『ゆきゆきて、神軍』のドキュメンタリー映画作家、原一男に『全身小説家』というフィルムがある。井上光晴の人生の虚と実を暴いた驚異的なドキュメンタリーだ。内容は、多摩、佐世保など各地に「文学伝習所」なる勉強会を設けて小説家の卵たちに薫陶をたれる井上光晴の、89年から92年5月に死去するまでの話。歯に衣着せず舌鋒鋭く教え子を批判しては宴会で「津軽海峡冬景色」をBGMに芸者の恰好をしてストリップを踊ってみせる、「伝習所」での猛烈なサービスぶりに、男性の生徒たちは〈人生の師〉と仰ぎ、女性たちは〈心の夫〉と認めて憚らない。彼の人格者としての面をまず見せる。直腸癌に侵されていた彼が入院、手術し退院するまでが中盤。最後は、井上が自筆年譜や公演、テレビの取材番組などで何度も打ち明けてきた出生と幼年期にまつわる思い出が、実はほとんど彼自身がでっちあげたフィクションであることが、実妹や亡き祖母の知人、尋常小学校時代の級友たちの証言で暴かれる。旅順で生まれたのも嘘ならば(生まれは佐世保)、父親が疾走して満州を放浪したというのも嘘(佐世保の家では祖母と父、妹と4人暮らしだった)。育った崎戸の島では、在日朝鮮人の女郎たちが舞い踊りながら街を練り歩き、炭坑夫の月二度の給料日、〈受け銭〉の前夜には賑やかな勧誘があったという逸話も、当時を知る人たちは作り話と一蹴する。初恋の人〈崔田鶴子〉も然り。祖母は高島サカという人だったが、伊万里で父となる雪雄と出会い光晴をもうけるが、戸籍をみると雪雄とサカはなぜか兄弟になっている。母親が家を出て別の男と所帯をもった、という話だけが本当らしい。
原一男をもじっていうなら、談志は〈全身落語家〉である。爆笑問題の太田光を「隠し子」だと公言したり、「クレオパトラの張型」を所有しているなど、嘘八百には枚挙に暇がない。
談志は1963年に真打になり、2年後の65年に『現代落語論』を上梓、ベストセラーになった。その序文にある「落語とは、ひと口に言って、『人間の業の肯定を前提とする一人芸である』といえる」という自説は、今も高座でことあるごとに口にする。「人間の業の肯定」、これは蓮實重彦がいう「愛とは存在を無条件に肯定すること」という愛の定義に通じる。談志は〈他者への意識〉が強いのだ。これは落語家には珍しいことである。
96年3月28日。ニッポン放送で18年続いた「玉置宏の笑顔でこんにちは」の終了を明日に控えたこの日、落語通の玉置は談志の「短命」を聞かせた(ナマではなく録音)。金丸信死去の速報が飛び込んできた。
立川談志。本名・松岡克由。1936年1月、東京生まれ。高校を中退し、52年、現五代目柳家小さんに入門。63、五代目立川談志で真打ち。入門11年の抜擢。日本テレビで「笑点」を始める。この番組は談志のアイデアなのだ。「笑点」は三浦綾子『氷点』のモジリで、初代司会が談志。じつはそのまえに談志は夜10時からやっていた「金曜夜席」という番組の座長を務めていて、これが日曜に移り「笑点」になった。今は亡き三遊亭小円遊は〈キザ〉、というふうに、大喜利のメンバーのキャラクターを決めたのも談志。当時は石井伊吉という名前だった男を〈毒蝮三太夫〉と改名させて初代座布団運びにさせたのも談志だ。毒蝮は「このネーミングのおかげで仕事がきた」というから人生なにがあるかわからない。高田文夫の〈関東高田組〉や、たけしの〈たけし軍団〉のメンバーにガダルカナル・タカだのいでらっきょだのつまみ枝豆だのという妙な名前をつけるのも談志にあやかってのことなのだ。
71年、参議院議員に当選、沖縄開発政務次官。83年、真打ち制度をめぐって落語協会と衝突、脱退して落語立川流を創設、家元となる。湾岸戦争の際、イラクのフセイン大統領に会いに行ったりして、話題をまいた。最近は、集大成の落語CD集「立川談志ひとり会」(10枚組み)を出している。すでに3シリーズ目が発売されている。
談志が真打ち制度をめぐって落語協会と衝突、脱退して落語立川流を創設した事情はこうだ。愛弟子の談四楼が真打試験に落ちてしまったのだ。業を煮やした談志は「落語立川流」を創立。落語協会から脱退するということは、定席の寄席から締め出されることを意味する。つまり寄席から追放されたのだ。そこでホール落語をはじめ、いたるところの文化会館などで興業を打つ。これがことごとく当たる。今、いちばん客を集めているのは彼を筆頭とする立川門下生だ。つまり、見事にリベンジを果たしたことになる。
落語立川流は落語界において異色の存在である。弟子はAコース(噺家を目指し、常時、寄席や舞台に出ている)、Bコース(談志の生きざまに共感して入門、そこそこ落語ができる)、Cコース(無名だが落語にかかわりたい人)に分け、ヤクザから教わって(!)上納金制度を導入、10万円で二つ目、30万円で真打に昇格できる。ただし落語は「すべての芸能の頂点にある」から「何もかもできなければダメ」で、落語は五十席以上、都々逸や手踊りなど歌舞音曲の余芸も必須。Bコースにはビートたけし、上岡龍太郎、高田文夫、団鬼六、山口洋子、内田春菊、山本晋也、ミッキー・カーチス(高座名ミッキー亭カーチス)、上田哲、故景山民夫(高座名立川八王子)らがいる。吉本興行などは、会社が丸ごと弟子になっていて上納金を納めている。
談志は小燕時代から〈天才落語家〉の評判をとった。なにせ、一度聴いた落語はその場でひとことも漏らさず覚えてしまう抜群の記憶力の持ち主だ。こんなエピソードがある。93年10月に談志が大阪に行き、ざこばと鶴瓶が、上方漫才の最高峰、中田ダイマル・ラケット(略称ダイラケ)のラケット(97年2月逝去)が経営するスナックへ案内した。談志はダイラケ漫才を〈猛烈な調子で〉再現し、しまいにはラケットに抱きつき、「オレは師匠たちの漫才が大好きだったんだよお」と何度も繰り返した(小佐田定雄「上方おさだまり通信」『東京かわら版』97年3月号)。ダイラケは、間違いなく、上方漫才の最高峰だ。録音が残っている「ボクの時計」というネタを聴いてほしい。まったくダレないテンポといい目まぐるしくかわる攻防といい、一分の隙もない。見事の一言に尽きる。
才気煥発の談志はいろいろなものの創始者である。「笑点」もそのひとつだが、上岡龍太郎と笑福亭鶴瓶の「パペポTV」のあの〈だらだらトーク〉のルーツも、談志と前田武彦のトークに由来するのだ。
創始者であるばかりでなく、過去の芸能番組の復刻も手がけている。97年5月5日午後7時。NHKラジオ第一で「平成・話の泉」をやった。昭和20年代の人気番組「話の泉」の再現である。司会は談志、ゲストは山藤章二、毒蝮三太夫、デーブ・スペクターなど。内容の一部を紹介しよう。
山藤章二曰く、「〈
高田文夫によれば、笑芸人の最強コンビの系譜は三木のり平×八波むと志、青島幸男×谷啓、談志×円鏡、コント55号、そしてたけし×さんま(高田文夫編『江戸前で笑いたい』筑摩書房)。高田文夫はニッポン放送で長く「ラジオビバリー昼ズ」をやっている。彼のラジオでの喋りの基本は談志と円鏡の「歌謡合戦」と、大橋巨泉、野坂昭如、小林信彦の「昨日の続き」である。
談志は数々の名言を吐いている。私のお気に入りはこれだ。「努力なんてのはバカと才能のない奴に与えられた最後の希望だ」(高田文夫『洒落ごころ』太田出版、21頁)。面倒見がいい、だけど親分肌ではなく、かつ日本一の笑芸人評論家にして落語家でもある、そんな高田文夫に談志は東京の笑いの将来を任せたというエピソードもある。
97年9月。食道癌が見つかる。意外なことに談志は身体検査マニア。だから早期に発見できた。記者会見の談志は意気軒昂、内視鏡で除去できる初期の癌だったせいか、事態を笑い飛ばしている。「長生きしたっていいことなんかないよ。モリシゲをみろ」「死んだら永六輔とか青島幸男とか喜ぶだろうなァ」。弟子の志の輔は「見舞金が心配」。高田文夫は「朗報かと思ったら初期でがっかり」。癌で笑いをとる談志。〈全身落語家〉の真骨頂だ。
同年10月9日午後6時半。国立演芸場での「談志ひとり会」。談春のあとに談志登場。突然、客席の半数ほどがスッと立ち上がり、癌克服を祝って拍手で迎える。さすがの談志もこれには破顔一笑。出の恰好のまま高座のまえまで進み出て立ちつくし喜色満面。いい光景だ。膝隠しがある。東京では珍しい。何を演るのかと固唾を飲んで見守る。癌ネタから飛躍に飛躍を重ねて人生論をたっぷり40分くらい語る。「(あんたたち)みんな死なないと思ってるだけで。死ぬんだよ」「アタラに生きてきた奴が死ぬ間際になってガタガタ言うなんざ、オレは認めないね」。手術した前田医院に通っているのは麻酔が気持ちいいからで、「麻薬のヨロコビ」だそうだ。エル(LSD)だと「飛ぶ」が、モルヒネ系は「入ってくる」と言うんだそうだ。入るか入らないかの境目をたゆたうときの気持ちの良さは例えようがないという。
「昨日、ヨシエちゃんお弔いに行ってきた」。内海好江だ。談志によると彼女は学歴的なものにコンプレックスがあり、大学出と結婚。旦那は旦那で、オレは芸人を女房にもらったんだという誇りを漂わせる。好江は、和装に縁遠い旦那にかいがいしく着物をきちんと着せてやり、二人並んで歩く、「そのカタチがね、実に良かったンですよ」と談志。「少女売春のどこがいけねえのか、さっぱりわからねえ」「空中浮遊なんてあるんですかねってコムロ先生(小室直樹)に訊いてみたら、ないと思うからダマされちまうんだって言ってたね。じゃあないんですかって訊いたら、それを調べるのが学問だ、ときたね」。
話に収拾がつかなくなってくる。当人も気づいて、「じゃあ小咄でもやっておこうか」。男がバーでいい女を見つける。
押し問答の末に女は旋毛を曲げてその場を離れる。バーテンが男を叱る。しばらくすると女が戻ってきて男に謝る。「ねえ。一杯付き合いなよ」
「まあ!なんでベッドに行こうなんて誘うんですか!」
「そんなこと言ってやしねえじゃないか」
「実は心理学を専攻していまして、ああ言ったら男の人がどう反応するかをみる実験だったんです。本当に申し訳ございませんでした」
「なに?一晩200ドルだと?」
「――って、こういうハナシなんだけどね」と談志。たぶんこれは談志が集めに集めたアメリカン・ジョークの一つだと思う(これで笑えるかどうかが談志のユーモアを理解する目安なのだが、あなたは笑えますか?)。下手を向いて右の人差し指をスッと袖に向けて流す。膝隠しを引っ込めろ、という合図だ。引っ込めさせて、そのまま噺に入った。
十分休憩して、マクラはさっきの漫談の続きで死と狂気がテーマ。「『なんで酔っ払ってるの?』『呑めねえからだよ』」。「これは向こう(=狂気)をこっち(=正気)で解釈している。でもオレのは向こうから来るんだ。だから大変なの」。この「談志ひとり会」の独特の雰囲気を〈秘密集会〉と言い切る。爆笑。「あんたたちだって人と話、合わないだろ?まあ、オレの会の客だから莫迦じゃないんだろうけど」「いま百人の芸人列伝を書いている」。『週刊現代』『中央公論』の連載のことだ。「夕べフジテレビで7時からドリフターズの特番があった。交番に行くと志村が歌舞伎の恰好なの。ああいうバカバカしいのをやりたい。いま芸をやっているのはドリフターズだけ」。そして噺に入る。「明烏」。「二人組はみんな源兵衛と太助にすることにした」。途中、筋を間違える。
「なにやってんだい」
「いや何食べてるのかなと思って……あ、まだ食べちゃいけないか」
「これじゃ談志もダメだなんて言われるな」と呟く談志。明くる朝、源兵衛と太助が時次郎の様子を見に行く件。「甘納豆食べていいかい?」と談志は客に断ってから(!)太助が食べはじめる。噺が終わる。拍手。談志叩頭。幕が下り、追い出し太鼓が鳴る。幕を上げろと談志が下手に向かって手振りで合図。こんな出来で帰ってもらうわけにはいかない、ということだろう。「謹厳実直な若旦那に町の札付きというステレオタイプは演っていてつまらない」なんて言い訳を始めたが、なに、照れているだけのことだろう。「もっとヘンなのを出したいんだ」。お詫びにと「
98年2月9日6時半。国立演芸場「談志ひとり会」。紫の着物に薄い青の袴、銀のラメ入り(?)のバンダナと派手ないでたち。二ヶ月ぶりに拝んだ顔色はまったく冴えない。青ざめて疲れた顔。ただ肉が垂れているだけならいいが、まるで含み綿でもしているかのように口の両脇の肉がプクリと膨れて垂れ下がっている。「声が出なくてね」とポツリ。小さんの真似をして声が悪くなったという冗談がちっとも笑えないほど元気がない。「あまり余所で言わないでくれ。騒ぎになるといけないから」とも言った。食道癌の術後の経過が思わしくないのだろう。手術直後の「ひとり会」は、〈メメント・モリ〉の高座だった。今夜はいつもの余裕がない。どうやら通院しているらしい。「きょうの準備もできなかったんですよ」。本人は触れなかったが、明後日のフジテレビの特番のタイトルが「談志の遺言状」だ。考えたくはないが、もう「ひとり会」を聴くチャンスはそうないかも知れないと思った。
景山民夫の急死の話題から神について。シャブで次男が捕まった三田佳子の記者会見を批判。自宅でやってたのに気づかないわけがない、噂がどうしようもないところまで広まって警察も踏み込まずにはいられなくなっただけだ、あいつはニセモノ、醜い女だねえ、とバッサリ。この長い〈神〉のマクラから「ぞろぞろ」へ。
お社に祀られている神さまがお供えの酒で一杯やりながら参詣者の願いを聞き届けているさまの描写から入るという導入の演出が憎い。草鞋屋の娘がお参りする。三年間一足も売れない父親はハナから神様なんて信じない。と、そこへ一人、また一人と客が店に来る。天井から吊ってある草鞋を売る。売っても売っても草鞋はぞろぞろと天井から生えてくる。客は引きも切らない。「三列にお並びください!」。閑古鳥が鳴く床屋の主人が、何の騒ぎかと店にやってくる。「ハナがこうでシマイがこうだ」と顛末を聞いた床屋はお社に直行。店に戻ると門前市をなすがごとし。腕によりをかけて髭剃りを磨き、客の顎鬚をアタると、アタったそばから新しい髭がぞろぞろ―――。夫婦ではなく父娘にしたところが『落語事典』と違う。
茶をすすりながら「もう一席
左官屋の金太郎が財布を拾う。中身は三両。書き付けにある大工の吉次郎に届ける。吉次郎は、勝手に落ちた不実な金なんぞいらないと突っぱねる。喧嘩。あいだに入った大家も吉次郎の頑固に呆れ、お白州でこいつに頭を下げさせるからと金太郎をなだめて引き取ってもらう。顛末を知った金太郎の大家も腹を立て、大岡越前守に訴える。双方にお呼びがかかりお白州へ。どちらも受け取ろうとしないので、大岡は一両を足し、二両ずつ受け取らせ、二人の気持ちが気に入ったと食事を振る舞う。「まさかお白州なわけはないよねェ」と、帰りがけの二人を役人が呼び止める演出を考えた談志がここを演じ直す。腹が裂けるほど食ってやる、と鯛にむしゃぶりつく二人に大岡が「食い過ぎるなよ」「おおかァ食わねェ」「どれくらいだ」「たったいちぜん」。
10分の休憩。客の四分の一ほどが脱兎の勢いでロビーに向かう。毎回恒例、著作へのサインの予約だ。
後半。黒の紋付き袴。眠っているときにみる夢ばかりが夢じゃないんだよ、昼だって見てるンだ、でもそれじゃ狂ッちまうから知性とか理性が見せないだけでね、とマクラを振って噺に入る。冬の夜。寺。「おい、いいな」「へい」と盗賊が討ち入りよろしく臍を固める。「百両欲しい~」。「夢金」だ。この導入の新しさ。〈寒い冬の晩〉と〈犯罪〉という設定にさらっと触れておく。粉雪の舞う川に船を出し、儲け話に乗って熊蔵が中州に盗賊を降ろす。「へへ、ざまあみろってんだ」と櫓を漕ぎ出したところで、「アレ?噺がヌケたね。なんだっけ」と談志は湯呑みに手を伸ばして下手を伺う。忘れてしまったのだ。「金のハナシ、まだしてなかったな……
談志は歳をとった。マクラの漫談でも固有名詞をよく忘れる。「聴いてる方もイライラするだろ?」と本人も気を遣うほど。噺も細部を思い出し思い出ししながらやっている。「いつもありがとう」と一礼する談志。拍手。緞帳が下りない。客はどうしていいかわからない。「どうぞどうぞ」と手で退場を促す。「お見届けしますから」。よほど出来に不甲斐ないのだろう。談志に見届けられながら退席するとは。やはり今夜の談志は妙だ。体のこと、芸のことで諦念しつつあるとみた。来るべき時がきた。
(2000年10月)