いまや「伊東家の食卓」、ということになろうか。だが彼の本領は喜劇であり、95年4月6日午後8時に始まったNHK総合「コメディーお江戸でござる」は久々に彼のコントがテレビで観られる貴重な番組だった。ところが先頃彼は番組を降りてしまい、いまは桜金造が座長を務めている。コンセプトは往年の「てんぷく笑劇場」の江戸版、といったところ。初回は、あのテレビ朝日「みごろ!たべごろ! 笑いごろ!!」(76年10月11日~79年3月26日)の黄金コンビ、小松政夫が共演するとあって、万難を排して観たのだが、これが愚にもつかぬ代物だった。伊東のせいではない。台本作家(元木すみお)が悪いのだ。舞台設定が紙屑屋(!)ではコントになりようがない。そこで作家が変わり、役と演者を大幅に増やし、場分けも増やして舞台転換を黒子で見せ、劇場中継っぽいライブ感覚を全面に押し出し、カメラの切り替えを多用したことでスピード感が出るようになった。出演者一人ひとりの〈持ちギャグ〉をしつこく反復させるのも効を奏している。番組は軌道に乗り、現在に至っている。
伊東四朗は生まれが東京下谷、仕立て屋を営んでいた父親が歌舞伎好きで、戦時中に伊東四朗は十五代目羽左衛門の「富樫」を観ている。五人兄弟の長男は喜劇役者志望で、伊東四朗が初舞台を踏んだのも兄の劇団の『青空画伯』という現代劇だった。小学校四年生頃だったという。公演は映画館で行われ、そのおかげで、エノケン(榎本健一)、ロッパ(古川緑波)、シミキン(清水金一)、ローレル&ハーディ、アボット&コステロ、ロイド、キートン、チャップリン、レッド・スケルトンなどの喜劇映画を毎週浴びるように観て育った。戦時中、掛川に疎開していたとき、別の兄と静岡市に『ユモレスク』というクラシック音楽の映画を観に行ったことがあるが、いざ切符を買う段になって隣りの映画館をみるとエノケンと笠置シヅ子の『お染久松』をやっている。兄と喧嘩別れしてそっちに入ったというから、根っからの喜劇好きなのだ。当時の掛川には映画館が四つあり、なかでも「掛川座」は芝居小屋で、伊東四朗はそこで現幸四郎の祖父の舞台も観ている。森繁久彌の映画を観るときには、歌の歌詞を暗闇の客席でノートに取り、二度目に観るときにメロディーを覚えていた。あとで森繁本人に会ったときに、映画でこんないい歌を歌っていましたね、と披露すると、森繁本人は覚えておらず、「嘘つけ!」と言われたことも度々とか。とにかく、伊東四朗はマメなのだ。
就職試験にすべて落ち、早稲田や東大の生協でアルバイトをしていた頃、歌舞伎にはよくモグリで入って観た。はとバスの団体客に紛れ込んだり、大道具の入り口から入ったり。新橋演舞場では売店の売子や売店に卸すトラックの運転手や架空の記者になりすましてもぐりこむ。ストリップのフランス座には当時、なんと学割があった。通いつめてすっかり客の有名人になり、ストリップの合間にコントを演じていた石井均に声をかけられて一座に入ったのが喜劇人伊東四朗誕生のきっかけである。
その頃、新宿フランス座では石井均が座長格で、戸塚睦夫(後のてんぷくトリオ)、八田圭介、水谷史郎、石田英二、三波伸介(後のてんぷくトリオ)がいた。池袋フランス座は長門勇に池信一。浅草はフランス座に渥美清、谷幹一、関敬六、ロック座に立原博、八波むと志、佐山俊二、浅草座には海野かつらが出演し、ほかにもカジノ座があった。伊東四朗は浅草では一日がかりでストリップ小屋を回り、コントを見続けた。いちばん印象に残っているのは渥美清がやった山下清だという。渥美清といえば〈寅さん〉のイメージしかない人が多いだろうが、彼は筋金入りのコメディアンである。物真似をさせたら天下一品だと証言する人は数多い。
58年に軽演劇の石井均に誘われて「笑う仲間」に入り松竹演芸場に出演する。、62年に三波伸介と戸塚睦夫と「てんぷくトリオ」を結成した。当時は「脱線トリオ」が売れに売れていた。「『脱線』の次なら『転覆』だ」ということで、転覆=てんぷくトリオとなったのである。ここのところはもう少し詳しく説明しよう。最初は「三波戸塚伊東トリオ」という名前だった。「ちゃんとした名前つけなきゃ。ぐうたらでダメだよ」と人に諭されて、「ぐうたらトリオ」に。日劇に出る際に「そんな名前じゃ丸の内(日劇)には上げられない。東宝で考えてやろう」。そして脱線→転覆→「てんぷくトリオ」、と、こうなったのだ。
65年の日本テレビ「九ちゃん!」(坂本九である)でテレビのレギュラー出演が始まる。そこで出会ったのが作家の井上ひさしだ。てんぷくトリオは井上ひさしが書いたコントを盛んに演った(井上ひさし『井上ひさし笑劇全集』講談社文庫)。この番組で、ジャズは歌えるタップは踏めるで全国的に名を知らしめた。その後、「おしん」の父親役で性格俳優としても頭角を現し、82年に三波伸介が鬼籍に入ると同時に「てんぷくトリオ」は解散。その後はテレビ、映画、舞台で活躍している。
伊東四朗がブレイクしたのは、1976年に始まった上述のテレビ朝日「みごろ!たべごろ! 笑いごろ!!」だ。もともとはキャンディーズ中心の番組だったのだが、途中で解散し、引退してからは伊東四朗がメインの爆笑番組になった。なんといっても凄かったのが、小松政夫と組んだ、あの伝説の〈電線音頭〉でのベンジャミン伊東だろう。これには多少の説明を要する。
伊東四朗と小松政夫が初めて共演したのは、TBS土曜昼間の生放送番組『お笑いスタジオ』(70~73年)。そして75年4月5日(土)、午後0時半~1時半、TBS『笑って!笑って!!60分』がスタートする。レギュラー出演者はずうとるび(現在「笑点」で座布団運びをやっている山田隆夫がいたグループ)と、ジェリー藤尾一家、コメディエンヌのエバ、そして伊東四朗と小松政夫である。じつはこの番組、ずうとるびがメインキャストで、伊東と小松は最初の二回だけ、ずうとるびの盛り立て役として出演する予定だった。ところが二人の掛け合いが抜群に面白く、結局、ずうとるびは途中降板しても二人は最後まで残ることになった。
『笑って!笑って!!60分』の目玉は、なんといっても、小松政夫演じる〈小松の親分さん〉である。子分役の伊東が、落ち込んでいる親分の小松を慰めようと「ズンズンズンズン3、4、小松の親分さん!」と小松をノセる。これでノッた小松が放つ言葉が凄い。「ニンドスハッカッカ!ヒジリキホッキョッキョ! ガーッチャマンに負けるな、負けるなガーッチャマン!」。このナンセンスなギャグは一世を風靡した。
波に乗った伊東四朗と小松政夫は〈お!ジョーズ〉なるコンビを結成、他の番組にも出演し始める。そのひとつが土居まさると桂三枝がメイン司会者を務めた、75年10月スタートの日曜夜8時のNET『ドカンと一発60分!』だ。あの〈電線音頭〉は、じつはこの番組で、桂三枝が歌ったのが最初である。民謡「あんたがたどこさ」をアレンジして作詞したのは放送作家の田村隆。桂三枝とキャロライン洋子が新婚夫婦でイチャついているところに隣近所が乱入、小松政夫がギンギラギンのジャケットにマイクを司会役になり、コタツの上で桂三枝が〈電線音頭〉を歌い踊った。
この番組は76年3月に終了するが、半年後にテレビ朝日でやはり日曜夜8時に始まったのが「みごろ! たべごろ! 笑いごろ!!」である。コンセプトは〈加山雄三とキャンデーズを中心に歌とコントでつづるバラエティー〉だったが、なんといっても伊東と小松版の〈電線音頭〉が完全に番組を乗っ取ってしまった。ちなみに電線マンのキャラクター・デザインを手がけたのは、仮面ライダーの生みの親、あの石ノ森章太郎である。振付担当は西条満。電線マンの着ぐるみに入っていたのは番組のADだった秋山武史。地方ロケのときに、一度だけ別のADが入ったことがある。その人は、なにを隠そう、今の北野武の事務所「オフィス北野」の社長、森昌行である。
さて、〈電線音頭〉である。東八郎扮するオカマっぽい踊りの師匠が生徒のキャンディーズとハンダースに稽古をつけている。そこにいきなり「軍艦マーチ」が高らかに鳴り響き、ふすまがガバッと開いて電線軍団団長・ベンジャミン伊東(伊東四朗)と、司会の小松与太八左衛門が登場。「支度をせんか支度を!」とヒステリックに叫ぶ伊東。ハンダースがあたふたとコタツと「電線音頭」と書かれた軍団旗をセッティング。全員が「ミンミミミーン、ミンミンミン、ミンミミミーン」と安っぽいファンファーレを口で奏で、キンキラキンのジャケツトの小松が司会をし、狂乱の宴が始まる。
本日はニギニギしくご来場まことにありがとうございました。
あたくし四畳半のザット・インターテイメント、小松与太八左衛門でございます。
歌は流れるあなたの胸に……。
いま歌謡界の王座に燦然と光り輝く、お待ちどうさま、ベンジャミン伊東!
伊東の顔のアップ。「人の迷惑かえりみず、やってきました電線軍団!それではまずいきなり、今日はあの娘からいってみよう!」。会場は憑依状態になり、全員で「電線音頭」を歌う。
♪チュチュンガチュン
チュチュンガチュン
電線に スズメが三羽とまってた
それを猟師が鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ
ヨイヨイヨイヨイ オットットット
ヨイヨイヨイヨイ オットットット♪
この時、伊東は40才を過ぎている。正気の沙汰ではない。どちらかといえば表に出るより引いて笑いをとるタイプだった伊東が、これで豹変した。いわゆる〈バケた〉というやつである。この〈狂気〉は絶頂期のコント55号、果てはスラップ・スティックの神様、マルクス・プラザーズのコントを髣髴させた。76年3月にNHK『お笑いオンステージ』を降板したのがこの狂気を生んだのかもしれない。
舞台の伊東四朗を知らない人は多いのではないだろうか。彼は佐藤B作や小松政夫、そして三宅裕司と喜劇の舞台をやっている。中でも近年のものでは三宅裕司と共演した「いい加減にしてみました」がいい。1997年7月2日から13日まで。場所は新宿・SPACE ZERO。コントのオムニバスである。二人の縁はその十数年前にテレビでやった「いい加減にします」での共演から始まる。伊東はボケ、三宅はツッコミつつもボケに侵されていく、というパターンのコントをちりばめた。オープニングは、三宅をリーダーとするバンドが威勢よく生演奏。とそこに、劇場に爆弾が仕掛けられたという知らせが三宅のもとにもたらされる。「大丈夫です。いま、爆弾処理班の人がきますから」と客を安心させつつ、動揺を隠せない三宅。そこにやってくるのが〈元人事課の爆弾処理係〉伊東四朗だ。伊東は、いざ爆発物を撤去しようとすると決まったとたん〈持病の癪〉の発作が出て、にっちもさっちも行かない。
舞台公演ではたいてい遅れてくる客がいるものだ。果たして、このオープニング・コントの途中で入ってきた客がいる。客イジリを始める伊東と三宅。「この設定、説明しなきゃ!」「なんで爆弾があるのに入ってくるんだ!」伊東と三宅は対談で、このときのことをこう語っている。
- 三宅
- ただ、確実に受けるところは必ずありますよね。それがないと不安でしょうがないですから。
- 伊東
- それはね、ポイントはちゃんとあるんですよ。そうじゃなくて、あれ?ここなんで今日は受けないんだろ? とか、今日、なんでここ、受けてるんだろうって、同じところで反応が違うと、じゃあ毎日受けるようにしたいなぁとか、うっかり受けてるんだったら、なくしたほうがいいかなとかね、いろんなことを、まぁ考えてるんですよ、これでも。
- 三宅
- オープニングの「爆弾処理班」はほとんど毎日うまくいきましたね。いいタイミングで遅れてきてくれるお客さんがいて(笑)。
- 伊東
- そうそう。「爆弾が仕掛けられてるところにわざわざ入ってくるとは何たる馬鹿者だ」って。その反対に出ていくタイミングがいいお客さんもいて受けたね。
(伊東四朗『この顔で悪いか!』集英社、162-163頁)
「ジャズは歌えるタップは踏める」と書いたが、これは誇張ではない。ホンモノなのだ。「九ちゃん!」という番組では、江利チエミ、島倉千代子、西郷輝彦といったプロの歌手の前で歌わされるのだ。プロデューサーの井原高忠(日本テレビのバラエティの生みの親)は伊東の台本にこう書いた。「コメディアンというものは、歌い手よりも歌がうまいものなのですよ。伊東様」。ちゃんとやらなければ金は払えないぞ、という脅しだ。「ワンコーラスとツーコーラスの間の16小節はスイングしているだけじゃなく、鹿内孝と踊ってもらいます」なんていう注文までつけられたという。今のバラエティ番組で考えられるだろうか。おふざけではなく、マジで、演らされるのである。
伊東四朗は抜群の記憶力の人でもある。森繁久彌や加藤登紀子で有名な「知床旅情」。あれには別バージョンがあるのだ。記録は一切ない。伊東が森繁からじかに歌って聞かせてもらったのだという。おそらく作詞もモリシゲらしい。こんな歌詞だ。
オホーツクの海原 ただ白く凍て果て
命あるものを 暗い雪の下
春待つ心をペチカに燃やそう
哀れ東〔ひんがし〕にオーロラ悲し
最果ての番屋に 命の灯〔ひ〕ちらちら
トドの鳴く夜は、愛し子が瞼に
誰に語らむ この淋しさを
ランプの火影に 海鳴りばかり
台東区生まれの伊東四朗は生っ粋の下町人間。彼の口から〈ぞろっぺい〉なんていう言葉が聞けるのが嬉しい。〈ヒ〉が言えず、〈シ〉となるのがご愛嬌。
「いい加減にしてみました」も、小松政夫とやった「エニシング・ゴーズ」もビデオ化されている。最後の下町喜劇人をとくとご覧あれ。さらに詳しい評伝は、彼との付き合いが深い小林信彦の『喜劇人に花束を』(新潮文庫)にあたっていただきたい。
(2000年10月20日)