この二人の芸歴は長い。三十年以上になるのではないか。だが夫婦ではない。そして、この数年間でバケた。「バケる」とは芸能用語で、いわば「ブレイクする」という意味だ。
東京の寄席、新宿・末広亭や上野・鈴本演芸場、浅草演芸場などによく出ている。東京以外の人にはCDをお勧めする。『あした順子・ひろし 爆笑漫才集』(日本コロムビアCOCJ-30118)。浅草・木馬亭でのライブ三本、「僕の社交界」「恋いで苦労をしてみい」「娘の結婚式」収録。
二人はこのところ絶妙な味わいを漂わせている。吹けば飛ぶような枯れススキがごとき、天然ボケっぽい先輩ひろし(元々歌手を目指していた)に、後輩の順子が徹底的に無理難題を押しつけてイジりまくる。無理矢理踊らされたり歌わされたりするひろしの滑稽な動きがたまらない。そこに絶妙の間でツッこむ順子。このタイミングが一秒でも狂ったら彼らの漫才は台無しになる。
高座に出てからのお決まりのパターンは、客席に一礼して、二人同時に(!)、ようこそいらっしゃいましたとかなんとか挨拶をする、というもの。しまいに「うるさいわよ!」と右手でツッ込む順子。シュンとなるひろし。そこからネタに入る。
思うに高齢のひろしは運動神経がない。それを逆手にとってネタを考えるのは順子。二人はどの事務所にも所属していない。生活も別々。宇多田ヒカルが流行っていれば、「オートマティック」の振りをひろしに付けたりする。勉強熱心なのだ。ひろしが「温泉で羽根を延ばしたいなあ」というとすかさず順子が「行きなさいよォ。体、縮みっぱなしなんだから」と間髪を入れない。着いた温泉旅館では女将役の順子が「まあよくいらっしゃいました。人間が来たの、三年ぶりよォ」。お食事にしますか、それともお風呂、と順子が訊く。「その前に、呼んでもらいてえなあ、アレ(=芸者)。分かるだろ?」とひろし。「ご家族ですか」と順子。「オレは病人かよ!」とひろし。とまあ、こんな調子で続くのだ。
彼らの高座にはまったく嫌みというものがない。東京っ子独特の粋な芸。テレビの下らないタレントの愚にもつかない〈トーク〉やバレエティ番組に辟易している向きにはお勧め。さあ、寄席に行きましょう!
(2000年10月16日)
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二〇一四年十一月三日、ひろしが老衰のため亡くなった。享年九十三。近年はひろしが舞台に立てず、順子は内海桂子とコンビを組んだり、最近は昭和こいるとコンビを組んで寄席に出る。朝日新聞に訃報が載った。
漫才師・あしたひろしさん死去 浅草を中心に活躍
2015年12月4日19時44分あしたひろしさん(漫才師、本名大野寛〈おおの・ひろし〉)が11月3日、老衰で死去、93歳。葬儀は近親者で行った。
相方のあした順子さんとの男女コンビ「あした順子・ひろし」として長年、東京・浅草を中心に活躍、息が合ったしゃべりと絶妙の間で人気を博した。
(朝日新聞)
<訃報>あしたひろしさん93歳=漫才師「順子・ひろし」
19:52あしたひろしさん93歳(本名・大野寛=おおの・ひろし、漫才師)11月3日、老衰のため死去。葬儀は近親者のみで営んだ。
東京都台東区生まれ。1960年に漫才コンビ「南順子・北ひろし」でデビュー、その後「あした順子・ひろし」に改名した。「男と女のはしご酒」に合わせて踊るなど、舞台いっぱいに動き回る爆笑漫才で人気を集めた。
(毎日新聞)
どちらの記事もあまりにも短い。『東京かわら版』平成二十年二月号にひろしと順子のインタビュー記事が掲載されたので、二人の経歴をかいつまんで紹介しよう。二人が出会ったのは昭和二十三年ごろ。順子は日本舞踊家だった父親の楽団〈市山寿太郎とその楽団〉に在籍し、ひろしは別の楽団にいた。あるときひろしの楽団に踊り子が足りなくなり、助っ人として順子に頼んだのがきっかけで知り合った。当時ひろしはショーの一環としてメケメケの丸山明宏のように女の格好をして歌をうたっていたので順子はてっきりオカマだと思った。順子は十四歳かそこらの少女。出会った時は一回こっきりの助演のつもりだったからその後長くコンビを組むなど夢にも思わなかった。
順子は十七か八の時恋愛結婚して子どもを産んだがすぐに別れた。ひろしもその後見合い結婚した。二人は一緒に仕事をしたが、順子はひろしをオカマだと思っていたくらいなので恋愛感情はわかなかった。ひろしは「気持ちのいい人」で、順子の父が気に入り、「ひろしさんから来る仕事ならおまえ行っていいよ」と後押しするくらい父はひろしを信頼した。
コンビを組んでしばらくのあいだはキャバレーを回った。一日に三回ステージを務める。毎回コントやマジックなどネタを全部変えるので引っぱりだこになり大いに売れ、ひろしはがっぽり稼いで家を建てた。仕事で一緒になった漫才師のリーガル天才・秀才の天才が順子に「それだけしゃべれるんだから(コントより)漫才やったほうがいいよ」と勧めた。一ヶ月も経たぬうちに二人は漫才を始めた。順子は「コントをやめたら仕事が来なくなるんじゃないかと」と心配したが、若いからどうにでもなるだろうと決断した。
順子は六歳から日本舞踊を習い、そのあとは新舞踊、さらにバレエも習った。だからステージ上での格好がよい。立ち姿と身のこなしが美しい順子。それに対してぎくしゃく動く不格好なひろし。このギャップがおかしみを生む。十八番のネタ、「男と女のはしご酒」の替え歌をうたって踊り出し「男はあなたヒロシ♪」「女は君さジュンコ♪」「せつなさが胸にくる……気持ちが悪いわよ! ゴキブリが悶えてるんじゃないんだから!」と順子がつっこむ。対照的な二人だから笑いが生まれる。
ひろしがボケで順子がツッコミのスタイルが確立したが、以前はひろしがリードしたこともあった。しかし「それじゃ面白くないの。この人は全面的に弱々しい感じがするから」と順子が述懐する。ひろしが芸能界に入ったのは十七歳のとき。しかし舞台には出ず大東映画の撮影所で荷物運びをやっていた。兄が将棋の大野源一(九段)だったこともあり将棋指しになろうと思った時期があったが、順子と出会う直前に「食っていくために」芸人の道を選んだ。順子にコントや漫才を教えたのはひろしだ。だからステージで順子がひろしを「この人が師匠。あたしが大師匠」と客に紹介する定番のフレーズはもちろん嘘なのだが、昭和三十一二年ごろ奇術をやっていたときだけは順子が師匠だった。
初対面のときから二人は心が通い合った。順子はひろしの顔を見ただけで「疲れてるのね、どうしたの」と妻よりも早く気がつく。ひろしの妻は嫉妬するどころか「うちの馬鹿な亭主をよろしくお願いいたします」と順子を信頼する。
六十年以上コンビを組めば当然喧嘩することもある。でも順子は次の日になると忘れる。ひろしも怒ると「うるせー、このやろうー」と怒鳴って帰るが、喧嘩別れに発展したことはない。その秘訣は「心、理解、いたわりがあったから」と順子は語る。
二人の漫才を聞けて幸せだった。今でもときどきBS日テレ「笑点デラックス」で十五年くらい前に「笑点」に出演したときの二人の高座が再放送される。ぜひご覧ください。
(2015年1月11日)