ふれあい港館の案内板と維新派公演の看板の矢印に従って10分ほど歩くと埋立地の外れに鉄骨を大きく組んだ特設会場に着く。4時45分頃ですでに百人を越す客が整理券を求めて行列を成している。怪しい工場のような黒い巨大な会場を眺めていたら、屋根の代用をしていた白いビニールシートが突風に煽られて剥がれてしまい、劇団員が慌てて修復をはじめた。95番の札をもらう。
6時過ぎに会場へ戻ると敷地の入り口から会場までがL字型の屋台村と化して(『銀座通商店街』というチャチな看板さえ掲げている)、ビーフシチューパン付き四百円とか、ギョーザラーメン、空揚げ(鶏の空揚げを三つ四つばかり竹串に刺したものを紙コップに入れて供する)なんかを威勢よく売り捌き、客も客でまるで縁日の屋台を楽しむかのようにワイワイ言いながらビールや泡盛を傾けながら、通路の中央にずらりと並べられた木製の腰掛けに腰を下ろしてすっかりその気になっている。『ロマンス』という懐古趣味芬々たるタイトルの芝居にふさわしい演出だ。こっちもつられてイカ焼きを注文する。小麦粉のタネを四角い焼きコテに落とし、玉子とイカを乗せてコテで蓋をし焼き上げソースを塗って出すという簡単な代物。材料通りの味がする。6時半客入れ開始。目の前の名古屋からきたまるで双子のような女性二人連れと、大地を揺るがす野太い声で大阪弁を轟かすおじさんと相当年配の婦人の二人連れに挟まれて入場を待つ。階段をあがると客席奥に出、前から十列目くらいの左側に席を確保する。板を階段状に組んだ造りで、赤いクッションが敷いてあるのが嬉しい。客入れは永遠に続くと思われるほど手間取る。通路も埋まり、左右のパイプで組んだ席には三階まで鈴なり。三階の客がパイプの間から両脚を出してブラブラさせている。
7時20分開演。
黒の紗幕が開く。潜水艦の個室のような、ベッドとサイドテーブル、伝声管がある簡素な部屋。コック・シティーのウテナ映画学校の生徒。少年ヒカルが目覚める。蒸気工場。遠近感を利用した、第一次大戦前のヨーロッパの一国と思しきモノトーンの街のセット。ハルピンなど極東を思わせる地名もある。ヒカル、ユタンポら少年たちは逃亡兵ハルハを匿う。卒業制作の映画は『悲しみのフランケンシュタイン』。マリー役のハルハは一緒に船で海の向こうへ渡ろうとフランケンシュタインを誘うがフランケンシュタインは固辞しマリーひとりが旅立つという内容で、撮影途中に少年たちはハルハを〈壁〉の向こうへ逃亡させる。ハルハが完成を見ることなく去ったフィルム(林海象監督)が最後に上映される。
蒸気工場のセットが左右に割れて、奥にイスラム風のドームがあり左右は映画館街になっている街があらわれると客席に感嘆の溜め息が充満する。が、物語が弱く、後半は退屈した。強風にあおられて観客席の天井は吹き飛んでしまい、夜の埋め立て地の寒風吹きすさぶなかでの観劇を強いられ、コートの襟やマフラーに首を突っ込んでただじっと時の流れに耐える客が散見される。
休憩時間に、混雑を詫びるためマイクパフォーマンスをしてくれた主宰者松本雄吉の姿が拝めたのはもっけの幸いだった。百万円した特製の屋根が午後の突風で吹き飛ばされてしまって、今日は野天になった、寒くて申し訳ないがもう少しの辛抱です、と釈明すると、『大丈夫!』と奥の席から声が飛び拍手が沸く。
維新派は日本の演劇界でよそのどこの劇団とも似ていない舞台を創る。〈ヂャンヂャン☆オペラ〉というだけあって、台詞の大半は歌なのだが、関西弁のイントネーションをうまく利用した五拍子や七拍子の変則リズムを駆使した歌である。その酩酊感はバリのケチャを思わせる。インプロヴィゼーションユニット『アルタード・ステイツ』を率いて世界でも評価の高い内橋和久が編曲・音楽監督を務めている。演技はほとんどが白塗りで(ここにはアングラ劇や舞踏の影響がみられる)、登場人物たちは大人ではなく子供が中心。戦前戦後の混乱期の少年を描くのが得意である。題材は下手をすればノスタルジーに堕するものだが、スペクタクル性は見事に〈現在〉を見抜いている。
なににも増してこの劇団を特徴づけているのは、野外に劇団員みずからが数ヶ月かけて劇場を建設し、公演がハネる(=終わる)と、跡形もなく片づけてしまうという点である。
だが最大の魅力は圧倒的な舞台装置、舞台美術だといっていいだろう。映画の美術監督として数多くの仕事をこなしてきた林田裕至が美術監督を担当し、映画のセットそのものの世界を見事に現出させている。
維新派の足跡をここに記そう。
初期の頃は国鉄跡地や廃校を劇場に仕立てていた(この美意識は『第七病棟』にも通じる)。97年からは大阪南港ふれあい港館の埋め立て地を拠点にしている。不思議なのは、これほど大掛かりな舞台をなぜ三千九百円で見せられるのか。製作は毎日放送と維新派で大林組が協賛している。相当援助してもらっているのだろう。
扇田昭彦『日本の現代演劇』(岩波新書、1995年)では維新派は触れられていない。もし増補改訂版が出たなら必ずや一章を割かれるだろう。