芸人列伝

古今亭志ん朝
宇宙を感じさせてくれる唯一の下町芸人

高座で汗をかいているのは、熱演しているように見えるかも知れないが、冷や汗であることが多い。芸にゆとりがあれば、そう汗は出ないものです。

笑わせるのは体力です。

どちらも志ん朝の言葉だ。

彼は、若い頃、テレビのスターだった。「サンデー毎日」をもじって「サンデー志ん朝」という番組をもっていたし、数々のバラエティーに出演、コントも数多くこなしている。舞台俳優として三木のり平に芝居のいろはを教わったこともある。

一時期、春風亭小朝がタレント活動を始めたことがある。そのとき小朝は、師匠でもないのに志ん朝を訪ねて意見を聞いた。「あっち(=芸能界)に行ってもいいでしょうか」。志ん朝は答えた。「行け。行って勉強してこい。だがお前は必ずこっち(=落語)に帰ってこい。それだけの力が、おまえには、ある」。これで小朝は救われたという。

志ん朝の高座は何度も聴いている。CDも何度聴いたか分からない。そんななかでも、忘れようにも忘れられない高座が、ひとつだけある。97年7月23日午後5時50分。上野・鈴本演芸場。志ん朝がホール落語ではなく定席で聴けるというので駆けつけた。顔付は以下の通り。

演芸 演者
落語古今亭菊若
曲独楽柳家とし松
落語古今亭志ん上
落語古今亭右朝
落語入船亭扇橋
紙切り林家正楽
落語古今亭円菊
落語古今亭志ん朝
仲入り
マジック松旭斎静花
落語柳家九治
落語古今亭志ん輔
曲芸翁家和楽・小楽
落語古今亭八朝

トリは八朝、志ん朝は中トリだ。

水曜日という中途半端な日だけに、客席はまばら。前列に三、四人のオバサンが弁当を広げて、高座そっちのけで世間話に興じている。興醒めだ。こういう客を相手にしなければならない芸人が哀れである。だが、こんな客をも笑いの世界に引っ張り込むのも、芸なのだ。

客席に入った時は志ん上の後半だった。ほとんど記憶に残らない。右朝の「てんしき」。端正だが単調。間が悪い。扇橋。夜中に首が伸びるのが唯一のキズという、十八歳の美女に婿入りした三十路にならんとする間抜け男。噂に違わず、初夜の寝床で女の首が伸び、男は叔父に苦言を呈し、七月、八月、九月だけは養子を休ませてくれと頼み込む。「婿の夏休みなんてものがあるか」「だっておじさん、蚊帳を吊るでしょ。首が出ると蚊が入っていけない」。正楽の紙切り。まずは佐渡おけさでご機嫌を伺い、客席からあがる声に応じて「花火」「七夕」「横綱」と切ってゆく。見事。切り残った紙を彼は〈B面〉と呼ぶ。円菊。客席をみて量も質も大したことねえや、と思ったのだろう、仕草のギャグ満載の「饅頭こわい」で前列に陣取ったオバチャン連中の爆笑を呼ぶ。

そして志ん朝である。中トリである。大した期待はしていなかった。軽いネタでご機嫌を伺うに違いないと相場を踏んでいた。

楽屋で、前列のうるさいオバサンたちの審美眼の低さが話題にでもなったに違いない。マクラがやたらに長く、客席へ毒を吐く。厭な客はどんな客かと方々で訊ねられ大抵は答えないがきょうは機嫌がいいから申し上げる、とこちらをドキリとさせておいて、「酔客」「やたらに肯くご婦人」「小学校に上がらぬ子供」を挙げた。これを聴いたオバサン連中は水を打ったように静かになった。

噺は果たして「ふろしき」だった(「『ふろしき』だよ」と隣りのサラリーマンが連れの女子社員らしき女に説明した)。寄り合いで帰りが遅くなる夫の留守中に知り合いの男の訪問を受けた妻が、酔って早く帰ってきた夫の目をごまかすために男を押し入れに匿う。ところが夫が押し入れの前にでんと腰を落ち着けたきり寝ようとしない。にっちもさっちもいかなくて兄のもと助けを乞いに駆け込む妻。兄は機転を利かせて、風呂敷き一枚で、見事、男を逃がしてやる、というおなじみの噺だ。「芝浜」とか「子別れ」といった落語の大古典とはちがう、ほんのお遊び程度の軽い噺である。大きなネタなら、噺の方の密度が濃いから、下手でも下手なりに聴ける。案外、軽いネタほど、聴かせるのは難しいものだ。芸人の資質は、そういう噺をどれだけ聴かせることができるかで計れる。妹に妻たる者の心構えを説くところで志ん朝はバカな女への呪詛を隠さない。「今回のこととは関係ないが」、と前置きしておいて、「夫婦喧嘩なんてものは、女房がハイって言ってりゃあ収まるもんなんだ」と、なんと三回も言った。二度目までは客席も笑ったが、三度目には引いた。粋な芸を楽しむ人間の幅のない野暮天への怒りが爆発したのだ。

慄然としたのは、噺のラストだ。兄は、かつて同じような目に逢った女がいて困ったんだと、泥酔した夫に嘘の思い出話を語り出す。夫は気持ちよく酔いが回って、うんうんと頷いて聴いている。隠し持っていた風呂敷きを取り出して、夫の頭を風呂敷で丸め込み、押し入れの中で生きた心地がしない男に顎で合図して表に出してやり、風呂敷きを解き、「こうやって逃がしてやったのさ」。押し入れの男を逃がしてやるところの芝居の妙。数人しかいない客席の空気がピンと張り詰める。ただならぬ雰囲気が、客席を覆う。視線という視線が、魂という魂が、すべて志ん朝に注がれ、奪われる。私の視界から寄席の風景がスーッと消え、志ん朝の姿しか目に入らなくなった。私は、志ん朝に、完全に拉致されたのだ。

似たような経験は数えるほどしかない。玉三郎の舞。大野一雄の舞踏。どれもが〈宇宙〉を感じさせてくれた。まさか寄席でかくも貴重な瞬間に立ち会えるとは夢にも思わなかった。

一芸の頂点に登りつめた人はたいてい謙虚である。謙虚でありながら、矜持はしっきり持っている。98年12月23日に名古屋・中日劇場に出た志ん朝は「幾代餅」のマクラでこう挨拶した。

デビューしたての生意気盛りの頃は文楽師匠に、「芸で聴かせようなんて思っちゃいけない。芸をさせてもらうのだ、という気持ちでやりなさい」と言われたものですが、その頃は鼻っ柱がつよく、芸で納得させてやると思っていたものでございます。ところが十年くらいまえから師匠の言葉を身に沁みて感じるようになりました。と言いますのも、高座から観察していると、噺家以上にお客様も、いっしょになって体を動かしたり、しきりに芸をなさっている。噺家が芸をして見ていただくのではなく、噺家と客がいっしょに創るのが落語という芸事、むしろ噺家はお客様の鏡なのだ、そう気がついてずいぶん楽になりました。ウケなかったときは自分のせいではない、お客さまのせいなのですから。(客席、爆笑)

志ん朝は五代目志ん生の息子である。ずいぶん前から「志ん生を継げばいい」と人から言われているという。だが「『志ん朝』の名に愛着がありますから」といって頑として首を縦に振らない。一世一代の芸の持ち主である矜持だろう。だが、今の落語界で、六代目志ん生を襲名できる器は、彼をおいて他にはいない。あの名人文楽を、凡庸な現文楽に継がせた落語協会への批判は凄まじい。誰が六代目志ん生になるのか。さしあたって、今はどうでもいい問題だ。われわれは、志ん朝を聴けばいい。絶滅に瀕している東京下町言葉が聴けるのは、志ん朝の落語しかないという時代が、もうすぐそこまで迫っているのだ。

(2000年10月17日)


追記。「絶滅に瀕している東京下町言葉が聴けるのは、志ん朝の落語しかないという時代が、もうすぐそこまで迫っているのだ」と書いた。そして、その時代が去ってしまった。2001年10月1日午前10時50分。肺臓癌で東京都新宿区矢来町の自宅で鬼籍に入った。本名美濃部強次。享年63。

今年7月下旬の北海道巡業で風邪をひき、8月13日に都内の病院に入院。精密検査で末期の肝臓癌とわかったが、20日まで浅草演芸ホールでの高座があり、病院から通った。高座で顔色は悪く、本人も「声が出なくなってきたので、迷惑がかかるだろうか」と気にしたが、休まなかった。高座を終えた23日、都内の癌研究会付属病院に転院する際、聖子夫人が癌であることを告げた。末期までとは言わなかったが「あっ、そうか」と淡々と受け止めたという。この時、弟子たちだけに事実が伝えられたが、周囲は持病の糖尿病の悪化だと思っていた。9月23日に病院から帰宅を勧められ、自宅に戻った。点滴も外し体力は日に日に弱くなったが、大好きな日本酒は楽しんだ。この日午前8時に容体が悪化、最後は眠るようだったという。

悲報を聞いた桂米朝は「残念ともなんとも言いようがない。東京落語の次を背負う人だった」と悼んだ。山田五十鈴は「色気のある落語家で、世話物の名演ができる役者でもありました」と惜しんだ。62年に共に真打ちに昇進した円楽はラジオで訃報に接した。「私より先に逝ってしまうなんて」「癌とは知らなかった。もったいないことよ」と溜息をついた。姪の池波志乃は都内の自宅に駆けつけ号泣した。「落語だけでなく、ドラマとかタレントみたいなことをしてて、憧れのおじちゃんでした」と涙ながらに思い出を語った。さらに「精神力がかなり強い人だったけど、最近は怒りっぽいとか、あいさつも愚痴っぽかったりしていたので、体の具合が悪いのかなあと思っていました」と話した。夫の中尾彬は志ん朝と立川談志との「2人会」を企画していた矢先の悲報だったとことを明かし「非常に残念です」と肩を落とした。橘屋円蔵は、都内の自宅で落語協会からの連絡を受けた。「しばらくはショックで何も話す気にならなかった」とポツリ。「ものすごく体を大事にする人だから悔しい」と話した。

立川談志は8月中旬、志ん朝が急性肺炎という理由で入院した際に代演した。亡くなった当日は、最初はマスコミへのコメントを固辞したが、所属事務所を通じて「惜しい人を故人にした」と一言だけ述べた。悲しみに耐えて、都内でNHK「芸能大全集」の収録に専念した。その後「スポーツニッポン」にコメントを寄せた。

志ん朝の芸は華麗で元気いっぱいなところが魅力だったが、最近それが欠けているというので気にしていた。現在の演芸で金を払っても見たいというのは志ん朝だけ。志ん生を継いだ時には口上を述べてやると約束していたので、継げなくなったのは残念だが、現在の落語界で最高の芸を見せた見事な人生だったと言ってやりたい。

小林一茶の愛と性を描いた舞台『信濃の一茶』(2001年10月2日~25日、東京・新橋演舞場)で一茶を演じる緒形拳が1日、通し稽古を行った。志ん朝死去の一報に「びっくりした。悲しいな。落語で育ったようなところがあるから」としみじみ語った。共演の水谷八重子も「きれいな江戸弁がまた一つなくなった」「寝顔は二枚目の美男子でした。お顔を見て、もうきれいな江戸弁が聞けなくなってしまうのかと残念な気持ちでいっぱいです」と唇をかみしめた。内海桂子は「本当に古典落語のうまい人で、できることなら芸を置いていってほしかった。こんなに早く亡くなるなんて…」と絶句した。

10月5日。東京都文京区大塚5-40-1、護国寺桂昌殿で通夜が営まれた。棺の中にはドイツ語の辞書、最後の仕事となった浅草演芸ホールの出演料や愛用の眼鏡などが納められた。志ん朝さんは若いころ外交官になる夢を持っていたことがあり、好きだったドイツを毎年旅行していた。今年も6月に約2週間ほど旅行した。関係者は「ドイツ語は日常会話ならぺらぺらで、よく弟子を連れて一緒にヨーロッパに行ってました。ドイツの景色が好きだったみたいですね」と話していた。

「日刊スポーツ」によると、落語協会会長の三遊亭円歌は「顔を触ったら柔らかかった。別れの言葉に『早く帰ってこいよ』と言ってやった。63歳なんて早過ぎるよ。本当にいい人だった。癌て奴はとんでもなく悪い奴だ」と語った。志ん朝一門の総領弟子を務める古今亭志ん五は「病院では窓を開けて趣味の写真を撮っていた。自宅に戻ってからはハーハーと呼吸するのが精いっぱいだった」と話した。

通夜には二千人を超える弔問客が訪れた。自宅が近所のタレント下嶋(海老名)みどりは「自宅を新築した時、趣味のカメラでアルバム3冊分も写真を撮ってくれたほどやさしい人でした」と語った。笑福亭仁鶴は「日常から洗練された江戸弁を話されていた正しい落語家でした」と涙ながらに語った。中村メイコは棺に「あなたは天才!」と話しかけた。戒名は光風院楽誉観月志ん朝居士こうふういんらくよかんげつしんちょうこじ

2001年10月6日午後1時。護国寺桂昌殿で告別式が落語協会葬として営まれた。落語協会会長の三遊亭円歌、森繁久弥、水谷八重子ら各界の著名人と、一般ファン約2500人が早すぎる死を悼んだ。参列した人間国宝の桂米朝は「東西合わせてもめったに出ない落語家。一番惜しい人を亡くした」と沈痛な表情で話した。弔辞の中で、入門同期の鈴々舎馬風は「肩の荷をおろしてゆっくりして欲しい」と語った。喪主の妻聖子さん(58)は「こんなに皆さんを悲しませるなんてつらい。本当に残念です」と涙ながらにあいさつした。出棺時、亡くなる直前に志ん朝と「住吉踊り」で同じ舞台に立った踊り子たちが「木遣り」で送った。「矢来町、日本一!」の声が何度も飛んだ。

小林信彦は『週刊文春』2001年10月18日号のコラム「人生は五十一から」に「志ん朝さんの死、江戸落語の終焉」という文章を寄せた。

脱力感で、ベッドに横たわっている。
 人が亡くなって、こんな状態になるのは全く珍しい。親しかった友人が亡くなっても、ここまで気が滅入ることはない。

こう書き出されたコラムは、次のように締めくくられている。

志ん朝の死は、マスコミが伝えるような〈江戸落語の名人の死〉を意味するだけではない。夏目漱石を読むのに江戸落語の知識が必要であるような、そうした意味での〈ことば〉の終りをも意味する。死と同時に志ん朝は〈江戸ことばの絢爛たる世界〉という文化をも、あの世に持って行ったのである。われわれは、はからずも、〈江戸の大衆文化の一つ〉の終焉に立ち会ったのだが、その喪失感の深さ、大きさは、まだ充分に理解されたとはいえない。なぜなら、それは形ではなく、〈ことば〉の問題だからである。

志ん朝師匠。私はあなたの高座に接することができて幸せでした。どうか安らかに眠ってください。

(2001年10月31日)