妙な名前ですね。落語家です。しかも、もっとも危険な落語家です。なぜ危険なのか。公共の放送では絶対流せないネタばかりをやるからです。
私が彼の高座を観たのは1997年7月31日。池袋演芸場の昼夜二部構成の「余一会二派連合サミット」でした。「余一会」とは、毎月末日に開かれる寄席です。寄席の興行は十日単位で行わます。その十日間は、ときには落語協会、ときには落語芸術協会というふうに、それぞれの団体に所属する落語家だけが出演するしきたりです。そうした慣習を打ち破り、いわば他流試合をやろうじゃないか、ということで生まれたのがこの「余一会」です。
高座の袖から出てきた快楽亭ブラック。驚きました。なんと着物の柄がアメリカの星条旗。じつはブラックにはアメリカ人の血が流れているのです。エヘラエヘラとしまりのない笑顔で座布団に座ります。その姿は〈麻薬中毒のC.W.ニコル〉という感じ。
開口一番「きょうは古典やりますよ」。ブラックは新作ネタで有名なのです。ところが今回は古典。さて何をやるのかと思って聴いていると、映画ばかり観ている与太郎と、そんな甥を叱る叔父の話。与太郎はシナリオライターを目指しているという設定。「どんなのを書いているんだ」と叔父が問うと「首提灯。いきなり一時間半や二時間のシナリオは無理なので落語の台本から始めてるんです」と与太郎。で、主人公はというと「14歳の少年で…」。ここで客席は大爆笑。もうおわかりですね。ブラックのネタは、その名の通りブラックそのもの。下ネタ、差別ネタ、なんでもあり、落語のカーニバルです。
「余一会」は翌日もあり、私は二夜続けて通いました。二日目のブラック。やはり星条旗の着物。会場のじいさんばあさん連中がどよめきます。「外人か」「うん、外人だ」。噺のマクラはいたっておとなしいものでした。年配の客を見てさすがにネタを軽いものにしたのかなと安心したのも束の間、「たがや」ときました。商人が武士に首を刎ねられる、その首がぽーんと宙に上がり、花火見物の客が思わず「た~がや~!」と叫ぶという噺です。
快楽亭ブラック版の主人公は…言うまでもありません。墨田川の花火。頭の弱いバカな男の子(!)が荷を担いで橋にさしかかるが、こんな人混みに荷を担いでくるやつがあるか、と見物客に窘められ、にっちもさっちもいかなくなる。「ごめんなさい。ボク、頭が悪いんで、きょうは花火だってこと、忘れてたんです」。向こう岸からは馬上にふんぞり返った侍の酒鬼薔薇聖斗様。「どいたどいた!」と人混みを分けさせて橋の真ん中へやってくる。見物客はサッと道をあけた拍子に男の子がポンと橋の真ん中に躍り出てしまい、はずみで荷を押さえていた竿がはじけて酒鬼薔薇聖斗様の鼻ッ先をかすめてしまう。「そこな無礼者。ひッ捕らえてやる」と刀を抜く酒鬼薔薇聖斗。「どうせ斬るんでしょ。斬るだけじゃなくて、口を裂いて学校への文句を書いた紙を挟んで目もくり抜いて校門に晒すんでしょ。バカだけどそのくらいはわかってるんですよ。さあやって下さい」「黙れ黙れ。ひッ捕らえてやる」。お付きの者が三人抜き身で躍りかかるが、腰が抜けたのが幸いして男の子は次々に斬り倒してしまう。酒鬼薔薇聖斗は槍をつかんで水平斬り。首がポーンと飛ぶ。それを見ていた野次馬が「さーかきーばらー!」。寄席でしか味わえない暗黒の笑いの世界。それが快楽亭ブラックの世界です。
噺のブラック・ユーモアだけではなく、寄席の常識を覆すような実験もしています。1995年1月24日に文芸坐ル・ピリエで「羽団扇」という噺を演ったときに、宙乗りをしたのです。ワイヤーロープで宙を舞うのです。1997年5月17日に国立演芸場で三遊亭円窓が「猫の忠信」で〈落語界初の宙乗り〉をやったというのが定説なのですが、実はブラックの方が先でした。98年10月21日の「快楽亭ブラック独演会」でもふたたび宙乗りをやりました。噺上方ネタの「善光寺骨寄せ」(東京では「お血脈」で知られています)。前回の宙乗りがうまく行かなかったらしく、今回は市川猿十郎が監修。しかも芸術祭参加作品でした。そして2001年9月22日午後6時から、浅草・東洋館で「24時間喋りっぱなし、快楽亭ブラック毒演会」という前代未聞の落語会を開きました。1982年に桂文福が24時間河内音頭を歌い続けるという企画がありましたが、落語を24時間続けるというのはおそらく史上初の試みです。ギネスの規定によれば2時間に10分だけ休めば記録として認定されるそうです。6時間ずつの四部構成で、第一部は「知られざるブラックの世界/ネタおろし&滅多にやらないネタ特集」。第二部は「R-18指定/成人落語アワー」。第三部は「浅草早朝寄席 古典落語をたっぷり」。第四部は「ブラックパワー全開!感動のクライマックス篇」。まったくよくやるよ、ですね。
ここで豆知識を一つ。実は快楽亭ブラックという落語家は昔もいたのです。イアン・マッカーサー著『快楽亭ブラック 忘れられたニッポン最高の外人タレント』(講談社)によると、初代快楽亭ブラックことヘンリー・ブラックはオーストラリア人で〈日本初の外人タレント〉でした。父親のジョン・ブラックがユニークな人で、「ジャパン・ヘラルド」「ジャパン・ガゼット」の編集に携わり、横浜で日刊紙「日新真事誌」を発刊して社説、編集部への投書を取り入れ、新進気鋭の政治家への後押しをして「大阪毎日新聞」にも評価されます。駅での新聞販売の草分けでもありました。自由民権運動に関り一時期、左院行政部門顧問を務めます。ヘンリー・ブラックは当代随一の講釈師、松林伯円と出会い、ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』の翻訳が出る八年前に講談「世界一周オチリヤ草紙」を発表します。日本に来たのは1865年で横浜でした。1972年に東京に移転し、1876年に浅草の芳川亭で初舞台、手品を披露します。1877年頃、自由民権運動に関わる講演会を催す一方、1885年頃にはあの三遊亭円朝と人気を二分するほどになり、築地(=外国人居留地)に定着、以後十年を過ごします。1891年〈快楽亭ブラック〉を名乗り高座に上がります。その他、化粧品に関する本を出版したり、小説『岩出銀行血汐の手形』を書いて、「事件解決の鍵に指紋を使った日本最初の探偵小説」と江戸川乱歩に評されるという才能もありました。
現在の快楽亭ブラックはもっぱら落語で勝負しています。師匠はあの立川談志。妙に納得できるではありませんか。