色彩ゆたかな衣裳をまとい、激情をほとばしらせて踊る女。体の芯から絞り出すようなしわがれ声で歌う歌手。打楽器のように烈しく弦をかき鳴らすギタリスト――。フラメンコの一般的なイメージはこのようなものだろう。情熱の国、スペイン。フラメンコ鑑賞を目玉の一つとする旅行代理店のパンフレットには必ず情熱の二文字が躍る。情熱と訳されるスペイン語はパシオン pasión だ。これは本来、「肉体的・精神的な烈しい苦しみ、耐え難い拷問」をさす言葉である。悼んでも悼みきれない死、忘れようにも忘れられないつらさに胸のつぶれる思いがする、その思いこそがパシオンである。大文字で Pasión と書けばイエス・キリストの受難を意味する。人々の罪と苦悩を一身に引き受け、全人類の救済のために命を投じたイエス。パシオン=情熱の一語の奥底には、死と苦しみが川となって黒々と流れている。
フラメンコはジプシーの伝統芸能に由来する。
11世紀にバルカン半島に住んでいたジプシーは15世紀初めごろヨーロッパの中心部にやって来た。ヨーロッパの西端に位置するイベリア半島に至ったのは15世紀半ばごろと考えられる。スペイン南部アンダルシア地方に定着し、その土地の民族音楽や民族舞踊に彼ら自身の踊りや歌を融合させた結果生まれたのが、今日われわれがフラメンコと呼ぶ芸能である。
放浪の民ジプシーはどこからやって来たのか。はっきりとしたことはわからない。11世紀にバルカン半島に住む前はどこにいたのか。彼らの故郷はどこなのか。長いあいだ人口に膾炙してきたのはインド起源説である。この説によれば、彼らの故郷はインドであり、ある時期を境に西方への移動を始め、15世紀初めにヨーロッパに入った。
放浪の民ジプシーの故郷はインドである――この仮説を初めて唱えたのは18世紀後半のドイツの歴史学者ハインリッヒ・グレルマンだ。グレルマンは著書『ジプシー――ヨーロッパにおけるこの民族の生活と経済、習慣と運命、ならびにその起源に関する一試論』(1783年)において、インド起源説の根拠としてジプシーの言語に着目した。グレルマンによればジプシーの言語はヒンドスターニー(ヒンドスタン語)と系統を同じくする。ヒンドスターニーはインドの北部、ヒンドスタン平原に共通する言語である。しかもジプシーの外見や生活習慣はインドのシュードラという不可触賎民に似ているから、彼らの故郷はインドに間違いない、というのが彼の結論だ。
同じ1783年に東インド会社に赴任したイギリスの判事ウィリアム・ジョーンズは独自の比較言語研究によって、古代インドのサンスクリット語が古代ギリシア語やラテン語と共通の言語から派生した可能性があることを突き止めた。現在の比較言語学では、ヨーロッパ諸言語とサンスクリット言語は、ある言語を共通の起源としており、その言語は理論上「印欧祖語」と呼ばれる。
グレルマンの比較研究はあまりにも恣意的な解釈に基づいているのでジプシーの「インド起源説」は反論を呼んだが、だからといって「インド起源説」を妄言として簡単に斥けることもまたできない。彼らの言語には広くインドの要素が認められるからである。
そもそも「ジプシー」という呼称からして曖昧である。ジプシーを単一民族の概念に帰するのは困難だからだ。そもそもジプシーgipsyという言葉は「エジプト人」を意味する。彼らはエジプトから来た民だという俗説が17世紀ごろから流布していたことによる。多くのジプシーにはロマニ語という共通の言語があり、ロマニ語にはジプシー以外の人間を一括して指す「ガジョー」(非ジプシー)という言葉がある。ところがジプシー自身を一括して呼ぶ共通の言葉は存在しないのだ。そこで1971年に第一回世界ロマ会議が開かれ、ジプシーの代わりに「ロマ」という総称を用いるべきであると提起された。「ロマ」は本来ロマニ語で「男・人間・夫」を意味する。単数形はロム、複数形がロマだ。ルーマニアで長く奴隷制のもとにおかれてきた集団の一部(ヴラフ系ロマ)のあいだで自分たちの総称的呼称として用いられていた。しかしヴラフ系ロマ以外の集団ではこのような語義の拡大は生ぜず、ロマの語がもともとの「男・人間・夫」という意味以外で使われることはない。ヴラフ系ロマは自分たちこそが「真のロマ」であるとして、ロマという呼称をもっぱら自分たちだけに使い、他の集団には使わない。実際、ドイツ在住のジプシーはシンティと名乗り、フランスはマヌーシュ、イギリスはロマニチャル、スペインはヒターノ(またはカレー)、フィンランドはカーロなど、昔から独自の自称をもち、自分たちにロマという呼称を使おうとしない集団も多い。
「ロマ」がそれなりに普及するようになったのは世界ロマ会議が一応の成功を収めたからだが、世界中のジプシーを広く代表する呼称とは必ずしも言えない。形容詞「ロマニ」を総称とせよと一部のジプシーは提起しているが、ロマニ語が使用されていることが前提となり、ジプシー全体を指す総称としては問題がある。こうした事情を斟酌すれば、当面はジプシーという通称を用いるのが無難と言える。
「インド起源説」はあくまでも仮説である。最新の研究によれば11世紀にバルカン半島にいたのはほぼ確実だが、どこから来たのかは不明だ。謎は様々な仮説と解釈を生む。五木寛之の「フラメンコ=津軽三味線同系説」が好例だろう。五木は、ツガル(津軽)はツィンガル、つまりツィゴイネルワイゼンなどのジプシーの意味ではないかと想像を逞しくする。ユーラシア大陸の中央に発したジプシーは、一方は西の果てアンダルシアに向かい、他方は東の果てツガルへ向かった――この説を聞いた三浦雅士は、フラメンコのアントニオ・ガデス舞踊団の舞台を観て「異様なほどの懐かしさ」を感じた理由がわかったような気がすると告白している。
15世紀半ば以前にジプシーがスペインに到達していたという説もある。スペイン北西部の都市サンティアーゴ・デ・コンポステーラにはスペイン王国の守護聖人である聖ヤコブの遺体の一部が発見されたという言い伝えがあり、当時はサンティアーゴ巡礼が盛んだった。その巡礼者に混じってジプシーも各地を放浪したというのである。巡礼の経路である「サンティアーゴへの道」 Camino de Santiago が熊野古道と姉妹道の提携を結んでいるのは奇縁というほかない。
ジプシーには固有の宗教体系というものがない。彼らは固有の生活習慣を維持する一方、定住先の慣例習俗に溶け込む面も持ち合わせている。スペインのミサ・フラメンカ misa flamenca は好個の例である。これは文字どおりフラメンコによるカトリックのミサである。十字架の下で歌い、ギターを奏で、踊りを踊る。磔刑のキリスト像の下でフラメンコの歌と踊りを捧げる彼らには、受難であり情熱であるパシオン pasión の意味が広がるさまを感じずにはいられない。
またスペインでは毎年春にカトリック最大の祭のひとつである聖週間が祝われ、キリストや聖母マリアの像を神輿よろしく担ぎ出し、市中を行列して回るが、とりわけセビーリャの行列は殷賑を極め華やかで、そこではサエタ saeta と呼ばれるアンダルシア特有の宗教歌が歌われる。これはジプシーがフラメンコ風にアレンジした歌で、今も観光の目玉になっている。
一人前になるまで決して帰国するまい、たぶん生きては帰れないだろう、という思いを胸に秘め、小島章司は1966年スペインに武者修行に出かけた。寝食を忘れて精進に明け暮れる日々。稽古量は凄まじく、「稽古のしすぎで死んでしまうのではないか」とスペイン人が心配するほどだった。果たして彼らの危惧は現実のものとなり、1969年、イビサ島のタブラオ〈セス・ギターレス〉で一シーズン休まず踊った直後に体を壊し、入院を余儀なくされた。手許不如意で保険も切れ、前途暗澹たる中、「踊れないなら踊りを教えてくれないか」とスペインや中南米の舞踊仲間が声をかけてくれた。こうしてマドリードの伝説の稽古場〈アモール・デ・ディオス〉で踊りを教える機会を得た。「私は生きているのではない。生かされているのだ」。小島章司が骨身に沁みた瞬間だった。絶望と希望は紙一重だ、紙一重のところで背中合わせになっているのだと、小島はつくづく思い知らされた。同時に、「偶然とはすなわち必然である」という逆説めいた真理を感得した契機にもなった。人と人が出会うのは、
当時の体験を振り返り、初心に返ってつとめた舞台が舞踊生活45周年記念公演『一瞬と永遠』(2003年)である。舞踊は瞬間芸術だ。身体は時として絵筆の如く空間に不可視の絵画を描き、ある時は楽器の如く床と身体そのものを打ち鳴らす。その絵、その音は一瞬にして虚空に消え、二度と再現されることはない。舞台上で何が起きたかは観客の意識の中にあるのみだ。
一時間から一時間半に及ぶ小島の舞台は、その全体でひとつの舞踊作品である。舞台は幾つかの場面から成り、一つひとつ場面は複数の踊り、所作によって構成される。従って幾種類もの踊りと所作を綜合したものが舞台作品になるわけだが、構成要素をただ足し算した結果が作品なのではない。むしろ、まず作品の全体像を構想し、それにふさわしい構成要素が案出されるのだ。つまり、ちょっとした腕の上げ下げや足の踏みならしという仕草の一つに作品全体の精神が宿っているのである。一瞬にして消える動きの中に作品の世界観が包含されている。つまり、作品を構成する要素は、部分であると同時に全体でもあるのだ。
『一瞬と永遠』のプログラムで小島はこう述べている。
「身体は歳を重ねるごとに古びていきます。感覚が鈍ってまいります。自然の摂理ですからどうしようもありません。身体が生きるのは『今』という瞬間と『ここ』という場所だけです。身体が古びないためには、時間と空間の限界を超えなくてはなりません。そこで『型』というものが発明されたのだと思います。フラメンコのみならず全ての舞踊に『型』があるのはそのためなのでしょう。『型』があるからこそフラメンコは今日まで連綿と受け継がれてきました。あっという間に過ぎ去る瞬間を永遠につなぎとめる、それが舞踊の魅力であり力だと思います」
一個の塵に全宇宙が宿る、一はすなわち一切であり、一切はすなわち一であるという世界認識は華厳経に始まったと考えられるが、密教はさらに一歩を進めて、宇宙そのものである大日如来は宇宙の構成要素一つひとつに内在する。人間や動物はもちろん、山川草木から一個の塵に至るまで、ありとあらゆるものに内在し、同時に宇宙に遍く広がっている。永遠の求道者である小島章司の舞踊と彼の精神性ならびに世界観は、かけがえのないこの一瞬にこそ宇宙の神秘は存するのであり、だからこそ一瞬は永遠に繋がるのだという真実を観る者に訴えてやまない。
以後、小島は生命のかけがえのなさ、平和の尊さをテーマとする舞台を相次いで発表する。二十世紀最大のチェロ奏者にして平和運動家でもあったパウ・カザルスに捧げた『鳥の歌 P PAU CASALS』(2005年)、スペイン内戦の犠牲者となった詩人で劇作家のフェデリコ・ガルシーア・ロルカを讃えた『FEDERICO』(2006年)、スペイン内戦において共和国を支持し民主主義擁護のために戦った四人の詩人(フアン・ラモン・ヒメネス、アントニオ・マチャード、フェデリコ・ガルシーア・ロルカ、ミゲル・エルナンデス)へのオマージュ『戦下の詩人たち 《愛と死のはざまで》』(2007年)。これら三つの作品は〈愛と平和三部作〉として高く評価された。
全ての作品に通奏低音として響くのは「祈り」である。ここで思い返されるのが弘法大師空海の『性霊集』巻第八の言葉だ。
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」
(宇宙法界に存在するありとあらゆるものが仏と同一の悟りの境地に達するまで、私は祈り続ける)
命ある限り踊り続けたいという小島の覚悟は、空海のこの言葉と響き合うように思えてならない。
弘法大師空海は四国は讃岐の生まれである。奇しくも小島章司の生まれも四国の徳島であり、言わば同郷である。しかしここで強調しておきたいのは二人の異邦人性、異境者性である。
空海が東夷(アイヌ)出身であるらしいことは、父佐伯氏が五六世紀ごろ大和朝廷の捕虜となった蝦夷(アイヌ)の末裔であることからみてほぼ間違いないと思われる。中央ではなく周縁の人であるという認識は空海も強く持っていただろう。そして彼の周縁性は後に数々の越境を達成する素地となった。青年真魚が大学に入り、一沙門に虚空蔵求聞持法を習い、大学を飛び出で無名の私度僧となり深山を渉猟し、日本初の思想劇『三教指帰』を著し、久米寺の東塔下において『大日経』を「発見」して以来、空海はまさに越境者そのものであった。遣唐使として艱難辛苦の末に長安に入ったのも文字どおりの越境だが、特筆すべきは二年足らずの滞在でインド僧般若三蔵と牟尼室利三蔵にサンスクリット語(梵語)及びインド諸思想を学び、師の恵果より阿闍梨の伝法灌頂を受け、僅か二ヶ月にして密教の正統なる継承者となったことである。恵果の師不空はインド人であり、恵果は密教相承者としては初めての漢人だった。恵果との出会いは偶然だったと言われる。しかし空海は宿命的な出会いだったと感じていたようだ。偶然とはすなわち必然であるという意識がここに強く伺える。帰朝後の空海の数々の偉業については贅言を要すまい。
僻遠の地、徳島の港町に生まれ育った小島章司はシューベルトの『冬の旅』に代表される西欧の声楽に心を奪われていた。武蔵野音楽大学に入学しモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』を全曲歌った際に、身体表現の重要さを痛感し、クラシックバレエやモダンダンスを経てフラメンコに出会う。フラメンコを究めようと単身スペインに乗り込んだのは日本人の海外渡航が自由化される前の1966年だった。そして四年足らずで本場スペインと中南米の稽古仲間にフラメンコ舞踊を指導する程にまで腕を上げた。そして程なく師ラファエル・ファリーナに「日本のジプシー」 gitano japonés という芸名を授かるに至る。十年間の修行を終えて1975年に帰国してからは、日本の精神性とフラメンコを融合させる作品を次々に発表した。音楽から舞踊へ、日本からスペインへ、身体から精神へと、幾つものレベルで越境を行ってきた小島は、2008年5月に『越境者』と題して公演を行った。そこで取り上げられたモチーフは中南米発祥のフラメンコ歌曲だった。今では本場スペインでも等閑視されがちなグアヒーラやコロンビアーナといった中南米を起源とするフラメンコの歌をモチーフに選ぶことで、ひとつの文化には種々雑多な川が流れ込み、それが大河となって脈々と流れてれいることを示した。
出家得度する前の空海すなわち真魚青年が大学を中退して私度僧となり24歳で著した著書劇『三教指帰』が戯曲形式をとっていることは頗る興味深い。
西欧においても演劇は宗教劇から生まれた。スペインに話を限れば、もとは教会における司祭の説教に発する。最初は一人の司祭が長々と説教をしていたが、もっとわかりやすく人の気をそらさぬ方法はないかと考えて編み出されたのがディアロゴ diálogo (対話=ダイアローグ)である。二人の司祭が掛け合い風に教義を説明する。当然舞台は教会内部であり、祭壇は舞台美術の役目を果たす。その後、もっと広いスペースを求めて教会の外に出て、正面入口を舞台にしつらえ、聴衆は広場に集まり、教会のファサードを舞台とする宗教劇の聴衆=観衆となった。さらに物語の背景を視覚的に効率よく説明するために天国や地獄を模した舞台装置を積んだ山車を数台並べ、聴衆=観客はストーリーの進むにつれて山車の前を移動した。
日本語の〈芝居〉も、もとは「芝が生えているところ」「芝生がある場所」を指し、具体的には社寺の境内の神聖な芝生を指していた。中世南北朝時代から一般的な芝生を指すようになり、室町時代にはひろく芸能一般の見物席を表す言葉になった。近世初頭に歌舞伎が成立すると、〈芝居〉は見物席だけではなく劇場全体を指すようになり、さらに、そこで演じられる歌舞伎そのもの、あるいは狂言そのものの同義語へと意味を転じていった。教会や社寺は舞台芸術の起源そのものと言える。
歌舞伎は三百年来、演技の型が役者から役者へと継承されている。フランスでも国立の古典劇団コメディー・フランセーズはルイ14世の時代から演技術が受け継がれて現在に至る。しかしスペインでは国立古典劇場が創設されたのが1986年と、つい最近のことである。16~17世紀の俳優が舞台上でどのように演技をしていたかは定かではなく、スペイン国立古典劇場の俳優は古典を演じる際、文字どおりゼロから出発して試行錯誤を重ねている。スペインでは舞台芸術の伝統が、パフォーマーの身体のレベルにおいては切断されているのである。その意味では、ジプシーの踊りと歌に発するフラメンコは、身体のレベルにおいて伝統が脈々と息づいているといえる。
空海が生まれた西暦774年当時、スペインではイスラーム王朝の支配が始まろうとしていた。711年に北アフリカのベルベル人がイベリア半島に侵攻して西ゴート王国を滅ぼし、716年にはスペイン全土をほぼ征服した。ここからキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)が始まり、1492年にグラナダを陥落するまでのおよそ八百年間、スペインはカトリック信者とイスラーム教徒、そしてユダヤ人が共存するという、他のヨーロッパ諸国に例を見ない歴史を生きることになる。
こうした歴史があるために、スペインでは寛容の精神、異文化共存の精神が良き伝統として育まれている。湾岸戦争の際にはマドリードで中東和平会議が開かれ、昨今のパレスチナ問題に関しても和平実現のために積極的に尽力を惜しまない。芸術の分野でも指揮者のダニエル・バレンボイムが親友で人文学者の故エドワード・サイードと共に多民族による交響楽団ウエスト・イースタン・ディヴァン・オーケストラを結成した。構成メンバーはイスラエル人とアラブ人とスペイン人の若い演奏家ばかりで、1999年に結成、本部はアンダルシアのセビーリャにあり、毎年世界各地で演奏活動を行っている。
小島章司のフラメンコと空海の密教を綜合する舞台『聖なるいのち』。一見して何の脈絡もなさそうに見えるこの試みだが、仔細に検討すると意外なほどの共通点が見えてくる。フラメンコをイベリア半島に伝えたジプシーの「心のふるさと」が密教発祥の地インドであること。部分は全体を構成し全体は部分に包含されるという密教的宇宙観が小島章司の踊りに顕著であること。洋の東西を問わず舞台芸術の起源は教会や社寺にあること。弘法大師空海も小島も越境者であること……。
ヒンドゥー教のオウム(aum)は、サンスクリット語の文字である梵字の最初の文字と最後の文字をつなげたものである。アルファベットでいえばAとZだ。これが日本に伝わって阿呍となり、西ヨーロッパに伝わってアーメンになった。
世界はつながっている。いのちもまた連綿とつながっている。そのことを精神と身体の両面で教えてくれるのが小島章司のフラメンコである。