芸人列伝

イッセー尾形
表と裏のあいだ

イッセー尾形は舞台を見るに限る。ご存知の通り、彼はひとり芝居の芸人だ。何人もの登場人物が出てくるコントをやるが、どれも、ある特定の人物を通して描かれる。

ふつうの芸人は、楽屋で支度をしている間は(素)、あるいは〈裏の顔〉をもつ、つまり本名の人格だが、舞台に立つと芸名の〈表の顔〉になる。だが、イッセー尾形はちがう。

97年11月18日午後7時。東京渋谷の小さな老舗の芝居小屋、ジァンジァン。『イッセー尾形のとまらない生活』。きょうが初日。

奥の角に真っ白な四角い舞台。舞台は客席に向かってくの字の形に突き出ている。隣あった二つの辺から、おなじように白い板が壁になっている。四角い白い箱を思い描いてほしい。その天井と横の板を二枚外した格好だ。舞台装置はなにもない。空っぽの、真っ白い空間があるだけだ。

ガムラン、ポロンポロンいう音楽が聞こえだし、照明がスッと落ちる。

闇の中、舞台上手の黒い幕から人影がサッと入り、ポンと明かりが入ると、役になりきったイッセー尾形が、そこにいる。

今回の出し物は(タイトルは私が勝手につけてみる)―――

1. ホテル街

調子がいい安っぽいサラリーマン。30代後半か。白いコート。帰宅途中に通ったホテル街で、会社の後輩のカオリンと邂逅。「なにやってんの?」。遠くの自動販売機で課長がタバコを買っている。「え?! そういうことだったの?」。カオリンは決心がつかず、やってきた課長も、どうも気まずいらしく、飛んで火にいる夏の虫とばかりに、男は課長に近所の屋台のおでん屋に引っ張りこまれる。男はなぜか(!)二人の間に腰を下ろしてしまう。気まずい空気。頓珍漢な会話。カラオケに行こうと課長が言い出し、話を合わせつつ、女の携帯電話でイシカワという同僚を呼びつけ、彼に役割を押しつけて退散。先輩風を吹かす三流サラリーマン。喋りながら足をフラフラ動かす、腰が定まらない造形。

2. 下見

建築現場の大工が、建設中のアパートの一室に大の字になって居眠りしている。突然、目覚める。初老の夫婦が下見に訪れたのだ。「まずこれを見てよ」とベランダから、なんにもない風景を見せる。遠くにポツンと見えるのが池袋のビル。「今後百年間はまわりになんのビルも立たないよ。隠居にはもってこいだ」。定年後の住まいを探す重役夫婦と思っていたが、妻が、芝浦に務めている警備員だという。途端に大工は〈同じレベルの人間〉とみなし、態度がふてぶてしくなる。夫が、風呂が狭いと文句をいう。「65年働いた結果がこの風呂かって?そういわれりゃあ、そうかもしれないけど、こんなもんだと思えば、どうってことないですよ」。大工と男の雰囲気が険悪になる。「帰ってくれ!……とは、アタシは言えませんけどね」。黙々と木材を鋸で切りはじめる(イッセー尾形は建築現場で長く働いていた。だからこの仕草は経験者にしかできないリアルな動き)。「いやなら帰って下さいよ。アタシは100メートル先に、おんなじアパートを建てるンだ!」。

3. バーのママ

黒っぽいロングスカート、暗色系だがラメ入りの派手なショール(?)、やはりラメ入りのスカーフ、黒いロングヘアー(鬘)にカチューシャという陰気なママが、眼をしょぼつかせ、口をとがらせて、バーのカウンターの向こうに突っ立っている。

雇われママ。岩手の小さな町らしい。

東京からきたという三人のサラリーマンが相手。一人ひとりを順番に見つめ、眼をしばたかせ、口をとがらせ、相手の返答には、細かくウンウンと肯くか、首から上をグッと後ろに引いて、あら意外だわ、という感じの反応をするか、そのどちらか。気を遣っているつもりで、まったく気を遣っていない、いかにも場末の酒場にいそうなママ。「何にします?ギネス?……そんなもの飲むの?……お客さんは?スコッチ? サントリー?……そんなもの飲むの?……お客さんは?地酒?」。いきなり客を放りだし爪を見つめて「どうして金回りが悪いのかしら、アタシ」「男運が悪いからなのよね、金回りが悪いのは」。「花巻。アソコは遊べるのよ」。奥にいるママが酒をもってくる。「あたしはおビール」といって拝む仕草がいい。ギネスはどうやら、ないらしい。「遅いわね、ギネス」。

4. 講習会

安っぽい三つ揃いのスーツ。ポマードべたべたの髪。もみ上げ。眼鏡。 「きょうみなさんにお集まりいただいたわけは……どうして人は騙されるの、か……どうしてわたしたちは騙されたのか、あるいは、これから騙されるかもしれないか、ということをお知りになりたいからである、とご理解申し上げているわけであります」。大袈裟な身振り。いちいちタメる語り。ここぞというときに客をジッと見つめる視線。胡散臭い男。「みなさんは……善人だ!善人だからァ……騙されるんです」。羽毛蒲団、消化器、鍋などを買わされ、その都度、「子供のため!孫のため! と思ってしたことなのに、自分のことだけ考えていると後ろ指をさされてはいませんか!」。「人間は莫迦じゃない。寄付ということを考えた」。「スイカが余りましたよ、野菜持っていって下さい、みなさんは、昔、そういう豊かな生活をしていらっしゃった。違いますか?だから、騙されるんです!」。「そういう昔のことを思い出せませんか?現代科学は、こういうことでもお役にできるものを発明してくれました。きょうご紹介する商品は、ハイ、こちら!」―――。

オチは早々に分かった。詭弁を牢する、エセ辻説法師の雰囲気が見事だ。ときどき水を飲む仕草を入れたり、声のトーンを高く、やさしくはじめておいて、間を置いてから、低くドスの利いた声で早口ではじめるあたりの呼吸。すばらしい(今夜いちばん爆笑を誘った)。

5. (?)

グレーのスーツ、赤いネクタイの若いサラリーマン。「ここはドイツ!ドイツ人の接待に失敗し、上司とはぐれ、道に迷った男!」、とひとりで説明しながら、路上で奇怪な動きをする。電話をしたいが、周りの店は軒並み閉まっている。タクシー!と思うとパトカー。地面にくず折れるが「警察に駆け込めばよかったんだ」。支社へ送るファックスの文面をひとりでぶつぶついう。段々人格が壊れていく。「ファックス、送らない!」「これだけ騒いでも誰も助けてくれない。ドイツは安全な国なのか、恐いのか、分からないぞ」―――。

てっきり、人格セミナーかなにかで芝居をさせられているのかと思ったら、違った。つまらない。終わってから気づいたが、この軽さと短さといい加減さは、寄席でいう〈膝替り〉の役目を果たしているのかもしれない。

6. 伝説のフォークシンガー

渋谷の街角。黒のTシャツのうえにボタンをかけないチェックのシャツ、白い綿パン、スニーカー、長い金髪(鬘)、大きなニットの赤い帽子、青っぽい薄いサングラス。開いたギターケースをまえに、ギターの弾き、歌う。

♪コンビニのレジで
愛をくださいといったら
茶パツの男に殴られた
気分の差ってあるよね
その差が大きい♪

街行く人は素通りしてゆく。パラパラと降ってくる雨にビニール傘をさして立ち尽くすシンガー。「もう少し強く降ってくれればやめるんだけどなあ」。「え?渋谷公会堂? 駅の方だと思いますよ……根拠はなにもないんですけど」。ハードな曲。「きょうのオレは/馬をも殺しかねない」。街で欲望で眼をぎらつかせている女と出会い「馬殺しを忘れてしまいそうだ」。「朝起きたら/象に乗った子供が/こっちを見ている/オレはナイフを取り出して/象の首に真一文字」。客が立っている。「え?ええ……そうですよね。馬を殺したくなることって、ありますよね……。お客さん、ぼくのファン第一号ですよ。親に電話しなきゃ、ハハハ」。58歳の男。頼まれもしないのに、知っていそうな曲を弾いてみる。「好きにならずにいられない」。「いい曲っすよねえ。こういう曲、オレは作れないなあ」。男が金をくれるという。「あ、いいっすよ、まだ駆け出しですから……あ、そうですか。じゃあ……ジカにいただいちゃおうかな。いいのかな手でもらったりして。五百円。中学校以来です、お小遣いみたいなものもらったのは。あ、それじゃ。どうも」―――。

渋谷の街角にいそうだから、恐い。うまい。手持ち無沙汰に、どこを観るともなくボーッと突っ立っている風情がいい。

 長々と公演の様子を描写してみたが、じつは、イッセー尾形の舞台でなにより面白いのは、ネタとネタのあいだの着替えだ。ネタが終わると、舞台左手にある姿見と化粧品がある棚に向かう。。シャツやスーツを釣るドレッサーもある。そこをぼんやりと照明が照らしている。鏡をじっと覗きこんで、眉を描き、ジェルで髪をキメる姿を、客が固唾をのんで見守る。

そうなのだ。

彼は、楽屋を舞台に持ち込んでいるのだ。だが、楽屋そのものかというと、そうではない。なにせ、観客の目の前で鬘をかぶり、化粧をし、着替えるのだから。この瞬間を観客は固唾をのんで見守っている。まだ役になりきれてはおらず、ネタの人物になる途中のイッセー尾形がそこにいる。〈素=裏の顔〉でもなければ〈表の顔〉でもない、どちらともつかない、そのあいだにたたずむ〈半虚構の存在〉なのである。この存在を命名する仕方を、私は知らない。

(2000年10月17日)