芸人列伝

上岡龍太郎
日本のスタンダップ・コメディアン

舌がよく回らない芸人のことを業界では〈石臼〉(=下が回らない)という。上岡は、〈石臼〉でない芸人のなかでも、日本にはもったいないほどの芸の幅をもった芸人である。

読売テレビの「パペポTV」という深夜番組をご記憶だろうか。上岡龍太郎と笑福亭鶴瓶が、なんの打ち合わせもなく、いきなりスタジオの客の前でだらだらと喋るというだけのトーク番組。長寿番組だったが、私の記憶違いでなければ、98年8月に終了、翌週から「鶴+龍」と名を変えて、「パペポTV」とほぼ同じフォーマットで新装開店した。それも上岡の芸能界引退で幕を閉じた。

1996年11月18日。日本テレビの「スーパーテレビ」で「笑いが生まれる瞬間 天才芸人の秘密公開」という番組があった。「パペポTV」の上岡龍太郎と笑福亭鶴瓶をドキュメンタリーで追っかけるという無謀な企画。なぜ無謀か。上岡が素直に応じるわけがないのは、ファンなら火を見るよりも明らかなのだ。実際、スタッフは楽屋で彼にまともにカメラを向けて上岡の叱責を買っている(これは“ヤラセ”ではない)。「パペポTV」の楽屋風景をカメラでおさめたのは多分これが最初で最後。快挙である。二人とも30分前に楽屋入りする。同じ楽屋でごく短い時間顔を合わせるが、鶴瓶が白岩プロデューサーと化粧台で何やら話をしながら話題を箇条書きにメモにとるのに対し、上岡はただブラブラしてすぐフラリと外へ出てしまう。つまり、スタジオのステージに立つまで、二人はまともな打ち合わせすらしない。週に一度、本番でいきなり話を始める、まさに出たとこ勝負。あの楽屋で、二人は互いの空気を察知し、勝負をしているのだ。ニューヨーク公演も果たしたのだが、やはり同じだ。舞台に立つ直前まで、二人は顔を合わせもしない。二人の、芸人としての矜持がそうさせるのだ。

上岡は好き嫌いがはっきり分かれる芸人だと思う。衒学的。似非インテリ風。ケチをつけたい向きもあろう。彼の弟子、吉治郎が今年2000年3月に青春出版社から上梓した上岡語録集『引退』のサブタイトルはこうだ。「嫌われ者の美学」。関西芸人の業を知り抜いている上岡は〈嫌われ者〉を自認している。

〈嫌われ者〉がアイドルになるパターンの見本は、アメリカのスタンダップ・コメディアンを観るとわかりやすい。スタンダップ・コメディーとは簡単に言えば、マイク一本で客と勝負する漫談だ。しかし日本の漫談とアメリカのスタンダップ・コメディーは毒の多さが違う。たとえば『ビバリーヒルズ・コップ』で映画スターになる前のエディー・マーフィーの差別ネタ満載のライブ。これは『エディ・マーフィー/ロウ』としてビデオ化されている。恋人に操を立てている、あるいは立てられていると信じているオメデタイ男女の神経を逆撫でする放送禁止用語を速射砲で撃ちまくるマシンガントークが圧倒的。眉を顰めながらもついつい惹きこまれて終わりまで観てしまう。私はたまたま後半の一時間しか観ていないのだが、少なくともその一時間は編集なしのぶっ通しで喋り続けていた。客席から「(黒人なのに)どうして踊らないんだ」と怒声が飛ぶ。その野次に対して、ディスコでのイタリア人との喧嘩話を紹介して白人のリズム感の情けないほどの欠如を一気呵成に喋り倒す。『ビバリーヒルズ・コップ』は彼の魅力の1パーセントさえ伝えていない。会場を埋め尽くした客たちの怒声、罵声をものともせず、世の中の欺瞞をマイク一本で暴き立てていく。

あるいは〈アメリカのビートたけし〉的存在のエリック・ボゴジアン。彼の芸風を知るにはオリバー・ストーン監督の『トーク・レディオ』が手っ取り早い。ボゴジアンはスティーブン・シンギュラーの原作に惚れて自ら戯曲を書き(これをストーンが買いとった)、映画のシナリオも書いて、ラジオのDJ役で主演もこなした。役どころはまさしく「ビートたけしのオールナイトニッポン」のアメリカ版。毒舌に次ぐ毒舌。弱者、強者、有名、無名を問わず、滅多斬りにする。

「パペポTV」は、台本なし、放送禁止用語連発(ピーと消されるが)、客とのかけあいなど、すべての面でアメリカのスタンダップ・コメディアンの舞台を日本のテレビで見せてくれた希有な番組だった。上岡は〈差別〉ということについてとりわけ敏感である。確信犯なのだ。著書『上岡龍太郎かく語りき』(ちくま文庫)で、彼はこう述べている。

東京やとこれがバカうけするんですよ。もうその『ハマーショルド事務総長』と言うだけで、ワッと笑う。でもこれは、結局我々への差別やとおもった。「こいつら、漫才師やのにあんなこと知っとる。新聞の一面に出た、しかも国連の事務総長の名前をスーッと言いよった。 (141頁)

ほかにも名言がある。

大人たちがどれだけボロクソに言おうが気にする必要は全くないということをプレスリーは教えてくれました。

「前衛」というのは後からついて来ている人たちの前にいるから前衛なのであって、誰もついて来てないのは、ただのはみ出し者なんです。(17頁)

ご存知の通り、上岡はノック、フック、パンチの「漫画トリオ」のメンバー、パンチだった。「漫画トリオ」盛衰史は、高田文夫編『笑芸人 Vol.2』(白夜書房)に詳しいのでそちらを参照されたい。漫画トリオ解散後、パンチこと上岡は77年に講談師・旭堂南陵に弟子入りし、旭堂南蛇の名で高座に上がり、立川流にも入門、立川右太衛門を名乗った。芝居好きでもあり、「上岡龍太郎劇団」を旗揚げ。85年には「変化座」を旗揚げする。

2000年3月20日。誕生日のこの日、上岡は「芸能界に思い残すことはなにもない」と引退を表明。その後の彼はどうするのか。溯ること3年前の1997年9月27日。有楽町マリオン・朝日ホールで「第13回特選立川落語会 立川談春真打昇進披露公演」が行われた。番組は―――

開口一番  立川國志舘  狸賽
落語  立川志らく  子ほめ
落語  立川志の輔  酢豆腐(?)
講釈  上岡龍太郎  リュー上岡伝
落語  立川談志  疝気の虫
仲入り
真打披露口上  談志・上岡・志の輔・志らく・談春・談四楼(司会)
落語  立川談春  大工調べ

上岡の 「リュー上岡伝」は彼得意の講談による自伝だ。恰好は黄土色の上衣とグレーの袴に膝隠し。横山ノックと初めて会った1960年からちょうど40年目になる2000年3月20日の誕生日を最後に「この世界=芸能界」からきっぱり足を洗い、アメリカのゴルフ学校に一年通い、シニア・プロとして第二の人生を歩む、という夢を、後世の歴史家が語る構成だった。ゴルフのルールに歴代のトーナメント優勝者、オーガスタのコースに通じていなければ面白くもなんともない話を延々と聞かされ、若い聴衆は時計を見やったり居眠りを決め込んだりしだした。スコアを正しくつけてタイガー・ウッズに優勝を譲るという、徹頭徹尾自画自賛の物語に、正直な話、私も辟易した(浅はかだったと、後で気づくのだが)。2003年の大阪市長選挙に立候補し、2007年に再選、「2008年には大阪オリンピックがございますから」と決めつけ、最終聖火ランナーを自ら務め、お好み焼き用コテにタコ焼きが乗った聖火台めがけて、火のついたゴルフボールを打ち点火するのだそうだ。

上岡があえて退屈な講談で臨んだのには訳がある。私は、帰途でようやく気がついた。あの晩はあくまでも談春真打披露の場。談春に花を持たせようという、上岡の親心なのだ。

上岡はおそらく芸能界に復帰しないだろう。ゴルファーとして、あるいは「あの人は今」的な番組にちょっと顔を出すくらいが関の山かも知れない。だが、もし彼がアメリカに生まれていたら、おそらく国民的なスタンダップ・コメディアンになれただろう。それほど、彼の毒は垢抜けている。