」
筒井が礼を述べて木の椅子に腰かけた途端、窓の外にオートバイのエンジン音が聞こえた。
「筒井さーん、電報でーす」
郵便配達夫が大声を上げて玄関に現れ、電報を渡した。電報? ちょっと待て。俺は日本からアメリカ合衆国のアーリントンに吹っ飛ばされて以来、誰にも居場所を知られていないはずだぞ。なぜ電報が届くのだ? 誰がどうやって俺の居所を突きとめたのだ?
不審に思いながら筒井は電報の文面を読んだ。アルファベットと数字の羅列だった。
「ISBN978-4122022874」
小説家である筒井はISBNが国際標準図書番号であることにすぐ気がついた。しかし番号は何の本だかわからない。
「あの、すみませんが、ちょっとインターネットで調べさせてもらえますか」
「いいよ。ほれ、このパソコンを使いなさい」
老人は旧式のIBMデスクトップパソコンを示した。筒井はブラウザを起動させ、グーグルで「ISBN 978-4122022874」を検索した。ヒットした結果を見て驚いた。1995年に発売された筒井康隆の小説『残像に口紅を』中公文庫版ではないか!
どこの誰だか知らないが、ひょんなことからアメリカ合衆国ヴァージニア州アーリントン郡にやって来た俺の居所をつかんだ奴がいる。そいつは俺に電報を送って寄越した。しかもメッセージは俺の小説のISBNだ。いったい誰の仕業だ。俺に何を伝えようとしているのだ。そいつにじかに会って目的を聞きたい。いてもたってもいられない。だが探し出したくてもあてがない。筒井は途方に暮れて哀咽した。
突然大音響が轟いた。天地がひっくり返ったように家屋がガタガタ揺れる。筒井が窓辺から外を窺うと、つい先ほど通ったばかりの一本道からまたしてもミサイルが発射された。
「ずいぶん物騒なところですね」
筒井が老人に水を向けると、老人はため息をついて呟いた。
「おまえさんがさっき畑で見たミサイルはIRBMじゃったが、今のはINFじゃ。1987年にアメリカとソ連が全廃条約に調印したのじゃが、ご覧のとおり、アメリカは極秘に開発を進めておるのじゃ。そんな話はどうでもいい。おまえさん、コーヒーを飲んだらIFCに行くといい」
「アイエフシーって、何ですか?」
「国際金融公社だ。わかりやすく言えば世界銀行の姉妹機関じゃな。そこに行けば電報の差出人がわかると思うのじゃ」
願ってもない話だ。筒井は熱いコーヒーにふうふう息をかけて冷ましながら一口ずつ啜る。老人は気を利かせて近所のタクシー会社に電話をかけ車を一台雇ってくれた。筒井は丁重に礼を述べて老人と別れ、到着したタクシーの後部座席に坐ると運転手に命じた。
「IFJまでやってくれ。大至急だ」
「アイエフジェー? 本当にアイエフジェーでいいんですか?」
「くどい! つべこべ言わずに、さっさと行ってくれ」
わかりましたよ、行けばいいんでしょう行けば、と運転手は怪訝そうな顔でアクセルを思いきり踏みこみ、猛スピードで北に向かって走り出した。アーリントンからワシントンDC、フィラデルフィアを経由してニューヨークに至り、フェリーで大西洋を超えてイギリスに渡り、船を乗り換えてベルギーに上陸、首都ブリュッセルの中心街にある大きなビルの正面でタクシーは止まった。
「着きましたよ」
「え? ここが国際金融公社なのか?」
「違いますよ。国際ジャーナリスト連盟です。アイエフジェー。ここが本部ですけど」
「でも、俺はアイエフシーに行けと言ったんだ」
「勘弁してくださいよ。アイエフジェーって言ったじゃないですか」
しまった! 言い間違えたのだ!
「運転手さん、申しわけない。私が行き先を間違えてしまった。すまないが国際金融公社に行ってくれないか」
「冗談じゃない! 北半球の裏側まで走ったんですよ! 長いことタクシー稼業やってますけど、大西洋を超えてアメリカからヨーロッパまで走るなんて、そんな馬鹿な客はあんたが初めてだ。とにかく、ここまでのタクシー代、ちゃんと払ってください」
「いくら?」
「五億六千万ドル」
「え?」
「だから、五億六千万ドル」
「そんな……そんな大金、払えるわけないだろ!」
「耳を揃えて払ってもらいますよ。持ち合わせがないならIFTUに交渉したらどうです?」
「何だい、そのアイエフティーユーってのは?」
「国際労働組合連盟に決まってるでしょう! 創立は1913年。第二インターナショナルを支持して赤色組合のプロフィンテルンと対立して黄色組合と呼ばれた、あの組織ですよ。1945年に解消されましたけどね」
「じゃあ交渉のしようがないじゃないか」
「だったらIMFに借りたらどうです」
IMFなら知っている。国際通貨基金だ。本部は……たしかワシントンDCだったはずだ。何てこった。さっき通り過ぎたばかりじゃないか。
「運転手さん……すまないが、もう一度ワシントンDCに戻ってくれないか」
「お断りします! ここまでの分を耳を揃えて払ってもらうまでは一歩も動きません」
筒井はしかたなくタクシーを降りた。どこかに銀行はないかと、オフィス街の広い歩道をキョロキョロしながら歩いていると、突然何かに頭がゴツンとぶつかり、尻餅をついた。
「ちょっとあなた! 痛いわねえ。どこ見て歩いてるのよ!」
頭を撫でながら筒井が見上げると、淡い紫色のスーツを着た黒人の女性が、おでこをさすっていた。「失礼しました」と詫びながら立ち上がった筒井が女の胸元を見ると、ILOと書かれたバッジがついている。
「あの……つかぬ事を伺いますが、あなたは国際労働機関にお勤めですか」
「そうよ。それがどうかした?」
「ILO条約で有名な、あのILOですね」
「だからそうだって言ってるでしょ? 何か用?」
「じつは……金に困っておりまして。まことに不躾なお願いで恐縮ですが、少しばかりお金を貸して頂けませんか」
「本当に不躾ね。信じられない。で、いくら欲しいの?」
「えーと……えーと、五億六千万ドル」
「え?」
「五億六千万ドルです」
それまでつっけんどんだった女が急に哀婉な身振りで筒井に手を差しのべ、体を起こしてやった。
「あなた……本当に五億六千万ドルが必要なの?」
「……はい」
女はいきなり筒井をギュッと抱き締めて、顔中めったやたらにキスした。
「あなたなのね! 私が待ち焦がれた人は、あなただったのね!」
「あの……ちょっと、どういうことですか」
「私ね、先週占いしてもらったの。とてもよく当たる占い師でね、こう言われたの。あなたは十二月一日に、ある男性から五億六千万ドルを無心される。その男性こそ、あなたの運命の人ですよって」
女にきつく抱き締められながら筒井はたじろいだ。占い師に見てもらったという話が本当だとして、金額までピタリ一致するなんてことがあり得るだろうか。狐につままれたような筒井をよそに、女はハンドバッグから煙草を取り出してスパスパ吸い始めた。愛煙家なのだろう。偶然の出会いは小説などでよく見聞きするが、実際に合縁奇縁というものがあるのかもしれない。筒井はふらふらと街路樹に寄りかかった。一本の根から二本の幹が接して生えた相生の樹木だった。女がハキハキと言った。
「さあ、行きましょう!」
「え? どこへ?」
「相生よ。兵庫県南西部、瀬戸内海沿岸の」
「なぜ相生なんですか」
「占い師に言われたの。運命の人とは相生で暮らすんだって。共白髪が生えるまで、仲睦まじく相老いの夫婦として添い遂げるの」
「でも……あまりにも急な話で、ちょっとついて行けないんですけど。私には私の人生がありますし」
「何を言ってるのよ! あなた日本人でしょ? こう見えても私は生け花をやるのよ。相生挿しが得意なの。長唄の相生獅子も歌えるわよ。愛の巣には相生の松を植えましょうね。夫婦が深い契りで結ばれて長生きすることの象徴よ。婚礼には相生盆を飾りましょう。一つの盆に男島と女島を並べるのよ。逃げようとしても無駄よ。小指と小指を赤い糸で相生結びにして結んじゃうから」
女は息もつかずにまくし立て、ハンドバッグから iPad mini とスマートフォンを取り出して両方を接続した。二つのデバイスを入出力、すなわちI/O装置として使うのだろう。タブレットの画面にIOC、国際オリンピック委員会のトップページが表示されたが、タップしてもページが変わらず、画面がフリーズした。女はイライラしてもう一服相思草を吸った。どうやら重度のヘビースモーカーらしい。うんともすんとも言わなくなった iPad mini に業を煮やした女は歩道に落ちていた合折釘を拾い上げ、般若のような面持ちでディスプレイにギギギギッとこすりつけた。
突然つむじ風が巻き起こり、女は悲鳴を上げて筒井に抱きついた。ギリシア神話の風の神アイオロスの仕業に違いない。あっという間に二人の体が天高く宙を舞った。女は筒井にしがみついたまま言った。
「このまま死ぬなんてイヤ! 死ぬ前に生まれ故郷のアイオワに行きたい!」
哀音を帯びた女の声はまるで哀歌を謳いあげるかのようだ。筒井は情にほだされ、憐憫と情欲がない交ぜになった奇妙な心もちになった。仏教では愛欲が人を溺れさせるのを河にたとえて愛河と呼ぶそうだが、俺はひょっとするとこの女に惚れたのだろうか。天の彼方に吹き上げられた二人が急降下してバタンと着地すると、そこは雪山だった。体が無事であるのを確かめた女が風景を眺めて言った。
「アイガーだわ」
「アイガーって何だ?」
「スイス中部、西アルプスの高峰よ。標高3970メートル」
そうか、クリント・イーストウッドが監督と主演を務めた映画『アイガー・サンクション』の舞台になった、あの山か。それにしてもよく標高まで記憶しているものだ、まるで百科事典だなと感心する筒井をよそに、女は藍返しのスーツの埃を払い、ハンドバッグから折りたたみ式の将棋盤を取り出して広げた。
「ねえ、一局やりましょうよ」
「将棋? こんな雪山で?」
「いいじゃない、ほかにすることもないし。そのうちきっと救助隊が来てくれるわ」
誘われるがまま筒井は女と将棋を始めた。序盤の陣形は定石通り相懸りだ。何気なくハンドバッグを見ると鍵がかかる仕掛けになっている。鍵をなくしたら使いものにならないだろうと言うと、平気よ、合鍵があるから、と女は将棋盤から目を離さずに答え、「王手」と言った。よもやアメリカ人の女に将棋で負けることはあるまいと高をくくっていた筒井は驚き、さてどうしたものかと思案しつつ麓を眺めると、目と鼻の先に避難小屋とおぼしき小さな建物がある。
「将棋なんか指してる場合じゃないぞ。見ろ、小屋だ」
筒井は女の手を引っぱって山頂から滑り降り、うまい具合に山小屋に辿り着いた。掘っ建て小屋にしては堅牢な造りで、梁と根太の継ぎ手が相欠になっている。ドアに貼紙があり、「避難小屋。駕籠あります」と書いてある。すると麓から、えっほ、えっほ、という男の声が近づき、駕籠を担いだ男が二人現れた。
「どうです、旦那。相駕籠をさしあげましょう」
「あいかご?」
「一つの駕籠に二人を乗せるんですよ」
ありがたい! 筒井は女と駕籠に乗った。男たちは再び、えっほ、えっほ、とかけ声をかけて山を下りる。駕籠の中の二人はまるで相傘だ。
駕籠がピタリと止まる。いつの間にか山麓の宿場町に着いた。どこかに宿はないだろうかと駕籠かきに訊ねると、宿はないが相借家ならすぐそこにありますよという返事だった。案内された家に行くと大家らしき小肥りの女が現れ、筒井と女を見比べて、どういう関係だい、と訊ねた。「私は歌い手です。こいつは三味線の合方です」と筒井は嘘をついた。大家は「商売女にしか見えないよ。どうせ吉原あたりの相方だろう」と、妙につっけんどんである。駕籠かきの一人がもう一人の相肩に「おい、大家の足を見ろ」と言う。大家は間形と呼ばれる江戸時代に流行った女物の小さな下駄を履き、鼻緒は沖縄の藍型で染め抜かれている。借家はI形鋼をがっちり組んだ鉄筋造りだ。部屋を貸してほしいのですがと筒井が来意を告げると、家の奥から大家の亭主らしき翁が現れ、能の間狂言の間語りを始めた。呆気にとられていると、翁は相構へて静々と足を運び、懐から取り出した間紙で涙を拭いながら父母を亡くした哀子の悲しみを厳粛に舞った。天涯孤独となった子の哀史を語る朗々たる声と優雅な舞はまさに動く一篇の哀詩で、生前親が蝶よ花よとかわいがって育てた愛子が、かつて同じ土地を共有していた合地のやくざ者にさらわれ、親は殺され、遺族が哀辞を述べ、愛児のあどけなさを称える、じつに見事な狂言だった。筒井の頬を涙が伝う。すると翁はまるで機械仕掛けのようにピタリと動きをやめた。
「またICがショートしちゃった」
大家が言った。ICは、たしか集積回路だ。さすれば翁は電動仕掛け、人間ではなくロボットだったのか!
「Igが不調なのかもしれないわ」
道連れの黒人女が大家に言った。
「何だい、アイジーって」
「免疫グロブリンです。抗体として働き、B細胞によって産生され、血清のガンマ‐グロブリン分画に含まれるんです」
「何のことだか、チンプンカンプンだよ」
「国際自由労連、通称ICFTUに勤めていた時、教わりました」
「そうかい。あんた詳しそうだね。じゃあ、ちょいと爺さんを直しておくれ」
「いいですよ。ICカードはありますか」
「そんな物がこんな山奥にあるわけないだろ」
「では大至急、国際商業会議所、通称ICCに連絡して下さい!」
「連絡って、うちは電話さえないんだよ。裏庭にICBMならあるけど」
「それって大陸間弾道ミサイルじゃないですか! ミサイルなら必ずICカードがセットされているはずです」
「でも、勝手にいじると国際刑事警察機構、通称ICPOがすっ飛んで来るんだ。ここだけの話だけど、あたしゃ前科者でね。もう二度と警察のお世話にはなりたくないんだ……」
言い終わるや否や、大家は気を失ってばたりと後ろ向きに倒れた。心臓発作だ! 筒井は外で待ちぼうけを食らわされていた駕籠かきの男たちを呼んで老婆を駕籠に乗せ自分も隣に乗りこみ、連れの女にはすぐ戻るから待っていてくれと言い残し、近くの総合病院に向かった。老婆はすぐICU、すなわち集中治療室に運ばれた。担当医は強い日射しを避けるためのアイシェードを目深にかぶり、白衣の代わりに藍下で染めたガウンを着ていた。なるほど窓の外からは冬のありがたい太陽の日射し、つまり愛日が燦々と降り注いでいる。ガラス窓で隔てられた隣室から治療の様子を見守っていた筒井の背後で素っ頓狂な女の声が聞こえた。
「間遮を持ってきたわよ!」
振り返ると、借家に置き去りにしてきたはずの黒人女が将棋盤と駒を持って笑っている。
「大声を出すなよ。病院だぞ。それに何だよ、アイシャって」
「将棋の間駒よ。知らないの? 日本人のくせに」
「どうやって来たんだ? まさか走ってじゃあるまいな」
「ううん、借家にね、大家さんの愛車があったから借りたの。ついでにワインももらってきちゃった。飲もうよ」
女が手回しよく持参したワイングラスに赤ワインをなみなみと注ぐ。二人は相酌して酒をがぶがぶ飲んだ。女の話によると、この葡萄酒は大家が愛惜した年代物だそうで、風味は言うまでもなくラベルのデザインにさえ愛着を覚えて、相借屋の居住者にさえも振る舞ったことはないという。
集中治療室では医師とスタッフが大家の治療にかかりきりだった。少し酔いが回ってきた筒井は、酔い覚ましにと病院の外に出た。正面玄関を外から見るとドアは板張りの合決で、アルプスから吹き下ろす風が当たってガタガタと鳴らす。濃いアイシャドーを塗った看護婦がドアから出てきて、訝しげに筒井の顔をちらりと見る。不審者と思われたに相違ない。ならばいっそのこと不審者になってしまえと腹をくくった筒井は浄瑠璃の相三味線を口真似で演奏してみた。咄嗟の思いつきにしては上出来で、哀愁を帯びた音色に我ながらうっとりし、どういうわけか黒人女への愛執が募った。
ブリュッセルの中心街で出会って以来、俺はまだ黒人女の名前を知らない。アルプスまで旅の道連れにした間柄なのに。筒井は再び病院に戻り、集中治療室の隣の部屋でぐでんぐでんに酔っ払って床に大の字になっている女に訊ねた。
「君の名は?」
「アハハ! 『君の名は』って菊田一夫のラジオドラマかよ!」
「いや、そうじゃなくて……」
「じゃあ佐田啓二と岸恵子の映画?」
「アメリカ人のくせによく知ってるな」
「馬鹿にしないで!」
「違うんだ。名前をね、まだ聞いてなかったなあと思って」
「レイチェルよ」
レイチェル。愛書家の筒井が真っ先に連想したのは『沈黙の春』の著者レイチェル・カーソンだった。次に脳裏に浮かんだのはリドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』でハリソン・フォード扮するデッカード刑事と逃亡する女レプリカントの名前だ。筒井はレイチェルとの相性がよい気がした。理由はわからないが、レイチェルにはどこか哀傷を感じさせる暗い部分がある。独身だろうか。あるいは誰かの愛妾だろうか。愛称は何だろう。
「ニックネームは?」
「レイよ」
「愛唱歌は?」
「レイ・チャールズの『ジョージア・オン・マイ・マインド』」
「愛誦する詩は?」
「質問攻めね。ダンテの『神曲』よ」
「ダンテ? あれを覚えてるの?」
「全部ここに入ってるわ」
レイチェルは茶目っ気たっぷりに人さし指でトントンと頭を叩いた。
「驚いたなあ。あの長編詩を暗唱できるなんて」
「哀情豊かな作品だから暗記しやすいのよ。主人公のダンテがベアトリーチェに捧げる愛情がこの上もなく美しいの」
うっとりした表情で『神曲』の魅力を語るレイチェルの横顔は高貴な家柄の愛嬢としか思われないしとやかさだった。レイチェルが『神曲』の地獄篇を朗読したら、古今東西のどんな哀傷歌も影が薄くなるだろう。できることなら俺も一緒にあいしらいして朗読に加わりたい。
病院に併設されたあひしらひ所、つまり宿泊施設から職員が走ってきた。手術が終わったのだろうか。大家の容態はどうですかと筒井があいしらうと、藍白地の革で染めたガウンを羽織った職員は藍の葉を刻んで木炭と加えて発酵させた藍汁が入った小さなカップを筒井に差し出した。患者の体内から抽出された液体で、フリーメーソンの会員にしか見られない合印だという。職員は濡れた指を江戸時代の奥女中がよく身につけていた間白の小袖で拭き取りながら筒井に訊ねた。
「あの患者とはどういうご関係ですか。母親か祖母か、それとも愛人ですか」
「とんでもない」
「そうですか。患者の戸籍を調べてみたのですが、先祖が愛新覚羅なんですよ」
「アイシンカクラって何ですか」
「中国の清朝帝室に由来する姓です。あなたは東洋人だから、ひょっとして親族ではないかと思いましてね」
筒井は職員に促されて集中治療室の隣室に戻った。患者は患部をアイシングして炎症を抑えている。中身はチョウザメの浮き袋で作ったアイシングラスらしい。枕の上の方の壁に「愛洲」と書かれたプレートがある。これが患者の名字なのだと職員はアイスをペロペロ舐めながら説明してくれた。愛洲は愛すに通じるのではないか。筒井はこの名字が何か重要な合図であるような気がした。
院内に突然非常ベルがけたたましく鳴り響いた。廊下をどやどやと走る音がする。筒井がいる部屋のドアがバタンと開き、古ぼけた袴姿の男がさんばら髪を振り乱し、抜き身の刀を振りかざして怒鳴った。
「ここにおったか! お命頂戴つかまつる!」
「どちら様ですか」
「問われて名乗るもおこがましいが、拙者は愛洲惟孝。室町後期の剣客、愛洲陰流の創始者、名を久忠と申す。いざ勝負!」
勝負と言われても、筒井には何のことだかさっばりわからない。そもそも命を狙われる覚えがないし、戦うにしても武器がない。しかしこの落ち武者らしき剣豪の言動にはどこか魅力的で愛づかはしいものが感じられる。古代ギリシアの雄弁家アイスキネスならきっと修辞を凝らして見事に描写することだろう。「武器ならこれをお使いなさい」と職員がアイスキャンデーを差し出してくれたが、そんなものが武器になるものか。こうなったら素手で戦ってやる。古代ギリシアの三大悲劇詩人の一人、アイスキュロスの三部作『オレステイア』の殺戮シーンを再現してやる。「いくらなんでも素手は無茶ですよ」と職員がアイスクリームを舐めながら口を出す。見ると右手にはバニラのアイスクリーム、左手にはアイスクリームサンデーを持ち、首から提げた二本の水筒にはアイスクリームソーダとアイスコーヒーが入っているのをストローでちゅーちゅー吸っている。こいつはいったいどれほどアイスが好きなのか。「どんだけー」と、ついIKKOの口真似をしてしまった筒井に、集中治療室から出てきた主治医が提案した。
「アイスショーで勝負したらどうです? ご覧の通りここはアルプスの麓、季節は冬。町中の池は凍って、滑り放題ですよ」
名案だった。北海道は札幌で生まれ育った筒井はアイススケートの達人である。チャンバラはとても無理だが氷の上なら水を得た魚、アイスダンスだってお茶の子さいさいだ。筒井は主治医が差し出してくれたアイスティーを一口飲み、「アイスハーケンはありますか」と耳打ちした。登山で氷壁を登り降りする際に氷に打ち込んで使うハーケンである。町中の道路や歩道はカチカチに凍ってアイスバーンになっているからアイスピックがあればなおありがたい。場所によっては氷河の急傾斜地帯、すなわちアイスフォールがあるかもしれない。ハーケンとアイスピックがあれば武器としても使えそうだ。筒井は傍らのテーブルのアイスペールから氷を一個つまんでアイスティーに入れたがすぐ溶けてしまい、もっと氷はないかと壁際のアイスボックスの中を探した。勝負するならアイスダンスなんていう手ぬるい競技ではなく、荒々しいアイスホッケーで雌雄を決するのも一興だと筒井は思い、ひとりほくそ笑んだ。
しびれを切らした剣客が「おい」と廊下のほうに声をかけると、刀を構えた男がもう一人現れた。同じ家に相住みする浪人だそうで、刀と思われた細長い棒はよく見ると絵の具として使う藍墨だ。「二対一とは卑怯者め。これで相済むと思ったら大間違いだぞ」と筒井が怒声を発すると、剣幕に気圧された剣客二人はへなへなとしゃがみこみ、土下座して、アイスランドの広大な土地を譲るからどうかお赦しをと命乞いをする。アイスランド語を知らない筒井は辺鄙な土地をもらっても傍迷惑なのでけんもほろろに一蹴すると、ではケシ科の一年草アイスランドポピーの苗はいかがです、切花として大人気、いい商売になりますよ、ぼろ儲けできます、よかったら私たちと手を組んで相掏りになりませんか、濡れ手に粟ですぜ、と剣客は藍摺の着物の皺を伸ばしながら揉み手して筒井の機嫌を伺う。元手の要らない商売とは願ったりかなったりだ。わざわざアイスリンクでスケートの勝負をする手間も省ける。氷上スポーツを愛する筒井は少し心残りだったが、儲け話に一口乗ることにした。
「ではさっそくですが、娘を嫁にもらって頂きましょう」
剣客が手を叩いたのを合図にドアを開けて入ってきたのは、派手な着物を着崩した二目と見られぬ醜女だった。商売を始める前提条件として、娘の愛婿にならねばならぬと剣客が言う。相席したことさえない初対面の女と結婚しろとは、まるで哀惜の念に堪えない人を嘲ったり、愛惜の品を失った人をからかったりするのと同じくらい失礼な話である。筒井が言下に断ると、剣客は「娘は女相撲の相関、すなわち張出大関になるしか取り柄がなく、幼い時に母親と死に別れたのです」と哀切な話を語り始めた。剣客の相棒も哀絶の涙に暮れている。涙もろい筒井はもらい泣きしそうになったが、ぐっとこらえて言い放った。
「私はアイセル湖」に行かねばならないのです。ではこれで失礼」
口から出任せだが、こんなことでも言わないとその場を逃れられない気がしたのだ。筒井が立ち去ろうとすると剣客はジャケットの裾をつかんで「お名残惜しい。お別れの前に相先でぜひとも囲碁を一局。商売の仲介手数料、間銭は必ず払います」としつこく迫る様子はまるで愛染の虜となって去り行く恋人にすがりつく女のようだ。窓の外は黒い雲が靄然として町を籠める。筒井は傍らにあった登山用具のアイゼンをむんずとつかんで剣客に振り下ろす。ひらりと身をかわす剣客の浮世離れした身のこなしは、1946年に愛善苑と名を変えて再発足した神道系宗教の一派大本教の開祖出口ナオを思わせた。なおもすがりついて放さない剣豪はまるで愛染かつらの高石かつ枝だ。
相前後してレイチェルと駕籠かきの男二人が到着した。レイチェルは筒井にすがりつく剣客に向かって「放しなさい! 私はアイゼンハワーの孫よ!」と語気を荒げた。アメリカ合衆国第三十四代大統領の孫だったとは! 驚いた筒井も含めて一同「ははあ」とその場にかしこまると、レイチェルは俄然神々しく振る舞い、密教の愛染法というものがいかにありがたい祈りであるかを説き始めた。大阪市天王寺区の勝鬘院で毎年六月末に愛染祭が催され、会場には愛染曼荼羅が飾られるそうだ。愛染法の本尊は愛染明王と呼ばれ、衆生の愛欲煩悩がそのまま悟りであることを表わす明王なのだという。日頃から煩悩の塊であるのを恥じていた筒井はレイチェルが救いの女神に思えた。「どうか俺に祈りの極意を授けてくれ」と哀訴する筒井に、「自分の頭で考えろよ」とレイチェルはなぜか愛想が悪い。卑屈な態度を見て愛想を尽かしたのだろうか。俺を見限ったのか、それともわざと邪険に扱って心をもてあそぶつもりか。レイチェルへの愛憎が相半ばする。
筒井はジャケットの内ポケットから愛蔵の万年筆を抜き出して、これは死んだ親父が愛息である俺に形見として与えてくれたものだが、君にプレゼントしたいと、おずおずと差し出した。受けとったレイチェルが万年筆のキャップを外すとペン先からシュッと紫色の液体がほとばしり、滴が落ちた床の部分に煙が立ちのぼって見る見るうちに床に穴が開く。レイチェルは悲鳴を上げて万年筆を落とした。「アイソザイムだ」と、集中治療室から飛び出てきた執刀医が言った。同じ化学反応を触媒する酵素が二種類以上ある場合の、酵素のそれぞれをそう呼ぶのだという。まるで映画『エイリアン』のワンシーンのようで、全員後ずさりして穴の広がる様子を見つめる。床はどんどん溶けてゆく。執刀医は「地殻は密度のより大きいマントルに浮かんでいる状態にあるという考えをアイソスタシーと呼ぶのですが、この調子だとマントルまで貫通するかもしれない」と恐ろしいことを言う。筒井がふと横を見ると、レイチェルの姿がない。愛想尽かししてどこかに去ってしまったのか。
物凄い地響きがして大地がグラグラ揺れ、眼の前に真っ赤な炎の柱が噴き上がった。穴がマントルまで貫通したのだ。原子番号が同じで質量数が異なる同位体すなわちアイソトープが真っ赤な溶岩となって病院を焼き払う。一同蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、筒井は傍らのテーブルに置いてあったアイソトニック飲料をわしづかみにして逃げた。どこに避難するにせよ水分だけは確保しておかねば。パニックを起こして逃げ惑う人々の姿はアイソポスの寓話『イソップ物語』を思わせる。
レイチェルは無事だろうか。筒井は女と出会った逢い初めの地であるブリュッセルの中心街での出来事が遠い昔のように感じられた。どうか無事でいてくれ、再会できたら先祖代々伝わる藍染の着物をプレゼントしよう、藍染付の布地はきっと似合うはずだ、と筒井は女への想いがつのる。一緒にアイソメトリックスで筋力トレーニングをしよう、トレーニングウェアは馴染みの藍染屋に特注して作らせよう。どうか愛想もこそも尽き果てたなんて言わないでくれ。愛想笑いはこりごりだ。筒井はレイチェルと結婚して子宝を授かり、子どもが愛孫を抱いて訪ねに来てくれる未来を思い描いた。レイチェルと俺の間にはきっと何かの因縁があるに違いないのだ。
筒井は病院を飛び出し、道端の電話ボックスからスイスのアメリカ大使館に電話をかけた。大使館にはたしか会田という日系人の職員が勤めており、レイチェルの居所がつかめるかもしれないと思ったのだ。ところが電話に応じたのはスイス人の職員で、「会田はIターンして郷里の長野にいます」とフランス語で告げた。会田と相対でレイチェルを捜し出したいと思ったのに。受話器を置いて肩を落とし、ふと見上げると、峨々とそびえるアルプスの高峰を取り巻くように白い雲が靉靆している。町の中心を流れる川に浮かぶ小舟の船頭が欸乃すなわち舟歌をうたう。橋の欄干から船を見下ろした筒井は絶望し、誰でもいいから一緒に入水して相対死にしたいと思った。
相対尽くで一緒に川に飛びこんでくれる人はいないか、筒井がキョロキョロあたりを見回す。市民は脱兎の勢いで溶岩流から遠くへ逃げてゆく。ある者は焼け落ちる自宅を眺めながら損害賠償は江戸時代なら相対済し令で解決できるのにと肩を落とす。家が焼けたのはおまえのせいだ、いや、おまえだ、と相対して怒鳴り合う者もあれば、相対相場の相対売買で儲けた金が一瞬で灰になり、叔父甥の間柄で抱き合い涙に暮れる者もある。そうかと思えば溶岩流を眺めながら暢気におやつのドーナツを間食いする女もいて開いた口がふさがらない。
筒井の眼の前に空からだらりと一本の梯子が垂れ下がった。救助隊のヘリコプターだ! まさにあいた口へ餅、藁にもすがる思いでつかまると梯子はスルスルと巻き上げられ、あっという間に筒井はヘリコプターの格納庫に引き入れられた。「お腹がすいたでしょう。これ、どうぞ」と救助隊員が藍茸の天ぷらを差し出す。ひとりで食べるのは申しわけない、誰か共食者はいないかと筒井が立ち上がった拍子に頭を天井にぶつけ、思わず「あ痛しこ」と呟いた。
病院で決闘を迫られたあの剣客は今頃どこでどうしているだろう。あの時はもう少しで相太刀の斬り合いになる勢いだった。筒井はあいだちなく天ぷらをむしゃむしゃ食った。皿には刺身のつまによく使う藍蓼が添えてあり、空腹のあまり迷わず食べ、藍建で染めたハンカチで口もとを拭った。溶岩流で燃え上がるアルプス山麓の町を上空から眺めながら天ぷらを食うなんて無分別、あいだてないではないかとも思ったが、太政官庁の北東隅にあった朝所で会食した当時の参議たちだって同じ立場なら食ったに違いないのだ。集中治療室で手術を受けた相店の大家は無事だろうか。いや、逃げ遅れたに決まっている。俺が大家と医者の間に立ち、二人の間に入って避難誘導しなかったのが悔やまれる。涙に暮れる筒井に「着きましたよ」と隊員が声をかけた。気がつくとヘリコプターは広い滑走路に着地していた。アイダホフォールズ地域空港だった。
溶岩が噴き出たアルプスの麓からヘリコプターで大西洋を越えてアイダホにやって来た筒井は藍玉で染めたタオルで額の汗を拭い、隊員がくれた間物の饅頭を食べた。これがじつに美味だった。なんでも江戸時代の和算家会田安明がこよなく愛した菓子だそうで、会田は契りを交わした女と次に会うまでの間夜を、この饅頭を食べながら過ごしたのだという。「こちらへどうぞ」と滑走路から空港職員の男に声をかけられた。なよなよした、いかにもあいだれた男で、時代が時代なら朝所で会食しながら政務を行なうのが似つかわしい風情である。ヘリコプターを降りた筒井は案内されるまま隣のジェット機に乗った。どっと疲れが出て泥のように眠った筒井が目を覚ますと、そこは愛知国際空港だった。
到着ロビーに行くと、大きな字で「筒井様」と書いた白いプラカードを持った見知らぬ男が待ち構えていた。「長旅お疲れさまでした。大変な目に遭われましたね。あ、申し遅れましたが、こういう者です」と男は筒井に名刺を差し出した。肩書は愛知教育大学文学部の教授、氏名は「唯野仁」である。ん? 唯野仁? どこかで聞いたことがあるぞ。あ! 俺が執筆した小説『文学部唯野教授』の主人公と同じ名前ではないか! 呆気にとられた筒井に唯野教授は愛知大学で非常勤講師も務めていますと自己紹介を続けた。俺の小説の主人公と同じ名前の人間がこの世にいるとは。筒井は只野教授に愛着を感じた。
空港内には哀調を帯びた三味線のバックグラウンド・ミュージックが流れていた。西洋ではなく日本の楽器を愛重するとは今どき珍しい。筒井は長野の自宅で飼っている愛鳥の文鳥を思い出した。今年も五月十日になれば愛鳥週間が始まる。只野教授は駐車場に停めてあった自家用車に筒井を乗せ、知多半島の愛知用水に辿り着くと筒井を降ろし、では失礼、と車をすっ飛ばして去った。知らない土地に置き去りにされた筒井は、彼奴め、今度会ったらただじゃすまないぞ、と天を呪った。すると彼方からバスが来て筒井の横にぴたりと停車した。高速バスで、大きなフロントガラスの上に会津行と書いてある。福島県になんか用はないが、ひょっとすると自宅がある長野の近くを通るかもしれない。途中下車させてもらおうと決めた筒井はバスに乗った。
運転手は会津という名字の男で、筒井がここ数日の出来事を問わず語りに語って聞かせるとたいそう気の毒がって哀痛した。運転手も苦労人なのだろう、どこか俺と相通ずるところがありそうだと思った筒井の気持ちを察したのか、運転手は会津家の履歴を話し始めた。先祖は享保五年に南山地方の幕府蔵入地の農民が起こした会津御蔵入騒動で生き残った首謀者で、今もNHKの歴史番組から取材の申し込みが相次ぐという。運転手は巧みなハンドルさばきで高速道路をぶっ飛ばしながら、召し上がりませんか、と赤身の魚と白身の魚の刺身を並べた相作りの皿を筒井に手渡した。小腹がすいていた筒井はむさぼり食いながら、ところで今日は何月何日ですかと運転手に尋ねると「会津暦で三月十日です」と言う。西暦で教えてほしいのですがと筒井はさらに尋ねたが、運転手の耳には入らなかったようで、会津城はそれはもう立派な城ですよ、弥勒菩薩の異称は阿逸多と言いましてね、お祭りになると鍛冶屋の師と弟子が相槌をトントンと打ち合って盛り上げるんですなどと、どうでもいい話を続ける。筒井はしかたなく、へえへえと相槌を打つ以外にない。「夏祭りでは不祥この私が櫓太鼓の太鼓叩きを相勤めます」。運転手の自慢話が止まらない。バスの車内を見回すと座席のテーブルに会津塗のお椀が一つずつ乗せてある。会津嶺とも呼ばれる磐梯山の麓で制作された漆器だそうで、江戸前期の会津農書にも記述が見られる伝統工芸品だという。
筒井はだんだん腹が立ってきた。幕末と維新期に会津小鉄という剣客が活躍したがあれは京都の人です、会津磐梯山を地元の人は会津富士と呼びます、山を眺める和服姿の女が合褄を気にしながら身をよじる様子は色っぽいですよ、会津身知らずという福島原産の柿は召し上がったことがありますか、え、ないんですか、ぜひお食べなさい、ここだけの話ですけど、品種改良したのは新潟生まれの歌人で書家の会津八一ではありませんよ、柿は会津焼の盆に載せると色が映えます、江戸後期の廻船問屋会津屋八右衛門が会津蠟燭を立てた横に盆を置いたのが後世に広まったんです、ぜひ会津若松にいらっしゃい――運転手は息継ぎもせずにまくしたてる。
筒井は頭痛がした。気分が悪い。妻の妊娠によって夫も悪阻と同じ状態になる相悪阻に似た症状だ。運転手の相手をしていたらこっちの身が持たない。突然アイディアが閃いた。日本語を知らない外国人のふりをすればいいじゃないか! 筒井はアイディアマンなのである。口の悪い友人は、なあに、あいつはただの観念論者、アイディアリストにすぎないよ、と言う。「アイディアリズムのどこが悪い!」と筒井は思う。観念的、理想的、つまりアイディアルであるからこそ人間ではないか。外国人だと偽ることにした筒井はジャケットの内ポケットをまさぐり、スイスの病院で拾った職員のIDカードを取り出して顔写真の上に自分の写真を貼り、ID番号を確かめて、ハンドルを握る相手方に示した。姑息な手段であることは重々承知の上だった。相手変れど主変らずとは言い得て妙で、筒井はいつもその場しのぎで辛くも窮地を脱してばかりいる。相手次第、相手尽では詐欺も厭わない。
筒井は偽造カードをヒラヒラさせながら「ワタシ、ニホンゴ、ワカラナイアルヨ」と運転手に言った。片言で日本語を話そうとするとなぜかインチキ中国人みたいな口調になってしまうから不思議だ。運転手は「嘘つけ! さっきから流暢に話してたじゃないか」と怒鳴って足下から藍鉄色の金棒を拾い上げ筒井の頭をゴツンと殴った。その拍子にハンドルを切り損ね、バスがぐらりと傾き横倒しになりそうになったが車体はかろうじて転倒を免れた。筒井を相手取ったばっかりに大事故を起こすところだった。どんなもんだ、ベテランの腕前を見たか、と運転手は自慢したかったが、考えてみれば運転中に乗客がみだりに話しかけてくれたからこそ運転技術を披露できたのだ、相手のさする功名ではないかと思い直した。
筒井はバスが傾いたとき足をすべらせて転び、必須アイテムである眼鏡を割ってしまった。どこかで眼鏡を調達せねば。筒井はバスを停めてほしかったが、運転手は無線で会社の人と話し中である。乗客にそっぽを向いて相手向いにするとは不届き千万、もし男に妻かいるなら肝胆相照らすその女と一緒にあの世に送ってやる、ただ殺すだけでは気の毒だから夫婦ともども相殿に祀ってやってもいい、と筒井は殺戮への欲望がむらむらとわき上がり、我が事ながら恐ろしく、アイデンティティーが崩壊しそうになる。見納めにと運転手の顔に視線を向けたが、眼鏡を失ったのでぼんやりとした人影しか見えず、正体をアイデンティファイできない。
車内のラジオからニュースが流れた。都内某所で催された連歌の寄合で相頭をつとめた歌人が心臓発作で急死し、多くの著名人が哀悼の意を表したという。東京か。バスは今どこを走っているか知らないが、たぶんまだ東京は間遠だろうと筒井は思い、暇つぶしに愛読書である小説『処刑台』の続きを読み始めた。遊郭で遊ぶ主人公の男女が相床に寝て、お互いに相年であるのを喜び、明日は隣の神社を参詣しよう、相殿造の乙な神社だよなどと語らう場面だった。『処刑台』の作者はキルギス共和国の作家アイトマートフである。遊郭の男女は相伴って神社を訪ねる。何をするにも常に二人一緒で相取りする、恋人というよりは兄妹のような関係だ。
突然バスがアイドリングストップした。「ももいろクローバーZだ!」と運転手が叫ぶ。そんな馬鹿な話があるか。高速道路の路肩にアイドルが突っ立っているなんてあるまじきこと、源氏物語の登場人物ならあいなと言って怪しむところだ。とはいえ本当にいるならぜひ姿を見たい、メンバー五人は本当に相中なのか、この目で確かめたいと筒井は思ったが、間の悪いことに眼鏡がないので窓の外を眺めても目に映るのはぼんやりとした白い雲のような景色ばかりである。見たい、いや諦めよう、でも見たい――欲望と諦念が相半ばする。しかしいくらあがいたところで無駄である、紫式部ならあいなしと書くだろう。こうなったら裸眼で勝負だ。ももいろクローバーZに握手を求めて近づけばいい。筒井は運転手に、五分でいいから待っていてくれと、あいな頼みしてバスを降りた。
高速道路の路肩だろうと思った筒井がバスを降り、近眼の眼を凝らしてまわりを見渡すと、どうやらサービスエリアだった。店舗があるらしい所に向かう。「お客さん、どうぞ。これ食べてみて」と女の声がして串焼きみたいなものを手渡された。鮎魚女の塩焼である。女の顔に鼻先を近づけて頭のてっぺんから足下まで舐めるように見ると、女は藍韋の革で作った羽織のようなものを着ている。新嘗祭の前に行なう相嘗祭の際に身につける衣裳なのだという。
歓声と拍手がどっと湧き起こる。ももいろクローバーZのゲリラライブが始まったのだ。眼鏡を壊してしまった筒井は盲同然で観覧する羽目に相成った。こんな時こそ相馴れた妻に手を引いてほしい。愛に愛持つ五人のメンバーはきっと愛らしいパフォーマンスを繰り広げ、相嘗祭のような賑わいに違いないのだ。生憎眼が見えない筒井の耳にアイヌのわらべ唄「ピリカピリカ」が聞こえた。ももいろクローバーZがアイヌ語で歌うとは! 観客がうっとり聞き惚れているのが肌で感じられる。誰のアイデアか知らないが、アイドル・グループにアイヌ民謡を歌わせるとは、アイヌ文化の継承と振興を図り、その伝統についての知識を普及、啓発することを目的とするアイヌ新法の精神にのっとった妙案である。歌の次に聞こえてきたのはホメロスの叙事詩『イリアス』の一節だった。ももクロの五人がトロイアの英雄アイネイアスの数奇な運命を朗読し、観客は水を打ったように静まりかえって聞き入っている。感激のあまり筒井の涙腺が緩み、藍鼠色のジャケットに涙が落ちる。これほど心を揺さぶられたのは仏教その他にまつわる故事を集めた室町中期の書物壒囊鈔の原本を見て以来だ。ああ、ももクロちゃん! 「アイドルなんて茶屋女でもなければ遊女でもない、所詮どっちつかずの間の女だ」。女性アイドルに興味がない人は陰口を叩くものである。そんな奴らにこそ、このゲリラライブを聞かせてやりたい! 庭や路地の間の垣からでもいいからライブを見てほしい! ほら、なま暖かい東風が吹いてきたではないか! 風に誘われて外に出てこい!
視界が真っ暗になった。いくら目を凝らしても闇の中である。とうとう本物の盲になってしまったか……。あれ? 何だかおかしいぞ? 俺はたしか『闇の中』という題名の小説の主人公だったはずだ。なのにどういうわけか題名が『言葉におぼれて』に変更されたような気がする。気のせいかな? それとも作者が気まぐれを起こしたのか? だとしたら許せない。デ=アミーチスの小説『クオレ』のタイトルはイタリア語で「心」という意味だが、それを『愛の学校』などという陳腐きわまりない邦題にした翻訳者にも劣らぬ愚行である。いま俺の心の呟きを文字にして書いている作者がどこの馬の骨だか知らないが、「小説なんて能の曲中でほんの座興に見せる間の狂言に過ぎないよ」とでも思っているなら心得違いもはなはだしい。1931年に橘孝三郎が水戸に創立した私塾愛郷塾にでも通って小説の書きかたを一から勉強し直せと言いたい。文学は料理屋と同じ愛敬商売だ。登場人物を蔑ろにし、読者を楽しませないような小説に存在価値はない。だいたい作家という人種はどいつもこいつも自信過剰だ。阿弥陀如来のように柔和な愛敬相の持主はひとりもいない。お山の大将を気取って通り一遍の愛敬付合いしかしないし、少し魅力が出て愛敬付いてきたかなと思って気を許すと、婚礼の祝いにもらった愛敬の餅を人に投げつけたりする。酒を飲めばすぐ愛敬紅を塗ったような赤ら顔になってくだを巻くし、愛敬黒子がチャーミングですねとお世辞を言えば、これは江戸時代に婚礼の際新婦が襟にかけた愛敬守りのようなものだよとくだらない蘊蓄を傾けて我こそは天下一の愛敬者なりとふんぞり返る。こっちは、まったくですな、ハハハと愛敬笑いするしかないじゃないか。ああ、忌々しい! 小説家なんてくたばっちまえ!
作者に毒づいた筒井の視界に何やらぼんやりと白いものが浮かびだした。せせらぎが聞こえる。川か。ひょっとして三途の川ではなかろうか。三途の川を渡るには渡し銭が必要だと聞いたことがある。ズボンのポケットをまさぐると小銭があった。間銀として使うにはこれでじゅうぶんだろう。そうか、俺は死んだのか。思えば長いような短いような人生だった。人間万事塞翁が馬、人間到る処青山あり。
「汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる」
望郷の念にかられた筒井は長野に、いや、せめて日本に帰りたいと強く願った。これが愛国心というものなのか。俺は今まで日本という国を愛したことはない。どちらかといえばコスモポリタンだった。親族には右翼思想にかぶれた叔父がいて、日本初の政党は板垣退助が結成した愛国公党だ、ただし勢力は限定的で、正真正銘日本で最初の全国的な政党といえるものは明治8年の愛国社だぞ、男だけじゃない、女だって義和団事件を契機に明治34年に奥村五百子が愛国婦人会を結成したのだ、おい康隆、人の話はちゃんと聞け、おまえは左翼の連中とつき合っているようだが、正しい日本の歴史を勉強しなくちゃダメだぞと、会うたびに説教されてうんざりしたものだ。
遠くの川岸から、よいしょ、よいしょ、とかけ声をかけて大きな輿を担いだ男たちがやって来た。乗客はふたり、相輿で何やらひそひそと相言を交わしている。「山」。アショーカ王が呟く。「川」。ふたりが答える。合言葉を確認した王は、よろしい、気をつけて行くのじゃぞ、と通行を許可し、ふたりは川岸をそのまま下流へと向かった。
「いまのは誰ですか」
「わしの臣下や。最近は物騒な世の中でアカンわ。あの阿育王山には貴重な仏像があるが、異教の原理主義者が偶像を破壊するんや。西洋の言葉でいえばアイコノクラズムやな」
「見せてもらえませんか」
「アカン。このあいだもズウォルキンとかいう男が来よってな、なんでもロシア生まれのアメリカの電気技術者ちゅう話やったが、撮影させてくれ、世界初の実用的テレビジョン撮像管アイコノスコープの被写体にしたいとか抜かして、気は進まなんだが、まあよろしい、ほな撮影しなさいと許可したら、こいつがまた原理主義者や。仏像を滅茶滅茶にしよった。それ以来、部外者は立入禁止や」
ダメだと言われると余計見たくなる。筒井は何らやましいところがないのを証明するため、説経浄瑠璃の愛護の若の一場面を歌って聞かせ、ご機嫌を窺った。アショーカ王は首を縦に振らない。では将棋をさしましょう、陛下が必ず勝てるように私は間駒を自らに禁じます、いつでも王手できますよ、とおもねっても王は首を横に振る。
「じゃあパソコンの使い方をお教えします、アイコンをクリックしなくてもキーボードを叩くだけでソフトが起動するようにカスタマイズしてさしあげます」
「パソコンは嫌いやねん! スマホしかよう使わん」
けんもほろろである。せっかく19世紀の黒竜江にタイムスリップして眼の前の山には貴重な仏像を退蔵する寺院があるというのに拝めないとは蛇の生殺しだ。川にはカモ目カモ科のアイサが群をなして浮かび、頭を水中にもぐらせて水草を食いながら、まるで筒井をあざ笑うかのように尻をぶるぶる左右に振る。
「あいさ、あいさ」と、またしても神楽の囃子詞のようなかけ声がして、輿に乗った女性がふたり近づいてきた。どことなく芝居がかって、能舞台の橋がかりが後座に接続する部分の奥まった位置にある間座から登場したような風情である。「わしの嫁さんと娘や」。アショーカ王は愛妻と少女を筒井に紹介した。かわいらしい娘は十二三歳くらいの愛盛りで、川に沿って広がる畑の畝と畝のあいだに間作して植えた野菜の育ち具合を母親と一緒に見に来たのだという。「あなたもお乗りなさい」と王妃が輿をポンポンと叩いて筒井を誘う。やんごとなき王妃と相座敷なんて滅相もない。「畏れ多い話でございます」と筒井が遠慮して挨拶すると、「そなたは私に反抗するのですか。挨拶切るつもりならそれで結構。鮫に食われるがいい!」。王妃が叫ぶと同時に黒竜江の水面がざわざわと波立ち、ツノザメ目ツノザメ科アイザメ属の藍鮫が群れをなしてもんどり打って暴れ回り、筒井に向かって巨大な歯を剝きだしにする。逃げ腰になった筒井に王妃が言った。
「そなたは何者だ」
「あ、あの、えーと……会沢という者です」
筒井は咄嗟に嘘をついた。
「あいざわ? するとそなたは昭和10年、陸軍省内で統制派の軍務局長永田鉄山を斬殺した相沢事件の犯人、相沢三郎中佐の末裔であるか」
「いえ、おなじアイザワでも字が違います。アイザワサブロウのアイは『相』、私の名字は『会』です。江戸後期の儒学者会沢正志斎の子孫です」
「原理主義者ではないのだな」
「とんでもない!」
ならばよろしい、と王妃がパンパンと手を打つと川上から近世大阪の淀川筋で使われた間三そっくりの船がするするとやって来て岸辺に着いた。
「誤解が解けたのを御祝して愛餐を催して進ぜよう」
「アイサンと申しますと……ひょっとしてキリスト教の……」
「さよう。初期キリスト教徒の兄弟愛を示す会食です」
「でも陛下は、仏教を庇護したアショーカ王のお后では?」
「仏教は寛大です。キリスト教徒がほかの宗教を信ずることは禁じられていますが、仏教徒は同時にキリスト教徒であっても矛盾しないのです。さあおまえたち、会沢さんを船にご案内しなさい」
王妃に命じられた男たちはそれまで担いでいた輿を下ろし、仕事仲間の相仕である船頭と協力して筒井を船に乗せ、続いて王妃と娘も乗船した。王妃は輿から下りた時に着物の裾に埃がついたのを間紙でそっとはたいた。船は黒竜江を下り始めた。ほどなくして船底がぼろぼろ崩れ、船体がぶくぶくと沈む。泥船だ! 船は見る見るうちに川底に沈み、筒井は水を飲んで気を失った。
「おい、筒井」
どこからか野太い声がする。
「だ、誰だ?」
「わしはドクロベエだべえ」
「ドクロベエ……あ、『ヤッターマン』の……?」
「おまえはヘマをやらかしたべえ」
「ヘマ? なんの話です?」
「おまえは広辞苑小説『言葉におぼれて』の主人公だべえ」
「そうですよ。だから今まで頑張って冒険を続けてきたんです。やるべきことはちゃんとやってきました」
「連載第十三回を思い出せ」
「第十三回?」
「デ=アミーチスの小説『クオレ』のエピソードだべえ」
「ああ、はい、ありましたね」
「邦訳の『愛の学校』は陳腐だ、とおまえは言ったべえ」
「言ったかなあ、どうだったかなあ――あ、思い出した。言いましたよ」
「問題はその次だべえ。『小説なんて能の曲中でほんの座興に見せる間の狂言に過ぎないよ』と、心の中で呟いたべえ」
「ええ、それははっきり覚えてます」
「おまえは広辞苑を持っておるか」
「持ってますよ」
「書籍版か、それとも電子辞書か」
「電子辞書です。カシオの EX-word XD-H7500 に入ってる第五版。便利ですよ」
「ならばもう一度間の狂言を引いてみるがいいべえ」
「……引きましたよ。ちゃんと載ってます」
「次の項目を見ろ」
「えーと……間の楔です」
「そのとおり。ところがおまえは第十三回で間の狂言の次に、愛郷塾という言葉を口にしたのだべえ」
「え? 本当ですか? ぜんぜん気づきませんでした」
「事の次第を説明してやるべえ。カシオの電子辞書版『広辞苑』第五版で間の狂言を引くと、最初の語釈に『→「あいきょうげん」と同じ』と書いてあるべえ」
「あ、はい、書いてありますね」
「作者は矢印を選択してスーパージャンプのボタンを押し、間狂言の語釈を確認したんだべえ」
「意味を調べたわけですね。それがどうかしたんですか」
「意味を調べるのは構わん。だが調べ終わったらスーパージャンプする前の言葉に戻って続きを書かねばならぬべえ。なのに作者はぼんくらで、間の狂言に戻るのを忘れて、ジャンプした先の間狂言から後を続けて書いてしまったのだべえ」
「え! てことは、『あいの』で始まる言葉がまだまだあるのに、突然『あいき』で始まる言葉に繋げちゃったってことか」
「そのとおりだべえ」
「じゃあ、第十三回後半以降の俺の冒険は……?」
「無意味だべえ」
「そんな……。でも俺はただの登場人物に過ぎない。ヘマをやらかしたのは作者だ。文句を言うなら作者に言ってくれ」
「このアカポンタン! 作者が間違えた時は、主人公であるおまえがちゃんと物語を進めるもんだべえ! おまえの存在価値は失われたべえ。この世界から追放するだべえ。おしおきだべえ!」
「ごめんなさい! どうか、どうかお赦しを!」
「ふむ……では特別措置を講じてやるべえ。小説の主人公としての責任をしっかり自覚して、今度こそ間の楔という言葉を使って冒険を続けるのだべえ。そうすれば命だけは助けてやるべえ」
「ありがとうございます!」
黒竜江の波打ち際に筒井の体が打ちあげられた。近隣の人々が集まり、水死体か、それとも気を失っているだけか、ぐったりして動かない体を材木の切れ端で突いて反応を伺う。材木には間の楔が打ってあり、眉間に楔が刺さった筒井は思わず「Ouch!」と大声を出した。
「生きてるぞ! 英語を話した」
「顔つきは東洋人だが、さては西洋人との合の子だな」
人々は土左衛門同然の重たい筒井の体をどっこらしょと持ち上げ、和洋折衷の間の子船に乗せた。意識を取り戻した筒井に、腹が減っただろう、ほれ、食べなさいと白米にチリコンカンを添えた間の子弁当を振る舞うと、筒井は腹をすかせたオオカミのようにむさぼり食い、船は江戸時代に正規の宿駅のあいだに設けられた旅人休息用の間宿のような港町に接岸した。
「助かった!」筒井は再び小説の世界に戻れたことをドクロベエに感謝し、あたりを眺め渡した。滔々と流れる黒竜江はまるで故郷のように懐かしく目に映る。行き交う人々の前時代的な服装と自動車が一台も見当たらないところから察するに、やはり十九世紀後半の中国に戻ったらしい。こんな鄙びた町に妻と愛の巣を営めたらどんなに幸せだろう。のんびり畑を耕して暮らし、農作業の間の遊びには河川の跡地を水田にした相の田の稲穂を眺めるのだ。畑の向こうに聳える三千メートル級の山は山梨県西端、白根三山の間ノ岳に似ているねと妻に問えば、本当ね、と相の鎚を打ってくれるだろう。
川と山に挟まれた港町は旧東海道の宿場町間の土山に地形が似ており、筒井は思わず有名な馬子唄の一節、「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、間の土山雨が降る」を口ずさんだ。「あ、こりゃこりゃ」と背後で間の手を打つ者がいる。振り返ると印半纏を来た腰の低い男が「お泊まりではございませんか」と声をかける。宿の客引きだ。どこかで休憩したいと思っていたところだったので、筒井は案内されるまま小さな旅館に入った。
あてがわれた部屋は畳の大きさが京間と田舎間のちょうど中間にあたる間の間で、座卓には間の物と言うのであろうか、ふつうの酒盃より少し大きめの土器がひとつ置いてある。こんな盃をむかし三重県伊勢市、内宮と外宮のあいだに広がる間の山の骨董屋で見たことがあった。店主はいかにも伊勢の人らしく、三味線を弾きながら間の山節を歌って聴かせてくれたっけ。骨董屋からの帰りはほかの客とタクシーに相乗りしたなあ。どこの誰だか知らないが、旅先では人と人との間柄すなわち合端なんて関係ない。ああ、日本に帰りたい――
筒井は軒先から庭を眺めた。まわりは石垣で、石と石との接合部の合端に苔がむしている。石垣の切れ目に棒杭が立ち、宿の主人の愛馬らしき馬が一頭繋いである。筒井は主人を部屋に呼んで、二十一世紀の日本に帰りたいのだが何かよい知恵はないものかと訊ねた。
「それならアイバクにお願いするのがいいですよ」
「アイバク? 聞いたことがないが」
「クトゥブッディーン・アイバク。ご存じありませんか? インド奴隷王朝の始祖ですよ。奴隷身分出身の武将で、十三世紀の初め頃デリーを都として王朝を立てたんです。タイムスリップしたい人はみんなアイバクに祈りを捧げるんです」
「ぜひタイムスリップしたい! で、どうすればいいんだ?」
「インドにお行きなさい」
「インド?」
「もちろんですよ。アイバクのお墓があるんです。墓前で祈りを捧げればどんな時代のどこへでも行けますよ」
「インドか……遠いなあ」
「遠いったって地続きですから。のんびり旅をなさるがいいですよ」
座席は四人がけで乗客は筒井ひとりだった。空席に本が一冊、表紙に『インドへの道』と書いてある。映画化されたエドワード・モーガン・フォースターの小説だろうか。馭者に訊ねると、仲間と相版で出版したインド旅行ガイドだという。指で寸法をはかると縦が約21センチ、横が約15センチで、週刊誌より一回り小さい合判サイズだ。
前方から一台の馬車が来てすれ違い、馭者同士が片手を上げて挨拶を交わした。「一緒に宿場町で客待ちの相番をする仲間ですよ」馭者が説明した。
「ところで、インドまでの運賃はいくら?」筒井が訊ねた。
「八億四千万ドルです」
「八億四千万ドル? そんな法外な値段があるものか」
「払えないって言うんですか? なら片目をくり抜いてアイバンクに登録しなさい。いやでも金を作ってもらいますぜ」
馭者は馬車を停め、それまで柔和だった表情が鬼のような形相に変わった。相反するふたりが睨み合う。馭者はまだ食事を済ませていなかったのか、ふいに馬車を降り、道路沿いの一軒家から火をもらって煮炊きを始めた。家は忌中らしく鯨幕で覆われている。喪中の家の火を使うのは合火といって昔から禁忌じゃないか。今回の旅は縁起の悪いことばかりだ。筒井はアイビーの絡まる家の門をくぐって扉を叩いた。
「どなた?」主婦らしき女が不機嫌そうに顔を出した。
「藪から棒ですみません。旅の者ですが、この辺で馬車を雇えるところはありませんか」
「馬車? そこにあるじゃないか」
「ええ、今乗ってきたんですが、ちょっと事情がありまして、別の馬車にしたいんです」
「今どき馬車とは珍しいね。いいよ。まあお入りなさい」
筒井が家に入ると居間の壁にノートパソコンがある。
「ネットで予約できるけど、本当に馬車でいいのかい? タクシーとかじゃなくて?」
「ネット?」
「なんだい、おまえさん、ネットも知らないのかい? アメリカ国防総省が開発したインターネット・プロトコル、IPで世界中にパケット交換式でデータを転送できるんだよ。今もちょうどIPRのホームページを見てたところだ。太平洋問題調査会だよ。さっきはIBRD、国際復興開発銀行のサイトをチェックした」
半信半疑で筒井がパソコンを見ると十年くらい前のIBM製 ThinkPad だ。女がキーボードをカタカタ打つとブラウザにアメリカのアイビーカレッジのウェブサイトが表示された。新校舎の建設現場だろうか、アイビースタイルの学生たちが肩にI形鋼、いわゆるアイビームを担いでにこやかに笑っている。合衆国東部の名門私立大学アイビーリーグに所属するだけあって、金には不自由しないと見える。
「妙なことを伺いますが……今は十九世紀ではありませんか?」
「なにを寝ぼけたこと言ってるの? あんた、どこから来たの?」
「じつは二十一世紀の日本から十九世紀の中国にタイムスリップしたんです」
「十九世紀にネットなんてあるわけないじゃないか! 夢でも見たんだね。まあ、そこにお坐り」
筒井が食卓に腰を下ろすとドイツの作家アイヒェンドルフの小説『のらくら者の生活から』から抜け出したような純朴な女は台所から大きな皿を持ってきて、牛肉と豚肉の合挽きで作ったハンバーグのような料理を振る舞ってくれた。女と一緒に舌鼓を打ちながら筒井はまるで愛人と密かに相引しているような錯覚にとらわれた。嘘みたいだが、俺はどうやら二十一世紀の世界に戻ったのだ。いったいいつどこでタイムスリップしたのだろう?
「おまえさん、日本から来たと言ったね」
「ええ」
「じゃあ二葉亭四迷の『あひゞき』を知ってるかい?」
「あいびき?」
「うん。ツルゲーネフの短篇集『猟人日記』の一編を翻訳した小説だよ」
「よくご存じですね」
「中国人を馬鹿にするもんじゃないよ! 今や日本を抜いて世界第二位の経済大国だ」
女は寝室から日本製の鎧を持ち出し、右脇の引合の緒である相引の緒を自慢げに指先でひらひらと回した。中国の寒村でたまたま出会った女と日本の文学や武具について語らううちに筒井は国籍も性別も越えて女と相等しい関係が成立したのを感じた。女は書棚から第二次世界大戦中に行なわれたナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺の責任者アイヒマンの伝記を取りだして食卓に広げ、膝に乗せた愛猫をやさしく撫でながら、犬のように殺された無辜のユダヤ人たちを哀憫した。
話に耳を傾けていた筒井がズボンのポケットに手を入れると紙切れが一枚ある。旅館を出発した時、馭者に荷物を預けた。あの時の合符だ。そういえば外に馬車を待たせたままである。猫を愛撫する女に「ちょっと失礼」と黙礼して席を立った筒井は玄関に向かって歩ぶ。
通りのほうからがやがやと人声がする。玄関から外に出ると門前に馬車がざっと数えて十四五台、それぞれの馭者らしき男たちが何やら鳩首協議中で、ひとりが「あいつだ! 無賃乗車!」と筒井を指さしたのを合図に十数人の男たちはアメリカンフットボールのアイフォーメーションの攻撃体形をとったが早いか門にタックルして木っ端微塵にし、筒井めがけて突進した。筒井は咄嗟の判断で家の周囲をぐるりと回って命からがら裏庭へ逃げながら、無賃乗車だなんて人聞きが悪い、まだ目的地のインドに着いていないじゃないか、痛くもない腹を探られるのは理不尽だ、こっちから合奉行に訴訟を起こしてやるぞと独り言を呟き、春と秋に着る間服の袖をまくりあげてポケットから先刻の合符を出してヒラヒラさせながら「荷物の合札ならちゃんとここにあるぞ」と追っ手のほうを振り向いた。馭者たちは猛牛の群れのように家に体当たりし、安普請の家屋は一瞬で瓦礫の山と化した。女は圧死されたに違いない。必死に逃げる筒井の額から汗が滴り落ちアイブローを濡らす。親切な女とこんな形で哀別することになろうとは、まるで恋人と愛別するかのようなつらさである。裏庭には女が飼っていたのだろう、野生ヤギのアイベックスが群れてのんびり草を食んでいたが、馭者の一団が迫って来たのを見た途端にさっと編隊を組んで構え、弓なりになった長い角を前にぐいと押し出して走り出し、馭者たちに真正面からぶつかって蹴散らした。愛別離苦の悲しみにひたっていた筒井はインド行き直行便の馭者が大の字になって倒れているのを見つけ出し、「思い知ったか! 命は助けてやる。その代わり今すぐ宿を手配しろ。相部屋でも構わん」と怒鳴りつけ、地面に落ちていた裁縫用の合箆を拾い上げて馭者の鼻面にぐいぐいと押しつけた。
息を吹き返した馭者は「へえ、よござんす」と蚊の鳴くような声で相返答し、息も絶え絶えの仲間たちを見渡すと哀慕と愛慕の念が同時に胸にこみあげた。一命をとりとめた馭者の相棒が絵の具に用いる藍棒をおずおずと筒井に差し出し、今回の勝負は相星というわけにはまいりません、負けを認めますのでどうかお納めくださいと慈悲を乞うた。
突然大地が鳴動した。驚いたヤギの群が悲鳴をあげて逃げ惑う。「地震だ!」馭者が叫ぶ。「1975年から83年までアメリカと日本、フランス、西ドイツ、イギリス、ソ連が参加して行なった国際深海掘削計画をIPODと呼ぶんですが、調査の結果、海洋底が拡大するのが明らかになりプレートテクトニクスが確立したのです!」馭者はまるで百科事典を朗読するみたいに説明した。
崩れた山のほうから馬が走って来た。それまで雑談にふけっていた馭者たちが馬上の男を見るや否や、馬車に隠し持っていた槍を一本ずつ手にとり、相槍の戦いに備えて身構えた。やって来た男は馬をとめて大声を発した。
「我こそはエジプトとシリアを領有し十字軍に対抗するアイユーブ朝の始祖、サラディンである!」
全員呆気にとられた。十字軍なんて千年近くむかしの話じゃないか。ぽかんと口を開けたままの筒井たちを見た男は「どうだ、恐れ入ったか」と言わんばかりにふんぞり返って口上を続けた。
「余が愛用する槍を盗んだのは誰だ? 愛欲に溺れるおまえたちの仕業に相違ない。いざ尋常に相撲で勝負せよ! 相四つに組んでも負けるものか。おい、おまえ、相読みになれ。なに? 相読みとは何でございますか、だと? 愚か者め。立会人のことだ。くれぐれも言っておくが相嫁ではないぞ。相嫁は兄弟の妻同士のことだ。向こうで踊っている彼等は何者だ? 余はアイラインを引いてきたぞ。似合うか? 化粧をすると表情が豊かになり喜怒哀楽がはっきりする。誰か鏡を持ってこい! 余の姿は定めし愛らしいであろう。余はこれからリゾート・アイランドへ参る。ギリシア神話の虹の女神アイリスに因んだ地中海の島だ」
なんの話だかチンプンカンプンである。気狂いかな、と筒井は思った。やせ馬にまたがったみすぼらしい男の姿はどう見たってドン・キホーテのパロディーである。すると馬上の男の背景が絞り状に周囲から次第に暗くなり、小さな丸の中に残った男の姿も絞られて闇に消えた。アイリスアウトだ! 黄金時代のハリウッド映画で場面転換に用いたテクニックではないか。筒井は興奮した。数年前アカデミー賞を獲った白黒映画『アーティスト』でもこの技法を使っていたが、よもや現実の世界でお目にかかろうとは――夢かうつつか幻か、筒井は目をこすった。闇の中心に小さな円が現れて周囲が次第に明るくなり馬上の男が再び現れた。
「アイリスインだよ。えへへ」
再登場した男は得意げに言った。言葉にアイリッシュ訛りがある。どこからかアイリッシュハープの調べが聞こえてきた。気狂いのくせにBGMつきで登場するとはこしゃくな奴だ。
馭者たちは槍を置き、さっさと帰り支度を始めた。馬車が次々に街道を去って行く。一台だけ残った馬車に「日本行き」と書いた札が貼ってある。ありがたい! 「乗せてくれないか」と筒井は馭者に言った。
「あいりん行きですけど、構いませんか」
「あいりん?」
「大阪市西成区ですよ」
物騒な街として知られるあいりん地区か。しかし帰国したい一心の筒井は即座に応諾し馬車に乗りこんだ。馭者が馬に鞭を当てると馬車は猛スピードで走り出し、山脈をいくつも越え、大河を渡り、海を越えて島国に着いた。ついに日本に帰ってきたぞ! 筒井は欣喜雀躍した。しかし港町の風景はどうも西洋じみている。行き交う人がみな白人であるのも腑に落ちない。
「ここは日本なのか?」筒井は馭者に訊ねた。
「アイルランドですよ」
「アイルランド?」
「ええ、アイルランド共和国」
「行き先はあいりん地区だと言ったじゃないか」
「言いませんよ。お客さん、耳が遠いね」
往来から聞こえる人々の話し声はたしかにアイルランド語のようだ。筒井は馬車から降りて目抜き通りを歩いた。土産物屋の店先に女主人が揺り椅子に坐って日なたぼっこしながらアイレットワークの刺繍をしている。黒竜江から日本に向かったとばかり思ったのに正反対の地の果てに来てしまった。筒井はがっくりと膝をついた。「どうしたんだい?」女将が哀憐を帯びた口調でやさしく語りかけた。筒井は口を利く元気もない。
「さてはおまえさん、愛恋に破れたんだね。恋人に捨てられた、そうだろう?」
女将は愛憐をこめて慰める。筒井は文色も分かたぬ真の闇に放り出されたも同然だった。
「私は人生の隘路に迷いこんでしまったんです」
筒井の眼から藍蝋を溶かしたような暗い涙がこぼれ落ちた。
「日本を目指してあいろこいろの山越えて辿り着いたのがここだったのです」
「人生にはアイロニーがつきものだよ」
刺繍の手を休めてアイロンがけを始めた女は筒井の哀話に心動かされたのだろう、ふたりはしばらく相和して睦まじく語り合った。女は筒井の眼をまっすぐ見つめて諭すように言った。
「なんでも自分の思いどおりに行くと思ったら大間違いだよ。アインシュタインだってそうだ。アインシュタイン宇宙を知ってるかい? 1917年に一般相対性理論の重力方程式から導いた宇宙モデルだよ。物質の分布が一様で空間曲率が正の閉じた静的宇宙さ。ところが実際の宇宙は動的だから、このモデルとは合致しないんだ。アインシュタインは落ちこんだよ。でも原子番号99、超ウラン元素のひとつが彼の名前に因んでアインスタイニウムと命名されて面目をほどこしたのさ」
二十世紀最高の知性であるユダヤ人物理学者の知られざる苦労話を聞かされた筒井はアインフュールングすなわち感情移入した。
目抜き通りがわいわいがやがやと騒々しくなった。「お祭りだよ」女が言った。「相嘗祭だ。新嘗祭の前に七十一座の神に新米を奉献するのさ」。法被を着た男女が神輿を担いでやって来る。会うのが久しぶりらしい見物人が握手したり肩を叩いたりして再会を喜ぶ。「祭りは人の心と心を合ふ……」女が擬古的な口調で呟いた。「祭りの時はほうれん草と胡麻を和ふのがしきたりだ。かく恋ひば老いづく吾が見けだし敢へむ。ほうれん草の胡麻和えにて汝を饗ふ」。
筒井は法被姿のアイルランド人がわっしょいわっしょいと神輿を担いで通り過ぎるのを呆然と眺めた。なんてアヴァンギャルドな光景だろう! まるで中央アジア出身のイスラム哲学者アヴィセンナがフランス南部ローヌ河口の都市アヴィニョンでサッカーのアウェーゲームに臨むようではないか! いや、もっと正確に譬えるならゾロアスター教の経典アヴェスタを片手にアヴェマリアを唱えてコルドバ出身のイスラム哲学者アヴェロエスを称えつつ、心の底ではイタリアの物理学者アヴォガドロを崇拝して初期キリスト教会最大の思想家アウグスティヌスを罵り、紀元前27年オクタウィアヌスがローマ元老院からアウグストゥスの尊号を受けたのを祝ってドイツ南部バイエルン州の古都アウクスブルクを練り歩くような騒ぎじゃないか。
行き交う群衆のあうさきるさに気をとられた筒井の肩が通りがかりの女にぶつかった。女はあうさわに「アウシュヴィッツへの道はこれですか」と訊ねた。
「アウシュヴィッツ?」
「ええ……あ、間違えました。アウステルリッツです」
「アウステルリッツ……たしかチェコ第二の都市ブルノの近くの町だね」
「はい。学会がありまして、アウストラロピテクスに関する発表を聞きに行く途中なのですが、道に迷ってしまって」
「ほう。ご専門は人類学ですか」
「いえ、言語学です。アウストロアジア語族とアウストロネシア語族の研究をしています」
「道に迷ったとおっしゃるが、ここはアイルランドですよ」
「え!」
言語学者だという女はびっくり仰天した。チェコに行くのにアイルランドで迷子になるとはよっぽどの粗忽者だなと筒井はにやにや笑った。しかし袖すり合うも多生の縁、ここで逢瀬を果たしたのも何かの因縁だろう。立ち話するふたりのそばを、神輿を担いで怪我をしたのか、額から血を流した法被姿の若者が長方形の板を台にして竹で吊した箯輿に横たわって運ばれてゆく。女はアウターのカーディガンを脱ぎ、「自給自足経済を意味するドイツ語のアウタルキーは自足を意味するギリシア語が語源なんです」といきなり言語学の講義を始めた。筒井は気に障って忠告した。
「見ず知らずの人に講釈を垂れるとは失礼だ。野球ならアウトだよ」
「野球? そんなアウトオブデートなスポーツがお好きなの?」
「うん」
「同じスポーツに譬えるならバスケットボールとかバレーボールとかゴルフのアウトオブバウンズだよって言ってほしかったわ」
「野球以外は興味がないんだ。ほら、アウトカウントがあとひとつで試合終了だぞ。君はピッチャー、僕はバッター。アウトコースに投げても無駄だよ。流し打ちが得意なんだ。アウトコーナーはお手の物さ」
「あなたってアウトサイダーなのね。世界の主流はサッカーよ。誰がアウトサイドになんか投げるものですか! アウトドアの人気スポーツはサッカー! だいたい最近の野球場ってどこも室内ドームじゃない。アウトドアライフを楽しめないわ」
なぜか喧嘩に発展してしまった。相手をやりこめる言葉がまるでアウトバーンを疾駆するフォルクスワーゲンのように飛び交う。ふと気がつくと物見高い外野すなわちアウトフィールドの連中が集まってきてふたりを取り囲んでいるようだが、興奮した筒井の眼はアウトフォーカスして群衆の姿はぼんやりとしか見えない。言語学者は脳裏に浮かんだ罵詈雑言を次々に口からアウトプットしながら相手の反応を伺い、筒井も負けじと応戦、喧嘩はアウトボクシングの様相を呈した。売り言葉に買い言葉、まるでアウトライト取引である。
「あなたの話は支離滅裂! アウトラインがなってないわ」女が叫んだ。土産物屋の女主人はアイロンがけをやめて再び刺繍にとりかかり、アウトラインステッチをしながら二人の様子を見ている。店の左隣の商店にコンピューターでよく用いるアウトラインフォントでアウトレットストアと書いた大きな看板がある。筒井は大声を張り上げる言語学者を無視して店に入り眼鏡を買った。連載第十二回で眼鏡を壊して以来、ようやく視力を取り戻した筒井が表に出ると言語学者は「このアウトロー!」と言い残して去った。逢うは別れの始めだ。女の捨て台詞が音楽のアウフタクトのように耳に響いた筒井は言語学者との対立をアウフヘーベンしたいと思い、また逢えるかどうか、右足の靴を高く放り投げて占った。表なら逢える、裏なら逢えない――靴はあろうことか横向きに落ちた。合うも不思議合わぬも不思議。納得がゆかない。ならばと筒井は古代の民間占法の一つ、足占に挑戦した。歩きながら一歩ごとに「逢える」「逢えない」と交互に唱え、目標の地点に達した時にどちらを呟くかで吉凶を占うのだ。二歩目で石につまずいて転んでしまった。
再び祭り囃子が聞こえてきた。大勢の男女が円筒形の二本の管を並べた古代ギリシアの笛アウロスを吹き鳴らす。きらめく朝日はローマ神話の曙の女神アウロラが微笑みかけているかのようだ。眼鏡をかけた筒井があらためて港を眺めると一隻の軍艦がある。近づいてよく見るとロシアの巡洋艦アウロラ号ではないか。1917年の十月革命で臨時政府閣僚のたてこもる冬宮を奪取する行動が始まったきっかけを作った軍艦だ。アイルランドで保存されていたとは。ロシア革命によって樹立したソビエト政権は1991年に解体された。何事も始まりがあれば必ず終わりがある。密教でいうなら阿吽だ。ビルマの民族独立運動を指揮した軍人アウンサンも1947年に暗殺された。
筒井が阿吽の二文字を脳裏に描いたその瞬間、まさに阿吽の呼吸で土産物屋の女主人がやって来て「一口召し上がれ」とほうれん草の胡麻和えで饗してくれた。「お言葉に甘えて」と筒井が皿から一口分をつまんで食べようとした時、女主人はなよなよとあえかに体を震わせて突然苦しそうに喘ぎ始めた。何かの発作だろうか。筒井は喘ぐ女を介抱しつつ、三重県上野市にある元国幣中社である敢国神社の祭神、敢国津神に祈りを捧げた。「大丈夫ですか」と声をかけても女は一言もあえしらいしない。あえしらう気力さえ失われたと見える。女は口から真っ赤な血をあえして息絶えた。「誰か来てくれ!」筒井が大声をあげると、女の亭主が店先から取るものも取り敢えず駆けつけ、頓死した妻をかき抱き、死に水の代わりにマグロのぬた和えのような和え作りを口もとに運んでやった。「あなたもお一つどうです」と勧められたが、縁起をかつぐ筒井は敢えて食べなかった。
朝日の透明な光が海に合へ照る。敢え無い最期を遂げた女の死に水を取ってやれないのはつらいが、なにしろ俺はアイルランドの風習に疎いのだ、失礼は承知だが敢へなむ。街路樹の枝に今にもはらはらと落ちてきそうな白い花があえぬがに咲いている。果たして花びらが数枚ひらひらと、糸を通して合へ貫いたかのように連なって落ちた。筒井の眼には死出の旅に出た女の花道に映った。妻の遺骸をかき抱いたままの夫は天を仰いで、ホメロスの叙事詩『イリアス』に登場するトロイアの英雄アエネアスのように慟哭した。長編叙事詩『アエネーイス』を著した古代ローマの詩人ウェルギリウスでさえ、この夫の悲しみを描ききることはできまい。
涙が涸れ果てたのか、夫は妻の亡骸をそっと地面に横たえて筒井に向き直り、アイルランドでは相嘗祭の直後にもう一つ饗の祭という収穫行事があるのですよと教えた。伝説によると石川県奥能登地方の行事だそうで、百年ほど前に饗庭という日本人がアイルランドに渡り、作家饗庭篁村の小説『当世商人気質』を朗読したところ大評判となった。それを記念して毎年祭りが催され、参加者には魚肉に鰹節をまぜ酒や酢にひたした和え交ぜを振る舞うのだという。俺も伝説の男になりたい――筒井は思った。饗庭という男をお手本に、肖者にしたい。大勢の人が和え物で俺をもてなすのだ。アイルランド国民がこぞって俺のために野菜や魚介類に胡麻や酢を和える姿が目に浮かぶ。ご馳走に舌鼓を打つのだ。亜鉛が不足すると味覚が低減するというからサプリメントを飲んでおこう――筒井の妄想はとどまるところを知らない。
「亜鉛のことならおまかせください!」銘仙の袷を着た男が出し抜けに声をかけた。俺の妄想に割りこむとは読心術でも操るのか。「わたくし、こういう者です」と手渡された名刺を見ると肩書は亜鉛研究家、氏名は石坂洋次郎。どこかで聞いたことのある名前だ。「亜鉛のすばらしさを世界中の人に知ってもらいたくて、はるばるアイルランドにやって来ました」石坂は勝手にしゃべりだした。
「亜鉛華をご存じですか」
「知らないよ」
「酸化亜鉛です。白い粉末で、酸にもアルカリにも溶けます。白色顔料や化粧品、医薬品に使います」
「へえ」
「亜鉛華軟膏は亜鉛華とラノリンを混ぜた軟膏で防腐効果があり、皮膚病に効きます」
「ふーん」
「亜鉛鉄板はご存じですよね」
「知らないってば」
「トタンですよ」
「ああ、屋根とかに使う、あれか」
「ええ。亜鉛凸版は写真製版法で作った、亜鉛を版材とする凸版でしてね。亜鉛の板に感光液を塗って、文字や画像のネガを焼きつけて硝酸で腐食させるんです。感光液を塗る板は亜鉛版と言います」
「話の腰を折ってすまないが……私は亜鉛のサプリメントが飲みたいだけなんだ」
石坂の顔が青くなった。よほどばつが悪いのだろう、冷や汗がどっと噴き出て袷の襖にぽたぽた垂れた。顔面はまるで青豆をすってあえた青和えのように青青としている。着物の柄も夏の水辺に茂る青蘆をあしらい、首の後ろにまわした青編笠が青嵐に煽られる姿はまるで白餡にグリンピースの生餡を混ぜた青餡が着物を着て歩いているようだ。石坂は葵を染め抜いた袖で青い額の汗を拭い、芙蓉や銭葵など葵科の草が描かれた袖の中から賀茂祭に用いる髪飾りの葵鬘を取りだし、青息吐息で筒井に恭しく差し出した。なにもそこまで卑下することはないじゃないか。筒井は袖に描かれた葵草と葵座を見ながら石坂に訊ねた。
「石坂洋次郎というお名前は、小説家の……」
「はい。同姓同名です。父が『青い山脈』の大ファンでして」
「そうですか。じつは私も小説家です」
「これはお見それしました。アイルランドへは取材旅行で?」
「いやあ、話せば長くなりますが……和服がお似合いですね」
「ヨーロッパでは着物のほうが目立って商売しやいんです。亜鉛がメインですが、副業として庭石に使う緑色の青石も売ってます。ほかにも秩父青石で作った青石塔婆などを」
「手広く商売をなさってるんですね」
「はい。刀も商ってますよ。越前の刀工康継が制作した葵下坂。慶長年間の作ですから今から五百年以上前のものです。徳川家康のお気に召して葵の紋を切るのを許された品です」
「そんな名品を買う人がアイルランドにいるんですか」
「これがいるんですよ。さすがヨーロッパですね。目利きは大勢います。庭に葵菫を植えたいから苗を売ってくれとか、日本料理に使いたいので青板昆布を仕入れてくれとかいう人もいるくらいで。刀の鍔も葵鍔でなくては買わないとか、結構うるさいんですよ」
「でも商売のし甲斐があるでしょう」
「はい。日本人だろうがアイルランド人だろうがお客様は神様です。お客様の信頼を得るのが商売のコツですね。仰いで天に愧じず、俯して地に愧じず」
「立派な心がけだ」
「このあいだもオランダ人に青糸毛の車はないかって聞かれましてね。むかし皇后や摂政、関白が乗った牛車ですよ。しかも徳川家の葵巴がついた品に限るという難しい注文で」
「物好きだね」
「なんでも芝居に使うんだそうです。『青い鳥』とかいう」
「『青い鳥』はメーテルリンクの童話劇だ。牛車が出てくるとは思えないなあ。ひょっとして能の『葵上』じゃないの?」
「芝居は門外漢なもので……『青い花』だったかも知れません」
「『青い花』はドイツの作家ノヴァーリスの小説ですよ」
「いやはや、お恥ずかしい。舞台の小道具として秋田能代の葵盆も使いたい、京都下鴨神社の葵祭を再現するんだ、とかなんとか言ってました。葵盆は青色だと思ってる人が多いんですが、実際は淡黄色の漆を塗ってあるんです」
「まるで古美術商だ。とても亜鉛の専門家とは思えない」
「自分でも時々何の商売をしてるのかわからなくなることがあります。でも青色申告はちゃんとやってますよ」
日本とヨーロッパを頻繁に往復して亜欧を股にかけて亜鉛や古美術を商う石坂は阿翁すなわち祖父も商売人だったそうで、浮草に似たとても小さな青萍を栽培し、京都府長岡京市にある西山浄土宗の本山粟生光明寺に納入しただけでなく、江戸後期の洋風画家亜欧堂田善の銅版画コレクターとしても有名だったという。祖父の口癖は「視野を広げろ。青海原を越えて世界にはばたけ。青馬に乗って世界を駆け巡れ」だった。
「うちの先祖は白馬の陣に並んだことがあるそうです」
「アオウノウマノジンって何ですか」
「わたしも詳しいことはよく知らないのですが、平安京に建礼門という門があったそうで、その別名らしいです。平安時代には白馬節会という宮中行事があって、正月七日に宮廷の庭に馬を引っぱり出して眺めたんですって。なんでも青い馬を見ると年中の邪気を払うという迷信があったそうです」
「馬が縁起物だとは知らなかった」
「わたしもです。亀のほうがよっぽど縁起がよさそうに思えますけどね。青海亀とか」
石坂は、お一つ召し上がりませんか、と鞄から青梅を取りだした。塩に漬けた青梅漬だ。日本を離れて久しい筒井はアイルランドで梅が食べられるとはありがたいと、遠慮なくむしゃむしゃ食べた。口の中が酸っぱくなって思わず顔をしかめる筒井を見ながら石坂は藍色の青絵が描かれた陶磁器がいかに貴重か、また先ほど述べた葵下坂という名刀は青江下坂とも呼ばれ、備中青江、現在の倉敷で製作された青江物という刀とともにどれほどヨーロッパで人気を集めているかを熱弁した。筒井は梅を食べてしまうと急に食欲が増し、ほかに食べ物はないか訊ねた。「こんなものでよければ」石坂は茹でた青豌豆の入った袋を差し出した。筒井は袋に手を突っこみグリンピースをわしづかみにしてがつがつ食った。豆を頬張りながら「これじゃまるで礼儀を知らない青男だな」と思った。もし女だったら「あの子は年若く世慣れない青女だからね」と、ご愛敬で済むのだが。たらふく食べた筒井は石坂の顔色を窺いながら再び訊ねた。
「じつは日本に帰りたいのだが……あいにく一文無しで、西も東もわからなくて……」
「じゃあご一緒にどうです?」
「ご迷惑ではありませんか」
「いいえ、ちょうどわたしも船で帰国するところです。螺鈿の材料にする青貝を仕入れなくてはならないので」
「それはありがたい!」
「もうすぐ船が出ます。ではそろそろ行きましょうか」
二人は港に向かった。筒井は嬉しさのあまり青蛙のようにピョンピョン跳ねた。思いきり跳ねた拍子に石につまづいて青垣に頭をぶつけた。石坂は鞄の中から折りたたみの青傘を出して広げた。携帯用の日傘だった。古美術商だけあって持物が風流である。
「青貝というのは、どこで獲れるんですか」
「本州から四国、九州にかけて広く分布してますよ。でも一番質の高いのは青ヶ島で獲れるんです。八丈島の南にある火山島です」
「さすがにお詳しいですね」
「むかしは五島列島の青方産が珍重されたんです。でも乱獲されて絶滅してしまいました」
港には大きな客船が停泊していた。船体は青褐色で、かなり古いのだろう、全体に青黴が生えている。大勢の乗客がデッキから青紙と青唐紙のテープを投げ、見送る人に最後の別れを告げる。手すりのそばに青枯らびた鉢植のヤシの木が見える。船員が青刈りの穀物をせっせと船に積んでゆく。おそらく家畜の餌にする青刈り飼料か、あるいは青刈り大豆であろう。青枯れのヤシの木はヘンリー・フォンダとジェームズ・キャグニー、ジャック・レモンが主演した映画『ミスタア・ロバーツ』そっくりだ。依怙地な艦長を演じたキャグニーはヤシの木を後生大事に育てていたっけ。青枯れ色をしているのは青枯れ病のせいだろうか。
筒井は石坂に連れられて二人用の船室に入った。日本人の船員が来て、青菜を茹でてすりまぜた青羹という羊羹を振る舞ってくれた。窓際の隅にミズキ科の常緑低木青木がプランターに植えてある。
「今の男は青木といいましてね。客室係です。よく気が回る人ですよ。この船で働く前は人生に絶望して富士山麓の青木ヶ原で首を吊ったそうです。運よく旅人に発見されて一命をとりとめたと言ってました」
「苦労人なんだな」
「ええ。出身は長野県北部、青木湖の近くだそうです」
「青木という名字を聞いてぱっと思い浮かぶのは青木昆陽だなあ。江戸時代の蘭学者」
「わたしは青木繁です。洋画家の」
「さすがは古美術商だ。もう一人思い出したよ。青木周弼。幕末にオランダの医学を学んだ医者です」
「明治時代の外交官で青木周蔵という人もいましたね。たしか長州藩士だったはず」
ブオオオオと汽笛が鳴って船が出航した。部屋の窓から海を眺めると小舟が数艘、キス科の硬骨魚青鱚を釣っている。筒井と石坂はデッキに出た。頬を撫でる海風は西日本で初秋に吹く青北を思わせた。
二人が船室に戻ると石坂は「中は暑いですね」と扇子で筒井の顔をむやみに煽ぎ立てた。左手に青黄粉の粉を山盛りにしたのを扇ぐものだから筒井の顔は粉まみれになった。「まさに青き宮。皇太子殿下ですね。ははは」石坂が筒井を仰ぎ見て笑う。粉を吸いこんでむせる筒井にお構いなしに「これをご覧なさい」と石坂が壁を指す。客船にしては珍しく小さな床の間があり、年代物らしい壺がある。「江戸後期、京都の陶匠青木木米の青磁です」。目利きの石坂が鑑定する。筒井はきなこの粉が眼に入って見えない。床の間には掛け軸があり、石坂は一読して「浮世草子の作者青木鷺水だ。『青きを踏む』と書いてあるでしょう。萌え出た青草を踏んで野山を歩くことですよ」と蘊蓄を傾ける。掛け軸本体も高価なものだそうで、銀を20パーセントほど含んだ金銀合金の青金をほどこしてあり、石坂は「いい仕事してますねえ」とどこかで聞いたことのあるフレーズを口にして感嘆する。
「どうです? 立派な品でしょう?」しゃがんだ石坂は筒井を仰いで言った。
「どうでもいいけど、きなこを扇ぐのはやめてくれ」
青黄粉だらけになった筒井の顔はまるで青隈を塗った歌舞伎の悪役の公家、青公卿である。石坂は掛け軸に描かれた青草がすばらしい、欲しいなあ、盗んじゃおうかなあ、と青臭いことを言う。
「青草摺という手法ですよ。糊張りの紙に山藍の葉や青色の草で花鳥などの文様を描くんです。絵の具はどこで売ってるんだろう。青草屋かなあ。青朽葉の色づかいがすばらしいなあ」
「いい加減にしろ!」
筒井が怒鳴った。石坂ははっとして青くなった。筒井の顔はおろか部屋中がきなこだらけである。堪忍袋の緒が切れた筒井は石坂の青頸をむんずとつかみ、日本在来種のアヒル、青首鶩のような首根っこを締め上げた。ちょうどその時デッキでは男子十五歳で初めて出漁する者を祝う青首祝が行なわれていたが、部屋で格闘する二人は知る由もない。筒井がぎりぎりと首を絞める。石坂の顔は血の気が引いてまるで青首大根だ。憤怒の塊になった筒井は歌舞伎の悪役や幽霊が塗る隈取、青隈そっくりの顔色である。窓の外には青雲が棚引いている。古事記の一節、「青雲の白肩津に泊てたまひき」はこんな光景を描写したのだろうか。筒井が手を離すと、青黒に染められた袷から突き出た石坂の首に青黒いあざができた。尻餅をついてへたばった石坂は青毛の馬のようにぶるぶる震え、まるで風に揺られる青鶏頭のようだった。
キャビンの外が急に騒々しくなった。筒井がドアを開けて船内の様子を窺うと、乗務員たちが稲を早めに刈りとった青毛取の俵をせっせと運んでいる。窓の外からキョッキョッキョッと小鳥の鳴き声が聞こえる。
「緑啄木鳥だ」石坂が言った。
「アオゲラ? 山にいる鳥じゃないか。もう日本に着いたのかな」
筒井はデッキに出た。海面を見下ろすと全体が緑色の藻、青粉に覆われ、一頭の青駒が犬かき、いや、馬かきしている。青粉をよく見るとそれは青海苔の代用としてよく使う石蓴である。アオサは日本各地の干潮線の岩石に着生する藻だ。ついに日本に帰ってきたのだ! 筒井は小躍りしてデッキの反対側に行った。客船はいつの間にか港に接岸しており、埠頭では大勢の女性がこちらに向かって手を振っている。
「アオザイを着てますね」遅れてデッキに出てきた石坂が言った。
「アオザイ?」
「ええ。ほらご覧なさい。ベトナムの民族衣装ですよ」
本当だ。ここはベトナムじゃないか。船は日本行きのはすだ。石坂はアイルランドを発つ時たしかに「船で日本に帰ります」と言ったぞ。まさかベトナム行きではあるまいな。ベトナムに寄港してから日本に向かうのかな。船長に確かめよう――筒井は船長室に行きドアを開けた。船長はほかの乗務員とテーブルを囲んで青魚を食べている。窓の外を青鷺が一羽ゆうゆうと飛んでゆく。船長は筒井を見て言った。
「やあ、いらっしゃい。どうです、一緒に食事しませんか? ちょうどこれからデザートを食べるところです」
船長は青麦を炒って臼で挽いて糸のようにした青差を載せた皿を見せた。皿の横には銭の穴に紺染めの細い麻縄を通して銭を結び連ねた青緡がある。日本のお土産だろうか。
「お食事中のところ恐縮ですが……この船は日本行きですよね?」筒井は船長に訊ねた。
「青鯖の塩焼もありますよ。召し上がりませんか」
「いえ、結構です。船の目的地を知りたいんです」
「目的地にはもう着きましたよ」
「え!」
筒井は耳を疑った。船長と乗務員たちは顔を見合わせてどっと笑った
「アイルランドとベトナムを結ぶ世界唯一の船ですからね。食事が終わり次第アイルランドに戻りますよ」
冗談じゃない。筒井は逆上してテーブルから果物ナイフを拾い上げ、船長の喉元に突きつけて叫んだ。
「この青侍め! さっさと船を日本に向かわせろ! さもないと青鮫の餌食にしてやるぞ!」
筒井の剣幕に押された船長たちは青ざめた。
騒ぎを聞きつけた石坂が船長室に現れた。袷の乱れた襟元から下着の襖子が丸見えで、服さえ着ていれば格好なんてどうでもいいという考えがいかにも青し。両手に抱えた青瓷は床の間から盗んだに違いない。
「筒井さん! 船長を放しなさい」
「うるさい!」
「早まってはいけません。ほら、窓の外には蒿雀が美しい声でさえずっていますよ」
「野鳥には興味がない」
「では青軸を差し上げましょう。梅の栽培品種で、若枝も花軸も緑色なんですよ」
「君は黙っていろ」
「じゃあ青鹿をプレゼントします」
「アオシシ?」
「カモシカです」
「カモシカなんかもらっても飼えるわけないだろ! 俺は日本に帰りたいんだ。そもそも君が乗る船を間違えたからベトナムになんぞ来てしまったんだぞ」
「わかりました。どうにかしますから、とりあえず青紫蘇ドリンクでも飲んで落ちついてください。あ、また青鵐が啼きましたよ」
「アオシトド?」
「アオジですよ」
「だから野鳥には興味がないって言ってるだろ!」
「こうなったら青柴をプレゼントしましょう。葉のついたまま刈った柴です」
「俺は桃太郎の爺さんじゃない!」
「とにかく私が説得します」
筒井は果物ナイフを下ろして船長を放した。石坂は船長に船を日本に向けてくれないかと懇願した。船長は宮崎市南部の青島でよければ寄港してもよいと青縞のシャツの乱れを直しながら答えた。ようやく帰国の青写真が整った筒井はほっとした。副船長たちはシージャックに驚き、繭を作る時期になると体の色が青みを帯びる蚕すなわち青熟のような顔色である。石坂は「あ、またアオジが啼いた」と相変わらず青書生のように暢気で、青白橡すなわち淡い黄緑色のハンカチで額の汗を拭い、テーブルのグラスをつかんで青汁をごくごく飲んだ。時代物の陶器を抱えた石坂の青白い姿はまさに青白きインテリである。
船はなかなか出航しない。「青信号になるのを待ってるんです」船長が説明した。副船長が「まあ、これでもお飲みなさい」と茹でたほうれん草を裏ごしして酢とみりん、砂糖、塩を混ぜた青酢の入ったコップを筒井と石坂に渡した。筒井は酢を飲みながら青々と菅の生えた故郷長野の青菅山の景色を思い出した。コップを握る手をあらためて見ると青筋が浮いている。そういえば最近ろくな物を食ってないからなあ。栄養不足で、このままだと野垂れ死にだ。
「ちょっとあんたたち! 何してるのよ!」
突然黒人の女が船長室に飛びこんできた。胸から腹にかけて大きな青筋鳳蝶をプリントしたシャツを着た女は「いつまで停泊してるつもり? 早くアイルランドに行ってよ」と青筋を立てた。シャツは裾になるほど青色が濃くなる青裾濃で、女は手前の壁にかけてある青簾をつかんで引き下ろし滅茶苦茶に踏んづけて、青墨色の瞳で船長を睨み、「さっさと船を出しなさい!」と怒鳴りつけた。「じつは事情がありましてこれから日本に向かいます」船長が答えると女の顔色が青ずんだ。石坂はいつの間にキャビンに行って戻ってきたのか、床の間にあった青摺の掛軸を小脇に抱えている。陶器と一緒に盗むつもりらしい。筒井は女の顔をまじまじと見て言った。
「レイチェル……?」
「なぜ名前を知ってるの……あら、筒井さん!」
間違いなかった。連載第十回、アルプスの麓の病院が溶岩流に襲われて以来行方不明だったレイチェルだ。
「無事だったのか」
「ええ、おかげさまで」
「今までどこでどうしてたんだ?」
「ホーチミンに来てたの。青摺りの衣を買いに」
「アオズリノコロモ?」
「そうよ。宮廷で祭祀がある時、奉仕の祭官や舞人が着る衣よ。日本人のくせに知らないの?」
「お恥ずかしい。でも君は国際労働機関の職員だろ? なぜそんなものを買うんだ?」
「仕事じゃなくて趣味。今はバカンスなの。ホーチミンには日本の骨董品がたくさんあるのよ。青銭とか。明和五年に作られた真鍮製の寛永通宝よ」
青銭なら知ってますよ、私も探してるんです、と石坂が横から口を挟んだ。筒井は邪魔されたのに腹を立ててグーでパンチし、レイチェルと話を続けた。
「じゃあ、日本の骨董品を海外で安く手に入れているってわけだね」
「そういうこと。カラムシの茎の皮から取り出した青麻という繊維も手に入れたわ。パパへのプレゼントよ。パパ、青底翳なの」
「アオソコヒ?」
「あなた本当に日本人? ものを知らないわねえ。緑内障のことよ」
「そいつは大変だ」
「失明寸前なの。パパはもう青空を拝めない」
レイチェルは船長室の窓からホーチミンの港を見つめた。港の向こうには青田が広がり、農作業で負傷したのか怪我人が一人、長方形の台を竹で吊した箯輿に乗って運ばれてゆく。担ぐ男たちの足下に大きな青大将が鎌首をもたげている。
「あの田んぼ、パパの土地なの」
「え? ベトナムに土地を持ってるのか」
「うん。パパは稲が充分に成熟しないうちに収穫高を見越してあらかじめ青田売りをするの。青田買いする人が必ずいるからいい商売になるのよ」
「お父さんは実業家なのか」
レイチェルは、ここでは話ができないからと筒井の腕をつかみ、船長室を出て通路の薄暗がりに連れ出し小声でそっと囁いた。「誰にも言っちゃダメよ。パパはね……フリーメーソンなの」
フリーメーソン! 世界的規模の秘密結社だ。俺は今まで架空の組織だとばかり思ってたが、実在するとは! レイチェルがさらに囁く。
「パパは余命幾ばくもないから後継者を探してるの。優秀で信頼できる男がいたら青田刈りしたいって。あなた、メンバーにならない?」
筒井はびっくり仰天した。まさかフリーメーソンの勧誘を受けるなんて夢にも思わなかった。
「なれるのか? 俺みたいな男でも?」
「ええ、その気があればね」
「なりたい! いや、なる! 断然なる! で、どうすればいいんだ?」
「じゃあ青竹を踏みなさい」
レイチェルは肩から提げていたバッグから半分に切った短い竹を一本出して床に置いた。
「なんで?」
「しきたりよ。メンバーの候補者はまず青竹踏みをするの。健康かどうかチェックするの」
筒井は片足ずつ交互に青竹を踏んだ。土踏まずがものすごく痛い。思わず悲鳴を上げた。まるで青田差し押えを受けた稲作農家のようなつらさである。
「痛くてとても無理だ。かわりに青畳の上で反復横跳びするから、それで勘弁してくれないか」
「ダメよ! 竹を踏むのがむかしからの決まりなの。しっかりやりなさい!」
筒井はまるで実るべき時期になっても穂が出ない青立ちの稲のようにしゅんとなった。でもどうにかしてフリーメーソンになりたい。青田売買で悠々自適の暮らしを送ってきたらしいレイチェルの父親の後釜になりたい。
筒井はもう一度青竹を踏みつけた。痛い! 決して広くはない通路を行き交う乗客乗員が「邪魔だなあ」と言いたげに睨む。レイチェルは筒井を自分のキャビンに案内した。部屋の隅に鉢植の木があり、レイチェルが枝を切って水差しに入れると水の色が青く変わった。「あおだもよ。モクセイ科の落葉高木。田んぼの縁に植えて、刈りとった稲をかけて乾かすのに使うの」
筒井は足の裏が痛くてたまらず音を上げた。「情けないわねえ」レイチェルが呆れる。「じゃあ特別ルール。花札で勝負よ。わたしに勝ったら合格」。
二人は花札を始めた。たちまちレイチェルが青短三枚を揃えて勝った。
「話にならないわ」
「頼む、どうか俺をフリーメーソンにしてくれ! お礼に青緂をプレゼントするよ。白と青を交互に配した織物だ」
「持ってるの?」
「いや……でも、必ず手に入れてみせる」
レイチェルは窓を開けた。海風がさっと吹きこみカーテンの煽ちにベッドの枕元から小さな紙切れが吹き飛んで床に落ちた。「本日の清掃は私、青地が担当いたしました」と書いてある。清掃係のメモだった。煽ち風がカーテンをバタバタとはためかす
「手に入れてみせるって、当てはあるの?」
「じつは……ないんだ。むかしから稼いでも稼いでも生活が追いつかない煽ち貧乏でね。毎日飲むお茶も灰汁に一晩つけてから蒸した粗末な青茶さ」
「素寒貧なのね! でも小説家なんでしょう?」
「近頃はさっぱり本が売れなくて。去年の印税は三千円……」
「江戸後期の蘭学者青地林宗が書いた日本初の物理学書『気海観瀾』を長年探してるんだけど、あなたに頼んでも無理ね」
「本なら俺の専門分野だ。古本屋で探してみるよ」
「言っておくけど、ほしいのは原本よ」
「原本は……たぶん国宝級だ」
「だからあなたに頼んでも無駄だって言ったの」
「そんなこと言わないでくれぇぇぇ」
筒井は床に寝そべり手足をたばた煽ち、駄々っ子のようにわめいた。レイチェルは意に介さず、茶碗の上べりに引いてある青い線まで酒を青っ切りについで飲んだ。酒の肴は生の色を失わないように漬けた野菜の青漬である。ほろ酔い気分になったレイチェルはベトナムの植物が好きだと言った。青葛と青葛藤がお気に入りで、葉の色が青々とした青椿の美しさはたとえようがないそうだ。半身を起こした筒井は青っ洟を垂らしている。こんな男をフリーメーソンに勧誘したわたしが馬鹿だった――レイチェルは窓を閉め、クローゼットから紺地に浅葱縞の青手で作ったショールを出して首にまとい、小さな陶器の壺を取りだして筒井に見せた。「青金の粉末を膠に溶いて混ぜた青泥よ。美術工芸品の彩色に使うの。あなたに手が出せる代物ではないわ。貴重品だから価格が青天井なの」
廊下から足音が近づいてドアの向こうでぴたりとやんだ。たぶん石坂だ、あるいは客室係の青木かもしれないと筒井は言った。レイチェルがドアを開けると、青砥というのだろうか、青灰色の砥石を持った男が立っている。
「どなた?」
「突然お邪魔してすみません。青砥と申します。わたしもこの船の客です。本日はすばらしい商品をご紹介しに参りました」
「すばらしい商品って、その砥石のこと?」
「あ、いえ、違います。こちらです」
青砥はもう片方の手を差し出した。青唐辛子だった。
「トウガラシなんかほしくないわ」
「そうですか……わたくしテレビショッピングで売子をやってた者ですが、おまえみたいな青道心じゃ視聴率がとれないってプロデューサーにクビにされてしまいまして……」
「それはお気の毒さま」
「どうか、助けると思って買ってくれませんか。今ならもれなく青蜥蜴を一匹サービスします!」
「要らないわよ、トカゲなんて! あたしがほしいのは、たとえば青土佐よ。土佐名産の和紙。どうせあんたは知らないでしょうけど」
「あいにく存じません」
「青砥稿花紅彩画なら買うわよ。歌舞伎の脚本。鎌倉時代中期の武士青砥藤綱の肖像画も探してるの」
「ふとんクリーナー、レイコップじゃダメですか」
「テレビショッピングには興味がないの! 曲亭馬琴が執筆して葛飾北斎が絵を描いた青砥藤綱模稜案の初版本なら喜んで買ってあげるわよ」
セールスマンはすごすごと引き下がった。レイチェルは茹でた青菜を肴に酒盃をもう一度あけた。
汽笛が鳴り客船がホーチミンの港をゆっくりと離れた。「やったぞ!」筒井は青っ洟をずるっと吸い上げて喜んだ。俺はシージャックに成功した。ついに帰国の途に就いたのだ。ベトナムから日本までは大した距離ではない、一晩眠れば翌朝には宮崎に着くだろう。船は大海原をひたすら進んだ。二日経ち、三日経ち、一週間が過ぎて運河を越えた。あれ? ベトナムから日本に行くのに運河なんてあっただろうか? 運河を抜けると客船は大きな河を遡った。どうも様子がおかしい。筒井はレイチェルの部屋に行き訊ねた。
「まだ日本に着かないのかな」
「日本? なに寝ぼけてるの? ここは青ナイルよ」
「え! 青ナイルって、まさか……」
「ナイル川の支流」
エジプトじゃないか! 俺はてっきり日本に帰れるとばかり思ってたのに。レイチェルは青梨をかじって「早くアイルランドに着かないかなあ」と能天気に呟く。帰国の夢が絶たれた筒井はすっかり気落ちして青菜に塩である。
船は青ナイル河口の港に入った。船長が大勢の乗務員を引き連れてレイチェルの部屋にやって来た。「宮崎に向かう約束じゃないか」筒井が怒鳴ると船長は「あなたをシージャック容疑者としてインターポールに通報しました。もうすぐエジプトの地元警察に引き渡します。神妙にしなさい」と冷酷に告げた。レイチェルがバッグから古銭を出して船長に見せた。「これをあげるから見逃してくれない? 明和五年に鋳造された寛永通宝の青波銭。高く売れるわよ」。所長はかぶりを振った。「この青韋はどう? 藍色に染めた革が美しいでしょう?」。所長は睨んだまま微動だにしない。「じゃあこれをあげる。青二。天明時代のめくりカルタよ。ダメ? 青丹はいかが? 染め物や絵の具に使う岩緑青。とても高価なのよ。お腹はすいてない? 野菜の青みを損なわないように茹でた青煮があるわ。おいしそうでしょう? やっぱりダメ? あ、これは気に入るわよ、青丹打。ほら触ってみて。絹のつやがすばらしい。絹はお嫌い? 麻のほうがよければ青和幣をあげる。青丹衣もあるわよ」
所長は頑として首を縦に振らず、「女性を出しにするとは青二才ですね」と筒井を冷やかした。進退窮まった筒井は窮鼠猫を噛む思いで所長に猛然とタックルをぶちかまし、相手がひるんだ隙に部屋を飛び出て船を駆け下り、右も左もわからないエジプトの港町を盲滅法に走った。
俺はいったい何をしているのだ。日本に帰りたいのにアイルランドからベトナムに連れられ、挙げ句の果てがエジプトである。しかも地元警察に追われる身だ。逃げねば。なんとしても逃げねば――
闇雲に走った先にバザールがあった。通りの両側に小さな商店が櫛比し、買物客や観光客でごった返している。身を隠すにはもってこいだ。筒井は衣料品店の主人が店の奥に気をとられている隙をついて、軒先に吊してあった青鈍色の女性服を奪い、日本を離れて以来着た切り雀だったジャケットを脱いで着替えた。イスラム教徒の女がよく着る、顔と手以外の全身をすっぽり覆う服である。まるで青女房だ。
女に化けた筒井はバザールを歩いた。本屋の店先に日本語で書かれた旅行ガイドのような本があるのが目にとまった。手にとってページをめくる。「青丹よし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」という和歌が載っている。隣の店は惣菜屋で、魚や野菜を酢味噌で和えた青饅を売っている。その隣は日本でいえば呉服屋だろうか、青く染めた青布子を陳列台に所狭しと並べてある。エジプトなのにどこか宮崎県南西部の青根温泉を思い起こさせる風景だ。本屋をあらためてよく見ると陳列された本はどれも和書で、店先に「AONO」と書いた看板がある。筒井は奥にいる店主に声をかけた。
「ちょっとすみません」
「はい、いらっしゃい」
「あ、やっぱり日本人でしたか」
「ええ。青野と申します」
「わたしは筒井と申す旅の者ですが……じつは困っておりまして」
「どうしました?」
「かくまってほしいのですが」
「何か事情がおありのようですね。立話も何ですから奥へどうぞ」
案内されるまま青暖簾をくぐって店の奥に入った。それまでは人目につかないように伏し目がちだったが、思い切って仰のき店主の目を見つめた。筒井の顔をまじまじと見て男だと気づいた店主は驚いて仰のけざまに足を滑らせて床に倒れ仰のけた。筒井は自分が小説家であること、警察に追われていることをかいつまんで説明した。
「小説家ですか。じつはわたしの祖父は文芸評論家だったんです。青野季吉と言いまして」
「青野季吉? プロレタリア文学の理論家の?」
「おや、ご存じですか」
「文学を志す者なら知らない人はいませんよ」
「祖父の影響でいろんな小説を読みましたよ。とくに菊池寛の『恩讐の彼方に』が好きでして。釈迦に説法ですが、大分県北部に青ノ洞門と呼ばれるトンネルを掘る話です」
「むかし読みました」
「ところでお腹はすいてませんか? おにぎりがありますけど、一つどうです?」
腹ぺこだった筒井は青海苔をまぶした握り飯を食った。見たこともない青羽の鳥が二三羽店先をかすめて飛び去った。店の裏は中庭で青葉が生い茂っている。
「祖父には弟子が三人いたのですが、みんな祖父よりも優秀でしてね。まさに青は藍より出でて藍より青しです。あ、中庭の木には触らないで下さい。小さな虫がいっぱいいるでしょう。青翅蟻形羽隠です。触ると皮膚が赤く腫れますよ」
筒井は店の中にとどまった。右手に持った握り飯に青蝿がたかる。
「青野さんは、ご出身はどちらですか」
「青墓です」
「アオハカ?」
「ご存じないのも無理はありません。岐阜県大垣市の古い宿場町でしてね、平治の乱に敗れて逃れる源義朝が息子の朝長を殺した所です」
「さっきから気になっていたんですが……袴を穿いてますね」
「ああ、これですか。これは襖袴と言いまして、祖父の遺品です。なにしろエジプト人相手の商売ですから、エキゾチックな服装のほうが客受けするんです。エジプト人は日本への関心が高くて、このあいだも仙台を旅行したいから青葉城のガイドブックがほしいというお客さんが来ました」
中庭で鳥が鳴いた。
「青葉梟です。中国人が飼ってたのをもらい受けました。庭には青翅挵りもいますよ。珍しい蝶です。高く売れるんですよ」店主は髭を剃った青肌を撫でて言った。
「しかしいくら日本への関心が高いからといって、和歌の本を買う人がいるんですか」
「いるんですよ、これが。昨日はカイロ大学の学生さんが来て、枕詞の『青旗の』は『木幡』にかかるのはわかるが、なぜ『忍坂の山』と『葛城山』にもかかるのかなんて難しい質問をされて、へどもどしてしまいましたよ」
店主は中庭から青鳩を一羽と、おそらくツユクサであろう青花の束を持ってきた。筒井は青洟を垂らして呆然と見守った。
「ツユクサの花を絞った汁で染めた和紙も売ってるんです。青花紙と言いましてね」
「初耳だなあ」
「日本人でも知ってる人は少ないです。水に浸すとすぐ脱色するのが特徴で、友禅の下絵を描くのに使います」
「中庭の入口にかけてある簾も風流だね」
「あれは青葉の簾です。平安時代のもので、陰暦四月一日の更衣の儀の時に内裏の南隅の柳にかけたそうです」
「壁に横笛が飾ってありますね」
「これは青葉の笛。雅楽で使う龍笛の中でも名器として知られる品です」
「売り物ですか」
「いえ、さすがにこれは売りません。客寄せのための看板みたいなものですよ」
中庭から淡い緑色の小さな昆虫が飛んできた。青翅羽衣というカメムシ目の虫だという。簾の下から蛇がにゅっと顔を出し、筒井はぎょっとした。「青波布です。台湾の友人にもらいました。毒蛇ですけど治療は簡単なので、噛まれても大丈夫ですよ」
外にバタバタと人が走る音がする。店主が店先から首を出して様子を窺った。
「警官が五六人、こっちに向かって来ます」
「やばい! 俺を狙ってるんだ」
筒井は血の気が引いて顔が青ばんだ。
「頼む! かくまってくれ!」
「いいですよ。中庭にお隠れなさい。たぶん警官でも下っ端の連中ですよ。中世でいう青葉者ですね。念のため、これをかぶりなさい」
店主は夫人が愛用するブルカを筒井に渡した。筒井はブルカで頭をすっぽり覆い、目だけ出して中庭に逃げた。庭は植物園のような青葉闇で、真っ昼間なのに薄暗い。身を潜めるにはもってこいである。ツチハンミョウ科の甲虫青斑猫が顔のまわりをブンブン飛ぶ。
トレンチコートにソフト帽をかぶった警官が部下らしき男たちを引き連れて店に現れた。ギョロリとした眼に二重顎の警官は身分証を示して店主に言った。
「仕事中に失礼」
「何かご用ですか」
「インターポールの銭形という者だが、ルパンを――いや間違えた、筒井という男を捜しておる。この顔に見覚えはないか」
銭形が人相書きを見せると店主はハッとして息を呑んだ。銭形の眼が鬼火のように輝いた。
「さては見覚えがあるのだな? どこで見た?」
「あ、いえ、存じません……」
「嘘をつくとためにならんぞ。――ん? 奥にいるのは誰だ?」
「え? あ、奥は中庭です。鳥を飼ってるだけです」
「鳥にしては図体が大きいようだが。こいつは怪しい」
銭形は懐から短い竹刀を抜き出して店主の鼻先にちらつかせた。
「誰だ、そこに隠れているのは! 出てこい」
青光りする竹刀を右手でふりかざし、左手で青髯を撫でながら銭形は怒鳴った。騒ぎを聞きつけたバザールの通行人が群がり集まって店先にたちまち青人草ができた。
「わたくしでございますか……?」
アオゲイトウ、別名青莧が生い茂る中庭に身を潜めていた筒井は観念して店に現れ、女のふりをしておずおずと店主の横に立った。世間は筒井康隆といえばただの小説家と思っているが、俺は俳優でもあるのだ。テレビドラマや映画に何度も出たし、むかしは自分の劇団を持っていたくらいだ。蜷川幸雄演出の『かもめ』にも出演した俺様だぞ、女を演じるのは朝飯前だ。――眼と手以外の全身をブルカと衣服で包んだ筒井に銭形は訊ねた。
「失礼ですが、あなたは……」
「妻でございます」
「奥さんでしたか。いや、どうもお騒がせして済みません。筒井という男を捜しておりまして。あそこに停泊している客船をシージャックした容疑者です。こんな顔ですが、見かけませんでしたか」
「上手な人相書きですね……。あらまあ、さっきの人だわ」
「見かけたんですね!」
「ええ、ついさっき。港のほうから猛スピードで走ってきましたよ。なにか大声で叫んでました。『早くしないと国会に間に合わない! 青票を投じなくては!』とかなんとか」
「なんの話です?」
「さあ……。よくは存じませんが、国会で記名投票をする時に反対の意志を表明する青い票のことではないでしょうか。賛成の時は白票を使うと聞いたことがございます」
「しかし……筒井は国会議員でもなんでもないんですよ。シージャックした危険人物です。それだけじゃない。アルプス山麓の町の病院を壊滅させた容疑もあるんです」
銭形は青表紙のノートを取り出し、筒井に関する数々の容疑を読み上げた。ノートは江戸幕府の法度や定書を記した青標紙そっくりだった。
「で、そいつは今どこに?」
「バザールを抜けて西に走っていきましたよ。そういえば何か叫んでました。『やーい、銭形のとっつぁん! 捕まえられるものなら捕まえてみろ! あばよー!』って」
銭形の顔が青瓢箪のように真っ青になり、青びる唇がわなわなと震えた。かと思うと今度は真っ赤になって頭から湯気が昇った。
「間違いない! そいつがルパンだ――いや筒井だ! 西だぞ! 追え!」
警部の鶴の一声で、青服を着た部下たちが一斉に西へ向かって駆け出した。銭形は「ごめん」と挨拶して後を追った。
青瓢のような木っ端警官とともに銭形警部が去ってゆくのを確認した筒井はブルカを脱いでほっと息をつき、青脹れした顔の汗を拭った。「見事に追っ払いましたね」店主が感心する。
「まるで土俵の青房方向に送り出したみたいなお手並みでした」
「小説家だと言ったけれど、じつはむかしから俳優をやってましてね」
「そうなんですか」
「ええ。テレビドラマや映画、舞台にいろいろ出演しました」
「これはお見それしました。なにしろエジプトに来て長いものですから。日本のドラマや映画はとんと疎くて」
「まあ道楽みたいなものですよ」
「またまたご謙遜を。警察追っ払い大作戦の成功をお祝いしましょう。ちょうどこれから青柴垣の神事が始まるんです」
「アオフシガキノシンジ?」
「もともと島根県の美保神社で四月七日に行なう神事です。由来は古事記の国譲りの神話だそうで、船のまわりに設けた柴垣を奪い合います。豊漁と航海安全を祈願するんですよ」
「船の祭りか。ここは青ナイルの河口だから場所はうってつけだ。それにしてもエジプトで古事記由来の祭りが見られるとは……」
「日本びいきなんですよ、エジプト人は。天正カルタも大人気」
「天正ガルタなんて今どきの日本人は知らないよ。カードはたしか四種類だね。ハウとイス、オール、それとコップだったかな」
「そうです。ハウは青札です。船には青不動を安置します。京都青蓮院所蔵の不動明王。もちろん本物じゃなくてレプリカですよ。そろそろ始まりますから行きましょう」
店主の青野と筒井はバザールを抜けて河口へ行った。なるほど船が二艘浮かび、勇ましい男たちが芝垣を奪い合っている。なかには船酔いして青反吐をゲロゲロ吐いている者もある。川面に魚がピチピチはねる。求仙というスズキ目の海魚のオスで青倍良と呼ぶそうだ。岸辺に大勢の地元エジプト人が集まってやんやの喝采を送りさんざめく光景は草双紙の一種、青本に描かれる一場面としか思われぬほどだ。筒井の顔のまわりをバッタ目マツムシ科の青松虫が飛び交う。
「青豆いかがっすかー」と売子が見物人に声をかける。江戸時代の京都で夜明けに売り歩いた青豆売そのものだ。青みを帯びた河水はどこまでも透き通って美しい。青み上戸なのだろう、酔いつぶれた見物人が真っ青な顔でぶっ倒れている。波打ち際にはイラクサ科の一年草青みずが川風に揺れる。船は白と紺に塗り分けた青水引のような旗を翻している。青水引は黒水引ともいって凶事に使うのがしきたりだ。筒井は胸騒ぎがした。青ナイルが白ナイルと合流する地点を眺めながら筒井は気を取り直して、「青角髪依網の原に……」と万葉集の歌を口ずさんだ。
合流地点の水は青緑色で、水田に繁茂する水綿を思わせた。「陰暦六月、青水無月には河をさかのぼって泳ぐ水泳大会もあるんですよ」青野が行った。泳ぎを知らない筒井は想像しただけで怖じ気づき顔が青んだが、悟られまいとして仰向きに空を見上げ、「青麦の季節も景色がいいでしょうね」と話題を変えていっそう仰向いた。その姿勢で川岸を歩くと仰向けに寝そべった酔っ払いにけつまずいて尻餅をついた。誰だ、こんなところに仰向けたのは! 邪魔だ! 青虫みたいに踏んづけてやる!――と一瞬思ったが、大人げない気がしてぐっと堪え、収穫したコリヤナギのまだ皮を剥いでいない青芽のような飲んだくれを睨みつけただけで素通りした。
「青豆いかがっすかー」
再び売子がやって来た。顔をよく見るとエジプト人にしては珍しく西洋人のような青眼である。青物を商う行商人なのだろう。あるいは近くに青物市があって青物屋から仕入れるのかも知れない。
「旦那、青豆いかがっすかー」
「豆は要らないよ。ほかに何かないの」
「ありますよ。紅葉の天ぷら」
「え?」
「まだ紅葉してない青紅葉を使ってます」
「驚いたなあ。京都で食べたことはあるけど、エジプトでも食べるの?」
「二三年前から売ってます。日本には青森っていう町があるそうですね」
「うん。町というか都市だけどね。県の名前でもある」
「その青森から来た観光客が教えてくれたんです。天ぷらにするとうまいんだぞって」
「へえ。それはそうと、肩に担いでる木の枝が立派だね」
「これっすか? 青森椴松ですよ。日本ではふつうオオシラビソって呼ぶらしいっすね。マツ科モミ属の常緑樹です」
「エジプトに来たのは初めてだけど、結構日本に似てるんだね」
「日本は行ったことがないのでよくわからないっすけどねー。あ、いま通りかかった人、あれは青屋っすよ」
「アオヤって何?」
「藍染の職人。ここだけの話ですけど、卑しい身分なんですよ。牢屋の掃除とかさせられて」
「被差別民か」
「なんでか知りませんけどね」
筒井は河を眺めた。青やかな波が静かに揺れている。
「あ、魚が跳ねた」
「青矢柄です」
「聞いたことないなあ」
「ヤガラっていう魚の一種ですよ。このあいだも日本人の観光客が、うわあ珍しいって、写真を撮ってました。帰国したらすぐ青焼にするぞって興奮して。意味わかんないっすけど」
「たぶん青写真のことだ」
筒井は眼を閉じた。川風が心地よい。葉の生い茂った青柳の光景がまぶたの裏に浮かんだ。故郷長野の景色だった。思えば遠くへ来たものだ。家の庭の青柳草は枯れていないだろうか。「青柳の葛城山に春風ぞ吹く」。新古今和歌集の歌が口をついて出た。
ドン! 誰かが肩にぶつかり、「なにぼーっと突っ立ってるんだよ!」と怒鳴って去った。
「大丈夫ですか」
「うん。あー、びっくりした」
「青屋大工っすよ」
「青屋って、さっきの?」
「仲間です。牢屋専門の大工。態度悪いんですよ、差別されてるからひねくれてるんです」
「いや、眼をつぶってた僕が悪いんだ。ふるさとの青柳を思い出してた」
「植物っすか?」
「うん。家の裏が草木の茂った青山でね」
「あ、聞いたことありますよ。シブヤの近くでしょ?」
「渋谷の近く? ああ、地名の青山か。よく知ってるね」
「観光客がしゃべってたんです。アオヤマはおしゃれな町だって」
「むかし青山っていう人が住んでいたんだよ。人名が地名になった」
「大学があるとか言ってましたよ」
「そうそう、青山学院大学。それにしてもよく知ってるなあ。君、本当にエジプト人?」
「ちゃきちゃきのエジプト人です」
「その言い回し、江戸っ子としか思えないよ」
青ナイルの河口で売子と雑談するうちに筒井は日本がたまらなく恋しくなった。俺は今まで日本のことなら何でも知っていると思っていたが、とんだ思い違いだった。まだまだ知らないことがいっぱいある。思いがけずエジプト人が蒙を啓いてくれた。
外国に来ると自分が日本人であるのをつくづく思い知らされる。いわば祖国の再発見だ。帰国したら――いつになるかわからないが――日本のことをもっと勉強しよう。青山御所を訪ねてみるか。いや待てよ、あそこは赤坂御用地の中だ、一般人はきっと立入り禁止だぞ。芝居を観ようか。最近全然観てないからなあ。青山杉作が創立に加わった俳優座に行こうか。江戸初期の譜代大名青山忠俊の伝記も読みたい。青山胤通とは何者か、恥ずかしながら俺は何にも知らない。うろ覚えだが、伝染病の研究をした人だった気がする。江戸後期の儒学者青山延于ってどんな人だったんですかと人に訊かれたら返答のしようがない。何も知らないんだ。ああ俺は無知だ。無知だということに、いま気づいた。「自分は無知である」ということだけは知っている。――ん? これってソクラテスの「無知の知」ではないか。そうか、ソクラテスも同じ悩みを抱えていたのだ。俺はソクラテスの境地に達したぞ。ソクラテスは偉大なり!
裾の長い青山吹色の民族衣装を来た女が馬を引いて通りかかった。顔はベールで覆い、口に細い枝一本をくわえている。枝の先には青柚というのだろうか、小粒で濃緑色のユズのような実がなっている。川風の煽りに裾がぱたぱたと揺れる。女は横腹を泥よけの障泥で覆った馬を止め、服を脱ぎ捨てて河にじゃぶじゃぶ入り、ざんぶと身を躍らせて煽り足すなわち横泳ぎで対岸に向かって泳ぎだした。すいすいと泳ぐ姿は障泥烏賊を思わせるほど優美だ。ちょうど神明造りの屋根の大棟左右にしつらえた障泥板を流れる雨水のようななめらかさである。オリンピックの競泳に出場したら優勝間違いなしだ。なんなら俺がスカウトしてやろうか。スポンサーも見つけてやる。複数の会社に打診して煽り買いさせてギャラを高騰させよう。女は驚くだろうな。無名だったのに一夜にして世界的な競泳選手になるのだ。まるで劇場の大きな舞台装置が煽り返しでぐるっと回って別の場面に変わるような気分だろう。「オリンピックを目指してトレーニングだ! オーストラリアで最高の訓練を受けさせてやる!」。女を煽り立ててやろう。女は言うだろう。「オーストラリアになんか行けません。うちには病気の両親がいて面倒をみなくてはならないのです。それに我が家は安普請で、強い風が吹くとドアがバタバタうるさいんです。風が吹いても窓や扉が音を立てないように煽り止めの金具を壁につけたい、それだけが夢なんです」。――ちっぽけな夢だなあ。金具なんかホームセンターで買えばいいじゃないか。いっそのこと窓枠とガラスを蝶番で連結させて煽り窓にすれば開け閉めが楽だし風に煽られる心配もなくなる。
女を追いかけよう――筒井は思ったが、岸辺に立ったまま足が動かない。前回の連載で触れた通り筒井は金槌なのだ。女ははるか沖の黒い小さな点になってしまった。悄然として頭を垂れた筒井があらためて顔をもたげると、小さな点がだんだん大きくなった。女は途中から引き返してこちらの岸に戻ってきた。河から上がり服を着た女に声をかけようと筒井がそばに寄ると女は「じろじろ見ないでよ! この変態!」と叫び、そそくさと馬に乗って障泥を打ち、来た道を引き返した。女を出しにして巨万の利益を得ようと目論んでいた筒井は思いも寄らぬ展開の煽りを食ってへなへなとくずおれた。「ちくしょう、一攫千金と思ったのに」。筒井はやけ酒を呷りたい気分だった。川風がジャケットの裾を煽る。
突然ものすごい上昇気流が発生し、筒井の体が天高く舞い上がった。右に左に激しく揺さぶられて天に昇りながら筒井は気を失った。
――我に返ってあたりを見ると真っ白である。雪ではない。ひたすら真っ白の空間。真っ暗闇の正反対としか言いようがない。前後左右の方向がまったくわからない。恐怖を覚えて身をすくめる。遠くに人影が見えた。だんだん近づいてくる。男の子だ。年若い、まるで「まんが日本昔ばなし」から抜け出たような青童だった。
「おじさん、遊ぼう」
「ここはどこだ? 君は誰だ?」
「遊ぼう」
「さっきの嵐は何だ?」
「嵐じゃないよ。亜音速流れの気流だよ」
「アオンソク?」
「高速の流体で、流れの速さがその流体中を伝わる音速より遅い流れのことだよ」
「ずいぶん難しいことを知ってるんだな」
「子どもだと思って馬鹿にすると痛い目に遭うよ」
筒井の体を稲妻が貫いた。いや、稲妻かどうかはわからないが、とにかく激しい電流が走って体がビリビリしびれる。いったい何者だ、この小僧は。
「ごめんね。馬鹿にするつもりはなかったんだ」
筒井は謝った。白一色だった世界にぼんやりと緑色の平面が見えてきた。
「あれは何だろう」
「あかだよ」
「アカ?」
「うん。おじさん、あかも知らないの? 千葉や茨城では田んぼのことを『あか』って言うんだ」
「へえ。初耳だなあ」
するとここは関東なのか? 今度は別の色が見えた。赤だ。赤い点が明滅している。
「あそこでチカチカ光ってるのは?」
「信号機に決まってるじゃないか。おじさん、信号も知らないの?」
「いや、知ってるけど……」
筒井は腕をまくってぼりぼり掻いた。垢がぼろぼろ出る。そういえば長いこと風呂に入っていない。
「体を洗いたいんだけど、このへんに風呂はない?」
「あそこに舟があるでしょ?」
「舟?」
言われたほうを目を凝らして見ると、たしかに舟のような物体の影が見える。
「あそこの淦で洗えばいいよ」
「アカって何?」
「舟底にたまった水のことだよ。おじさん、何にも知らないんだね」
「どうやらそうみたいだ」
舟のような物体のほうへ向かって歩き出した途端、固いものが足に当たった。見下ろすと満々と水をたたえた盥である。とりあえず手を洗おうとしゃがんで盥の水に手を入れようとすると「あ、ダメ!」と子どもが大声を上げた。
「それは閼伽だよ! 触っちゃダメ」
「これもアカっていうのか? 何なの?」
「貴賓や仏前に供える水だよ。罰が当たるよ」
またしても強烈な電流が身を貫いた。ここがどこだかまるで見当もつかないが、身勝手に振る舞うとお仕置きされるルールがあるらしい。
「閼伽も知らないなんて、おじさん、いったいどこから来たの?」
「どこからって……説明しにくいんだけど、エジプトのね、カイロっていう町の近くに大きな河があるんだ。そこから……」
「エジプト人なの?」
「いや、日本人だよ」
「日本人のくせに閼伽を知らないなんて変だ」
返す言葉もない。今度は足下でぴょんびょん何かが跳ねる。
「真っ白でよくわからないけど……これは何だろう」
「ウサギじゃないか! ウサギも知らないの?」
「知ってるけど見えないんだよ。真っ白だから」
「ウサギ科は二種類あるんだよ。ムカシウサギ亜科とノウサギ亜科」
「君は物知り博士だね」
「馬鹿にすると承知しないよ!」
またしても電撃に打たれて体がビリビリした。
「お願いがあるんだが……」
「なあに?」
「ビリビリはやめてくれないか」
「いやだよ」
筒井はびくびくしてあたりをキョロキョロ見回すと赤赤とした木の実のようなものが見える。
「あれは……ちょっと待て! 当ててみせる! あれは……あれは、えーと……わかった! 柿だ!」
「当たり」
「でもおかしいぞ。田んぼに水があるのに柿がなってるなんて、季節がバラバラじゃないか」
「季節? ここには季節なんてないよ」
子どもがニヤニヤ笑う。薄気味悪い。いったいこの坊主は何者なんだ?――筒井がしげしげと顔を見ると青童は急に体が大きくなり、黒いロングコートを着た黒人の大男になった。黒いサングラスをかけている。見覚えのある顔だ。
「Welcome to the real world...」
黒人男はニヤリと笑って言った。ローレンス・フィッシュバーンだ! 待てよ。真っ白い空間にローレンス・フィッシュバーン、そして今の台詞……映画『マトリックス』だ! キアヌ・リーブス扮するネオがフィッシュバーン演じるモーフィアスに案内された現実空間――ここはマトリックスだったのか!
「あなたは……モーフィアス?」筒井は恐る恐る訊ねた。
「ローレンス・フィッシュバーンだ」
「それは本名でしょ? ここはマトリックスの世界だね?」
「マトリックス? 何の話だかわからない」
「でも映画で観ましたよ。あなたは救世主ネオを案内したでしょう。コンピューターによって管理された世界に」
「君はいったい何の話をしてるんだ」
「だから映画『マトリックス』ですよ。人々が現実だと思っている世界はじつはバーチャル・リアリティーで、本当の世界はコンピューターが管理している」
「バーチャル・リアリティーって、仮想現実のことか?」
「ええ」
「では君は、いま仮想現実にいるとでも思っているのか」
「そうです」
「バカバカしい。あれを見ろ」
フィッシュバーンが指さしたほうに赤赤と窓の灯がともっている。
「君はあの家を仮想現実だと言うのか」
「そうに違いない」
「じゃあ、これを見ろ」
フィッシュバーンは黒いズボンの裾をまくった。膝に大きな赤痣があり血が滲んでいる。
「さっき転んですりむいた」
「痛そうですね」
「痛いよ。ものすごく痛い。君はこれも仮想現実だと思うのか」
「うーん……バーチャル・リアリティーなら痛みなんか感じないはずですよね……」
「当たり前だ。その証拠に、君はいまアリを踏んづけただろ」
「え?」
「足下をよく見ろ」
筒井が右足を上げると、いつの間に踏んだのか、赤蟻が潰れてどす黒い体液が飛び散っている。
「仮想現実でアリが死ぬか?」
「なんだか頭が混乱してきた……」
筒井はわけがわからなくなった。すると平安絵巻から飛び出したようないかにもやんごとない男が現れて筒井に言った。
「アリを殺したのはそなたか?」
「え? あ、はい。あなたは?」
「亜槐だ」
「アカイ?」
「大納言の唐名だ」
「大納言?」
「太政官の次官だ。そんなことも知らないのか」
「まるで平安時代ですね」
「なにを寝ぼけたことを申す。いまは鎌倉時代である。先ほど『新古今和歌集』を撰定し終えたばかりだ。嘘だと思ったらひとつ歌って進ぜよう。『朝ごとの閼伽井の水に年くれて――』」
「アカイって何ですか」
「閼伽の水を汲む井戸に決まっておる。そなたは本当に日本人か」
筒井は正気を失いつつあった。俺はいまどこにいるのだ。俺は誰なのだ。わからない、わからない……。
突然あたりが真っ赤になった。白一色だった世界が赤い光に包まれたかと思うと、それまで立っていた地面が抜けて筒井は奈落の底へ落ち、また気を失った。
「あがいもこがいもない。ほれ、見てみい。空から落ちてきよった」
筒井が目を覚ますと畑の畦道のようなところに大の字になって寝そべっており、中年の男と女が顔を覗きこんでいる。
「ここは、どこですか」
「伊勢だ」女が答えた。
「伊勢? 伊勢って、伊勢神宮がある?」
「あたりまえだ」
筒井の眼のまわりを赤家蚊がブンブン飛び回り血を吸おうとする。手で追い払うと女が「これでも食え」と赤烏賊の丸干しをくれた。
「おまえさん、神様だね」
「神様……? いえ、わたしは筒井という者です」
「嘘つけ。天から降ってきたじゃないか。神様に決まっとる」
女は赤い気炎をあげて踊り始めた。
「あの……」
「なんだ」
「何か勘違いなさってると思うんですが。わたしは人間です。売れない小説家です」
「いいや、神様に違いない。引田部赤猪子だね」
「アカイコ?」
「古事記に書いてある。雄略天皇の目にとまり、空しく召しを待つこと八十年。天皇がこれを憐れみ歌と禄を賜った女だ」
「わたしは男です」
「じゃあ、なんで女の格好しとるん」
筒井は半身を起こして両手で体を触ってみた。頭にすっぽりブルカをかぶり、眼と手以外の全身を一枚の布で覆い隠してある。エジプトにいた時と同じだ! 俺はエジプトから伊勢にやって来たのか! 筒井は女に訊ねた。
「向こうに見える山は何ですか」
「赤石山脈だ」
「え! 長野と山梨の県境の?」
「そうだ。長野と山梨、静岡の三県にまたがって南アルプス国立公園に指定されとる」
「じゃあ、あの高い峰は……?」
「赤石岳だ。静岡と長野にまたがっとる。標高は全国七位だ」
筒井は興奮した。故郷長野は目と鼻の先だ。俺はついに帰ってきたんだ!
「お二人はご夫婦ですか」筒井は女に訊ねた。
「兄妹だよ」男が答えた。
「こいつは赤い信女だ」
「アカイシンニョ?」
「後家だ。三年前に夫に先立たれた」
男はなぜか鎧を身につけている。札を結わえた赤糸縅が目に鮮やかだ。
「見事な鎧ですね」
「これか? どうだ、似合っとるか」
「ええ。仮装行列か何かですか」
「落ち武者からくすねた」
「落ち武者?」
「ほれ、あそこの畦道でくたばっとったから、くすねたんだ」
筒井は胸騒ぎを覚えた。
「つかぬ事を伺いますが……いまは西暦二〇一五年ですよね」
「セーレキ?」
「平成二十七年、ですよね」
「ヘーセー? 何の話かわからんが、関ヶ原の戦いの真っ最中だ」
筒井は耳を疑った。
「関ヶ原の戦いなんて四百年以上もむかしの話ですよ」
「おまえさん、寝ぼけとるのか」
「えーと、えーと……赤い鳥はご存じですか」
「赤い鳥……? ヤマガラのことか?」
「いいえ、鈴木三重吉の児童雑誌です。大正七年に創刊されました」
「タイショー? 知らん」
「じゃあ……赤い羽根は?」
「ヤマガラの羽根か?」
「違います。共同募金ですよ。ほら、寄付した人が胸につけるでしょう」
「おまえさんの話はチンプンカンプンだ。天下分け目の戦いの最中だと言うに。どっちが勝つか賭けをしとるんだ。こいつは大権現様が勝つと言う」
「大権現様というと……」
「家康に決まっとる。わしは石田三成を応援しとる。あそこに赤色と青色の旗があるだろ。大権現様が勝ったら赤の旗、三成様が勝ったら青の旗があがるんだ。わしは青の旗がいつあがるか、いつあがるか、楽しみにしとる」
筒井は腰を抜かした。エジプトから日本に帰れてやれ安心と思ったら時代が四百年も遡ってしまった。
「おまえさん、そんな頭陀袋みたいな服着て畑をウロウロしたらイノシシと間違えられて鉄砲でズドンと撃たれるぞ。うちへ来なさい。息子の野良着がある」
筒井は農夫の家でブルカを脱いで着替えた。野良着にしては赤い模様が目立つ。
「ずいぶん派手ですね」
「赤色の袍だ。天皇や摂政、関白が着る上衣だ」
「え! あなたは皇族のかたですか?」
「アホ! 偽物に決まっとる」
「ですよね……」
「それを着とればイノシシと間違えられることはない。天皇だと思ってみんな土下座するよ。ははは」
農夫は糠をまぶして塩漬けにした赤鰯を振る舞った。腹ぺこだった筒井はむさぼり食った。
「うまい!」
「鳥羽の港で贖ひたんだよ」
「お代わりください!」
「よく食うなあ。赤鰯はないが、赤魚の焼いたのでよければ」
「ありがとう! むしゃむしゃ」
「赤浮草のおひたしもあるよ」
「ください! パクパク」
「よっぽど腹が空いとるようだな」
「ええ、なにしろエジプトで豆を食って以来飲まず食わずで……しかも気がついたら関ヶ原の戦い……」
「関ヶ原? あっはっは」
農夫はカラカラと笑った。
「あの話は赤嘘だ」
「え?」
「真っ赤な嘘だ」
男は納屋に繋いである赤馬の背を撫でながら笑い続けた。
「嘘? どうして嘘なんかつくんです!」
「だっておまえさん、空から降ってきよっただろうが。どう見ても怪しいよ。畑に大の字になって、わしはてっきり赤海亀の死体かと思った」
「これには訳があるんです」
「どういう訳か知らんが、妹はすっかり興奮して『天から人が降ってきたなう』ってツイッターで呟いたよ」
「ツイッター?」
「ああ。これ見てみい」
農夫は野良着の懐からスマホを取りだして見せた。
「妹さん、ツイッターやってるんですか!」
「やっとるよ。アカウント持っとる。田舎者だと思って馬鹿にするなよ」
筒井は目を白黒させた。じゃあ俺は現代の日本に戻ってきたのか……?
農夫は九谷焼の赤絵だろうか、赤を主調に緑や青や紫の色鮮やかな陶磁器に焼き魚を二匹載せて筒井に「ほら、食え」と勧めた。
「これは……?」
「こっちが赤鱝。南日本沿岸で獲れる軟骨魚だ。そっちは赤狗魚。かまぼこの原料に使う硬骨魚だよ」
筒井は空腹のあまり手を伸ばしたが、すぐ手を引っこめた。いまが本当に西暦二〇一五年なのか、どうしても確かめたい。
「ご主人、いまどんな本が流行ってますか」
「本? 本ならこれだな」
農夫は本棚から二巻本を取りだして見せた。
「工藤平助著、『赤蝦夷風説考』……?」
「知らんのか」
「聞いたことありません」
「ロシア人が南下するのを見て、これからの日本はロシアと貿易したほうがいい、蝦夷地を開拓して国家の富を増やしたほうがいいって説いた本だ」
「いつ出版されたんですか」
「天明三年」
「天明三年って……西暦一七八三年じゃないですか!」
「そうだよ」
「じゃあ、いまは十八世紀末……」
「アホ! 古本に決まっとる」
「古本の話なんかどうでもいいんです!」
「ブックオフで買ったんだ。一冊百円。読んでみたら面白いの面白くないの、独り占めするのはもったいないから村中で回し読みしとる」
農夫の妻が茹でた赤海老を三匹持ってきた。筒井は焼き魚と茹で海老を食いながら考えた。ブックオフがありスマホがありツイッターもある――ということは間違いなく二十一世紀だ。なのに農夫は赤烏帽子をかぶっており、首から上はどう見ても平安時代の公家である。妻も妻で赤襟なんかかけている姿はまるで年若い芸者だ。
「おお、もう赤卒が飛んどる」
農夫が土間から外を眺めて言った。
「アカエンバ?」
「赤とんぼのことだよ」
土間からあがった農夫は鎧を脱いで赤い色の大口の袴、赤大口を穿き、仏に供える水を汲んで閼伽桶に入れ、赤縅が目に鮮やかな鎧を壁際に置いて袴の上から赤帯を締めた。服装になんの統一性も認められないところがじつに不気味だ。しかし身の回りの世話をしてくれた恩義があるから褒めておいたほうが無難であろうと筒井は思った。
「立派な帯ですね」
「こう見えても柔道十段だ。――おい、赤御魚を持ってこい。おーい、吾が御許」
「はーい」
妻が答えた。筒井はにはなんのことやらさっぱりわからない。
「いまのは……名前ですか」
「まさか。宮仕えをしている女を親しんで呼ぶ言いかただ。『吾が御許にこそおはしけれ』って源氏物語にもあるだろ」
「そうなんですか。よくご存じですね」
「田舎者を馬鹿にするもんでねえぞ」
女房が鮭の塩焼を持ってきた。
「アカオマナって鮭のことなんですね」
「そうだ。赤貝の刺身もあるぞ。食うか」
「いえいえ、もうじゅうぶんです」
「赤蛙はどうだ」
「カエルを食べるんですか」
「うまいぞ。鶏肉みたいな味でな。――おーい、赤酸漿をくれ」
「はーい」
女房はホオズキの枝を一本持ってきた。
「わしはこれから風呂に入るが、おまえさんも入るか」
「あ、はい。えーと、ではお言葉に甘えて。でも、あとでいただきます。お先にどうぞ」
「女房は垢掻をやっとったから、ゴシゴシ洗ってもらえ」
「アカカキ?」
「風呂で客の垢を落とす女だ。湯女とも呼ぶ。遊女も兼ねたもんだ。江戸の常識だぞ」
「江戸? そういえば、まだお名前を伺っておりませんでした」
「赤垣だ」
「アカガキさん……」
「赤垣源蔵だ」
「え!」
筒井は目を丸くした。いくら無知な俺でも赤垣源蔵の名は知っている。忠臣蔵を題材にした歌舞伎や講談、浪曲に出てくる人物だ。赤穂浪士の一人、赤埴源蔵をフィクションに取り入れた名で、講談の義士銘々伝「赤垣源蔵徳利の別れ」で有名だし、河竹黙阿弥の「仮名手本硯高島にも登場する。てっきりフィクションの世界の人だと思ったが、実在するとは……。
赤垣は土間と地続きの納屋に行き馬の赤鹿毛を撫でた。
「かわいそうに。赤瘡を患っとる」
「アカガサ?」
「麻疹だ」
「馬も麻疹に罹るんですか」
「馬も人間と変わらん。ただし馬の麻疹はブナ科の常緑高木赤樫の葉を煎じて飲ませれば治る」
農夫は赤烏帽子を脱ぎ、頭髪の赤茶けた赤頭をぼりぼり掻いた。「赤柏が炊けましたよ」夫人が柏の葉に盛った赤飯を筒井の膝元に置いた。
「お赤飯……何かお祝い事があるんですか」
「もとは十一月一日に炊くんだ。冬至の祝いだ」
「冬至は十二月二十二日頃ではありませんか」
筒井は相手の返事を待たずにはっと気がついた。十一月一日が冬至ということは陰暦だ。ではやっぱりいまは江戸時代なのか? しかし冬至にはまだ早いはずだ。さっき主人は赤とんぼが飛んでいるのを見て「もうこんな季節か」と呟いた。だからいまは夏の終わりか秋の初めのはずだ。赤垣は馬の腹の赤みがかった灰色に白い差し毛がある赤糟毛をやさしく撫でながら答えた。
「冬至はむかしから十一月一日に決まっとる」
「でもまだ先の話ですよね」
「そうだよ」
「ではなぜお赤飯を……?」
「めでたいからだ」
「何がです?」
「そりゃあ、おまえさんが空から降ってきたからだ。おまえさん、神様だろ?」
赤垣は赤い桐油紙でこしらえた赤合羽をふわりと羽織った。一張羅をまとってすっかり垢が抜けて見える。
「神様をもてなすのにこんな服しか持っとらんで、お恥ずかしい」
「どうかお構いなく。それにわたしは神様では……」
「銅をお供えしたいが、なにしろ浪人になって以来水呑み百姓だもんで」
「ですから、わたしは神様では……」
「何か銅色のものはなかったかのう」
主人は赤銅月代を撫でながら女房に「赤蕪はないか、おい、赤蕪を持ってこい」と命じた。すると戸口をトントン叩く音がする。女房が応対に出ると役人らしき男が紙切れを渡した。
「おまえさん! 赤紙だよ」
「なに?」
「召集令状」
赤垣は土間に降りて役人を睨みつけた。
「赤紙いうたら昭和十年代だろうが」
「そうですよ」
「いまは元禄十五年だ。時代が違うぞ」
「あ!」
「この粗忽者め。帰れ」
「失礼しました!」
主人はぴしゃりと戸を閉じた。女房は水仕事で皹すなわちあかぎれが痛むらしく手をさすっている。再び戸をドンドンと叩く音がした。主人が戸を開けるとスーツを着た人相の悪い男が二人立っている。
「赤垣はいるか」
「わしだ。何の用だね」
「こういう者だが」
男が手帳を見せた。「特別高等警察」と書いてある。
「共産主義にかぶれているそうだな。ネタは上がってるんだ」
「キョーサンシュギ?」
「とぼけても無駄だ」
「さては赤狩りだな」
「そうだ」
「馬鹿者!」
赤垣はどやしつけた。
「いまは元禄十五年だ。ロシア革命は二百年以上先の話だぞ」
「え!」
「顔を洗って出直してこい!」
「うーむ……迂闊だった……今回は見逃してやる」
「おととい来やがれ」
特高は不承々々退散した。まったく近頃の役人はどいつもこいつも時代を間違えおってけしからん――主人がぼそぼそ呟くと、またしても戸を激しく叩く音がする。
「誰だ!」主人は戸を開けずに怒鳴った。
「インターポールの銭形という者だ」
その声を聞いた筒井はギョッとした。咄嗟に家の中を見回すと壁に検非違使の下級役人が身につけていた赤狩衣が一枚かかっているのを見つけて迷わず奪い取り、頭からすっぽりかぶって納屋の片隅に縮こまった。主人は戸を開けた。銭形を名乗る強面の警部が部下を三人従えて立っている。
「何の用だ」
「この家に筒井という男はおらんか」
「ツツイ? さあ、知らんな」
「この家に隠れているという情報をつかんだのだが」
「そういえば――つい今しがた、知らない男が訪ねてきよった」
「こんな顔か?」
銭形警部は人相書きを示した。
「顔はよく覚えとらんが、スーツを着とったよ」
「その男なら私も見ましたよ」部下の一人が口を挟んだ。
「なに? どんな風体だった?」
「特高のようなスーツを着て、あっちに走って行きましたけど」
「ばっかもーん! そいつがルパンだ!――いや筒井だ! 追えー!」
銭形警部は部下を引き連れて走り去った。
赤枯れした草木を踏みしめて走り去る銭形を見送った赤垣は納屋に向かった。騒ぎが収まってほっとした筒井は赤狩衣から顔を出した。
「おまえさん、筒井というのか」
「はい。筒井康隆と申します。小説家です」
「文学者か。で、警察に追われとるのか」
「これにはわけがありまして……」
「いやいや、何も言わんでええ。筒井を名乗るのは世を忍ぶ仮の姿だろ? おまえさんは神様だ」
「いいえ、ただの人間です」
「人間が天から降ってくるはずがない」
「いえ、ですからわたしは……」
「つべこべ言わんで、神様は神様らしい格好しろ」
主人は赤狩衣を剥ぎ取り、頭陀袋も脱がせて筒井を丸裸にし、赤革を何枚も繋いでこしらえたロングコートのような服を着せた。革と革は鎧の赤革縅のような紐で結ばれている。主人は着替えさせ終わると筒井の前におずおずと小さな壺を置いて正坐した。中には香りのよい水が入っている。
「これをわしの頭にそそいでくれ」
「この水を、ですか」
「そうだ。わしは長年密教の修行をしてきた。修行が完成すると頭に香水をそそいで修行が完全に終わったことを証明するんだ。閼伽灌頂という儀式だ」
「修行、終わったんですか」
「ああ」
「おめでとうございます」
「ありがとう。さあ、早くそそいでくれ」
「でも……密教って仏教の一派ですよね? 仏教には神の概念はないはずでは……」
「細けえことはええ! わしの眼の前に神様が現れた。神様が現れたということはわしの修行は完成したんだ。さあ、早く」
筒井は腑に落ちなかったが言われるがままに壺の水を手にすくって主人の頭にそそいだ。厳粛な儀式だから何か唱えたほうがよさそうだと思い、とりあえず「アーメン」と呟いて十字を切った。主人は皮をけずった赤木の柵をくぐってひらりと馬に乗った。
「どこかへお出かけですか」
「赤城に行く」
「アカギ?」
馬が前脚で足掻きを始めた。
「赤城湖だ」
「赤城湖……? ひょっとして群馬県の?」
「そうだ。赤城山の麓だ。密教の修行を終えた者はみんな赤城へ報告に行く」
「群馬に密教の聖地があるんですか? 初耳だなあ」
「わしが嘘をついてるというのか? 本当の話だ。わしはおまえさんに隠しだてはせん。万葉集にもあるだろう、『隠さはぬ明き心を神様に極めつくして――』」
「聞いたことありません」
「とにかく、わしは出かける」
主人は赤木の材で作った刀の赤木柄を握りしめ馬の横腹を蹴ると馬はたちまち納屋を飛び出して駆け出した。あとにひらひらと一枚の赤い紙が落ちた。筒井が拾い上げてみると赤切符である。汽車の三等乗車券ではないか!
妙だぞ。主人はたしか、いまは元禄十五年だと言った。鉄道が開通するのは明治だ。時代が合わないじゃないか。しかしよく考えてみると主人の名は赤垣源蔵で忠臣蔵狂言の登場人物だから、あくまでもフィクションの世界の住人だ。ということはつまり俺はフィクションの世界にいるのだろうか? 赤衣をまとった筒井は呆然と立ちつくした。頭が混乱してきた――ちくしょう、俺はいったいどこにいるのだ? それもこれも作者のせいだ。諺にも言う通り、赤きは酒のとが、顔が赤いのは酒のせいで自分の罪ではない、悪いのは他人すなわち作者だ。作者のやつめ、どこかで見かけたら首をへし折ってやる――
「ああら吾が君、ああら吾が君」
赤城山へ向かって去った赤垣の女房が筒井を呼んだ。相変わらず両手をなでさすっているところをみると皹がよっぽど痛むらしい。
「なんですか」
「赤色を帯びた金と銅の合金を俗になんと申しましたっけ」
「藪から棒ですね。ひょっとして赤金のことですか」
「そうでした。ありがとう」
「どういたしまして」
納屋の壁の向こうにケロケロとカエルの鳴く声が聞こえる。蛙楽を耳にするのは久しぶりだ。筒井が戸口から出て家の裏に回ると水田があり、カエルが畦道に出ようと足掻いている。屋内に戻ると女房はあかぎれの特効薬か、人参と辰砂を混ぜて作った赤薬をごくんと飲んだ。壁には赤具足と呼ぶのだろう、主人の甲冑が揃えて置いてあり、隣には女房のものらしき赤朽葉の襲がかけてある。
突然ドドドドッと地響きがしたかと思うと巨大な獣が戸を蹴破って闖入した。
「ひい! 赤熊じゃ!」
女房が叫んだ。ヒグマだ。熊はひとりしきり暴れ回ると女房を見つけてがぶりと頭からかじりつき、あっという間に食い殺した。肝を潰した筒井が手探りで床を這いずる。舟底にたまった水を汲み取る淦汲みという柄杓が手に触れたので迷わず握って応戦し、闇雲に振り回すと熊の頭に命中し、当たり所が悪かったとみえて熊は脳震盪を起こしたのか、ばたりとくずおれた。筒井は命からがら外に出た。折よく辻駕籠が通りかかった。
「おい、乗せてくれ」
「へい。どちらまで?」
「赤倉温泉」
「赤倉温泉と申しますと、新潟県南西部と山形県北東部にありますが、どちらへ……」
「どっちでも構わない。早く出してくれ」
「へい!」
駕籠は伊勢を発して北へ向かった。
駕籠に乗るのは久しぶりだ。たしか連載第八回、アルプスの山を駕籠で下りたのが最後だった。野道の両側は一面の花畑で、赤栗毛の馬が赤クローバーの咲き乱れる中をぴょんぴょん跳ねている。駕籠が突然止まった。
「あれを見ろ。赤毛だ」先棒の男が言った。
「紅毛か」後棒が訊ねた。
「ああ。オランダ人かポルトガル人か、どっちにしろ毛唐に違えねえ」
道の向こうから現れたのは図体の小さい赤毛猿のような白人の男だった。
「エドワドッチデスカ?」赤毛猿がたどたどしい日本語で訊ねた。
「江戸? 江戸ならあっちだよ」先棒の男はわざと嘘をついた。
「ソウデスカ。アリガトウ」
赤毛猿は江戸の反対方向へ去って行った。「西も東もわからねえとは絵に描いたような赤ゲットだ」先棒と後棒がけけけと笑った。二人のさげすみ笑いに応ずるかのようにキョッキョッと赤啄木鳥が鳴き、花畑では褐毛和種の牛が低い声でモーと呟き、民家からは赤子の泣き叫ぶ声が聞こえた。
前方から飛脚がやって来て「筒井さん、速達ですよ」と赤行囊から一通の手紙を取りだして籠の中に放りこみ、足早に去ろうとした瞬間けつまずいて膝をすりむいた。後棒の男が血止めの赤膏薬を塗ってやると平身低頭して片足を引きずりながら来た道を引き返した。筒井は受けとった手紙を読んだ。
「吾が心明石の浦に舟泊めて浮き寝をしつゝ君を待つなり――レイチェル」
筒井はびっくりして駕籠から転げ落ちた。レイチェル! 連載第二十八回で豪華客船に置き去りにしたまま俺は江戸時代の日本にタイムスリップしてしまった。無事だったのか! しかも明石で俺を待っている――こうなっては赤倉温泉になど行ってる場合ではない。筒井は先棒の男に言った。
「すまないが明石に行ってくれないか」
「明石って播磨のですか? まるで方角が違いますよ」
「いいんだ。とにかく急いでくれ」
駕籠かき二人は渋々来た道を引き返し、紀伊半島の東岸を南に向かってとぼとぼ歩き出した。村と村の境に赤子塚があり、気のせいかどこかで赤ん坊が泣く声が聞こえる。どうも幸先が悪い。ふと野原を見るとツグミのような焦げ茶色の鳥が一羽ぽつんと佇んでいる。スズメ目ヒタキ科のあかこっこだろうか。だとすれば天然記念物だ。こいつは幸先がよい。
「おい、もう少し急いでくれないか」
「しかし旦那、東へ行けと言ったり西へ行けと言ったり、行き先がころころ変わっては張り合いが出ません」
「よしわかった。今日中に明石に着いたら百両払う」
「百両!」
駕籠かき二人は驚いて飛び上がった。一両は平成の時代に換算すれば十万円、百両は一千万円である。
「合点だ! なんなら地球の裏側へも行きますよ!」
駕籠は猛スピードで駆け出した。筒井は無論百両などという大金は持ち合わせていない。しかし嘘も方便、駕籠かき風情を喜ばすくらいは赤子の手をねじるようなものだ。ついでに赤御飯を振る舞ってやるよと嘘をついてもいいくらいである。
とある村に入ると駕籠かきは休憩した。傍らに本屋がある。店先を覗くと「桃太郎」や「猿蟹合戦」を掲載した赤小本を売っている。いわゆる赤本と呼ばれる草双紙で、遅くとも宝永年間(一七〇四~一七一一年)には存在したと伝えられる。いまは元禄十五年(一七〇二年)だから時代がぴったり合う。陳列台を眺める筒井の背後を赤駒が駈けていった。村人が赤米を食べているところから察するに暮らし向きはあまりよくないらしい。
「そろそろ駕籠を出してくれないか」筒井が先棒の男に言った。
「へえ。お茶を一杯飲んだらすぐ出します」
「今すぐだ。さもないとびた一文払わないぞ」
赤子を裸にするような筒井の宣告に恐れをなした男二人は新幹線のような速さで街道を突っ走った。沿道の畑に藜が生い茂っている。藜科の植物はたしかほうれん草やビートなど千種類以上あったはずだと筒井は思い出した。駕籠が止まった。
「赤坂に着きました」
「赤坂? まさか東京都港区の赤坂じゃないだろうな? ――あ! ここは赤坂御用地じゃないか!」
「違いますよ。赤坂城です」
「赤坂城?」
「楠木正成が立てこもった城ですよ」
「するとここは――」
「大阪府南河内郡の赤坂です」
「そうか。もう明石に近いんだな」
城の石垣には岐阜の大垣から運んだに違いない赤坂大理石が使われ、城門は赤坂見附に似ている。行き交う人々は赤坂奴というのだろうか、鎌髭をたくわえて妙に人目につく格好をした者ばかりだ。おそらく赤坂離宮界隈にたむろしていたのが西へ流れてきたのだろう。赤酒をあおって酔っ払ったり赤砂糖を舐めてけろけろ笑ったり、行儀の悪い連中だ。道端では乞食が藜の羹を啜り、藜の杖をついた老人が徘徊し、どぶ川で女が藜の灰を使って反物を染めている。女の足下には赤錆だらけの鉄瓶が転がっている。
駕籠かきは再び棒を肩に担って西へ向かった。北に山が見える。
「赤沢山に似ているね」筒井が先棒に言った。
「あれは六甲山ですよ」
南は瀬戸内海のおだやかな波が陽光に煌めいている。海底にきらきら輝いて見えるのは赤珊瑚だろうか。日はいつの間にか傾き、釣り船に灯がともったのは夕暮の証である。駕籠は明石に着いた。
筒井は駕籠を降り、レイチェルから届いた速達郵便を読み返した。
「吾が心明石の浦に舟泊めて浮き寝をしつゝ君を待つなり」
どこかに舟を浮かべて俺を待っているのだ。筒井は黄昏の瀬戸内海を眺めた。篝火をたいて魚を寄せて釣る明釣の舟が何艘も浮かんでいる。篝火の光はいと赤し。「篝火は明しといへど我が為は照りやたまはぬ」――筒井は万葉集をもじって歌を詠んだ。
赤地の織物でこしらえた着物を着た女が「赤字覚悟の大特価」と書いた看板を掲げて通りかかり、「そこのアガシ」と筒井に声をかけた。
「わたしですか」
「そうだよ」
「アガシって何ですか」
「朝鮮語でお嬢さんのことに決まっとるやろ」
「お嬢さんって、わたしは男ですよ」
答えた筒井は自分の服装に気づいてはっとした。伊勢の農家で赤革を何枚も繋いだロングコートを着せられたままだったのだ。女に間違えられるのも無理はない。
「アカシアの苗木を買うてんか。オーストラリア産や」
「結構です」
「勉強しまっせ」
「女が舟を浮かべてわたしを待っているんです」
「舟? ああ、ぎょうさん浮かんどるなあ。でも赤潮がひどいよって、魚は釣れんやろなあ」
「赤潮? プランクトンの異常繁殖ですか」
「こういう日はとんでもない災難がふりかかるもんや。気をつけなはれ」
突然馬のような動物が筒井をさんざん踏んづけて走り去った。
「言わんこっちゃない」
「いまのは何ですか」
「赤鹿や。ヨーロッパや中国北部に棲む大鹿や」
「そんな鹿がなぜ明石に?」
「せやから用心せえ言うたやろ」
全身を打撲した筒井は痛む背中をさすりつつ立ち上がり明石海峡を眺めた。どうやら今日は厄日らしい。レイチェルを探すのは後日にするべきかも知れない。赤潮が引くまで明かし暮すほうがよさそうだ。しかし――筒井は思い直した。レイチェルは俺が来るのを今や遅しと待っているのだ。女を待たせるなんて男がすたる。国家に譬えれば財政が逼迫して歳入が不足した時はすかさず赤字国債を発行するのが定石だ。赤字財政は好ましくないが、借金をしてでもやりくりをしなくては国家は立ちゆかなくなる。つべこべ言ってる場合じゃないぞ。初代横綱と呼ばれた寛永年間の力士、明石志賀之助もきっと即断即決の人だったに違いない。だから歴史に名を残したのだ。昭和六年に明石市の西郊、西八木海岸で直良信夫が明石人骨を発見できたのも強い意志があってこそだ。ぼやぼやする暇はない。俺はレイチェルを探す。探し出してみせる!
筒井は海岸の土産物屋で赤紫蘇の絞り汁を買いがぶがぶ飲んで精力を蓄え、レイチェルへの土産に珊瑚のような明石玉の簪と明石縮の織物、赤四手の木で作った櫛を買った。レイチェルが身につければ源氏物語の明石上か、明石中宮さながらの美女になるだろう。ならば俺も相応の身繕いをしたほうがよさそうだな。筒井は源平時代以降大将級の人物が鎧の下着として用いた赤地の錦の直垂を買って着替えた。これで俺も源氏物語の明石入道と瓜二つだ。レイチェルと並べば一対のお雛様だろう。二人の晴れ姿を誰か通行人に見せてやりたい。証人になってもらって後々の世まで語り継いでほしい。
「船が出るぞー」
船頭の声が響いた。明石と大阪を結ぶ乗合の明石船だ。さしたあり大阪に用事はないが、沖へ出ればレイチェルの舟が見つかるかも知れない。筒井は舟に乗りこみ、「無賃乗車はしません」と書いた証書を船頭に手渡した。夕日は山の端に沈みかけ、南の空がすみれ色に染まる。船が出た途端、それまで凪いでいた海面にあかしま風が吹き起こり、船頭の垢染みた袢纏が翻ったかと思うと帆柱が折れて船頭の頭を直撃した。大の字になって倒れた船頭は「うーん」と言って事切れた。垢染んだ笠が風に吹き飛ばされた。
帆と船頭を失った船は波にたゆたい乗客はパニックに陥った。「早く大阪に行かないと赤字融資に間に合わない」と叫ぶ男はどうやら銀行家らしい。赤みを帯びた蚕すなわち赤熟がいっぱい入った袋を後生大事に抱えた若い女の頭をかすめて飛ぶカワセミのような鳥は赤翡翠だろうか。頭は赤白髪で、薄赤にやや灰色を帯びた赤白橡の着物を着た老女が波止場を指さした。埠頭には町人が集まって心配そうに船を見つめ、手に掲げた松明が赤信号のように明滅している。「このまま難破したら明日の赤新聞に載るぞ」乗客の男が言った。密教の儀式閼伽振鈴だろうか、鈴を振り鳴らして念仏を唱え命乞いをする女もいる。
難破船で夜を明かすなんて真っ平だ――筒井は思った。俺は暇に飽かして物見遊山に出かける旅人ではない。レイチェルが俺を待っているのだ、しかも目と鼻の先の小舟にいるはずだ。筒井はレイチェルを想うと赤酢をがぶ飲みしたような酸っぱさが心に満ちてくるのを感じた。老女は飽かず念仏を唱えている。うるさい女だ、おまえなんか鮫にでも食われろ――筒井は女を睨んで「あかすかべい」と言い、あかんべいをした。ふと船尾のほうを見ると積荷の材木が目にとまった。赤杉、つまりセコイアの木を細長く切った板が山積みにされている。これを櫂にして漕げばいいじゃないか! 筒井が乗客たちに意見を乞うと「それは妙案」と全員賛同し、腕に自信のある男たちが板をオールにして漕ぎ、船は波止場に戻った。
筒井は船を降りた。日はとっぷり暮れて漁火が波間に見え隠れする。海を眺める筒井のそばに、どこから来たのか赤頭巾をかぶった少女が並んで立っている。まるでグリム童話から抜け出たような出で立ちだ。
「そんな格好してたら悪いオオカミに食われてしまうよ」
「赤酸塊を持っとるから大丈夫や」
少女はユキノシタ科の落葉果樹の枝をひらひら振った。おまじないだろうか。
「赤砂もある」
少女は左手に握った黒い石を見せた。
「赤砂って何?」
「金剛砂や。ダイヤモンドの次に固いんや。オオカミなんか恐ない」
いたいけな子どもにしてはずいぶん物知りだ。一晩厄介になろうか。
「お嬢ちゃん、すまないがおじさんを今夜一晩おうちに泊めてくれないか」
「ええよ。開かずの間があるよって、そこでよければ泊りいな」
少女は筒井の先に立ちてくてく山のほうに向かって歩いた。薄暗い藪をかきわけて進むと大きな門がある。
「不開の門や」
少女は大きな錠前に鍵をさして門を開けた。門扉には「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」と赤墨で書いた札がさがっている。レイチェルが全文を諳んじているダンテの『神曲』の名高いフレーズではないか。茫々と生えた草木の中に廃屋のような小屋がぽつんとあった。開かずの間というからてっきり母屋の別室だと思ったが、離れだったのか。
いまにも傾いて倒れそうな小屋で一息つくと少女が母屋の風呂場に案内し、「背中流したる」と言って筒井の背中をヘチマでごしごしと垢擦りした。気持ちがいい。風呂に入るのは久しぶりだ。もし俺が金持ちだったら金に飽かせて少女を雇いたい。可憐な少女に背中を流してもらうなんてまるでソープランド、赤線地帯で遊んでいるような気分になる。
「外にいろんな草が生えてるけど、何の草だい」筒井は訊ねた。
「赤麻や」
風呂からあがると少女は「これ飲みいな」と小さくたたんだ懐紙を筒井に手渡した。開いてみると小さな赤い錠剤のような粒がたくさんある。
「なんだい」
「阿伽陀や」
「アカダ?」
「どんな病気も治る霊薬や」
「おじさんは病気じゃないよ」
「不老不死の薬やで」
耳を疑った。あばら屋にそんな妙薬があるなんて信じられない。
「からかってるのかい」
「嘘言うわけあらへん。県に代々伝わってるのや」
「アガタ?」
「大和朝廷時代に地方にあった皇室の直轄領や」
「ずいぶん難しい言葉を知ってるんだね」
少女の説明による県歩きといって律令制時代に役人が地方に派遣された際全国各地にこの薬をこっそり伝えたのだという。妙に説得力があるので筒井は薬を飲んだ。少女は「腹減っとるやろ。これ食え」と赤鯛の塩焼を振る舞ってくれた。箸で魚をつつきながらふと壁を見ると「県居と書いた札が貼ってある。
「あれは何て読むの」
「アガタイや」
「おじさんは何にも知らなくて恥ずかしいが、アガタイって何?」
「賀茂真淵の家号や」
「え! 賀茂真淵は万葉集の研究で有名な国学者だよ。お嬢ちゃん、賀茂真淵と繋がりがあるのかい」
「あらへん。おとんが好いとっただけや」
「ああ、お父さんがね。そういえばお父さんの姿を見かけないが」
「死んだ」
「お母さんは」
「死んだ」
「それはお気の毒に……じゃあお嬢ちゃんはひとりぼっちなのかい」
「せやねん。けど寂しうない。県犬養橘三千代が守ってくれる」
またしても聞いたことのない名が飛び出した。
「誰だい」
「奈良時代の女官や。美努王のお嫁さんになって橘諸兄を産んで、それから藤原不比等の内室になって光明皇后を産んだ人や」
「お嬢ちゃんとどんな関係があるの」
「血が繋がっとる」
少女は「口に合わんかも知れんがこれも食え」と桜味噌をすって魚肉を入れた大阪天満名物の味噌汁赤出しを勧めた。赤襷で袂をからげてまめまめしく働く少女を筒井はまるで自分の娘であるかのようにいとおしく感じた。窓の外を赤蛺蝶がひらひらと飛ぶ。少女は仏に供える水や花を置く閼伽棚に縁が欠けた椀を一つ供えた。筒井は味噌汁を飲むと急に腕と足が痒くなった。何か毒でも入ってたのか、それとも赤蜱にでも食われたのか。
「どないしたん」
「なんだか手足が痒くて。ダニでも食われたんだろう」
「心配いらんで。さっき薬を飲んだやろ」
「ああ、万能薬だったね」
「県主もよう飲みよってん」
「アガタヌシ?」
「大和朝廷時代の県の支配者や」
「なんだか知らないけど由緒ある薬なんだな」
「嘘やと思うなら県の井戸に行ってみい」
「どこ?」
「京都の一条の北、東洞院の西門にある泉や。山吹がぎょうさん咲くんやで。薬はそこの山吹の花から採るんや」
筒井は薬の粒をしげしげと見た。この小さな赤玉が不老長寿の薬だとはまだ信じられない。どう見ても赤玉の木の実としか思えない。しかも腕と足の痒みは引くどころかますます激しくなり、肌一面にぽつぽつと赤い斑点ができた。
「本当に不老不死の薬なの?」
「おっさん、しつこいわ! 大和朝廷の役人が県見いうて地方を巡視した時に持参した薬やて、さっきも言うたやろ。なんべん同じこと言わすんや。県御子いうてな、竈祓や口寄せしながら諸国を巡った巫女も飲んだんやで。県召には欠かせん薬やった」
「アガタメシ?」
「おっさん、ほんまになんも知らんなあ。県召の除目のことや。平安時代に地方の役人を任命する行事や」
筒井は舌を巻いた。年の頃は十二三にしか見えない少女の知識に圧倒されるばかりだ。筒井は世間ではいっぱしの小説家で通っているが、実際は教養に乏しいのがコンプレックスだった。知ってることといえば花札の松と梅と桜の札が揃うのを赤短と呼ぶことくらいが関の山で、旧暦六月と十二月の大祓に使う人形を贖児と呼ぶのを知らないし、古代では耕作のため人民に分け与えられた田んぼを班田と呼んだことなど聞いたこともない。筒井は自分の無知を思い知らされて涙を浮かべ、赤茶けた直垂の袖で目元を覆って赤ちゃんのように大声で泣いた。
ひとしきり泣いて涙が涸れると酒を飲みたくなった。近くに赤提灯はないだろうか。それにしても体中が痒い。筒井は全身をぼりぼり掻いた。「赤チン塗るか?」少女が小さな瓶を持ってきた。ヨードチンキを塗ったところでこの痒みがおさまるとは思えない。「要らないよ」筒井が応えると少女は瓶を分ちて、つまり床に捨てて、壁にかけてあった赤柄の刀を下ろし、正坐した膝の前に横たえた。少女の眼がぎらりと光った。
「いま何時だろう」
「丑三つ時や」
いつの間に真夜中になったのだろう。酒が飲みたくてたまらないが店はどこもやっていないに違いない。暁まで待つしかなさそうだ。筒井は垢付の着物を着たままごろりと横になった。少女は仏に供える水を入れた閼伽坏の器をかき混ぜながら地獄の底から響くような声で呟いた。
「早よ眠りいな。暁起きすればええやろ。目が覚めたら暁の茶事したる。暁の別れや」
灯火のない真っ暗闇の家の中で少女の眼と刀の刃だけが光っている。筒井は怖気をふるった。門に貼ってあった札の文句が脳裏に浮かんだ。「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」――俺は殺されるのではないか。このまま死んだら小説家としての商売上がったりだ。ひょっとすると不老不死の薬なんていうのは真っ赤な嘘で、じつは毒物ではないのか。亜褐炭とか赤土とか赤詰草を適当に混ぜて作ったのではないか。全身が真っ赤に腫れ上がって赤面になった筒井は赤手蟹のようにわなわなと手足を震わせた。少女は赤鉄のような刀を手にとって振りかざし、じりじりと筒井のほうににじり寄った。こ、殺される!
つむじ風が起きて屋根と壁が崩れて吹き飛んだ。何者かが筒井の体に覆い被さり、吹き飛ばされないよう地面に押しつける。竜巻が遠ざかると筒井にのしかかっていた者が身を起こした。腹ばいになったまま筒井が恐る恐る顔をあげると眼の前に白衣を着た白人の男が立っている。
「あなたは?」
「アカデミーの者だ」
「アカデミー? アカデミー賞ですか」
「馬鹿者。わたしが映画関係者に見えるか。アカデミー・フランセーズだ」
「というと……フランス学士院」
「そうだ。毎年ノーベル医学生理学賞の候補にあがるジネディーヌ・ジダンだ」
「ジダン……そんな名前のサッカー選手がいたような……」
「同姓同名だ。命を助けてやったのに礼を言わないのか」
「え? 助けてくれたんですか」
「君は死ぬところだったんだぞ」
「すると、さっきの少女は……」
「あれはこの世の者ではない。旅人を家に招き入れては生き血を吸う化け物だ」
「じゃあ、不老不死の薬というのも……」
「猛毒だ。だが心配はいらん。解毒剤がある。これを飲みなさい」
ジダンはオブラートに包んだ白い粉薬を筒井に手渡した。筒井が薬を丸呑みするとたちまち皮膚の腫れが引き痒みがおさまった。
「おかげさまで助かりました」
「痩せても枯れてもアカデミシャン、病気を治すのは朝飯前だ。といっても君はアカデミズムとは無縁だから病気や薬の話をしてもチンプンカンプンだろうな」
「面目ありません」
「アカデミックな話題はさておき、問題はレイチェルだ」
「レイチェル! すっかり忘れてました」
「このたわけ者め! 大切な女を忘れるとは、君は人生という名の試験で赤点を取ったも同然だぞ」
筒井は返す言葉もなかった。
「君はなぜ少女に殺されそうになったと思う?」
「わかりません」
「レイチェルの怒りのせいだ」
「え!」
「明石の海で待てど暮らせど君が来ないのに業を煮やしたレイチェルが君をあのあばら屋におびき寄せたのだ」
「本当ですか」
「嘘だと思うのか。ではなぜわたしが現れたと思う?」
「まさか……」
「さよう、レイチェルの計らいだ。君が化け物に食い殺されるのが忍びなくて、レイチェルがわたしを派遣した」
筒井は狐につままれた気分だった。
「ではわたしが明石に着いてからの出来事はすべて……レイチェルの仕業だったんですか」
「ある意味ではな」
「ある意味? あなたの説明が正しければ、わたしの冒険はレイチェルの意識の産物ということになる」
「しかしレイチェルは君の意識の産物なのだよ」
「そんな馬鹿な話があるか」
「考えてみなさい。君が冒険を始めたからレイチェルがこの世界に登場したのだ。レイチェルは君が生みだした存在なのだよ。君は自分が生みだした人物に操られているのだ」
「……頭がこんがらがってきた……」
「レイチェルがいなくなる時、君もこの世からいなくなる」
「そんな……」
「早くレイチェルを探しなさい。さもないと手遅れになる」
「どうすればいいんですか? どこにいるんです?」
「わたしの役目はこれまでだ。ではさらば」
ジダンの姿が忽然と消えた。筒井があたりを見回すと地面はアスファルトで、遠くにぽつんと街路灯が停留所らしき場所を照らしている。ガタンゴトンと音を立てて赤い電灯をともした路面電車が停留所に停まった。あの赤いランプはたしか最終電車の印のはず。そうだ、赤電車じゃないか。ということは、いまは大正か昭和の初めなのか。空っぽの電車が再びガタゴト揺れて発車した。停留所に行くと赤電話がある。やっぱり昭和なのだ! 真夜中なのであたりには人気がない。レイチェルを探したいが暁まではまだ時間がある。夜明けが近い暁降ちまで待とうか。暁月夜が白むまで、暁闇が明るくなるまで待とうか。――いやだ。いますぐレイチェルの声が聞きたい。
筒井は赤電話の受話器を握った。レイチェルの居場所はまるで見当がつかないが、声を聞きたい一心で闇雲にダイヤルを回した。電話が繋がった。
「おかけになった電話番号は現在使われておりません」
ちくしょう! 筒井はもう一度でたらめにダイヤルを回した。
「こちらは日本スタンダール協会です」
「……え?」
「『赤と黒』についてのご質問は1を、『パルムの僧院』についてのご質問は2をダイヤルして下さい」
筒井は受話器をガチャンと置いた。ああ、レイチェル! どこにいるんだ!
三度目の正直、筒井はもう一度ダイヤルを回した。
「日本船舶振興会です」
「……え?」
「船に水が入るのを防ぐために槙肌などを板の合わせ目に詰めることを淦止めといいます」
「そうなんですか」
「船底にたまった水を汲み取るひしゃくを垢取りと書く人がいますが誤りです。正しくは淦取りです」
「知りませんでした」
「赤色に細い横筋を絞り染めにした染色を赤取染といいますが、船舶とは何の関係もありません」
「勉強になりました」
筒井は電話を切った。置いた受話器に赤蜻蛉がとまった。
レイチェルの消息はつかめない。エジプトで客船に置き去りにしてしまった罪の購いをしたい。レイチェルに会うためなら犯罪者になってもかまわない。律令制時代に罪人の財物没収や盗品の管理をつかさどった贓贖司のお世話になってもいい覚悟があるが、残念ながらいまは律令制時代ではない。罪を贖うにはどうすればいいだろう。赤茄子をご馳走しようか。いや、トマトはありふれている。銅鍋をプレゼントしようか。でも料理が好きかどうかわからない。赤丹はどうだろう。「赤色の顔料にする土だよ」「土なんか要らないわ」――ダメだな。赤螺にしようか。「アッキガイ科の巻貝だよ。食べるとうまいんだぞ」「あなた何を考えてるの? 赤螺は殻を閉じると開かないから財布の紐が固い人、けちな人を赤螺って呼ぶのよ。わたしに喧嘩を売ってるの?」やっぱりダメだ。何かいいアイデアはないか――そうだ! ロシアの写真週刊誌『アガニョーク』を贈ろう。一九八六年以降のペレストロイカでグラスノスチの先頭に立った雑誌だ。レイチェルは国際労働機関の職員だから、きっと興味を示すはずだ。しかし日本の古本屋にはないだろうな。よし、ロシアに行こう。
筒井は停留所のそばの民家に干してある洗濯物を奪い、こざっぱりとしたシャツとズボンに着替えるとすっかり都会風に垢抜けした。馬子にも衣装、俺も身なりを整えれば垢抜けるのだ。筒井は気分がさっぱりして「おおレイチェル、吾が主」と芝居がかって呟くと、赤塗りの車が通りかかった。屋根にランプがともり、側面に「神風タクシー」と書いてある。筒井は手をあげてタクシーを停め、乗りこんだ。
「ロシアまで頼む」
「ロシアですね。かしこまりました」
運転手はアクセルを思いきり踏んだ。
「真っ赤なタクシーなんて珍しいね」
「よく言われます。社長が茜が好きな人で」
「茜って、植物の?」
「ええ。会社のビルも茜色なんです」
「よっぼど好きなんだね」
「茜草科の草木に目がないんですよ。クチナシとかヤエムグラとか」
「ふーん」
夜が白み始めた。車は海辺を走っていた。漁師とおぼしき男たちが赤い着物を着て海岸をぞろぞろ歩いている。
「あの人たちは?」
「赤布被りです。ブリがたくさん獲れたんでしょう。大漁のお祝いに赤頭巾と赤い着物を身につけて神社に参詣するんです」
「そんな風習があるなんて知らなかったなあ」
「この辺ではむかしからやってますよ」
「この辺……変な質問をするようだが、ここはどこだい?」
「どこって、大隅半島に決まってるじゃありませんか」
筒井は耳を疑った。大隅半島ってことは、俺はいま鹿児島にいるのか。驚いたが、自分の居場所がわかってむしろほっとした。東の空に茜雲が棚引いている。
「茜さす日は照らせれどぬばたまの――」
「運転手さん、歌を詠むの?」
「いいえ、万葉集ですよ」
「学があるなあ」
「これしか知らないんです。馬鹿の一つ覚えですよ」
筒井は引け目を感じた。運転手は和歌をすらすらと諳んじる。それにひきかえこの俺は文学者を気取っているが万葉集のまの字も知らない。運転手から見れば俺はさしずめ日本でいちばんありきたりな赤鼠に過ぎないのだろう。「きれいですねえ」運転手が外を見て言った。
「茜菫です」
「あの赤紫色の花かい」
「ええ。女が着物を着て歩いてるでしょう」
「うん」
「茜染ですよ」
「へえ」
「あ、茜蜻蛉だ」
「アカネトンボ? アカトンボのこと?」
「そうです。この季節になると社長は山に登って茜掘るんです」
「アカネホル?」
「茜の根を掘ることです。染料にするんですよ。絹を染めて赤練にしたり。で、正月になるとあかの粥をご馳走してくれます」
「まさか赤い粥じゃないだろうな」
「それが本当に赤いんですよ。小豆を入れるので。正月十五日に食べます。七草粥みたいなものでしょうね。――着きましたよ」
車が停まった。大きな川の河口である。
「この川は……?」
「阿賀野川です」
「聞いたことないけど」
「福島県会津盆地から西へ新潟県北部を流れ、新潟市の東で日本海に注ぐ川ですよ」
「もう新潟まで来たのか!」
「速いでしょう? なにしろ神風タクシーですから」
「すごい!」
「ここから船で日本海を渡ればすぐロシアです」
「でかした! めでたい! 赤の御飯で祝いたい気分だ」
筒井は赤の他人である運転手の腕前を称賛した。車を降りて地面を踏みしめると栃木や埼玉あたりでよく見る赤のっぽで、黄褐色の火山灰がたまった土壌だ。筒井は海の彼方を眺めた。この海の向こうにモスクワの赤の広場があるのだ。無事ロシアに着いたら赤の飯を炊いて運転手にご馳走しよう。いや、それだけでは足りない。福岡の陶器上野焼を進呈しよう。
筒井が期待に胸をふくらませていると、「船はこっちです」と運転手が小さな小屋に案内した。入口の赤暖簾をくぐるとその先は波止場で、大きなフェリーが停泊している。筒井は乗船し、運転手もタクシーを乗り入れた。フェリーは三日三晩大海原を進み、ヨルダン南西部の港町アカバに着いた。
「なんでヨルダンに着くんだよ!」筒井は運転手を怒鳴りつけた。
「おかしいなあ……たしかにロシア行きの船に乗ったはずなのに」
「このすっとこどっこい! 赤禿!」
「とんだ赤恥をかいてしまいました」
「だいたいおまえは服装からして信用できん。なんだ、その赤いような茶色いような制服は!」
「これですか? これは赤櫨と言いまして、日本古来の染色……」
「車が真っ赤で制服も赤。どう考えても普通じゃないだろ! しかもボンネットの前に赤い旗まで立てやがって」
「赤旗は労働組合の印なんです」
「俺はてっきり日本共産党の機関誌『赤旗』の宣伝かと思ったぞ」
腹の虫が治まらない筒井は船室から港を眺めた。草木が一本もない赤肌の山が見える。奈良市西部の赤膚山を伐採したらこんな風景になるかと思われた。筒井は怒り心頭に発し、運転手の制服を剥ぎ取って赤裸にした。
「な、何をするんです!」
「罰として一生裸で暮らせ!」
「そんな殺生な! これじゃまるで明治四十一年六月二十二日に東京神田の錦輝館で行なわれた社会主義者山口義三出獄歓迎会のあとで大杉栄たちが『無政府共産』と書いた赤旗を掲げて野外行進しようとして十数名が検挙された赤旗事件と同じだ!」
「なんだ、その百科事典を棒読みしたようなセリフは! おまえなんか奈良市五条山名物の陶器赤膚焼を丸呑みして死んじまえ!」
「丸呑みするなら赤初茸がいい。おいしいキノコですよ」
「馬鹿野郎! 誰がキノコなんか食わすものか! おまえが身もだえて死ぬ姿を眺めながら俺は天皇が大嘗祭に用いる明衣を着て優雅に過ごすのだ。ははは。ざまあみろ」
「命だけはお助け下さい! 赤花を差し上げます!」
運転手は赤鼻をひくつかせて懇願した。
「花なんか要らん」
「でも赤花科の草花は六百五十種類もあるんですよ」
「なにが『でも』だ? 『でも』の使い方が間違ってる!」
「赤埴に植えるとよく育ちますよ」
「アカハニって何だ」
「赤色の土です」
「じゃあ最初から赤土って言えばいいだろ! わざと難しい言葉を使いやがって」
「後生ですから、死ぬ前に赤羽に住む母親に電話させて下さい」
「ダメだ!」
激昂した筒井の顔がますます赤ばんだ。窓を開けて再び外を見るとスズメ目ヒタキ科ツグミ亜科の赤腹がヒュルルル、ヒュルルルと鳴いて空を飛び、窓ガラスの隅には小さな赤腹蠑螈が一匹張りついている。怒りで赤張った顔を窓から出し、筒井はアカバ湾の景色を見つめた。
腹が減った。筒井はフェリーの売店で赤パン黴だらけのパンを買った。売店の片隅にヒガンバナのような紫色の花が咲いているのはアガパンサスだろうか。
デッキに出て黴臭いパンを食いながら港を見下ろした。漁船がびっしりと並んで停泊し、まるで眠っているかのように波に揺れている。漁に出ないのは何かわけがあるに違いない。そうだ、赤火だ。たしか漁民は月経や出産などの穢れを忌み嫌って、その期間は出漁を避ける習慣があると聞いたことがある。
垢光りしたシャツを海風がはためかす。民家の軒先からくすねたわりには上等な生地で、きらきらと光って輝く赤引の糸を用いているところはまるで伊勢内宮の神御衣の祭りに供えるのにふさわしいくらいである。赤髭をたくわえた船員が白木造りの明櫃を抱えて通りかかった。中身を見せてもらうと赤海星がうようよ蠢いている。船員は蓋を閉め赤紐で結んで立ち去った。しんと静まりかえった港の光景は炭坑が閉山してさびれた北海道の赤平を思わせた。
船室に戻ると明昼から素っ裸になった運転手が伊勢名物の赤福餅をもぐもぐ食べていた。
「どこで手に入れたんだ」
「タクシーにいつも積んであるんです。冷凍して」
「うまそうだな。俺にもくれ」
「どうぞ」
「なんか部屋じゅういい匂いがするな」
「ああ、これですよ」
運転手は筒井に剥ぎ取られた制服のポケットから赤袋を取りだした。
「なんだそれ」
「匂袋です。丁子とか麝香とか白檀が入ってます」
「白檀? 超高級品じゃないか」
筒井は運転手の首をぎゅっとつかまえて、まるで土俵の赤房方向に相手を押し出すようにぐいぐいと壁に押しつけた。首を締めつけられた運転手の顔が赤富士のように真っ赤になった。
「な、なんです」
「港を見ろ。漁船はみんな赤不浄を忌み嫌って猟に出ないんだ。この船もしばらくは停泊したままだろう。そこでだ。この白檀を船長にプレゼントするんだよ。そうすればきっと喜んで俺たちの言うことをきくはずだ。ロシアに行けと命ずればほいほいと二つ返事で引き受けるに違いない」
「なるほど! でも、これは見切り品を買ったので赤札がついてますけど」
「そんなものは外しておけ」
我ながら名案だ。筒井は興奮して顔が高野山明王院に安置されている赤不動のようになった。折よくさっきの船員が通路を通りかかった。筒井はこれこれしかじかと説明すると船員はすぐに船長を部屋に呼んでくれた。筒井は白檀を手渡し、ロシアに向かってくれと頼んだ。船長は大喜びで受けとり、気前よく赤葡萄酒の栓を抜いてグラスに注ぎ、全員で乾杯した。
やったぞ! これで万事解決だ! 江戸後期、幕府直営の貿易船赤船が蝦夷に向かったように、俺もついにロシアに向かうのだ!――筒井はぴょんぴょん飛び跳ねてアカプリッチオのステップを踏んだ。船は三日三晩大海原を進み、メキシコ南部の港湾都市アカプルコに到着した。
「ここはメキシコじゃないか! ロシアに行けと言ったのに。話が違うぞ」筒井は船長室に怒鳴りこんだ。
「どこへ行こうと私の勝手だ。この船は私の船だ」船長は赤目、すなわちあかんべをした。
「この裏切り者!」
「そもそも君はなぜロシアに行きたいのかね?」
「ロシアの写真週刊誌『アガニョーク』を手に入れるためだ」
「ゴルバチョフ政権時代の雑誌だな」
「よく知ってるな」
「七つの海を駆け巡る私は何でも知っている。雑誌なら古本屋か図書館で探せばいい。わざわざロシアに行く必要はない。ネットで検索すればいい」
言われてみればその通りだった。
「すまないがパソコンを貸してくれないか」
「いいよ。これを使いなさい」
筒井は船長室のパソコンで「アガニョーク」を検索した。メキシコシティーの古本屋ウニベルサル書店に一冊、そして同じくメキシコシティーのメキシコ国立自治大学図書館に一冊あることがわかった。ついでにアカプルコからメキシコシティーまでの距離も調べた。三七八キロだ。車で走れば四時間で着ける!
雑誌入手のめどが立ち、ほっとして窓の外を眺めた。海岸には南北アメリカでポピュラーなリュウゼツラン科リュウゼツラン属のアガベが咲き誇っている。筒井はアガペーすなわち神の愛を感じた。船長に礼を言ってキャビンに戻り、素っ裸で赤べこのように縮こまっているタクシーの運転手に大声で命じた。
「おい、服を着ろ!」
「着てもいいんですか?」
「早くしろ! 車を出せ!」
運転手は言われるがまま真っ赤な制服を着て二人はタクシーに乗った。エンジンがなかなかかからない。
「この赤下手め! どけ! 俺が運転する! おまえはナビゲートしろ」
筒井は運転席に坐りハンドルを握ってエンジンをかけアクセルを踏んだ。真っ赤なタクシーはブロロロロとエンジン音も高らかに発車し、フェリーから桟橋に降りた。「赤倍良いらんかねー」と大きな籠を担いだ女が海魚キュウセンを売り歩いている。筒井は無視してエンジンを全開にし、上機嫌になってメキシコの民謡「シェリト・リンド」をアカペラで歌った。助手席では赤帽をかぶった運転手が猛スピードに恐れをなしてぶるぶる震えている。
「おい、おまえ、名前は?」
「え?」
「名前を聞きそびれた」
「稲垣です」
「稲垣か。スマホ持ってるか」
「持ってますけど」
「そいつはありがたい! メキシコシティーまでの道順を調べてくれ」
稲垣はスマホでグーグルマップを検索した。
「この道を北東に向かってまっすぐです」
「そうか。ついでにウニベルサル書店の場所も調べてくれ」
「ウニベルサル書店?」
「古本屋だ」
稲垣はグーグルで検索した。
「えーと……ユスリカ類の幼虫で、河川や下水溝などの底の土中に棲む……」
「なんの話だ」
「赤孑孑です」
「誰がボウフラなんか調べろと言った!」
アカプルコに到着したのは早朝だったらしく東の空が明るくなってきた。稲垣は明星すなわち明けの明星を眺めて呟いた。
「明星の明くる朝は敷細の――」
「ひょっとして、また万葉集か」
「ええ。明星で思い出しましたが、植物の葉の表面に赤褐色の斑点ができる病気を赤星病って言うんです」
「なんの関係もないだろ」
「でも響きが似てますよね」
「響きが似てる言葉なんてほかにもいろいろある」
「ですよね。たとえば吾が仏とか」
「アガホトケ?」
「自分の信仰する仏のことです」
「ふーん」
「諺でも使いますよ。吾が仏尊し」
「知らんな」
「自分がありがたく思っていることだけが尊いと考えて世間一般のことをかえりみない偏狭な心のことです」
「認めるのは悔しいが、おまえは学があるな」
筒井はタクシーを飛ばしながら切歯扼腕した。アカプルコからメキシコシティーに通ずる幹線道路は一帯が黄橙色でおがくず状の赤ほやすなわち火山灰土壌だ。
「おい、さっさとウニベルサル書店を調べてくれ」
「そうでした。えーと、あ、ありました――有機学者。静岡県生れ。阪大教授、同学長。阪大灰白質研究所初代所長」
「なに?」
「赤堀です」
「アカボリ?」
「赤堀四郎。酵素タカアミラーゼの結晶化に成功。また灰白質のアミノ酸残基を決定する赤堀法を開発」
「おまえは何を調べてるんだ」
「ウニベルサル書店です」
「なんで科学者の話になるんだよ」
「おかしいなあ。グーグルで検索するとヒットしちゃうんです」
「科学者の紹介なんかわざわざネットで調べなくても俗受けする赤本に書いてあるだろ」
「ですよね。あ、窓の外をご覧なさい。あの駅、福岡県宗像市の赤間駅にそっくり」
「運転中に余計な話はしないでくれ」
「ところでさっきまで乗ってたフェリー、淦間がずいぶん深かったですね」
「アカマってなんだ?」
「船底の水がたまる場所のことですよ」
「だから余計な話はするなって言ってるだろ」
「あ! あそこをご覧なさい。赤間石だ」
「アカマイシ?」
「日本では山口県厚狭郡で産出する赤褐色、紫色、紫青色の凝灰質泥岩です。メキシコにもあるんだなあ」
「おまえはまるで百科事典だな」
「今でこそタクシーの運転手やってますけど、子どもの頃は大学教授になるのが夢でした」
「大学教授なんてどいつもこいつも人間の屑だ。俺も文学部唯野教授という奴を知ってるが……まあ、こいつの話をすると長くなるからやめておこう」
「昔から大学教授を崇へているんです」
「タクシー運転手のほうがよっぽどマシだぞ。女もそうだ。教授なんか目指さずに赤前垂れをかけて料理屋で客を相手にするほうがずっと人間らしい」
「料理屋なら赤間関にいい店がありますよ」
「アカマガセキ?」
「下関の古称です」
「だったら最初から下関と言え!」
「下関の赤間神宮のそばにあるんです。あ!」
稲垣が助手席で腰を浮かして足をばたつかせた。
「いきなり大声を出すなよ! 今度はなんだ?」
「あかまたです!」
「アカマタ?」
ハンドルを握ったまま筒井が助手席を見ると足下に蛇が一匹とぐろを巻いている。稲垣は恐る恐る蛇の首元をつかんで窓から外に放り投げた。
「ああ、びっくりした」稲垣は胸を撫で下ろした。
「きっとフェリーの中で忍びこんだんだな」
「あかまたは日本では奄美と沖縄にしかいないんですよ」
「よく知ってるな」
「沖縄といえば八重山諸島に赤また黒またという民俗行事があるのをご存じですか」
「知るわけないだろ」
「陰暦六月の豊年祭です。あ! あの木は赤松ですよ」
「無駄話はいい加減にしろ! 早くウニベルサル書店の住所を調べろ」
「はいはい。えーと、えーと、あ、ありました――社会運動家。山口県生れ。日本共産党で活動、のち社会民衆党書記長」
「なんだそれ」
「赤松です」
「誰だ?」
「赤松克麿」
「俺は古本屋に行きたいんだ!」
「でもグーグルで検索するとなぜかヒットしちゃうんです」
「グーグルがダメならヤフーで調べてみろ。機転を利かせろ」
「はい。えーと、ウニベルサル、ウニベルサル――ありました! 南北朝時代の武将。後醍醐天皇の倒幕挙兵に加わり、のち足利尊氏に属して播磨・備前の守護」
「今度は誰だ」
「赤松則祐です」
「おまえ本当にスマホの使い方わかってるのか?」
「馬鹿にしないで下さい!」
「馬鹿にしたくもなるじゃないか! ヤフーがダメならほかの検索エンジンを使え。ライブドアで試してみろ」
「はいはい……えーと、えーと、ありました! 南北朝時代の武将。播磨の守護……」
「さっきと同じじゃないか!」
「違いますよ。今度は赤松則村です」
「違いがわからないぞ! ライブドアがダメならgooを使え」
「gooですね。わかりましたよ。やればいいんでしょう、やれば。えーと、ウニベルサル、ウニベルサル――あった! 南北朝・室町初期の武将。則祐の子」
「また赤松かよ」
「ええ、赤松義則です」
「これじゃいつまでたっても古本屋に行けないじゃないか!」
古本屋の検索が吾が儘にゆかない稲垣はスマホを膝に置いて窓の外を見た。沿道に紫色のイヌタデ、通称赤飯の花が咲いている。朝日が昇るにつれて車内の温度が上がり頬に赤みがさした。
「お腹がすきましたね」
「俺はすいてない」
「赤身の魚が食べたいなあ。マグロとか」
「おまえは吾が身のことしか考えないんだな」
「マグロできゅーっと一杯やりたいなあ。でも飲めばすぐ顔が赤くなる赤み上戸なんですよ」
「運転中に話しかけないでくれ」
「この辺の海は赤水、つまり寒流だからマグロは獲れないかも」
「仏に供える閼伽水でも飲んで我慢しろ」
「赤味噌をたっぷり使ったサバの味噌煮が食べたいなあ」
「クソ! 俺も腹が減ってきた」
長距離ドライブに疲れて眼が赤み走った筒井がふと脇を見ると小さなレストランがある。筒井は車を停めて稲垣と店に入りテーブルに坐った。主人が「本日の定食です」と大きな皿を持ってきた。
「これはなんだ」
「赤耳亀の丸焼きです」
「カメ? カメを食うのか」
「おいしいですよ」
「でも甲羅がついたままだぞ」
「召し上がれ」
筒井と稲垣はナイフで甲羅を突いたが歯が立たない。悪戦苦闘するうちに顔が赤んできた。メキシコ人はこのゲテモノをどうやって食うのだろう。土着の神様を崇める人にしか食い方がわからないに違いない。ナイフとフォークをめったやたらにガチャガチャ動かして指の皮膚が赤剥けになった。
「おい、別の料理をくれ」
「本日のお勧めは赤虫のスープです」
「アカムシ?」
「ビクイソメ科の大型の多毛類です。マダイの餌にします」
「虫なんか食えるか! マダイはないのか」
「あいにくございません。そのかわり赤鯥ならありますよ」
「魚か」
「はい。スズキ科の硬骨魚です」
「よし。それをくれ」
「かしこまりました」
主人は赤紫色の魚がぴちぴち跳ねているのを皿に盛ってテーブルに置いた。
「お待たせしました。赤鯥です」
「生きたままか」
「躍り食いです」
「こんなもの食えるか!」
「では赤女はいかがでしょう」
「アカメ?」
「鯛です」
「鯛があるのか。すぐ持ってこい」
「かしこまりました」
主人は病気で眼が赤目になった鯛を持ってきた。
「眼が死んでるぞ」
「三重県の赤目から取り寄せましたので」
「なんでそんな遠くから……地元の食べ物はないのか」
「赤芽はいかがでしょう」
「魚か」
「いいえ、植物の赤味を帯びた新芽です。とくに赤芽柏は実の毛を集めて駆虫剤にします」
「聞いただけで吐き気がする」
「では赤眼張はいかがですか」
「メバルがあるのか」
「赤目河豚もございますよ」
「よし! メバルとフグを刺身にしてくれ」
ようやくまともな料理にありついた筒井はトロイア戦争におけるギリシア軍の総帥アガメムノンのようにがつがつむさぼり食った。稲垣は何を注文してよいかわからず、「赤芽黐のソテーはいかがですか」と主人に勧められるままバラ科常緑小高木カナメモチの実にフォークを突き刺して一口食べたらあまりにも辛くて顔を赤めた。
「どうだ、うまいか」筒井がからかった。
「とても食べられたもんじゃない」
「地元の神様を崇めないからだ。食べ物を粗末にすると罰が当たるぞ」
「刺身を一口下さい」
「やらない」
「ケチ! あんたなんか赤疱瘡になっちまえばいいんだ!」
「なに?」
「麻疹ですよ」
「なら麻疹と言え! なんでいちいち難しい言葉を使うんだ。おまえこそ赤藻屑でも食ってろ。俺は鯛やホウボウとかの赤物でワインを飲むぞ。いひひひ」
「ひどいなあ! ここまで来られたのは誰のおかげだと思ってるんです!」
「え?」
「わたしのタクシーがなかったら、あんたは今頃アカプルコの港で路頭に迷ってるところだ」
「そりゃまあ、そうかも知れんが……」
「なのにわたしを侮辱するなんて、あんたは罪人だ」
「大袈裟だろ」
「ちっとも大袈裟じゃないよ! 罪を贖いなさい。わたしに贖物を提供しなさい」
「提供しなさいって、いまは何の持ち合わせもないし。そうだ、日本に帰ったら東京大学の赤門に案内してあげよう」
「帰国してからじゃ遅すぎる! いますぐだ!」
「わかったよ。なにかまともな食い物を注文してやる」
筒井が主人に訊ねると赤矢柄のムニエルがあるというので注文してやり、稲垣は飢えたオオカミのようにがつがつ食った。すると赤郵袋を抱えた郵便配達夫が店に入ってきて「筒井さーん、書留郵便でーす」と筒井に手紙を手渡した。受取りの書類にサインして封を切ると一筆箋が出てきた。文面を読んだ。
「いつまで待たせるの? ――レイチェル」
またしてもレイチェルからの手紙だ! しかし不思議だ。俺がアカプルコとメキシコシティーの途中にある鄙びたレストランにいることをなぜ知っているのだろう。それにひきかえ俺はレイチェルの居所がまったくつかめない。この広い世界で見つけ出すのは寒帯地方や高山の積雪上に赤色の藻が繁殖して赤く見える赤雪を探すのに匹敵する難行だ。
「稲垣、出発するぞ」
「え? まだ食べてないんでけど」
「グズグズするな」
「お勘定は?」
「そんな暇はない」
筒井は無理やり稲垣の腕を引っぱって出口に向かった。
「あ、無銭飲食!」
店主が店の奥から赤弓を抱えて現れ、弓を満月のように引き絞り矢を放った。矢は筒井の肩をかすめてドアに突き刺さった。
「パパ、貸して」
店主の娘で可憐な赤ら少女が弓を奪い、まさに矢継ぎ早に次から次へと矢を放つ。筒井のシャツの袖を射抜き、稲垣の赤帽も射抜かれて地面に落ちた。筒井は稲垣を抱きかかえるようにして身をかがめながらドアの外に出て車の運転席に飛び乗りエンジンをかけた。タクシーのボディーに矢がコツンコツンと当たる。アクセルを踏むと真っ赤な車は赤ら小舟のようにぐらりと揺れて発進した。
「命拾いしましたね。でもあの女の子、赤らかで綺麗だったなあ」興奮して赤ら顔の稲垣が助手席で呟いた。
「殺されるところだったんだぞ」
「あんな美人と京都北野天満宮に行って赤ら柏をお供えできたら言うことないなあ」
「馬鹿野郎。俺たちはお尋ね者になってしまったんだぞ。暢気なこと言うな」
筒井はあからさまに稲垣をけなした。
「怒るなんてあからし」
「アカラシってなんだ」
「胸が締めつけられるようにつらいことですよ」
「またお得意の万葉集か」
「蜻蛉日記です。ああ、わたしはあからしぶ」
「それも蜻蛉日記か」
「日本霊異記です」
ルームミラーでパトカーを見るとトレンチコートにソフト帽をかぶった二重顎の男が窓から乗り出して叫んでいる。
「待てえ、ルパン!――いや、筒井! 無銭飲食の容疑で逮捕する!」
「銭形のとっつぁんだ」
「銭形? 誰ですか」
「インターポールの警部だ。しつこい男なんだよ。追っ払う方法はないかなあ」
「商売の上がりを渡したらどうでしょう」
「なんの話だ」
「タクシーの売上金ですよ」
「いくらある」
「四億五千万円」
「え!」
驚いた筒井は思わずハンドルを握る手に力が入り車体が傾いで蛇行を始めた。
「ちゃんと前を向いて運転して下さい!」
「タクシーの運転手が四億円も稼げるのか」
「寝食を忘れて働きましたからね。わたしが死んだら金を坊主にやって、万葉集の時代の貴人のように本葬をする前に棺に死体を納めて仮に祭る殯をやってもらうつもりです」
「アホかおまえは! 金は生きてるときに使うもんだ」
路面に大きな石がごろごろ転がっているのをタイヤが踏んづけて車体が騰り馬のように上下し、まるで坂道を上がり下りするかのようにバウンドした。
「金はどこにあるんだ」
「トランクです。アタッシュケースに入れてあります」
「そんな大金を持っていつも運転してるのか」
「金は肌身離さずがモットーです。銭形警部には、この金でレストランに支払うつもりだったと言えばいい。そうすれば何も後ろ暗いところはない、晴れて明かりが立ちます。ついでに端午の節句に飾る紙製の上り兜をプレゼントしてやれば大喜びでしょう」
「ではその作戦でいくか。その前に金を確認しよう」
筒井は道端の民家の前に車を停めてトランクを開けた。稲垣の説明どおり大きなアタッシュケースがある。中身を確かめたいが道端は物騒だ。筒井はアタッシュケースを抱えて民家に向かった。幸い玄関の鍵は開いており、上がり框から上がり口をずかずかと上がり込み、階段を上がり下がりして太陽の光がさしこむ明り先のほうに向かうとそこは江戸小伝馬町の牢屋の一部で五百石以下の旗本の未決囚を入れた独房揚座敷のような部屋だった。
「とてもメキシコとは思えないな」
「きっと日系人の家ですよ。メキシコには百年以上前に日本から大勢移民が来てますから」
壁には床の間がある。床の間の脇には縁側に張り出した板張りの明書院が設けられ、縁側とのあいだに明り障子が立っている。家の者が食事をしたあとらしく、畳敷きの床に上がり膳が無造作に放置されている。
筒井は明り障子から外の様子を窺った。銭形警部が来る気配はない。アタッシュケースを開けた。札束がぎっしり詰まっている。タクシーの上がり高だ。
「いくらある」
「さっき言ったでしょう。四億五千万円」
「こんな大金を目にするのは初めてだ」
「金は恐ろしいですよ。大金に目がくらんで人生を棒に振る人は昔からいます。雲いかづちをさわがしたるためし、上がりたる世にはありけり――」
「また万葉集か」
「源氏物語です」
階段の上がり段をトントンと登って男が現れた。筒井と稲垣ははっとして身構えた。
「あんたたち、何者だ」
「あ、あの、べ、別に怪しい者ではありません」
筒井は咄嗟に言い繕ったが、開いたアタッシュケースからは札束が溢れんばかりで、傍らには真っ赤な制服に身を包んだ男がいるのだ、誰がどう見たって怪しい。
「何の用だ」
「あの、えーと、えーと……」
へどもどする筒井に代わって稲垣が応じた。
「幕府や藩に没収された上地の調査に来ました」
「幕府? いまは西暦二〇一六年だぞ」
「あ、そうですよね。間違えました。この御膳を片づけに来たんです。お粗末な料理を旦那様が上がり付いて下さって」
「粗末な料理って、これはわたしが自分で作ったんだ」
「失礼しました! 勘違いでした。逃亡した百姓の田地を没収してその村に所持させておく上がり田地を調べに来ました」
「わたしは百姓じゃない。不動産屋だ。それに上がり田地は江戸時代の話だろ」
サイレンの音が近づいてきた。主人は明り床の机に乗って外の様子を窺った。明り取りの窓から日光が畳を照らす。
「でまかせを言うにも程があるぞ」筒井はそっと稲垣に呟いた。
「うまくごまかせると思ったんですが。何の役にも立たない上がり鯰になってしまいました」
「このままだと不法侵入罪に問われる」
「ここがわたしたちの殯宮になるんでしょうか」
「アガリノミヤってなんだ」
「遺体の仮安置所」
「縁起でもないことを言うな」
筒井はアタッシュケースから札束をつかみ取り主人の手に無理やり握らせた。
「百万円あげます。かくまって下さい」
「警察に追われてるのか」
「無実なんです。濡れ衣を着せられたんです」
「どんな事情があるのか知らんが、金をもらえるなら承知した。風呂の上がり場に隠れなさい」
「ありがとう」
筒井はアタッシュケースを閉じて抱え、稲垣と風呂の脱衣場に身を潜めた。
「筒井さん、百万も渡すなんてひどい」
「背に腹はかえられないだろ」
「わたしの金ですよ」
「このままおめおめと捕まってもいいのか」
「いやです」
「なら黙って静かにしろ」
けたたましいサイレンの音が家の前でピタリと止まった。ドタドタと足音がして玄関の上がり端から大声が聞こえた。
「警察だ。誰かおらんか」
「はいはい、ちょっとお待ちを」
主人が何食わぬ顔で迎え出た。
「何のご用です」
「インターポールの銭形という者だが、筒井という男を探している。この顔に見覚えはないか」
銭形は身分証をちらりと見せたあと人相書きを示した。
「さあ、見かけませんなあ」
「家の前に赤いタクシーが停まっている。逃走用に使った車だ。この家に逃げこんだのは間違いない」
「立ち話もなんですので、奥へどうぞ」
主人は銭形と部下三人を客間に通し、「粗茶ですが」と上がり花に羊羹を添えて勧めた。壁に大きな布がかかっており、二房の藤の花を上向きにまるく抱き合わせた形の紋が染め抜いてある。
「立派な家ですなあ。その紋はお宅のですか」
「ええ。上がり藤と言います」
「相当の名家とお見受けするが」
「痩せても枯れても加賀百万石、前田家の末裔です」
主人はそっくり返って上がりまち、すなわちいばる姿勢を見せた。明り窓から朝日がさしこみ、床に散乱する白い小さな物体を照らした。
「これは何だ」
「繭です。揚り繭と言いまして、糸を繰る途中で繭層が壊れたり解舒がうまくいかなくなって繰糸鍋から取り外したものです」
「ほう、製糸業を営んでおるのか」
「糸だけに『いとなむ』。うまい! 座布団一枚」
「たわけたことを申すな」
「生糸は副業でして本業は不動産です。どうです、隣の空き地を買いませんか」
「そんな金はない」
「もうすぐ地価の上がり目です。買うならいまのうちですよ」
「土地には興味がない」
銭形が羊羹を食べ終わると主人は上がり者すなわち宮仕えする奴婢のようにうやうやしく上がり物の羊羹の皿を片づけた。
「奥の部屋を拝見したいが」
「どうぞ」
主人は先ほど筒井たちと出くわした部屋に銭形を案内した。
「薄暗いな。まるで牢屋だ」
「さすがお目が高い。江戸小伝馬町の牢屋、通称揚屋を忠実に再現して作りました」
「言われてみればこの家全体もどこか時代がかってるな」
「江戸時代に幕府や藩に没収された上り屋敷を移築して建てたんです」
脱衣場で息を殺していた稲垣がふと気づくと筒井がいない。あれ、おかしいなと風呂場を見ると筒井はいつの間にか素っ裸になって肩から上がり湯をかけている。
「筒井さん、何してるんですか」
「しばらく風呂に入ってなかったから」
「見つかったらどうするんです!」
「あ!」
筒井は足を滑らせて背中から倒れた。
「なんだ、いまの音は!」銭形が音のするほうに顔を向けて主人に訊ねた。
「なんでもありません……うちの従業員です。きっと上がりを請けたんでしょう」
「なんの話だ」
「地価が安い土地を買って値上がりしたときに売って差額を儲けることです」
「声が反響したぞ。風呂場ではないのか」
「あ、いえ、違います……」
耳聡い銭形は風呂場に向かった。筒井が隠れているのかどうか、いよいよ明かりを走る瀬戸際である。
ドタドタと走ってくる足音を耳にした筒井は素っ裸なのが恥ずかしくて頬が赤り、両手で股間を覆った。徐々に日が高く昇って明る風呂場から脱衣所の稲垣に小声で囁いた。
「服をくれ。おまえは裏口から逃げろ。俺はこの窓から外に出る」
二人は別々に散る、すなわちいったん別れることにした。筒井は稲垣からシャツとズボンを受けとると右手に握ったまま椅子を踏み台にして浴室の窓に上がった。稲垣は脱衣場からこっそり出て、足音が聞こえるのと反対方向に廊下を足早に進み裏口へ回った。筒井は窓によじ登り、腕に渾身の力をこめて体を外に押し出すと庇の上に出た。浴室の暗さに慣れた目には外の日射しが明るい。明るさに慣れてきたと同時に驚いた。しまった! ここは二階だ!
幅が五十センチくらいしかない狭い庇の上に立ち、筒井は落ちないように気をつけてシャツとズボンを身につけた。どうやって地上に降りればいいのか。
「おい、ルパン!――いや、筒井! あれ? 誰もいないぞ」
風呂場から銭形の声が聞こえる。筒井は進退窮まった。どうにかして下に降りねば――そうだ! 『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』でトム・クルーズが同じシチュエーションに陥ったのを思い出した。トムは緊急搬送された病院の部屋の窓から庇に出てズボンのベルトを輪にして電線に絡ませ、滑るように地上に降りたではないか。電線はないか、電線、電線――あった! 庇の端からおあつらえ向きに電線が一本、だらりと下に弧を描いて電信柱に繋がっている。筒井はすかさずズボンのベルトを抜きとり、鞭のように片方を放り投げて電線に絡ませ、戻ってきたベルトの先をつかまえてしっかり握り、ロープウェイのように電線をツツツーっと滑って着地した。
「筒井め、どこに逃げた」
銭形が二階の窓から顔を覗かせた。筒井が見上げると銭形と目が合った。
「あ、いた! ルパン!――いや、筒井!」
筒井は家のまわりをぐるっと回って玄関に向かった。一足先に来た稲垣は赤いタクシーの助手席に坐っていた。幸い銭形の部下たちは家の中だ。筒井は運転席に飛び乗りアクセルを思いきり踏んで急発進した。車を照らす日の光はいと明るし。
「やったぞ! 銭形のとっつぁんを出し抜いた!」
「一時はどうなることかと思いました」
祭祀の幣物に用いる美しい明妙のような赤い制服を着た稲垣が興奮して言った。
「よーし、このままメキシコシティーまでぶっ飛ばすぞ」
「無事に逃げられたのは阿加流比売神のおかげですよ、きっと」
「誰だ」
「新羅の女が日光を受けて生んだ赤玉が変身した女神です。古事記のエピソードですよ」
「古事記なんか読んだことがない」
「あなた、それでも小説家ですか」
「うるさい。しかし、これで安心だ。おい、金は持ってきただろうな」
「え?」
「アタッシュケース」
「あ!」
「どうした」
「……脱衣場に置き忘れました」
「なんだと!」
筒井はびっくり仰天してハンドルを切り損ね、タイヤが悲鳴を上げた。
「四億五千万円を忘れてきたのか」
「正確に言うと四億四千九百万円です。百万円は筒井さんが家の主人に渡したから」
「それじゃ……一文なしじゃないか!」
「慌てていたもので……」
「いまだから言うが、俺はさっきのレストランで無銭飲食する前に、エジプトで豪華客船をシージャックしたんだ」
「お尋ね者なんですか」
「だから銭形がしつこく追いかけてくるんだ。俺の犯罪歴が明るみに出たら俺は豚箱行きだ。あの金さえあればなんとかなったのに」
朝日は高く昇り、あたりはすっかり明るんだ。
「このまま一緒に旅を続けたらおまえも共犯者として逮捕されるぞ」
「勘弁して下さいよ。日本には妻も子もいるんです」
「メキシコシティーに着いたら別行動をとろう」
二人は散れ、すなわち別々になることに決めた。
「おまえは阿寒に行け」
「アカン? どこですか」
「北海道だ」
「ああ、阿寒湖ですか。阿寒湖は……あかん」
「なんで急に関西弁になるんや」
「せやかてあんたも大阪弁やろ。えらいすんまへんが北海道は遠慮させてもらいますわ」
「ええ所やで、北海道。阿寒国立公園いうてな、阿寒湖のほかにも屈斜路湖や摩周湖があるんや。貴重な原生林の宝庫やで」
「わて寒さに弱いんですわ。できればキツネノマゴ科の大型多年草アカンサスが咲く、あったかい南ヨーロッパにしてもらえまへんやろか」
「あかん」
「亜寒帯はきっついわあ。ほんま亜寒帯気候は苦手やねん。イタリアでもええやろ」
「あかん言うたらあかん」
筒井はあかんべをした。稲垣は赤ん坊のようにべそをかいた。
「なんで阿寒行かなあきまへんの?」
「向こうに叔父が住んでてな、叔父に頼めばパスポートや身分証を偽造してくれる」
「何者や、そのおっさん!」
「ここだけの話や。ええか、人に言うたらあかんで」
メキシコシティー国際空港に到着した。駐車場に空きがないので出発ロビー前に車を停め、筒井は叔父の連絡先を書いたメモを稲垣に渡した。
「すまないがこの車をしばらく貸してくれ。来年の秋までには必ず返す」
「それじゃわたしが商売できなくなる」
「叔父に事情を説明しろ。車の一台や二台簡単に手配してくれる」
「飽きが来て途中で乗り捨てたりしないで下さいよ」
「安心しろ」
「北海道なんて行きたくないなあ。安芸の宮島じゃダメですか」
「ダメだ」
「奈良県宇陀郡大字宇陀町の阿騎は?」
「くどい! その口に大辛螺を突っこむぞ」
「アキ?」
「赤螺だ」
「あんな固い貝を口に入れたら腭が外れてしまいます。どうせなら阿魏がいいな」
「アギってなんだ」
「セリ科の大型多年草です。イランやアフガニスタンが原産で生薬の原料です」
「つべこべ言ってないで、さっさと行け」
「これでお別れなんですね……おお、吾君……」
「気持ち悪いぞ」
稲垣は車を降りて出発ロビーの人混みに消えた。秋茜がフロントガラスをかすめて飛んだ。秋上がりの時節ならではの光景だ。稲垣の愚痴に飽き飽きした筒井は気分がせいせいした。今ごろ北海道は稲刈りが終わっているだろう。ひょっとすると不作で米価が高くなる秋上げに見舞われているかも知れない。北海道といえば地元の人は鮭のことをあきあじと呼ぶが、あれはアイヌ語だろうか。農家の人たちは「秋暑し」と挨拶を交わして秋袷を着こんでいるころだろう。それにしてもなんだか疲れた。どこか空家で休みたいなあ。寒くなってきた。仙台の秋保温泉で体を温めたいなあ。
――いやいや、暢気なことを言っている場合ではない。俺はウニベルサル書店で『アガニョーク』を買わねばならんのだ。筒井が助手席を見ると座席に稲垣のスマートフォンがある。こいつは助かる! スマホを置き忘れるとはそそっかしい男だ。筒井はメキシコシティーの古書店街を検索した。ウニベルサル書店の場所はすぐ判明した。エンジンを全開にして中心街に行き、スマホのナビゲーションに従って古本屋に到着した。
店の前に車を停めた。車から降りて玄関ドアのガラス越しに店内の様子を窺うと、店主とおぼしき年老いた商人が中年の女に頭を下げている。女は古書店街の顔役、商人司だろうか。
筒井はドアを開けて店に入った。レジの横の壁に秋になって使われなくなった秋扇が飾ってある。店主は女に平身低頭謝っている。
「秋収めが済んだら必ず払います」
「もう待てません」
「どうか秋惜しむ老人を哀れだと思ってしばらくの猶予を……」
「刈入れの直前に稲の生育が止まって収穫が急に減るのを秋落ちと呼ぶことくらい、あなたもご存じでしょ? 早くしないと冬の商いの支度をする秋買いに間に合わないのよ」
「お言葉ですが、あなたはいったん売買が済んだあと平気な顔で取引を取り消したり変更したりする」
「わたしがいつ商変をしたって言うの?」
「毎回じゃないですか」
「人聞きの悪いこと言わないでちょうだい」
口論は収まる様子がない。筒井は暇つぶしにスマホの待ち受け画面を見た。「秋柏潤和川辺の小竹の芽の人には忍び君に堪へなく――万葉集」。稲垣はどこまで万葉集が好きなんだ。店の外は秋風が吹き、中では店主と女のあいだに秋風が立った。
女は高飛車に宣告した。
「秋風に薄の穂の譬えもあるでしょ。長いものには巻かれたほうが身のためよ。もう一日だけ待ってあげる。明日こそ払ってもらいますからね」
女が店を出ると主人は「秋風の千江――」と呟いた。店内に琴のBGMが流れた。主人は筒井に声をかけた。
「何かお探しですか」
「ええ――この音楽は日本の琴ですか」
「はい。天保年間の初めごろ光崎検校が作曲した箏曲、秋風の曲です」
「いまの季節にぴったりだ」
「陰暦八月、秋風の月が題材ですから。でも毎日聴いてると厭き方になります」
店主は葉巻に火をつけて一服吸い、うまそうに煙を吹かして空き殻の缶に灰を落とし、葉巻を持った指で入口の外を指し示した。
「ショーウィンドーの横の木をご覧なさい」
「大きな木ですね。一メートルくらいある。葉っぱの裏が白いのがおもしろい」
「秋唐松です」
「メキシコにはよくあるんですか」
「日本から取り寄せました。東京の秋川に親戚がいましてね。いまはあきる野市と呼ぶそうですが」
「ご主人は日本のかたですか」
「日系三世です」
「道理で言葉が達者だ。ところで――立ち入ったことを聞くようですが、さっきの女性は……」
「これはとんだところをお見せしてしまいました。あれはこの商店街を仕切っているボスの妻です」
「ずいぶん偉そうな口をきいてましたけど」
「ボスは寝たきりで、あの女が所場代を徴収して回ってるんです。所場代だけじゃない。われわれ古本屋稼業は儲けが少ない。だからこの古書店街の連中はみんな副業で稲作をやってまして。まだ収穫が済んでないのに売上金を払えと迫るんです。で、払ったら払ったで『まだ金はもらってない』と商変をする。たまったもんじゃありませんよ」
「ひどい話だなあ」
店主は空き缶に灰をトントンと落とした。
「で、お客さんは何をお探しですか」
「雑誌なんですけど。『アガニョーク』というロシアの写真週刊誌」
「アガニョーク……」
店主の眼の奥がギラリと光った。
「あなた、本当に『アガニョーク』を?」
「ええ。何か問題でもあるんですか」
「ちょっとそこにいなさい」
店主は入口のガラス窓から用心深く外の様子を窺い誰も来ないのを確かめて「閉店」の札を下げ、ショーウィンドーにブラインドを下ろした。
「ここは人目につくから奥で話を聞きましょう。さあ、こちらへ」
筒井は店の奥に通された。奥は薄暗い住居で、小体なつくりだが壁には気の利いた絵が飾ってある。
「なんのお構いもできないが、まあ召し上がれ」
店主が差し出した白い皿には焼いたネギが載っていた。二本の茎が一枚の皮に包まれた秋葱である。ネギでもてなされるなんて初めてだ。筒井はとりあえず食った。思いきり噛むとネギは焼きたてで、芯から熱い汁がピュッと飛び出して喉の奥を火傷しそうになり、「熱っ! あふ、あふあふ」と七転八倒した。
「秋桐もあるよ。おひとついかが」
「アキギリ?」
「ご存じないかね。シソ科の多年草。秋草だよ」
「食べられるんですか」
「まあ、食べる人はいないな」
「じゃあ結構です」
筒井はハフハフ言いながらネギを食べた。「秋霧のたち別れぬる君により――」店主が和歌を吟じた。
「この歌をどう思うかね」
「お恥ずかしい次第ですが、和歌にはとんと暗いもので……」
「秋草の花が咲く時節の歌だが」
「秋口を歌ったんですね――あの、話の腰を折るようで恐縮ですが、『アガニョーク』を探しているんですが……」
本題を切り出した途端、店主は右手を背中に回してズボンの後ろに隠していたピストルを取り出し、銃口を筒井に向けた。筒井は咄嗟に両手をあげた。
「な、なんですか!」
「貴様、誰に雇われた?」
「誰にも雇われてません」
「噓をつけ!」
店主は拳銃の撃鉄を起こし、筒井の額に狙いを定めた。
「ロシアのスパイだな」
「違います」
「白々しい。『アガニョーク』に目をつけるやつはスパイに決まってる」
「ただの日本人です。小説家です」
「日本の小説家? 証明してみろ」
「え?」
「ふつうの日本人だという証拠を示せ」
「どうやって……」
「クイズに答えろ。山地に自生するグミ科の落葉低木、高さは約三メートル、葉は灰白色で銀色の細かい鱗があり、初夏に白い花をつけるがのちに黄色に変わる」
「わ、わかりません」
「秋胡頽子だ」
「見たことも聞いたこともない」
「さてはスパイだな」
「別の問題を出して下さい」
「よかろう。何も載せていない車。からぐるま。くうしゃとも言う」
「えーと、からっぽの車、からっぽの車……空き車?」
「正解。では鹿や熊の毛の、秋になって夏毛よりも色の濃く短くなったもの」
「秋毛?」
「正解。七月下旬ごろから以後、晩秋までに飼う蚕はなんだ」
「わからない……」
「秋蚕だ」
「ふつうの日本人は知りませんよ、そんな言葉」
「ではこれはどうだ。八月から十月までに施す肥料」
「お手上げです」
筒井は両手をあげたまま言った。
「ギャグのつもりか」
「とんでもない」
「正解は秋肥だ」
「問題が難しすぎます」
「じゃあ少しやさしいのにしてやろう。収納した稲を籾や玄米に処理する小屋」
「稲の小屋……稲小屋?」
「秋小屋だ。やはり貴様はロシアのスパイ!」
「違いますってば!」
「じゃあ秋に薪用として樹木を伐採すること、またその薪はなんと言う」
「まるで見当もつきません」
「秋樵だ」
「どうして農業関係の問題ばかりなんですか。わたしは小説家です。もっとふつうの日本人が知ってる言葉を聞いて下さい」
「では鳥の名前を答えろ。水鳥のアイサを万葉集ではなんと呼ぶ」
万葉集か。稲垣なら絶対知ってるはずだ。こんなときに稲垣がいてくれたら。筒井はズボンのポケットに稲垣のスマートフォンがあるのを思い出した。左手をゆっくり下ろしてポケットに入れた。
「動くな!」
「武器ではありません。スマホです」
「どうする気だ」
「友人に相談させて下さい」
「人を頼りにするつもりか」
「でも『クイズ$ミリオネア』では困ったときに知人に電話をかけてもいいルールがありましたよ」
「『クイズ$ミリオネア』か。懐かしいな。大好きな番組だ。よかろう、ただし一度だけだぞ」
筒井はスマホで電話をかけようとしてはたと気づいた。俺があいつのスマホを持ってる。ということは、あいつの手もとにはスマホがない。電話がかけられないじゃないか。どうしよう――そうだ! 検索すればいい! 筒井は電話をかけるふりをしてグーグルに接続し「アイサ 万葉集 古名」で検索した。答えはすぐに見つかった。
「秋沙だ」
「よくわかったな。では秋に栽培または成熟する作物はなんだ」
筒井は両手をあげたまま左手で検索した。
「秋作だ」
「クソ、こしゃくなやつめ。では最後の問題だ。花の形が桜に似ていることからコスモスを別の名前でなんと呼ぶ」
今度はネットで調べるまでもなかった。
「秋桜だ」
店主は拳銃を構えた腕を下ろした。
「どうやらロシアのスパイではなさそうだな」
「だから最初からただの日本人だと言ってるじゃないですか」
「ただの、ただのって……そういえば『文学部唯野教授』という小説が大好きなんだが、ご存じかな。作者は筒井康隆」
「わたしです」
「え?」
「わたしが筒井康隆です」
今度は店主がびっくり仰天した。
「なぜ最初に名乗ってくれなかったんですか」
「名乗るほどの者ではないので」
「とんでもない! あなたの小説はぜんぶ読みましたよ。最新作『モナドの領域』もいま読んでいるところです」
「メキシコに読者がいるとは夢にも思いませんでした」
「帯に『わが最高傑作にして、おそらく最後の長篇』と書いてありますけど、もっと小説を書いて下さい」
「いや、もうこれが最後です」
「そんなこと言わずに。そうそう、あれをお探しでしたね」
店主は再び筒井を店の売場に案内し、本棚からソ連の写真週刊誌『アガニョーク』を引き抜いて手渡した。
「これだ! これが欲しかったんです。おいくらですか?」
「金なら要りませんよ」
「でもタダというわけには……」
「もちろん、ふつうの客なら金を払ってもらいますよ、売り物ですから。金の持ち合わせがない人なら手付金というか内金としていくらか贉してもらう。でも筒井さんなら喜んで差し上げます」
「本当によろしいんですか」
「もちろん。あ、よかったら秋鯖を召し上がりませんか」
有名人のファンというものは本人に会うとやたらに興奮してはしゃぐものである。店主は筒井の手をとって無理やり家の奥へ招き入れ、ダイニングテーブルに坐らせて焼き魚を振る舞った。秋さびた季節に脂の乗ったサバの塩焼は滅法うまい。秋方の秋寒に身を震わせて魚を頬張りながら窓の外を見るといつの間にか秋雨がしとしと降り始めた。
「メキシコにも秋雨前線があるんですね」
「ええ。だいたい六月から九月が雨気で、十月から五月が乾期ですが、今年は雨が長引いてます」
店主は秋になって着る秋さり衣を羽織た。隣の部屋から十四五歳の女の子が顔を出した。
「パパ、お客さん?」
「そうだよ」
「いらっしゃいませ」
「お邪魔してます」
娘ですよ、と店主が紹介した。
「いつも内職の機織りをさせているんです。我が家では秋さり姫と呼んでます」
「アキサリヒメ?」
「ご存じない? 棚機つ女とも呼びますな。はたを織る女のことですよ」
娘は部屋に引っこみ、機織り機のバッタンバッタンという音が聞こえてきた。
「秋さると言いますか秋ざれと言いますか、一年のちょうどいまごろ、京都や和歌山、高知のあたりでは秋師が大忙しでしょうなあ」
「アキシ?」
「刈入れの雇い人ですよ」
店主の眼がやぶにらみになった。
「野には秋しくの花が咲き乱れているでしょうなあ」
「アキシクノハナ?」
筒井が首を傾げると店主はがばっと立ち上がってピストルを構えた。
「やっぱりスパイだな!」
「とんでもない」
「筒井康隆ほどの作家ならこのくらいの言葉はぜんぶ知ってるはずだ。そこを動くな!」
店主は筒井の顔に狙いを定めたまま左手で電話の受話器をとりプッシュボタンを押した。
「警察ですか? スパイを見つけました。ええ、いま家にいます。こちらの住所は――」
筒井は咄嗟に身をかがめ、脱兎の勢いでダイニングを飛び出した。「あ、待て!」店主は左手に受話器を持ったまま右手で拳銃を撃った。銃弾は筒井の頬をかすめた。玄関のドアに体当たりして外に出た筒井は店の前に停めておいた真っ赤なタクシーに飛び乗り闇雲に車を発進させた。秋時雨がフロントガラスを濡らす。店の前からパンパンと拳銃の発射音が聞こえた。ルームミラーで後方を確認すると店主は撃つのを諦めて呆然と立ちつくしている。からくも一命をとりとめた筒井はほっとしたのも束の間、「あ!」と叫んだ。
「『アガニョーク』を忘れた!」
大切な写真週刊誌を買い損なってしまった。まさに商誤である。しかしいまさら店には戻れない。となると、あとはメキシコ国立自治大学の図書館に行くしかない。
メキシコシティーから八十五号線を南下して三十分ほどでメキシコ国立自治大学に着いた。駐車場に車を停め、図書館に向かって駆け出した筒井を女の声が呼び止めた。
「あの、すいません」
「何ですか」
「日本のかたですか」
「そうですけど」
「よかった! 藪から棒で恐れ入りますが、秋篠に連れて行って下さいませんか」
女は淡いブルーのツーピースに白い帽子をかぶり、立ち居振る舞いがどことなくやんごとない。
「秋篠? どこですか」
「奈良市北西部です」
「どうして奈良へ」
「藤原良経の自撰家集秋篠月清集についてレポートを書かなくてはならないのです」
「本なら図書館で探せばいいでしょう」
「普及版はあるのですが、どうしても原本を確認しなくてはならなくて。原本は秋篠寺にあるのです」
「奈良ですか」
「ええ。奈良市秋篠町です。真言宗と浄土宗のお寺です」
「留学生ですか」
「はい。――申し遅れました。わたくし、秋篠宮佐子と申します」
「秋篠宮って、まさか皇室の……」
「はい。姉が二人おります。上が眞子、下が佳子」
「あれ? 三人姉妹だったかなあ。ひょっとして弟さんもいますか」
「はい。悠仁と申します。連れて行って下さいませんか」
「でも皇室のかたなら大手を振って帰国なされば……」
「父と母には内緒にしたいのです。レポートの締切は来週で、提出が遅れると落第してしまうのです」
「失礼ですが――本当に秋篠宮のお嬢さんですか」
「疑っていらっしゃるのですね。これをご覧下さい」
女はハンドバッグを見せた。留め金に秋蕊の花すなわち菊のご紋がかたどってある。
「これはこれは、大変失礼しました」
「ところであなたはこちらの大学の先生……」
「いいえ、旅の者です。筒井と申します。ちょっと図書館に用事がありまして」
「何かお勉強ですか」
「勉強ではないのですが。ロシアの写真週刊誌『アガニョーク』を借りに」
「貸出カードはお持ちなの?」
「いいえ」
「では、わたくしが借りてきて差し上げましょう」
「よろしいんですか」
「ええ。ちょっとここでお待ち下さい。十五分くらいで戻ります」
佐子さまは図書館の中に消えた。筒井は入口の前で待った。きっかり十五分後に佐子さまは雑誌を携えて出てきた。
「これでよろしいかしら」
「これです! 助かりました」
「では日本に連れて行って下さいますね」
「ええ、喜んで」
筒井は佐子さまを赤いタクシーに乗せてメキシコシティー国際空港に行った。
「恥ずかしながら一文なしで、航空券を買うお金が……」
「ご心配には及びません。お金ならいくらでもあります」
佐子さまはハンドバッグからアメリカン・エキスプレスのゴールドカードを取り出してユナイテッド航空のサンフランシスコ経由関西国際空港行きのチケットを二枚買い、二人は即座に飛行機に乗った。飛行機は定刻に離陸した。
「しかし夢のようだなあ、皇室のかたと旅ができるなんて」
「こちらこそ無理なお願いをきいて下さってありがとうございます。昭島に別荘がございますので、一度遊びにいらして下さい」
「昭島というと、東京の……」
「ええ。立川市の西です。今ごろは近所の農家の皆さんが秋仕舞の最中のはず。天気がよければ収穫が早く済みますが、秋湿りに見舞われると作業が進まないので気の毒です」
「考えてみればお百姓さんは苦労が絶えない仕事ですね。自然を相手にする商売ですから。わたしなんか厭き性なので、とてもつとまりません」
「でも秋知草を眺めながら刈入れをするのは楽しいと思いますよ」
「アキシリグサ?」
「萩です」
「風流な呼び名をご存じですね。さすがは皇室のかただ」
「植物図鑑の明き白に書いてあったのを覚えていただけです」
「アキシロ?」
「下々のかたは余白と言うそうですね」
「いやあ、これは恐れ入りました」
「でも収穫の時期は空き巣の被害が多いそうです」
「そうか。一家総出で畑仕事となると家は空っぽですもんね」
「ええ」
飛行機はサンフランシスコに到着し、二人は関西国際空港行きのユナイテッド航空便に乗り換えた。乗客はほぼ全員日本人で、なぜかみんな東北弁をしゃべっている。
「ああ、やっと秋津の国に帰れるのね」
「え?」
「秋津国ですよ」
「どこです」
「あらいやだ。筒井さんは日本人でしょう? なのにご存じないの? 大和の国をむかしは秋津洲とか秋津島根と呼んだのですよ。アキズはトンボのことです」
「いやはや、ものを知らなくて穴があったら入りたいくらいです」
「秋涼し秋津を知らぬ旅人と秋津根に行く旅の空かな」
「すらすらと和歌を詠めるなんてさすがですなあ」
「いえいえ、いつも和歌や俳句のことばかり考えてぼーっと過ごしているものですから、メキシコの下宿先では空巣狙いに目をつけられてばかりいるんです」
「ところで関西国際空港に着いたら奈良へ直行すればよろしいですか」
「はい。もし時間があれば秋津野も訪ねてみたいと思います」
「アキズノ?」
「奈良県の、古代の吉野離宮があった野です。萩や呼子鳥の名所でございますよ」
「やはりトンボと関係のある地名なのですか」
「ええ。トンボの美しい羽を蜻蛉羽と言います。それに似た女性ものの薄くて美しい肩掛けを蜻蛉領巾と呼びます」
飛行機が着陸態勢に入った。筒井は窓の外を見下ろした。秋澄む日本の懐かしい風景が眼下に広がる。滑走路に降りた機体がゲートに到着して停まると秋蝉の鳴き声が聞こえた。空は抜けるような秋空で、空港の周囲は半分ほど稲刈が終わった秋田が広がっている。関西国際空港は海上に建設されたはずだ。どうも様子がおかしい。筒井と佐子さまがタラップを降りると、そこは秋田空港だった。
到着ロビーに入ると男がやって来て筒井に声をかけた。
「秋田さんですか」
「いいえ、筒井です」
「失礼しました。人違いでした」
なぜ秋田に着いてしまったのだろう。奈良へはどうやって行けばいいのか。考えあぐねていると「ちょっとおトイレへ」と佐子さまが用を足しに行った。
筒井は土産物売場を覗いた。収穫されたばかりの秋大根が店先に山積みで、風呂吹き大根が食べたいなあと思った刹那、ワンワンワンと足下で大きな秋田犬が吠えかかった。犬を避けて売店の奥に行くと小さな本屋があり、棚を眺めると『埋れた春 国境の夜』という題の単行本が目にとまった。聞いたことのないタイトルだ。秋田雨雀という作者の名前も聞き覚えがない。表紙をめくった袖のところに作家の略歴が載っている。
「劇作家・小説家。本名、徳三。青森県生れ。早大卒。島村抱月に師事、のち社会主義運動に参加」
島村抱月なら知ってるぞ。女優松井須磨子と芸術座を旗揚げした。須磨子は島村が死んだ直後に後追い自殺したのだ。ドラマチックな人生だなあ。俺も誰かが後追い自殺してくれたら文学史に名を残せるのだがなあ――くだらないことを考えていると「絹織物いらねがー」と秋田おばこが秋田織をひらひらさせて「コラ秋田よいとこ名物たくさん 東北一番だ 金山木山に花咲く公園 美人が舞い踊る」と秋田音頭を歌いながら店内を売り歩き始めた。
「今年は稲が不作だべ」
「んだ」
「んだがら米の値段が高ぐなってしまうべ」
「あえー、すかだねごど」
地元の男たちが秋高を憂えている。
「頭さくるな。秋田貝に商売替えするべが?」
「ホタテガイか? 百姓に漁業は無理だべ」
「秋高し銭っこ失うどん百姓」
「俳句がー。あんだ百姓のくせに学問あるなあ。たいしたたまげだ」
世間話をしている男たちの傍らの平棚に記念メダルのような硬貨がある。説明書きを読むと江戸時代に秋田藩で鋳造した秋田銀のレプリカだった。本物の古銭なら価値があるだろうにレプリカなんか買う人がいるのだろうか。
筒井が売店を出るとまたしても秋田犬がウーと唸ってワンワンワンと吠えかかった。びっくりして後ずさりしたが犬は吠え続け、筒井が左手に握っていたロシアの写真週刊誌『アガニョーク』に噛みついた。
「あ! 放せ! このバカ犬!」
筒井は両手で雑誌をぐいぐい引っぱったが犬は食らいついて放さず、とうとう筒井の腕から奪い取り、めったやたらに噛みついてズタズタに千切ってしまった。
さんざん苦労して手に入れたレイチェルへの手土産が紙屑になってしまった。なにか代わりになる品はないだろうか。あきたこまちはどうだろう。いや、国際労働機関に勤めるアメリカ人職員に米なんか贈っても喜ぶわけがない。ああ、面倒くさい。土産を探すのは飽きたし。
ズボンのポケットに入れておいたスマホの着信音が鳴った。電話だ。誰だろう。
「もしもし」
「あ、筒井さん!」
「どなたですか」
「稲垣です」
「稲垣!」
筒井は驚いて大声を出した。
「無事だったのか」
「ええ、阿寒湖に着きました。メキシコでタクシーの助手席にスマホを置き忘れちやって」
「そうだよ。俺がちゃんと持ってる」
「あーよかった」
「で、そっちの様子はどうだ? 叔父とは会えたか?」
「会うには会えたんですが、二人とも逮捕されてしまいました」
「逮捕? 容疑はなんだ?」
「秋田事件です」
「秋田事件?」
「明治四十一年五月に秋田県の自由民権運動団体である立志会が資金調達のために強盗をし、さらに六月近在の官庁や豪農等の襲撃を計画したが発覚し、検挙された事件です。自由民権運動最初の政府転覆計画だそうです」
「そんなむかしの事件をなんでいまごろ」
「わたしもさっぱりわけがわからなくて――あ!」
「どうした? もしもし? もしもし!」
通話は突然切れた。
「お待たせしました」
佐子さまがトイレから戻ってきた。青いツーピースに白い帽子をかぶっていたのに栗色の地味なワンピースに着替え、帽子はかぶらず長い髪が背中の上まで伸びている。筒井はスマホを片手に呆然と立ちつくしていた。
「どうかなさいましたか」
「いえ、ちょっと考え事を」
「まあ、秋田春慶だわ」
「誰?」
「いいえ、人ではなくて、これですよ」
佐子さまは琥珀色の漆器を指さした。
「能代の名産品なの。能代塗とも言います」
「よくご存じですね。――さてと、奈良へはどうやって行けばいいのかなあ」
「そうでした! でもどうして秋田に来てしまったのでしょう?」
「わたしもさっきからそれを考えてるんですが、まったくわからない」
「秋田城の遺跡を見学する時間はなさそうですね」
「秋田にも城が?」
「ええ、奈良平安時代に。今は土塁の一部しか残っていないそうですが。平安後期からは秋田城介という長官が代々城を守ったそうです――秋田にはたしか新幹線があったと思うのですが」
「ありますね、秋田新幹線」
「JRの駅までタクシーで参りましょう。支払はわたくしが」
二人はタクシーに乗った。
「JRの秋田駅まで」
「合点承知之助」
運転手はなぜか上機嫌で「キタカサイサイ」と秋田甚句を歌い通しで、歌の合間に「あの林は秋田杉だ」だの「運賃は江戸時代の秋田銭で払わねえでくんろ」だの「あれは秋田大学だ。秋立つころは学園祭で大賑わいだ」などと、とにかくやかましい。
JR秋田駅でタクシーを降り構内に入ると売店は不況のせいか空き店が目立つ。客もいないのに土産物屋の主人がニヤニヤ笑っているさまは絵に描いたような空き店の恵比須だ。赤茶色の絹織物秋田八丈の隣に茎の長さが二メートル近くある秋田蕗が乱雑に積まれ、壁にかかった秋田蘭画の画幅は埃まみれで、どこを見ても眺めはいたって寒々しい。
筒井と佐子さまは盛岡行きの秋田新幹線に乗り、座席に腰を下ろすと間もなく発車した。
「飽き足りねえなあ」
「なんで飽き足らねえんだ」
「窓の外、空き地しかねえべ」
後ろの座席で男がぼやいている。
「秋近し後ろは何を言う人ぞ」
「まあ筒井さん、俳句を嗜むの?」
「いえいえ、嗜むなんて滅相もない」
「でも『秋近し』は夏の終わりだからちょっと季節外れね」
「ですよね」
「窓の外をご覧なさい。もう秋遅草が咲いている」
「アキチグサ?」
「萩のことです」
「情緒のある呼び名ですね」
「ほら、あそこには秋丁字が。葉と茎は香料に使うんですよ。あ、秋津が飛んでる」
「トンボですか」
「そろそろ秋入梅の時期ですね」
「もしかして……秋雨のことですか」
「ええ」
「皇室の皆さんはふだんから風流な言葉づかいをなさるんですか」
「はい。なにぶん祖父が現つ神ですので」
「アキツカミ?」
「現人神」
「ああ、はい、そうですよね……」
現人神とは恐れ入った。天皇が人間宣言して今年でちょうど七十年になるが、佐子さまはいまでも親を神として敬っているらしい。ということは、自分を女神と思っているのだろうか。
「ところで筒井さん、ご職業は?」
「小説家です」
「まあ! 文学者だったのね」
「文学者だなんて大それたものではありません。しがない三文文士です」
「最近はどんな小説を?」
「つい先日『モナドの領域』という長篇を出しました。最後の長篇小説です」
「引退なさるんですか」
「いいえ、長篇はこれで終わりにしたいというだけで。短篇は書くつもりです。福岡県甘木市北部の秋月を舞台にした作品を書いてみようかと」
「秋月といえば明治九年に旧秋月藩士の不平士族たちが神風連に応じて起こした秋月の乱で有名ですね」
「よくご存じですねえ」
筒井は舌を巻いた。
「秋づくころの福岡はさぞ美しいでしょうね。赤や黄色に色づいた秋つ葉が鮮やかで」
「構想は練ってあるんですが、飽きっぽい性格なので実際に書けるかどうか」
「ぜひお書きなさい! ご本が出たら現津御神にも読ませますわ」
「ものを知らなくてお恥ずかしい限りですが、アキツミカミとおっしゃいますと……」
「現人神です」
「もったいないお言葉です!」
「年が明けたら両親とアキテーヌに旅行に参りますので、あちらで『モナドの領域』を読ませていただきますわ」
「アキテーヌ?」
佐子さまは膝の上のハンドバッグに右手を置いたまま、明き手で窓の外を指さした。
「フランス南西部の盆地平野です。中心都市はボルドー」
筒井が窓の外を見ると沿線の田畑が半ば水没している。秋の洪水すなわち秋出水の被害に遭ったのだろうか。農家は大変だな。それにひきかえ皇室の人はフランスでバカンスを楽しむとは優雅な暮らしだ。筒井は身分の差を思い知らされて顎門を撫でさすった。
「あばば、ばぶー」
通路を挟んで隣の座席に坐っている女に抱かれた赤ん坊があぎとうすなわち片言を言うのが聞こえた。「辛抱しろ、もうすぐ着ぐがら」あやす女は稲刈りがすんで実家へ泊りに行く秋泊りだろうか。女の後ろの座席には商いを終えたらしい行商人の老婆が商い神に感謝の祈りを捧げ、売れ残った野菜を両手に抱えて筒井の横にやってきて「かぼちゃ買わねが。安ぐすべ」と商い口をきいた。
「結構です」
筒井が断ると老婆はキョロキョロあたりを見回し、いつもよく買ってくれる商い旦那をめざとく見つけて立ち去った。店に出て仕事をする商い手代とは違って商品を担いで売り歩くのはさぞ骨の折れることだろうと筒井は思った。
「商いは牛の涎と申しますね」佐子さまが呟いた。
「諺ですか」
「ええ。商売は牛のよだれが細く長く垂れるように気長に辛抱してやりなさいと」
「わたしなんか気が短いからとてもつとまらないなあ」
「商いは草の種とも言いますね」
「草の種?」
「商売にはいろいろな種類があるということです。でも新幹線に行商人が乗ってるなんて驚きました」
「秋田新幹線は山形新幹線と同じ在来線なんです。新幹線というのは通称にすぎません」
「まあ、そうなんですか。ちっとも知りませんでした」
筒井は初めて佐子さまに感心されて鼻高々である。
「年が明けたら商い初めの行商人でごった返すと思いますよ」
お得意様にかぼちゃを買ってもらった老婆が商い拍子の余勢を駆ってほかの客に次々と野菜を売りこんでいる。盛岡に着いたら小さな商い船に乗って船頭を相手に売りつけそうな勢いだ。老婆はつくづく商い冥加のおかげだ、商い冥利に尽きるといった面持ちで「ありがてえ、ありがてえ」と客に何度も頭を下げては如才なく次の客に商い物を見せる。老いても口八丁手八丁、商い屋を一軒構えてもじゅうぶん商えるだろうと筒井には思われた。
「秋茄子買わねが。秋茄子買わねが」
老婆の売り声が車内に響いた。
「秋茄子嫁に食わすな」佐子さまがぽつりと言った。
「よく聞く諺だけど意味がわからない」
「むかしから諸説あるそうですよ。秋茄子は体を冷やすからいけないとか、種が少ないので子種がないと困るからとか。でも最近はこんなにおいしいものを憎い嫁に食べさせるのはもったいないという意味で使いますね。――まあ、あの山、安伎奈の山にそっくり」
佐子さまは感に堪えない様子で窓の外を指さした。
「アキナって中森明菜ですか?」
「まあご冗談を。神奈川の足柄の近くにある山ですよ。田んぼは稲刈の真っ最中ね。秋成の準備をしているのね」
「アキナリ?」
「秋に納入する田の年貢です」
「いまでも年貢を納める地域があるとは……」
前の車両のドアが開き、眼の大きい角刈の男と眼鏡をかけた女がつかつかと歩み寄って筒井の横に立った。男は筒井の顔を覗きこんで言った。
「おくつろぎのところ恐れ入りますが、少々伺いたいことがございまして」
「なんですか」
「わたしはメキシコシティー警察のアギナルド警部と申します」
「アギナルド?」
「はい。フィリピン革命の指導者エミリオ・アギナルドの孫です」
男は警察手帳を提示した。筒井は受けとって手帳をあらためると表紙には古代インドのヴェーダの火神阿耆尼とニレ科の落葉高木秋楡がかたどってある。
「わたしは――」
女が名乗った。
「警部補のコラソン・アキノです」
「コラソン・アキノ? フィリピンの元大統領の?」
「ええ、わたしは娘です。母と同じ名前ですが」
「つかぬ事を伺いますが――」
アギナルドが人相書を筒井の鼻先に広げた。
「この女性に見覚えはありませんか」
筒井は人相書を見て驚いた。白い帽子をかぶった青いツーピースの女。まさしく佐子さまである。
「この人がどうかしたんですか」
「じつは数日前メキシコ国立自治大学の図書館で窃盗事件が発生しました。『アガニョーク』というロシアの写真週刊誌なんですが、貸出禁止にもかかわらず盗まれたのです。その容疑者がこの女です。名前は峰不二子」
筒井は思わず隣席の佐子さまを見た。佐子さまは体をこわばらせてじっとしている。
「峰不二子?」
「はい。世界を股にかける女泥棒です。失礼ですが、お隣の女性は――」
縮こまっていた佐子さまは急に晴れやかな笑顔で警部に答えた。
「この人の妻です。筒井佐子と申します」
「どことなく峰不二子に似ているようですが……」
「あら、そう? でも服装も髪型も化粧もまるで違うじゃない」
「うーん、言われてみればたしかに……」
「すみませんが、疲れてるので少し眠りたいの」
「あ、これはお休みのところたいへん失礼いたしました。えーと、旦那さんは筒井さんとおっしゃいましたね」
「ええ」
「もしこの女を見かけたらメキシコシティー警察にご一報下さい」
「わかりました」
筒井が返事をするとアギナルドとコラソンは後ろの車両に消えた。窓の外にはいつの間にか秋の雨が降り始めていた。
筒井は佐子さまの顔をまじまじと見た。佐子さまは長唄の秋の色種をフンフンと鼻歌で歌いながら立ち上がり、茶色いワンピースを裾からたくし上げてパッと脱ぎ捨てると胸元まで深い切れこみのあるピンク色のワンピース姿に変わり、顎の下に手をやって顔面のマスクを剥がすと豊かなウェーブを描いた長い髪が背中の真ん中までふわりと垂れ、真っ赤な口紅に鋭い目つきの女に変身した。
「おまえは……『ルパン三世』の峰不二子!」
「そうよ」
不二子は再び顎の下に手をやり小さな黒い装置を外して掌の上で転がした。すると今までの落ちついたやんごとない声が増山江威子の声に変わった。
「秋篠宮佐子さまというのは嘘だったのか!」
「あたりまえじゃない。秋篠宮に三女はいないわ」
「その黒い装置は……?」
「ボイスチェンジャーよ」
「ボイスチェンジャー?」
「声を自由自在に変えられるの」
「さすが天下の大泥棒……」
「つまらないこと言ってないで、秋の鰻攫みをもらってきて」
「え?」
「あそこ、斜め前に坐ってる人が持ってるでしょ、白い小さな花が咲いたタデ科の一年草」
「なんで?」
「欲しいからよ! さあ、早く!」
筒井は立ち上がって斜め前の座席に行き、平身低頭して草を一束分けてもらった。
「ありがとう。あーあ、わたしは秋の扇だわ」
「え?」
「寵愛の衰えた女のことよ。ルパンにふられてばっかり」
「逆じゃないの? 俺はてっきりおまえがいつもルパンをふってると思ってた」
「あら、松茸のいい香り! まさに秋の香ね」
「誰かが駅弁を食べてるんだろう」
「もらってきて」
「なんで?」
「おなかが空いたからよ!」
筒井は後ろの座席に坐っていた男に何度も頭を下げて松茸弁当をもらった。不二子はぱくぱく食べながら顔のまわりを右手で扇いだ。
「あーしつこい! 秋の蚊! 殺して」
「え?」
「蚊を殺しなさい」
「なんで?」
「うっとうしいからよ! それともバズーカ砲でこの車両ごと吹っ飛ばされたい?」
「やめてくれ」
筒井は両手をパチンパチンと打ちつけて不二子にまとわりつく蚊を叩き殺した。
「来年の明の方はどっち?」
「え?」
「あなた『え?』しか言えないの?」
「いや、なんの話かわからなくて……」
「恵方よ」
「恵方って恵方巻の?」
「そうよ。どっち?」
「急に言われても……北かなあ、南かなあ……」
「わからないなら『わからない』と言いなさい!」
「わかりません」
「まあ、清らかな秋の川」
不二子は窓の外を眺めて言った。
「こういう景色を見ると二世吉田検校が作曲した箏曲秋の曲が聴きたくなるわ」
「いきなり言われても琴なんか持ってないしCDもないし……」
「誰も頼んでないわよ! ただ言ってみただけ。あそこに秋の麒麟草が咲いてるわ。秋の雲が美しい。もうすぐ秋の暮れね。風の音に秋の声を感じるわ」
「泥棒も秋の心を感じるんだな」
「馬鹿にしないでちょうだい。わたしの変装にころっと騙されたくせに。あなたのような人を秋の鹿は笛に寄るって言うのよ」
「聞いたことがないな、そんな諺」
「秋の牝鹿と牡鹿は互いに求め合う気持ちが強いでしょ? だから鹿笛にだまされて簡単に寄ってくるのよ。弱点に乗じられやすいってこと。ルパンと同じ」
筒井は通路に逃れようと腰を浮かせた。すると脇腹に鋭い刃物のようなものが突きつけられた。
「動かないで。逃げようとしても無駄よ。さっきの警官に通報するつもりでしょ」
「あ、いや……」
「動いたらこの秋の霜を横っ腹にずぶりとお見舞いするわよ」
「アキノシモ?」
「よく切れる刀のこと。あなた、なんにも知らないのね」
筒井は観念して座席に坐り直した。
「これからどうするつもりだ」
「奈良の秋篠寺に行くわ。メキシコで言ったでしょ」
「狙いはなんだ」
「秋の除目よ。あなたにはなんのことだかわからないでしょうけど。司召の除目とも言って、平安中期以後に京官を任命する儀式が行なわれたの。それが千年ぶりに復活するのよ。儀式にはお寺の財宝を使う。それを頂くってわけ」
車内に雅楽の秋の調べが流れ、「間もなく盛岡に到着します」と車掌がアナウンスした。窓の外は秋の蝉が秋の空高く飛び回っている。淡い紫色の花は秋の田村草だろうか。
「ねえ? こうやって一緒に肩を並べているとまるで秋の契りみたいじゃない?」
「秋の契りって、ひょっとして織姫と彦星のことか」
「ええ。ちょっとロマンチックじゃない?」
「俺は泥棒の片棒を担ぐのはごめんだ」
「そうなの? じゃあ死んでもらうわ。計画をぜんぶ聞かれた以上生かしておくわけにはいかない」
「あーごめんなさい! 嘘です! なんでもします!」
「聞き分けのいい子ね」
不二子はニヤリと笑った。
筒井は怖気をふるった。不二子は誰が見ても美女である。脚を組み直すたびにピンクのワンピースがふわりと翻るさまはさながら秋の蝶だ。これほどの美女が大泥棒で、しかも俺を共犯者に仕立てようとしている。何の因果でこんな羽目に陥ったのだろう。俺は静かな暮らしをしたいのに。秋の隣、夏の終わりには阿寒湖に住む叔父の家を訪ねて縁側に腰かけ、庭の秋の七草を眺めながら一月遅れの秋の七日すなわち七夕を祝い、秋の野芥子を愛でつつ、過ぎ去った秋の初月を追想するのが老後の夢だった。庭に咲きこぼれる秋の花を鑑賞しながら秋の日を浴びて加藤暁台の俳諧集『秋の日』を読む。湖畔には秋の灯がともり、秋の日は釣瓶落しでたちまち暮れ、秋の二夜すなわち九月十三夜の月を眺める――こんな暮らしをするのが夢だった。なのに俺はなぜか秋田新幹線の座席に坐り、隣には峰不二子がいて俺の横っ腹に刀を突きつけている。
「来年の明の方はどっち?」
「え?」
「恵方よ。さっきも訊いたでしょ。どっちなの?」
「えーと、えーと……」
困り果てた筒井はズボンのポケットに稲垣のスマートフォンがあるのを思い出した。スマホで検索すればいい。
「来年は……二〇一七年だよね?」
「なに馬鹿なこと言ってるの? 二〇一六年よ」
「あれ? 二〇一六年は今年じゃなかった?」
「あなた寝ぼけてるの?」
おかしいぞ。たしか連載第四十九回、メキシコのレストランで店主が「いまは西暦二〇一六年」と言ったはずだ。店主は嘘をついたのだろうか。
「たしか今年は二〇一六年だと思うけど……」
「二〇一五年よ! わたしを信じないの?」
「……信じます」
「よろしい。では、さっさと調べなさい」
筒井は半信半疑でスマホを操り「二〇一六年 恵方」で検索した。
「南南東だ」
「ありがとう」
「でも、どうして恵方を気にするの?」
「泥棒稼業も縁起を担ぐのよ。鬼門には絶対近づかないの」
窓の外が急に明るくなった。秋の水のように澄みわたった空が広がる。
「そのスマホで秋の宮に電話かけてくれない?」
「秋の宮って誰?」
「皇后陛下に決まってるでしょ!」
「皇后の電話番号なんか知らないよ」
「スマホで宮内庁の番号を調べればいいでしょ」
筒井はスマホで検索した。
「番号はわかったけど……用件は?」
「イライラするわね! 貸して」
不二子はスマホを奪い取り宮内庁に電話を書けた。
「もしもし? 宮内庁ですか? わたくし筒井佐子と申しますが――」
「俺の名前を出すな!」
「うるさいわね、黙ってなさい!――もしもし? あ、失礼しました。皇后陛下に伝言をお願いしたいのですが。ええ、こう伝えて下さい。『秋の夜、皇居宮殿のお宝を頂戴する。ヒントは秋夜長物語』。ではよろしく」
不二子は電話を切りスマホを筒井に返した。
「皇居に忍びこむつもりか」
「そうよ」
「いまのメッセージの意味は?」
「意味なんかないわ」
「なんで俺の名前を出したんだ」
「そのほうがいろいろ都合がいいのよ」
「奈良に行くんじゃないのか」
「途中で東京に寄るわ」
新幹線は盛岡に到着した。筒井と不二子は東京行きの東北新幹線はやぶさに乗り換えた。車内は秋場の行楽客でごった返している。列車が滑るように走り出すと沿線に秋萩が生い茂っているのが見えた。平安中期の和歌集『秋萩帖』はこんな景色を歌ったものかと思われた。
「秋萩の――」
不二子が呟いた。
「ほら、さっさと続きを言いなさい」
「え?」
「枕詞よ。『秋萩の』は『うつる』か『しなふ』にかかる枕詞でしょ」
「和歌はチンプンカンプンで……」
「あなたそれでも小説家?」
「お恥ずかしい」
「学がないわねえ。大相撲の秋場所でも見て喜んでいればいいわ――あら? こんなところに秋葉様のお札」
不二子がテーブルを下ろすと前の座席の後ろに「秋葉神社火防守護」と書かれた白い札が貼ってある。
「火除けの札があるなんて不思議だわ。なんだか嫌な予感がする」
「秋葉神社って何?」
「静岡にある神社よ。火除けの神様を祀ってるの。あなたって本当にものを知らないのね」
厭き果てた面持ちで不二子が溜息をついた。
はやぶさは二時間ほどで東京駅に着いた。不二子は筒井を連れて先に立ってつかつかと歩き、山手線に乗り換えて秋葉原で降りた。
「どうして秋葉原へ?」
「泥棒の七つ道具を買うの」
二人は電気街を歩いた。道行く男たちはみんな不二子のグラマラスなボディーに見とれて振り返り鼻の下を伸ばしている。ピンクのワンピースからはみ出そうな乳房を揺すって不二子が歩くと背後から猫なで声がした。
「ふーじこちゃーん♥」
「……ルパン!」
釣られて筒井も振り返ると、面長で短髪、揉み上げが長く、青いシャツに赤いジャケット、黄色いネクタイをした男がニヤニヤ笑っている。紛うかたなきルパン三世だ!
「こんなところで何してるの?」
「耳寄りな情報をつかんじゃったんだわー。皇居宮殿のお宝、狙ってるんだって?」
「どうして知ってるの?」
「さっきスマホで電話かけただろ? 盗聴させてもらったぜ」
「足を洗って農業を始めたって聞いたけど」
「ああ、百姓の真似事をしてみたよ。でも秋場半作ってやつで、収穫は秋の天候まかせ。秋晴が続いて、これなら豊作だと喜んでたら長雨に降られて畑は全滅。来る日も来る日も明き日で、することがなーんにもないの。退屈でさあ。秋彼岸なのにお供えの団子も買えない。で、泥棒稼業に再就職」
「あなたに百姓なんかつとまるわけないでしょ。餅は餅屋、商人は商人よ」
「その通りだ。――で、皇居宮殿のお宝の件、お仲間に入れてほしいわあ」
「ダメよ。この仕事はわたしがひとりで……」
「目当ては彰仁親王の機密文書――だろ?」
「知ってたの?」
「不二子ちゃんの心はお見通しよー。伏見宮邦家親王第八王子。初めの名は嘉彰、のちに小松宮と改称。明治維新政府で議定・軍事総裁をつとめ、イギリス留学後陸軍に入り参謀総長を経て元帥に昇進」
「よく調べたわね」
「皇居宮殿には彰仁親王がイギリスから持ち帰った錬金術の奥義書が隠されている。非金属を金や銀に変える秘伝書だ。これが手に入れば世界の経済はひっくり返る」
「言っておくけど、あなたに手出しはさせないわよ」
「独り占めするなんてずるいわずるいわー。せっかくの秋日和、仲よくしたいわあ」
「ダメ」
ふてくされたルパンは足下に転がっていた空き瓶をぽーんと蹴ると筒井の膝に当たった。
「さっきから気になってるんだけど、このおっさんは?」
「売れない小説家よ。メキシコで知り合ったの」
筒井はようやく口を開く機会を得た。
「わたくし筒井康隆と申します。小説家です」
「ふーん。――不二子ちゃん、男の趣味悪くなったね」
「ルパンさん! お目にかかれて光栄です! あなたの活躍は子どものころから拝見しています。テレビアニメはぜんぶ見ました。しかしなんといっても宮崎駿監督の長篇映画第一作『ルパン三世/カリオストロの城』、あれは日本アニメ史上に燦然と輝く傑作です!」
「カリオストロの城か……懐かしいなあ……クラリス、元気かなあ」
「秋深しルパンは何を盗むにや」
不二子が句を詠んだ。
「もちろん錬金術の奥義書さ」
「じゃあ、あなたも七つ道具を買いに秋葉原へ?」
「まあな」
ルパンは不敵な笑みを浮かべた。
「鹿の毛皮、秋二毛でもかぶって変装するつもり?」
「そんな古い手は使わない。皇居ごと頂くのさ」
「なんですって?」
「ああ、皇居宮殿を丸ごと頂戴するって寸法さ」
ルパンが空を見上げた。バラバラバラと物凄い音がして大型ヘリコプターが上空に現れゆっくり降下し始めた。電気街の人々が、なんだ、なんだと一斉に上を向く。筒井が小手をかざして操縦席を見ると黒いソフト帽に長い顎髭、ダークスーツに黒のネクタイの男が銜えタバコで操縦桿を握っている。
「あれは……次元大介!」
「おっさん、目がいいな」
「見間違えようがない。大ファンなんです!」
筒井が目を凝らすと助手席には淡い灰色の着物に紺色の袴、肩に刀を担いだ男がいる。
「石川五右衛門だ!」
筒井は嬉しくなって子どものようにぴょんぴょん飛び跳ねた。不二子が心配そうにルパンの顔色伺った。
「ルパン……あなた、本気なの?」
「ああ。夏の終わりから計画を練ってたんだ。中秋の名月と九月の十三夜、秋二日に三人で集まって話し合った。俺たちは世界を股にかけて盗みを働いてきた、でも稼いだ金は酒や博打できれいさっぱり消えちまった。いまの俺たちは抱くべき赤ん坊のない女の懐、空き懐だ」
「だからって、なにも皇居を丸ごと盗まなくても……」
「今度のヤマはでかい。年貢の納め時かも知れない。ここで会ったが百年目か」
「ルパン……」
「線路の向こうをご覧。秋穂が風に揺れている。秋は人生の黄昏だ。人生最後の大博打を打ってやる」
「馬鹿な考えは起こさないで! どこか豪邸の空き間に忍びこんで宝石でも盗めばいいじゃない」
「もうそんなせこい仕事はしたくないんだ。農家だって収穫を終えたあとに秋蒔きといって野菜や穀物の種を植えるだろ? これからもう一花咲かせるのさ。夏の稲、秋待草が実り始めたいまがチャンスだ。盛大な秋祭をお目にかけてやるぜ」
ルパンは赤いジャケットのポケットから茹でた秋豆すなわち大豆を一粒ずつ口に運んではもぐもぐ食べた。
「でも……さっきわたしが皇后陛下に犯行予告したのよ」
「ああ、知ってるよ。盗聴させてもらったからね。俺も皇后陛下とはツーカーの仲なんだ。互いに吾君で呼び合ってる」
「あなた、まさか……天皇陛下に化けたの?」
「そういうこと」
ルパンはほくそ笑んだ。
ルパンと不二子、筒井は電気街の空き店に忍びこんで作戦会議を開いた。
「皇居にはあきみちの原本がある。こいつも頂くぜ」
「ルパン……本当に皇居を丸ごと盗む気?」
「ああ。一切合切盗まないと飽き満たない」
「でも、どうやって……?」
「なあに簡単な話さ。消すんだよ」
「え?」
「皇居を消しちまうんだ」
「そんなことできるわけないわ」
「秋めくころから準備してきたから抜かりはない」
「本当に消せるの?」
「まさか。ただ、見えなくするだけだ。デヴィッド・コッパーフィールドを知ってるだろ」
「コッパーフィールド……イリュージョンの大御所ね」
「そうだ。1983年、やつは自由の女神を消してみせた」
「たしかテレビ中継されたわ」
「あの手を使う」
「じゃあ、本当に消すわけではないのね」
「錯覚を利用するのさ。現場にいる人もテレビの中継を見る人も明き盲になって、見えるはずのものが見えなくなる」
ルパンはどこから採取したのかイワタバコ科の多年生熱帯植物アキメネスの花の香りを嗅いで含み笑いした。
「テレビ中継するの?」
「ああ」
「誰が司会を?」
「『カリオストロの城』では不二子ちゃんが生中継してくれたね。でも今回は俺と一緒に盗んでもらう」
「皇居が消えているあいだに仕事をするってわけね」
「そういうこと。次元と五右衛門は皇居が本当に消えたのを証明するために上空からヘリコプターで現場を撮影する」
「じゃあ司会者は……?」
ルパンは筒井の顔を見つけた。
「え? わたしですか?」
「おっさんに是非頼みたい」
「そんな、無理ですよ」
「小説家の筒井康隆だったね」
「そうですけど」
「筒井康隆は役者が本業だったはず――」
筒井は図星をさされた。
「たしかに長年役者をやってきました。テレビドラマにも出たし、蜷川幸雄の舞台にも出演しました」
「なら話は簡単だ。司会者の役を演じればいい」
「演技をするのは三度の飯を食うより好きです」
「よし! 話は決まった」
ルパンは電子部品やコードなどの商物が散らかっている空き家の在庫を物色してマイクを見つけ、筒井に渡した。
「さすがは秋葉原だな。こんな空屋敷にも道具はちゃんと揃ってる」
「で、どうすればいいんです?」
「二重橋の前にこんもりとした明山がある。そこに椅子を並べて観客が集まる手筈を整えてある。テレビ東京の秋山というディレクターがいるから、あとはディレクターの指示通りにカンペを読めばいい」
「秋山ディレクター、ですね」
「ああ。本人は江戸時代の漢詩人秋山玉山の子孫だとか言ってるが、たぶんでたらめだ。しかも松山生まれの海軍中将秋山真之の曾孫だとも言いふらしている」
「秋山真之……『天気晴朗なれど波高し』のキャッチフレーズを考えた人ね」
「さーすが不二子ちゃーん。でも本当は秋山定輔の孫なのさ」
「秋山定輔? 聞いたことないわ」
「倉敷生まれのジャーナリストで政治家。日露戦争中にスパイ容疑で代議士を辞任。大正・昭和期は政界の黒幕として活躍した」
「ディレクターにはその男の血が流れてるのね」
「ああ。血は争えない。だから今夜の大勝負にも喜んで協力を申し出てくれたよ」
「今夜?」
筒井は驚いて訊ねた。
「善は急げさ。勝負は今夜だ。秋山のしたへる妹なよ竹の――」
ルパンは不二子の顔を見て鼻の下を伸ばした。
「なにそれ」
「不二子ちゃんの美しさを詠んだ和歌なんだけどなあ」
「馬鹿なこと言ってないで」
「おっさんはこれを持って行け」
ルパンは魯迅の小説『阿 Q 正伝』を筒井に手渡した。
「これをどうしろと?」
「秋山ディレクターへの名刺代わりだ。俺の一味だという目印さ」
「あなたは天下の大泥棒だと思ってたが、商人としとも立派にやっていけると思うよ」
「いや、商売には興味がない」
ルパンはがらくたの山からアキュムレーターを引張り出して作動させた。イリュージョンに使う装置らしい。
「不二子ちゃんとまた一緒に仕事ができて嬉しいわあ」
「テレビや映画ではよく見てましたが、こうして実際に会ってみると本当に美人ですね」
「中国でも大人気さ。阿嬌って呼ばれてる」
「アキョウ?」
「漢の武帝を魅了してのちに皇后になった美人の名前だ。――それで思い出した。山東省東阿県で採れる膠を阿膠といって絵の具や薬として使う。最近は不二子というブランドで売ってる。これが馬鹿売れ」
「あなたたち、さっきからア行の言葉ばっかり」
不二子がまんざらでもない表情で呟いた。
「皇居を消してお宝を盗むのはいいけど、そのあとはどうするの?」
「秋吉台に行く」
「秋吉台って、秋吉大理石で有名な山口の?」
「ああ。秋芳洞にお宝を隠す」
「無茶言わないで。東京から山口までどうやって移動するつもり?」
「何のために大型ヘリを用意したと思う?」
* * * * *
「ルパンの仕業であることは明らかです!」
インターポールの銭形警部は皇居警察本部で怒鳴り声を上げた。
「しかし証拠がない」
「いいえ、あります。東北新幹線はやぶさから皇后陛下に犯行声明の電話がかかってきたではありませんか」
「たしかに電話はあったが、容疑者は筒井佐子を名乗っているのだよ」
「そいつは峰不二子だ。変装したり声を変えたりするのは朝飯前の連中なんです」
「君がルパンを目の敵にしているのはわかるが、証拠がない以上諦むべきだ」
「とんでもない! やつらは目と鼻の先にいる! 諦めがつきません」
「諦めたほうが身のためだよ。これ以上騒ぐと公務執行妨害で君を逮捕する」
しつこく言いつのる銭形に飽きた本部長はタバコに火をつけた。銭形はいくら説得しても応じない本部長に呆るあまり、「あんたは大馬鹿者だ」と言い捨てて皇居を去り、インターポールの日本本部があるあきる野市へ向かった。
* * * * *
「わたしはテレビ中継の司会をするんですよね」
筒井はルパンに確認した。
「ああ」
「で、首尾よくお宝を盗んだとして、そのあとはどうすればいいんですか」
「俺たちの身代わりとして警察に捕まってもらう」
「そんな!」
筒井は呆れ顔でルパンを見つめた。
「冗談じゃない! ただでさえわたしはエジプトで客船をシージャックして、メキシコのレストランでは無銭飲食して――」
「へえ、おっさんもお尋ね者なのか。そいつは都合がいい」
ルパンはタバコの煙をふうっと吐いた。
「豚箱でタダ飯を食うのも悪くないもんだぜ。俺は山口に行って足切を治療する」
「アギレ? 元サッカー日本代表の監督?」
「それはアギーレだろ! 足切は足の指の切り傷だ。さっきから痛くてたまらねえ」
筒井は呆れ甚しくてしばし茫然としたが、こみ上げる怒りが爆発した。
「天下の大泥棒だと思って下手に出りゃつけ上がりやがって! よしわかった。逮捕されてやる。その代わり、俺の余罪もぜんぶひっくるめておまえたちの仕業だと供述してやる」
今度はルパンと不二子が呆れ入った。
「おいおい、おっさん……逮捕ったってせいぜい一週間くらいだぜ? すぐに俺たちが助け出してやる」
「信用できるか! 俺を誰だと思ってるんだ! 文学界のアキレウスだぞ!」
「アキレウス?」
「知らないのか? 知らざぁ言って聞かせやしょう」
「白浪五人男だな」
「浜の真砂と五右衛門が――」
「出ました、我らが石川五右衛門!」
「歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜。ギリシア神話の大英雄。父はペレウス母はテティス。ホメロス書きたる『イリアス』の、天下無双の主人公――」
「よっ、名調子! 大統領!」
「茶々を入れるな! 俺は本気だぞ! 詐欺と虚偽有印公文書作成・同行使の罪で起訴された号泣議員こと野々村竜太郎の容疑もおまえたちの差し金だと言ってやる!」
呆れ返ったルパンと不二子は呆れが宙返りをして呆れが礼に来た。
「俺は文学界のアキレスだ!」
筒井はなおも息巻いた。
「アキレスはアキレウスのローマ名だ! ギリシア軍随一の英雄としてヘクトルを討ったが、唯一の弱点である踵をパリスに弓で射られて死んだのだ」
「じゃあアキレス腱を狙われたらイチコロじゃん」
「そのとおりだ!」
ルパンと不二子は呆れ果てた。
「SMAPの解散騒動もベッキーの不倫もおまえたちが仕組んだ陰謀だと言ってやる!」
「それって犯罪ですらないじゃん」
呆れもせぬことを言いつのる筒井に二人は呆れた。
「世の中の悪事はみんなおまえたちのせいだ! 収穫を終えた農家の忘年会、秋忘れのご馳走を盗む気だと言ってやる!」
「よう、筒井のおっさん」
ルパンが口を挟んだ。
「あんたは泥棒稼業には向いてないぜ。弁が立つようだから商人に商売替えしたらどうだ?」
「そうよ。商人気質だわ」
不二子が賛成した。
「ただし商売で成功したけりゃ、ときには自分の意志を曲げて客の言いなりにならないとダメだぜ。昔から言うだろ、商人と屛風は曲らねば世に立たずってな」
「俺は祖父も父も小説家だ。小説を書く以外能がない」
「商売に家系は関係ないぜ。商人に系図なしだ」
「小説しか書けないなんて嘘でしょ? たしか本業は役者のはず」
不二子が鋭く切りこんだ。
「しまった……」
「なあに、嘘も方便だ。商人の空誓文、駆け引きのためなら嘘を言うのも必要さ」
「でも商売なんかしたことがない」
「おっさんならできるよ。まず掛け値を言って少しずつ値を下げるんだ。客は底値をつけてだんだん値を上げられて買う。商人は腹を売り客は下より這うだ」
「商売を始めるなら商人船も必要ね」
「さーすが不二子ちゃーん! 船があれば全国津々浦々売り歩けるぜ。夜は商人宿に泊まればいい」
「船ならわたしたちがいつでも用意してあげるわ」
灰汁の強いルパンと不二子にそそのかされた筒井は悪というものの恐ろしさを知った。さすがは人生の裏街道を歩み続ける大泥棒、人を言いくるめるのは赤子の手をねじるようなものだ。ルパンの言うとおり商売替えする潮時かも知れない。最新作『モナドの領域』は俺の最後の長篇小説だ。小説家としての仕事はやり尽くした。商人になってみようか。この秋葉原なら空き店舗があるだろう。小さな店を一軒構えて、入口は天幕のような幄で覆って、客が来たら握手して迎えるのだ。毎日店が開時間になると行列ができる。俺は飽かず商売に打ちこむ。一度つかまえた客は離さない。釣針の針先の内側に逆向きにつけた尖った鐖で引っかけた魚みたいに、いったん釣り上げた客は二度と逃がさない。利益を上ぐコツは客を手放さないことだ。
しかしひとつ困ったことがある。俺はいつの間にか悪悪しきルパンの一味に魅了され始めているのだ。第一いまから商売を始めるといっても何から手をつければいいのか。もしも客がアクア錯体をくれと言っても俺は理系の知識がないからお手上げだし、ゴヤの版画集『ロス・カプリチョス』で使われたアクアティントの材料をくれと言われても美術は門外漢だ。アクアポリスを建設したいから設計図を描いてくれと言われても建築士の免許がないし、緑柱石のうちスカイブルーの色調で透明なアクアマリンはどこで手に入れればいいのかもわからない。柱や天井を灰汁洗いする方法も知らないし、アクアラングはどこで仕入れたらいいのか見当もつかない。水族館アクアリウムの経営に至ってはずぶの素人だから悪衣悪食の身の上となるのは目に見えている。迂闊に商売になぞ手を染めないほうがいい。
筒井の心の奥底に悪意が芽生えた。どうせ一度きりの人生だ、せこい商売に憂き身をやつすくらいならいっそ泥棒になったほうがましではないか。正直者は馬鹿を見る。善人ぶって比叡山延暦寺の東塔竹林院の安居院で余生を送るなんて真っ平だ。他人様の土地を勝手に所有すれば当然罪に問われるが、たしか法律では悪意占有といってそのまま二十年所有を続ければ時効になり我が物にできるのだ。ならば悪の道を生きるほうが得策ではないか。しかも眼の前には天下の大泥棒ルパンがいるのだ。
「ルパンさん! どうか弟子にして下さい」
筒井は突然頭を下げた。
「おっさん、気は確かか?」
「もちろんです。あなたと知り合ったのが悪因、これも何かのご縁でしょう」
「でも悪因悪果と言うからなあ。悪い原因には悪い結果がつきものだぜ」
「かまいません! 悪因縁だと思って諦めます。どうか俺を……俺を男にしてやっておくんなせえ」
ルパンは懐から灰汁打紙を取りだし、ペンで「筒井康隆」と書いて手渡した。
「本気で泥棒になりたいのなら、ここに血判を押せ」
筒井は忠犬のように素直に応じて親指の腹をかじり、滲んだ血で判を押した。悪運続きの俺はとうとう泥棒になっちまった。これもルパンの悪影響だが、自分の意志で決めたことだ、世界一の大泥棒になって世界をあっと驚かせてやるぜ!
ルパンが部屋の片隅に転がっていた古いテレビをテーブルに置いてスイッチを入れた。NHKの臨時ニュースが流れ、「皇居を中心とする東京23区内でコレラが流行しています。都心には近づかないで下さい」と青白い顔をした若いアナウンサーが繰り返し注意を促している。
「おいおいマジかよ。これからお宝を頂戴に参上しようってのに」
ルパンは舌打ちした。アナウンサーも悪液質なのか、顔は黄色を帯びた蒼白色で無表情である。ルパンは上空を旋回中のヘリコプターをトランシーバーで呼び出した。
「おい次元。ちょいとヤバいことになったぜ。皇居が封鎖されるんだってよ」
「ああ、いまラジオで聞いた。筒井のおっさんと知り合ったのが悪縁じゃねえのか」
「かも知れねえ」
「で、どうする」
「いま考えてるところだ」
トランシーバーを片手に右往左往したルパンが足もとの灰汁桶にけつまずいて転んだ。
「封鎖されるなら好都合じゃない?」
不二子が言った。
「ゴーストタウンになるんでしょ? 仕事がしやすくなるわ。防護服を着れば感染しないし」
「さーすが不二子ちゃーん! あったまいいー!」
ルパンは腰をさすりながら歌舞伎の悪方のようにニヤリと笑い、窓から外を見るとちょうど隣に作業衣専門店がある。ルパンが目配せすると不二子が素早く隣の店に忍びこみ、あっという間に五人分の化学防護服を盗んできた。ルパンと不二子、筒井が防護服に身を包むとすっかり灰汁が抜けて誰が見ても医療関係者である。
筒井は手際のよさに憧れた。二人に対して何の悪感情も抱かなかった。天下の大泥棒と同じ身なりになると自分もすっかり大泥棒になった気分になり、どんな悪戯でもできそうな気がしてきた。俺も悪逆の限りを尽くしたい。悪逆無道な男になって悪行三昧の日を送るのだ。俺がルパンの一味になったのも前世からの因縁、悪業に違いない。このまま造幣局に忍びこみ銀貨に大量の胴を混ぜて悪銀を鋳造したい。
「よし! 俺はやるぞ!」
ひとりで勝手に興奮した筒井が外に走りだそうとした途端、先ほどルパンがけつまずいでこぼした灰汁桶の水に濡れた床に足を滑らせ、「あ!」と声をあげたかと思うと体が横倒しになって宙に浮かび、咄嗟に突き出した両手の爪がルパンと不二子の防護服に引っかかり、体が床に倒れると同時に二人の防護服をビリビリ引き裂いた。筒井の防護服も膝のところに穴があいた。
「おっさん! どうしてくれるんだ! この間抜け!」
ルパンが悪言を放った。
筒井は謝ろうとして立ち上がるとまた足が滑って「あ!」と叫び、不二子に折り重なるように倒れかかり、不二子が右手で握っていた次元と五右衛門用の防護服を思わずつかんでこれも裂いてしまった。
「おっさんは悪源太か!」ルパンが怒鳴った。
「悪源太って誰ですか」
「源義平だ。平安時代の武将、義朝の長男。十五歳のときに叔父義賢を斬り殺したガキ大将だ」
「そんな大それた者じゃありません」
「不二子、隣の店でまた調達してくれないか」
「五着しかなかったのよ。きっとコレラ騒ぎで在庫切れなのよ」
「ちくしょう! おっさんのせいで計画はパーだ! 前世でどんな悪業を働いたのか知らねえが、まるで疫病神だぜ」
「うわーん、すいません!」
「すいませんですめば警察は要らねえ。おっさんみたいな間抜けを悪業の猛火って言うんだ」
「皇居を狙うのは無理よ。どうする?」
不二子がルパンの顔色を窺った。「このオタンコナス! 出来損ない! アンポンタン!」ルパンは飽くことを知らず筒井に悪言を浴びせ続けた。
「そのぐらいにしておきなさい。で? どうするの?」
「皇居は諦めよう」
「しかたないわね」
「その代わり……アクサーモスクに行く」
「アクサーモスク? どこ?」
「エルサレム旧市街のイスラム聖域内にあるモスクだ。建立はウマイヤ朝時代。ムハンマドがメッカから一夜のうちにこの地まで旅をしたという伝説から名づけられた。イスラム第三の聖地さ。ここには〈失われた聖櫃〉があるという噂だ」
「失われた聖櫃……インディ・ジョーンズが探し当てた、あの?」
「ああ。でもあれは映画だ。俺たちは本物を頂くぜ」
悪才に長けたルパンは早くも次の獲物を脳裏に描いた。
「おいルパン! いつまで待たせるんだよ」
トランシーバーから次元大介の声が聞こえた。
「次元、皇居はまたの機会にする。その代わり、もっとでかい仕事をするぜ。エルサレムだ」
「エルサレム?」
「ヘリを下ろしてくれ」
「了解」
ルパンと不二子、筒井が表通りに出るとコレラ騒ぎでゴーストタウンと化した街には人っ子ひとりいない。ヘリコプターが中央通りに着地し、三人が乗りこむとすぐさま離陸してエルサレムに向かった。
「おいルパン、おまえ結婚しないのか」
操縦桿を握ったまま次元が出し抜けに訊ねた。
「結婚? 冗談じゃねえ。悪妻なんかもらったら六十年の不作だ」
「まあ失礼ね。女はみんな悪女だと思ってるんでしょ」
不二子が噛みついた。
「そんなことないよー。不二子ちゃんがお嫁さんになってくれるなら俺はいつでも足を洗う覚悟よー」
「自分だけ堅気になってわたしに働かせるつもり?」
不二子はルパンをけなす悪材料に事欠かない。
「どうせわたしが齷齪働くあいだに浮気するつもりなんでしょ」
「そんなことないってばー」
「朝から熊本名物の灰酒をくらって飲んだくれるに決まってるわ」
「ひどいなひどいなー。俺をそんな男だと思ってるの?」
「ひどいのはどっちよ! おまえは字が下手くそだ、悪札だって人前で罵るくせに」
「お二人さん、夫婦喧嘩はまだ早いぜ」
次元が冷やかした。
「静かにしてくれないか。読書の邪魔だ」
助手席の五右衛門が初めて口を開いた。
「読書? 何を読んでるんだ?」
「『台記』だ」
「ダイキ?」
「悪左府の日記だ」
「アクサフ?」
「藤原頼長の別名だ」
「ヨリナガ? 聞いたことがない。おい筒井のおっさん、ヨリナガって誰だ」
「え? ――さあ、歴史には疎くて」
「おっさん、小説家なんだろ?」
「お恥ずかしい」
筒井は真っ赤になって身を縮めた。
「頼長は――」
五右衛門が説明した。
「平安後期の貴族だ。忠実の次男で左大臣。学問を好んだ。父の庇護を得て兄忠通と対立し、氏長者になったが鳥羽上皇の信任を失い、崇徳上皇によって勢力を挽回しようと保元の乱を起こしたが敗れて死んだ」
「ふーん。そんな日記のどこが面白いんだ」
「失われた聖櫃の場所が書いてある」
「なんだって!」
ルパンは驚いて操縦席に身を乗り出した。
「本当か?」
「ああ。ここを読んでみろ」
ルパンは五右衛門から本を奪うと、五右衛門が指さした一文を朗読した。
「なになに……『聖櫃はアクサーモスク東南の角、目印はアクサン』。アクサンってなんだ?」
「わからん」
「目印ってことは記号か文字に違いねえ。筒井のおっさん、アクサンってなんだかわかるか」
「アクサン? もしかしてフランス語の記号のことかも」
「フランス語? どういうことだ?」
「アクセント記号だよ。たとえばカフェはc-a-f-eと書くけれど、最後のeにアクサンテギュをつけてcaféと書く。『父親』を意味するペールの綴りはp-e-r-eだけど、最初のeにアクサングラーヴをつけてpèreと書く。それから『城』を意味するシャトーの綴りははc-h-a-t-e-a-uだけど、最初のaにアクサンシルコンフレックスをつけてchâteauと書く」
「難しくてよくわからねえが、母音の上にくっつける記号なんだな。聖櫃の在処にはその記号が書いてあるわけか。五右衛門、ありがとよ」
「ったく、銭形のとっつぁんはしつこいったらありゃしねえ」
「現代の悪七兵衛だな」
「ん? 誰だって、五右衛門?」
「平景清。平安末期の武将。体が大きく力が強かったから悪七兵衛のあだ名で呼ばれた」
「たしかに図体だけはでかいぜ。その代わりおつむが弱い」
「う、うう……」
「次元、どうした」
「なんだかわからねえが、吐き気がする」
次元大介の顔が悪疾に罹ったかのように青ざめて、操縦桿を握る手がぶるぶる震えている。
「おい……まさかコレラに感染したんじゃねえだろうな」
「わからねえ……」
「悪質な冗談はやめてくれよ。おまえが感染したら俺たちみんなお陀仏だぜ」
突然耳をつんざくような警告音が鳴り響き、操縦席のパネルに赤い警告ランプが点滅した。
「やばいぜルパン、エンジントラブルだ」
天井でドンと大きな爆発音がしたと同時にプロペラが停止し、ヘリコプターは急降下を始めた。思いもよらないアクシデントに機内はパニックに陥った。
「おい次元! なんとかしてくれ!」
「だ、ダメだ……下痢と吐き気、筋肉が痙攣して手が言うことをきかねえ」
「コレラの症状じゃねえか」
「墜落する!」
機体は錐揉みしながら真っ逆さまに地面に激突して炎上した。
* * * * *
筒井が眼を開けると緑色の灰汁柴が風になびいている。日本各地と朝鮮半島の山地に生える落葉低木だ。両腕に力を入れて上体を起こした。眼の前に黒く焼けただれた死体がごろごろ転がっている。背中が痛い。ようようのことで立ち上がりあたりを見回すとヘリコプターは幄舎すなわち朝廷の儀式に用いたようなテントに墜落したらしく、幕の半分が燃えて灰になっている。
生存者は筒井だけだった。ヘリコプターで秋葉原からエルサレムに飛ぶという悪手が災いしたとしか思えない。一歩二歩と歩いてみたが背中が痛くてたまらず膝から崩れ落ちた。
「これを飲みなさい」
老人が筒井の肩を抱き、鼻先に椀を差し出した。喉がからからだった筒井は中身をごくごく飲んだ途端にブーッと吐き出した。てっきり水だと思った液体は安っぽい悪酒だった。
「口に合わないかね」
「いえ、水だと思ったので」
「すまんな。こんなものしかなくて」
「とんでもない、ありがとうございます」
二人は握手した。老人の体からいわく言いがたい悪臭が漂い、筒井は鼻が曲りそうになった。
「この村の住民は朝から晩まで酒を飲む悪習に染まっておってな、安酒が水代わりじゃ」
「悪趣味ですね」
「酒を飲むから体臭が臭くなる。臭くなるからどこにも行かず酒ばかりくらう。悪循環じゃ。それにしてもおまえさん、よく命が助かったな」
はい、おかげさまで――絞り出すような声で応じた筒井はあらためて墜落現場を眺め渡した。悪所通いをしたわけでもないのに、なぜこんな目に遭ったのだろう。いや、なぜ俺だけが生き残ったのだろう。
「かわいそうに、女も死んだ。お連れ合いかね」
「いいえ、峰不二子という泥棒です」
「悪女か。たちの悪い連中と付き合うとろくなことにならんぞ」
「ごもっともです」
「とくに悪性は度が過ぎるといけない。酒と女だ」
「でもこの村の人たちは酒びたりなんですよね?」
老人の顔が急にいかめしい能面の悪尉のように変わった。
「命を助けてやったのに人を馬鹿にするのか!」
「あ、いえ、とんでもない」
「ははは。冗談じゃよ。たしかにどいつもこいつも酒浸りでなあ。しかも女狂いだ。ちょっと金を稼ぐと悪性金に使っちまう。悪性狂いにうつつを抜かすやつばかりだ」
「酒池肉林ですか。なんだかうらやましいなあ」
「村には女が少ない悪条件も重なって、男はみんな遊郭に入り浸りだ」
「いまの時代にも遊郭があるんですか」
「あるよ。わしらは悪性所と呼んでるがね。村の男たちの話題は悪性話ばかりだ。酒と女の話しかしない。根っからの悪性者だ」
「夢のような暮らしじゃありませんか」
「馬鹿なこと言うもんじゃねえ。何人の男が悪所落ちで身を滅ぼしたことか。――おまえさん、腹は減ってないか」
「じつはペコペコです」
「わしの家に来なさい。何もないが」
老人は筒井を馬に乗せ、自分も馬にまたがって筒井を抱きかかえるようにして手綱を握り、けわしい坂道を駈け下りた。いわゆる悪所落しである。
「おまえさん、商売はなんじゃ」
「小説家です。筒井康隆と申します」
「小説家か! アクショーノフを知ってるか」
「アクショーノフ?」
「ソ連時代の作家じゃ。代表作は『星への切符』だ。ブレジネフ時代にソ連を出てアメリカに渡って『火傷』を発表した。強制収容所で生きた母ギンズブルグのことを書いた自伝的な小説じゃよ」
「さあ……読んだことがなくて」
「さてはおまえさんも悪所金のことしか頭にない口じゃな」
「いえ、そういうわけでは……」
「弁解せんでもええ。悪所通いは男の勲章だ。――人肉は好きか」
「は?」
「人間の肉だ」
「人肉を食べるんですか!」
「この村は食うものが何もなくてのう。悪食の習慣がやめられねえんだ」
「水を飲ませていただければ……」
「酒しかねえ。なにしろ悪所狂いの村でのう、金は悪所遣いで使い果たすし。遊郭の女はええぞ。悪女の深情とはよく言ったもんだ」
馬が草原を駈けてゆくと噂の悪所場らしき遊郭が見えてきた。近くに川が流れ、遊里に通う悪所船が何艘も川を上ったり下ったりしている。花魁のように着飾った女が半玉を伴って悪所宿を出入りしている。
ヒュッと鋭く風を切る音がして筒井の頬を何かがかすめた。ヒュッ、ヒュッと正面から矢継ぎ早に飛んできたのは弓矢だった。
「困ったやつらだ。旨そうな人間を見ると目の色を変える」
老人は派手なアクションで馬の腹を蹴りスピードを上げた。飛び交う弓矢を避けて走る姿はアクション映画さながらで、筒井はまるでアクションゲームの主人公になったかのようなスリルとサスペンスを味わった。前方の木立の陰から矢を放つ男たちはアフリカあたりの原住民みたいに素っ裸で、全身を極彩色に塗ってある。
「あの土人はこの村の人ですか」
「土人?」
「だって、素っ裸で体じゅうに色を塗ってますよ」
「アクションペインティングだ」
「え?」
「知らねえか」
老人は馬を巧みに操り、雨あられと降り注ぐ矢の下をかいくぐって説明した。
「第二次大戦のあと、アメリカのポロックやデ・クーニングたちがカンバスに絵の具をぶちまけて制作行為自体を画面に残そうとした抽象絵画の流派だ」
「芸術家なんですか」
「少なくとも本人たちはアート集団だと思ってる。世間では珍しいようで、このあいだも心理学者を名乗る男が来てアクションリサーチをして行ったよ」
「アクションリサーチってなんですか」
「小さな集団の人間関係を社会的活動の行なわれる具体的な場面において研究し、現状の改善をめざす実践的研究だそうだ」
「意味が全然わからないんですけど」
「わしもじゃ。きっと俺たちの村をおもしろおかしく紹介してからかおうという悪心を抱いてるのじゃろう。わしは学者は虫が好かん」
「その点は同感です」
「学者なんていう連中は人間の屑だ。心理学者は提灯持ちみたいな弟子を連れて来てな、これがまた絵に描いたような悪臣で、家来のくせに師匠の研究費をねこばばしよった。あんな連中は悪神に祟られて滅んでしまえばええ」
前方にどぶ川が流れている。筒井は喉がからからに渇いて水を飲みたくてたまらないが、川の水はどう見ても悪水で飲めた代物ではない。老人はそんな筒井にお構いなしに馬の横っ腹をかかとで蹴ると馬はぽーんと悪水路を飛び越えた。
「あの……いまごろ聞くのも変な話ですが……ここはどこですか」
「アクスムだ」
「アクスム?」
「エチオピア高原のキリスト教王国だ。おまえさんこそ、いったいどこから来たんだ」
筒井は耳を疑った。エチオピア――俺はアフリカに来たのか。
「日本から来ました」
「ニホン? 知らんな」
「知らなくて幸せですよ。馬鹿な政治家が政権を牛耳る悪世です」
「政治家はみんな馬鹿だ。悪声を放ちたくもなるな、ごほん、げほげほ」
老人が急に咳きこんだ。
「大丈夫ですか」
「悪性の風邪をひいちまってな。なあに、平気だよ。この国も悪政がはびこってる。民衆は悪税に苦しむばかりじゃ。う、うう……」
筒井が振り返ると老人の顔にホクロのような黒い点が次々に現れた。
「顔に黒い点が……」
「悪性黒色腫じゃ」
「病気なんですか」
「ああ。悪性腫瘍と悪性リンパ腫も患ってる」
「重病じゃないですか!」
「なんのこれしき。齷齪働いてればどうってことはない」
「どうってことありますよ! 早く医者に診てもらわないと」
筒井はズボンのポケットからスマートフォンを取りだした。アクセサリーのストラップが邪魔なのでちぎり取り、画面の検索アプリをタップしてネットにアクセスしようとすると「アクセス権がありません」というエラー表示が出た。何度タップしても表示は変わらない。CPUがメモリーの情報を読みとるアクセスタイムがいつもより余計にかかっているようだ。
「肝腎なときに使いものにならんとは! このポンコツ! がらくた! スクラップ!」
筒井は悪舌をふるった。老人が自動車のアクセルを踏むように拍車をかけた。馬はフィギュアスケートのアクセルパウルゼンジャンプさながらに高く飛び跳ね、空中で一回転半して着地した。
「すごい!」
筒井は興奮して叫んだ。
「若いころ山賊に教わった技じゃ。何度練習してもうまくいかなくてのう、悪戦の日々じゃった」
「サーカスに出たらどうです? 大受けしますよ」
「いやいや、所詮山賊に習った技だ、悪銭を稼いだところでたかが知れている」
「でもせっかく悪戦苦闘して身につけたテクニックを披露しないなんて宝の持ち腐れです」
「いまのままでええ」
老人は「ええ」にアクセントを置いて言った。
「悪銭身につかずじゃ」
突然馬の眼の前に坊主頭の男が両腕を広げて立ちふさがった。
「ここから先は通さん。帰れ」
「なぜじゃ」
「なぜでもだ」
見るからに陰険な悪僧は通せんぼして譲らない。
「通してくれ。怪しい者ではない。旅の人を家にお連れするだけじゃ。頼む」
悪性リンパ腫で全身の肌が悪瘡だらけの老人は説得を試みた。
「おまえのような癩病患者はこの村から出て行け。その東洋人も一緒にとっととくたばれ。この死に損ないめが」
坊主はあくぞもくぞを並べた。まるで人間を塵か芥かのように扱う振る舞いに筒井は唖然とした。
「おまえさんは何者だ」
老人が訊ねた。
「問われて名乗るもおこがましいが……阿骨打の子孫だ」
「アクダ? はて、聞いたことがないのう」
「中国、金の初代皇帝だ。女真族を統一し、会寧に都を置いて金国を建てて皇帝となり、遼を滅ぼした」
「人殺しの親分か。人非人だな。人でなしだ」
老人は悪態の限りを尽くした。
「なんだと? もう一度言ってみろ」
「何度でも言ってやる。人でなしだ」
「なにを抜かすか、この片輪めが」
「口を慎め、この生臭坊主」
「とっとと失せろ、この部落民」
「気狂い」
「白痴」
二人の舌戦は悪態祭の様相を呈した。互いにあくたいもくたいをぶつけ合い、悪態をついた。
「おい、そこでぼーっとしている東洋人! おまえは何者だ」
「俺か? 俺は小説家だ」
「どこから来た」
「芥川だ」
「アクタガワ?」
「大阪府高槻市を流れる川だ」
「東洋の地名なんか知るわけないだろ。ここはアクスム、エチオピアだぞ。名を名乗れ」
「芥川だ」
「それはいま聞いた」
「違う。名字だ。芥川賞の由来になった小説家、芥川竜之介だ」
「アクタガワリューノスケ? そんな奴知らん。芥火や芥生の親戚か?」
「なんの話だ」
「芥火は海人が藻屑やごみを焚く火だ。芥生はごみを捨てる所だ。東洋人のくせに知らないのか。やーいやーい、おたんちん、やーいやーい、おたんこなす」
坊主は手を叩いてはやし立てた。エチオピアの土人にからかわれるとは――筒井は顔が真っ赤になった。こんな屈辱を味わうのは初めてだ。坊主が憎い。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。しかしよく見ると袈裟は着ていない。着ていないのが余計に腹立たしい。この悪玉を何とか懲らしめたい。レイチェルを探す俺の冒険が首尾よく進まないのはこの坊主のせいではないか。そうに違いない。心理学では自分の苦しみを他人に負わせてスケープゴートにすることを悪玉化と呼ぶそうだが、誰が見てもこの坊主は悪意の塊だ。
「やーいやーい、唐変木、やーいやーい、すっとこどっこい」
坊主はあくたもくたを畳みかけて悪たれをついた。
「とんちき、ぼんくら、野暮天」
坊主の悪たれ口が止まらない。なんという悪たれ者だろう。坊主は隠し持っていたニンジンを馬の鼻先にちらつかせた。馬が食おうとするとひょいと引っこめて横っ面を張り倒した。
「食わせると思ったか。やらないよーだ。ばーか」
坊主は馬に対しても悪たれて悪太郎の本領を発揮した。怒り心頭に発した筒井は馬から飛び降りると靴が脱げた。靴の開口に足を入れ直していざ勝負と思いきや、坊主はどこから捕まえてきたのか左の掌にヒヨコを乗せ、くちばしの根元あたりの黄色い緊唇を右手で優しく撫でている。筒井は坊主に躍りかかろうとしたが、地面が軟弱な悪地で足を滑らせ、すってんころりんと仰向けに転んだ。
「ははは、ざまあみろ」
坊主が高笑いした。馬にまたがったままの老人は病勢が悪化したと見えて息も絶え絶えである。
「おい、死に損ないのじじい。悪血を抜かないとお陀仏になるぜ。このヒヨコを生きたまま食えば地が清められるぞ」
坊主は悪知識を披露した。
「本当か。くれ」
「ほらよ」
坊主はヒヨコを放り投げた。老人は馬上で手を伸ばして受けとると頭からむしゃむしゃ食った。
「本当に食いやがった。馬鹿だなあ。そのヒヨコはアクチニウムを含んでるんだぜ」
「アクチニウム? いったいなんの話じゃ」
「知らないのか。放射性元素だよ。原子番号八十九」
「なに!」
「アクチニウム系列の一種さ。ただしアクチニドとは違うぞ。原子番号八十九のアクチニウムから百三のローレンシウムまでの十五の元素をまとめてアクチノイドと呼ぶんだ。そのうちアクチニウムを除いた十四の元素をアクチニドと言うんだ」
「すまないが、おまえさんがなんの話をしているのか、わしには皆目見当もつかん」
「だから放射性元素の話だっつってんだろ! じじい、貴様は被曝したんだよ」
「なんてこった!」
「癩病で被曝となりゃ、もうどんなにあがいても命は助からねえ。ざまあみろ。けけけ」
「そんな殺生な! わしはまだ死にたくない。なんとか助かる方法はないか」
「ひとつだけある。アクチノマイシンを摂取すればいい」
「アクチノマイシン?」
「抗生物質だ」
「その抗生物質とやらはどこで手に入る」
「アクチブに頼むんだな」
「アクチブ?」
「いちいち説明させるなよ! 政党や労働組合の活動分子だ」
「政党? 労働組合? なんのことだかさっぱりわからん」
「あたりまえだ。いまは紀元五世紀だからな。我らがアクスム王国にそんなものは存在しない」
「じゃあ……わしをからかったのか」
「いまごろ気づいたか。ばーか」
坊主は緊唇も切れぬ若造に対するかのように老人をあしざまにこきおろして悪茶利にふけった。
「いい加減にしろ!」
筒井が坊主を怒鳴りつけた。
「この人は瀕死の重病人なんだぞ。おまえには情けというものがないのか」
「ありませーん」
「開いた口がふさがらん! いまが紀元五世紀というのは本当か」
「本当だよーん」
「それはたしかに本当だ」
老人がうなずいた。
「だとすれば生命保険なんてものはまだ発明されていないな。もし保険があれば数理統計学をもとに保険料の算出を行なう保険数理の専門家アクチュアリーに頼みたいところだが」
「なんの話じゃ」
「あなたの身の上のことですよ! 差し迫った現実、アクチュアリティーの問題です! あなたはいつ死んでもおかしくない、これ以上アクチュアルな問題がありますか!」
「いったいどこの言葉を話してるのじゃ」
「英語です」
「エーゴ?」
「アクチンを摂取すれば治るかもしれないぜ。けけけ」
坊主が茶々を入れた。
「アクチンは筋肉を構成する蛋白質だろ。そんなもので病気が治るものか」
「ただ言ってみただけだよーん」
憎まれ口を叩く坊主に筒井が訊ねた。
「この村に医者はいないか。なるべく腕の立つ医者だ」
「藪医者しかいないよ。名医ならアクティウムにいるぜ」
「アクティウム? どこだ?」
「ギリシア西部の岬だよ。アンブラキア湾の西の入口だ」
「エチオピアからギリシアか。遠いな」
「さっさと行かないと爺さん死ぬぜ。アクティブに行動しろよ」
「ギリシアは医学が進んでるのか」
「医学だけじゃないぞ。アクティブソーラーの太陽光発電もやってるんだぜ」
遠い道のりだが爺さんを救うにはほかに手立てがない。筒井はふたたび馬にまたがり、今度は老人を前にすわらせて自分が手綱をとった。ギリシアに向かっていざ行かんとすると突然突風が吹き荒れ大雨が降り出した。悪天に驚いた馬は一歩も動こうとしない。
「日ごろの行いが悪いからだぞ。いい気味だ。ははは」
坊主は他人の悪点をあげつらうのが生き甲斐らしく、手を叩いて喜んでいる。思いがけない悪天候に見舞われた筒井はギリシアへ行くのを断念し、踵に力を入れて馬からひらりと降り、老人を馬の背に乗せたまま手綱をつかんだ。
「すまないが、その藪医者の家まで案内してくれないか」
「いいよ。でもひどい悪徒だからせいぜい用心しろ」
どんな腹黒い医者だろうと背に腹はかえられない。筒井は手綱を引いて馬を歩かせながら、まるで西部劇の俳優のアクトのようだなと思った。
「道案内してやるけど、そのかわり紹介料をたんまりいただくぜ」
「いくらだ」
「五百億万ドル」
「億万っておまえは小学生か! それに紀元五世紀にドルはないだろ!」
「うるせーんだよ。一生遊んで暮らせるだけの金って意味だよ」
「あいにく一文なしなんだ」
「なら腎臓でも売って金にしろ!」
どこまであくどいのだ、この坊主は! 腹が立った筒井は石ころを拾って坊主の顔をめがけて放り投げた。雨で濡れた石は手の中で滑って悪投し、的を外れた。
「コントロール悪いな。このノーコン。けけけ」
坊主の悪党ぶりには手がつけられない。どんな育ちかたをしたらこんな悪童になるのか。このクソ坊主め、地獄に墜ちろ、悪道で苦しむがいい。悪党小説の主人公ラサリーリョ・デ・トルメスだって貴様ほど腹黒くはない。
坊主が案内した藪医者の家は目と鼻の先にあった。粗末な掘っ建て小屋で、時ならぬ嵐に屋根が吹き飛ばされそうである。筒井は扉をドンドン叩いた。
「誰だ!」
怒鳴り声とともに現れたのは絵に描いたような悪道者の顔をした男だった。
「こんな嵐の日に何の用だ!」
「すみません、この老人を診てもらいたいのですが」
藪医者は馬の背で雨に打たれてぐったりしている老人を一瞥した。
「そいつか。――治らん」
「え?」
「手遅れだ」
「そんな……ちらっと見ただけで決めつけないで下さい」
「死に損ないはさっさとくたばればいい」
「あなた……それでも医者ですか!」
「ああ医者だよ。この村でたったひとりのな。あいにく今日は休診日だ」
「そこをなんとか」
「百兆円払ってくれるなら診てやってもいい」
「百兆円!」
筒井は呆れた。二十一世紀の日本の国家予算並ではないか。悪徳商売にも程がある。
「文句があるならとっとと帰れ」
「あ、えーとえーと、はい、わかりました。お金はなんとかします」
筒井は老人を抱きかかえて馬から降ろし、掘っ建て小屋に入った。藪医者は老人の眼や舌を検査して筒井に呟いた。
「アクトミオシンが不足しておる」
「アクトミオシンってなんですか」
「筋肉の主体を構成する細長い蛋白質だ」
「ほらみろ! 蛋白質だって、俺がさっき言ったとおりじゃねーか」
坊主が鬼の首を取ったようにはしゃいだ。
「よく一目見ただけでわかりますね」
「医者を馬鹿にするなよ。人はみな俺を藪医者だのなんだのと抜かすが、飽くなき探究心は失っておらん。この病気には灰汁煮を食べさせるのが一番だ」
藪医者は台所に行き、野菜と山菜に酢をまぜて茹で、灰汁を抜いてから老人に食べさせた。老人は一口食べた途端に血色がよくなり、曲っていた腰はピンと伸びた。
「すごい! 民間療法ですか」
「アグニのご利益だ」
「アグニ?」
「古代インドのヴェーダの火神だ」
「藪医者だなんてとんでもない、あなたは名医だ」
「名医などと言われるとこそばゆいが、痩せても枯れても藪井竹庵、腕に年は取らせん」
「藪井竹庵先生とおっしゃるのですね。助かりました。ありがとうございました」
「診察代は百兆円だが――」
「……じつは一文なしでして」
「そんなことだろうと思った。心配するな。無料だ」
「本当ですか」
「その代わりと言ってはなんだが、今夜は一晩うちに泊まっていきなさい。何のお構いもできないが」
「でもご迷惑では……」
「いやいや、なにしろこの嵐だ、旅を続けるには悪日だ」
「ではお言葉に甘えて」
「おまえは東洋人だな」
「はい。日本という国から来ました」
「旅のおかたが、たまたま出会った瀕死の老人を介抱してこのむさくしい庵に連れてきてくれた」
「見るに忍びなかったもので」
「わたしは人に名医と呼ばれたのは初めてだ」
藪井竹庵は悲哀を帯びた表情で囲炉裏の火を見つめた。諺に悪に強いは善にも強いと言うが、察するにこの医者は根っからの悪人というわけではなさそうだ。歌舞伎で悪役を演じる悪人形の役者は本人が悪人なのではない。あくまでも役の上で悪人を演じているだけだ。それに悪人こそ往生するにふさわしいと『歎異抄』では悪人正機説が説かれているではないか。
藪井竹庵は囲炉裏の火にかけた土鍋で野菜と山菜の灰汁抜きを続け、老人の椀にせっせと移した。老人は一口食べるたびに肌がつやを取り戻して若々しくなり、野暮ったかった姿がすっかり灰汁抜けした。藪井竹庵はミサの祈りを唱えた。
「キリスト教徒なんですか」
「あたりまえだ。連載六十九回で老人から聞いただろ。ここはアクスム、キリスト教の王国だ」
「忘れてました。いまの祈りは――」
「アグヌスデイだ。アニュスデイとも呼ぶが。キリストの贖罪的称号だ」
「アグヌスデイ――なんだか阿久根を思わせる懐かしい響きだ」
「アクネ?」
「ご存じないのも無理はありません。日本の鹿児島県というところの北西部にある市です」
「おまえさんは日本とやらいう国を離れて久しいのか」
「はい、もう何年経つのかわからないくらいです」
藪井竹庵は藁灰を水にひたして出した灰汁で絹を練り始めた。
「それも治療に使うのですか」
「いいや、これは内職だ。灰汁練りといってな、こうすると絹が美しく仕上がるのだ。――ところでおまえさん、旅の目的はなんだね」
「女です」
「女か。女なら選り取り見取りだ。この村には大きな遊郭がある」
「いえ、商売女ではなく、レイチェルというアメリカ人です。世界中を駆け回っているのですが捜しあぐねておりまして」
まるで悪念を抱いたかのように藪井竹庵の瞳がぎらりと光った。
「諦めちゃいかん。悪念力は岩をも穿つと言うではないか」
藪井竹庵はテントのような掘っ建て小屋の幄座にすわったまま筒井の眼を見つめた。筒井は医者の言葉を反芻した。悪念力か。思いつめた恐ろしい執念には物事を突破する力があるのかも知れない。レイチェルを捜し出せるなら悪魔に魂を売っても惜しくはない。筒井はボードレールが詩集『悪の華』で描き出した神と悪魔のはざまに引き裂かれた近代人の苦悩に苛まれた。ぼやぼやしていては埒が明かない。幄屋でのんびり過ごす場合ではないのだ。
「今夜一晩ご厄介になろうと思いましたが、やはり女を捜しに行きます」
「そうか。無理にお引き留めはしない。よかったらわたしの馬に乗って行きなさい。癖のある悪罵だが馬力はある。少々のことではへこたれん」
「どうせ女郎屋に行くんだろ、この腐れ外道が!」
テントの片隅からいきなり老婆の怒鳴り声が聞こえた。
「母さん! 客人に向かってなんという口のききようだ」
「ふん! 男はどいつもこいつも女の尻を追いかけ回すのさ。男なんかみんなくちばっちまえ」
悪婆は悪罵を浴びせた。
「黙れ! 母さんは握髪吐哺の故事を知らないのか」
「なんの話だ」
「吐哺捉髪とも言うが、むかし中国の周公旦は来客があると、それまで食べかけていたものを吐き、洗いかけた髪を握って出迎えたのだ。賢者がわざわざ忠告しに来てくれたときはどんな用事もすっぽかして耳を傾けるべきだという教えだ」
「この東洋人が賢者だと言うのかい」
「どう見てもぼんくらだ。けけけ」
坊主が横から口を挟んだ。
「――旅のおかたよ、行くあてはあるのか」藪井竹庵が訊ねた。
「それが皆目見当もつきません」
「ならこの手紙を持ってアクバルを訪ねるがいい」
医者は筒井に紙切れを渡した。
「アクバル? どなたですか」
「インドのムガル帝国の第三代皇帝だ」
「ムガル……ひょっとして十六世紀ごろの帝国ですか」
「そうだ」
「でも……いまは紀元五世紀ですよね」
「ああ」
「どうやって行けばいいんです」
「どうやってって……よく考えてみなさい。おまえさんは二十一世紀の日本から来たんだろ」
「はい」
「じゃあ、時空を越えるなんざ朝飯前じゃないか」
「俺が道案内してやるよ」
坊主が欠をしながら提案した。
また坊主につきまとわれるのか。今日はつくづく悪日だ。しかしムガル帝国への道順がわからない以上、断る理由がない。筒井は渋々承知した。
藪井竹庵の母親はテントの片隅で竹製の花器をいじっている。節と節とのあいだが長方形にくり抜かれ、人があくびをした形に見立てたところから察するに欠形であろう。筒井は藪医者から手渡された手紙の文面を眺めた。悪筆でとても読めた代物ではない。
「なんて書いてあるんですか」
「字が下手くそですまん。むかしからミミズののたくったような字だと悪評でな。だが心配には及ばん。アクバルに見せればたちどころに意味はわかる」
「老人はどうしましょう」
「わしのことなら心配はいらん。このとおり、すっかり元気になった」
老人がハキハキと答えた。
「でも、あなたは命の恩人です。なんのお礼もせずにお別れするのは忍びない。――こうしましょう。ムガル帝国に着いたら藪井竹庵先生とあなたに同じ金額の為替を振りこみます」
「なにを申す。それは悪平等というものじゃ。おまえさんはわしの病気を治してくれた。先生は名医の誉れを得た。これで充分じゃ」
「さっさと行こうぜ。ぼやぼやしてると日が暮れちまう」
欠を噛み殺しながら坊主が促した。
筒井は藪井竹庵に鄭重に礼を述べ、譲り受けた馬にまたがり、坊主を前にすわらせて出発した。風雨はいつの間にかやんで抜けるような青空が広がっている。
「ムガル帝国はどっちだ」
「あっちだよ」
坊主が指さすほうをめがけて筒井は拍車をかけた。馬が走り出した途端、ギャッという悲鳴が聞こえた。馬をとめると地面に女が倒れている。
「どこに眼をつけてるんだい、この明き盲!」
女が怒鳴った。
「これは失礼しました。ちょうど馬の頭の陰になってて見えませんでした。怪我はありませんか」
「服が泥だらけになっちまった」
「申し訳ありません」
「許さないよ! どこに行くつもりか知らないが、道中ひどい目に遭うよう悪魔に祈ってやる。野垂れ死にしやがれ! 末代まで祟ってやる!」
とんでもない悪婦に絡まれてしまった。筒井は再び拍車をかけ這々の体で逃げ出した。すると後方から石礫のようなものが次々に飛んできて頭に当たった。
「握斧だ。あの女め」坊主が憎々しげに言った。
「アクフ?」
「前期旧石器時代の石器。原始的な斧だよ」
「原始人なのか、あの女」
「どうせ売女さ」
坊主は退屈そうに欠びて言った。
程なくして目の前に海が広がった。アラビア海であろう。それまで青く澄みわたっていた空は黒雲に覆われ、海上には悪風が吹き荒れ、地面にはうっすらと雪が積もっている。農夫が苗代の雪を早く溶かすために雪の表面に灰をまく灰振りに余念がない。この海を渡ればムガル帝国があるインドに行ける。そのためには船を調達しなければならない。
「港はどこだ」
「さあね」
「さあねって……おまえ、道案内してくれるはずだろ」
「知らねえものは知らねえ。あいつに聞いてみたらどうだ」
筒井は馬を降りて農夫に声をかけた。
「あの、ちょっとうかがいますが」
「なんだね」
「船に乗りたいんですが、この近くに港はありませんか」
「船? どこさ行くだ」
「ムガル帝国です」
「インドか」
「ええ」
「何しに行くだ」
余計なお世話だと筒井は思ったが、ぐっと堪えた。
「アクバル皇帝に会いに」
「皇帝? おめえさんみてえに汚い服装をした人が皇帝に会えるわけなかんべ」
「本当なんです。その証拠に信書があります」
筒井は藪井竹庵から授かった手紙を農夫に見せた。
「どれどれ……こりゃまたひでえ悪文だな」
「読めるんですか」
「百姓だと思って馬鹿にするもんでねえ。ちゃんと読める。『アクバル皇帝、おまえの母ちゃんでべそ』と書いてある」
「嘘でしょう」
「嘘こくわけなかんべ! これだからわしは旅人が嫌いなんだ。旅の恥はかき捨てとか言って、土地の者を見ると馬鹿にしくさって。観光客が地元の人を見下すのは悪弊だ」
「いえ、決して馬鹿にしてるわけじゃありません。ひどい筆跡なので読めるはずはないと……」
「そうやって人を見くびるのが旅人の悪癖だと言ってるんだ!」
なぜか事態が悪変した。
「地元民をからかう旅人は絞首刑だぞ」
「そんな悪法があってたまるか!」今度は筒井が怒鳴った。
「旅人のくせにおらが村の掟に難癖つけるとは片腹痛いわ。地獄に墜ちろ」
農夫は筒井に悪報が降りかかるよう闇の帝王に祈りを捧げた。
「絞首刑なんてどう考えても理不尽だろ」
「悪法も又法なりという言葉を知らんのか。貴様のような無法者は悪魔に食われてしまえ」
二人が罵り合うのを坊主は馬の背に足組まえて見物しながらケタケタ笑っている。
「おお闇の帝王! この旅人に悪魔主義の力を見せつけよ!」
「なにが悪魔主義だ。そんなもの恐くはないぞ」
「飽く迄わしを馬鹿にするつもりか。帝王よ鉄槌を下したまえ! あじゃらかもくれん、てけれっつのぱー!」
悪魔派の農夫が呪文を唱えると黒雲が渦を巻いて海水を宙高く吸い上げ、激しい稲光が海面に次々と落ちた。トルネードは見る見るうちに筒井のほうに迫ってくる。
「悪魔払いしてやろうか」
出番が少なくて倦みの極みに達していた坊主が馬の背で足組みしたまま鼻をほじりながら言った。
「おまえにそんな能力があるのか」
「見損なうな。悪名高い坊主の神通力を見せてやる」
坊主は眥を決して農夫を睨んだ。
「かかってこい。俺が相手だ」
「ちょこざいな坊主め。いざ勝負! あじゃらかもくれん、てけれっつのぱー」
「テクマクマヤコンテクマクマヤコン、悪魔よいなくなーれ♥」
「ちちんぷいぷい」
「マハリークマハーリタヤンバラヤンヤンヤン♥」
「ビビデバビデブー」
「ラミパスラミパスルルルルルー♥」
「エクスペクトパトローナム」
「テクニク、テクニカ、シャランラー♥」
「エロイムエッサイム」
「アラビン、ドビン、ハゲチャビーン♥」
「寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚の水行末」
「ラリホーラリホーラリルレロ♥」
筒井は頭が痛くなった。なんなんだこの二人は。大の大人が映画やアニメの呪文を言い合っている。これを悪夢と呼ばずしてなんと呼ぼう。なんで坊主の呪文にはハートマークがついてるのか。しかも寿限無は呪文じゃなくて落語の登場人物の名前だし、ラリホーはアニメ『スーパースリー』の主題歌の歌詞じゃないか。ツッコミどころが多すぎる。
嵐はおさまる気配がない。筒井は事態がさっぱり好転しないのに倦んで地面に腰をおろし足組んで二人の戦いを見守った。坊主が何かを悟ったらしく叫んだ。
「貴様の悪目を見破ったぞ」
「なんじゃと?」
「あじゃらかもくれんは落語『死神』の呪文、寿限無も落語だ。毒には毒をもって毒を制す。落語の文句を食らえ!」
「なに?」
「先年神泉苑の門前の薬店、玄関番、人間半面半身、金看板銀看板!」
「あ! しまった!」
坊主が落語「ん廻し」の文句を唱えると農夫は胸に手を当てて苦しげにのげぞり、ばたりと倒れた。渦巻く雲に海水が吸い上げられ、海が真っ二つに割れた。天変地異に驚いた悪馬がヒヒーンと鼻を鳴らして暴れるのを筒井が手綱をおさえてなだめた。空は次第に穏やかになり、大海原には一筋の道が現れた。筒井は『出エジプト記』のモーゼのように、というよりは映画『十戒』のチャールトン・ヘストンのように仁王立ちして海の道を眺めた。
「この農夫は何者だろう」筒井が呟いた。
「きっと悪名高い妖術師だぜ」
「それにしてもおまえの魔力はすごい」
「えへへ。いつも悪物食いしてるからな」
「この道を通ればインドに行けそうだ」
「インドどころかカザフスタン共和国の首都アクモラにも行けるにちげえねえ」
「港を探す手間が省けて大助かりだ。さもなきゃ今夜はどこかの幄屋で過ごす羽目になるところだった」
「誰のおかげですかねえ」
「礼を言うのが遅くなってすまん。俺はてっきり、おまえは悪役だと思ってたよ」
「人は見かけによらないぜ、旦那」
「まったくだ。お互い旅の道連れ、これからは悪友ということにしておこう。ただし魔力を悪用するんじゃないぞ」
「心配ご無用だ」
筒井はひらりと馬にまたがり、坊主を手前に乗せて馬に拍車をかけ、真っ二つに割れた海の道をひた走った。いったいどのくらいの時間が経過したのかわからない。走りに走った末、港に着いた。インドのムガル帝国だと思ったのも束の間、そこはアフリカ西部、ガーナ共和国の首都アクラだった。
「エチオピアからインドをめざして東に向かったのに、なんでアフリカの西に着くんだ!」
筒井はふてくされて馬の背で胡座をかいた。
「道を間違えたんだ。ははは、このうすら頓痴気」
「海が真っ二つに割れてできた道を間違えるわけないだろ」
「迷ったときはもと来た道を戻るのが早道だぜ」
「それも一理あるな」
筒井は再び馬に拍車をかけて海の道を取って引き返した。程なくして道が二股に分かれた。
「ほらみろ。俺の言ったとおりだ」
「本当だ。全然気がつかなかった」
「この抜け作」
「うるさい。さっきは左の道から来たんだな。よし、こっちだ」
筒井は右の道を選び馬を走らせた。走りづめに走ると陸が見えてきた。海の道は広い街道に接続し、陸にあがって道なりに進み大きな山を越えるとインド北部、ムガル帝国の首都アグラに到着した。
「やったぞ! 最短コースでムガル帝国に着いた!」
「誰のおかげかねえ」
「おまえのおかげだ。ありがとう」
「言葉は要らねえ。金をくれ」
「金か。いまは一文もないが、あとでなんとかしてやる。さてと、アクバル皇帝に会いたいが、どこにいるのかな」
「あの人に聞いたらどうだ」
坊主が顔を向けたほうを見ると櫓のように高く組んだ胡床居に悪辣そうな人相の男が五六人、胡坐鍋を囲んで飲み食いしている。筒井は下から声をかけた。
「あの、すいません」
「なんだ」
「旅の者ですが、アクバル皇帝に会いたいのですが、どこに行けばいいでしょうか」
男たちは顔を見合わせてどっと笑った。
「どこの馬の骨か知らぬが図々しい」
「どうせ気狂いだ。構うとろくなことがないぞ」
「仮名垣魯文の滑稽小説『安愚楽鍋』でも読んで気が触れたのだろう」
「そうに違いない」
「ははは」
男たちはあざ笑って食事を続けた。
「決して怪しい者ではありません」
筒井は食い下がった。
「その証拠に、皇帝への信書をことづかっています」
「信書?」
胡坐鼻の男が筒井を見下ろして言った。
「誰からだ」
「藪井竹庵先生です」
「藪井竹庵……まさかアクスム王国の名医、藪井先生ではあるまいな」
「そうですけど」
男たちが急に真顔になった。
「そこでは話が遠い。こっちにあがって参れ」
筒井は言われたとおりに櫓を登り、男たちに交じって胡床をかいた。
「その手紙とやらを見せてくれ」
「これです。どうぞ」
胡坐鼻の男が文面を読んだ。
「うーむ、この筆跡はまごうかたなき藪井先生の直筆」
「あの……失礼ですが、あなたはどなたですか」
「わしか? わしは握蘭の職だ」
「アクランノショク?」
「弁官だ」
「ベンカン?」
「律令制の官名だ。太政官に直属し、左右に分かれ、左弁官は中務・式部・治部・民部の四省を、右弁官は兵部・刑部・大蔵・宮内の四省を管掌し、その文書を受理し、命令を下達するのが役目だ」
「では、アクバル皇帝の部下なんですね」
「いかにも」
「皇帝にお目にかかりたいのですが」
「本来であればお目通りは叶わぬが、藪井先生の言伝ならば話は別だ」
「会わせてもらえるんですね!」
「ああ。しかし間が悪い。皇帝は昨日から揚繰網に出かけておられる」
「アグリアミ?」
「魚の漁だ。長方形の網を打ち回して魚を囲み、網裾の沈子綱を繰りあげて捕らえるのだ」
「いつごろお戻りになりますか」
「明日には戻られるが、明日はアグリコラとの面会がある」
「どなたですか」
「アグリコラを知らんのか。十六世紀ドイツを代表する鉱物学者で医者だ」
「いま俺がいるムガル帝国も十六世紀に栄えた。話の辻褄は合っている……」
「何をぶつぶつ申しておる?」
「あ、いえ、独り言です」
「皇帝はアグリコラからアクリジンに関する講義をお受けになるのだ」
「アクリジン?」
「なんだおまえは、さっきから鸚鵡返ししおって」
「すみません。意味がわからないものですから」
「アントラセンに似た窒素化合物だ。分子式はC13H9N。この化合物を利用すれば作物の取れ高が二倍になる。古代ローマの武将アグリッパも活用してアグリビジネスの基礎を築いたのだ」
さすが皇帝だけあって多忙なのだな、会えるとしても早くて明後日、場合によってはもっと待たされるかも知れない、そのあいだどうやって過ごそうか――筒井が考えあぐねていると弁官たちが次々と立ち上がり、「悪竜だ!」と叫んで空を見上げた。巨大なドラゴンが火を吹きながら急降下して地面を嘗めるようにかすめたかと思うと天高く舞い上がり、全天を覆うほど長い体をうねうねと躍らせている。
「悪霊だ」
顎髯の長い弁官が叫んだ。
「悪霊民部卿の祟りだ」
「さすれば藤原忠文の怨霊か」
小柄な弁官が訊ねた。
「ああ、そうだ。忠文は天慶の乱で征東大将軍、西征大将軍として指揮を執ったが、乱が平定したのに恩賞をもらえなかった。一説によると藤原実頼の思惑によるらしく、忠文の死後実頼の子女が相次いで変死を遂げた。忠文が祟ったのだ」
「誰か、誰か竜を退治できる者はおらんか!」
胡坐鼻の弁官が大声で呼ぶと「おいらにまかせてくれ」と櫓の下から坊主が請け合った。
「おい、そこの坊主。おまえはこの旅の者の道連れか」
「そうでげす」
「竜を退治したことがあるのか」
「あるわけないだろ! いいからおとなしく大船に乗ったつもりでいろ」
「ずいぶん言葉づかいが悪い奴だな」
「言葉は乱暴ですが」筒井が割って入った。
「さっき海を真っ二つに割ったんです」
「そんな能力があるのか。よし、まかせた。頼むぞ」
「合点承知之助」
坊主は空を見上げてドラゴンを睨みつけた。竜は口から猛火を吹き出して坊主に襲いかかった。坊主はひらりと身をかわすとドラコンの首を両手でつかみギュッと握りしめた。怪物はギャオーと断末魔の叫びを上げ、体をのたうち回らせ、目を白黒させ、尾をぴくぴく動かしたが、やがてぐったりと力が抜けて息絶えた。
「すごい握力だ!」
弁官たちが驚嘆した。
「まるでヘラクレスだな。おい、誰か握力計を持ってきてくれ」
胡坐鼻の弁官が命じると村人が機器を持参した。
「おい坊主。でかしたぞ。あっぱれだ。ついでにこの握力計を握ってみてくれ」
「いいよ」
坊主が握って力をこめると握力計は木っ端微塵に砕け散った。
「恐るべき馬鹿力だな。褒美をつかわすぞ。何か欲しいものがあれば申せ」
「じゃあアクリルを」
「なに?」
「アクリル絵具」
「そなたは絵描きか」
「いや、ただの趣味だ。あとアクリル硝子を一枚とアクリル酸少々、アクリル樹脂とアクリル繊維も」
「何を作る気だ」
「ステンドグラス」
「おお、素晴らしい」
「アクリロニトリルがあればアクリロニトリルブタジエンゴムも作れるぜ」
「なんだ、その舌を噛みそうなものは」
「合成ゴム。摩耗しないし耐熱性能も高いから自動車部品やガスケットや燃料タンクに使うと便利だよ」
「まだ十六世紀だからどれも発明されておらん」
「あ、そうか。じゃあ今のうちに作っておいて、発明されたらすぐ部品として使ったらどうです」
「そいつは名案」
明くる月曜日、アクバル皇帝が漁から都に戻ったが疲労のため筒井は面会が叶わなかった。坊主はステンドグラスの制作にとりかかった。明くる朝、皇帝はドイツから来た鉱物学者で医者のアグリコラと面会した。坊主はステンドグラス制作に余念がない。筒井は暇を持て余し、ひとりでしりとりをして遊んだ。明くる今日、筒井はついに皇帝にお目通りが叶うと思ったが、皇帝は疲れがとれず終日宮殿にこもりきりだった。坊主はステンドグラスを完成させた。明くるつとめて、すなわち次の日の朝、皇帝の侍者が筒井を訪れ、できれば面会は明くる年に延期して欲しいと告げた。
「そんな殺生な……はるばるエチオピアから艱難辛苦を乗り越えて参ったのです。どうか、どうかこの手紙だけでも読んで下さいませ」
筒井が深々と頭を下げて懇願すると侍者は心打たれ、よろしい、ではあした宮殿に来なさいと話はすんなり決まった。
明くる日、筒井は宮殿を訪問しアクバル皇帝の居室に進み出た。皇帝は玉座に坐っていた。
「余と面会したいと申すのはそなたか」
「はい。筒井康隆と申します。小説家です」
「ほう、戯作者であるか。余は文芸を好むぞ。とくに最近はラノベに夢中である」
「ライトノベルをご存じとは。お見それいたしました」
「で、用件はなんだ」
「この信書をご覧いただきたいのです。藪井竹庵先生からことづかって参りました」
「ほう、藪井先生か。先生は達者か」
「はい、お元気でございます」
「その手紙をこちらへ」
「どうぞ」
筒井は前に進み出て恭しく信書を差し上げた。アクバル皇帝が手紙の文面を一読すると顔の色が見る見るうちに青ざめた。
「こ、これは……」
「どうかなさいましたか」
「この手紙を誰かに見せたか」
「いえ……あ、はい、旅の途中で、道を尋ねましたときに」
「迂闊であったな。これは悪例となる」
「わたくしが粗相をしてしまったのでしょうか」
「いや、問題は筆跡だ。悪霊の仕業としか思えん」
「どういうことでしょう」
「文字がアグレッシブすぎて、何が書いてあるのかチンプンカンプンだ」
頭を抱えたアクバル皇帝に筒井が来意を告げた。
「レイチェルという女性に関わるお手紙だと思うのですが」
「なに? レイチェル? どれどれ――おお、たしかにレイチェルと書いてある。そなたを外国使節として任命したい云々……なるほど、この手紙はアグレマンの要求書だ」
「アグレマンと申しますと?」
「そなたが知らぬのも道理だ。フランス語の政治用語でな、わかりやすく申せば、AとBという二つの国があるとしよう。AがBへの外交使節を任命する際、前もってBから了解を得ることをアグレマンと呼ぶのだ。つまりアクスム王国はそなたをムガル帝国への外交使節に任命したいというわけだ」
「わたしが……外交特使……」
「そうだ。喜ぶがよい。余も異存はない」
信書の内容がついに明らかになった。筒井はエチオピア王国の前身アクスム王国の外交特使としてムガル帝国に派遣されたのだった。筒井は自らを誇らしく思った。しがない三文文士の俺が外交官になった。悪路をものともせず旅を続けた甲斐があったな。インドに向かってエチオピアを出発したのにガーナに着いてしまったときは悪霊にからかわれたと思ったが、いまにして思えばあれは俺の知恵と勇気をためすための試練だったのだろう。
「信書にYTというアクロニムがあるが、これはそなたの名か」アクバル皇帝が訊ねた。
「アクロニムとはなんですか」
「頭文字だ」
「頭文字のYT――はい、筒井康隆のイニシャルです。間違いありません」
「よろしい。余はそなたをアクスム王国の外交特使として迎えるぞ。――おい、祝宴の用意をしろ」
皇帝の鶴の一声で家来たちがあっという間に宴会の支度を整え筒井を上座にすわらせて、宮廷お抱えの芸人たちがアクロバットの曲芸を披露してもてなした。白い巨大な柱が周囲に林立する宮廷の大広間は古代ギリシアのアクロポリスを思わせた。窓には坊主がこしらえたステンドグラスが嵌めこまれた。皇帝はいたくご機嫌で、華やかな宴会のあいまにアクロマチックレンズを備えた望遠鏡を設置して趣味の天体観測を始めた。
「おお、この電波は……!」
皇帝が唸った。一同は固唾を呑んで見守った。
「うむ、間違いない。この電波は十三億年前に太陽の三十六倍と二十九倍の質量をもつ二つのブラックホールが衝突して合体した際に生じた重力波だ。余は世界で初めて重力波を観測したぞ!」
テニスで一汗かいたあと筒井は皇帝に本題を切り出した。
「陛下、じつはレイチェルのことが気になっているのですが」
「レイチェル?――おお、そうであった。閣下が探しておられる女性だな」
「はい。藪井竹庵先生の話によると、居所は陛下がご存じだと」
「うむ。存じておる」
「どこですか。このムガル帝国に?」
「上尾だ」
「上尾?」
「閣下は日本人なのに上尾をご存じないのか。埼玉県東部の市だ。東に綾瀬川、西に荒川が流れておる」
「ええ、場所はわかりますが――本当に日本にいるのですか」
「詳しいことは知らぬが、なんでもアメリカの新作映画のロケをしているという話だ」
「映画のロケ……」
「そなたが探しておられるのはレイチェル・ワイズであろう?」
「レイチェル・ワイズ……」
筒井は混乱した。俺が探しているレイチェルは国際労働機関に勤務する黒人のアメリカ人だ。レイチェル・ワイズといえば『ハムナプトラ』でブレークしてアレハンドロ・アメナーバル監督の『アレキサンドリア』の主演に抜擢された白人の女優じゃないか。どうも別人だと思うが、問題は俺がレイチェルの名字を知らないことだ。上尾でロケ中の「レイチェル・ワイズ」と俺が探している「レイチェル」は同一人物なのかどうか。
「陛下、わたくしはさっそく上尾に参ります」
「もう行くのか。ずいぶん急な話だな」
「一刻の猶予もならないのです」
「お目にかかったばかりでお別れするのは忍びがたいが、急用とあってはしかたがない。ではこれを身につけて行くがよい」
アクバル皇帝は筒井に冠をかぶせ、冠の縁の左右に垂れ下がった緒を頭上にもちあげてまとめ上緒にした。
「日本へも外交使節として赴く以上、この動作も覚えておいたほうがよいぞ」
皇帝は広げた扇を顔の前から上へ引き上げて右脇へおろす能や狂言の上扇の所作を指南した。筒井は見よう見まねで手を動かした。
「いかんいかん、それではぎこちない。まるで元服して髪上げをしたときにかえって前より姿が劣って見える上げ劣りのようだ。掌をこう、手首をこう、それから腕全体をこうおろすのだ」
筒井は何度も腕の上げ下ろしを稽古するがいまくいかない。家来がスタタタと走ってきてアクバル皇帝の前に片膝を突いて報告した。
「陛下! 敵が軍勢を増して宮殿に迫りつつあります!」
「なに? すぐ揚げ貝を吹け!
皇帝が命ずると、本陣で軍勢引揚げの合図に吹き鳴らすホラ貝のブオーという音が宮廷の大広間に轟き渡った。
「筒井殿、この信書を天皇陛下に渡しなさい。アクバルがくれぐれもよろしくと申していたと伝えてくれ」
皇帝は巻紙にさらさらと筆を走らせ、天皇の名は行を改めて一段高いところに書き記した。上書の作法をちゃんと知っていることに筒井は感心した。
「さあ、これを携えてすぐ日本に向かいなさい。ちょうど潜水艦が一つ余っているからそなたに進ぜよう」
皇帝はガンジス川の畔に筒井を連れて行くと川底から木製の潜水艦が上げ舵をとって浮上した。
「道中腹がすくだろうからこの揚げ滓を持っていきなさい」
揚げ物をしたあとの油の残り滓なんかとても食えたものではないと思ったが、せっかくの厚意なので受けとった。
筒井が乗りこみ、揚げ滓をぐいと一飲みするとと潜水艦はブクブクと水中に沈みガンジス川からベンガル湾に出て、翌日の明け方には東京湾に達して浮上した。筒井は気分が悪くなりハッチを開けて首を外に出して新鮮な空気を吸った。明烏の鳴き声が夜明けを告げている。見渡す限り懐かしい東京の景色が広がる。蕪村一派の高井几董が編集した俳諧集『あけ烏』の中にこんな景色を詠んだ句があったような気がするぞと筒井は思った。そういえば新内にも明烏夢泡雪という代表曲があったなあ。潜水艦は晴海埠頭に接近した。江戸時代に幕府や大名に上納した上げ金もこの港を経由してやりとりしたのだろうか。考えてみれば大名は結構な身分だよ。金も名誉も女も思いのままだ。それにひきかえこの俺はどうだ。ベルギー、アルプス、エジプト、メキシコ、エチオピアと世界中を駆け回った挙句、レイチェルとは生き別れのまま潜水艦で日本に帰るなんてとてもまともな人間の人生じゃない。
筒井は東京湾にさしかかるころから船酔いで嘔吐と下痢を繰り返していた。あまりにも上げ下しが激しくて脱水症状になり、挙句の果て意識を失った。
目が覚めると筒井は仰向けに寝そべっており、狩衣に烏帽子をかぶった男が心配そうに顔を覗きこんでいた。首の周囲をかこむ丸襟の首紙の紐をかけ合わせて留めた襟は盤領で、どう見ても平安時代の公家である。
「ここは……どこですか」
「おお、気がついたか」
筒井が上体を起こそうとすると「これこれ、まだ動いてはならぬ」と男にたしなめられた。
「あなたは……?」
「源頓馬と申す。人は粗忽宮大納言と呼ぶが。このむさくるしい陋屋に明け暮す者だ」
「わたしはいったいどうやってここへ……?」
「先日芝の浜を歩いていた折のこと、そなたが波打ち際に横たわっていた。放っておいては命に関わると思い、わたしが家にお連れ申した」
「先日? いつですか」
「かれこれ一週間になるかのう」
「一週間……」
「そなたは覚えておらんと思うが、明け暮れに粥を啜って一命をとりとめた」
「あなたがお世話して下さったのですか」
「世話というほどではない。毎日自炊に明け暮れておるついでだ」
蒲団に横臥したまま筒井は天井を眺めた。明け暗れとおぼしき薄闇が次第に明るくなってきた。筒井が上体を起こすと粗忽宮は腕で背中を支えてやった。縁先は広い庭で、男が四人上げ輿を肩に担いで現れた。
「そなたは上尾に参るのであろう」
「なぜご存じなのですか」
「一週間前、神棚に上げ事をお供えしたときにお告げがあったのだ。上尾に行く旅の者を救えと」
「じつはそのとおりなのです。レイチェルという女を探しに上尾に向かう途中なのです」
「ではこれに着替えなさい」
粗忽宮は深紅の緋袍を筒井に着せた。庭では四人の男たちが輿の轅を上げ下げして準備運動をしている。
「病み上がりの身だ、くれぐれも無理をなさらぬよう。どうか道中ご無事で」
「ありがたき幸せ。ではごめん」
筒井は上げ下げを取って平安貴族っぽく挨拶し、輿に乗りこんでどっかと坐った。先棒の男二人が勢いよく轅を担いだ上げ様に輿が斜めになり筒井は庭に転がり落ちた。尻を撫でながらもう一度乗りこみ、輿は無事に出発した。夜はいつしか明けさり、筒井は思いもよらずやんごとない平安貴族のあしらいを受けてあけしい気分で浮き浮きした。芝の浜は上げ潮で、朝日の光が波にきらきら輝いている。輿の入口の上部には上げ蔀がちょうど庇になって直射日光を避ける仕組みだった。突然前方から町人が走ってきて輿の前でピタリと止まった。
「どうか、どうかこれをお読み下さい!」
差し出された紙を先棒の男が手にとって目を通した。
「なになに……これは江戸時代に裁判の経過を詳しく記した上証文ではないか」
「そのとおりです」
「いまは平安時代だぞ」
「あ!」
「このうつけ者めが。邪魔だ、そこをどけ」
平安時代を江戸時代と間違えたそそっかしい男はへいこらして後方に去った。
筒井を乗せた輿はあらためて埼玉県上尾市に向かって進み始めた。筒井はご満悦である。なにしろ平安貴族の出で立ちで立派な輿に乗せてもらい、男四人が担いでくれるのだから楽ちんなことこの上ない。簾越しに景色を眺めると周囲は田んぼばかりで、田植えを行なう前、最後の仕上げに行なう代掻すなわち上げ代の真っ最中だ。農夫たちは三日に上げず土を砕いて掻きならし、全身泥だらけである。
「百姓はご苦労なこった。俺は輿から高みの見物、ああ愉快、愉快」
筒井はあけすけに百姓を馬鹿にして揚簾戸をバタンバタンと開け閉めしてはしゃいだ。すると行く手を不開の門が遮り、輿がぴたりと止まった。いかめしい口髭を伸ばした屈強な男が背丈の倍近くある長い棒を地面に突き立てて仁王立ちになり門前を警めている。
「名を名乗れ」口髭の男が怒鳴った。
「筒井康隆と申す」
「なに? ツツイヤスタカ? 聞いたことがない。怪しい奴め、この先は一歩たりとも通すわけにはゆかぬ。踵を返してとっとと失せろ」
「そこをなんとか。埼玉県の上尾市に急用があるのだ」
「どうしても通して欲しければ上げ銭をよこせ」
「アゲセン?」
「手数料だ」
「金は……一文もない」
「では諦めろ」
「こう見えても粗忽宮の使者だ」
「なんと! 本当か」
輿を担ぐ四人の男がうなずき合った。
「これはご無礼申した! 粗忽宮の使いとは存ぜず、失礼の段、平にご容赦を。これ、膳部をもて!」
男が命じると部下が三四人豪華な料理を載せたお膳を運んできて恭しく差し出した。筒井は輿から下りて地べたにあぐらをかき、さっそく料理に箸をつけた。思いがけず上げ膳据膳のもてなしを受けラッキーと思ったらお膳はすべて上げ底で重箱の中身はすっかすか、まるで二〇一一年の正月に起きたグルーポンのバードカフェのスカスカおせち料理である。
「こんなものが食えるか!」
筒井は星一徹のようにお膳をひっくり返した。
「うまい米を食わせろ!」
怒鳴りながら男の背後を見ると小高い丘に水はけのよい上田がある。
「あの田んぼで獲れた米をくれ!」
「しかし、いま田植の真っ最中なので、来年まで待っていただかねば」
「やだやだ、いますぐ食いたい」
筒井が両手両足をばたつかせて駄々をこねると口髭の男がそばに来て身をかがけ、筒井に耳打ちした。
「あいにく米は無理ですが、その代わりに揚代を――」
「アゲダイ? なんだそれは」
「芸妓を揚屋に呼んで遊ぶ金です」
「芸者か」
筒井は思わずにんまりした。
「食欲は性欲は人間の二代快楽。おまえ、なかなか話がわかるじゃないか」
「えへへ」
「越後屋、おぬしも悪よのう」
「はっはっは」
口髭の男が越後屋という名前かどうかは知らないが、こういうときは越後屋と呼ぶのが通り相場だ。二人は肩を揺すって笑い合った。不開の門の門番は普段から袖の下をたんまりもらっているらしく、通行料の上げ高には事欠かず、「お口直しにこれを」と揚出し豆腐を筒井にご馳走した。筒井はぱくぱく食べて、芸者遊びの金までもらい、再び輿に乗って上げ畳にどっかと腰を下ろし、門をくぐって上尾に向かった。輿を担ぐ四人の男は夜を徹して歩きづめに歩き、夜が明け立つころ埼玉県の上尾市に到着した。
この町のどこかにレイチェルがいる――筒井は興奮して輿の簾を乱暴に開け閉てした。簾は留め金が外れてだらりと落ちた。
「この乱暴者! ここから先は歩け!」
四人の男は愛想を尽かして輿を置き、スタスタと元来た道を戻った。筒井が渋々輿から下りると周囲は原っぱで、狩衣を着た男たちが馬に跨がり、ポロのように棒で毬を打ち合っている。打毬だ。予定の数の毬を先に鞠門に入れたチームが勝利決定の印に金色の揚げ玉を最後にぽーんと投げた。毬は的を外れてコロコロと筒井の足もとに転がった。筒井は毬を蹴り返そうと右足を勢いよく振り下ろしたが、空振りしてすってんころりんと尻餅をついた。
「うまいぞ」男たちが冷やかした。
「下手くそ」
「いやいや、なかなか見事な転びっぷりだ」
男たちは無様な姿を上げたり下げたりした。筒井は起き上がって訊ねた。
「レイチェルという女を知りませんか」
「レイチェル? もしや明智の家に寝泊まりしている女のことか」
「きっとその女です。家はどこですか」
「この道をまっすぐ行くと上地がある」
「アゲチ?」
「領主に没収された土地のことだ。家はそこにある。花嫁が乗るのに使う飾り馬の明智鞍が目印だ」
「ありがとうございます。名前は明智――でしたね」
「ああ、明智秀満だ。明智光秀の婿殿だ」
「明智光秀って……安土桃山時代の武将ですよね」
「当たり前だ」
「でも、いまは平安時代では……」
「なにを寝ぼけておる。さては狐に化かされたな」
男たちがどっと笑った。筒井は頭を抱えた。俺はいったいどの時代にいるのだ。まるで国庫の対民間収支において受取りが支払いを超過する揚超に陥ったように頭が混乱した。さっきまで平安時代だったのに気がついてみると安土桃山時代だなんて。この調子でいくと天保改革の上知令が布告されてもおかしくないぞ。逆に時代を遡って、官位を高くする上げ官が行なわれた鎌倉時代になっても不思議ではない。ああ、気が狂いそうだ。もう冒険はこりごりだ。長野の家に帰りたい。庭いじりがしたい。梨の木を揚接ぎしたい。しかしそのためにはレイチェルを捜し出さねばならぬのだ。明告鳥が鳴く前に見つけ出そう。
男たちに教わった家に行ってみると扉が開けっ放しだった。
「ごめん下さい」
「誰だ」
明智光秀が出てきた。
「藪から棒ですみませんが、レイチェルという女がこちらにいませんか」
「レイチェル?」
「はい。明けっ広げな性格の黒人です」
「黒ん坊か。知らんな。――おい、おまえ、壺皿はちゃんと伏せろ。揚壺は許さんぞ」
光秀は家の中で博打をしているらしい男に向かって怒鳴った。
「賭博をしてるんですか」
「そうだ。芸者や遊女を揚げ詰めで毎日愉快に暮らしておる。どうだ、羨ましいだろう。あっはっは」
「あっはっはじゃねーよ」
筒井は声を荒げた。
「俺が必死にレイチェルを探してるのにおまえは丁半博打か。ふざけるな! だからてめえは本能寺の変のあとで殺されるんだ」
光秀は筒井の論いに目を白黒させた。
「なんの話だ」
「本能寺の変っだよ。おまえは信長を自害させるが、十一日後に羽柴秀吉と戦って負けて土民に殺されるんだ。博打で運を使い果たしたのさ。ざまあみやがれ」
光秀の遊び癖を論う筒井はひとりで勝手にまくし立てた。
「おまえ、歳はいくつだ」
「明けて五十だが」
「あと五年の命だな。言っておくが、秀吉に滅ばされるのは挙げておまえの自業自得だ」
家の奥から揚手拭すなわち姉さん被りをした女房が出てきた。
「おまえさん! いい加減に博打はやめとくれ! 明けても暮れても賽子振って丁だの半だの賭け事に狂いやがって。娘に示しがつかないじゃないか」
玄関の脇の揚戸が開き、花嫁姿の娘が顔を出して両親の喧嘩を眺めた。
「これでも食らえ!」
怒り心頭に発した女房が揚げ豆腐を光秀の顔面に投げつけた。
「何をしやがる、この野郎! てめえは昨日の揚げ斎、死んだ爺さんの最終年忌の法事でも食い物を粗末に扱ったな。出て行け! この手紙を持ってとっとと里に帰れ! 表書きにはおまえの実家の上げ所が書いてある」
「離縁するって言うのかい? この穀潰し!」
女房は揚げ物に使う揚げ鍋をぶん投げて光秀の頭にゴツンと当たった。光秀は船から陸揚げしたばかりの揚荷を手当たり次第につかんで女房に投げつけた。玄関の外に待機していた婚礼用の明荷馬が騒ぎに驚いてヒヒーンと鳴き前脚をばたつかせた。光秀と女房は包丁を投げ合い、二人とも刃物が腹や胸にぐさりと刺さって血を流し、あたり一面朱に染まった。
「お逃げなさい」花嫁が筒井に言った。
「え? わたしは何もしてませんけど」
「わたしは花嫁、あなたは突然やって来た赤の他人。あなたが真っ先に疑われます。ぼやぼやしてると近所の人が押しかけてきますよ。さあ、早く」
筒井はわけもわからず家を飛び出た。俺は無実だ。しかし痛くもない腹を探られるのはご免だから逃げておいたほうが得策だろう。レイチェルはこの町のどこかにいるはずなのだが、どこに行けば会えるのだろう――
筒井は上尾市の街道を一晩中ほっつき歩いた。明けの鐘がゴーンと鳴り、西の空に明け残った月が冷たく光っている。
街道の向こうから天皇の御湯殿に奉仕する蔵人が白い生絹の帷子すなわち明衣を身につけてやって来た。筒井は藁にもすがる思いで訊ねた。
「すみません、旅の者ですが、この町にレイチェルという女はいませんか」
「レイチェル? 聞いたことのない名前だ」
「黒人で、アメリカ人です」
「アメリカ人? メリケンか。私は天皇陛下にお仕えする身。下々のことは何も知らん」
「そうですか……」
「あの男に訊いてみなさい」
示されたほうを見ると赤い緋衣を着た男が少し遅れてやって来た。平安時代には位階によって衣服の色が異なり、四位は深い緋色、五位は浅い緋色だ。淡い色に見えるから五位の役人だろうか。筒井は役人に声をかけた。
「あの、すみません」
「なんだ、朝っぱらから。なんの用だ」
「つかぬ事を伺いますが、レイチェルという女をご存じありませんか」
「存じておる」
「本当ですか!」
「役人を疑うのか。不届き千万!」
「いえ、疑ったりしません。信じます! どこに行けば会えますか」
「あの赤のそほ船に乗るがいい」
「船? どれですか」
「おまえは盲か。あそこに真っ赤な船があるだろ」
見ると確かに赤く塗った船が川に浮かんでいる。筒井は丁重に礼を述べて船に乗りこんだ。
「船頭さん、レイチェルという女に会いたいのですが」
「レイチェルか。よしわかった」
船頭は「舟が出るぞー」と大声を出して棹をぐいと水底に押しつけると舟はすべるように川を下り始めた。もうじき明けの春を迎える歳末の川風が肌に心地よい。船頭は一昼夜休みなく舟をこぎ続け、明けの日、深い山あいの村に着いた。
「ここは……どこですか」
「明延鉱山だ」
「アケノベ?」
「兵庫県養父郡の鉱山だ。錫の産出量は日本一だ」
「兵庫?」
東の空に輝く明けの明星を見上げて筒井は茫然とした。
「花の浮き木の亀山や~安居のみ法と申すも~♪」
船頭は筒井にお構いなしに機嫌よく唄を歌った。
「暢気に唄なんか歌いやがって。なんの唄だ」
「謡曲『百万』だ」
「謡曲って……能狂言の能か」
「ああ。この部分は上端といって上音で歌うんだ」
川の上を一匹の揚羽がひらひらと飛んだ。
「能は難しくて専門用語はまるでわからん。俺はレイチェルを探してるんだ。どこに行けば会える?」
「あそこの揚げ場で訊いてみろ」
「アゲバ?」
「船荷を陸揚げする場所だ。ほら、あそこに人がいるだろ」
揚羽蝶の群が舞う中、船頭は舟をゆっくり波止場に寄せた。筒井は桟橋に降りた。人夫が舟の荷をせっせと降ろしている。岸辺の民家はなぜかどこも扉や窓が開け放しだ。この村には家の開口部を開け放す風習でもあるのだろうか。いくらひなびた村とはいえ扉も窓も開け放つとは物騒な気がするが、どうせ俺は余所者だ、村の風習なんかどうでもいい。
夜はすっかり明け離れた。筒井は船荷を降ろす人夫に歩み寄った。人夫は印半纏を着ており、背中に大きな揚羽蝶を側面から描いた揚羽蝶という紋が染め抜かれている。
「あの、お仕事中すみませんが」
「なんだ」
「レイチェルという女を探しているのですが」
「レイチェル?――ひょっとして毛唐か」
「そうです。外国人、アメリカ人です。どこに行けば会えますか」
「おらはよく知らねえが、揚浜に毛唐の女がいるっていう噂だ」
「アゲハマ?」
「塩田だ。満潮より高い浜辺の砂の上に海水をまいて天日で水分を蒸発させるんだ」
「浜辺? じゃあ海の近くにいるんですね」
さっきから顔のまわりを蝶がしつこく飛び回る。黒鳳蝶かなと思ったが蝶ではなく擬鳳蝶という蛾だ。手で虫を追い払いながら筒井はさらに訊ねた。
「海に行きたいのですが」
「そう言われても、舟宿はみんな明け払って誰もおらん。舟を出せるのはわしだけだ」
「どうか連れて行って下さい。お礼はたんまり弾みます」
「わしでよければ舟は出すよ。でも今日は疲れたから、そこの幄で一晩休んで、明日の朝出発してもいいか」
「ええ。お願いします」
「その代わり、おまえさんは夜通し起きて番をしてくれ。このごろは物騒でな」
二人は川原に設置された四隅と中央に柱を立てたテントのような掘っ建て小屋で一晩過ごした。船頭が高いびきで眠るあいだ筒井は不寝の番をした。
東の空が白み明け番になった。眠い目をこする筒井に「ほれ、朝飯代わりに食え」と船頭が茹でた木通を振る舞った。二人でむしゃむしゃ食うとテントの中に通草木葉という蛾がたくさん入ってきた。前の羽は木の葉のような濃褐色で中央に緑色の紋があり、後ろの羽は橙色で黒い巴紋がある。昆虫が大嫌いな筒井は上げ庇を上げて外に飛び出した。
「おい、通草はもう食わねえのか」
「お腹いっぱいです。ご馳走さまでした」
空高く揚げ雲雀がピーチクピーチクと囀りながら飛んでいる。船頭がテントから出てきて「ああーよく寝た」と気持ちよさそうに声をあげ、ラジオ体操のように神楽の揚拍子を舞った。ひとしきり踊るとテントの幕をすべて明け広げ、朝風が吹き通うテントの中に坐り直して精進料理の揚げ麩を食べ始めた。
「おい、おまえさん、食わねえか。もう蛾は来ねえぞ」
「結構です。ところで、そこに積んである荷物はなんですか」
「え? ああ、これかね。揚不足でな、勘定が合わねえんだ」
アゲブソクとはなんですかと筒井が訊ねると、船に積んであった貨物を陸揚げ地で引き渡すとき、その数量が足りないことだと船頭が教えてくれた。
「よくわかりませんが、船頭さんもいろいろ大変なんですね」
「別に大変なことはねえよ」
船頭はちょっと得意な顔をして床の上げ蓋を取ると地面の中から二重構造の揚舞台がせり上がってきた。
「川原にこんな仕掛けがあるんですか」
「山奥の田舎だからって馬鹿にするもんでねえ。揚げ法事には遺族が集まってここで踊るんだ」
どこから来たのか舞台の上に白い揚帽子をかぶった花嫁が坐り、奥の壁には上羈絆で宙吊りにされた罪人が手足をばたつかせながら「春は曙やうやう白くなりゆく山際」と『枕草子』を語り始めた。すると淡紅に黄みを帯びた曙色の着物を着た女が三人、曙杉の枝と曙草を両手に持って現れ踊りだした。着物は曙の空のように上が紅色で、裾は白くぼかして染めた曙染である。
「この人たちは?」筒井は呆気にとられて船頭に訊ねた。
「役者だよ」
「プロの俳優ですか」
「いや、村人だ。客人を迎えたときに唄と踊りを披露するんだ」
「客人? ひょっとしてわたしのことですか」
「んだ」
「わざわざこんなことしてもらわなくてもいいんですよ」
「ぶっちゃけた話、面倒でならねえんだ。最近はお上がやかましくてな、上本といって、どんな唄と踊りを披露するか、前もって興行願書と一緒に警察に正副二通の台本を提出しなくてはならねえ」
「まるで戦前ですね」
「それだけじゃねえぞ。こんなちんけな舞台でも維持管理には結構金がかかる。とても村の予算ではまかなえん。だから大名は周囲の町や村に毎年百石の上米を上納させてるんだ。そのせいでまわりの村からは白い目で見られてる」
「上米って、たしか徳川吉宗が享保の改革で採用した制度ですよね」
「知らん。――ほれ、揚巻が始まった」
舞台では花嫁が歌舞伎舞踊を踊り始めた。朝日が照らす川原のそばの田んぼでは農夫が水に浸した浸した籾を筵の上に広げ、乾くのを待ってすぐまく揚播きに精を出している。花嫁の踊りが終わると髪を総角に結った少年が現れ、『源氏物語』第四十七帖「総角」を諳じながらナタマメガイ科の二枚貝揚巻貝を筒井に向かってめったやたらに次々と投げつけた。筒井はテントの片隅に転がっていた鎧を手にとり、背面に三枚ある立挙のうちの真ん中の総角付の板で顔を隠して身を守った。テントの屋根の揚巻結びの紐がはらりと解け、舞台の花道の揚幕がサッと上がると、元服して髪上げをした姿が童子のときよりもすぐれて見える上げ優りの少年がもう一人登場し、今度はどんな出し物を見せてくれるのかと思ったら舞台に仰向けに寝て膝を立てる挙股の格好でのんびりくつろぎ、そのまますやすや眠ってしまった。
「なんですか、この見世物は。意味がさっぱりわからない」筒井が呆れた。
「意味なんか聞かれてもわしにはわからねえ。長野県木曽郡上松から伝わった風習でのう」
「地元の行事じゃないんですか」
「違うよ。この村の者はみんな上松から流れて来たんだ。この村独特の行事は揚松くらいのもんだ」
「アゲマツってなんですか」
「お盆の行事でな、柱のてっぺんに籠を乗っけて藁や鉋屑を入れて、下から松明を放り上げて火をつけるんだ」
周囲の家が騒がしくなった。つきあげると戸が庇のようになる揚窓から村人が続々と外に出て来て蹴鞠を始めた。最初の男が上鞠をぽーんと高く蹴り上げた。上鞠は高からず低からず、掛かりの木や人に当たらないように蹴らなくてはならないが、男は初心者と見えて隣の男に鞠を当ててしまった。
「下手くそ!」
一斉に野次が飛んだ。男は逆上し、刀心の先を切り取って短くした刀剣を抜き出し、民家の軒先に垂れ下がっていた紐をぷつりと切ると、高所へ上げられた揚水が滝のように流れ落ちてあたり一面が洪水になった。あっと叫ぶ暇もなく筒井と船頭は男たちともども水流に揉まれて川に流された。村はアレクサンドロス大王に滅ばされたアケメネス朝ペルシャの末期の様相を呈した。
やっとの思いで岸に泳ぎ着いた筒井はあたりを眺めた。川におびただしい水死体が浮かんでいる。船頭も犠牲になった。一命をとりとめてほっとしたのも束の間、背後から女の声がした。
「揚げ餅食わねえか」
「揚げ餅? 暢気なこと言ってる場合じゃないでしょう。洪水ですよ」
「この村はしょっちゅう水が出るんだ。珍しくもなんともねえ」
「そうなんですか」
「餅が嫌ならほかにも揚げ物がいろいろあるよ。野菜、魚、肉……」
「食事なんかする暇はない。わたしは女を探しているんです」
「女か。女ならよりどりみどりだ。ついてこい」
女は筒井の手を引っぱって揚屋に連れこんだ。なるほど遊女が大勢いる。中でもとりわけ目を引く女が前帯に裲襠をふわりと羽織り、高下駄をはいて八文字を踏み、若衆に新造、禿を従えてしゃやりしゃなりと歩くのは遊女屋から揚屋に行く揚屋入りの儀式であろう。
「あーらいらっしゃいませ、旦那。今日はどの娘とお遊びですか」
揚屋花車すなわち揚屋の女主人が筒井を客だと決めつけた。
「いや、わたしは女を探してるんだ」
「ご覧の通り、大勢いますよ。立ち話もなんですから、どうぞお上がりなさい」
店に入ると磨き抜かれた広い階段があり、二階の部屋に通された。程なくして花柳界では揚屋紙と呼ばれる半紙を懐に挟んだ若い遊女が「高尾です。失礼します」と挨拶して部屋に入ってきた。
「いや、俺は客ではない。これは何かの手違いだ」
「そんなことおっしゃらないで、ま、おひとつどうぞ」
高尾は盃に揚屋酒をついで筒井に手渡した。
「違うんだ。俺は人を探してるだけだ」
「でも主は揚屋差紙でわちきを指名して下さったではありんせんか」
「アゲヤサシガミ?」
「揚屋から遊女屋へ、お客さまが指名した遊女の名を記して呼びにやる手紙でありんす」
「そんな手紙は書いた覚えがない」
「もちろん書くのは揚屋の女主人でありんす。ここにちゃんと『筒井康隆』と書いてありんす」
「え! そんな馬鹿な!」
なぜか俺が花魁を指名したことになっている。誰の仕業だろう? しかしこの花魁、小股の切れ上がったいい女だ。ここで出会ったのも何かの因縁、今夜はちょっと遊ぼうか――
筒井は高尾太夫と酒を酌み交わした。久しぶりに飲んだせいか、すぐに酔いつぶれて正体をなくした。
* * * * *
目が覚めた。雀がチュンチュン鳴く声が聞こえる。朝か。遊郭の夜は明け易いのだなあ。それにしても夕べは楽しかった。これから毎晩通おうかなあ。男と生まれたからには「あいつは揚屋柄を握ってるね。さすが通人だ」と噂されてみたいもんだ。この村に住みつこうかな。きっと村人が自由に使える明山があるだろうから畑仕事でもして暮らして、夜は揚屋町に繰り出す。一晩中どんちゃん騒いで花魁と枕を並べて、まだ明け遣らぬ空を蒲団から眺める――最高の人生じゃないか!
「たわけたことを申すな! あけらかんとしやがって!」
突然耳元で男の怒鳴り声が聞こえた。
「うわ、びっくりした……あなたはどなたですか」
「朱楽菅江だ」
「え? 聞いたことありませんけど」
「江戸後期を代表する狂歌師にして戯作者の拙者を知らぬと申すか!」
何が起きたのかわからない筒井は事の意外さに呆れてあけらぽんと男を見つめた。
「いつまで寝ている気だ。もう夜は明けたぞ。さっさと起きろ」
朱楽菅江が障子を開けた。眼下に海が広がっている。菅江は筒井を蹴飛ばして蒲団を上げた。蒲団から転げ落ちた筒井は目を白黒させて訊ねた。
「ここは……どこですか」
「上路の山に決まっておる」
「アゲロノヤマ?」
「新潟県の西の端、日本海を望む山だ。親不知の上にあって山姥が住み、里人をたぶらかす難所だ」
「新潟……? 本当ですか」
「つべこべ言わずにさっさと起きろ。今日はこの家の明け渡しの日だ。ぐずぐずしていると貴様の命もとられるぞ」
「明け渡すって……ここはあなたの家ですか」
「当たり前だ」
夜はすっかり明け渡り、カモメが嬉しそうに鳴いている。
「借金で首が回らず、ついに我が家を手放す羽目になった」
「なぜ借金を?」
「日本赤十字社に多額の寄付をしたのだ」
「わざわざ借金して、ですか」
「そうだ。これも世のため人のためだ」
「あなたは善人だ。なのに家を奪われるなんてひどすぎる」
筒井は朱を奪う紫という諺を思い出した。間色である紫が正色である朱より人目を引き、もてはやれる。悪が善にまさることのある世の不合理をいう諺だ。
「人生にはアゲンストの風がつきものなのだ。わしはもう観念した」
義憤を覚えた筒井が海を眺めると海岸に松明が見えた。
「あれはなんですか」
「下火だ」
「アコ?」
「禅宗で葬式のときに導師が遺骸に点火する儀式だ。吾子の死に目に会えぬとは、親としてこんなに悲しいことはない」
「え? 亡くなったのはあなたのお子さんですか」
「そうだ。彼所で葬儀の真っ最中だが、わしは列席を禁じられた。それもこれも借金のせいでな」
縁側に鶏がやって来た。足の後ろに突き出ている距すなわち蹴爪を靴脱石にこすりつけては顎を上下させている。
「朝飯を食うが、貴様もどうだ」
「御相伴にあずかってもいいんですか」
「勝手に人の家に転がりこんできたくせに」
「すみません。何がどうなってるのか自分でもわからなくて」
菅江は魚の味噌漬けと潮汁を振る舞った。
「うまい! 出汁がきいてますね」
「出汁は飛魚でとった」
「アゴって、もしかしてトビウオですか」
「ああ。女房の里が福岡でな。網子が地引網を引くとトビウオが山ほど獲れたもんだ。その女房にも三年前に先立たれてしまった」
筒井は身につまされてしくしく泣いた。
「おい貴様。わしの女房になってくれぬか」
「はぁ?」
「いやいや、女に化けろというのではない。身の回りの世話をしてもらいたいだけだ。男やもめはなにかと不便でのう」
「でも……」
「一緒に住めとは申さん。毎日通ってくれればよい。顎足付きで雇ってやるが、どうじゃ」
「でも、この家は明け渡すんでしょう?」
「そうじゃった……」
菅江はがっくりと肩を落として庭の一点を見つめた。高さ二十メートルはあろうかと思われるクワ科の亜熱帯高木赤秀が大きな枝を広げている。
「この味噌漬けは?」
「赤魚だ。アコウダイとも言うが――そうだ! 赤穂に参ろう」
「アコウって、どこですか」
「兵庫県南西部の町だ」
「え? 赤穂浪士の、あの赤穂?」
「そうだ。越州の片田舎で一生を終える俺様ではないわ! 赤穂で一旗揚げよう! 赤穂城の堀には魚がウヨウヨいるのだぞ」
「そりゃあ、いるでしょうね、お堀だから」
「馬鹿者! 貴様に魚の何がわかる! 亜綱を知ってるのか」
「え?」
「生物分類上の一階級だ。網と目のあいだだ。たとえば軟骨魚網は板鰓亜綱と全頭亜綱に分類される」
「生物学はチンプンカンプンです。文系なので」
「ふん、そんなことだろうと思ったわ。わしの先祖は阿衡――といっても貴様にはわからんだろうが、早い話が摂政だ――その摂政に仕えた画工だった。阿号を用いるのを許されて、名前の下に「阿弥」をつけて黙阿弥と称した」
「魚となんの関係があるんですか」
「魚の絵を描くのが得意だったのだ。――つまらぬ話はさておき、さあ、赤穂に行くぞ。貴様も一緒に来い。赤穂義士になろう」
朱楽菅江の一方的な誘いに筒井は戸惑った。
「なろうって言われても、わたしは吉良上野介に怨みはありませんけど」
「案ずるには及ばん。指南書がある。これを読めば義士になれるぞ」
菅江は文机から一冊の本を取り出した。
「なんの本ですか」
「室鳩巣の赤穂義人録だ。赤穂義士を称揚する立場から事件の経過と小伝を漢文で記した書物だ」
「ちょっと待って下さい。事件の経緯を記したってことは、もう事件は終わってるんじゃないですか」
「あ!」
菅江は本を床に落として膝をつき、亜高山帯の植物のようにしおれた。
「そんなに落ちこまないで下さい。ほら、この阿候鯛の味噌漬けでも食べて」
「わしとしたことが迂闊だった。このあいだも阿衡の紛議に間に合わなくて臍を噛んだばかりだというのに」
「アコウノフンギ?」
「宇多天皇即位の初めごろ、藤原基経を関白としたときの勅書に『宣以阿衡之任為之任』と書いてあったので、基経は阿衡は地位だけで職務はないと言いがかりをつけて政務を行なわず、廷臣たちが阿衡の語義をめぐって議論した挙げ句、天皇がついに勅書を改作する羽目になった事件だ」
「いつのことです」
「仁和三年。西暦でいうと八百八十七年だ」
「大昔じゃないですか!」
「面目ない。――ああ、わしは赤穂浪士になりたかった!」
縁側では鶏が相変わらず靴脱石で距を研いでいる。菅江は悲嘆に暮れた。もしアコースティックギターがあれば吉田拓郎のように悲しみを唄にして歌ったであろう。もしアコーディオンがあればアストル・ピアソラのように哀切極まりないメロディーを奏でただろう。もしアコーディオンドアがあればその背後に身を隠してよよと泣き崩れたであろう。もしアコーディオンプリーツのスカートを穿いていたら全然似合わなかったであろう。筒井はあまりの馬鹿馬鹿しさに呆れて菅江を尻目に味噌漬けを食べるとあまりの旨さに顎が落ちた。
突然家がぐらりと傾いた。
「まずい。顎欠が外れた」菅江が天井を見上げた。
「アゴカキ?」
「柱の横木を見ろ。組み合わせる部分の両稜を削り落とし中央の一部を残した仕口になっておるだろ。削ったところが弱くなって外れたのだ。家が崩れてしまえば明け渡すこともできん。顎が食い違ってしまった。財産は何もない。このままでは顎が干上がる」
筒井は呆れた。
「海賊なんて発想が幼稚すぎる。手堅い商売をしなさい。阿漕ヶ浦は阿漕焼の産地だから、陶器でもおやりなさい」
「やだやだ、海賊がいい」
朱楽菅江は床に仰向けになり手足をばたつかせて駄々をこねた。その姿形は阿古陀すなわち阿古陀瓜にそっくりだった。
「阿古陀形の香炉を焼きなさい。飛ぶように売れること間違いなしだ」
「海賊になるって決めたんだ。貴様は部下になれ。顎付きで雇ってやる」
「どうせ人を顎で使うつもりでしょう」
「しかたがないだろ。わしは見ての通り顎で蠅を追うよぼよぼの老人。貴様がわしの手足となって働くのだ」
「身勝手にも程がある! トリカブトを飲ませるぞ! 成分のアコニチンは猛毒だ」
「いやと申すなら貴様を首くくりの刑に処す」
朱楽菅江は庭の赤秀の樹の枝を指さして顎髭を撫でた。
「死ぬのはいやだ。――わかりました、海賊になります」
「物わかりがいいな」
「海賊ってみんな帽子を被りますよね。なんで海風で吹き飛ばされないんだろう」
「顎紐がついてるからに決まってるだろ」
「なるほど。でも俺みたいな三文文士が海賊になれるかなあ」
「何事も修行だ。尺八だって顎振り三年と申すではないか。一朝一夕には参らん。貴様をこれから阿子丸と呼ぼう」
「アコマロ?」
「坊や、とか、坊ちゃん、とか、若様という意味だ」
ごめん下さいませ、と庭から女の声がした。朱楽菅江が縁側に出ると衵を着た公家の夫婦とおぼしき中年の男女が幼い吾子女を連れて立っていた。女は極彩色の衵扇をぱたぱたと扇いでいる。
「こちらに海賊さんがいらっしゃると伺ったのですが」
「おい筒井、悪事千里を走ると申すが、早くも噂を聞きつけて人が訪ねてきたぞ」
筒井はわけがわからず茫然と立ち尽くした。
「折り入ってお願いしたいことがございます」女が言った。
「なにか訳ありのご様子。立ち話もなんですので、どうぞこちらへ」
菅江は夫婦と娘を縁側から招き入れ、帷が三尺六寸で四幅仕立ての短い衵几帳の裏に身を隠して四人でひそひそ話を始めた。
衵衣を着た公家が突然現れたのはどういうわけだろう。それにしても衵姿の娘のなんと愛らしいことか。庭先には衵の花すなわちススキが風に揺れている。部屋の片隅の仕切から衵袴がちらちら見える。四人は何を相談しているのか。
「ではお願いいたします。ありがとうございました」
女は朱楽菅江に礼を言い、親子三人再び縁側から庭に降りて去った。
「いったいなんの相談です」
「あの親子は阿古屋から来たそうだ」
「え? どこです?」
「愛知県半田市だ。名前も阿古屋という」
「阿古屋貝で有名な」
「そうだ。古代ギリシアに連れて行って欲しいとの願いだ」
「古代ギリシア? 行けるわけないでしょう」
「しかし、前金として阿古屋珠をこんなにもらったぞ」
朱楽菅江は両手一杯の真珠を見せた。
「まさか請け合ったんじゃないでしょうね」
「大船に乗ったつもりでいなさいと申した」
「なんで安請け合いするんですか」
「阿古屋餅をご馳走になったもんで。旨いぞ、貴様も食うか」
朱楽菅江は小さな団子をもぐもぐ食べている。
「だいたい日本の公家が古代ギリシアになんの用事があるんです」
「アゴラを見物したいそうだ」
「アゴラって……たしか都市の広場ですよね」
「早い話が観光旅行だな」
「観光ったって、時代が全然違うじゃないですか!」
「心配するな。適当な港に連れて行って網子別れすればいい」
「適当なって……どこです」
「どこでも構わん。英虞湾にするか」
「英虞湾ってどこだっけ……」
「三重県南東部、志摩半島南部だ」
今度は新潟から三重に行くのか。俺の冒険はいつまで続くんだ――疲れた筒井は顎を出した。朱楽菅江は自分の思いつきに得意満面で顎を撫でた。
「三重になんか連れて行く必要はない」筒井が言った。
「なぜだ」
「だって、もう真珠を山ほどもらったでしょう」
「ああ、見ての通りだ」
「売れば大金になる」
「本当か」
「当たり前です。もらいっぱなしでとんずらすればいい」
「そうか。よし! そうと決まったら逃げよう」
朱楽菅江は巾着袋に真珠を入れて懐に隠した。
「どこか当てはあるんですか」
「アコンカグアだ」
「アコンカグア?」
「南アメリカ、アンデス山脈の最高峰。標高六九六〇メートル」
「地球の反対側だ。どうやって行くんです」
「阿含経を唱えれば願いが叶う」
菅江はお経を唱えた。大地がぐらぐらと揺れ、黒雲が天を覆い、世界に終末が訪れた。二人は気を失った。
* * * * *
筒井が目を覚ますと原っぱの真ん中にいた。一面に麻が生い茂り、朝の到来を喜ぶスズメたちが嬉しそうにチュンチュン囀っている。かたわらに朱楽菅江が俯せに倒れている。
「菅江さん、菅江さん」
揺さぶっても動かない。仰向けにすると朱楽菅江は息絶えていた。筒井は正坐して合掌し、菅江の懐から真珠が詰まった巾着袋を取りだした。
「ここはどこだろう……?」
まわりを見渡しても麻畑が広がるだけで人っ子一人いない。住所表記に「字」がつく片田舎に違いない。巾着袋を握った左手の甲に痣がある。いつ、どこでぶつけたのだろう。足もとに目をやるとめくりカルタの青札の「一」が一枚落ちていた。青一だ。カルタがあるということは人が住んでいる証拠だ。
夜中に雨が降ったらしく、朝上がりの麻畑は濡れている。東の空が朝あけで赤く見える。十メートルほど先に浅緋すなわち薄い朱色の着物が一枚落ちている。やはり人が住んでいるのだ。朝明けの空を眺めながら筒井は「きっと誰かに会えるはずだ、これまでの冒険もいろんな人に助けてもらった、ここでじっとしていれば誰かが来てくれるだろう、のんびり待てばいいさ、ははは」と浅浅した考えに酔った。
ところが待てど暮らせど人の来る気配はなかった。左手の痣が鮮鮮して無気味だった。待てば海路の日和ありと高をくくっていたが、俺の考えは浅浅しいのだろうか。それにしても痣が鮮鮮しいのが妙に気がかりだ。
突然朝雨が降り始めた。朝雨馬に鞍置けという諺を思い出した。朝雨はすぐ晴れるから外出の用意をしろという教えだ。しかし外出といったって俺はいま原っぱのど真ん中だ。朝雨に傘いらずという諺もあるぞ。朝雨はすぐ晴れるから傘の用意はいらない。そうだよ、どうせすぐ晴れるんだ。――と思ったら朝嵐になった。
横殴りの風雨に乗って彼方からイスラムの礼拝の刻限を知らせるアザーンが聞こえてきた。ちょっと待ってくれ。俺はイスラム圏に来たのか?
「浅井と申します」
突然背後から声がした。ぎょっとして振り返ると寝間着姿の男がにこにこ笑って立っている。
「何かお困りではありませんか」
「え? ああ、困ってはいるけど――なんだその格好は」
「えへへ。ちょいと朝寝をしてまして」
「俺はこの土地に来て日が浅いのだが、ここがどこなのか教えてくれないか」
「お安い御用です。その前に朝飯を食べませんか」
言われてみれば腹がぺこぺこだった。
「朝一で予約を入れた定食屋に行きましょう。朝市で採れたばかりの野菜を食わせる、ちょいと乙な店ですよ」
浅井に案内されるまま畑を抜けると飲食店に着いた。入口の上に〈お食事処 虚構亭〉と書いた大きな看板がある。通りの向こうから晴れ着姿の男とその親族らしき男女がやって来た。
「あの人たちは?」
「朝一見です」
「アサイチゲン?」
「婚礼の日の朝、花婿が初めて花嫁の実家に挨拶に行くことですよ」
二人は店に入りテーブルにすわった。朝定食のメニューは白い赤飯と大豆を一切使わない味噌汁、おかずは鯨の躍り食いで、〈虚構亭〉の名にふさわしいものだった。
「浅井さんと言ったね」
「はい。困っている人を助けるのが趣味です」
「変わってるな」
「浅井忠の孫です」
「荒井注?」
「それはドリフターズでしょう。アライじゃなくてアサイ」
「聞いたことないなあ」
「江戸生まれの洋画家です。フォンタネージに学び、バルビゾン派系統の画風と技法を忠実に引き継ぎました」
食べ終わった浅井は細い麻糸を歯と歯のあいだに通してごしごしと食べかすを取った。
「ところで、ここはいったいどこだ」
「朝比奈家の所有地です」
「豪族か何かかい」
「ええ。もとは戦国武将の浅井長政が治めていました」
「そうか。安心したよ。さっきイスラム教の祈りが聞こえたから、ひょっとして中近東にでも来たのかなと思って」
「ははは。日本ですよ。ただし、眼が一つしかない人間や小人が住んでますけどね」
「え?」
「朝比奈島回りをご存じありませんか」
「さあ……」
「和田義盛の子が一目国や小人国などを巡遊した伝説です」
「まるで『ガリヴァー旅行記』だな」
「そうなんですよ。本にもなったんですよ。朝夷巡島記。文化十二年に出版されました」
「へえ」
「朝比奈知泉も一時期ここで暮らしました」
「誰だい」
「水戸生まれのジャーナリストですよ。東京日日新聞の主筆でした。朝比奈泰彦もここで育ちました」
「何をした人?」
「薬学者です。東大の教授で文化勲章をもらいましたよ」
「知らないなあ」
「さっきお話した和田義盛の子は朝比奈義秀と言いましてね、怪力無双、いろんな伝説の持主です――阿佐井野さん、おはよう!」
「おはよう、浅井君。今朝は珍しく一人じゃないんだね」
「ええ」
「じゃあ、お先に失礼」
「ごきげんよう」
浅井は客が立ち去るのを目で追った。
「いまの人は?」
「阿佐井野宗瑞の子孫です」
「誰だかさっぱりわからない」
「室町時代の医者ですよ。明の医学書『医書大全』や『論語』などを翻刻した人です」
「なんだかずいぶん由緒正しい土地柄なんだな」
「なぜか有名人が多いんです。江戸前期の仮名草子作者、浅井了意もここで勉強しました」
「全然知らない人ばかりだ。お恥ずかしい」
「汝は浅へたる者なり」
隣のテーブルの客が突然筒井に話しかけた。なぜか文語調である。
「膝を地につけて両手を糾へて我を崇めよ」
「なんだろう、この人は」筒井は浅井に耳打ちした。
「気にしないで下さい。気狂いです」
気狂いは「あぎゃべぶのひむげまじゃー」と大声を出して立ち上がり、脱兎の勢いで店から出て行った。直後に「ぎゃー」という叫び声と、どぼんという水の音がした。筒井は浅井と一緒に外に飛び出た。店の裏手に川があり、土手から転げ落ちた気狂いがあっぷあっぷしていたが、やがて自力で岸にあがり、「ほんだらみょんぴきめのめのひー」と叫んで遠くへ走り去った。
「川があるとは気がつかなかった」
「下流に浅水の橋が架かってます。たしか福井県にも浅水の橋というのがあるそうですよ」
「へえ」
「ああ、おなかいっぱい食べましたね」
「うん。鯨の躍り食いがうまかった」
「じゃあ唄でも歌おうかな」
浅井は謡曲を歌い始めた。むかしの人は朝謡は貧乏の相といって、朝っぱらから謡を歌うようではいまに貧乏になると戒めたものだが、浅井はそんな諺は知らぬと見える。歌いながら能の所作を始めたとたんに浅井は転んだ。
「いてて。麻裏の鼻緒が切れちゃった」
足もとに麻糸の平組紐を渦巻きにして裏につけた麻裏草履が転がっている。
「浅瓜いらんかー」
物売りの女が白瓜を籠いっぱいに抱えて通りかかった。
「おはよう、おばさん。全部くれ」
「全部? 嬉しいわあ。お客さんは朝恵比須だ」
浅井は籠の中の白瓜をすべて買い、その場でむしゃむしゃ食った。途中で歯に絡まった麻苧を引き抜いた。
「朝起きしてよかったわあ」
女が幸せそうに呟いた。
「朝起きは三文の徳っていうけど、本当だねえ」
「籠の底に何かあるけど、なんだい」
「これ? 麻織」
「麻織物か」
「岩代国安積の名産だよ」
「安積っていう名字が多いよね、あそこは」
「川越街道の宿場町ですね!」
会話に参加したくてうずうずしていた筒井がここぞとばかりに割って入った。
「川越街道……? それは埼玉県の朝霞でしょう。わたしたちが言ってるのは福島県の安積です」
筒井は面目を失って小さくなった。
「これから朝会をやるけど、よかったらご一緒にどうぞ」
女が浅井を誘った。筒井にはなんのことだかわからない。
「朝会ってなに」
「夏の早朝に催す茶会です」
「風流だなあ」
「でもときどきテーブルを糾返す奴がいて困るんだ」
「糾返すって、ひっくり返すの? 星一徹みたいに?」
「ええ。酔っ払った朝帰りのおやじがね」
道端に突っ立ってしゃべっていると、どこから沸いてきたのか大勢の人が朝顔を手に手に集まってきた。
「朝顔合せが始まりました」
「なにかのイベント?」
「いろんな種類の朝顔を持ち寄って花や葉を品評するんです。ほら、あそこで朝顔市をやってるでしょう」
よく見ると人々が携えているのは朝顔だけではなかった。アサガオガイ科
「少々ものをお訊ねするが」
人品卑しからぬ老人が女に声をかけた。
「はあ、なんでございましょう」
「拙者は安積艮斎と申す者だが、道に迷って難儀しておる」
「艮斎先生!」
女の目が輝いた。
「儒学の大家、艮斎先生でいらっしゃいますか!」
「うむ」
「サイン下さい」
艮斎は短尺にさらさらとサインを書いて渡した。
「どちらへ」
「浅香社に参りたい。落合直文が興した歌人の結社だ」
「この道をまっすぐ行って三つ目の角の左ですよ」
「おお、そうか。ありがとう。ではごめん」
艮斎は朝霞の中に消えた。憧れの人に会えて有頂天になった女の頬を朝風がやさしく撫でた。
「先生は岩代国郡山の人だよ」女が浅井に説明した。
「やっぱり岩代には安積という人が多いんだなあ」
「安積疏水もあるしね。猪苗代湖から取水して郡山盆地を灌漑する用水路」
「着物の柄がお洒落だったね」
「麻型だよ。直線を組み合わせた模様が麻の葉の形だったろ」
「さすが風流人だ。しかしこんな朝方から歌の勉強をするとは驚いた」
「きっと朝型なんだよ。寝癖があったでしょ。起き抜けだ」
「そういえば朝容だったなあ」
二人は感嘆することしきりである。無学な筒井は会話に参加できず、所在なく立ちつくしていた。すると再び風采のよい老人がやって来た。
「ご歓談中まことに恐縮だが、ちょっとお訊ねしたい」
「はあ、なんでございましょう」
「わたしは安積澹泊と申すつまらぬ者だが」
「澹泊先生!」
女はジャニーズのアイドルに会ったかのように歓声をあげた。
「朱子学の大家で『大日本史』の編纂をなさった、あの澹泊先生ですか!」
「そうじゃ」
「サインちょうだい」
澹泊は懐紙に署名して女に手渡した。
「で、どちらへ」
「浅香の浦に参りたいのだが」
「大阪湾の海岸、堺のあたりですね」
「うむ」
「この街道をまっすぐ進んだ突き当たりです」
「そうか。助かった」
「でも遠いですよ。三日はかかると思いますけど」
「いや、御心配には及ばん。ご覧の通り老いさらばえてはおるが足腰だけは達者だ。今朝も安積の沼から歩いて来た」
「まあ。安積山の麓にあったという伝説の沼」
「よくご存じじゃのう」
「沼は本当にあるんですか」
「ある。東勝寺の裏の小さな池がその名残だ」
「こんなに朝早くから大阪へいらっしゃるなんてお忙しいことですね」
「朝香宮との昼餐に招かれたのだ」
「朝香宮! 久邇宮朝彦親王第八王子鳩彦王が創始なさった宮家!」
「そうじゃ。――いや、助かった。ではごきげんよう」
澹泊は起き出たばかりの乱れた朝髪を風になびかせて立ち去った。
「有名人が多いとは聞いたけど、こんなにいるとは」筒井が感に堪えていった。
「どういうわけか多いんですよ」浅井が答えた。
「じつに不思議だ。――あ、また誰か来たぞ」
麻上下姿の武士が「朝髪の思ひ乱れてかくばかり」と呟きながらやって来た。
「お武家さん、どちらへ」浅井が呼びかけた。
「ん? 拙者か? あさか山へ参るところだ」
「郡山の安積山ですね!」
筒井が知ったかぶりをして口を挟んだ。
「郡山になど用はない。拙者が参るのは三重県の浅香山だ」
当てが外れた筒井はしゅんとなった。
「旅の前に腹ごしらえをしたいが、いい店はないか」
「この先に定食屋がございます。朝粥がうまいですよ」浅井が教えた。
「そうか。ではごめん」
武士は定食屋に向かった。朝顔市から少し離れた沿道に麻幹すなわち麻の皮をはいだ茎を松明のように燃やしているのは盂蘭盆の送り火だろうか。めらめらと燃える炎がエゴノキ科の落葉高木白辛樹の葉を焦がさんばかりである。朝烏がカァーと鳴いた。麻畑では農民たちが麻を根元から刈る麻刈りに精を出している。
突然絢爛豪華な行列が現れ、町の人たちが全員道端に正坐して迎えた。大きな輿の前後に従う男たちが猟銃を携えているのは朝猟のためだろう。
「陛下、このあたりで朝餉をお召しになってはいかがでしょうか」
従者が輿の中にいる人に進言した。
「アサガレイってなに? 朝っぱらからカレーライス食うの?」筒井が浅井に耳打ちした。
「天皇陛下が召し上がる軽食のことですよ」
「天皇が来たのか!」
一行は定宿らしき屋敷の前で止まった。
「陛下、この屋敷に朝餉の間がございます。支度は整っております」
「よきにはからえ」
天皇陛下は輿を降りて屋敷に入った。
「こんな鄙びた村になんで天皇が……」
筒井が呟くのを耳聡く聞いた従者がつかつかと歩み寄った。
「陛下を呼び捨てにしたのはそなたか」
「え?」
「『え?』とはなんだ。無礼者」
「ああ、ごめんなさい! 陛下です陛下、天皇陛下」
「よろしい」
「ところで、どちらへいらっしゃるのですか」
「浅川だ」
「アサカワ?」
「八王子の西。お墓参りですよ」
見るに見かねた浅井が耳打ちした。
「甲州街道の宿場町。大正天皇の多摩陵、貞明皇后の多摩東陵、昭和天皇の武蔵野陵がある」
「詳しいなあ、君は。皇室ジャーナリストか」
「国民の常識です」
「その通りだ」
従者が応じた。
「先ほど朝川を渡ったときに思い出したのだが、この村に朝河という家はないか」
「朝河――」
浅井はしばらく考えて答えた。
「この村で朝河といえば朝河貫一さんしかいませんが。福島生まれの歴史学者でイェール大学の教授になりました」」
「おお、まさにその人である。家はどこだ」
「あそこです」
従者は指さされたほうを向いてポラロイドカメラを取りだし家を撮影した。
「うーむ。アサ感度が低いせいか写りが悪い」
「写真でしたらわたくしがあとで撮影して皇居にお送りいたしますよ」
「それはありがたい。では頼むぞ」
「かしこまりました」
従者たちが去り、朝顔市は再び賑わいを取り戻した。
「筒井さん、朝観音に行きませんか」浅井が誘った。
「観音様か」
「ええ。今日は十八日だから縁日が出るんです」
「神信心はないからなあ」
「ダメですよ。むかしから言うでしょう、朝観音に夕薬師。お詣りしないとご利益がありませんよ」
二人は縁日に出向いた。参道の両側には漢字一文字を記した幟がずらりと立ち並び、よく見ると「麿」「麼」「麾」など麻冠の漢字ばかりである。境内の奥は節の多い浅木の雑木林で、浅黄色の作務衣を着た男が落葉を掃き集めながら時折しゃがんで浅葱を摘み取っている。雑木林は麻木すなわち白辛樹が鬱蒼と茂り、枝から枝へ浅葱糸が張り巡らされ、願い事を書いた浅葱色の短尺がたくさんぶらさがっている。筒井は一枚を手にとって読んだ。
「隣の亭主は浅葱裏――なんだこれは。意味がわからない」
「野暮な田舎侍のことですよ」
「そうなの」
「江戸吉原遊郭で田舎の武士をからかってそう呼んだんです。羽織の裏が浅葱木綿だったから」
「願い事でもなんでもないじゃないか」
「誰かがふざけて書いたんでしょう」
「それ書いたの、おめえか」
筒井が振り返ると浅葱縅の鎧を着た田舎侍が因縁をつけた。
「え? あ、いいえ、違います。ただ眺めていただけです」
「いんや、おめえが書いたにちげえねえ」
「誤解です」
「この桜吹雪がすべてお見通しだ」
侍は諸肌を脱ごうとしたが鎧が邪魔で腕が抜けない。「よいしょ」と呟いて鎧を脱ぎ、あらためて諸肌を脱ぐと肩から背中にかけて浅葱桜の刺青がある。
「わあ、きれいな桜ですね」筒井がおだてた。
「ん? そんなにきれいか」
「そりゃあもう。その浅葱縞のお召し物もお似合いですよ」
「そうか。似合っとるか」
侍がまんざらでもない顔で笑った隙に筒井が足もとを見ると浅木炭が山積みになっている。筒井は浅井に目配せして「せーの」と呟き、二人は同時に炭をつかんで片っ端から侍に投げつけた。
「何するだ! 痛い! いてて!」
侍は這々の体で逃げ去った。
「ざまあみろ。とっとと田舎に帰れ」
筒井は両手を拡声器のように筒状にして悪態をついた。冷たい朝北が吹きつけ思わず身震いすると村人たちがぞろぞろ歩いてきた。
「今度はなんだ」
「芝居見物ですよ。この先に芝居小屋があるんです」浅井が答えた。
「こんな朝っぱらから?」
「ええ。朝木戸といって、朝早く開場します」
人の流れに逆らって芝居小屋がある方角から麻衣の着物を着た女が息せき切って走ってきた。
「浅井さん、大変!」
「およねさん、どうしたの」
「酒屋の徳三郎が逃げちゃった」
「逃げた?」
「六位の親王を演じる役なのに、浅葱の袍の衣裳を着たままどっか行っちゃったのよ」
「でも、もうすぐ芝居始まるんだろ」
「そうなのよ。しかも浅葱幕も見当たらないの」
「おいおい、浅葱幕がないと最初の口上を言う場面ができないじゃないか」
「口上はいざとなったら本幕の前に並んでやれるけど、舞台装置の転換のときは困っちゃう」
「誰か代役を頼める人はいないかな。――あ! 筒井さん、あなた俳優でしたね」
「うん」
「およねさん、この人、プロの俳優さんだよ」
「まあ本当? ――急な話ですみませんが、舞台に出てくれませんか」
「突然言われても……」
「時間がないんです! お願い!」
「わかりました」
筒井は女に腕を引っぱられて芝居小屋へ行き、楽屋で衣裳に着替えながら芝居の大まかな段取りを説明してもらった。幸いなことに出番は一箇所だけ、台詞もたった一言「余は満足じゃ」だった。あっという間に出番が回ってきた。筒井が舞台に登場すると黒子が二人、浅黄斑という大きな蝶を黄色い紙でこしらえたものを棒の先に吊してひらひら動かした。蝶が舞う中、筒井は一世一代の台詞を言った。
「余は満足じゃ」
筒井の威風堂々たる立姿と朗々と響く声に客席は一瞬水を打ったように静まり、次の瞬間には場内割れんばかりの拍手が湧き起こった。浅葱幕を使えないハプニングがあったものの、芝居は大成功を収めた。
「助かったわあ」女が興奮して筒井に言った。
「お礼にあさぎみずで獲れた魚をご馳走するから食べてね」
「あさぎみず?」
「三陸沿岸の黒潮のことを地元の人はそう呼ぶのよ」
芝居小屋の裏方たちが朝浄めすなわち朝の掃除を始めた。筒井は楽屋の片隅で三陸地方の珍味佳肴に舌鼓を打った。窓を見ると外は朝霧が立ち籠めている。朝霧隠りで人知れずご馳走にありつけるとはありがたい。久しぶりに舞台に立ててしかも人助けになったとは役者冥利に尽きる。筒井は気分が晴れ晴れして朝霧高原を見はるかすような気分を味わった。
「こんなところで何してる!」
突然裏方の男が筒井を怒鳴りつけた。
「代役のお礼だそうで、ご馳走をいただいてますが」
「みんな掃除してるのが目に入らねえか! 邪魔だ、どけ!」
「でもせっかくのご馳走なので……」
「腹が減ってるならこれでも食え」
男はお膳を蹴飛ばし、朝霧草の束を筒井に放り投げた。人助けをしたと思ったのに邪険に扱われた筒井は悲しくなり、「嘆きつゝあかしの浦に朝霧のたつやと人を思ひやるかな」と呟いてうなだれた。
「ちょっとあんた! 失礼だよ!」ひっくり返った浅葱椀を片づけながら女が男をたしなめた。
「この人はプロの役者さんだよ。わざわざ浅草から来て下さったんだ」
「いえ、違います」筒井が口を挟んだ。
「いいや、あたしにはちゃんとわかってるんだ。この人はね、浅草オペラのスターだよ」
俺は浅草オペラになんか出たことはない。清水金太郎や田谷力三が一世を風靡したのは大正中期で、俺は昭和九年生まれだ。
「オペレッタやミュージカルは門外漢です」
「謙遜しなくてもいいよ。胸の隠しに証拠があるじゃないか」
筒井がシャツの胸ポケットをまさぐると浅草紙が一枚折りたたんであった。
「ほらご覧。浅草山谷の特産品だ」
「おかしいなあ。こんな紙に見覚えはない。浅草は浅草観音に一度お詣りに行ったことがあるくらいで」
「浅草公園には大きな娯楽街がありますよね。六区って言いましたっけ」浅井が目を輝かせた。
「うん。でも賑やかだったのは戦前だ」
「特産品といえば浅草縞もある」
「浅草縞は八王子だよ」女が訂正した。
「浅草といえばなんといっても吉原よねえ」
「女の癖に遊郭に興味があるのか」
「あら、いけない? 吉原の裏は浅草田圃といって、まわりは田んぼなのよ」
「およねさん、妙に詳しいなあ」
「見損なってもらっちゃ困るよ。いつか浅草寺にお詣りするのが夢なんだ」
「地元の人は浅草寺って呼ぶんだ」
「どっちだっていいだろ。いつかお詣りに行ったらお土産に浅草人形と浅草海苔を買ってくるけど、おまえにはやらない」
「どうせ行くなら浅草祭のときにしな」
「それを言うなら三社祭だ。おまえこそ知ったかぶりするんじゃないよ」
いつ果てるとも知れない二人の浅草談義に辟易した筒井はその場を立ち去ろうとした拍子にけつまずいて転んだ。さっきの芝居で履いた黒漆塗りの浅沓を脱ぐのを忘れていた。
「蜘蛛だ!」
女が素っ頓狂な声をあげて天井の片隅を指さした。
「朝蜘蛛は縁起がいいんだよ」浅井が長い棒の先で蜘蛛の巣を払いのけながら言った。筒井は窓の外を眺めた。朝曇りの空を椋鳥の群が飛んでいる。
「筒井さん」女が小さな紙切れを一枚差し出して言った。
「お芝居を救って下さったお礼です。つまらないものですけど」
「なんですか」
「朝倉行きの切符」
「朝倉?」
「筑前国」
「というと……福岡か」
「朝倉さんっていう常連のお客さんがさっきのお芝居を観て、これを筒井さんに渡してくれって。ご祝儀に」
「お気持ちはありがたいのですが福岡には用事がないし」
「尋ね人が見つかるとか言ってたわよ」
「尋ね人? ――レイチェル!」
「誰? 女? 男?」
「女です。レイチェルという女を探してるんです」
「善は急げよ。さっさと行きなさい」
「そうします。ありがとう」
「お土産に朝倉山椒を買ってきてね」
「およねさん、朝倉山椒は兵庫県八鹿町朝倉の名物だよ」浅井が笑った。
筒井は浅井の案内で鉄道駅に行き、別れを告げて列車に乗った。車内は満席で、一箇所だけボックス席が一人分空いていたところにすわった。斜向かいの窓側に時代劇から飛び出てきたような武将が股を大きく開いてすわっている。筒井は偉容に圧倒されておずおずと自己紹介した。
「筒井康隆と申します。よろしく」
「拙者は朝倉孝景と申す。以後お見知りおきを」
「立派な名前ですね。鎧兜もよくお似合いです」
「このかたは室町中期の武将ですよ」隣の男が説明した。
「応仁の乱で一乗谷を本拠にして越前一国を掌握。戦国大名家法の先駆である朝倉敏景十七箇条を定めた人です」
室町時代の武将! 筒井はめまいがした。俺はてっきり江戸時代にタイムスリップしたとばかり思ってたが、室町なのか。でも鉄道が通ってるってことは明治以降のはずだ。どうも変だ。
「申し遅れました。わたくしは朝倉宮と申します」隣の男が自己紹介した。
「これはまたやんごとないお名前ですねえ」
「口をきけるだけ幸せだと思え」朝倉孝景が眉間に皺を寄せて言った。
「このかたは朝倉橘広庭宮、斉明天皇の行宮であらせられる」
「え? いつの時代ですか」
「六百六十一年、新羅征伐のため百済に滞在中そこで天皇がお隠れになった」
「西暦六百六十一年ですか……」
「申し遅れました――」朝倉孝景の向かい、つまり筒井の隣の男が口を開いた。
「わたしは朝倉文夫と言います」
「あなたも大昔の人ですか」
「いやいや、生まれは明治十六年。大分生まれの彫刻家で東京美術学校の教授をつとめました。このあいだ文化勲章をもらいました」
ボックス席にすわった四人は時代も身分もてんでんばらばらで、筒井は何がなんだかさっぱりわけがわからなかった。列車はガタンゴトンとリズミカルな音を景気よく響かせてひた走った。四人がどこの国は酒がうまいだのどこの国は女がきれいだのとたわいない話にさんざめいていると窓の外に福岡県朝倉市鳥屋山の南の朝倉山が見えてきた。
列車は山の麓の駅に到着した。四人がプラットフォームに降りると若侍が出迎え、朝倉孝景に挨拶した。
「パパ、お帰りなさい」
「馬鹿者」
孝景は若侍の横っ面を張り倒した。
「武士たる者が毛唐の言葉を使うとは言語道断だと、あれほど注意したではないか」
「ごめんなさい、パパ」
孝景は再びびんたを食らわせた。
「息子さんなのか」筒井が呟いた。
「ええ、朝倉義景殿です」朝倉宮が答えた。
肌が浅黒い義景はびんたを二発くらって右の頬だけ赤く腫れ上がった。朝倉山は朝明の靄に包まれている。
「皆さん、朝食を召し上がりませんか」義景が頬をさすりながら言った。
「飯は後回しだ。その前に剣術の朝稽古だ。びしびし鍛えてやる」
「わかったよ、パパ」
孝景はもう一度息子の頬を平手打ちした。親子二人はてくてく歩いて稽古場へ向かった。朝倉宮は紫色のつやを薄く消した浅滅紫の衣をまとった男に出迎えられ、馬車に乗って去った。彫刻家の朝倉文夫は「ではわたしもここで失礼」とタクシーに乗ってどこかへ行ってしまった。
プラットフォームにひとり取り残された筒井は所在なく立ち尽くした。近くの民家で朝飯の支度をしているらしく、窓から朝煙が立ちのぼっている。
「やーいやーい、置いてきぼり食らってやがる」
プラットフォームの端に生意気そうな餓鬼が一人、嘲り笑いを浮かべている。
「いい気味だ、ざまあみろ」
餓鬼は嘲りながら手を叩いた。筒井は足もとの石ころを拾って餓鬼めがけて投げた。餓鬼は『マトリックス』のキアヌ・リーブスのように上体を後ろにそらして石をかわした。
「なんだ、おまえは」筒井が怒鳴った。
「朝漕ぎだよ」
「アサコギ?」
「朝、舟を漕ぐことに決まってらあ。そんなことも知らないのか」
餓鬼がにたにた笑った。妙に生暖かい朝東風が筒井の頬を撫でる。餓鬼の浅事にむかっ腹が立ち、いてもたってもいられない。早朝不意に敵を襲うのを朝込みと言うが、まさかこんな洟垂れ小僧に攻撃されるとは思わなかった。粗末な麻衣を着た餓鬼をギャフンと言わせたい。
「舟はどこだ」
「あそこだよ」
指さすほうを見ると線路の間際に水の少ない小川が流れ、川原に舟が一艘ある。
「乗せてくれ」
「やだね」
「どうして」
「この浅さを見ろ。舟なんか浮かべられるもんか」
言われてみれば川の水は膝の高さくらいしかない。水面にリンドウ科の多年生水草莕菜が浮かんでいる。堤の上を朝座すなわち朝の勤行に向かうとおぼしき僧侶が数人、念仏を唱えながら朝桜の下を静かに歩いている。
「おっさん、いい歳をして馬鹿だな」
餓鬼がにやにや笑った。筒井は朝酒をかっくらいたい気分になった。どこかに居酒屋はないかキョロキョロ見回すと、マニラ麻の優良繊維を真田に編んだ麻真田の帽子をかぶった女がやって来た。
「筒井さんですね」女が挨拶した。
「そうですけど……あなたは?」
「およねさんから電報が届きました」
「お知り合いですか」
「はい。どうぞこちらへ」
女は筒井を駅の待合室に連れて行き、麻座蒲団を敷いたベンチに並んで腰を下ろした。
「失礼ですが、お一人でお住まいですか」
「いいえ、主人がおりますが、昨日から朝侍に出かけておりまして」
「アササブライ?」
「夜から朝まで禁中に伺候するのでございます」
「禁中? こんな田舎に――いや、こんな風光明媚な山あいの町に天皇の御所があるんですか」
「ございますとも。先ほど朝倉宮様がご一緒だったではありませんか」
「ああ、そうでした」
筒井は朝寒にぶるぶる震えた。
「春日を春日の山の高座の三笠の山に朝さらず雲居棚引き――」
女は万葉集の歌を諳じた。
「朝されば妹が手にまく鏡なす――」
「それも万葉集ですか」
「はい」
「わたしは不調法者で、和歌にはとんと暗くて」
「学浅し隣は何を言う人ぞ」
「いや、まったくお恥ずかしい」
どこからか浄土真宗の朝の読経朝事の声とともに海鳴りのようなものが聞こえてきた。
「もしかして朝潮かな」筒井が呟いた。
「馬鹿だな、おっさん。こんな山の中に海があるわけないだろ」
呼ばれてもいないのについてきた餓鬼が茶々を入れた。筒井はむしゃくしゃしてやけ酒をあおりたくなった。
「ちょっと酒を飲みたいのですが、この辺に居酒屋はありませんか」
「麻地酒でよろしければ、ここにございますよ」
女は瓢箪を取りだして小さなお猪口に酒を注いだ。粳米と糯米を等分に用いて寒の水で仕込み土中に埋めておいた酒だった。筒井は一口にあおった。色は白く濃厚な酒だ。
空きっ腹で飲んだせいか早くも酔いが回り、筒井の目もとが赤らんだ。待合室の窓の外を見ると篠がまばらに生える浅篠原が広がっている。朝事参りに出かけるのだろう、原っぱの小道を浄土真宗の信徒らしき男女が一列になって歩いている。今朝はかなり冷えこんだらしく篠の葉は朝凍みで冷たく光り、町全体が朝湿りでしっとりと潤っている。
「朝霜の消やすき命誰がために千歳もがもとわが思はなくに」
「それも万葉集ですか」
「はい」
浅蘇芳すなわち薄い蘇芳色の着物を着た女がしとやかに答えた。ついさっき起きたばかりの朝姿とは思えないきちんとした身なりで、目深にかぶった麻頭巾を脱ぐと緑の黒髪がはらりと肩に落ちる姿も艶やかで筒井の目を喜ばせた。見た目にも涼やかな装いは朝涼や朝涼みと呼ぶに似つかわしい。
「おいら、ちょっと舟を見てくる」
餓鬼が浅瀬に乗り上げた舟に向かって走り去った。
「おひとつ召し上がりませんか」
女が餅を勧めた。
「夏に餅とは珍しいですね」
「ええ、でも七月七日は相撲の節で、朝節を振る舞うのがしきたりでございます」
筒井は餅をもぐもぐ食べた。
「舟底に穴があいた! 使いものにならねーよ!」
川原から餓鬼が叫ぶ声がした。
「浅瀬に仇波とはよく申したものですわね。ほほほ」
女が餓鬼をからかった。
「あの、筒井さん。折り入ってお願いしたいことがあるのですが」
「はあ、なんですか」
「何かお急ぎの用事はございますか」
「いいえ、特には何も」
「今朝は息子の小学校が父兄参観日なのですが、あいにくわたくしは主人が御所から戻るのをここで待っていなくてはなりません。急なお願いであいすみませんが、わたくしどものかわりに授業参観に行っていただけないでしょうか」
「わたしでよければお安い御用です。で、学校は……」
「あそこです」
女が待合室の反対側の窓から外を指さすとカバノキ科の落葉高木あさだと泥の浅そうな浅田のあいだに木造の校舎が見えた。
「ではさっそく行ってきます。――あ、そういえばお名前は?」
「申し遅れました。浅田と申します」
「アサダさん……麻の葉っぱの麻田ですか」
「いいえ、浅い深いの浅田です。学校はなにぶん田舎ですので生徒は十人しかいません。授業は全学年が合同で行ないます」
「わかりました。では行ってきます」
筒井は小学校に行き教室に入った。ちょうど授業が始まるところだった。
「では国語の授業を始めます。阿部君」
「はい」
「朝題目はどういう意味だ」
「朝、法華懺法を行ずることです」
「よろしい。――井上さん」
「はい」
「朝題目に夕念仏はどんな意味かな」
「朝は法華懺法を修し、夕方は阿弥陀仏を念誦することです」
「たいへんよくできました。――内田君」
「はーい」
「朝鷹は何のことかな」
「朝行なう鷹狩りです」
「その通り。――榎本さん」
「はい」
「麻田剛立はどんな人だったかな」
「江戸中期の天文学者です。脱藩して大坂に住んで暦学を研究しました」
「すばらしい。――浅田君」
「うーい」
生徒たちが一斉に笑った。父兄もつられて笑った。
「うーいという奴があるか。ハイと返事をしなさい」
「はーい」
「浅田宗伯は何をした人かな」
「えーとえーと……人類初の月面着陸をした人です!」
「馬鹿じゃねーの」
「こらこら岡崎、馬鹿なんて言うもんじゃないぞ」
「だって月面着陸をしたのはアームストロング船長だもん」
「違うよ! ルイ・アームストロングはシャンソン歌手だよ!」
浅田が反駁した。
「ルイ・アームストロングはジャズ歌手だよ、バーカ」
浅田と岡崎が取っ組み合いの喧嘩を始めた。筒井は頭を抱えた。浅田は途方もない馬鹿だった。
「喧嘩をやめて~二人をとめて~私のために争わないで~もうこれ以上~♪」
井上さんが筆箱をマイクに見立てて竹内まりやの「喧嘩をやめて」のサビを歌った。
「おまえが原因じゃねーよ」
浅田が筆箱をひったくって井上さんの頭をぽかりと殴った。
「いい加減にしろ! 授業参観日だぞ」
教師が怒鳴った。鶴の一声で喧嘩はぴたりとおさまった。窓の外は朝立ちがしとしと降り始め、まばらに生えた浅茅の葉が濡れてみずみずしく輝いている。よりによって参観日に喧嘩とは浅知恵にも程がある――筒井は溜息をついた。
校舎のまわりは浅茅ヶ原で、校庭に面した壁に茅を左撚りにした浅茅の縄の輪が並んで立てかけてある。筒井は今までこんなに広い浅茅原を見たことがなかった。
「では授業を続けます。――加藤君」
「はい」
「浅茅生とはなんですか」
「茅がまばらに生えたところです」
「正解。では清水さん」
「はい」
「浅茅生のを枕詞に使った歌は?」
「浅茅生の小野の篠原忍ぶとも人知るらめや言ふ人なしに」
「よくできました。では外山君」
「はーい」
「朝茶は何かな」
「夏の早朝に催す茶会です。あと、朝食の前に飲むお茶も」
「すばらしい。外山君は朝茶を飲んだことがありますか」
「あります。浅葱と浅葱膾を一緒に食べます」
「嘘つき!」
浅田が叫んだ。
「おまえんちみたいな貧乏人が茶会なんか開けるわけねーだろ」
「やったよ」
「絶対嘘だ」
「嘘じゃないもん」
外山はしくしく泣きだした。
「浅田君! 謝りなさい」
「やだ」
「浅田君のご両親はいますか」
教師が教室後方に立っている父兄たちに訊ねた。父兄たちは顔を見合わせた。
「あの……わたしは筒井と申しますが、ご両親に頼まれて来ました。代理の者です」筒井がおずおずと答えた。
「そうですか。では筒井さん、罰としてあなたに答えてもらいましょう。――朝月夜とはなんですか」
「は?」
筒井はキョトンとした。生徒たちがざわめいた。
「アサヅキヨです」
「アサヅキヨ、アサヅキヨ……わかりません」
生徒たちがどっと笑った。ハイ、と井上さんが返事をして右手をまっすぐ上にあげた。
「はい、井上さん」
「月が残っている明け方のことです」
「正解。ではもう一度チャンスをあげましょう。筒井さん、朝付く日とはなんですか」
まったく見当がつかない。筒井は面目丸つぶれになり、右腕で両眼をこすってあふれる涙を隠した。
「朝日のことです。朝方の日です」榎本さんが答えた。
「その通り。――では山下君」
「はい」
「朝月夜はなんだろう」
「有明の月、月の残っている朝です。朝月夜と同じです」
「正解。みなさんたいへんよくできました。ご褒美に浅漬を食べましょう」
生徒たちは浅漬をむしゃむしゃ食べ始めた。すると突然ドアが外から蹴破られ、武装勢力が乱入した。
「なんだ、おまえたちは」教師が叫んだ。
「我々はアサッシン派だ」
「なに?」
「イスラム教シーア派の一分派、暗殺教団だ」
武装勢力はずらりと並んで自動小銃を構えた。
「今日は授業参観日です。テロは明後日にしてくれませんか」教師が懇願した。
「うん、いいよ」
暗殺教団は素直に応じてそそくさと出て行った。
「では皆さん、浅場へ遠足に行きましょう」
「朝っ腹から川遊びなんかしたくねー」浅井が不平を鳴らした。
「琵琶湖の朝妻じゃないとやだー」岡崎が駄々をこねた。
「朝妻船に乗りたーい」
「わがまま言うな」教師が叱りつけた。
「朝露に濡れたくなーい」浅井の不満はおさまらない。
「ほととぎす夢かうつつか朝露のおきて別れし暁の声」井上さんが和歌を諳じた。
「遠足は明後日に延期したほうがいいと思います」榎本さんが提案した。
「どうして」
「明後日はテロリストが来るからです」
「そうだったね」
「テロリストが来たら俺が退治してやる」岡崎が予行練習に浅井の横っ面をグーでパンチした。
「いてーよ!」浅手を負った浅井が頬をさすって涙目になった。榎本さんが気を利かせて麻布に薬を塗って浅井の頬を撫でた。
「みんな、遠足はいやなのか」
「いやです」全員が声を揃えた。
「朝出は健康にいいんだぞ」
「外に出るのはいやです。麻手小衾にくるまって寝たいです」岡崎が口を尖らせた。
「子どものくせに生意気だぞ。朝戸を開けて新鮮な空気を胸一杯吸うのは気持ちいいぞ」
先ほど武装勢力が蹴破ったドアを踏みつけながら浅黒い男が教室に入ってきた。児童と父兄がざわめいた。
「どなたですか」教師が訊ねた。
「アサドだ」
「アサドって、まさか一九七〇年にシリアでクーデターを起こして全権を掌握した軍人の」
「その通りだ」
思いがけず歴史上の人物が登場して生徒たちは大はしゃぎし、サインをねだった。
「朝戸開けにはくれぐれも用心しなさい」アサドが子どもたちに言った。
「なんで」
「朝、何気なく戸を開けるとテロリストが待ち構えていることが多いのだ」
「あざといんだなあ、テロリストって」
「朝戸風tが吹きこむときも油断しては駄目だぞ。奴らは風上にすると見せかけて風下で待機するのだ」
「でも僕は朝床で寝てるから気がつかないよ」浅井が答えた。
「馬鹿者。さっさと起きて朝戸出しないと殺されるぞ」
「えじさん、シリアの人なの」
「そうだ」
「シリアの民謡聞かせて」
岡崎がせがむと生徒たちはわっと歓声をあげて拍手した。
「民謡は……ひとつしか知らない」
「いいよ」
「では――」
アサドは咳払いをして喉の調子を整え、安里屋結歌を歌った。
「おじさん、それ、沖縄の歌だよ」
「ごめんね。これしか知らないんだ」
「おじさん、本当にアサドなの」
「本当だ」
「嘘くせー」浅井が訝しげにアサドをじろりと睨んだ。
「歌は苦手なんだよ。そのかわり和歌を教えてあげよう。朝鳥の朝立ちしつつ群鳥の群立ち行なば――」
「なんでシリアの軍人が和歌を知ってるんだよ。このおじさん、絶対偽物だ」岡崎が叫んだ。
「本人だよ。信じてくれ。ほら、朝菜をたくさん持ってきてあげたよ」
アサドは朝食のおかずになる野菜や海藻を教卓に並べた。
「何をするんですか。授業中ですよ」教師がたしなめた。
「教師といえば学者のはしくれ。学者なら字があるはず。荻生徂徠の字は茂卿。そなたの字は?」
「ありませんよ」
「なに? 字もないのに朝な朝な小学校で授業をしているのか。けしからん」
「けしからんのは授業を妨害するあなただ。おい、みんな、縄を結え」
生徒たちは号令に従って縄を糾い、アサドをぐるぐる巻きにして縛り上げた。
「ちくしょう。俺は昨日の晩深川遊郭で遊んで、今朝は朝直しして馴染みの遊女を買うつもりだったのに」
アサドが悔しそうに呟いた。外は陸風と海風が移り変わるときに一瞬風が絶える朝和ぎになった。朝に日に授業に負われる教師は疲労を感じた。朝な朝な授業をするだけでも疲れのに今朝は武装勢力が闖入するわアサドが妨害するわで授業参観はメチャクチャになった。やけを起こした教師は浅鍋を携帯用コンロの火にかけて、アサドが持ってきた野菜と海藻を煮始めた。朝な夕な校務に追われて心身ともにへとへとだった。ぐつぐつ煮える鍋の中で春菊が糾われた。朝に日に仕事は山積し、朝虹を眺める余裕もなく、朝に日に文部科学省に提出する書類の山と格闘する生活に教師は飽き飽きしていた。すると突然ドアから眼鏡をかけた禿頭の西洋人が教室に入ってきた。
「誰だ」
「マヌエル・アサニャ・ディアスだ」
「アサニャ?」
「スペインの政治家ですね」井上さんが答えた。
「歴史で習いました。一九三六年人民戦線派の首相と大統領になった人です。フランコ軍が勝利したあとフランスに亡命しました」
「お嬢さん、よく知ってるね」アサニャは相好を崩した。
縄でぐるぐる巻きにされたアサドを見てアサニャは驚いた。
「おまえは……悪名高きアサド」
「それがどうした」
「貴様のような右翼のせいでわたしは政治生命を失ったのだ」
「知ったことか」
「悪魔払いをしてやる」
アサニャは神主のように麻幣をアサドの頭に振りかざして呪文を唱えた。
「あ! 浅沼だ」
岡崎が窓の外を指さして叫んだ。生徒と教師、父兄が一斉に外を見ると黒縁の眼鏡をかけた小肥りのスーツ姿の男が校庭を走ってくる。社会党委員長浅沼稲次郎だった。浅沼は教室に入ると教師を押しのけて教壇に両手をつき演説を始めた。するとどこから来たのか右翼の少年が教室に乱入し、全員が呆気にとられた隙をついて浅沼の腹を短刀で刺した。浅沼は即死した。騒ぎを聞きつけた職員たちが来て少年を取り押さえ職員室へ引きずっていった。
悪魔払いされたアサドはぐうぐう朝寝をきめこんでいる。するとまた別の男がやって来た。和服姿で扇子をパチパチ開いては閉じ、乱れた朝寝髪もお構いなしに、いかにも朝寝坊らしい間抜け面をさげて教壇の上に登ってすわった。
「えー、馬鹿々々しいお笑いを一席申し上げます」
「誰ですか」教師が訊ねた。
「朝寝坊夢楽と申します」
「落語家さん?」
「はい。――江戸の昔のお噂です。職人の八っつぁんが丈の短い草のはえた浅野を歩いておりますと、向こうから友だちの浅野がやって来ました。『おい八っつぁん』『よう浅野』――」
麻の衣の着物を着た夢楽が落語を始めた途端に教壇から落ち、顔面を床にたたきつけて鼻が折れた。隣には右翼少年に刺し殺された浅沼の遺体が転がっている。教室内の秩序が失われたこと麻の如し。
「授業参観はここか」
教室の後ろのドアががらりと開いて別の男が入ってきた。
「あなたは……」教師が訊ねた。
「浅野総一郎。渋沢栄一に見出された日本セメント業の先駆者だ。浅野財閥の総帥である」
「ご冗談でしょう」夢楽が鼻血を流しながらにやにや笑って言った。
「冗談ではない。わしは正真正銘、浅野セメントの創業者だ。貴様こそ何者だ」
「こう見えましても江戸後期の落語家。三笑亭可楽の弟子でございます」
「芸人か。穢多非人同然の河原乞食め」
「そいつはちとお言葉が過ぎるというもんです」
「貴様のようなへそ曲がりはこの生徒たちと一緒に授業を受けろ」
「どうして」
「麻の中の蓬という諺を知らないのか」
「さあ……」
「わが浅野財閥の家訓だ。まっすぐ伸びる麻の中に生えれば、曲がりやすいヨモギも自然にまっすぐ伸びる。どんな悪人でも善人と交われば、その感化を受けて善人になる。そういう意味だ」
「お言葉ですが、あたしは悪人ではありません」
「何を抜かす、この人殺しめが! そこに倒れている男が何よりの証拠だ」
「違いますよ。あたしが来たときにもう倒れてたんです」
二人が口論を始めると、さんざん踏みつけられてぼろぼろになった前のドアをさらに踏んづけて武士がずかずかと教室に乗りこんだ。
「なんだ、貴様は」浅野が怒鳴った。
「拙者は浅野長矩である」
「浅野内匠頭だ」井上さんが興奮して目を輝かせた。
「さよう。この部屋に吉良上野介が隠れているという噂を聞いて参ったが、どこだ」
「そんな人いませんよ」教師が答えた。
教室の後ろのドアが再びがらりと開き、もう一人武士がやって来た。
「来たな、吉良上野介!」
「馬鹿を申すな。拙者は浅野長政だ」
「なに? 安土桃山時代の武将で、初め織田信長に仕え、のちに豊臣秀吉の奉行になった、あの長政か」
背中に麻の葉の紋を染め抜いた長政はこっくりとうなずいた。
「そなたの背中の紋所は……」
「麻の葉楓。カエデ科の落葉高木だ」
「こんな朝の間からなんの用だ」
「麻の実を探しておる。噛めばかぐわしい香りが漂い、薬にもなり食用にもなる」
「そんなものが教室にあるものか。外で探せ」
「貴様に指図される筋合いではないわ」
浅野内匠頭と長政が睨み合うと、窓ガラスを蹴破って武士が乱入した。
「誰だ」長政が問うた。
「拙者は浅野幸長だ」
「まさか……桃山・江戸時代の武将、豊臣秀吉に仕え、小田原・文禄の役で活躍し、のちに徳川家康に従い、関ヶ原の合戦で軍功をあげて紀伊の国を治めた、あの幸長か」
「うむ」
「なんの用だ」
「そこの川の浅場で用を足していた隙に財布をすられた。貴様が犯人に違いない。お命頂戴つかまつる」
「無礼者! 返り討ちにしてくれるわ」
二人は刀を抜いて構えた。教室の中は縄でぐるぐる巻きにされたアサドがぐうぐう眠り、その横でアサニャが悪魔払いの祈禱を捧げ、教壇の下には右翼の少年に殺害された浅沼の死体が転がり、鼻血が流れっぱなしの落語家夢楽が扇子をパチパチ鳴らし、浅野財閥の総帥浅野総一郎が仁王立ちし、浅野内匠頭が見守る中浅野長矩と浅野長政が刀を構えて相対している。その様子を教師と生徒、父兄たちが見守っている。こんな浅はかな連中がなぜ一ヶ所に集まったのか、いくら考えても筒井には理解できなかった。
授業の終了を告げるチャイムが鳴った。生徒たちは歓声をあげて校庭に遊びに行き、教師は職員室に戻り、父兄たちは控室に向かい、歴史上の人物たちは何事もなかったかのようにすたすたと教室から出て行った。
手持ち無沙汰になった筒井は図書室に立ち寄った。本棚に古書が二百三十冊ずらりと並んでいる。台密十三流の一つ、穴太流の修法作法と図像を集成した阿娑縛抄だ。今時の小学生はこんな難しい本を読むのか。感心しつつ一冊を手にとって斜め読みしていると朝鉢坊主が来た。窓の外からテッペンカケタカ、トッキョトカキョクと鳴く小鳥の声が聞こえる。
「もう浅羽鳥が鳴く季節になったか」
坊主が呟いた。
「アサハドリ?」
「ホトトギスです」
浅葱と藍の中間くらいの浅縹色の衣を着た坊主は乱れた襟を整えながら答えた。
「素敵なお召し物ですね」
「浅縹の袍と申しまして、ごく粗末なものですよ。――ああ、ホトトギスが羽ばたいている。朝羽振る風こそ寄せめ夕羽振る浪こそ来寄せ。ときに朝腹ではございませんか」
「え?」
「空腹ではありませんか」
「そういえば今朝はまだ何も食べてません」
「朝腹の丸薬にしかなるまいが、こんなものでよければ朝飯にどうです。すっかり冷めてしまったが」
僧侶は懐から携帯用の弁当箱を取りだした。中身はビーフストロガノフだった。
「お坊さん、いつもお食事にこれを?」
「ロシア料理に目がないもので、朝晩食べます」
二人は図書室でビーフストロガノフをがつがつ食べた。
「托鉢の僧とお見受けしますが、どちらからいらっしゃったのですか」
「旭です」
「アサヒ?」
「千葉県北東部、九十九里浜北端。米と海産物の集散地として繁栄する人口四万人の市です」
窓から射し込む朝日の光が二人の顔を照らした。筒井は急に朝冷えを感じて思わず震えた。僧侶は懐から串焼きにした朝氷魚を取りだした。
「食べなさい。遠慮は無用です」
「お坊さんは肉や魚を食べないとばかり思ってました」
「立派な僧侶は食べないが、わたしは所詮朝日隠れの生臭坊主、修行が足らず煩悩のとりこです」
朝日影が窓ガラスに照り映えた。
「カニはお好きかな」
僧侶が懐から茹でた旭蟹を取りだした。
「カニも食べるんですか」
「かまぼこもあるよ」
僧侶は上面を紅で彩った朝日蒲鉾を衣の袂から取りだして見せた。
「どこで仕入れるんですか」
「旭川です」
「北海道ですか」
「いや、岡山県北部の蒜山から県の中央部を南流して岡山市内を通り児島湾に注ぐ旭川です」
「これからどちらへ」
「旭川医科大学に参ります」
「北海道ですね」
「はい」
僧侶は鹿の角を蘇芳で染めて作った朝日櫛で頭髪をなでようとしたが、頭が丸坊主であることに気づいてやめた。
窓から朝日子の光が燦々と降り注ぐ。図書室のドアが音もなく開いて男が一人、鹿の角を蘇芳で染めた朝日笄で髪をかき上げながら入ってきた。
「父兄参観はここですか」
「あなたは……?」筒井が訊ねた。
「朝彦親王です」
「皇室のかたですか」
「はい。伏見宮邦家第四王子。久邇宮の初代です」
「本当かなあ。証拠は?」
「朝日さす豊浦の寺の西なるや――」
「人を疑うものではありません」僧侶がたしなめた。
「和歌がすらすらと出てくるのは宮家の何よりの証拠」
「だからといって皇室の人とは限らない。――どちらから来ました?」
「朝日山地です」
「どこだろう」
「山形と新潟の県境です」
「皇室の人が山から来るなんておかしいぞ」
「朝日将軍に拉致されていたのです」
「誰?」
「源義仲ですよ」僧侶が答えた。
「日の出の勢いだったので朝日に譬えられた」
「でも……時代が全然違うじゃないか」
「嘘ではありません。そこの朝日新聞をご覧なさい」
男は本棚の一角を指さした。筒井は新聞を手にとって僧侶と肩を並べて紙面をめくった。
「朝日訴訟の記事しか載ってないぞ」
「そんなはずはありません」
「長期入院患者に対する生活保護の基準は憲法二十五条に違反するとして一九五七年に重症結核患者の朝日茂が行政訴訟を起こした……記事はこれだけだ」
「でもわたしは本当に旭岳から来たんです」
「アサヒダケ?」僧侶の眼がぎらりと光った。
「標高は?」
「たしか……二二九〇メートル」
「それは大雪山の旭岳だ。朝日山地の最高峰は朝日岳、標高は一八七〇メートルのはず」
「しまった!」男が息を呑んだ。
「やはり偽物だな。本名を名乗れ」筒井が凄んだ。
「朝比奈と申します。でも皇室と血が繋がってるんですよ」
朝比奈は懐から朝日の御旗すなわち日章旗を取りだして振り回した。
「朝日の宮、つまり伊勢神宮の内宮に家系図が保管されています」
「ちょっとその旗を貸せ」
僧侶が旗を奪って裏表を確かめた。
「この旗は旭日丸で使われたものだ」
「旭日丸?」筒井が訊ねた。
「水戸藩主徳川斉昭が江戸石川島で建造させた木造の洋式帆船です。安政三年に竣工。進水に苦労して厄介丸とも呼ばれた」
「さてはおまえ、旗を盗んだな」
「あーごめんなさい。お詫びの印にこれを召し上がれ」
朝比奈は紅色に染めた饅頭を筒井の手に渡した。
「なんだこれは」
「朝日饅頭です」
「いらねーよ」
筒井は饅頭を投げて朝比奈の顔にぶつけた。
「あーごめんなさい! ではこれを」
朝比奈は懐から陶器の皿を取りだした。
「朝日焼です。京都府宇治市朝日山の名産です」
筒井は皿を裏返した。
「Made in China って書いてあるじゃないか。百円ショップで買ったんだろ」
「ばれたか!」
朝比奈はすたこらさっさと図書室から走り去った。
筒井は窓からぼんやり校庭を眺めた。うららかに晴れた朝日和である。ドアががらりと開き、連載第百回で川原に出かけた餓鬼が図書室に来た。
「舟を出すけど、乗るか」
「川の水が浅すぎるんじゃないのか」
「潮が満ちてきたから大丈夫。これから朝開きだ」
「アサビラキ?」
「夜が明けるのを待って舟を漕ぎ出すんだ」
「餓鬼のくせに難しい言葉を知ってるな」
「子どもだと思って浅ぶなよ」
「で、どこに行く」
「麻布だ」
「麻布って東京の麻布か」
「当たり前だ」
東京には久しく行っていない。ここで餓鬼と知り合ったのも何かの因縁だろう。
「乗せてくれ」
「その前に朝普茶を食うから待ってろ」
餓鬼は朝食の前に食べる菓子を眼の前に並べて「どれにしようかな」と一つずつ指で順番に指し示した。
「おめざを食うとは、まるで赤ん坊だな」
「余計なお世話だ。朝臥しで腹ぺこなんだ」
僧侶はいつの間にか頭陀袋から麻衾を取りだし身をくるんでぐうぐう眠っている。
「坊主のくせに朝臥せりとは生意気だ」
「おまえのほうがよっぽど生意気だよ」
「さてと、朝船を出すぞ。ついてこい」
筒井は僧侶をほったらかしにして餓鬼と一緒に川原へ行った。なるほど川は水かさが増して舟がぷかぷか浮いている。
「本当に麻布に行けるのか」
「安心しろ」
「でも、あの辺に川はなかったはず」
「どこまで人を疑うんだ。麻布のお方で気が知れぬ」
「なんだそれ。諺か」
「麻布には六本木という地名があるだろ。でも六本の木はない。『木が無い』と『気が知れない』をかけてるんだ」
「へえ」
「いい歳をしてものを知らねえな」
「うるさい」
「さっさと乗れ」
筒井は小舟に乗った。
「早く出してくれ」
「その前に一っ風呂浴びる」
餓鬼は川原の小さな露天風呂に入った。
「餓鬼のくせに朝風呂丹前長火鉢とは結構な身分だな」
温泉で身を清めた餓鬼は舟を漕ぎ出した。朝ぼらけの空に有明の月がぼんやり浮かんでいる。川の浅まなところに鮒らしき魚の群が見える。餓鬼は気が狂ったように舟をうんうん漕ぎ、やがて大きな山の麓に達した。
「あの山は」
「浅間だ」
「浅間って、長野と群馬の県境じゃないか。もうこんなところに来たのか」
「悪いか。嫌なら朝熊に行くぞ」
「どこだ」
「三重県伊勢市だ」
「伊勢になんか用はない」
「あそこに寺があるだろ」
「うん」
「朝参りでもするか」
「興味がない」
「浅間温泉に寄っていくか」
「おまえ、さっき露天風呂に入ったばかりだろ」
川沿いの畑で農夫が麻蒔く姿を眺めながら筒井は疑念を抱いた。麻の種をまくのはたしか春のはずだ。いまは秋だとばかり思っていたが、いつの間に季節が変わったのだろう。
「温泉に入りてえ」
餓鬼は櫂を放り出して浅ましく駄々をこねた。舟底に腹ばいになって手足をばたつかせる餓鬼の様子を見て筒井は浅ましがった。こいつは死ぬほど温泉が好きなのだ。温泉に入らないと本当に息絶えてあさましくなるかも知れない。
朝まだきの川岸には朝熊黄楊の草原が広がっている。源氏物語の世界ならこんな草原を天皇が輿に乗って正殿に向かい、朝政をつとめるだろう。朝惑いの眠い目をこすって政務を行なうのだ。浅間葡萄の実を食べながら政治を行なうさまは歌舞伎舞踊の浅間物の題材になった気がするが、俺は歌舞伎に詳しくないから勘違いかも知れない。天皇が正殿に着くと朝守りの番人が門を開けるだろう。それにしても餓鬼はいつまで駄々をこねるつもりなのか。筒井は浅間山を見上げた。すると標高二千五百メートルの山はどんどん小さくなり、標高五百メートルくらいになった。
「おい、山が縮んだぞ」
「山が伸びたり縮んだりするものか」
「嘘じゃない。あれを見ろ」
「あれは朝熊山だ」
「なに? じゃあ、ここは伊勢なのか」
餓鬼は舟を小さな桟橋に漕ぎつけた。川の浅みからケロケロとカエルの鳴く声が聞こえる。やはり季節は秋ではなく春なのか。餓鬼が舟を杭にもやっていると男がやって来た。
「筒井さんですね」
「あなたは……?」
「浅見と申します」
「なぜわたしの名前を」
「浅井さんの奥さんから電報が届いたんです」
「浅井さん……?」
「ええ。奥さんの代わりに息子さんの授業参観にいらっしゃったそうですね」
「あ、あの奥さんか」
岸辺は薊が生い茂り、アザミウマ目の小型昆虫薊馬がぶんぶん飛び回っている。草原の真ん中に朝見草すなわち松の木が一本聳えている。
「奥さんから仰せつかりました。朝御食のご用意をしてあります」
「アサミケってなんですか」
「神様や天皇に捧げる朝の食事です」
「滅相もない。三文文士ですよ」
「またまたご謙遜を。わたしの先祖は浅見絅斎と申しますが――」
「聞いたことないなあ」
「それは残念。江戸中期の儒学者で、尊王思想を唱えた人です」
「尊王ということは朝廷を重んじたわけですか」
「はい。ですから皇室のかたがたへのおもてなしには慣れております。どうぞ岸へお上がり下さい」
筒井は川の浅道をじゃぶじゃぶ歩こうとしたが「お着物が汚れます。どうぞ」と浅見が舟に乗りこんで筒井を背負い桟橋に上がった。草原の浅緑が目に鮮やかで、筒井は新鮮な空気を胸一杯に吸った。
「朝宮へご案内します」
浅見は筒井と餓鬼を朝の御殿に連れて行った。広い玄関で靴を脱ぎ、磨き抜かれた廊下を歩くと客間とおぼしき部屋で医師が病人の朝脈をとっている。
「どうもいけませんなあ。薬で治すのは無理だ。これをお飲みなさい」
医師は患者の口に漏斗を突っこみ、麻の種を絞って採った麻実油を流しこんだ。その様子を廊下からちらりと窺った筒井はあまりにも乱暴な治療法に呆れて浅んだ。
「こら! 勝手に覗くな」
見咎めた医師が諌むるのに驚いた筒井は体裁を整えて、覗いてなんかいませんよという顔をして医師を欺いた。
「こちらへどうぞ」
浅見が筒井と餓鬼を広間に案内した。
「立派な部屋ですね」
「これから朝婿入りを始めますが、その前に温泉で身を清めてはいかがですか」
「え?」
「青森湾の浅虫温泉から湯を運んであります」
「いや、朝婿入りというのは……?」
「婚礼の当日、祝言に先立ってお婿さんが新婦の家を訪問する儀式です」
「お婿さんって、誰?」
「筒井さん、あなたですよ」
「なんだって!」
「もうすぐ朝六つの鐘が鳴ります。鐘が鳴ったら出かけましょう」
壁に浅紫の着物がたくさん並んでいる。浅見は浅紫の袍を筒井に着せた。
「ちょっと待ってくれ。これは何かの間違いだ。わたしは婿入りなんかしない」
「ご冗談を。朝起きて縁起のいいものを目にするのを朝目と言いますが、このお召し物はまさに朝目にふさわしい」
「やめてくれ。それより腹が減った。朝飯を食わせてくれないか」
興奮した筒井は言葉遣いがぞんざいになった。
「かしこまりました。朝食をご用意するなんぞは朝飯前です。おーい、御膳の支度を」
浅見がポンポンと手を叩いて奥に声をかけると麻で作った粗末な麻裳を着た女中が三人、「はい、ただいま」と挨拶して奥に引っこんだ。窓の外は朝靄が立ち籠めている。
「あさもよい紀の関守が手束弓ゆるす時なくあが思へる君――」
浅見が和歌を呟いた。女中たちは朝催いに余念がない。
「たまだすき畝火を見つつ麻裳よし紀路に入りたち――」
浅見が再び和歌を諳じた。筒井の眼の前に鮮やかな御膳が並べられた。
「誤解だ。わたしには妻がいるし……」
花婿衣裳を着せられて鮮やぐ筒井はおろおろするばかりだ。
「何をおっしゃいます。朝焼けに映える朝山の向こうに花嫁がお待ちかねです。お食事がすんだら朝湯で身を清めて下さい」
女中たちが筒井を羽交い締めにして風呂場に引きずり、素っ裸にして広い浴槽にどぼんと投げ入れた。浴槽の湯は浅らかで腰の高さまでしかなく半身浴を余儀なくされた。
浴室の壁はタイル張りで鮮らかなイルカの絵が描いてある。筒井が絵に見とれていると浴槽の底から海豹がざんぶと躍り出て筒井に覆いかぶさった。相手の腕か脚をつかんで放り投げたいが、なにしろ海豹は海豹肢症というくらいだから手足が短く、皮膚はぬるぬるして滑るばかりだ。海豹は湯船の浅りをのたうち回って餌漁を始め、底に浅蜊がたくさんあるのを殻ごとバリバリ食った。大工が鋸の歯を交互に左右に振り分けて摩擦抵抗を減らすように、歯をギリギリと動かして巧みに殻を破る。
筒井は命からがら湯船から飛び出て脱衣場に避難した。すると真言宗の阿闍梨が待ってましたとばかりに呪文を唱えながら筒井に言った。
「あなたはいま海豹に襲われましたね」
「ええ。死ぬかと思いました」
「あれはこの世のものではありません」
「え?」
「狐狸妖怪の類です。あなたの命を漁るところでした。ほら、ご覧なさい。狂ったようにあざっているでしょう」
海豹はビーチボールを鼻先に乗せて短い両手をパチパチ打打ち鳴らしている。
「遊んでいるように見えますが」
「浅蜊を食べて満足したのじゃろう。楽しそうに狂っておるわ」
それまで遊んでいた海豹が突然息絶えて湯に浮いた。
「効果覿面じゃ。我ながら惚れ惚れする」
「すごい念力ですね」
「あとで食べよう」
「え?」
「海豹の肉は珍味じゃ。少し鯘るまで待とう」
「アザル?」
「腐ることです。腐肉は美味じゃ」
阿闍梨はアザレアの花束を両手に持ち腰をクネクネさせて踊りながら海豹が腐るのを待った。当人は大まじめらしいが端から見ると戯れがまし。時々花束で筒井の鼻先をくすぐる。どう考えても戯ればむとしか思えない。
「なんの儀式ですか」
「儀式ではない。来週フラダンスの発表会があるのじゃ。これは朝練じゃ」
坊主がフラダンスとは滑稽千万――筒井はひそかに嘲笑った。海豹の肉を食うとはとんだ生臭坊主だ。花束が絡み合い、糾はってこんがらがった。ははは、ざまあみろ――筒井が思わず笑うと阿闍梨は血相を変えて睨みつけた。
「人を鼻で笑うとは失礼な奴。わたしの念力でアサン送りにしてくれるわ」
「アサンってなんですか」
「韓国忠清南道北部の郡。日清戦争初頭の戦場じゃ」
「ふん。肉を食う坊さんのほうがよっぽど失礼だ。煩悩の塊じゃないか」
「これでもアサンガすなわち無執の境地に達しようと毎日修行をしておる」
「到底信じられないね。亜酸化窒素でも吸って死んじまえ」
「亜酸化窒素では死ねないぞ。あれは笑気といって、麻酔効果があるのだ。一口吸えば桃源郷じゃ」
この坊主、ひょっとして麻薬中毒ではないのか。ドラッグ中毒の生臭坊主がフラダンスを踊りながら死んだ海豹が腐るのを待っている――シュールな光景だ。フランスの画家デュビュッフェがこの現場を見たらきっと雑多な素材を寄せ集めてアサンブラージュを制作するに違いない。
阿闍梨は踊りをやめて浴槽に入り、舌なめずりしながら海豹の足にがぶりと噛みついた。足というよりは尾びれだが、この際どちらでもよかろう。一口囓ると口を開けたまま、まるで水辺の葦のように棒立ちなり、たった一言「悪し」と呟いた。
「どうです、お味は」
「……不味い。これなら䳑のほうがマシだ」
「アジって魚の鰺?」
「いや、トモエガモ、アジガモともいうが。鴨だ」
「鴨の肉も食うとは。おまえそれでも密教の修行僧か」
「見損なうな。密教といえばサンスクリット語、すなわち梵語だ。梵語の最初の文字は阿字だ。阿吽の阿だ。どうだ恐れ入ったか」
「そんなことは中学生だって知ってる」
「誰がなんと言おうとわたしは密教の修行僧である! 混迷を深めるこの時代に必要なのは密教の精神である!」
阿闍梨は突然アジ演説を始めた。
「インドで生まれた密教思想は中国、日本、そしてアジア全域に広がった! しかしアジアだけで満足してはならない! 全世界に布教するべく、わたしはアジアアフリカ会議で強く訴えるつもりである!」
湯殿の扉ががらりと開いて武士が入ってきた。腰に差した刀の鞘には二ヶ所に金具が取りつけてあり、両者の足間は約五寸、金具の輪に紐を通して腰からぶら下げる仕組みだ。
「婿殿、そろそろ出発の時刻です」武士が言った。
「だから勘違いだよ。俺には妻がいるんだ」
「しかし、それでは嫁御さまが悲しみます」
「嫁さんってどんな人?」
「アジア開発銀行総裁の娘、レイチェルさんですが」
「え!」
筒井は腰を抜かした。世界中を駆け巡って探し続けたあのレイチェルなのか! でも俺が探しているレイチェルは国際労働機関の職員だ。同一人物だろうか。
「本当にアジア開発銀行総裁の娘なのか」
「はあ。たしかそう伺いました。いや、アジア救済連盟だったかも知れません。アジア競技大会だったかな……」
「君の話は当てにならない。とにかく本人に会おう」
「ではこちらへ」
武士は鼠害や湿気を防ぐために脚柱を高くした脚揚げ倉に案内した。婿入りの共をする女たちがぞろぞろ現れたが寝ぼけているのか足足で足並みが揃わない。
「では、これにお乗り下さい」
武士はアジア水牛を一頭引き連れてきた。
「こんなちんちくりんのバッファローなんか嫌だ」
筒井が不平を鳴らすと、「ではこれに」とアジア象を一頭引っぱってきた。筒井は機嫌を直して意気揚々と跨がった。
「うむ。余は満足じゃ。このままアジア太平洋経済協力会議に出かけてアジア的生産様式の特殊性について演説したい気分だ」
「これはまたお戯れを。――さあ、では参りましょう」
象は大きな足跡を土に描きながらゆっくり歩き始めた。象の背に乗り大勢のお供を従えて進むとまるでアジアトルコの王子になった気分だ。冷たい風が吹きつけ、「寒い」と呟くと、お供の者はすかさず炭火を入れた足焙りで足を温めてくれるし、跳ねた泥で足が汚れると清らかな川の水で足洗いしてくれる。武士の話によると、嫁入りする場合は婿の家で足洗い酒というものを振る舞う風習があるそうだ。冠婚葬祭といえば、対馬だったかどこだったか忘れたが、葬式から帰る人のために座敷口に足洗い水を用意する地方があると噂に聞いたのを筒井は思い出した。花嫁の家に続く一本道の沿道にはクジャクシダ属の観葉植物アジアンタムが今を盛りと咲き誇っている。
象が大きな石ころにけつまづき、パオーンと鳴いて前脚をがっくり折り膝をついた。その拍子に筒井は象の背中から転げ落ちた。
「足の具合が悪しいようですな」
武士は石ころを点検した。
「香川県木田郡庵治町で採れる庵治石だ。高級墓石に使う花崗岩がなぜこんなところに……嫌な予感がする……」
武士は象を立ち上がらせて足入りすなわち泥沼で足を洗ってやった。するとどこからか吹き矢がシュッと放たれて武士の首に刺さり、武士は「う、うぐぐ」と呻いて息絶えた。
「婿殿、こちらへ」
随行の女が筒井の手を引いて道端の駆込み寺に入った。
「ここはアジールなので安全です」
「アジール?」
「世俗の世界から遮断された不可侵の聖域でございます。俗界の法や掟はここでは通用しません。何人も傷つけたり傷つけられたりすることはありません」
「助かったよ。ありがとう。婿入りは命がけだなあ」
「世間には人の幸せをやっかむ手合いが多くて困ります。このあいだも別の婿殿が命を落としました」
「なんで」
「足入れと申しまして、婿の家で結婚式を済ませた妻が実家に帰り、そのあと一定期間は夫が通い婚をする習わしがございまして、ある日夫が妻の家に向かう途中で襲われたのです」
「しかし吹き矢で殺すなんて、まるで野蛮人じゃないか」
「災難でしたね。粗茶ですが、どうぞ」
駆込み寺の住職が足打の小さなお膳に茶を載せて勧めた。足打折敷でお茶を勧められるとは風流だ。筒井が薫り高い茶を啜ると住職が言った。
「婿入りの当日に襲撃されるとは縁起が悪い。ひとつ愚僧が足占をして進ぜよう」
「アウラ?」
「むかしから伝わる占いでな、歩きながら一歩ごとに吉凶の言葉を唱えて、目標の地点に達した時の言葉で吉凶を占うのじゃ。ときにお嫁さんの名前は……」
「レイチェルです」
「ではレイチェルに逢えるかどうか占おう。あの柱までまっすぐ歩きなさい」
筒井は言われるがままに立ち上がり、両方の足裏をぴたりと床に揃え、「逢える、逢えない」と呟きながら一歩ずつ柱に向かって歩いた。「……逢えない」と呟いた瞬間、柱に到達した。
「うーむ。まことにお気の毒だがお嫁さんには逢えないな」
「そんな……」
「しかし所詮は占いだ、当たるも八卦当たらぬも八卦。あまり落ちこむには及ばん。この味瓜でも食べて元気を出しなさい」
筒井はマクワウリを食べた。すると眼鏡をかけて口髭をはやした白人の男が寺に駆けこんできた。
「お願いです! かくまって下さい」
「失礼じゃが、どなたかな」
「サルバドール・アジェンデと申します」
「アジェンデ? ひょっとして南米チリの政治家の……」
「はい。おかげさまで人民連合から立候補して大統領になりましたが、ピノチェトの軍事クーデターが勃発し、命を狙われているのです」
「あなたのような人のためにこそ、この駆込み寺はある。遠慮は無用だ、さあ、奥へどうぞ」
アジェンデ大統領は奥の部屋に身を潜めた。その直後、黒紋付に白い顎髭をたくわえ、右の手首に鷹を一羽乗せたた立派な風体の男が「ごめん下さい」と挨拶して現れた。
「今日は妙に慌ただしい日だ。今度は誰かな。――はいはい、どなたですか」
「栃木県上都賀郡足尾から参りました、田中正造と申します」
田中が名を名乗ると鷹がバタバタと羽ばたいて飛ぼうとしたが足には足緒がしっかり結わえつけられており、鷹は観念して再びおとなしくなった。
「田中正造さんといえば、あの足尾鉱毒事件の……」
「はい。銅山による鉱毒事件を世に訴えておりますが、古河財閥が雇った殺し屋につけ狙われて難渋しております」
「よくぞ参った。さあ奥へどうぞ。アジェンデ大統領もおいでですよ」
奥の部屋に通された田中正造はアジェンデと抱擁し、退屈しのぎに尻と両手を床につけ、足の裏を合わせて押し合って勝負する足押し遊びに耽った。すると廊下の奥からひたひたと足音が近づいてきた。
「さてはまた坊主たちが足踊を始めたな。修行もせずに遊んでばかりいる。けしからん」
住職が襖を開けると、入ってきたのは身の丈三メートルはあろうかと思われる海馬だった。
「化け物め」
住職はアシカの前に立ちふさがった。獰猛なアシカは襖を破って闖入し住職を鼻で小突いて吹っ飛ばし、野菜を運ぶのに使う竹製の簣を踏みつけ、壁という壁に体当たりを食らわせた。簡素な造りの古寺はあっという間に崩れて瓦礫と化した。アジェンデと田中正造は屋根瓦の下敷きになって息絶えた。
「寺が壊滅した……足が上がってしまった……」
住職は気が抜けて床にへたり込んだ。
「もうこの土地にいてもしかたがない。足利へ参ろう」
「足利って栃木県の足利ですか」筒井が訊ねた。
「そうじゃ。わしの唯一の身寄り頼り、足利家が治めておる。では出発しよう」
「え? わたしもですか?」
「ここにいては危険だ。一緒に来なさい」
「でも、レイチェルに逢わなくては……」
「命あっての物種じゃ。生きていればきっといつか逢える。愚僧と一緒に来なさい」
筒井は渋々象に跨がり、住職と随行の男女を従えて足利へ向かった。道中住職は足利家の来歴を問わず語りに語って聞かせた。話によると足利氏満は関東の平定に尽力し、足利織という織物が盛んになり、「板東の大学」とも呼ばれた足利学校が学問を広めた。足利成氏は足利時代の数多い武将の一人で、足利染という絹の染物を奨励したが、一族の頭領はなんといっても室町幕府初代将軍足利尊氏だ。その息子足利直冬は京都を追われて肥後に落ちのび中国地方を転々とし、尊氏の弟足利直義は兄と喧嘩して鎌倉で毒殺された。足利幕府は足利文庫を設立して学問を奨励したが足利政知は勉強嫌いで伊豆にとどまり、足利持氏は将軍義教と対立して敗れ自害し、尊氏の四男足利基氏は鎌倉に入り関東を支配し、足利義昭は織田信長に気に入られたが後に仲違いして京都を追放され諸国を放浪し、足利義詮は室町幕府第二代将軍になったが十年ももたず、第五代将軍足利義量は在位わずか三年で歿し、第七代の足利義勝も将軍になった翌年に病死し、第十一代将軍足利義澄は第十代将軍足利義稙に追われて近江で死に、第十三代将軍足利義輝は松永久秀に攻められて殺され、これは暗殺された第六代将軍足利義教の祟りだと噂された。第十二代将軍足利義晴は何度も京都を追放され、第九代将軍足利義尚は高頼討伐の陣中に歿し、台十四代将軍足利義栄は病死し、第八代将軍足利義政は芸術を愛好し東山文化を築き、足利義視は東軍の細川勝元に擁立されて応仁の乱になったが後に西軍に走り、第三代将軍足利義満は南北朝内乱を統一して幕府の全盛期を迎え、第四代将軍足利義持は父義満から将軍職を譲られたが実権のないまま死んだ。――という話を聞かされた筒井は退屈で退屈で途中からずっと象に揺られて居眠りしていた。
「すまないが、愚僧も象に乗せてもらえまいか」
歩き疲れた住職は象にまたがりたいが、象は脚をピンと伸ばしたまま突っ立ち、とても背中に手が届かない。何か足掛りになるものはないかとキョロキョロ見回すと民家の庭先に葦垣がある。住職は葦でつくった垣によじ登り、「天雲のゆくらゆくらに蘆垣の思ひ乱れて――」と和歌を呟きながら象の背中に手を伸ばし、ひょいと飛び乗った。
「身のこなしが軽いですね。とてもお坊さんとは思えない」筒井が感心した。
「何を隠そう、若いころは器械体操の選手でした。鉄棒の足掛け上がりが得意だった」
民家から女が出てきた。
「長旅で疲れたべ。これ食え」
女は大きなお盆に山のように積んだ握り飯を振る舞った。腹ぺこだった一行はむさぼり食った。
「急いでつぐったから味加減はどうだかわがんねえけど」
おいしいですよ、と筒井が答えた。
「ところで、ここはどこですか」
「鰺ヶ沢だ」
「アジガサワ?」
「青森県の西、津軽藩の積出港だ」
筒井は耳を疑った。福岡から栃木を目指してきたのに青森に着いてしまった。しかも象に乗って。
「うちでゆっくり休んでけ」
女は一行を家に招き入れた。
「象が逃げないように足枷かますけどええか」
「はい?」
「足枷を嵌めてもええか」
「あ、はい、お願いします」
屟ちなわち木靴を履いた女は枷を嵌めようと身をかがめた。象は驚いて前脚をぐいと持ち上げ女の頭をズドンと踏みしめた。地面に大きな足形が残り、哀れな女はぺしゃんこになった。
民家から女の夫と娘が飛び出てきた。
「おっかあ!」
母親の足型を小さな胸に抱えた娘が泣き叫んだ。
「せっかく新しい木靴をつぐってやろうと思っだのに」
「女房を殺したのはどこのどいつだ」
夫は変わり果てた妻の姿を見て怒鳴った。
「女房は足が不自由だった。毎日足固めしてやっと歩げるようになったのに。象を連れてきたのは誰だ」
筒井は怯えて足が地に着かない。
「海原のゆたけき見つつ葦が散る難波に年はへぬべくおもほゆ」
住職が場違いな和歌を詠んだ。その隙に筒井は脱兎の勢いで走って逃げ、村外れの農家の納屋に隠れた。しかし人殺しの噂はあっという間に村に広がり、通報を受けたインターポールの銭形警部が馳せ参じ、筒井は足が付いた。
「とうとう足が出たな」
銭形はほくそ笑みながら筒井を足鼎にすわらせ、ロープで手足を縛った。
「この瞬間をどれほど待ち焦がれたことか……」
銭形は筒井の両手に手錠を嵌めようとした。その時地響きがしたかと思うと象が壁に体当たりして納屋は木っ端微塵に砕けた。手足を縛られたまま横倒しになった筒井の眼の前に壊れたガラス瓶が二つ転がり、ラベルを見ると「アジ化鉛」「硫酸」と書いてある。アジ化鉛は爆薬だ。筒井はヘビのように身をくねらせて硫酸の瓶を手でつかみ、アジ化鉛に液体を注いだ。液体が無色透明の結晶に触れた途端大爆発が起き、手足のロープがほどけた。
「うわ!」
銭形は髪の毛が黒焦げになって吹っ飛んだ。筒井は地面に落ちていた足金物をベルトに装着して、これまた納屋の片隅に転がっていた刀をさし、象にまたがって納屋を出て猛スピードで村を駆け抜けた。途中水辺に立ち寄り葦蟹を食べ、再び象の背に揺られて走ると港に着いた。大きな船が停泊している。筒井は象に乗ったまま乗船した。
「ちょっと、あんた」
船員が見咎めて言った。
「そんなもの持ちこんじゃ駄目だよ」
「やっぱり象は駄目ですか」
「いや、象はいいけどその刀だ」
筒井はベルトから足金を外して刀を船員に渡した。船は汽笛を鳴らしてすぐ出航した。筒井は船員に行き先を訊ねた。
「アシガバードです」
「アシガバードってどこですか」
「カスピ海の東、トルクメニスタンの首都。イランとの国境の北四十キロメートルくらいのところにあるオアシス都市です」
明くる日船はカスピ海に達した。さすが船だけあって足が早い。
筒井は象にまたがって船を降りた。沿岸は一面に葦が生え、葦牙すなわち葦の若芽がみずみずしい。
「筒井さん、忘れ物ですよ」
船員がタラップを駈け下りて本を手渡した。表紙を見ると小沢蘆庵著『蘆かび』とある。見たことも聞いたこともない本だった。ページをめくるとどうやら歌論集で、万葉集とおぼしき歌がずらりと並んでいる。
「我が聞きし耳によく似る葦牙の足痛吾が背勤めたぶべし」
意味がまったくわからない。
「人違いだ。わたしの本ではない」
「そうですか」
「この近くにホテルはあるか」
「アシガバードまで行けばありますよ」
「距離は」
「二百キロくらいです」
「ありがとう」
筒井はトルクメニスタンの首都に向かって象を歩かせた。一時間ほどして象は足が棒になり動かなくなった。筒井は地面に降りてあたりを見回した。道端に足釜がひとつ転がっている。地平線の彼方にきらびやかな街の光景が太陽の光を反射して輝いている。
「もう少しだぞ」
筒井が象に語りかけると象は元気を取り戻したのかパオーンと鳴いて街の方へ足が向いた。筒井は象の負担を少しでも軽くするため背中にはまたがらず並んで歩いた。水辺に葦鴨や䳑鴨群をなしてガアガア鳴いている。歩きづめに歩いた末アシガバードに着いた。
「宿をお探しではありませんか」
突然男に日本語で話しかけられた。
「ホテルを探してるが」
「是非うちにお泊まり下さい」
「助かるよ。長旅でヘトヘトなんだ」
小さなホテルに案内された。入口の横に馬小屋があり、男が象にリンゴをやると象はぺろりと平らげ、おとなしく馬小屋の前に佇んだ。
「ご主人はトルクメニスタンに長くお住まいなのですか」
「二十年です。生まれは足柄です」
「足柄というと神奈川の……」
「ええ。チェックインの手続きをしますので、ここにお名前と住所、電話番号をお願いします」
筒井が用紙に記入すると主人は「相撲をとりませんか」と訊ねた。
「え?」
「相撲ですよ」
「なんで」
「お客様が勝てば宿泊料が半額になります」
「よし。一丁勝負だ」
筒井と主人はロビーで四つに組んだ。主人は足を相手の足にからみつける足搦で筒井をこともなげに倒した。
「残念でしたね。正規料金でお願いします」
筒井は一階の客室に通された。窓の外に川が流れ、小さな舟が何艘も浮かんでいる。
「まるでヴェネツィアだな」
「足柄小舟と言いまして、足柄山の杉の木で作った舟です。日本から運ばせました」
「腹が減った。レストランは一階か」
「あいにく本日は休業日です。悪しからずご了承下さい」
筒井は壁にかかった絵を見た。東海道の要衝、足柄関を描いた浮世絵だった。
「腹ぺこで死にそうだ」
「隣にレストランがありますよ。よろしければ料理を取り寄せましょうか」
「そうしてもらえると助かる」
「相撲をとりませんか」
「え?」
「わたしに勝てば飲食料が半額になります」
「よかろう。雪辱戦だ」
筒井と主人は部屋の中央でがっぷり四つに組んだ。主人はまたしても足搦みで筒井を軽々と倒した。
「残念でした。正規料金です」
筒井は降参した。
「相撲、強いですね。まるで足柄山の金太郎だ」
「秋から冬にかけて蘆刈の作業をして足腰を鍛えてます」
「蘆刈……たしか能にそんな話があったような……」
「世阿弥の作品ですね。難波の葦売りに落ちぶれた日下左衛門が立身して探しに来た妻とめでたく再会する」
「相撲だけでなく能にも詳しいとは」
「トルクメニスタンに来てから日本の伝統文化に目覚めました。刈りとった葦は葦刈小舟で運びます」
ホテルの入口が騒々しくなった。二人がロビーに行くと時代劇から抜け出したような足軽がひとり、肩で息をしながら足軽具足の汚れを手ではたいている。
「どうしました」主人が訊ねた。
「わたしは足軽大将だが――」
「足軽大将?」
「弓組や鉄砲組、槍組など足軽の部隊を指揮する者だ」
「なんのご用ですか」
「足革を拝借したい」
「アシガワ?」
「刀の足金物につけて帯取を通す革だ」
「見たことも聞いたこともありません」
「安治川に向かう途中で道に迷い、転んだ拍子に足革が切れてしまったのだ」
「安治川は大阪、淀川の分流ですよね。ここはトルクメニスタンですよ」
「だから道に迷ったと申しておるではないか」
「道に迷って日本からトルクメニスタンに来るとはずいぶん粗忽ですね」
「無礼者!」
足軽は激昂した。
「今でこそ足軽に身をやつしてはおるが、もとは密教の僧侶。万物の根源である阿字を観想する阿字観の修行を積んだ。貴様を呪い殺してやるぞ」
「ああ、ごめんなさい。お詫びの印にこのお酒をどうぞ。味利きして下さい」
「酒など要らぬ。お命頂戴つかまつる」
足軽は刀を抜いて構えた。
「無茶を言わないで下さい。――じゃあこうしましょう。ア式蹴球で勝負しませんか」
「ア式蹴球? サッカーか」
「ええ」
「しかし貴様と拙者と二人だけでサッカーとはあじきない。フットサルはどうだ」
「五人制のサッカーですね。あと八人いればできる。ちょうど息子が八人いますが、徴兵にとられて会いたくても会えないのです。今ごろどこでどうしているか……」
主人は子どもたちを想ってあじきながった。足軽は太い糸で織った粗い絁を床に広げ、「悪しき道よ、悪しき鬼よ」と呪文を唱え始めた。
「なんの真似ですか」
「貴様を呪い殺すのだ」
「やめて下さい」
「では手足をちょん切る剕の刑に処す」
「勘弁して下さい。同じアシキリなら足切りで遊びましょう」
「どんな遊びだ」
「二人が足切り役になって竹の棒の端を膝の高さに持って、人々が並んだ列を前から後ろに走るんです。列の人は足を切られないようにジャンプして棒をかわします」
「面白そうだな……しかし貴様と拙者の二人だけでは遊べんではないか」
「そうでした」
足軽は刀を振りかぶった。刀は安物と見えて刃が柄からぽろりと抜け落ちた。
「鰺切はないか」
「え?」
「鰺切庖丁はないかと申すのだ」
「台所にありますけど。何に使うんですか」
「貴様の手足をちょん切るのだ」
足軽が足癖でスキップしながらレセプションの奥へ向かおうとするのを主人は足首をつかまえて阻止した。足軽はカウンターに顔面を打ちつけて倒れ、カウンターの隅に置いてあった茶筒がひっくり返り、駿河名物の足久保茶が足軽の顔にばらまかれた。
「おまえたち、さっきから何してるんだ」
床に腹ばいになった二人を見て呆れ返った筒井が怒鳴った。
「勝負したいなら足競べでもしろ! 足軽なら走るのは得意だろ」
筒井は足軽を足蹴にした。
足軽は仰向けになり足の裏で茶筒をくるくる回した。
「小さな茶筒で足芸とは味気ない。もっと大きい物を回してみろ」
筒井が吐き捨てるように言うと玄関のドアを突き破って黄色と白の混じった葦毛雲雀の馬が乱入しエントランスホールで暴れ出した。
「殺される!」足軽が叫んだ。
「逃げろ」主人が言った。
「どこへ」
「彼処だ」
三人はカウンターの奥から勝手口を出て裏に逃げた。小川が流れ、葦五位すなわちヨシゴイが群をなして泳いでいる。
「助かった。日ごろ足腰を鍛えておいてよかった」
足軽が安堵の溜息をつきながら草鞋の紐をきつく縛り直して足拵えした。ドドドっと地響きがして馬が裏口から顔を出した。
「うわ」
「まるで闘牛だ」
「ここにいたら殺されるぞ」
「象で逃げよう」筒井が言った。
「どこだ」
「彼処許だ」
筒井は二人を引き連れて表口に回り、三人揃って象の背中にまたがった。追いかけてきた馬は巨獣に恐れをなしておとなしくなった。
「命拾いしたよ」
「ありがとう」
主人と足軽が口々に礼を言った。筒井は鼻高々であたりを見下ろした。ホテルの前の広場は紫陽花の花が咲き誇っている。
「お礼に味酒をご馳走しましょう」
「アジザケ?」
「うまい酒のことです。裏の川沿いに居酒屋が」
筒井は象を操って川沿いを歩いた。チドリ目カモメ科アジサシ亜科の鰺刺が空中から急降下して水中に突入し魚をとった。
「見事だ」足軽が感心した。
「俺の象の操りかた、足捌きも見事だと思わないか」筒井が自慢げに訊ねた。
「象なんか子供でも操れる」
足軽が悪し様に言った。
「春鳥のねのみ泣きつつあじさわう夜昼知らずかぎろひの心燃えつつ 歎く別れを」
主人が呟いた。
「和歌ですか。教養があるんですね」筒井が感服した。
「先ほども申しました通り、トルクメニスタンに来てから日本の伝統文化に俄然興味をもちまして」
象の足触りが変化した。川岸の柔らかい土を踏んでいるのに石ころか何かが足障りになって象がときどき立ち止まる。
「居酒屋はどこですか」
「この先です。若いころは足繁く通いました」
葦茂る川の流れはいつ果てるとも知れず地平線まで伸びている。川の両側は見渡す限りの草原で、対岸に火の見櫓のような建物がぽつんとひとつだけあり。上り下りする足代は朽ち果てている。足軽は鞘の帯取の足金物を銀で作った足白の太刀を後生大事に握って象の背中で揺れている。
「居酒屋は」
「この先です」
主人と筒井が何度も同じ言葉を交わしながら進んで行くと、アフリカ北東部エチオピア連邦民主共和国の首都アジスアベバに着いた。
「居酒屋ってこんなに遠いのか」筒井が主人に訊ねた。
「おかしいなあ。目と鼻の先のはずなのに」
「目と鼻の先って、カスピ海の東からアフリカまで来ちゃったんだぞ」
「味耜高彦根神の思し召しです」足軽が答えた。
「なんだって」
「大国主命の子です。その証拠にあれをご覧なさい」
指で示されたほうを筒井が見ると、天皇の大喪に用いる葦簾が風に翻っている。
「ここは古事記や日本書紀の世界なのか」
「間違いない。こう見えてもわたしは日本神話に詳しい。ここから先はわたしが先導する。あなたはアシスタントになってくれ」
足軽が宣告した途端サッカーボールが飛んできて顔に当たり、足軽は象の背中から地面に落ちた。
「おっさん、ちゃんとアシストしろよ。この下手くそ」
褐色の肌をした少年がボールを拾って悪態をついた。
「おい小僧」主人が怒鳴った。
「なんだよ」
「おまえはサッカーみたいな軟弱なスポーツが好きなのか」
「悪いか」
「悪い。男と生まれたからには相撲だ。俺と勝負しろ」
主人は象の背中からひらりと飛び降りて少年と足相撲をとった。相撲をとらせれば右に出る者のない主人はあっさり勝った。少年は足摩りして悔しがった。
「思い知ったか」
「うん。負けを認めるよ」
「じゃあ足摺宇和海国立公園への道順を教えろ」
「え?」
「高知県と愛媛県にまたがり、足摺岬を中心として宇和海、竜串などの海中公園や滑床渓谷を含む国立公園だ」
「どこの国の話?」
「日本だ」
「なんだ、日本ならアデン湾から直行便の船があるよ」
「エチオピアのことなら俺に任せろ」
筒井が話に割って入った。
「信じてもらえないかも知れないが、俺はエチオピアの大使だ」
「筒井さん、寝言はやめて下さい」
「いや、本当だ。連載第七十回で俺はエチオピアに来たのだ。正確に言うとエチオピアの前身のアクスム王国だが」
「じゃあ、前に一度ここに来たことがあるのか」
「その通り」
「畜生! 俺が先導しようと思ったのに」
話を聞いていた足軽が足摩って悔しがった。
「来たことがあるなら最初からそう言えよ」
「言おうと思ったが、ちょっと気になることがあって」
「何が」
「俺の冒険は連載第百十六回を迎えたが、読者の反応がないのが気がかりなのだ」
「読者? なんの話だ」
「君たちは気づいてないが――」
筒井は象の背中にまたがったまま、地面に突っ立っている主人と足軽に語りかけた。
「俺たちは小説の登場人物なのだよ」
「登場人物? 馬鹿々々しい。俺は正真正銘の足軽だ」
「わたしだってホテルの主人だ。妻もあれば子もある」
「そんなことは何の証明にもならない。俺たちは作者が創造した虚構の人物なのだ」
「じゃあ、わたしたちの行動を黙って見つめている人がいるのか」
「そうだ。でも何の反応もない。暖簾に腕押し、糠に釘。このまま冒険を続けていいものかどうか」
「せっかくエチオピアまで来たんだ。続けましょう」
主人が鼓舞した。
「俺も続けたいとは思ってるのだ。古代インドの聖なる山、阿私仙に行ってみたいし、陰暦五月五日の賀茂の競馬の前の朔日に馬を試乗する足揃えもやってみたい。一八五五年にイギリスの病理学者アジソンが発見したアジソン病の患者を見舞いたい」
「そんな難しい話は明日にしましょう」
「いや、いまが潮時だ。俺は読者の反応があるまで冒険を中断しようと思う」
「どういうことです」
「読者が粗忽第二共和制か意味なし掲示板にひとこと感想を書いてくれたら冒険を続ける」
「ひとことでいいのか」
「うん。読んでますよ、とか、つまらないぞ、とか、なんでもいい。誰かひとり、たったひとことでいいから反応があったら続ける」
筒井は高らかに宣言した。
「そんなの甘えですよ」
主人が反論した。
「あなたには信念というものがないんですか」
「え?」
「読者がいようがいまいが冒険を続けたければ続ければいい。読者を頼りにするなんて甘えです」
「そうかな」
「そうですよ。連載百十六回なんていう中途半端な回数でやめるとは情けない」
「じつは俺も心の中では情けないなあと思ってる」
「ほらみなさい。続けましょう。信じる道を突き進むべきです」
主人は十六羅漢の阿氏多のような穏やかな笑みを浮かべて言った。
「あなたの言う通りだ」
見知らぬ男が話に割って入った。
「あなたは……?」
「芦田と申します」
芦田は足駄の鼻緒を締め直して言った。
「突然横から口を挟んで失礼とは存じますが、ご主人は正しい」
「あなたもそう思いますか」
「はい。筒井さんにはぜひとも古代インドの聖なる山阿私陀まで旅を続けてほしい。命ある限り旅を続けてほしい!」
芦田は音楽のアジタートのように激しく、熱情的に訴えた。
「俺も同感なのだ。しかし何事も先立つものがなくては――」
「金ですか? 足代なら任せて下さい」
芦田は大きな蟇口からドル紙幣をつかんで渡した。
「恵んでくれるのか」
「いくらでも用立てますよ」
「ありがとう。ところで君は何者だ」
「芦田恵之助の孫です」
「芦田恵之助?」
「ご存じありませんか。兵庫生まれの国語教育者で、小学校の教諭を長く務めるかたわら国語読本の編集に携わりました。綴り方教育や読み方教育に独自の理論を打ち立てました」
「国語学者の孫とは心強い。『言葉におぼれて』にぴったりだ。それにしても足が長いな」
「ええ」
足高の芦田はこれ見よがしに長い足をブラブラさせて見せた。
「子供のころのあだ名は足高蜘蛛でした」
「いつも足駄を履いているのか」
「どこへ行くのも足駄掛けです」
「健脚だな」
「静岡の愛鷹山に登るくらい朝飯前ですよ」
「標高は?」
「一五〇四メートル」
「大したもんだなあ」
「一緒に登りませんか。インドの聖なる山に登る練習を兼ねて」
「しかしここはエチオピアだ」
「とりあえず日本に行きましょう」
「筒井さん、あなたはエチオピア大使なんでしょう?」
主人が口を挟んだ。
「おお、そうだった。自分でも忘れていた。では港に向かおう」
筒井と主人、足軽、芦田の四人は象にまたがりアデン湾の港に行った。浜辺に鹹草すなわちアシタバが生い茂り、足駄を履いたように床下を高く作った足駄蔵が建ち並んでいる。芦田の足丈は尋常ではなく、象の背中にまたがっても足先が地面につくほどだった。
港には大きな城門があり、見上げると渡櫓の床に設けられた足駄狭間から石礫が次々と落下して筒井たちの頭に当たった。敵兵と思われたらしい。
「やめろ! 俺はエチオピア大使だ」
筒井が叫ぶと石の落下はぴたりと止まった。一行は大きな客船に乗り日本に向かった。
「葦田鶴だ」
芦田が沖を指さした。鶴が一羽ゆうゆうと飛んでいる。
「君に恋ひいたもすべ無み葦田鶴のねのみし泣かゆ朝夕にして」
「どいつもこいつもなぜ和歌に詳しいんだ」
筒井は自分の無知をよそに腹が立った。象を貨物室の足立ちに閉じこめてから四人はデッキに立った。
「筒井さん、明日天気で遊ぼう」
足軽が出し抜けに言った。
「明日天気?」
「子供のころやらなかった? 履物を放り投げて表が出れば晴れ、裏なら雨。占いだよ」
「おお、やったやった。懐かしいな」
筒井は右足を大きく振って靴を放り投げた。靴は手すりを越えて海に落下した。
「あ」
「あひゃひゃ」
足軽は手を叩いてはしゃいだ。
「この野郎。人の不幸を笑いやがって。おまえなんか朝所の会食に俺が招かれても絶対連れて行かないぞ」
「筒井さん、世の中は無常ですよ」
芦田がなだめた。
「諺にも言うではありませんか。朝には紅顔ありて夕べには白骨となる」
「靴を片方なくしただけだ。別に死ぬわけじゃない」
「いいえ、これが人生の摂理です。摂理さえ理解できればこの世に未練はない。朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」
「あーでも靴が片方しかないと不便だなあ。畜生」
「切迫して先のことが考えられないんですね。まさに朝に夕べを謀らず」
「うるさい」
足軽はぴょんぴょん跳ねてはしゃぎ、勢い余って欄干から海に落ちた。
「あ!」
驚いた三人が欄干から下を覗くと足軽はすでに海の藻屑と消えた。
「人生は朝の露。人間の命ははかないものです」
芦田が感に堪えて言った。
「朝の物を召し上がる天皇陛下もいつ何時命を落とさないとも限らない。明日葉を喉に詰まらせて窒息するかもしれない。明日は明日の風邪を引く」
「それを言うなら明日は明日の風が吹くだろ」
船は横浜港に着いた。波止場に男がひとり、船に向かって手を振っている。
「おじさん!」
芦田が叫んだ。
「親戚か」
「ええ。芦田均です」
「知らないなあ」
「政治家ですよ。第二次大戦後民主党の総裁を務めました」
筒井と主人、芦田は象を引き連れて船を降りた。
「わたしはおじさんに用があるのでここで失礼します。では」
芦田はおじと一緒に去った。
「わたしもホテルに戻らないと。女房と子供が心配している」
「どうやって帰る」
「この船で」
「そうか。達者でな」
「筒井さんもお元気で」
主人は再び船に乗った。ひとりぼっちになった筒井は象の背中にまたがり、とぼとぼと山下公園を歩いた。足首の飾りにつけた足玉をきらきら輝かせた少女が筒井を仰ぎ見て何やら言っている。
「なんだい」
「足溜りはあそこだよ」
「アシダマリ?」
「象を休ませるところだよ」
筒井が前方を見ると、なるほど象が五六頭並んで餌を食っている。山下公園に象がいるとは意外だ。少女は空を指さした。
「足垂れ星だよ」
「え?」
「蠍座の尻尾」
空を見上げると水平線ぎりぎりのところに九つの星が煌めいている。
「足序でに寄っていかない?」
「お嬢ちゃんのうちに?」
「うん」
筒井は足溜りに象を休ませて少女の家を訪ねた。少女の母親が琴の糸の端を結ぶ足つ緒を調整している。父親は人情浄瑠璃の足遣いで、人形の足付の稽古にふけっている。庭には小さな池があり、池のまわりの石に数珠藻などの葦付がびっしり苔生している。
「なんのお構いもできませんが」
母親が足継ぎに乗って茶箪笥から羊羹を出し、足付折敷に乗せて振る舞った。足付すなわち足をつけた盆で菓子を振る舞われるのは初めてで、筒井は恐縮した。
「自家製ですが、味付けはいかがでしょうか」
「おいしいです」
「よかったら味付海苔もどうぞ」
羊羹と味付海苔。予想もしない組み合わせだ。
「できればご飯をいただきたいのですが」
「味付飯でよければ」
母親は五目飯を茶碗によそって差し出した。畳の上に薄皮のようなものが落ちている。
「これはなんですか」
「葦筒です」
「アシヅツ?」
「葦の茎の中にある薄い皮です。――難波潟刈り積む葦の葦筒のひとへも君を我や隔つる」
和歌だ。どうして俺のまわりには和歌に詳しい人間ばかりが集まるのか。
「葦角も古来歌に詠まれております」
「アシヅノ?」
「葦の新芽です」
筒井にはなんの話かわからない。だんだん腹が立ち、足手がわなわなと震え始めた。俺は和歌俳諧のたぐいが苦手だ。そもそも字が汚い。大人になっても悪手で何度も恥をかいたものだ。平安時代に生まれていたら、おまえの字はなかなか面白い葦手だ、味わい深い葦手絵だと褒めてくれる人がいるかもしれないが。
「国民の皆さん! 今こそ立ち上がろうではありませんか!」
突然家の外でアジテーションが始まった。
「いまこそ立ち上がりましょう!」
筒井が外に出てみるとアジテーターは乙武洋匡だった。参議院議員選挙に自民党から立候補したらしい。
「立ち上がるって、おまえ、足ないじゃん」筒井が野次を飛ばした。
「誰ですか、心ないことを言うのは? ――あ、筒井康隆さんですね」
「そうだよ」
「悪筆で有名な」
「余計なお世話だ」
「どうせ平安時代に生まれていれば葦手書が評判になるとでも思ってるんでしょ」
図星をさされた筒井は一瞬ひるんだが、反撃に打って出た。
「おまえ、五人の女と不倫したそうだな」
「それがどうした。こう見えても俺はモテモテなんだ。悔しかったら足手限り女をナンパしてみろ」
乙武はふんぞり返った。自信に満ちあふれた足手影――といっても手足はないから単に姿と言うべきかもしれないが――が筒井を見下していた。
「たしかに俺は悪筆だ。もし平安時代に生きていたとしても葦手形がみっともないとからかわれるのが落ちだ。しかし俺は傑作小説をたくさん書いた。作品の質と字の巧拙は無関係だ」
「せいぜい負け惜しみを言ってろ、このうすのろ」
「なんだと、このちんちくりん」
乙武は演説台から飛び降りて筒井に襲いかかった。
「放せ! 足手搦みなんだよ、おまえは」
「手足はないけど無病息災、足手息災だ」
「ちゃんちゃらおかしいわ!」
乙武は鞘に葦手の模様をほどこした葦手の剣を抜き出して筒井に斬りかかった。
「離れろ! 足手まといだって言ってるだろ!」
「おまえの手足をちょん切って葦手文字を書けなくしてやる」
「やめろ、放せ」
乙武が筒井の脇腹を剣で突き刺した。するとどこからか女が現れて筒井の腕を引っ張り走り出した。
「なんだ、あなたは……」
「いいから黙って。アジトに隠れましょう」
女は草深い藪の奥にある小さな小屋に招き入れた。筒井の脇腹から流れる血を見て女は言った。
「アシドーシスだわ」
「え?」
「酸血症よ。血液中の酸とアルカリの平衡が破れて血漿が酸性に傾いている。糖尿病の末期症状」
「そんなことが一目見ただけでわかるのか」
「当たり前よ。医者だもの。悪い血をぜんぶ抜かないと助からないわ。でも道具がない。象に踏んづけてもらえば助かるけど」
「象ならいるよ」
「どこ?」
「山下公園の足止り」
「急いで行きましょう。早く」
筒井は女に支えてもらって山下公園に向かった。途中で道路工事にぶつかり足留めを食らった。
「すみません。急病人です、通して下さい」
女は懇願したが作業員たちは足留め金をもらったと見えて意に介さず作業の手を緩めない。
「お願いです、この足留め薬を差し上げますから」
「何それ」
「染色の速度を遅らせて染色のむらを防ぐ薬です」
「なんの話だ? 俺たちは道路工事してるんだ、染め物の薬なんか要らねえよ」
「一刻を争うんです。お願い」
「じゃあそこの斜面を通れ」
女は筒井を支えながら足留め丸太を渡った。筒井が丸太を渡りきろうとしたとき女が足を滑らせて転び、その拍子に女の手が筒井の両足をつかみ、筒井は足取を食らった力士のようにバタンと倒れた。
「ちょっとあんたたち! 歩行者にこんな丸太を歩かせるなんて危ないでしょ!」
女は危うい足取りで作業員に詰め寄った。作業員は平気の平左で、株の売買に夢中らしくタブレットで株式相場の足取表をチェックしている。
「裁判に訴えるわよ!」
「裁判ならお任せ下さい」
見知らぬ男が声をかけた。
「あなたは誰?」
「弁護士です。蘆名と申します」
蘆名は手のひらの指を揃えてひと振りすると手品のトランプのように名刺が現れた。
「味な真似をするわね」
「蹇でびっこを引いてますが手先は器用なんです」
弁護士はしゃがんで、踵の部分がなく足の前半分だけを覆った草履足半の鼻緒をきつく締め直した。不自由だという足が妙に長い。
「ずいぶん足長なのね」
「独活の大木ですよ」
「早く病院に連れて行ってくれ」
筒井がしびれを切らして言った。
「あらごめんなさい。すっかり忘れてた。この辺に病院はないかしら」
「足長おじさん募金に協力をお願いしまーす」
中学生の男女が五六人並んであしなが育英会の寄付金を募っている。女は百円寄付して質問した。
「この近くに病院ある?」
「ありますよ。あそこです」
女の子が指をさした。白い建物が見える。筒井が女の肩に腕を回して歩き出すと首筋に何やらもぞもぞと動くものがある。
「ぎゃー!」
足長蜘蛛だった。両手でばたばたと首をはたくと足長蜂の大群が襲いかかってきた。脇腹から血を流しながら脱兎の勢いで走り出し、石につまづいて転んだ。巨大なミミズが鼻の穴に入ってきた。
「うぎゃー!」
よく見ると足無し井守だった。手ではたき落とすと足無し蜥蜴が背中を這い上ってきた。
「ひぇ~!」
筒井はひとりでのたうち回り恐慌を来した。なんで俺だけが襲われるのか。記紀神話に登場する出雲の国つ神大山祇神の子足名椎の祟りだろうか。
大暴れしてイモリとトカゲを退散させひと息ついて歩き出した途端、三つ足のついた足鍋にけつまずいてまた転んだ。筒井はべそをかいた。
「何をひとりで大騒ぎしてるの」
後を追ってきた女が呆れて言った。
「ちゃんと足並を揃えて歩かなくちゃダメじゃない。ほら、足並に血が噴き出てる」
「わたしの先祖は蘆名盛氏。戦国時代の武将で会津黒川城主です」
弁護士が問わず語りに言った。
「先祖の話なんかどうでもいいから肩を貸して」
筒井は女と蘆名に挟まれて両腕を二人の肩に回し病院に行った。応対した医師は筒井をひと目見て言った。
「傷は大したことない。それより足馴らしをしたほうがいい」
「足は何ともないんですけど」
「いやいや、足腰を鍛えて損はない。裏の小川に小さな舟があるでしょう」
「ええ」
「脚荷を積みなさい」
「アシニ?」
「舟の喫水を深くして重心を下げて復原力を増すために舟底に積む重荷です。専門用語ではバラストと呼ぶ」
「重労働じゃないですか」
「つべこべ言わずに葦荷を運びなさい」
筒井はしかたなく言われるがまま足に任せて荷物をせっせと小舟に積んだ。
「うるさいぞ! ここは病院だ!」
患者の男が叫んだ。筒井は音を立てないよう足抜きして作業を続けた。荷物を積み終えて足拭いし、川の水で冷えた足を足焙りで温めた。
「ここもかしこも葦根延ふ下にのみこそ沈みけれ」
様子を見に来た医師が呟いた。
「先生も和歌をたしなむんですか」
「ちょっとね」
「なぜかわたしのまわりには和歌に詳しい人ばかり集まるんです」
「君は和歌に興味がないのか」
「興味はありますけど才能が」
「才能は無関係だ。煩悩を捨てなさい。阿字の一刀だ」
「え?」
「一切万有の真理を含む阿字の意を悟って、仏の智慧によって煩悩を断ちきるのだ」
「真理を悟るなんて無理です。わたしはしがない三文文士でして」
「最初から諦めてはダメだ。――我が聞きし耳によく似る葦の末の足痛吾が背勤めたぶべし。どうだ、煩悩から解放されればこんなふうにスラスラと歌が詠める」
「あ、いてて」
筒井は急に足に痛みを覚えてしゃがみこんだ。
「どれどれ、見せなさい。――ああ、脚の気だ」
「アシノケ?」
「脚気だよ。しかも重症だ。さては重労働したな」
「先生がやれって言ったでしょ」
「うるさい。脚気なら芦ノ湖に名医がいる。紹介してあげるからいますぐ救急車で行きなさい」
医師は筒井の足の甲に葦の角を絞って作った墨で「深くのみ思ふ心は葦の根のわけても人にあはんとぞ思ふ」と書いた。
「なんですか」
「カルテだ」
「カルテって、ふつう英語とかドイツ語では」
「素人に何がわかる。これでいいのだ」
筒井は救急車に乗せられて芦ノ湖に向かった。「お腹が空いてるでしょう。これを食べなさい」救急隊員が葦の葉鰈すなわちメイタガレイの煮つけを差し出した。筒井が箸をつけると隊員はもう片方の足の甲に「難波人御祓すらしも夏かりの葦の一夜に秋をへだてて」とマジックペンで書いた。
「何をするんです」
「カルテだよ」
「本当ですか。たしか救急隊員は医療行為が認められないはず」
「文句があるなら窓から放り出すぞ」
「あーごめんなさい」
救急車が芦ノ湖の病院に着くと何か災害でもあった直後なのか、正面玄関の前には救急車両が次々にやって来て医師や看護師が走り回り、通路には患者を乗せたストレッチャーや医療機器が所狭しと並んで足の踏み場もない。周囲は野原で、葦の穂が毛羽立って綿のようになった葦の穂綿がそよ風に揺れている。
ストレッチャーに乗せられた筒井は病院本館の隣の葦で葺いた粗末な葦の丸屋に担ぎこまれた。当直の医師が筒井の足を見るなり血相を変えた。
「重病だ。すぐこれを飲みなさい」
医師は皿に味の素を山盛りにしてコップ一杯の水と一緒に差し出した。
「味の素で脚気が治るんですか」
「素人は専門家の言う通りにすればいいんだ。生半可な知識をもった患者くらい傍迷惑な存在はない」
筒井は味の素を口に放り入れて水でごくんと呑みこんだ。開けっ放しの窓から突然葦の茎で作った葦の矢がビュッと飛んできて医師の首に刺さった。
「ぎゃあ!」
医師は断末魔の叫びをあげたかと思うとばたりと倒れて息絶えた。
「なんで吹き矢が飛んでくるんだ」筒井が驚いて言った。
「きっと葦屋菟原処女の呪いだわ」看護婦が唇を震わせて答えた。
「ウナイオトメ?」
「むかし兵庫県芦屋市のあたりに住んでいた乙女よ。妻争い伝説の人物で万葉集にも歌われたの」
「なんでそんなむかしの女に呪われるんだ」
「わかりません。でもここにいればあなたも命を狙われる。芦ノ湯に行って下さい」
「芦ノ湯って、箱根の?」
「ええ。足の病気には温泉が一番です。温泉に入れる病院がありますから」
筒井は再び救急車に乗せられて神奈川県箱根町に運ばれた。現地に着くと病院は改装かはたまた耐震補強工事か外壁に足場が組まれ、作業員が鉄材を扱う音が騒々しい。正面玄関の前に黄色を帯びた葦花毛の馬が一頭、背中に見覚えのある男がまたがっている。筒井はストレッチャーから降りて声をかけた。
「あなたは……ホテルのご主人」
「筒井さん! ご無事でしたか」
「ああ、見ての通りだが。トルクメニスタンに帰ったんじゃないのか」
「ええ。首都のアシハバードに戻ったんですが、家の戸口で転んで大腿骨を折ってしまって」
「それは災難だなあ」
「こちらに名医がいると聞いてやって来たんです」
「骨折の治療にはるばるトルクメニスタンから箱根に」
突然六階の足場丸太が落下して主人の頭を直撃した。
「う、うぐぐ」
主人はあっけなくあの世の人となった。筒井は身の危険を感じて足早にその場を去り、葦原に逃げこんだ。周囲には高い建物がない。
「ここなら安心だ」
原っぱの真ん中に突っ立っていると、いきなり柔道の足払いを食らってすってんころりんと地面に倒された。大きな男が仁王立ちして言った。
「悪祓だ」
「はあ?」
「罪深い者に罪を払わせる祓えだ」
「俺は罪人ではない」
「嘘をつけ。わたしを誰と心得る」
「どなたですか」
「葦原醜男である」
「ぜんぜん心当たりがないんですけど」
「おまえは古事記も知らないのか。大国主命だ」
「え!」
「葦原の国を完成させた神だ」
「信じられない」
「疑うのか。葦原の国は葦原の千五百秋の瑞穂の国とも言う」
「そうなんですか」
「または葦原の中つ国とも呼ぶ」
「へえ」
「葦原の瑞穂の国とも言うぞ」
「知りませんでした」
「どうだ、恐れ入ったか」
神様はふんぞり返って威張った。原っぱには牛馬が食うと麻痺するというツツジ科の常緑低木馬酔木が生い茂っている。
「罪深い男よ。おまえの職業はなんだ」
「作家です。小説家です」
「ならば『馬酔木』を読んだことがあるな」
「アシビ? 本のタイトルですか」
「伊藤左千夫が明治三十六年に発刊した短歌雑誌だ。知らぬと申すか。さては作家というのも嘘だな」
「本当です」
「いや、嘘に違いない。神をたぶらかすとは言語道断。炎に焼かれろ」
神様は蘆刈りの人が暖をとるために刈った葦を燃やす葦火に筒井の体を放りこんだ。
「ぎゃあ」
炎に包まれた筒井を眺めて神様は「足引の山田を作り山高み下樋を走せ」と古事記の一節を唱えた。
「足が、足が燃える!」
「足の病には火がいちばんの薬だ。――わが聞きし耳に好く似る葦のうれの足痛わが背勤めたぶべし」
めらめらと燃え上がる炎のまわりを神様が足拍子をとって踊った。空から紙切れが何枚もはらはらと落ちてきた。神様が手にとって見るとアジビラで、「偽物の神に鉄槌を」と書いてある。
「根も葉もない中傷をするのはどこのどいつだ。アジピン酸を喉に突っこんでやるぞ」
神様は足韛を踏んで葦火に風を送り、炎が天を焦がさんばかりに燃えさかった。ピーヒョロロと葦笛が鳴り、もうひとり神様が現れた。
「おまえは……」
「さよう、少彦名神だ。貴様が偽りの神であることはお見通しである」
「なんだと」
「日本の国土は大国主命とわたしが協力して完成させた。そして医療の法を定めたのはわたしだ」
「しまった」
「悪魔よ、目障りだ。うせろ」
神を騙った悪魔はすごすごと退散した。少彦名神が大きく息を吐き出すと炎はたちまち消えた。筒井は体のあちこちを触った。どこにも火傷がなく、脇腹の傷も癒えた。
「筒井康隆よ、無事でなによりだ」
「ありがとうございます。おかげさまで助かりました。でもなぜ火傷をしなかったのでしょうか」
「わたしは医薬の神だ。どんな怪我や病もたちどころに治せる」
「命の恩人です」
「どうだ、わたしの家来にならないか。きびだんごをやるぞ」
「なります、なります」
筒井は桃太郎に従う猿のように喜んできびだんごをもらった。
「足が灰まみれだぞ。この布で拭き取りなさい」
筒井は足拭きして灰を落とした。少彦名神は葦葺きの小屋に招き入れた。
「ものは相談だが、わたしは膝から下の毛が白い足駁の馬を一頭所有している。これを金銭に換えたいのだ。すまないが都へ行って売ってくれないか」
「いいですよ。でも都へはどうやって」
「あそこに葦舟がある。あれに乗りなさい。褒美はたんと弾んでやるぞ」
「わーい」
筒井は大喜びで表に出たが、神様が金を欲しがるとは妙な話だと思い至って足踏みした。
「どうした? 何か不満でもあるのか」
空から再び紙片がはらはらと舞い落ちてきた。手にとって見るとアジテーションとプロパガンダを兼ねたアジプロで、「少彦名神を名乗る詐欺師にご用心! 詳しくはWEBで」と書かれてある。筒井は忍び足で葦辺に行った。舟が一艘もやってあり、岸辺で地元の娘たちが不思議な踊りを踊っている。
「お祭りか何かですか」
「蘆辺踊だ」
「アシベオドリ?」
「大長か道頓堀の大阪演舞場で毎年春に南花街組合が催す芸妓の舞踊公演だ」
「つかぬことを伺いますが、この舟は都に行きますか」
「いいや、芦別だ」
「アシベツ?」
「北海道の中央部、空知川中流の市だ」
思った通りだ。少彦名神とやらいうのはやっぱり偽物の神だ。俺の眼は騙されないぞ。こんな所にいたら命がいくつあっても足りない。よし、北海道に行こう。北海道には稲垣がいる。読者はすっかり忘れているだろうが、あいつは連載第五十二回でメキシコから阿寒に行ったのだ。筒井はズボンのポケットから稲垣のスマートフォンを取りだして電話をかけた。
「もしもし、稲垣です」
「稲垣、俺だ、筒井だ」
「筒井さん! いまどこですか」
「よくわからないが、これから北海道に行く」
「待ちくたびれましたよ。あ、いただいた電話で恐縮ですが、漢字を教えて下さい」
「漢字?」
「足跡の『跡』とか道路の『路』とかって、何偏って言いましたっけ」
「偏とつくりの偏か。足偏だろ」
「そうでした。ありがとう」
「ではこれから北海道に向かう」
「お待ちしています」
筒井は芦別行きの小舟に乗った。足骨が少し痛むが気にしてはいられない。年老いた小柄な船頭が櫓を川底にぐいと突き立てて舟を漕ぎ出し、「アジホンプショー、アジホンプショー」と呟いた。
「何かのおまじないかい」
「へえ。阿字本不生です」
「何それ」
「梵語、つまりサンスクリット語ですが、最初の文字の『阿』は万物の根源を意味して、万物は一切が空であるという真理をさす言葉です」
「哲学者だね」
「滅相もない」
船頭は「ちょいとごめんなさい」と断って、すわっている筒井の足間に片足をさしこみ、踏んばって櫓に力を入れた。舟は葦間を滑るように進んだ。
「船頭さん、名前は」
「へえ、安島と申します」
「珍しい苗字だね。船頭一筋かい」
「若いころは足参りをしてました」
「アシマイリ?」
「お公家様の足を揉みさする仕事です」
「じゃあ朝廷に出入りしてたのか」
「へえ。むかしの話です。その後はあちこちを足任せに歩いて旅から旅へ。葦枕、つまり葦の生えているほとりに野宿したりしました」
川岸に高さ十メートルはあろうかと思える棕櫚のような大きな並木が見えてきた。
「ヤシの木かな」
「檳榔です」
「アジマサ?」
「いまは蒲葵と呼ぶのが普通ですが。アジアの熱帯地方、ニューギニア、オーストラリア、九州、沖縄、小笠原に生える木です」
「九州沖縄? 俺は北海道に行きたいんだが」
「安心しなされ。この舟は芦別行きだ。余計な口を挟むもんでねえ。足纏いだ」
「これは失礼。しかし船頭さん、ずいぶん博識だね」
「大したことはねえだよ。先祖が安島直円だ」
「恥ずかしながら誰だかさっぱり」
「江戸時代の和算家だ。いまで言う数学者だな。円の面積や球の体積の計算法を編み出した」
「学者の血筋か」
「ところで腹減ってねえか」
「じつはペコペコで」
「煎餅食え」
筒井は煎餅をばりばり嗜んだ。
「ちゃんと食べ物を用意してるんだね」
「毎朝足まめに市場に買い出しに行くからな。藊豆もあるぞ。食え」
筒井はフジマメを食べた。ふと足回りを見ると馬酔木すなわちアセビの葉が舟底にちらばっている。船頭が艉から舳先のほうへ足みすると舟は狭苦しい悪しみにさしかかり速度が落ちてきた。筒井はアセビの葉を口に運んだ。
「こら、やめろ」
「え?」
「その葉っぱは食い物じゃねえ」
「ちょっと味見しようと思って」
「アセビの葉は毒薬だ。防虫剤の原料だぞ」
「知らなかった」
川幅がどんどん狭くなり船路は悪しみすばかりである。畔には䳑群すなわちアジガモの群が水草をあさっている。
「人多に国には満ちて䳑群の去来は行けど」
船頭が和歌を呟いた。
「葉っぱが食いたいならこれを食え」
船頭は味藻すなわちアマモの束を筒井に渡した。食べてみると味も素っ気も無い。足下にはうまそうなアセビの葉がたくさんある。思わず一枚拾って食べようとした途端、足下が軽い船頭が駆け寄って取り上げた。
「毒草だって言ってるだろ! 何を考えてるんだ」
「そんなにやいのやいの、足下から鳥が立つように怒らなくてもいいでしょ」
突然空から足下瓦が落ちてきて筒井の頭にごつんと当たった。
「いてぇ!」
頭から血を流しながら筒井が呻いた。
「わしの忠告を聞かないから罰が当たったんだ。ざまあみろ。おまえさんはどうも足下種姓が悪い御仁だな」
「なんだと! 下手に出てりゃ足下に付け込みやがって」
筒井は船頭に躍りかかった。老人は小柄なわりに屈強で、筒井はたちまち羽交い締めにされた。瓦がもう一枚頭に落下した。泣きっ面に蜂で足下に火がついた筒井は懸命にもがいたが腕力は老人の足下にも及ばず、あっけなく背負い投げを食らった。その拍子に艉の短い柱の足下貫がぽっきり折れて櫓と棹が流された。船頭の顔が真っ青になった。
「どうしてくれる! おまえのせいだぞ。足下の明るいうちに北海道に行くつもりだったのに」
「こっちの台詞だ! 旅の客だと思って足下を見やがって」
「こらこら、そこのおふたり。喧嘩はおやめなさい。味物でも食べて仲直りしなさい」
黒い眼鏡をかけた白人の男が岸辺から声をかけた。
「誰だ、おまえは」筒井が怒鳴った。
「アイザック・アシモフだ」
「え? ――アシモフ先生!」
筒井は興奮した。
「こんなところでお目にかかれるなんて夢のようです」
「君は何者かね」
「筒井康隆と申します。小説家です」
「同業者か」
「はい。SF小説もたくさん書きました。先生の『銀河帝国の興亡』はSFの教科書です」
「二週間前に日本に来たのだが作家に会うのは初めてだよ。ちょうどよかった、教えてくれないか。阿遮とは何だね」
「アシャ?」
「阿遮羅嚢多の略ですよ」
船頭が答えた。
「阿遮羅とも言います。不動明王のことです」
「不動明王か。なるほど、これで謎が解けた」
なんの話だかわからない筒井は会話に参加できず唖者のように黙りこくった。川原に葦で屋根を葺いた粗末な葦屋がある。
「先生はこちらにお住まいですか」船頭が訊ねた。
「いやはや、お恥ずかしい。小説が売れなくて鳴かず飛ばず、すっかり零落してしまった」
「先生ほどの大作家は豪邸に住むべきです。芦屋の高級住宅街がふさわしい」筒井が熱弁をふるった。
「芦屋には船頭仲間がいる」船頭が耳寄りの話を持ち出した。
「本当か」
「へえ。苗字は蘆屋。代々網代家を営んでいる船元です」
「口から出任せではあるまいな」
筒井は不動明王が左眼を閉じ右眼を見開いて睨む阿遮一睨のような目つきで船頭を睨みつけた。
「とんでもない。天の神様に誓って嘘は申しません」
「じゃあ芦屋にお連れしよう。芦別に行く前に芦屋に寄ってくれ」
「わしは構わねえが旦那さんはいいのか。北海道に行くのが遅くなるが」
「俺のことなら心配するな。よし、話は決まった。――さあ先生、乗って下さい」
筒井はアシモフに手を差しのべて舟に乗せた。
「すまないが、この荷物も頼む」
「これは……」
「近所の農夫がプレゼントしてくれた。芦屋釜とかいうらしいが、これも芦屋にまつわる品なのかな」
「同じ芦屋でも福岡県芦屋町の名産ですよ」
船頭が教えた。
「君は博識だね。ついでに教えてくれ。阿闍世とかいう人はいつの時代の人だい」
「古代インドです。マガダ国王頻婆娑羅の息子です」
舟はあっという間に芦屋に到着し、看板に「蘆屋」と書かれた船元の桟橋に止まった。三人は桟橋に上がった。
「このお宅はご先祖様が蘆屋道満です」船頭がアシモフに説明した。
「有名人なのか」
「平安時代の陰陽師です。安倍晴明と力比べをしたほどの腕前だったとか」
「そういえば竹田出雲の浄瑠璃に蘆屋道満大内鑑という作品があったね」
「さすが先生、よくご存じですね。この界隈はいろんな伝説がありまして、蘆屋菟原処女が住んでいたという言い伝えもあります」
ふたりの会話に加われない筒井は悔しまぎれにパンツ一丁になり、「安心して下さい、穿いてますよ」と、とにかく明るい安村の真似をしてみたが、あじゃらは空振りに終わって何の反応もなかった。
「今日は戯講だよ! ほら、ふたりとも脱いで!」
筒井がひとりではしゃいでみせたが、いかにもあじゃらしいので船頭もアシモフも見て見ぬふりをした。そこへいかにも徳の高そうな阿闍梨が通りかかって半裸の筒井をいぶかしげに見つめた。
「あなたは何をしているのか」
「え? あ、いえ、別に何も」
「昼日中から素っ裸で騒ぐとは気狂い沙汰だ」
「正気です」
「正気で素っ裸になるとはなおさらたちが悪い。アジャンターで修行しなさい」
「スジャータ?」
「違う。アジャンターだ。インド西部、マハーラシュトラ州北部にある仏教石窟群だ」
修行なんて真っ平だ。筒井が無視して立ち去ろうとすると阿闍梨は首根っこをつかまえて引きずり、川原に無理やりすわらせ、二人並んで足湯に浸かった。
「悪いことは言わない。密教の修行を積みなさい」
「嫌だ。密教も仏教も興味はない」
「ならばアシュアリーを紹介しよう」
「誰だ」
「イスラム神学者。スンニー派の正当神学アシュアリー学派の祖だ。ギリシア哲学の影響を受け、思弁的な理論と啓典を調和させてイスラム神学を確立した」
「哲学か。面白そうだな」
「話は決まった」
阿闍梨は筒井の両足を太い紐で縛った。足結でがんじがらめになった筒井はまるでテーブルクロスが落ちないように脚に結びつける足結の組のように身動きがとれない。阿闍梨は筒井の体を抱きかかえて舟に投げ入れ、船頭に「阿州までやってくれ」と言った。
「阿州? どこだ」筒井が歯ぎしりして訊ねた。
「阿波国に決まっている」
「徳島か。なんで徳島なんかに」
「アシュヴァゴーシャが待っている」
「誰?」
「馬鳴だ」
「メミョウ?」
「インドの仏教詩人だ。バラモン教から仏教に帰依し、カニシカ王の保護を受けて仏教の興隆に尽力した人だ」
「ちょっと待て。イスラム神学の話はどうなったんだ」
「話を最後まで聞きなさい。アシュヴァゴーシャはアシュアリーの友人だ。先方に行けばちゃんと紹介してくれる。ただし阿輸迦王を名乗る男には用心しろ」
「なんで」
「ペテン師だ。阿輸迦王、つまりアショーカ王は紀元前三世紀インドのマガダ国に君臨したマウリヤ王朝第三代の王だが、そんな男がいまも生きているはずがなかろう」
「そりゃそうだ」
「さあ、行きなさい。アシュヴァゴーシャに阿閦の奥義を学ぶのだ」
「アシュク?」
「密教の金剛界五仏の一つ、東方に住む仏だ」
「でもイスラム神学は――」
「つべこべ言わずにさっさと行け」
阿闍梨が怒鳴りと船頭は舟を漕ぎ出した。舟は瀬戸内海を進み四国の港に到達した。港はイディッシュ語を話す白人たちでごった返している。
「この人たちは……?」筒井は船頭に訊ねた。
「アシュケナジムですよ」
「アシュケナジム……」
「離散したユダヤ人です。中世以降ドイツや東欧に移住して、一部はナチスのホロコーストの犠牲になりました。一命をとりとめた人たちは東の果て日本の徳島に逃れたんです」
筒井は舟を下りた。桟橋に巨大な阿修羅が聳えている。阿修羅といえば古代インドの悪神だ。嫌な予感がする。
「貴様は何者だ」
般若のような強面の大男が頭ごなしに怒鳴りつけた。
「あ、あの、筒井と申します。小説家です。あなたは……?」
「わしは阿修羅王だ。阿修羅道、つまり阿修羅の住む争いの絶えない世界を統率する王だ」
悪い予感は的中した。
「むかしプロレスラーに阿修羅原っていう選手がいたんですけど、ご存じですか」
「知らぬ」
筒井は雰囲気を少しでも和らげようと軽口を叩いたが失敗に終わった。
「何をしに来た」
「アシュヴァゴーシャに面会に来ました。哲学の修行をするためです」
「殊勝な奴だな。アシュヴァゴーシャの弟子はみんな亜相の地位を得るぞ」
「アショウってなんですか」
「大納言だ」
「てことは、つまり大臣ですね」
「そうだ。中には亜将になる者もいる」
「アショウ?」
「大将に次ぐ近衛中将、近衛少将だ」
ユダヤ人が通りかかり、石につまずいて転んだ拍子に手に持っていた数本の瓶が割れて、中身の亜硝酸が空気と反応して硝酸になり飛び散った。
「うわあ」
硝酸を全身に浴びた阿修羅王が見る見るうちに溶けた。すんでのところで液体をかぶりそうになった筒井は咄嗟に身をかわして難を逃れた。
「危ないじゃないか! なんだ、その液体は」
「亜硝酸アンモニウムと亜硝酸塩、亜硝酸カリウム、亜硝酸菌、亜硝酸ナトリウムです」
「化学薬品か。割れやすい瓶に入れて持ち運ぶ奴があるか。気をつけろ」
「すいません」
「うるさいぞ! 何の騒ぎだ」
いかめしい顔をした男が大声を発した。
「あなたは……?」筒井が訊ねた。
「見てわからんのか。アショーカ王、阿輸迦王だ」
阿輸迦王! こいつにだけは用心しろと阿闍梨が言ったペテン師だ。
「何か揉め事か」
アショーカ王がにじり寄った。まずい。関わり合いになったらどんなひどい目に遭うか知れたものではない。筒井は咄嗟の判断でびっこを引いた。
「哀れな足弱でございます。薬品を運んでいたユダヤ人にぶつかってしまったのです」
「ほう、それは気の毒だ。わしの車に乗りなさい。足弱車だが」
思いも寄らぬあしらいを受けた筒井は面食らった。このペテン師、人をあしらう術を心得ているな。言葉に甘えておんぼろのな馬車に乗った。たしかに車輪の軸が緩んでがたぴしと上下左右に激しく揺れる粗末な車だ。小さな橋にさしかかった。欄干は「亞」の字を刻んだ亜字欄で、川原を見下ろすと子供が四五人、片足をあげて片手でその足首を握り、もう片方の足でぴょんぴょん飛び跳ねて競う足漕をして遊んでいる。小柄な子供が二歩跳んだだけですってんころりんと転んだ。
「やーい、下手くそ。たった二歩しか跳べないのか。悔しかったらここまでおいで」
大柄のガキ大将がアジると少年は顔を真っ赤にして反論した。
「ふん、アシル基の化学式も知らないくせに」
「アシルキ?」
「化学式はRCO-だ」
「おまえは理系オタクだから女の子にモテないんだよ」
少年は悔し涙を袖でごしごし拭きながら橋の上に駆け上がり、筒井の車の真横に立ちすくんだ。
「君、名前は?」
「足代です」
「足代君か」
子供たちが遊んでいるすぐそばの瀬に竹の杭が何十本も一列に並び、魚を獲るための網代が設けられている。岸辺には網代編みの漁師が穴の空いた網を修繕して網代打ちする作業に余念がなく、重労働で汗のしたたる顔を網代団扇で扇いでいる。漁師は汗にまみれた網代織の着物を脱いで網代垣にかけて天日にさらした。堤の上を網代駕籠がエッサエッサと走ってきた。網代笠をかぶった先棒の駕籠かきが「あっ」と叫んでつまずいた。駕籠が土手を転がり落ちて網代木にぶち当たって粉々に砕け、破片が網代組みにからまった。堤の上をもう一台、今度は網代車すなわち牛車が通りかかった。網代輿にすわっているのはおじゃる丸のような平安貴族だ。牛が道を踏み誤って土手から真っ逆さまに川に落ち、おじゃる丸はもんどりうって網代簀にからめとられた。輿の網代天井と網代戸は崩れ、網代乗物は木っ端微塵になった。
「摂政になって初めて網代車に乗る網代始だったのに」
網にからめとられたおじゃる丸が悔しそうに言った。
「これだから網代張りの車は嫌じゃ。網代庇の車はこりごりだ」
夜に篝火をたいて網代の番をする網代人が呆気にとられておじゃる丸を見つめた。輿の中に積んであったらしい網代屏風がぶくぶくと川底に沈んだ。
筒井と足代少年は橋の上から一部始終を見ていたが、橋の向こうから老人がやって来るのを見た少年が「あ、おじいちゃん」と声をかけた。
「君のおじいちゃん?」
「うん」
「この子が何か粗相をしましたか」
老人が筒井に訊ねた。
「いいえ、あそこの川原でいじめられていただけです」
「そうですか」
老人は眼光が鋭く常人にはないオーラに包まれている。
「失礼ですが、あなたは名のあるおかたとお見受けしますが」
「いやいや、つまらん者です。足代弘訓と申します」
「どこかで聞いたことがあるような、ないような……」
「国学者で歌人です。伊勢神宮外宮の神官をつとめました」
「思った通りだ」
「おじいちゃんはね――」
少年が口を挟んだ。
「天保の飢饉のときに財産をなげうって被災者を救ったんだよ」
「こらこら、身内の自慢をする奴があるか」
「だって本当だもん」
川上から竹を編んで作った網代帆に風をはらませた舟が下ってきた。篝火の準備をしていた網代守が急にそそくさと道具を片づけて土手を駆け上がり姿を消した。
「どうしたんでしょう」
「あの舟にいる男は役人でな、魚を獲る網代に対する網代役、つまり税金の取り立て人じゃ。夜と徴税役人は必ず戻ってくる」
老人の言葉は味わい深かった。筒井は含蓄を味わった。
「では失礼」
足代弘訓は別れを告げて孫と一緒に去った。筒井を乗せたおんぼろ馬車はがたごとと橋を渡った。川の対岸は葦若が青々と茂った草原で、馬車は葦分しながら進んだ。川には葦別小舟が一艘、生い茂った葦の中を漕ぎわけている。
「おじさん、見て」
道端で少女が手を使わず足で鞠をついている。まるでサッカー選手のような足業だ。草原は葦綿がそよ風になびき、葦原全体が海原のように揺れている。
ところで俺は何をしに来たんだっけ。そうだ、アシュヴァゴーシャに会うのだ。ここに来ればアシュヴァゴーシャが俺をアシュアリーに紹介してくれるはずなのだ。そしてイスラム神学の修行を積むのだ。阿闍梨はたしかにそう言った。でも、どこにもいないじゃないか。このまま足を蹻げて待つべきか。せっかく修行しようと思ったのに。しがない小説家稼業から足を洗って、深遠なイスラム神学の世界に足を入れたい。
少女が鞠を思いきり強く蹴り上げると馬車の馬の脳天にぶつかり、当たり所が悪かったのか、馬は気を失ってばたりと横倒れになった。なんてこった、足を奪われてしまった。しかたがない、足を限りにに歩こう。
筒井が歩き始めると、葦の陰でこそこそと足を重ねて立ち目を仄てて視る男がいる。わらじの鼻緒に足を食われたのか、しきりに足下を気にしているが、ニヤニヤ笑っている顔が無気味だ。
「誰だ、そこにいるのは」
筒井が呼びかけた。男は不審がられるのが面白くてたまらないらしく、味を占めて葦の茂みから顔を覗かせては引っこめる。
「用があるなら出てこい」
筒井は苛立って茂みの奥へずんずん分け入った。すると背後に別の男が近づいてきたかと思うと筒井のズボンのポケットにさっと手を入れてスマートフォンを奪い取った。
「あ!」
油断した筒井は足をすくわれた。男は脱兎の勢いで逃げた。筒井は足を擂粉木にして追いかけた。スマートフォンがないと稲垣に連絡がとれない。足を空に慌てふためいて駆け回ると、葦の茂みがごそごそ動いている。そこにいたか。足を出したな。隠れても無駄だぞ。男は茂みから顔を出した。
「すみません、ほんの出来心です。お返しします」
男は神妙な顔をしてスマートフォンを持った手を高く上げ、「お詫びのしるしに一杯どうですか」と、腰に提げた瓢箪の酒を勧めた。こいつ、酒で俺と足を付ける気だな。その手は桑名の焼き蛤だ。筒井は男に忍び寄った。すると泥沼に足を取られて身動きがとれなくなった。男はこれ幸いと足を抜いて駈け出した。筒井はぬかるみから這い出て足を伸ばし、再び足をはかりに追跡した。足を運んだ先は遊郭で、「ちょいとお兄さん、遊んでかない」と女郎が筒井の腕をとって店に引きずりこもうとする。
遊女屋は玄関の左が広く右が狭いアシンメトリーな造りで、二階からどんちゃん騒ぎの音がひっきりなしに聞こえてくる。女将が来て筒井に声をかけた。
「お客さん、いい娘が揃ってますよ。どの娘がいいですか」
「遊びに来たわけじゃないんだ。すまないがちょっとここで休ませてくれ」
「あらそう。別にいいけど、明日まで居続けたりしちゃダメよ」
「うん。人捜しをしてるだけだ」
「どなた」
「言ってもわからないと思うけど。アシュヴァゴーシャっていう人」
「あら、二階にいるわよ」
「え!」
「ちょっと待ってね。――アシュヴァゴーシャさーん、お友だちですよー」
女将が手をポンポンと打って二階に声をかけた。
「なんだよ、せっかく盛り上がってきたところなのに」
白髪の老人が広い階段を下りてきた。筒井は腰を抜かした。まさかインドの仏教詩人が遊郭で遊んでいるとは。川の水が涸れて浅すように、筒井は詩人への尊敬の念が消えた。しかし一流の人間は何事にせよ奥義を究めるものである。俗欲をとことん追求して突き抜けた先に聖なるものが現れるのではないか。そうに違いない。筒井はアシュヴァゴーシャを敬う気持ちで心を填した。
「君は筒井康隆だね」
「はい」
「阿闍梨から話は聞いてるよ。来るのを待ってた」
「女郎屋でですか」
アシュヴァゴーシャは酒を飲み過ぎて気分が悪くなったのか、顔色が褪せて青くなった。
「大丈夫ですか」
「ああ。先ほど近くの崩岸で転んで頭をぶつけてしまったものでな」
「アズ?」
「崖の崩れたところだ。ところで君はアシュアリーのもとでイスラム神学の修行を積みたいそうだな」
「ええ、どうしてもっていうわけではないんですが、なぜか行きがかり上、そういうことになりまして」
「ではアシュアリーを紹介してあげよう」
「ありがとうございます」
「明日明後日には会えると思うよ。とりあえず飛鳥に行きなさい」
「アスカ?」
「知らないとは言わせないぞ。日本人だろ」
「まさか、奈良の……」
「もちろんだよ。飛鳥に着いたら飛鳥井さんを訪ねなさい」
「アシュアリーに会いたいんですが」
「飛鳥井さんの家に居候してるんだよ」
「なんだかすごく意外です。偉大なイスラム神学者が居候なんて」
「事実なんだからしょうがないじゃないか。家には男が四人住んでいる。まず飛鳥井雅有」
「どういう人ですか」
「鎌倉末期の歌人だ。二人目は飛鳥井雅親。室町中期の歌人で書家だ。三人目は飛鳥井雅経。鎌倉初期の歌人だ。四人目は飛鳥井雅世。室町中期の歌人だ」
「時代がバラバラですね」
「いろんな時代から有名人が集まる、由緒あるお屋敷なのだ」
由緒があるかどうかは知らないが、梁山泊のような巣窟ではあるまいなと筒井はいぶかった。
「飛鳥井雅親は書道の飛鳥井流の祖だ。よい機会だから書道も習いなさい」
「わかりました。でもどうやって飛鳥へ」
「風に乗って行け」
一陣の風がさっと吹いたかと思うと筒井の体がふわりと天高く浮かび、気流に乗った。これが飛鳥地方に吹くという噂の明日香風か。渡り鳥のように風に乗って上空から見下ろすと飛鳥川が見えてきた。風は地上に向かって吹き下ろし、ふわりと着地するとそこは飛鳥京の真ん中だった。
「飛鳥浄御原律令の編纂はまだ終わらぬか」
豪華な着物で着飾った男が部下らしき男を叱りつけている。
「一所懸命作業に励んでおります」
「早く完成させなさい」
「かしこまりました」
平身低頭する部下に筒井が訊ねた。
「あの、すいません。いま怒鳴っていたのはどなたですか」
「言うまでもない、天武天皇陛下であらせられる。」
「いまは何時代ですか」
「そなたは寝ぼけているのか。飛鳥時代だ」
「本当ですか」
「嘘だと思うならあれを見ろ」
男は明日香村の安居院を指さした。
「飛鳥大仏の建造の真っ最中である」
「なるほど。――じつはお願いがあるのですが」
筒井は男を頼ることにした。天皇の家臣なら与って力があるに違いない。
「飛鳥井さんという人の家を訪ねたいのですが」
「おお、それなら飛鳥寺の裏手だ。寺の伽藍は塔を中心に三つの金堂を配置した飛鳥寺式で、近くには飛鳥板蓋宮がある」
「お屋敷ですか」
「皇極斉明天皇の皇居だ。舒明斉明両天皇の皇居である飛鳥岡本宮もあるぞ。斉明天皇の皇居飛鳥川原宮もあるし、天武持統両天皇の皇居飛鳥浄御原宮もある」
「皇居だらけなんですね」
「石を投げれば皇居に当たる。皇居銀座と呼ばれておる」
「さすがは飛鳥京だ」
「なにしろ世界に誇る飛鳥文化の中心地だからな、はっはっは。――で、そなたは飛鳥部さんの家に行くのだな」
「いいえ、飛鳥井さんです」
「ん? たしか飛鳥部常則と申したはず」
「言ってません。そんな人知らないし」
「そんな人とは何事だ! 平安中期、村上天皇の宮廷の絵師をつとめた御仁だぞ。貴様のような不届き者は飛鳥山がお似合いだ」
「飛鳥山って東京都北区王子の桜の名所じゃありませんか。近くに東京外国語大学のキャンパスがある」
「たわけ者めが! 外語大のキャンパスはとっくの昔に府中に移転したぞ。そんなことも知らないのか。貴様、本当に日本人か」
「日本人です。名前は筒井康隆。小説家です」
「小説家? 戯作者か。うさん臭い奴め。身分証を見せろ」
「身分証? これしかありませんが」
筒井は財布から運転免許証を取りだして渡した。
「どれどれ。――運転免許証? なんだこれは。意味がさっぱりわからぬ。あとでゆっくり調べることにする。ひとまずこれは預かりとさせてもらう」
「困ります。返して下さい」
「ならぬ。財布を見せろ」
「見せてもいいですけど、中身は空っぽですよ」
「無一文か。さては借金まみれだな」
「お恥ずかしい」
「預り銀はいくらだ」
「え?」
「借金はいくらだ」
筒井は頭の中でざっと計算した。冒険を初めて以来、世界各地で何億ドルもの借金をしてきた。日本円に換算したらいくらになるだろう。
「預り金はいくらだ。申してみろ」
「正確な金額はわかりませんが、数百億円に達すると思います」
「数百億? 円? そんな通貨はこの世に存在しない。貴様は嘘吐きだ。この財布は預所で没収するから、この預り証に判を押せ」
「ハンコは持ってません」
「ならば血判でも構わぬ」
筒井はしかたなく右の親指の腹に歯を突き刺して血を滲ませ、預り証券に捺印した。
「この預り証文は控えだ。紛失しないよう注意しろ」
男は妙に高飛車で筒井はだんだん腹が立ってきた。
「あとでちゃんと返してくれるんだろうね」
「ん? なんの話だ」
「だから、俺の財布」
「財布? 与り知らぬ」
「いま没収したじゃないか」
「預り立てした覚えはない。さてと、わしは預地に用があるから、これにてご免」
「ふざけるな! ここに預り手形がある」
筒井は証文をひらひらかざした。男は証文を奪い、びりびり破った。
「あ! 何をする」
「これで証拠は消えた。文句があるなら預所に言え」
「アズカリドコロってなんだ」
「領主の代理として荘園を管理する役人だ」
「でも、俺の財布の預り人はおまえだろ」
「なんの話だか」
「おまえが預り主だろ。財布を取り上げたじゃないか」
「しつこいぞ、この預り百姓め」
「俺は百姓ではない。小説家だ」
「三文文士か」
「預り前は必ず返してもらうぞ」
「戯作者の相手をする暇はない。これから天皇陛下に意見を関り白す。では失礼」
「こら! 預り物を私物化するとは卑怯だぞ」
「しつこい男だな。これをくれてやる」
男は自分の専用として風呂屋に預けておく預り浴衣を投げつけた。
「浴衣なんかでごまかすな。財布を返せ」
「わたしの与るところではない。これ以上騒ぐと貴様の命を預かるぞ」
男は刀を抜いた。
「待て、早まるな。――わかった。じゃあ財布の代わりになるものをくれ」
「これをやる」
男は小豆が詰まった袋を手渡した。
「小豆なんて二束三文じゃないか」
「小豆アイスを作れば高く売れるぞ」
「アイス? 飛鳥時代にアイスクリームがあるのか」
「馬鹿にするな。アスキーだってあるぞ」
「アスキー?」
「アメリカ情報交換用標準コード、わかりやすく言えばデータ通信のための符号体系。コンピュータで文字を扱う際の標準コードだ」
男は小豆色の瞳を輝かせて自慢げに語り、小豆織の着物の裾をポンポンとはたいて道端の民家に赴き、兎などの害を防ぐために敷地のまわりに小豆を植えた小豆垣にもたれかかって小豆粥を食べ始めた。男の足下を見ると飛鳥時代のくせにオランダ渡来の小豆革の靴を履いている。着物のデザインは赤と藍の格子縞の小豆縞で、遠くから見るとイギリスの政治家で自由党総裁をつとめたアスキスを髣髴させる。男の様子を眺める筒井の首筋に虫が這った。手で払いのけるとそれはマメゾウムシ科の甲虫小豆象虫だった。民家の庭には高さ八メートルはあろうかと思われるバラ科の落葉高木小豆梨が聳えている。
「粥に梅干しもなければ漬物もないとは味気ない、いとあずきなし」
男が呟いた。民家から小豆鼠の着物を着た女が外に出てきた。顔のまわりに小豆虫がたかるのを手で追い払いながら「ひとつ召し上がりませんか」と男に小豆飯を振る舞った。
「小豆餅もございます。お口に合いますかどうか」
「これはかたじけない。頂戴つかまつる」
男は粥の入った茶碗を女に預くが早いか、小豆飯と餅をむしゃむしゃ食った。
「そちらの旦那さんも、よろしかったらどうぞ」
女は筒井に声をかけた。空腹だった筒井は言葉に甘えて相伴に預かった。突然空に稲光が走り、白い服を着た神が天高く現れて筒井に言った。
「おまえはいったい何をしているのか」
「あなたは……?」
「アスクレピオスだ」
「アスクレピオス……どなた?」
「神に向かって『どなた』という奴があるか。ギリシア神話の医術の神。アポロンの息子である」
神は蛇が巻きついた杖をついている。
「あ、その杖なら見たことがあります。たしか医術のシンボル」
「ほほう、三文文士にしては学があるな。これぞ正真正銘アスクレピオスの杖である」
アスクレピオスは天界から地上に舞い降り、筒井の眼の前に立った。
「杖に触ってもいいですか」
「どうする気だ」
「いつか実物に触ってみたいなあと思いまして」
「よかろう。ただし一時預けだぞ。あとでちゃんと返せ」
神が筒井に杖を手渡すと、餅を食っていた男がそばに来て耳打ちした。
「おい、儲け話に一口乗らないか」
「え?」
「その杖を売れば大金が手に入る」
アスクレピオスの眼がぎらりと光り、男を睨みつけた。
「何を企んでおる」
「あ、いえ、何も」
「噓をつけ。おまえの魂胆は見え透いている。預合するつもりだろう」
「預合? なんの話かわかりませんが」
「株式会社の発起人が銀行または信託会社と結託して株金の払込みを行なわないのに行なったように装うことだ。商法によって禁じられている」
「お言葉ですが、痛くもない腹を探られては黙ってるわけにはいかない。わたしは株式会社の発起人なんかじゃありません。銀行には預金を預け入れるだけのごく普通の預金者です」
「こいつは悪党です」
筒井が口を挟んだ。
「神様、聞いて下さい。この男はわたしの財布を没収したんです」
「嘘だ」
「数百億円の借金、つまり預け銀があるのは本当ですが、この男は信じてくれず、財布を無理やり取り上げた上に預け状を眼の前でビリビリ破り捨てました」
「根も葉もないことを言うな。わたしは預地に用があるから、これにて失礼」
「逃げるな!」
「二人とも黙れ」
神の鶴の一声に筒井と男はびっくりして息を呑んだ。
「神をたぶらかすとは言語道断。裁判にかけてやる。どのような判決を下すかについてはあの裁判官に預ける」
「裁判官?」
「彼所にアスコットタイを締めた男がいるだろう」
見るとたしかにスカーフ風に結んだ幅広のネクタイを締めた男が立っている。アスクレピオスは筒井から杖を奪い返して天高く飛び去った。
「では裁判を始める。――二人とも死刑」
アスコットタイの男が宣告した。
「ちょっと待て。二人とも被告なのか。じゃあ原告は誰だ。しかも死刑って、ひどすぎるじゃないか」
筒井が口を尖らせて抗議した。
「不満があるなら袖の下を使え」
「袖の下……賄賂か。何が欲しい」
「アスコルビン酸をくれたら無罪放免にしてやる」
「アスコルビン酸?」
「ビタミンCだ」
「サプリメントなんか持ってるわけないだろ」
「ならば死刑だ」
「あーごめんなさい! 探します。探しますから、ちょっと待って下さい」
筒井はあたりをキョロキョロ見回した。ノウゼンカズラ科の落葉高木梓が茂っているのを摘まみ取って差し出した。
「どうぞ」
「梓は利尿剤の原料だ。そんなものは要らぬ」
「ごめんなさい! じゃあ長野県の梓川に行く許可を下さい。必ずビタミンCを手に入れます」
「必ずだな。嘘を申すとためにならんぞ」
「約束します」
「ではこれを持っていけ」
裁判官は梓に鏤めて表紙に「罪人言行録」と書いた本をこしらえ筒井に渡した。
「ではさっそく行ってきますが、交通手段は……」
「心配するな。梓巫が万事整えてくれる」
裁判官が目配せすると背後から梓弓を持った女が現れ、弓を筒井の袖に突き刺して満月のように引き絞って放つと筒井は矢に乗って大空高く飛んだ。上空から地上を見下ろすとキク科ノコンギク属のアスターが生い茂っているが、葉の色が褪せているのは放射性元素のアスタチンによる汚染のせいではないかと思われた。弓を射るときは的の背後に土を山形に築いて垜を設けるのが慣わしだが、なにしろ弓は天に向かって放たれたから筒井の体は弧を描いて大空を飛んでいった。空を切りながら筒井は我が身を呪った。なんの因果で空を飛ぶ羽目になったのか。俺はゆっくり朝寝がしたい。上が狭く底が広い垜の形に似た台の上に小さな括り枕を乗せた垜枕で眠りたい。地上には屋根の上を平にして土を乗せた垜門と垜屋が見える。筒井の体は大きな弧を描いて大地に落下した。そこは十四世紀メキシコ盆地のアステカ王国だった。
人家の入口にことごとく「*」のマークが刻まれてある。アステリスクにどんな意味があるのだろう。不可解だ。不可解といえば大きな弧を描いて空を飛んできたが、飛んでいる最中に体が何度も小さく回転したのが奇妙だった。半径aの円の内周に沿って半径a/4の小円が滑らずに転がるとき、小円上の一点(P)が描く曲線をたしかアステロイドと呼ぶはずだ。軌道は直交座標によりx2/3+y2/3=a2/3で示される。俺はきわめて数学的な軌跡を描いて中米に来たのではないか。奇跡と言っていい。こんな奇跡が起きたからにはグアテマラの小説家ミゲル・アンヘル・アストゥリアスに会えるかも知れない。代表作『大統領閣下』は俺の愛読書だ。会いたい! 是が非でも会いたい!
「うるさいよ! 赤ん坊が寝られないじゃないか」
民家から女が出てきて怒鳴りつけた。女は動物の毛皮を身にまとっている。
「ごめんなさい」
「でかい声で独り言を言うのは気狂いだ」
「気狂いではありません。すてきなお召し物ですね。なんの毛皮ですか」
「アストラカンに決まってるだろ」
「え?」
「アストラハン地方の名産、カラクール種の子羊だ」
「アストラハンってどこですか」
「ロシア連邦の西、カスピ海から十キロくらい上流のヴォルガ川三角州にある都市だ」
「カスピ海ならついこのあいだ行きました。連載百十二回で」
「連載? 百十二回? なんの話だい」
「あ、いえ、わたしは小説の登場人物で、世界各地を冒険してる最中でして……」
「やっぱり気狂いだね。とっととお帰り」
女は収斂性の化粧水アストリンゼンを顔に塗りながら家に入って扉に鍵をかけた。扉の横に胴でできた円盤がある。周囲は時計のように目盛りが刻まれ、太い針が回転する仕組みだ。中世天文学で最も重要な天文観測器械アストロラーベだった。古代アステカ文明にこんな精巧な機械があったとは。歴史を書き換える大発見だ。筒井は嬉しくてぴょんぴょん小躍りした。
「何をはしゃいでいる」
突然男が声をかけた。
「あなたは……?」
「ウィリアム・ジョージ・アストンだ」
「アストン?」
「イギリス生まれの外交官で日本学者だ。元治元年駐日公使館通訳として日本に行き、明治二十二年帰国して日本文化を研究した。日本書紀を英訳し、『日本文化史』『日本語文法』『神道』などの著書がある」
「アストンさんはなぜアステカに」
「ウィリアムと呼んでくれ」
「え?」
「ファーストネームで呼んでくれ。ファミリーネームだと物理学者フランシス・ウィリアム・アストンと誤解されてしまう。同じイギリス人だがあいつは質量分析器を考案した物理学者で、同位元素を発見してノーベル賞を受賞した。ただし東洋の文化にはなんの興味もない、了見の狭い男だ。――ところで君はこの木の由来を知っているか」
ウィリアムは道の両側の並木を指さした。
「これは……翌檜かな」
「そうだ。なぜ『あすなろ』と呼ぶかご存じか」
「わかりません」
「『明日はヒノキになろう』という意味だ」
「言われてみれば葉っぱがヒノキに似てますね。――さっきの質問に戻りますが、なぜアステカに?」
「わからんのだ。気がついたらここに来ていた」
「わたしもです。これからどうするんですか」
「明日の事を言えば鬼が笑う。あすなろの別名を知ってるか」
「いいえ」
「明日は檜だ」
「あすなろの話はもういいです。これからどうするか考えましょう」
「この世は変わりやすく明日はどうなるかわからない。明日は淵瀬と言うではないか」
筒井の腹が鳴った。
「腹が減ってるのか」
「ええ」
「これを食べなさい」
ウィリアムはジャケットの内ポケットから茹でたアスパラガスを取りだして筒井に渡した。
「いつもポケットに入れてるんですか」
「まさか。さっき道端で拾ったんだ。アスパラギンとアスパラギン酸をたっぷり含んでいるから体にいいぞ」
筒井はアスパラガスをむしゃむしゃ食った。
「君は何をしにアステカに来たんだ」
「アシュアリーのもとでイスラム神学の修行を積むはずが、なぜかここに」
「イスラム神学ならアズハル大学がお勧めだ」
「場所は?」
「カイロだ。イスラム最古の最高学府だよ。西暦970年に設立されたモスクから発展した。エジプトだけでなく全イスラム世界から留学生が集まる」
ウィリアムは説明しながらアスパラガスに白い粉をふりかけて食べた。
「なんですか、それ」
「アスパルテーム。人工甘味料だよ。アスパラギン酸とフェニルアラニンの二つのアミノ酸が結合した構造で、甘さは砂糖の二百倍だ」
「いつも持ち歩いてるんですか」
「なわけないだろ。さっきあそこの家の女にもらったんだ」
突然アスパラガスが爆発してウィリアムの頭が吹っ飛んだ。首から上を失ったウィリアムの体がばたりと地面に倒れた。白い粉は甘味料ではなく爆薬だった。筒井は怖気をふるった。明日は我が身だ。死体の首からアスピーテすなわち楯状火山の溶岩のようにどす黒い血がどくどく流れている。どてっ腹にも穴が空き、肉や魚の出し汁にゼラチンを加えて作るアスピックのように透明な体液がゼリー状になってあたりに飛び散っている。
筒井は頭が痛くなった。アスピリンが欲しい。しかしここは古代アステカ、どこで頭痛薬を手に入れればいいのか。ふと道の向こうを見ると地面にチョークで絵を描いて遊ぶ七八歳の少女がいる。筒井は藁にもすがる思いで駆け寄った。地面はアスファルトで固められ、歩道もアスファルト・コンクリートで覆われている。古代文明なのにまるでアスファルト・ジャングルだ。沿道の民家も屋根にアスファルト防水が施され、この時代に早くもアスファルト・ルーフィングの技術が発展していることに筒井は驚いた。
「お嬢ちゃん」
「なあに」
「頭痛薬を持っていないか」
「ないよ」
「頭が痛くてたまらないんだ」
「アスペクトを変えれば治るよ」
「アスベスト?」
「それは石綿でしょ。違うよ、アスペクトだよ」
「なんだい、アスペクトって」
「局面とか様相とか状況のことだよ」
「ずいぶん難しいことを知ってるんだね」
「おじいちゃんが教えてくれた」
「アスペクトを変えると頭痛が治るのか」
「うん。自分がいる状況を変えてしまえばどんな病気も治るよ」
「そうか。で、どうやったら変えられるの」
「おまじないを唱える」
「どんな」
「ちちんぷいぷい御世の御宝、だよ。痛いところをさすりながら唱えるの」
「そうか。ありがとう」
筒井は礼を述べ、頭を両手でさすりながらまじないを唱えた。
「ちちんぷいぷい御世の御宝!」
少女の動きがぴたりと止まった。風にそよいでいた木々の葉も動かなくなった。まわりを見渡すと眼に映るものすべてが写真のような静止画になった。目を凝らしてみると周囲の風景は鏡に映った像だった。恐る恐る鏡面に手を伸ばすと指先が鏡に触れるはずなのにまるで水面のように指先が鏡の向こうにすっと入りこんだ。筒井はそのままずんずん鏡の向こうに入っていった。鏡を通り抜けると足下に男がうずくまり、「吾妻、吾妻よ」と悲しげに呼んでいる。
「あの、おとりこみ中すみません……ここはどこですか」
「東だ」
「アズマ?」
「日本武尊が東方の敵を征伐した帰りに碓日嶺から東南を眺めて妃弟橘媛の身投げを悲しみ、『あずまはや』と嘆いたことに由来する日本の東部地方だ」
俺は日本に戻ったのだ。アスペクトが変わったのだ。筒井は欣喜雀躍した。
絵に描いたような平安貴族が六人、高麗笛と篳篥、和琴を奏で、笏拍子を打ち鳴らして唄を歌い舞い踊っている。東遊だ。そばに見物人の男が五六人、これまた手拍子を打って歌い踊っているが、言葉に北関東あたりの訛りがある。恐らく万葉集第十四巻や古今和歌集第二十巻の東歌に詠まれた東人であろう。京都の人は東国の人を東夷と呼んで蔑んだらしいが、むかしから東男に京女の諺があるとおり、気っぷの良さは江戸の男に限る。
よく見ると男だけでなく女も踊っている。
「あの女たちは……?」
筒井は足下にうずくまったまま悲嘆に暮れている男に尋ねた。
「東をどりだよ」
「東をどり?」
「東京新橋の芸妓組合が毎年春に新橋演舞場で催す舞踊公演だ。大正十四年に始まった」
「でもいまは平安時代でしょう?」
「何を寝ぼけているのだ。あいつらは映画のエキストラだ」
映画の撮影現場か。本物の東男に東女だとばかり思ったぞ。
「じゃあ、着物の裾をからげて帯にはさんでるあの人も……?」
「あの東折りの男か。エキストラだよ」
俺は二十世紀の日本に戻ってきたのか。
「君はさっきから暇そうだな」
「ええ、暇というわけでもないんですが、特に用事はありません」
「ではすまないが、これを運ぶのを手伝ってくれ」
男は傍らに積んである本の山を指さした。筒井が数えると全部で五十二冊ある。
「なんの本ですか」
「吾妻鏡だ」
「アズマカガミ?」
「鎌倉時代の後期に成立した歴史書だ。鎌倉幕府の事跡を変体漢文を使った日記形式で記したもので、源頼政の挙兵から前将軍宗尊親王の帰京に至るまでの八十七年間を克明に記録した重要史料だ」
「どこに運ぶんですか」
「ブックオフ」
「売るの? 売っちゃうの? こんな歴史的な文献を?」
「しょうがないだろ。手許不如意なんだ。背に腹はかえられぬ」
「だからってブックオフに売り飛ばすなんて。国宝級でしょう」
着物の裾を帯に挟んだ東絡げの小男が脇からひょいと顔を出して第三巻をくすね、そのまますたこらさっさと走り去った。
「あ! おい、待て。この東烏め」
男は小男のほうへ腕を伸ばしたが、足腰が弱っているのか、あるいは女と別れた悲しみに暮れるあまり体に力が入らないのか、ただ腕を伸ばすだけで立ち上がろうともしない。
「全巻揃ってないとブックオフでは買い取ってくれない。――君、追いかけてくれ」
筒井はしかたなく走り出した。群衆のあいだを掻き分けて走る小男が何やら甲高い声で叫んでいるのが東雁の鳴き声に聞こえる。筒井は猛スピードで駈け出した。すると大きな体の男にぶつかった。
「こら! 無礼者!」
「あ、すいません」
「すいませんですむなら警察は要らん。わしを誰と心得る」
「さあ」
「さあ? 我こそは東家老だ」
「画廊の経営者ですか」
「馬鹿者! 西国大名の江戸詰の家老だ」
「あなたもエキストラですか」
「エキストラ? なんの話だ。わしは東艦の点検に来たのだ」
「なんですか、アズマカンって」
「おまえはそれでも日本人か。慶応三年江戸幕府がアメリカから買い入れたフランス製の軍艦に決まっておる」
道端に高さ二十センチくらいのキク科の多年草東菊が咲き誇っている。
「西国出身ですか。いわゆる東下りってやつですね」
「やつとはなんだ、やつとは!」
家老は懐から婦人物の東下駄を取りだして筒井の頭をひっぱたいた。
「これだから西国の人間は嫌いだよ」
そばで一部始終を見ていた女が江戸っ子らしい東声を響かせて言った。女は着物の上にコートを羽織っている。
「素敵なお召し物ですね」
「安物の東コートよ」
「東コートって言うんですか」
「おまえは東コートも知らないのか。明治の中頃に流行した女の和装用コートだ」
家老が横から口を挟んだ。女は地べたに正坐して東琴を爪弾きながら、東路を下る人間にろくな者はいないと断言した。
「いやあ、あずましいなあ」
通りかかった職人風の男が琴の音を聞いて津軽弁で愉快そうに言った。女は褒められて機嫌がよくなり、在原業平を気取った東下りの男が吉原の遊女との後朝の別れを惜しんで舞いを舞う様子を描いた箏曲の吾妻獅子を奏でた。
「ん? なんの曲だ? ひょっとして吾妻浄瑠璃だべか」
「違いますよ、おほほ」
吾妻育ちの女は片手を口にあて楚々として笑った。
「さすが東っ子は上品だなあ。おらみてえな田舎者とは大違いだ」
「たしかにええ女子や。おい、わしの女になれ」
家老が出し抜けに女を口説き始めた。
「いやなこった」
「まあそう言わんで。ほら、この東綴れをやるから」
家老は手荷物から女物の帯地を取りだして見せた。
「栃木県足利市の名産や。きっと似合う。遠慮せんでええから受けとれ」
「ふん、そんなものに目が眩むとでも思ってるのかい。東人を馬鹿にすると承知しないよ」
女は終始一貫東訛のきつい言葉を投げつける。家老は女の鼻っ柱が強いのがたまらなく魅力的に見えるらしく、まるで吾妻錦絵に描かれた美人画を眺めるように鼻の下を伸ばしながら、道端に生えた野生の東根笹を引っこ抜いてはパンダのように笹を食う。
「てえへんだ、てえへんだ」
時代劇から飛び出してきたような若者が大声を出して走ってきた。
「どうした」職人が尋ねた。
「吾妻橋で身投げだ。心中だよ」
「なに、心中? こうしちゃいられねえ」
職人は着物の裾をサッとまくって東端折りにしたかと思うと一目散に駈け出した。
「男ってのはどうしてすぐ野次馬根性を出すのかねえ」
女は長唄の吾妻八景を歌いつつ、物見高い東人に呆れて溜息をついた。
「ところでおまえさん、商売はなんだい。東百官かい」
筒井は思いがけず女に話しかけられてまごついた。
「小説家です。――東百官ってなんですか」
「関東の武士が京都の朝廷の官名を真似して名乗った職名だよ。多門とか左膳とか」
「そんな立派な身分じゃありません」
「小説家なら芸事には詳しいんだろ? あそこで東舞をやってるけど、もう見たかい」
「アズママイ?」
「東遊さ」
「あ、はいはい、さっき見物しました」
「おまえさん、見たこともない格好してるけど、旅でもしてるのかい」
「そうなんです」
「じゃあ、いい物をあげる。お守りだよ」
女は懐から守り袋を取りだした。輪を左右に出して中を三巻きにした東結びで口のところを紐で結んである。気位の高い京都の女とは違って東女は気さくだ。筒井はありがたくお守りを頂戴した。
「この本もあげる」
女は表紙に吾妻問答と書いた本を一冊手渡した。
「なんの本」
「室町時代の連歌書だよ」
「助かります。金に困ったらブックオフに売れる」
「なんだって? こんな貴重な本を売るつもりかい? この罰当たり!」
女は筒井の横っ面を思いきりひっぱたいた。
「いきなり殴ることはないじゃないか」
筒井がぶつぶつ文句を言うのを尻目に女は琴を抱えて近くの四阿に引っこんだ。入口の左右に陶器を並べた棚があり、「吾妻焼」と墨で書かれた白い紙がぶら下がっている。店の中を覗くと女と目が合った。女は「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。店主とおぼしき禿頭の男が筒井に訊ねた。
「何をさしあげましょう」
「いや、別に欲しいものはないんだが、吾妻焼というのは……?」
「へえ、旭焼とも言いまして、京都府宇治市朝日山の名産です」
筒井は思い出した。連載百五回で朝比奈という男が朝日焼だと言って見せてくれた皿が Made in China だった。筒井は店内にうずたかく積まれた皿をひとつ手にとって裏返した。Made in Azumayasanと書いてある。
「Azumayasanって、どこ?」
「四阿山は長野県北東部、群馬県との境にある山です」
「京都の名産っていうのは嘘っぱちか」
「言いがかりです。いまではどこでも作ってるんですよ。瀬戸物だってもとは愛知県瀬戸市の焼き物でしょう。でも全国各地で作ってます」
「なるほど」
「ごめん!」
突然褐色の肌をした異人が店に入ってきた。
「へい、いらっしゃい」
「歌舞伎座はどこだ」
「歌舞伎座? 芝居小屋ですか」
「そうだ。吾妻与次兵衛を上演中のはずだ」
「あずまよじべえ?」
筒井が呟いた。
「タイトルですか」
「日本人のくせに知らないのか。大阪新町の遊女藤屋吾妻と山崎浄閑の息子与次兵衛が主人公の狂言だ」
「芝居小屋ならこの道の先に一軒ありますけど」
店主が遠くを指さした。
「このあたりでは見かけないお顔ですが――ご出身は?」
「アスマラだ」
「アスマラ?」
「アフリカ北東部、エリトリア国の首都だ。イタリア風の町並で知られる」
「ずいぶん遠方からいらっしゃったんですね。わざわざ歌舞伎を見に?」
「まさか。人を探している。この手紙を渡したいのだ」
男は懐から手紙を取りだした。
「東孺から預かった」
「アズマワラワ?」
「内侍司の女官だ。行幸のときに馬に乗ってお供をする役人だ」
「行幸って、天皇陛下ですよね」
「当たり前だ」
「エリトリアにも天皇がいるんですか」
「いるわけないだろ!」
男は呆れて声を荒げた。
「女官がたまたまエリトリアにお越しになったのだ」
「で、なぜ芝居小屋に?」
「阿曇が芝居を観に来ると聞いたからだ」
「アズミ? 人の名前ですか? それとも安曇野?」
「人名に決まってるだろ! 阿曇比邏夫だ」
「はて、聞いたことがない」
「古代の武人だ。西暦六六二年、新羅と唐とに攻められた百済を救うために水軍を率いて出征し、翌年白村江で東軍に敗れて帰国した」
「そんな大昔の人がいまの時代に生きているわけないだろ」
筒井が思わず口を挟んだ。
「いちゃもんをつける気か。貴様は何者だ」
「筒井康隆。小説家です」
「三文文士か。難癖をつけるとアスモデを招喚するぞ」
「アスモデってなんだ」
「ユダヤ教に伝わる悪魔だ。旧約聖書外伝トビア書を始め、スペインの劇作家ルイス・ベレス・デ・ゲバラの『びっこの悪魔』や、これを模倣したルサージュの悪者小説、モーリアックの戯曲などに登場する。文学者のくせに知らないのか」
褐色の男は阿修羅のような恐ろしい形相で天を仰ぎ、両手を高く掲げて「来たれ、アスモデよ」と大声を発した。すると一天にわかにかき曇り、雷鳴が轟き、天地がひっくり返るような轟音が轟き渡って店の前にドスンと巨大な建物が天から落ちてきた。
「なんだ、これは」筒井が腰を抜かした。
「アスレチッククラブだ」
「なんで?」
「貴様は見るからに運動不足だからだ。アスレチックスで体を鍛えろ」
「余計なお世話だ」
「逆らうのか。ならばアスロックで殺してやる」
「アスロックってなんだ」
「対潜水艦ミサイルだ。ロケットの先端にホーミング魚雷を装備し、艦艇から発射して潜水艦を攻撃する兵器だ」
「海でしか通用しないだろ。ここは陸地だぞ」
「あ、しまった!」
「馬鹿だな。けけけ」
筒井は鼻で笑った。
「赤っ恥をかかせた罰として、貴様をアスワンダムの底に沈めてやる」
「アスワンダム? エジプトだな。ナイル川までのこのこついて行くとでも思ってるのか。やれるものならやってみろ」
「減らず口をききおって。アスンシオンまでぶっ飛ばしてやる」
「アスンシオン?」
「南米パラグアイ共和国の首都だ」
「おもしろい。ぶっ飛ばしてもらおうじゃないか」
二人は汗だくになりながら組んずほぐれつして格闘した。
「吾兄は何をなさりをれるや」
店の裏に広がる田んぼの畦から褐色の肌をした女が現れた。
「うるさい、いま忙しいんだ」男が応えた。
「でも綜が見当たらず難儀してをります」
「アゼってなんだ」
「機織り機の経糸を上下に分け、緯糸を通す隙間を作る道具です」
「知るか」
「何そのような言いぐさを」
「だから、いま忙しいんだよ」
男は汗膏を流しながら筒井と格闘を続けた。
「早くしないとアセアンの会議に遅刻してしまいますよ」
「しまった。忘れてた」
「アセアン? おまえ、東南アジア諸国連合の関係者なのか」筒井が驚いて訊ねた。
「見くびるな。俺は現代の亜聖と呼ばれた男だ」
「アセイ? 小林亜星の親戚か」
「阿呆か。聖人に次ぐ賢人のことだ。古くは孟子を指した」
「兄上、綜糸も見当たりません」
「放っておけ、そんなもの」
「そういうわけには参りません。会議にはお土産に畦織を持参する約束です」
「うーむ。困った」
汗搔きの男は額の汗を手で拭い、畦に生えているカヤツリグサ科の一年草畔蚊屋吊をむんずとつかんで引っこ抜き妹に手渡した。
「かわりにこれを持っていこう」
兄妹はアセアンの会議に出席するべく歩き出した。途端に男が校木にけつまずいて転んだ。
「いい気味だ、ざまあ見ろ」
筒井がはしゃいで手を叩いた。
「兄上、汗臭いですよ」
男は汗ぐむ額を手の甲でごしごし拭った。滝のように流れる汗が眼に入って前が見えない。校倉にごつんと鼻先をぶつけた。
「いてぇ! なんでこんなところに校倉造があるんだ。こんなもの燃やしてしまえ」
男がマッチを擦って火を放とうとすると田んぼで畦越し田植をしていた農夫がすっ飛んできてマッチを叩き落とした。
「おめえさん、なんてことするだ! 火事になったらどうする」
「うるさい、俺は不機嫌なんだ」
褐色の男は顎の先から汗雫をぽたぽた滴らせて言った。
「あんた、ひどい汗っかきだなあ。この汗襦袢をやるから、着ていけ」
農夫は和服の下に着る汗取りの肌着を恵んでやった。男は褐色の肌に襦袢をまとった。生地はたちまち汗染みた。
「たまげたなあ。まるで水を含んだ海面だ。これを肌に濡れ」
農夫はシッカロールを手渡した。
「なんだこれは」
「汗知らずだ。この粉を肌につけると皮膚が乾燥して爽やかになるよ」
「ありがとう。このご恩は忘れない。アセアンでアセスメントの会議があるから、あなたのことを参加者に伝えるよ」
「アセスメントってなんだべ」
「自薦調査に基づいた評価のことだ。アセタール樹脂が環境にどのような影響を与えるかを調査しているのだ。ではさらば。額に汗して田植を続けなさい」
褐色の肌をした兄妹が立ち去り、農夫は田に戻って田植を再開し汗だくになった。田の向こうには綜竹が密生している。
「つかぬ事を伺うが」
一部始終を茫然と見つめていた筒井のそばに豪奢な着物を着た男が着て呼びかけた。
「なんですか」
「わたしはご覧の通り按察使だが」
「ご覧の通りって……どなた? アゼチってなに?」
「奈良時代、諸国の行政を監察した役人である」
「お役人さんが何のご用で」
「庵室を探しておるのだが」
「またアゼチ? 探してるってことは、どこかの場所か人ですか」
「江戸時代の奈良で手習所のことだ」
「ちょっと待ってくれ。奈良時代の役人が江戸時代に用があるなんて変だろ」
「お役目とあらばどんな時代にも出張する。それが立派な役人のつとめだ。――たしかこの辺に畔内があると聞いたのだが」
「またアゼチかよ! なんだよ、アゼチって」
「北陸地方や岐阜県で分家のことだ」
「ここは北陸でも岐阜でもないぞ」
「ならばここはどこだ」
筒井は返答に窮した。言われてみれば自分がいまどこにいるのかわからない。悔しまぎれに筒井は話題を変えた。
「その畔内とかいう所に何の用があるんだ」
「アセチル基を不法に合成している悪党がいるという噂である」
「アセチル基? おまえ、さては詐欺師だな? 奈良時代にそんなものが存在したはずがない」
「たわけ者めが。アセチル基は酢酸から水酸基を取り除いた原子団だ。酢酸も水酸基も太古の昔から地球に存在している。ただ、それを指し示す言葉がなかっただけの話だ」
筒井はぐうの音も出なかった。
「さては貴様、化学に疎いな」
「ばれたか。俺は筒井康隆、小説家だ」
「文士か。化学に弱いのも道理だ。分子式C6H4COOHの意味も知らんだろう」
「ちくしょう……わからん」
「アセチルサリチル酸だ」
「聞いたこともない」
「おまえはアスピリンを知らないのか」
「知ってるよ、馬鹿にするな」
「アセチルサリチル酸の医薬品名はアスピリンだ」
「そうなのか」
「アセチルセルロースも貴様にはなんのことか見当がつくまい」
「くそー」
筒井は歯ぎしりした。
「セルロースの酢酸エステルだ。人造絹糸や不燃性フィルム、プラスチックなどに使う。アセチレンはどうだ」
「あー、なんか聞いたことがあるぞ」
「天然ガスや石油を高温で熱分解して作る。酸素と混ぜて鉄の切断や溶接に使う」
「ふーん」
「ふーんとはなんだ、ふーんとは。わざわざ講義してやっているのに」
「だって興味ないんだもん」
「文士のくせに向学心のない奴だな。どうせ三文文士だろ」
「余計なお世話だ」
「分子式CnH2n-2はなんだ」
「まるで見当がつかない」
「アセチレン系炭化水素だ。アセチレン溶接は摂氏約三千度の高温の炎による溶接なんだぞ」
「それがどうした」
「それがどうした? 画期的な技術ではないか! 貴様は文明の恩恵をありがたく思わないのか。その靴下は見たところアセテートレーヨンだな」
「知らないよ」
「自分が身につけているものの素材にさえ無頓着とは嘆かわしい。分子式C6H5NHCOCH3はなんだ」
「理科の試験かよ!」
「アセトアニリドだ。解熱剤や鎮静剤に使うんだぞ。分子式CH3CHOはなーんだ」
「降参です」
「アセトアルデヒドだ。有機合成の材料として重要だ」
筒井は辟易した。話題を変えたい。キョロキョロあたりを見回すと田んぼの向こうに小さな御殿が見える。
「あんたが探してるのは、あの御殿じゃないのか」
「なに? ――おお、あれは汗殿ではないか」
「なにそれ」
「伊勢の斎宮が月経時にこもった御殿だ」
御殿に行くならこれを着なさいと、農夫が汗取りを一着手渡した。
「直接肌につけて汗を吸い取らせる肌着だよ」
「ありがとう。おや、これはアセテート繊維だな。分子式CH3COCH3、無色透明のアセトンが原料だ」
「ついでにこれもかぶりなさい」
農夫は兜を差し出した。頬当ての下底に穴が開いている。
「汗流しと言ってな、汗が穴から落ちる仕組みだ」
「よくできてるな。でも兜をかぶる必然性がないと思うが」
「それもそうじゃのう」
農夫は再び田んぼに戻り汗になって田植に精を出した。仲間の農夫が田んぼの土を鋤で畦に壁のように塗りつける畦塗りに余念がない。
「秋には稲が豊かに実のだろうなあ。まさに汗の結晶だ」
褐色の男が田植仕事を眺めていると、突然地響きがして大地がぐらぐらと大きく前後左右に揺れた。
「うわ、なんだなんだ」
筒井が腰を抜かしてその場にへたりこんだ。
「アセノスフェアに異変が起きたのかもしれない」
褐色の男が呟いた。
「アセノスフェア?」
「地球のマントル内の深さ百キロメートルから二百キロメートルないし数百キロメートルまでの比較的流動性のに富む層だ。アイソスタシーを保つための流動が行なわれ、楯状地以外では上部は地震波の低速度層をなす。プレートと地球内部との潤滑の役目を果たすのだ」
てことは天変地異じゃないか。筒井の手のひらが汗ばんだ。町中の人が蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、校倉の周囲のように木を重ね合わせた校羽目に身を潜めた。高さ三メートルに達するツツジ科の常緑低木馬酔木がゆっさゆっさと揺れる。
「畦引の前に田んぼが壊滅したら洒落にならん」
農夫がしゃがんだまま呟いた。
「アゼヒキ?」筒井が訊ねた。
「検地の際に畦の傍一尺を除いて測量し、その分の租税を減免することだよ」
大地の揺れがおさまらない。畦挽きと呼ばれる鋸を使って民家の敷居や鴨居に溝をつけていた大工が梯子から落ちた。畑の境の目印としてアセビを植えた馬酔木境が次々に倒れる。落下した大工が腰に結わえつけておいた汗拭きで顔の汗をぬぐって畑を見つめた。
「こりゃてえへんだ。馬酔木が倒れる」
直後にアセビの大木が根こそぎ横倒しになった。褐色の男は汗疹が痒くてたまらず体中を爪で引っ掻いた。農夫は立ち上がり、大地が揺れるのもものともせず田植の仕事を続けた。
「おい、危ないぞ」筒井が見かねて声をかけた。
「なあに、心配無用だ。畔跨ぎには慣れっこだ」
「アゼマタギ?」
「稲作は田んぼ一枚終わるごとに一休みするのが習わしだが、休まずに仕事を続けることだ」
汗まみれになって苗を植える農夫の背後で仲間が畦道に大豆を植え始めた。地面がぐらぐら揺れ続け、畦道に亀裂が走った。
「あ」
仲間は亀裂に落ちて奈落に姿を消した。
「せっかくの畦豆が」
農夫が悔しがった。
「大豆なんかどうでもいいだろ。早く安全な場所に避難しろ」
汗水たらして働く農夫に筒井が怒鳴った。農夫は汗水漬になって苗を植え続けた。命あっての物種なのに汗水を流すにも程がある。
地の底から大音響がとどろいた。通りかかった荷馬車の馬が驚いて前脚を高く上げ、両股のあいだにある汗溝から汗がしたたり落ちた。畦道は寸断され、汗みどろになった農夫はさすがに命の危険を感じて筒井のそばにやって来た。褐色の男は相変わらず汗疹に爪を立てて体中を引っ掻き回している。
「ほれ、シッカロールを塗れ」
農夫が小さな瓶を渡した。
「ありがたい。痒いところに手が届く人だな」
「水呑み百姓をあせらかしたって何も出ないぞ」
地の底で大爆発が起き、筒井はまたその場にへたりこんだ。どこかに逃げなくては――。焦りがつのる一方で、どこに逃げたらいいか皆目見当がつかない。校倉が次々に倒壊した。
「あぜりが倒れてはもうおしまいだ」
死を覚悟したのか、農夫は妙に穏やかな口調で言った。筒井は逃げ場を探して焦るばかりで、しかし腰が抜けて動けず、顔色は見る見るうちに褪せた。
「アゼルバイジャンに行こう」
褐色の男が提案した。
「アゼルバイジャン? どうやって」
「すべての道はローマに通ずだ。さあ、早く」
褐色の男は民家の軒先に繋いであった馬を二頭奪ってまたがり、もう一頭に筒井がまたがった。
「ハイヨー、シルバー」
男が拍車をかけると馬は音速かと思われるスピードで野を駈け、山を越えた。
「アゼルバイジャン語は話せるのか」
併走しながら筒井が訊ねた。
「話せないけど、どうにかなるさ」
道端にアセローラの赤い実がなっている。途中で一休みして汗を入れ、川の水で汗を流し、日本海を船で渡ってユーラシア大陸をひたすら西へ向かった。大地の揺れはユーラシア大陸でも感じられた。地球は滅びるのではないか。筒井は思わず汗を握った。走りづめの馬も汗を揉んだ。視線の彼方にアゼルバイジャンとおぼしき都会が見えてきた。
「やったぞ、着いた」
褐色の男が叫んだ。筒井は都市の入口の看板を見て唖然となった。
「おい、アセンズ(Athens)って書いてあるぞ」
「え?」
「アテネじゃないか」
二人はいつの間にかギリシャに到着した。
筒井と褐色の男がアテネに到着して三週間以上が経過した。
「やっと冒険が再開したぞ」筒井が安堵の溜息をつきながら言った。
「三週間、飲まず食わずでしたよ」
「生きていられたのは奇跡だ」
「なんでこんな目に遭ったんでしょう」
「作者のせいだ」
「作者?」褐色の男が訊ねた。
「うん。俺たちに冒険をさせておきながらほったらかしにしやがった。どうせアセンブリーにうつつを抜かしているんだろう」
「アセンブリーってなんですか」
「正しくはアセンブリー言語と言うんだが、コンピューターのプログラム言語だよ」
「その作者っていう人がコンピューターを使ってるの?」
「ああ、そうだ。いまもキーボードをカタカタ叩いて俺たちのセリフを書いてるに違いない」
「じゃあ、わたしたちが生きるのも死ぬのも作者の思うがままってことですか」
「そういうことだ」
「ひどい!」
褐色の男が怒り狂った。
「身勝手にも程がある! もし本人に会ったら阿仙薬を口に詰めこんで窒息させてやる」
「アセンヤク? なにそれ」
「インド産のアカネ科植物の水エキスを濃縮して作る褐色の生薬です」
「薬かよ! 殺すなら毒だろ」
「薬だって適量を超えれば毒ですよ」
「それもそうだが」
いたいけな少女が近づいてきて筒井に声をかけた。
「吾兄は日本人か」
「え? うん、日本人だけど。なにか用?」
「阿蘇へ参らんとする途中なり。この道は阿蘇に通ずるや否や」
妙に時代がかった口調である。
「阿蘇ならまずギリシャを出て日本に向かわないといけませんよ。お嬢ちゃん、名前は?」
「麻生と申します」
「麻生……。そういえば九州の福岡あたりは麻生財閥のお膝元だな」
「阿蘇へ連れて行ってくんなまし」
「なぜ花魁口調なのか不可解だが、急に言われても無理だよ」
「お礼はたんと弾みます」
「いくらくれる?」
「一万円紙幣を阿僧祇」
「アソウギ?」
筒井にはなんのことだかわからない。
「目玉が飛び出るほどの額ですよ!」
褐色の男が興奮して叫んだ。
「そうなの?」
「ええ。もとはサンスクリット語ですけど、仏教で阿僧祇といえば数え切れない数をさすんです。一説によると10の56乗、別の説によると10の64乗」
「てことは、10のあとにゼロが64個も並ぶのか」
「そうです」
「そんな大金が日本に存在するのだろうか。――お嬢ちゃん、麻生さんと言ったね、お父さんはお金持ちなの?」
「麻生久です」
「聞いたことがないなあ」
「社会運動家で政治家です。大分生まれで東京大学を卒業して、日本労働総同盟の幹部になりました。日本労農党と社会大衆党を結成しました」
「社会主義者じゃないか。金持ちなわけがない」
「父上を侮辱すると承知しませんよ」
少女はアゾ化合物を溶かしたオレンジ色の液体を筒井にぶちまけた。
「わらわを阿蘇くじゅう国立公園に連れて行っておくれ」
「お嬢ちゃん」
褐色の男が口を挟んだ。
「彼所に船が見えるだろ」
「ええ」
「あれに乗ればきっと阿蘇山に行けるよ」
「それはまことか」
「ああ、本当だ」
筒井が口から出任せを言って請け合った。
「あの船はね、迷子を家に送り届けるアソシエーションが運営してるんだ。君くらいの子どもが大勢乗ってるよ。みんなでアソシエーションフットボールをして遊ぶといいよ」
「阿蘇神社にも行けるか」
「行けるってば。しつこいなあ」
「しつこいとは何事か」
少女はアゾ染料を溶かした真っ赤な液体を筒井に浴びせた。
「お主、さては文筆家だな」
「え? そうだけど。よくわかったね」
「あそそに気づいておりました。文学者という人種は気位ばかりが高くて鼻持ちならない」
「悪かったな」
「で、そなたたちはどこにお行き遊ばすのか」
「じつは、どこにも行く当てはないんだ。三週間も飲まず食わずで」
「遊ばせ歌を歌ってくれたら褒美になにかご馳走して進ぜるぞ」
「知らないよ、歌なんか」
「あ、そう。ではこれにて失礼します。ごめん遊ばせ」
少女は一人でスタスタと港へ去った。
「遊ばせ言葉を使う餓鬼なんて、初めてお目にかかったよ」筒井が呟いた。
「なんのつもりだったんですかねえ」
「どうせ遊びだろう。遊び相手が欲しかったんだよ、きっと」
筒井と褐色の男はアテネの繁華街に向かった。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな」
「セバスチャンです」
褐色の男は答えながら前方を指さした。
「いい雰囲気の酒場がありますよ。ちょいと一杯どうです」
「いいね」
二人は酒場に入り、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをして遊び明かした。酔うと童心に返り、「瀬戸わんたん、日暮れ天丼、夕波こな味噌ラーメン♪」と幼い頃によく歌った遊び歌が口をついて出てきた。流しのギター弾きが来て即興で伴奏した。ギリシャにも遊男がいるとは驚きだ。ちょいどいい遊び敵に恵まれた筒井は調子に乗って「上海帰りのリル」や「湯の町エレジー」などの懐メロを片っ端から歌った。
夜が明けた。
「お客さん、そろそろ店を閉めますので、これをお願いします」
酒場の主が勘定書きをテーブルに置いた。
「金か。これから毎晩来るからツケにしてくれ。月末に耳を揃えて払う」
筒井はセバスチャンを促して逃げるように店を出た。
「毎晩通えるお金があるんですか。あ、そうか、銀行口座に遊び金をたんまり預けてるんですね」
「一文なしだ」
「え?」
「からっけつだよ」
「無銭飲食? マジっすか? やべーよ。捕まっちゃうよ」
「なにか金目のものを探して売ろう」
筒井とセバスチャンはあたりをキョロキョロ見回しながら明け方のアテネ市街をほっつき歩いた。歩道に革張りの立派な本が一冊放置されているのを筒井が見つけた。拾い上げるとギリシャ語の本で内容はまるでわからない。表紙をめくった。見返し紙と本文とのあいだに挟まれた白い遊び紙に万年筆でアルファベットが書いてある。
「R-a-c-h-e-l。Rachel。――レイチェル!」
「どうしたんですか」
「女だ。俺が探してる女の名前だ」
「ただの偶然でしょう」
「偶然なわけがない。ギリシャ語の本のここにだけはっきりアルファベットで書いてあるんだぞ。きっとアテネにいるんだ。俺はレイチェルに会うために西へ東へ旅を続けてきた。ついに会えるんだ」
筒井は『母をたずねて三千里』のマルコ少年のように胸が高鳴った。
「しかし、こんなひどい格好で会うのは気が引ける」
「あそこに紳士服店がありますよ」
「おお、おあつらえ向きだ」
二人はたまたま鍵が開いていた裏口から店に忍びこみ、遊び着を脱ぎ捨ててタキシードに着替えた。店の前は並木道で、俗に言う遊草すなわち柳の木の葉が朝の風に揺れている。東の空が白み始めた。
「こんな時間にアテネの街をタキシードでうろうろするなんて夢にも思いませんでした」
「夢にも思わぬことが起きるのが人生というものだ。いい遊び種じゃないか」
「こんなふうにいつまでも遊び暮したいなあ」
交叉点にさしかかった。角の建物が早朝から工事中で、ベルトコンベアが一台けたたましい音を立てている。ベルトのゆるみや振動を防いだりベルトの方向を変えたりするのに使う遊び車が突然外れた。
「機械が故障したぞ。ははは」
筒井が笑った。
「なにも笑うことはないじゃない。ひどい人ね」
いきなり女に話しかけられた。見ると女は小さな椅子に腰かけ、目の前にキャンバスを置いて工事現場をせっせと写生している。襟足に垂れた遊び毛が妙になまめかしい女だ。
「他人の不幸を喜ぶたちなもんでね。君こそこんな朝っぱらから何してるんだ」
「見ればわかるでしょ。油絵よ。遊び心で絵を始めたの」
「絵は結構だが、なにもベルトコンベアを描かなくたってよさそうなもんじゃないか」
「なにを描こうとわたしの勝手でしょ!」
「あ、ええ、うん……」
筒井は女の剣幕に押されて遊び言葉をもごもごと口にするのが精一杯だった。まるで将棋の盤上にあって攻守に役に立たない遊び駒になった気分だった。
「あなた、仕事は」
「え?」
「職業」
「作家だ。小説家だよ」
「遊び仕事ね」
女は鼻で笑った。
「素人はよくそう言うけど、原稿料だけで生活するのは大変なんだぞ」
「だって、どう見ても遊び好きよ。絵に描いたような遊び手じゃない」
「どうして」
「こんな時間にタキシード着て歩くなんて堅気の男のすることじゃないわ」
筒井はぐうの音も出なかった。
「そんなに遊びたいなら、あそこに遊び寺があるわよ」
「遊び寺ってなんだ」
「人が信仰のためではなく遊興のために集まる寺に決まってるじゃない。小説家のくせにそんなことも知らないの?」
筒井は完全に女の遊び道具と化した。
生意気な女だ。筒井は鼻っ柱をくじかれたのが悔しくてたまらない。
「どうだ、俺の遊び伽にならないか」
「遊び友達? そこにいるじゃない」
女はセバスチャンをちらりと見て言った。
「それともわたしを遊鳥にするつもり?」
「アソビドリ?」
「端女郎よ」
「ハシジョロー?」
「下っ端の女郎よ! なんにも知らないのね、あなたって。てっきり遊び人だと思ったのに。遊び半分で人をからかうのはやめてちょうだい」
近くの寺から遊人が奏でる妙なる調べが聞こえてきた。
「そんなに遊びたいなら鬼ごっこしましょ。あなたが鬼よ。捕まえられるものなら捕まえてごらんなさい。ほほほ」
「よーし」
筒井とセバスチャンは女と遊び広げた。女はどことなく典雅で優美なところがあり、古代の朝廷で大喪の際などに殯の神事に奉仕した遊部を思わせた。童心に返って遊び惚けた三人はわあわあきゃあきゃあ騒いでくたびれ、地べたにぺたりと尻をついて笑い合った。
黒光りする車が通りかかって眼の前にピタリと止まり、中から人相の悪い男が四人下りた。
「いい女だな。よう姉ちゃん、遊女にならないか? がっぽり稼げるぜ」
男たちは四人がかりで女をがんじがらめにした。
「やめろ」
筒井が思わずすがりつくと背がいちばん高い男が筒井の首根っこをつかんで宙に持ち上げ、地面に叩きつけた。
「放して! 遊び物にしないで!」
「おい、こいつは上玉だぜ。遊者にぴったりだ」
「やめて! やめないと承知しないよ! 助けて、お姉ちゃん! レイチェル!」
なに? レイチェル? じゃあ、こいつはレイチェルの妹なのか? 腰をしたたかに打って立ち上がれない筒井が地べたにへたりこんだまま男たちを見上げた。女はあっという間に車に押しこまれ、エンジン音もけたたましく車は港のほうへ去った。
「大丈夫ですか」
セバスチャンが筒井を介抱した。
「ああ。腰を打っただけだ。あの女はレイチェルの妹だ」
「本当ですか」
「間違いない」
「あいつらきっと遊び宿に売る気ですよ」
「こうしちゃいられない」
筒井はどうにかこうにか立ち上がった。タクシーで追いかけたいが早朝のアテネ市街は火が消えたように静まりかえっている。ふと後ろを振り返ると金物屋の店先に馬が一頭繋いである。
「馬で追いかけよう」
セバスチャンは気を利かせて馬の横に片膝をつき、両方の掌を上に向けて指を絡ませ筒井の左足を乗せてぐいと持ち上げ馬に跨がらせ、自分もその後ろにひらりと跨がった。手綱を通す七寸をつける遊輪が錆びついている。
「ずいぶん手慣れてるな」
「馬は子どもの頃よく遊び業乗ったんです。宙返りもできますよ。技を披露してみましょうか」
「いや、遊ぶ暇はない。車を追え」
セバスチャンは手綱を握り拍車をかけた。馬は猛スピードで駈け出し、車のあとを追った。車と馬は追いつ追われつしてギリシャから東に向かい、黒海北部のアゾフ海に到着した。海岸にたどり着くとなぜか車を見失った。
「どこに消えやがった」
筒井がきょろきょろまわりを見た。
「あの人に聞いてみましょうか。――あの、すいません」
セバスチャンは近くにいた男に声をかけた。男はどこから見ても平安貴族そっくりだった。
「なにか用か」
「いま、ここを真っ黒の車が通りませんでしたか」
「さあ、知らんな」
「あなたはひょっとして平安貴族ですか」
筒井が横から口を挟んだ。
「よくわかったな。朝臣だ」
「その服装を見れば一目瞭然ですよ」
「車というのは、あれのことか」
朝臣が指さすと港に接岸していた船に黒い車が乗船するところだった。
「あれだ。あの船の行き先は?」
「たしかアゾレス諸島だよ」
「アゾレス諸島……太平洋北部、ポルトガルの西か」
「わたしはこれから藤原の朝臣と面会があるので、ではこれにて失礼」
朝臣は立ち去った。筒井とセバスチャンは馬を走らせて桟橋から船に乗りこんだ。
筒井は馬から降りた。フェリーには黒い車が何台も積んである。一台ずつ中を覗いてゆくと大きな男にどんと肩がぶつかった。
「あた無作法な、あた不行儀」
見上げると雲を衝くような大男で、仮名手本忠臣蔵の芝居から抜け出たきたような風体である。
「失礼しました」
「ここで会うたが百年目。仇を晴らさでおくものか」
大男は脇差しを抜いて振りかざした。
「わあ、ごめんなさい。このとおり」
「他のことならともかく、いきなり体当たりとは言語道断。肩を斬ってやるから覚悟しろ」
「勘弁してください」
「肩だけで済ませてやろうと言うに、せっかくの好意を徒にするやつがあるか」
「これこれ、そのくらいで勘弁してやりなさい」
女房だろうか、大男の背後から婀娜な女が口を挟んだ。
「いいや、勘弁ならん」
「おやめと言ったらおやめなさーい♪」
女房はオペラ歌手のようにアダージェットで歌い上げた。
「おまえがそれほど言うならば、ぐっとこらえてつかわそう♪」
大男もアダージョで歌いつつ返事をした。突然近くの車が爆発して炎上し、熱くたぎったオイルが大男の顔に降り注いだ。
「熱熱」
顔に大やけどを負った大男を尻目に筒井はそそくさとその場を立ち去ろうとした。
「どこへ行く? 命を助けてやったのに礼も言わぬとは徒徒し。堪忍袋の緒が切れた。貴様を奴隷商人に売り飛ばしてやる。どうせ価は二束三文だろうが構わん。故郷の豪族の直に売るぞ」
「私も賛成。直ならもっと高く買ってくれるよ」
女房が請け合った。すると鞍に跨がったままだったセバスチャンが馬に拍車をかけて突進し、大男と女房を突き飛ばした。二人はサッカーボールのように船室の奥に吹っ飛んだ。
「でかしたぞ、セバスチャン! 賞賛に価する機転だ。まさに価千金」
「じゃあご褒美に価なき宝をおくれ」
「なにそれ」
「評価できないほど尊い宝」
「よしわかった。だが少し待ってくれ。まず例の女を探そう。話はそれからだ」
「あの二人、死んじゃったかな」
「どうでもいいだろ。どうせ徒命だ。女が見つかったら余はそなたに褒美を与ふぞ」
「わーい」
「能う限り船の隅々を探すのだ」
「了解。わーいわーい嬉しいな、ご褒美もらえる、嬉しいな」
セバスチャンはふざけてピョンピョン飛び跳ね徒ふばかりである。馬に吹っ飛ばされた大男と女房が戻ってきた。
「主君に乱暴狼藉をはたらいた仇討を致す。神妙にしろ」
「仇討? まるで仇討狂言だな。ははは」
「貴様、いますぐここで殺されるか、直に売り飛ばされるか、ふたつにひとつだ」
「やれるもんならやってみろ。逃げも隠れもしないぞ。隙を与えてやるからかかってこい」
「俺を誰と心得る」
「知らねえよ」
「我が名は武蔵坊弁慶」
「弁慶? 本物?」
「嘘偽りは申さん」
「じゃあ、ひょっとしてこの女房は……」
「女房は世を忍ぶ仮の姿。このおかたこそ我が主君、誰あろう源義経だ」
「マジかよ! あーん、ごめんなさい。命だけは助けて。ご恩は徒疎かに致しません」
「安宅で富樫に屈辱を嘗めたばかりと言うに、まさかアゾフ海でまたこのような屈辱に会うとは。許さん。憎っくき仇敵」
「ちょっと待った。安宅って、あの有名な安宅の関のこと?」
「当たり前だ」
「歌舞伎の名場面じゃないか。大好きなんだ。安宅松を踊ってくれないか」
「踊ってやってもよいが、条件がある」
「なに」
「アタカマの胴が欲しい」
「アタカマ?」
「知らぬと申すか。南米チリ北部に広がる砂漠だ。硝石と胴の産地として名高い」
「お安い御用だ。チリには友人知人が大勢いる」
筒井は恰も南米に詳しいかのような口を利いた。
「恰もよし。では一差し舞って進ぜよう」
弁慶が踊りを披露するうちに船は東に進み、いつしか静岡県伊豆半島東岸の熱川温泉に着いた。
筒井はセバスチャンと船を降り、温泉街に向かった。浴衣を着た妖艶な婦人がすれ違いざま筒井に声をかけた。
「ちょいと遊んでいかない?」
徒く女の物腰がなまめかしい。
「すまないが商売女には興味がないんだ」
「まあ失礼ね。私、こう見えて堅気よ」
女はセバスチャンと筒井の顔を交互に見た。
「商売女どころかそもそも女に興味がないのね」
「いや、違う。勘違いしないでくれ」
「言い訳しなくてもいいわよ」
二人が徒口を叩き合っているところに托鉢の僧侶が「南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無大師遍照金剛」と徒口念仏を唱えながら通り過ぎた。女と筒井は別れるでもなく、かといって肩を並べるでもなく、何となくあだくねを胸に抱いたままぽつねんと佇んでいた。日を遮っていた徒雲がはかなく消えた。
「遊ぶの、遊ばないの、どっち」
「レイチェルという女を探してるんだ。知らないか」
「なんだ、女好きじゃないか」
「勝手に決めつけるなよ。君だって男と見れば誰にでも声をかけるんだろ」
女と筒井は互いに浮気心があるのではないかと徒比べした。用心しろよ。こういう女に手を出すとろくな目に遭わない。鼻の下を伸ばしてタクシーを飛ばしていそいそと女のもとに通っても肘鉄を食らってタクシーは徒車になるのが関の山だ。
「安宅だ」
セバスチャンが沖を指さして声を張り上げた。
「徒げ?」
「いやいや、徒げははかなそうなこととか、もろそうなことでしょ。船ですよ。ほら」
筒井が沖を眺めると櫓が八十梃はあろうかと思われる安宅船がぐんぐん岸に近づいてくる。
「室町末期から江戸初期に活躍した軍船ですよ」
「おいセバスチャン、なんでそんなに詳しいんだ」
「船乗りになるのが夢だったんです。あ、今度は安宅丸だ」
さらに巨大な軍艦がその後ろから姿を現した。
「たしか寛永十二年に完成した船です。ほら、外側がきらきら輝いているでしょう? 銅板で覆ってあるんですよ。櫓は百梃、二百人で漕ぐ。米を一万俵積める」
「おまえは船の博士だな」
「ああ、乗りたいなあ。乗りたい、乗りたーい!」
セバスチャンは地べたに寝転がって手足をばたつかせてあたけた。
「乗りたきゃ勝手に乗るがいい」
「さっきの人、レイチェルって言いましたっけ」
浴衣の女が口を開いた。
「うん」
「ふと思い出したんだけど、愛宕にそんな名前の人がいたような」
「愛宕?」
「ええ……」
女は溜息をついて目を閉じた。
「あら、ごめんなさい。あたしったら、むかしの徒恋を思い出してしまって」
女は路傍の丸い大きな石に草履をこすりつけた。石は愛宕苔で覆われている。
「むかし愛宕に男がいたのよ。おもちゃにされて捨てられちまった。徒心しかない男だったわ」
「愛宕って、ひょっとして愛宕山のことか」
「そうよ、京都」
「そうだ、京都行こう」
筒井はどこかで聞いたことのある徒言を思わず口にした。
「行っちゃうの? なんだつまらない。徒事ね」
女は立ち去った。セバスチャンは接岸した安宅丸に駆け寄り船員と何やら話をして筒井のもとに戻ってきた。
「筒井さん、京都まで乗せてくれますよ」
「本当か」
「ええ」
二人は再び馬に跨がって安宅丸に乗りこみ、熱川温泉を出発した。紀伊半島をぐるりと巡って堺で下船し、馬を飛ばして京都に向かった。愛宕鳥すなわちウグイスの鳴き声が聞こえる。
愛宕に着くと物凄い人混みだった。
「愛宕の千日詣ですよ」
セバスチャンが解説した。
「七月三十一日、もとは陰暦の六月二十四日ですけど、愛宕神社で火伏せの行事が行なわれるんです。この日お詣りすると千日分の功徳があると言われる」
「浅草の四万六千日みたいなものか」
「幸先がいいですね」
「なんで」
「だって年に一度の縁日ですよ。きっと見つかりますよ、レイチェルさん」
「本当か」
「絶対です。愛宕白山に誓ってもいい」
神社ではちょうど愛宕火が焚かれるところだった。セバスチャンは火祭りを見物しながら呟いた。
「愛宕百韻を思い出すなあ」
「なにそれ」
「一五八二年、明智光秀が信長を本能寺に襲う直前、愛宕山で催した連歌の会の百韻です」
「おまえはいったい何人なんだ。ふつうの日本人でも知らないぞ、そんな話」
「嬉しいなあ、思いがけず愛宕詣りができて」
「浮かれてる場合じゃないぞ。レイチェルを探さねば」
「きっと愛宕山の近くにいますよ」
神社の境内に徒桜が咲いている。
「おい、なんで真夏に桜が咲いてるんだ」
「そんなこと急に言われても私は知らないよ」
洟を垂らした老婆が突然口を挟んだ。
「あ、いえ、こっちの話です」
「あたしを口説く気じゃないの」
「滅相もない」
「なんだつまらない。男心と秋の空は他し」
「他しってなあんですかあああ」
筒井が朗々と響くアダジオで尋ねた。
「形容詞の語幹じゃ」
「え?」
「うわ、あだ塩辛くてとても食えん」
洟垂れ婆は往来のど真ん中でイカの塩辛を食いつつ言った。
「むかしから言うだろ。他し男とか他し女とか」
「お恥ずかしながら聞いたことがないんですけど。おまえは?」
筒井はセバスチャンに水を向けた。
「浮気っぽい男や女のことかな」
「おお、おまえさんは学があるのう」
老婆は相好を崩した。
「しかし、ずいぶん浅黒い肌だね。日本人ではないな」
「はい。東南アジア出身です」
「さては仇し草があって日本に来たな」
「アダシグサってなんですか」
「災いの元だ。敵討ちをしに他し国に来たんじゃろ」
「ばあさん、一口でいいから塩辛を恵んでくれないか」
腹ぺこだった筒井が尋ねた。
「やだね。おらのもんだ」
たかが塩辛を独り占めするとはあたじけない老婆である。気分を損ねた筒井が遠くを眺めると火葬場らしき高い煙突から他し煙がゆらゆらと昇っている。人はいずれ死ぬのだ。自分だけは死なないと誰もが思いがちだが、死は平等に誰にも訪れる。筒井はレイチェルを探す旅への興味が薄らぐのを感じた。レイチェルのことなんか忘れてしまえ――徒し心が芽生えた。一度きりの人生だ、どこにいるのか見当もつかない女なんか放っておけ、もっと楽しい他し事にうつつを抜かしたっていいじゃないか。
「なにをぶつぶつ呟いてる」
「いえ、別に」
「いえ、別に、とは徒し言葉だなあ。どうだい、あたしといいことしないかい」
「いいこと? いいことって、まさか……」
「ふふふ」
老婆が妙にあた舌たるい声を出した。
「ほれ、ここにちゃんと枕も用意してある」
洟垂れ婆はこともあろうに道端で出会ったばかりの筒井と他し手枕を共にしようと言うのである。筒井は眉間に