エウリピデスが描いたメデイアは、アルゴー船で国へ帰還する夫のために、実の父親と弟をみずからの手で亡きものにすることも厭わない女である。夫とともにやってきたコリントスではその賢さで尊ばれているが、本来はよそ者であり、異人であり、血を分けた肉親の殺害者である。しかも、彼女の献身的振舞いが夫の言葉を借りればアフロディーテの計らいだとみなされる汎神論の世界に生きている。これをこのまま舞台にのせたところで、現代の観客はただ居心地の悪さをおぼえるばかりだろう。鈴木忠志にしろ蜷川幸雄にしろ、現代の日本人の肉体と言語の問題としてとらえなおすという手続きをとった上でそれぞれの『メデイア』をつくりあげている。ロマンチカは、かれらほどの徹底した虚構の意識はないにせよ、シンプルな装置を背景に、劇場空間が台詞と音のうねりで充される魅力的な舞台をつくりだした。
劇場内は壁から舞台まで白で統一されている。ギリシアの地中海的な家屋の壁を思わせる、左右に階段をしつらえた真っ白な装置。これはどうにでも料理できるフラットな装置で、照明や人物配置でさまざまな相貌をみせることができる点が優れている(美術・林巻子)。客席は、花道のような真ん中の通路をはさんで左右に別れている。この通路は文字どおり花道の機能を果たしていて、ときおり役者の登退場につかわれるのだが、開幕してまもなくメデイアの二人の子ども(岸靖子・安藤亜希子)を従えてやってくる守役(永田正行)をはじめ、メデイアに国外追放を言い渡すコリントスの王クレオン(中野真希)、夫イアソン(右田晃)、メデイアの奸計にはまりクレオンの娘が毒殺された報告をもたらす使いの者(原加津彦)といった男たちがいずれも客席背後からこの通路を通って舞台へと至るのは注目に値する。ひとつには、ただでさえ狭いシードホールの空間を最大限に利用せんとする技術的な要請もあるだろうが、男たちは通路をスタスタと足早に歩かせ、メデイアは舞台上をゆったりと左右に歩かせることで、それぞれが別個の世界に住んでいることを視覚化させる美的な意匠でもあろう。従って、演技者でもあり観客でもあるという本質的にきわめて曖昧な役割をになったコロスが、どちらの空間をもゆったりと行き来するのも、納得のゆくところだ。この二分法は、ラストでイアソンとメデイアがついに衝突し、せめてわが子を葬らせろと子どもの頭へと向かうイアソンが、それを阻止しようとかれにしがみつくメデイアをひきずりながら舞台上を平行移動するのがぞっとするほど異様な雰囲気をあたりにたちこませることに成功する要因となっているのだ。
声域を狭くおさえた台詞回しが面白い効果をあげている。メデイアの原サチコが圧巻。あのスラリと細い躰を踵までとどく黒のドレスをまとい、白塗の顔でゆったりと動く。コロスの造形もよく、とくに彼女たちが時折口ずさむ歌が、軽いエコーの助けもかりてぞくぞくするほどよい。照明や音響をいたずらにいじらず、役者たちの台詞のみで最後まで見せたのは快挙。ラストの「竜の車」をどうするのかと思ったら、照明をフェイドアウトさせてメデイアの鹿島立ちとし、無難な処理をした。無国籍的な音楽もいい。国外退去を命じられたメデイアの首にぶら下げられる鐘のコロンコロンという素朴な音がなんと豊かに響くことか。女子美大出身の劇団でビジュアル面がもてはやされているロマンチカが、これほど台詞と音に研ぎ澄まされたセンスをみせることに驚いた。