ごあいさつ 2016年

広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百三十四回

佐和子はセスナ機に積んであったアルカリイオン水のペットボトルを二本取りだして一本を筒井に渡し、アルカリがんがごろごろ転がる浜辺に腰を下ろして水を飲んだ。セスナ機の室内灯が消えた。

「あら、アルカリ乾電池かんでんちが切れたみたい。アルカリ金属きんぞくはないかしら。リチウムとか」
「電池の作り方を知ってるの?」
「うん。あんまり飲み過ぎるとアルカリ血症けつしようになるわよ」

浜辺にアッケシソウとハママツナ、ほうれん草がが繁茂している。

「野生のほうれん草なんて初めて見たよ」
アルカリ植物しよくぶつなの。アルカリせいの土でよく育つのよ。なんだかアルカリ性食品せいしよくひんが食べたくなっちゃった。果物食べる?」
「うん」

佐和子はセスナ機からリンゴを二つ持ってきて、筒井と並んでアルカリ性土壌せいどじようの浜辺にすわり、リンゴを囓りながらアルカリ蓄電池ちくでんちの製造法を頭の中でおさらいした。筒井はアルカリ長石ちようせきを拾っては海へ投げて無聊を慰めた。アルカリ土類金属どるいきんぞくさえ入手できれば電池が作れると佐和子は思った。

「煙草が吸いたいなあ」

筒井が呟くと「あるわよ」と佐和子はセスナ機から葉巻を持ってきて、「吸い過ぎるとアルカロイド中毒になるから気をつけて」と忠告した。筒井はアルカリイオン水をごくごく飲み、葉巻を吹かし、過呼吸に陥った。

「ほらご覧なさい。アルカローシスよ」
「う、うう……なんだって?」
「アルカリ血症よ。息を吐きなさい」

筒井が思いきり息を吐くと飲んだばかりの水も吐き出した。佐和子はアルカンすなわちパラフィンで作った紙で筒井の口を拭った。

「大丈夫?」
「うん。ありがとう」
「少し体を動かしたほうがいいわ。あの岬まであるで行きましょう」

佐和子は筒井に肩を貸して立ち上がり、筒井の体を支えて歩き出した。

「そういえば、このあいだあるがみに会ったよ」
「歩き神って、人間をそぞろ歩きや旅に誘い出す神様のこと?」
「うん」
「どこで?」
「有明海」

過呼吸から恢復したばかりの筒井はあるの赤ん坊のようによちよち歩き、二人はあるに歩いて岬に達した。筒井はアルキド樹脂じゆしの塗料を塗った小さな灯台に体をもたせた。

「あなた……アルギニンが不足してるんじゃない?」
「アルギニンって何?」
「魚の白子の蛋白質プロタミンに多く含まれるアミノ酸よ。あなたのあるはどう見てもアミノ酸不足」

佐和子は灯台を見上げた。白いコンクリートに段ボールやプラスチックやガラスなどがごたまぜになっていた。

「これは……ロシアの彫刻家アルキペンコの作品だわ」

佐和子は興奮して、ほかにも作品がないか、あたりをあるまわった

「さっきの話だけど……」

筒井が苦しい息遣いで言った。

「何?」
「作者」
「作者って? 『言葉におぼれて』の?」
「ああ。作者はどこにいるんだ」
「知らない。でもきっとこの瞬間もどこかでわたしたちを監視してるよ。たぶんアルキメデスを登場させたくてうずうずしてる」
「アルキメデスって、アルキメデスの原理げんりの?」
「そう。アルキメデスの公理こうりって覚えてる?」
「聞いたことがない。学校で習ったかなあ」
「aとbを正の数とすれば、aがどんなに小さくてbがどんなに大きくても、 b<naとなる自然数nが存在するっていう公理」
「俺は数学が大の苦手だ」
「わたしも。根っからの文系」
「俺と同じだ」
「でも作者はひねくれ者だから、理系の人にしかわからない言葉をわざとわたしたちに喋らせるの」
「たとえば?」
アルキルとか」
「何それ」
「知らないよ。アルキルとかと関係あるんじゃないの。ほかにもアルキルフェノールとかアルキルベンゼンアルキルベンゼンスルホン酸塩さんえんアルキンアルギンさんとか、わけのわからない言葉を口走らせるつもりよ」
「勘弁してほしいなあ。ちんぷんかんぷんだ」
「あれこれ考えてもしかたがないわ。あるのが一番」

筒井は佐和子に支えられて岬を歩きながら大空を見上げた。イギリスの神学者アルクインが眺めたのと同じ空だった。視線の彼方にはうしかい座の首星アルクトゥールスが輝いているはずだが昼間なので見えなかった。空と海と大地。世の中はとどのつまりこの三つから成り立つのではないか。学生時代に哲学の授業で習ったことを思い出した。哲学は万物のアルケーすなわち原理、始源を求めることに始まったと、たしか教授が言ってたな。西洋中世のアルケミーすなわち錬金術も万物の根源を研究する学問だ。

「もういや!」

突然佐和子が叫んだ。

「どうした?」
「さっきから頭の中にアルケンっていう言葉が浮かんで消えないの」
「あるけん? もう歩けん?」
「茶化さないで! 化学用語。別名オレフィン。二重結合を一つ持つ不飽和鎖状炭化水素の総称。化学式はCnH2n。付加反応を起こしやすくて、エチレンやプロピレンはは化学工業中間原料として重要」
「……なんの話だ?」
「知らないわよ! 作者が勝手にわたしの頭に入りこんで喋らせてるの」

筒井は作者に憎しみを抱いた。俺を助けてくれた佐和子を苦しめるとは。ろくでなしの作者はアルゴナウタイを運んだアルゴー船もろとも海の藻屑になればいい。南半球の海の底から南天最大の星座アルゴーを拝めばいいんだ。あるいは様式建築で部屋の壁の一部を入り込ませたアルコーブに押しこんでアルコール漬にしてやろうか。そうすればペルセウス座のベータ星アルゴールをもう二度と拝めなくなるぞ。アルコール依存症いそんしようにさせるのもいいな。アルコール飲料いんりようをがぶがぶ飲ませてアルコール温度計おんどけいを喉に突っこんでやる。アルゴール型変光星がたへんこうせいを観測したいから命だけは助けてくれなんて抜かしても無駄だ。アルコール中毒ちゆうどくにさせるぞ。アルコール九十六のスピリタスをがぶ飲みさせて全身まるごとアルコール発酵はつこうさせて火をつけてアルコールランプの代わりにしてやる――筒井は事無ことなこと考えてほくそ笑んだ。

2016年12月31日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百三十三回

「とんだ占い師だ、貴様亜流ありゆうだな」

どこからか亜硫酸ありゆうさんの匂いが漂ってきた。亜硫酸塩ありゆうさんえんだろうか。筒井が訝しがると亜硫酸ありゆうさんガスが室内に充満した。鼻を刺す臭気に襲われた看守が思わずしゃがみこんで悶絶すると女が走ってきて亜硫酸ありゆうさんナトリウムを看守にぶちまけ、亜硫酸ありゆうさんパルプをばらまき、鍵の束を奪って筒井の檻の鍵を開けた。

「さあ、早く」

女は有無を言わさず筒井の手を引っぱって外に連れ出し、セスナ機の助手席に押しこみ、自ら操縦桿を握った。セスナ機はアリューシャンに向かって雲の上を飛び、アリューシャン海溝かいこうを眼下に望み、アリューシャン低気圧ていきあつを突っ切ってアリューシャン列島れつとうの中心ウナラスカ島のダッチハーバーに着陸した。飛行機から降りた筒井は海のようを茫然と眺めた。

よう、本当はヨーロッパに連れて行きたかったけど気流が烈しくて西には飛べなかったの。ごめんなさいね。――自己紹介がまだでしたね。有吉ありよしです」

女が挨拶した。筒井は留置場から脱出できて、生きているのが快いと思った。

「有吉さん、ありがとう。――あれ? 有吉って、もしかして小説家の有吉佐和子ありよしさわこさん?」
「はい」
「『紀ノ川』『恍惚の人』『複合汚染』の?」
「ええ」

佐和子は海を眺めながら朝鮮の民謡アリランを歌った。

「なぜ助けてくれたんですか」
「同業者だからよ。同じ小説家が無実の罪で捕らわれるなんて許せない。あの看守がもし抵抗したらこのアリルアルコールを浴びせてやるつもりでした」

佐和子は透明な液体が入った瓶を見せた。

「強烈な臭いなのよ。これを浴びせればあいつはわずら、生きているのを苦しく思ったに違いないわ」

筒井は奇妙な安らぎを覚えた。このまま佐和子とわたりたい、ずっと一緒に年月を過ごしたい。ついさっきまで独房の中で、生きているのがつらいと思っていたのが遠い過去に思えた。

「佐和子さんは……あ、下の名前でお呼びしても……?」
「構いませんよ」
「……小説家になったきっかけは?」
在原ありわら家の家系に興味があったの」

「ありわら?」
「平城天皇の皇子阿保親王の王子に賜った姓よ。きっと在原寺ありわらでらと因縁があると思って奈良県天理市の寺に行ったの。住職が在原滋春ありわらのしげはる在原業平ありわらのなりひら在原行平ありわらのゆきひら人となりを教えてくれたわ」

佐和子は亜燐酸ありんさんが入った瓶をもてあそびながら、「そんなこんなで小説家になったのでありんす」と言った。

「ありんす言葉を使うとは……ひょっとしてありんすこく、新吉原の花魁?」
「小説が売れないころは泥水稼業に身を落としました」

佐和子は化学薬品の瓶を並べて、「イー、アル、サン、スー」と中国語で数えた。

「平城天皇がこの世に、生まれるに至ったのが小説家人生の始まりよ。天皇がのは尊いわ」

佐和子は波が寄せては海を見つめた。

「それにしても、どうしてわたしが独房にいるとわかったんですか」
人に教わったの。『言葉におぼれて』という小説がネットで公開されてるのよ。主人公は筒井というあなたそっくりの人」
「或る人って誰ですか? わたしが知らない人ですか? あるいは……」
「当人はアルヴァレズと名乗ってたわ」
「アルヴァレズ?」
「アメリカの物理学者。原子核や素粒子に関する実験的発見で有名になって、加速器や泡箱の開発と改良に貢献してノーベル賞を受賞したんですって。でも外見はどう見ても『おんな』の有島武郎なの」
「有島武郎が『言葉におぼれて』の作者なんですか」
「違うわよ。早合点しないで。あなたが拘留されているのを教えてくれた人よ」
「俺は小説の登場人物なのか……」
「作者はわたしも知らないわ。噂では有賀あるがとかいう人らしいけど」
「有賀……聞き覚えがない」
アルカイスムを好む作家らしいわよ。旧仮名づかいと旧漢字を使って『抑鬱亭日乘』っていう日記も公開してるんですって。いまどき旧仮名づかいなんてアルカイックよね。本人はアルカイック芸術げいじゆつのつもりなんでしょうけど」

佐和子はアルカイックスマイルを浮かべた。

るがうえその作者ときたら生まれつきの粗忽者で、そそっかしいのを鼻にかけて、生きているあいだ、かぎ全力で粗忽の道を究めるんですって。笑っちゃうわよ」

佐和子は鼻で笑った。

「俺も『言葉におぼれて』を読んでみたいな」
「駄作よ! 斜め読みしかしてないけど、歴史上の人物と神話の神がひょこひょこ出てくるの。きっとそのうちギリシア神話のゼウスとニンフのカリストの子アルカスも登場するわよ。ついでに江戸中期の歌人有賀長伯あるがちようはくも出てくるに決まってる。物語の舞台もしょっちゅう変わるの。あなた、ぼやぼやしてるとアルカディアに飛ばされるわよ」
「アルカディア?」
「古代ギリシアの南部ペロポネソス半島の中央丘陵地帯。高山で他の地方から完全に隔離して、牧歌的な楽園の代名詞になった土地」
「桃源郷か。悪くない」
「何言ってるの! 作者が聞いたら調子に乗るわよ! ぼんやりしてたらアルカディウスに殺されるわ」
「誰?」
「東ローマ帝国初代皇帝。父テオドシウス大帝の亡き後、弟ホノリウスと一緒にローマ帝国を分け合って東半分を統治した人」
「そんな物騒な男とは関わり合いたくない」
「関わり合いたくないって言っても、作者はるがなかからあなたを主人公に選んだのよ。あなたはるかきかるかの存在なの」

2016年12月30日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百三十二回

名無しの権兵衛はアカネ科の常緑小低木蟻通ありどおの材木を放り出し、世阿弥の能『蟻通ありどおし』を舞い始め、蟻通明神ありどおしみようじんの怒りに触れた紀貫之が歌を詠んで神を鎮める場面を演じた。筒井は驚き、記念にスマートフォンで撮影しようとズボンのポケットをまさぐったがスマホは見当たらず、どこで紛失したのかどころがわからない。少年は舞い続けた。こいつは絶対りとし芸能や文化に通じているに違いない。少年が演じる紀貫之は蟻通明神の怒りをなぐさの小声で歌を詠んだ。歌の文句はよく聞きとれないが、陰暦五月二十五日の有無の日は村上天皇の忌日に当たるから政治を行なわないとかいう内容だった。

「君はいったい何者だ」
「名無しの権兵衛だよ」
「嘘だろ。能役者の倅か」
「違うよ」
「親は能役者だろ」
「違うよ」

少年はんだ、つまり否定し続けた。

「能を上手に舞うなんてふつうの人にはできないぞ」
「知り合いのおじさんが踊るのを見ているうちにならっただけだよ。何度も見るとんだ」
「そのおじさんはプロの役者か」
「知らない。阿利那礼河ありなれがわで生まれたって言ってた」
「どこ?」
「朝鮮の鴨緑江おうりよくこう

名無しの権兵衛はの材木をよっこらしょと肩に担ぎ、すたすたと歩き始めた。筒井は生きているのがつらく、にく感じた。名前すらない子どもが世阿弥の能を見事に踊る。それにひきかえ俺はどうだ。ただの三文文士じゃないか。

在根良ありねよ対馬つしまの渡り渡中わたなかぬさ取り向けてはや帰りね」

少年は万葉集をぶつぶつ呟きながら有明海の岸辺を遠ざかった――と思いきや、誰が掘ったのか落とし穴に落ちた。ありあなからつつみくずれる。筒井は駈け寄った。ありあまきにつくがごと、命を助けてやれば何か褒美をもらえるかも知れないという魂胆だった。筒井は穴の中に手を伸ばした。

「ほら、つかまれ」

ありおもいもてんとど。少年は必死に手をつかみ、筒井が穴から引き上げようとした途端、住民が騒ぎを聞きつけて集まってきた。

りのくだり、また落とし穴だ」

人々があり熊野参くまのまいで筒井を取り囲んだ。

「犯人はおまえか」
「え? いや、穴を掘ったのは俺じゃない」

筒井は事の顛末をりのことごと説明した。

「人相が悪いな」
「絶対こいつの仕業だ」
「間違いない。りのすさに穴を掘ったんだ」

筒井は気を取られて思わず手から力が抜け、名無しの権兵衛は再び穴に落ちた。

「落としやがった」
「やっぱり犯人だ」

ありとうから蟻の群が這い出てアリノトウグサ科の多年草あり塔草とうぐさにたかり、一匹が筒井のズボンの裾からパンツの中に入りこみあり門渡とわたを這い回った。群衆はふくれあがって筒井を囲み、ありすきもない

「濡れ衣だ。俺はこの子を助けようと……」
「ふんづかまえろ!」

住民たちはありのひふきすなわち桔梗の花を踏んづけて筒井に飛びかかり、老若男女がりのまが、入り乱れて筒井を取り押さえた。

「俺は無実だ」

筒井は少年が落とし穴にはまった経緯をりのまにまりのままに語った。男がありすなわち梨を頬張りながら「アリバイはあるの?」と詰問した。

「俺は……スマホでこの子の写真を撮ろうと思って、スマホを探したが在場所ありばしよがわからなくて……」
「何わけのわからんこと言いよっと。天寿を全うしたい、てたいなら正直に白状しろ」
在原ありはらさん、警察を呼ぼう」
「そうだな。こんな悪人はまじきもの、生きながらえるなど言語道断だ」
「警察は勘弁してくれ」
「警察は勘弁しろ? さては余罪があるな」
「ない! ないけど警察は困る。見逃してくれ」
「ふん、れた口をききよる。通り一遍のありべかかりだ」

穴の底に落ちた名無しの権兵衛は蟻枘ありほぞの角材をたくみに組み合わせて梯子を作り、穴からひょっこり顔を覗かせた。

「子どもは無事だぞ!」

群衆が歓声を上げた。

「こいつは有馬ありまの刑務所にぶちこんでやれ」
「名案だ、有馬ありまさん」

人々は筒井をがんじがらめにして警官に引き渡した。筒井の身柄は神戸市北区に送検された。

在米ありまいだ。食え」

留置場で臭い飯を食いながら筒井は「有馬温泉ありまおんせんで一っ風呂浴びさせてくれ」と看守に怒鳴ったが、看守は地面を這い回る蟻巻ありまきすなわちアブラムシを踏みつぶして聞こえぬふりをし、競馬新聞を見て有馬記念ありまきねんの予想に夢中である。

「競馬が好きなのか。俺は占い師だ」

筒井が口から出任せを言った。

「え? 在方ありまさ、易者なのか」
「うん。俺の予想は百発百中だぞ」
「本当だな。嘘を言うとためにならんぞ」
「任せろ。有馬にちなんだ物品を集めろ」

看守は有馬菅ありますげ有馬草ありまそうすなわち金蘭きんらんを束にして持ってきた。

「よろしい。そのまま

筒井が命じると看守は素直にそのままじっと待ち続けた。筒井はしばらく考え事をしてから口を開いた。

「まだ何かが足りない……そうだ、有松絞ありまつしぼりを調達しろ」

看守は愛知県の有松と鳴海なるみ付近一帯で産する絞り染の木綿織を同僚から調達した。

「孝徳天皇の皇子、有間皇子ありまのみこと安土桃山時代のキリシタン大名有馬晴信ありまはるのぶの遺品、それから有馬名産の有馬筆ありまふで有馬山ありまやまの山菜も用意しろ。室町末期の有馬大和守乾信が始めた剣術の流派有馬流ありまりゆうの指南書もだ。なに? そんなものはありません? 競馬に勝ちたくないのか! めぐって探せ!」

筒井はミツギリゾウムシ科の甲虫擬蟻象虫ありもどきぞうむしが這い回る檻の中から叫んだ。看守はとりあえず有馬に縁があるものをかき集めて持ってきた。

「よかろう。ぜんぶ束にして風呂敷で包め。包んだら風呂敷に有文字ありもんじを書け」
「ありもんじ?」
「漢字で『有』と書けばいいんだよ。書いたら風呂敷を持ち上げて三遍回って放り投げろ。落ちたのが北なら一枠、東なら二枠、南なら三枠、西なら四枠が一着だ」

看守は言われた通りにその場で三遍回って包みを放り投げた。風呂敷包みは南に落ちた。

「よし。一着は三枠だ」

看守はラジオをつけて競馬中継を聞いた。有馬記念の最終レースが始まった。一着は……一枠だった。

ありゃ? ありゃありゃ

筒井はすっとぼけた。

「南だから三枠に賭けたのに、ありゃこりゃ、あべこべじゃないか!」

看守が怒鳴った。

2016年12月29日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百三十一回

「ありがとうございます。あの二人には手を焼いていました」

筒井が礼を言うと五六人の男が乗った小舟が有明海の沖から近づき、「そいつはペテン師だ」と口々に叫んだ。有栖川宮は「やばい」と呟きそそくさと退散した。舟が岸に着き、男たちは陸に上がって頼まれもしないのに順番に自己紹介した。

「わたしはサモスのアリスタルコス。古代ギリシアの天文学者。地動説の先駆者である」
「拙者はサモトラケのアリスタルコス。アレクサンドリアの文献学者だ。ホメロスその他のギリシア詩人の作品を注釈、校訂した」
「吾輩はアリスティッポス。同じく古代ギリシアの哲学者。ソクラテスに学び、のちにキュレネにキュレネ学派を創始した。快楽主義者だ」
アリストクラティックなギリシアの哲人にこの世で会えるとは!」

アランが興奮して目を輝かせた。

「小生はアリストテレス
「わあ、本物だ。わたしはアリストテレス主義しゆぎです」
「本当か」
「はい。あなたのことなら何でも知ってます。プラトンの弟子であると同時に批判者。プラトンは事物の本質をイデアと名づけて超越的なものとみなしましたが、あなたはそれを形相エイドスと名づけ、存在者に内在するものと考えました。形相と質料は存在者を構成する不可分の二原理で、前者は現実態、後者は可能態とも呼ばれます。アテネにリュケイオンという学校を開き、その学徒は逍遥ペリパトス学派と呼ばれました。研究は論理、自然、社会、芸術などあらゆる方面に及び、「形而上学」や「自然学」をはじめ、論理学、倫理学、政治学、詩学、博物学などに関する多数の著作があります」
「うむ。なかなかよく存じておるな。褒美にウニをやろう」

アランはウニを恭しく受けとった。ウニはアリストテレスの提灯ちようちんすなわち口の中の咀嚼器官をもぞもぞ動かした。舟からさらに男が二人降りてきた。

「俺はアリストファネス。古代ギリシアの喜劇作家だ。ペロポネソス戦争前後のアテナイ動揺期に際し、政治、社会、学芸などについて辛辣無比な諷刺を『雲』『平和』『鳥』『女の平和』『蛙』などの作品で試みた」
「我こそはアレクサンドリアの文献学者アリストファネス。ホメロスを校訂した」

哲学者のアランは哲学の本家たちに拝謁し感激のあまりピョンピョン跳びはねながら握手した。哲学に興味がない名無しの権兵衛は相変わらず木材をいじりながら有寸ありすんすなわち材木の実寸を指で測っている。

「皆さんはどうして有明海にいらっしゃったのですか」

アランが訊ねるとアリストテレスが答えた。

荒磯ありその波を研究するためだ」
「波の荒い磯ですか。でも有明海は遠浅で、波はほとんど……」
「ない。有磯海ありそうみを求めてわざわざギリシアから来たのに、せっかくの努力が水の泡だ」
アリゾナに行けばいいんじゃない?」

筒井が口を挟んだ。

「アメリカのアリゾナ州は海に面しておらぬ。たわけ者め」

アリストテレスが一喝した。

「我らは荒磯波ありそなみ荒磯松ありそまつに打ち寄せる浜を巡って荒磯廻あらそみをしたいのだ」
「佐賀の有田ありたがお勧めです」
「有田は内陸だよ」

名無しの権兵衛が横から割りこんだ。

「じゃあ、えーとえーと……和歌山の有田ありだがいい。有田みかんの産地だ。海に面してますよ」
「そうか。ありがとう」

アリストテレスは礼を述べ、男たちは舟に乗り、水準器を取りつけた定規のアリダードで舟が水平を保っているのを確かめた。

「有田みかんは美味か」

アリストテレスが筒井に訊ねた。

「おいしいよ。しかも豊富だ。有高ありだかだけでも何万トンもある」
りたきままに食べたいものだ」
たけの金をはたいて思う存分食べて下さい」
「しかし、みかんの表面に蟻茸ありたけ、小さいきのこが生えてたらとても食えん」
「大丈夫ですよ。水で洗えば落ちます。有丈小丈ありたけこたけの財産をはたく価値がありますよ」

舟は沖へ向かった。筒井とアランはアカザ科の一年生帰化植物有田草ありたそうが咲き揃う岸辺にって見送った。舟が見えなくなるとアランは海辺をたもとお、つまり歩き回り、「俺はアリストテレスに会ったのだ。本人に会ったのだ」と繰り返し独りごちた。

「あ、有田焼ありたやきだ」

材木で地面に穴を掘っていた名無しの権兵衛が陶器を掘り当てた。

在千潟ありちがたありなぐさめて行かめども家なるいもいいふかしみせむ」
「難しい言葉を知ってるな」
「万葉集だよ。死んだ母ちゃんに教わった」

名無しの権兵衛が材木で蟻塚ありづかを壊すと蟻塚虫ありづかむしがうようよ這い出てきた。

「俺も連れて行ってくれ」

アランはいきなり海に飛びこみ、舟に向かって泳いだ。さすがは現代の哲学者、アリストテレスたちと行動を共にするのがかわしいと筒井には思われた。アランが舟に追いついたのを見届けた筒井は有明海の穏やかな景色を眺め、ここにを定めて暮らすのも悪くないと思った。名無しの権兵衛は蟻継ありつぎすなわち蟻枘ありほぞの方式で接いだ木材をいじって遊んでいる。少年はがおで木材の遊びに夢中だ。名前さえないこの男の子はいったいどういうわけでこの世にいたのだろう。少年は蟻塚の横に生えたアブラナ科の観葉植物アリッサムりったけの力をこめて引っこ抜いた。

「花をどうする気だ」
蟻吊ありつりに飾るんだ」
「ありつり?」
「天井の釣り木の下に蟻枘ありほぞを作って、天井野縁のぶち竿縁さおぶち蟻溝ありめぞを掘って両方をくっつけた仕口しくちだよ」

筒井にはなんのことやらさっぱりわからない。

「いま言った、りつる仕口に取りつけるんだ」
「……?」
ていに言えば天井の飾りつけだ」

名無しの権兵衛は地面を見つめたまま答えた。筒井は畏怖の念を覚えた。名前さえないこの少年は振舞いこそ白痴じみているが、万葉集を淀みなく口にしたり建築用語を操ったりするところから察するに、じつはこの世のりとらゆることに通暁しているのではあるまいか。りと物事を知り尽くしているのではないだろうか。

2016年12月28日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百三十回

「助かったよ。ありがとう」

筒井は礼を言った。

「見事な腕前、刀の切れ味も抜群。さぞかし高値で売れるんだろうね」
「いや、俺の刀の価値を理解してくれる人は五人に満たない。刀だけでは食っていけないから副業に有毛検見ありげけみの仕事をしている」
「ありげけみ?」
「年貢検見法の一種だ。検地帳に登録された田畑の等級にかかわらず、坪刈により年々の収穫高を検査し、それに応じて年貢の収納高を決めるのだ」
「よくわからないが、平たく言えば税金の取り立てだね」
ごとを申せば、もう三日間何も食っていないのだ」

腹ぺこの有国はへなへなとくずおれた。アランが駈け寄り肩を貸して立たせた。

「腹が減ったくらいで弱音を吐くな!」

大八車のような大砲を引っぱって見知らぬ男がやって来て怒鳴りつけた。

「誰だ」

筒井が訊ねた。

有坂ありさかだ。有坂成章ありさかなりあきら。生まれは岩国。軍人で技術家、陸軍中将だ。明治三十一年にこの有坂式速射野砲を発明した」

有坂は得意げに大砲の筒を撫でた。

「わしは一週間飲まず食わずだが、この通りピンピンしておる」

有坂は「おいっちに、おいっちに」と腕と足を曲げたり伸ばしたりして体操を始めた。

「腹が減っては戦はできぬとは女々しい戯言。軍人の風上にも置けぬ」
「俺は軍人じゃない」

有国が反論した。

「刀を持っているくせに軍人ではないと申すか。さては文系だな。貴様のような腰抜けは一般音韻論と国語音韻史の国語学者有坂秀世ありさかひでよの手助けでもしろ」

有坂はほうらんの両脇の張り出した蟻先ありさきを両手でつかみドレスのように広げて女々しくおどけてみせた。板のそりを防ぐために木目と直角に鳩尾形の溝を掘り、細い木を嵌めこんだ蟻差ありさしの板切れを弄んでいた名無しの権兵衛が興味本位で大砲をいじくり回すと点火して、ズドンズドンズドンと速射砲が三回発射し、弾丸が筒に詰まって大砲は爆発して木っ端微塵になった。

「この餓鬼! 何をしやがる! 貴様のせいでわしの大砲がこの有様ありさまだ」

有坂は大砲のかけらを拾い、怒りと悲しみの入り交じった涙をこぼした。

ありさま、あなたさま、ごめんなさい」

名無しの権兵衛は縮こまって謝った。

「ごめんで済めば警察は要らぬ。罰としてアリザリンを入手しろ」
「アリザリンって何?」
「美麗な紅色の色素だ。アカネの根から採れるが。アルカリに溶解して赤紫色になり、さまざまな金属塩と結合すると異なった色の不溶性色素を作る。染料として使えるのだ」
「そんなこと急に言われたって、おいら、どこに行けばいいのか……」

有坂と名無しの権兵衛は睨み合って小一時間ほど、すなわちそのままの状態で過ごすと、別の男が来て有坂に声をかけた。

「アリザリンと大砲では釣り合わない」
「なんだ、おまえは」
有沢ありさわです」
「ありさわ?」
有沢広巳ありさわひろみ。高知生まれの経済学者で統計学者。東大の教授です。戦後復興期の傾斜生産方式を提唱し、経済政策。産業政策に主導的役割を果たしました」
「学者は引っこんでろ」
「まあ、そうおっしゃらずに……。アリザリンは阿里山ありさんに行けばたくさん採れるよ」

有沢は名無しの権兵衛に言った。

「阿里山ってどこ?」
「台湾、嘉義市の東にある山だ」

名無しの権兵衛の目が輝いた。

「おいら、一度台湾に行ってみたかったんだ。死んだ母ちゃんの故郷だ」

少年は板の裏に取りつけて反りや分離を防ぐ蟻桟ありざんを撫で回しながらりし日の母親の姿を思い出した。土の中から蟻地獄ありじごくすなわちウスバカゲロウの幼虫がひょっこり這い出て、すぐ穴にもぐった。

「母ちゃんが生きたままの姿、ありしながらの姿だったらなあ」

名無しの権兵衛が涙ぐむと、もうひとり男がやって来た。

「君は親孝行だね」
「おじさんは……?」
有島生馬ありしまいくま。洋画家だよ。小説家有島武郎ありしまたけおの弟だ。君の似顔絵を描かせてくれないか」
「いいよ」

有島生馬はさらさらと似顔絵を描いて渡した。

「これをテレビ東京『なんでも鑑定団』に出品しなさい。先週の放送で国宝級の曜変天目茶碗が発見されて番組は上を下への大騒ぎだ。これを持ちこめばさらに評判をとるよ」
りしの母ちゃんに見せたかったなあ」

人や物が集まるしょを好むのか、巣穴から蟻の群が出てきて蟻と共生する蟻植物ありしよくぶつの表面にたかった。から続々と這い出てくる蟻をキツツキの一種蟻吸ありすいが長いくちばしで次々と食べた。

「鑑定団で高値がついたら大砲を弁償しろ」

有坂成章が怒鳴った。

「いたいけな子どもに何を言う」

有島生馬が少年の肩を持った。

「子どもだろうが大人だろうが俺の発明品を壊した代償は払ってもらう」
「慈悲の心がないのか」
「絵描き風情に何がわかる」
「なんだと」

二人がいがみ合うと、ひと目見ただけでやんごとない身分とわかる男がやって来た。

「朝っぱらから大の大人が大声を出すとは何事です」
「誰だ」
有栖川宮ありすがわのみやです」
「え? 皇族の……?」
「はい。四親王家の一つ。寛永二年後陽成天皇の皇子好仁親王が高松宮と称し寛文十二年に有栖川宮と改称。現在は高松宮が祭祀を継いで下さっています」

有坂成章と有沢広巳、有島生馬は恐れ入ってお辞儀し、尻尾を巻いて退散した。

2016年12月27日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百二十九回

関係ないのかよ、と喉元まで出かかった言葉を筒井はぐっと呑みこんだ。

有王ありおうは『狂乱のオルランド』のモデルだ」

アランが言った。

「『狂乱のオルランド』って、イタリアのルネサンス期の詩人アリオストの騎士道物語か」
「そうだ」

名無しの権兵衛はがっくりと肩を落とし、木材の端に蟻枘ありほぞを作りもうひとつの木の上から嵌めこんで仕組んだ蟻落ありおとの角材で蟻の巣を突いている。

「なぜ落ちこんでいるのですか」

アリアドネがりに、飾り気なく訊ねた。

「だって、おいら、てっきり女神様に夢で会えたとばかり……」
「現にこうして会えたではありませんか。有王のも教えてあげました。これ以上何を望むのですか」

女神は薫物たきもののよい匂いをあたりに漂わせた。

「死んだ母ちゃんに会いたい……」

無しの権兵衛はぽつりと呟き、蟻掛ありかけの角材で蟻の巣を突いた。

「母親はいつ亡くなったのですか」
「去年」
かず、年齢は?」
「三十五歳」
「若くして命を落としたのですね。おまえが悲しむのももっともです。――空をご覧なさい」

アリアドネが東の空を指さすと、名無しの権兵衛の亡き母親のかたがくっきりと浮かんだ。

「母ちゃん! 有難ありがた!」

名無しの権兵衛はありがた亡母のありがたちを拝み、有難涙ありがたなみだを流した。

有難ありがたが増すようにアンチエイジングの処理をしてやりましょう」

女神はまるでフォトショップで加工するように母親の皮膚のしみをことごとく取り去り、肌は剥きたての玉子のようにつるつるになった。

「余計なことをしないでくれ。有難迷惑ありがためいわくだ」

名無しの権兵衛が口を尖らせた。アリアドネは渋々承知して肌を元通りにした。

有難山ありがたやまのとんびがらす」

名無しの権兵衛はな駄洒落を言い、「がと」とあらためて礼を述べた。

「思い残すことはありませんか」
「うん、ないよ」
「ならがねを残らず全部出しなさい」
「え?」
「おまえの望みを叶えてやった礼金です」
「金をとるなんてひどいじゃないか」

筒井が義憤を覚えて言った。

「ちっともひどくはない。地獄の沙汰も金次第。蟻壁ありかべ、つまり天井と蟻壁長押ありかべなげしとのあいだの壁をこしらえるのにも金がかかる。この世にりが、この世に生きていたいと望むなら万事に金が必要。毎日がよ道路も通行料を徴収したいくらいよ」
「そんな無法がまかり通ると思うのか」

筒井はアリアドネににじり寄った。

「「ほら! 気をつけなさい! 一歩ありのたびに百円もらいます」

筒井はびびって立ち止まった。

歩神ありきがみよ、来たれ」

女神が命じると小柄な神様が降臨した。

「わたしの家来、別名あるがみよ。人間をそぞろ歩きや旅に誘い出す神です」
「そんな神が存在するなんてちっとも知らなかった」

歩き神は、ほら、歩け、歩けと赤ん坊にあるを促すように筒井を挑発した。筒井はてこでも動くまいとして直立不動の姿勢をとった。

きたの手は通用しないね」

女神が腹を立てて筒井にありきぬをかぶせ、「ありきぬ三重の子がささがせる瑞玉盞みづたまうきに」と『古事記』の一節を諳じながら、きりの力をこめて衣を引っぱった。筒井は百円を払いたくないばかりに両足を踏んばり、体を反対方向に反らして頑迷に抵抗した。見るに見かねた歩き神がたまたま地面に落ちていたぎれを拾い上げ筒井の体に巻きつけて引っぱり、女神に加勢した。アランと名無しの権兵衛が筒井に味方して体に抱きつき反対方向に引っぱった。

ありのだ! さあ、さっさとありけ!」

アリアドネと歩き神が布を引き、筒井が抵抗する。膠着状態がること一時間、五人はへとへとに疲れて同時に手を放し、ばったりと倒れた。倒れた拍子に土の中から大きな蟻食ありくいが一匹飛び出した。

「きゃー!」

アリアドネは悲鳴を上げて姿を消し、家来の歩き神もすっと消えた。見知らぬ男が来て「えい!」と刀を振り下ろし、蟻食は真っ二つになった。

「あなたは……?」

筒井が訊ねた。

有国ありくに
「ありくに?」
「平安中期の刀工だ。宗近の門弟で、渡辺綱が羅生門で鬼の腕を斬った刀を作ったのは俺だ」

地面から体長九ミリメートルの蟻蜘蛛ありぐもがうようよ這い出てきた。有国は刀を振り回してばっさばっさと斬り殺した。

「獣が多くてぐる

有国が仔細りげな顔をして有明海を睨むと巨大なアリゲーターが水中から跳び上がり、筒井に襲いかかった。有国は八つ裂きにして「またつまらぬものを斬ってしまった」と呟き、刀を鞘に収めた。

2016年12月26日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百二十八回

スノードーム筒井とアランは馬から降り、まだ月が残っている有明方あらあけがたの海を眺めた。里桜の一品種、有明桜ありあけざくらの並木の上に有明月ありあけづきが浮かび、有明月夜ありあけづくよ有明ありあけつきは住民がが夜もすがらともす有明ありあけにも負けずに輝いている。

「おじさんたち、どこから来たの」

洟垂れ小僧がやって来て訊ねた。どことなく血の巡りが悪そうに見える。

「大阪だよ」

筒井が答えた。

「君は誰?」
有明ありあけ主水もんど
「え?」
「名無しの権兵衛」
「名前がないの? 気の毒だな」
「哀れだと思ったらその有明袋ありあけぶくろをくれ」

筒井は洗った衣服をアランに渡したあと空っぽになった袋を少年に与えた。名無しの権兵衛は「わーい」と喜び、明治三十年ごろに流行した有明節ありあけぶしを歌った。

「君のこのあたりに住んでるの?」
有明湾ありあけわんだよ」
「有明海か」
「違うよ。有明湾は志布志湾。宮崎県都井岬と鹿児島県火崎とのあいだだよ」
「ずいぶん南じゃないか。なんで有明海に来たの?」
アリアドネのお導きだよ」
「アリアドネ?」
「ギリシア神話の女神だ」

アランが解説した。

「ミノタウロスを退治するテセウスに糸玉を与えて、迷宮から脱出する方法を教えた。ゆえに難問解決への導きを『アリアドネの糸』と呼ぶ」

名無しの権兵衛は木材の先端を逆三角形に突出させたほぞ蟻穴ありあなに嵌めて蟻の巣に突っこんだ。まだ蟻穴ありあな季節ではないが、穴の中の蟻は驚いてわらわらと外に出てきた。少年はあま体力にまかせて木材を巣の奥へぐいと押しこんだ。するとまばゆい光に包まれた女神の姿が三人の目にと見えた。

「わたしの名をみだりに口にしてはなりません」

アリアドネは岸部に降り立ち名無しの権兵衛を窘めた。

「『ギリシア神話事典』の挿絵と同じりしいお姿」

アランは口をあんぐりと開け、茫然として女神の顔を拝んだ。

「そなたは小説家の筒井、そしてあなたは哲学者のアランですね」

女神は二人を交互に見て言った。

「はい」
「君は作家なのか」

アランが筒井に訊ねた。

「うん。自己紹介がまだだったね。筒井康隆だ」
「そなたたちはそれぞれ別個に冒険の旅に出て、旅路の果てにりてこの有明海で巡り会いました」
「お言葉を返すようですが」

筒井が口を挟んだ。

「巡り会ったのは大阪です。大阪から馬でここへ――」
「やかましいわ、ぼけ!」

アリアドネが一喝した。

「細かい話はいいの。あなたたちが五体満足で有明海に来られたのはわたしのおかげ。さあ、女神をもてなしなさい。何をぐずぐずしてるの!」

着の身着のままの筒井とアランは顔を見合わせた。名無しの権兵衛がポケットからリンゴとバナナを取りだし、ありわせの果物をおずおずと女神の足下に捧げた。

「ちょうどフルーツが食べたいと思っていたところでした。よい品をわせましたね」

アリアドネは少年を褒めた。

「だって、おいら、女神様に導かれてここまでやって来たんだもん」
「え? わたしは身に覚えがありませんよ」
「でも、きのう夢枕に立ったよ」
「それはきっとアリーの仕業です」
「アリー? モハメッド・アリ?」

筒井が横から口を挟んだ。

「ボクシングの話なんかしていません! ――アリーはイスラムの第四代正統カリフ。ムハンマドの従弟で女婿。対立勢力により暗殺されました。アリーとその子孫を支持する人々はのちにシーア派と呼ばれるようになったのです。夢枕に現れたその女は広い競技場にいませんでしたか」
「うん、丸い競技場にいました」
「やっぱり。古代ローマの円形競技場、アリーナです。まわりに白衣を着た男たちが大勢いませんでしたか」
「いました」
「化学者です。アリール、つまり芳香族炭化水素の環から水素一原子を除いた残りの原子団を研究する錬金術師です。その人たちに混じって司祭がいませんでしたか」
「よく覚えてないけど、いたような気が」
アリウスです。アレクサンドリアの司祭で、キリストの神性を否定しキリストは神によって造られたものだと主張してアタナシウスと論争しました。その説は三二五年のニカイア公会議で否定されました。神学者はこういう揉め事がうち、ありがちなのです」

アリアドネは岸辺に咲き揃ったユリ科の観賞植物アリウムを愛でながら説明した。

「イスラム教と古代ローマとキリスト教徒の司祭って、話がばらばらじゃないか」

筒井が小声でアランに呟いた。

「いや、イスラム教もユダヤ教もキリスト教も崇める神は同一。古代ローマはヨーロッパ文化のいしずえ。女神の説明は

アランが答えた。

「わたしを疑うのですか」

アリアドネは眉間に皺を寄せ、「あのありをご覧なさい」と、有明海の彼方に聳える荒くけわしい山を指さした。

「あの山には有王ありおうが住んでいます」
「ありおう?」

筒井が首を捻った。

「俊寛の忠僕です。鬼界ヶ島に主を尋ね、その死後遺骨を高野山に納めて出家しました。ただし京都府綴喜つづき郡井手町の東部にある丘陵、後醍醐天皇が笠置山から逃げ落ちた有王山ありおうざんとは無関係です」

2016年12月25日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百二十七回

スノードーム「霰にしては大きいぞ」

筒井が壊れたドアから外に出て石ころを拾い僧侶に見せた。

「これは……霰石あられいしだ」

僧侶は驚いて言った。

「あられいし?」
「天然産の炭酸カルシウムです。火山岩の割れ目や高温の温泉から産出します。島根県松代鉱山のものは天然記念物です――霰打あられうあられ松原住吉すみのえ弟日娘おとひをとめと見れど飽かぬかも」

僧侶は細かい石畳文様を織り出した霰絣あられがすりの袈裟を着直して万葉集の一節を呟き、霰星を外面に細かく鋳出した茶の湯の霰釜あられがまで湯を沸かした。

「冷えてきましたね。霰粥あられがゆで温まりましょう」

三人は鯛の身を細かくして入れて煮た粥を啜り、霰羹あられかんすなわち細かいさいの目に切ったヤマノイモを混ぜた羊羹を食べた。玉石を敷きつめた境内の霰覆あられこぼは空から降ってきた霰石と入り交じって霰小紋あられこもんの文様を描き出した。

「お酒を飲みませんか」

僧侶は味醂に糯米もちごめこうじを入れて密封し熟成させた奈良の銘酒霰酒あられざけを振る舞った。荒法師は細かい石畳文様を織り出した霰地あられじの織物を飾った壁にもたれて酒をぐびぐび飲み、ショウガの根を小さく切って酢漬けにした霰生薑あられしようがをぽりぽり食べた。

霰蕎麦あられそば霰豆腐あられどうふもありますよ」

僧侶はあられった揚げ豆腐を持ってきた。

「いえ、もうじゅうぶんいただきました」

筒井が断った。すると荒法師がられぬ振舞いに及び、茶釜の炉の霰灰あらればいを鷲づかみにして筒井にぱっと振りかけ、「万年よろずよあられ、万年あられ」と霰走あらればしりすなわち阿良礼走あらればしりの文句を繰り返しながら寺務所を飛び出て走り去った。

「なんだ、あいつは」
「たぶんあなたが一神教のアラーと出会ったのを妬んでいるのですよ。――霰降あられふ鹿島の崎を波高み過ぎてや行かむ恋ひしきものを」

僧侶は茶釜の霰星あられぼしすなわち細かい突起を見つめながら万葉集の一節を口ずさんだ。

「いまごろは住之江区の安良礼松原あられまつばらあたりまで逃げてますよ」

僧侶は霰餅あられもちをテーブルに並べながら全身灰まみれの筒井を見た。

「服を着替えなさい」

筒井は服を脱ぎ、あられもない格好になった。肌があらわになった筒井の衣服を僧侶は洗濯板であらはひした。洗濯機を使わず、板切れだけでごしごし洗う荒技あらわざを繰り出し、日ごろから荒業あらわざに慣れている様子が窺われた。

「乾くまでこれを着なさい」

僧侶はあらわしぎぬ、すなわちあらわしごろもすなわち喪服を与えた。

「なぜ喪服を?」
「すべての死者の魂を弔う気持ちをあらわためです。さあ、これを持って旅を続けなさい」

僧侶は洗ったばかりの衣服を丸めて袋に入れて渡した。筒井は礼を述べて馬にまたがり境内を出た。すると全裸の白人の男が眼の前にあらわれた

「どうか着るものを恵んで下さい」
「あなたは……?」
アランです」
「俳優のアラン・ドロン?」
「いいえ。哲学者です」
「え! まさか『幸福論』の……?」
「はい。理性主義の立場から芸術や道徳、教育などを論じるのが得意で、主な著書は『幸福論』のほう『芸術論集』『精神と情念に関する八十一章』などがあります」
「なんで素っ裸なの?」
「追剥ぎに身ぐるみ剥がされました」

アランは溢れる涙を拳で拭った。

「ちょうどよかった。洗ったばかりでびしょびしょだけど、これでよかったら着なさい」

筒井は袋からずぶ濡れの衣服を取りだして渡した。アランはありがたく受けとって服を着た。

「これからどこへ?」

筒井が訊ねた。

「どこでもいい。追剥ぎに狙われないところならどこでも」
「よし、わかった。乗りなさい」

アランは筒井のうしろにまたがり、筒井はらんかぎの力をこめて拍車をかけ、馬は疾風のように突っ走った。

「どうして日本へ?」
阿蘭若あらんにやを求めて」
「あらんにゃ?」
「修行するのに適した閑静な土地」
「わざわざアジアまで来なくてもいいんじゃないの。たとえばスペインのアランフェスとか」
「スペインはフランスから近すぎる。修行は遠ければ遠いほどいいと小説家のアラン・フルニエに教わった。――すまないが、乾いた服はないか? びしょ濡れで風邪を引きそうだ」
「さっき渡したのがの限りだ。走ってるうちに乾くよ」

この世にありという昆虫がとはいえど馬はお構いなしに蟻を踏みつけて矢のよう走り、筒井とアランはプッチーニの歌劇『トゥーランドット』のアリア「誰も寝てはならぬ」を歌い、の布きれを舞台衣裳に見立て、沿道に人々には目もくれず、地元の人が一晩中ともしておくあかの火も無視して、東の空がうっすらと明るくなる有明ありあけのころ、有明行灯ありあけあんどんに照らされた有明海ありあけかいに達した。

2016年12月24日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百二十六回

スノードーム「プリンなんて久しぶりだなあ」

筒井がスプーンですくって一口食べると砂利のようものが混じっている。手のひらに吐き出して見つめた。

「なんだろう」
あらもとだね」

荒法師が横から顔を覗かせて答えた。

「あらもと?」
「玄米の中に混じっているもみや小米だ」
「失礼しました。料理人がひとりしかいないので、荒物あらものの素材が混じってしまったのでしょう。新しいのと取りかえます」

僧侶が席を立とうとした矢先、髪を振り乱した荒者あらものがドアを蹴破って押し入った。

「俺は荒物屋あらものやだ。このほうきを買ってくれ」
「箒なら間に合ってます」

僧侶が答えた。

「どうやらこの寺務所は造りたての新家あらやだな。箒はいくらあっても足りないだろう。買ってくれ」
「お引き取り下さい」
「俺は荒屋敷あらやしき、つまり新開地の部落で育った者だ。家は火の車で米びつはからっぽ。どうか哀れだと思って一本買ってくれないか」
「どんなに貧乏だからといって、他人様の家のドアを壊していいという法はありません」

僧侶が諭した。

「眼を閉じて阿頼耶識あらやしきを感じなさい」
「あらやしき?」
「人間存在の根底をなす意識の流れです。輪廻を超え経験を蓄積して個性を形成し、またすべての心的活動のよりどころとなります。――さあ、眼を閉じて」

荒物屋は不承々々眼を閉じた。すると目のあらい粗鑢あらやすりと険しい荒山あらやま、荒磯に湧き出る荒湯あらゆ、沸かしたばかりでまだ人が入らない新湯あらゆ、荒木で作った荒弓あらゆみのイメージが次々と脳裏に浮かび、この世のありとらゆるものが一瞬のうちに意識に押し寄せてきた。六月と十二月の大祓おおはらえのときに神祇官から天皇の贖物あがものの料に奉る荒𣑥あらたえの衣すなわち荒世あらよの形が瞼の裏にくっきりと浮かび、はらえの式、節折よおりの儀に天皇の身長をはかる竹すなわち荒節あらよの姿が確かに見えた。

あらら、俺、ひょっとして悟りの境地に達したかも」

荒物屋は鼻息もあららかに興奮して言った。

「どんなイメージが浮かびましたか」
「塔が見えます」
あららぎでしょう」
「あららぎ?」
「伊勢の斎宮さいぐうことばで、塔のことです」
「あ、今度は行者葫ぎようじやにんにくが見える」
「それはあららぎです」
「雑誌も見える」
「短歌雑誌『アララギ』です。正岡子規が死んだあと、門人らが根岸短歌会の機関誌として刊行した『馬酔木あしび』『アカネ』の後をうけて明治四十一年に創刊されました」
「見える! すべてが見える!」

荒物屋は声をあららげた

「あなたには阿羅邏仙人あららせんにんの魂が乗り移ったのです」
「誰?」
「釈尊の時代のインドの宗教家です。出家した釈尊が解脱の道を最初に訊ねた仙人です」
「俺は仙人になったのか……」
「さあ、アララトさんに行きなさい」
「どこ?」
「トルコ東部、イランとアルメニアの国境近くにある高山です。旧約聖書のノアの方舟はこぶねの漂着地点です。山に着いたらあらら松原まつばらの松の木を伐りなさい。木材を手に入れたら、さっきあなたが壊したドアを修理しなさい。荒物を売った粗利益あらりえきはここに置いていきなさい」

荒物屋は商売道具と売上金を床に放り出し、背中に大きな文字で「荒物」とあらりと、つまりはっきりと書いた上衣の帯を締め直して寺務所を出てアララト山へ向かい歩き出した。茫然として見送った筒井が僧侶に訊ねた。

「本当に悟りを得たんですか」
「嘘ですよ」
「え?」
「催眠術にかけてやっただけです。ああいう手合いはこのくらいの荒療治あらりようじをしないと引き下がらない」
「凄いなあ。催眠術はどこで習ったんですか」
アラルかいの畔です。アラビアから日本に来る途中で修行しました。死神が教えてくれたんですよ」
「死神?」
「ええ。『三角帽子』で有名なスペインの小説家アラルコンに『死神の友達』という小説があります。日本では国書刊行会から桑名一博氏の翻訳で出版されています。この小説に登場する死神と出会ったんです」

突然ばらばらと屋根を激しく叩く音がしてあられが降ってきた。

2016年12月23日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百二十五回

女神は寺務所の中を見回した。

「女は? 女はいないの?」

筒井と僧侶、荒武者は顔を見合わせた。

「あいにく男しかいませんが……」

筒井がおずおずと答えた。

「男女の仲を引き裂くのがわたしのつとめ。これじゃ出番がないじゃない! 覚えてなさい!」

女神は壁をすり抜け寺務所の外に出て、水のない荒溝あらみぞの小石をぽーんと蹴飛ばしてすっと姿を消した。

「どうだ。俺様が現人神あらひとがみであることを納得したか」

荒法師がふんぞり返って豪語した。

「三つ続けて予言が当たったからなあ。でも偶然かもしれないし」

筒井が呟いた。

「まだ信じないのか? なんなら新霊あらみたま荒御魂あらみたまを呼び寄せてやろうか」
「いや、結構です」

筒井は即座に断った。

「神の好意を無にするとは! 貴様の体を新しい刀で新身試あらみだめしてやる」

荒法師は荒道あらみちを踏みしめるように筒井ににじり寄った。アラミド繊維せんいでできた法衣が風もないのにはためいた。

「さっきから神だ、神だと言ってるけど――」

筒井が言った。

「別に驚かないんだよね。俺はついこのあいだアラーに会ったんだ」
「なに? アラーに?」
「うん」

これが証拠だよと、筒井は「あらあらかしこ」とアラーに書いてもらった便箋を取りだして手渡した。荒法師は文面を読んで顔が真っ青になった。

「こ、これは……アラムの聖典だ」
「え? 日本語じゃないの?」
「いや、間違いなくアラム語だ」
「アラム語って何?」
「ヘブライ語などとともに古代のアッシリア、バビロニア、ペルシア帝国の公用語だった。セム語派の北西セム語群に属する。旧約聖書にも用いられ、約三千年の歴史がある。現在もトルコとイラク、イラン、シリアのキリスト教徒とユダヤ教徒が話す」

荒武者あらむしやのように猛々しかった荒法師は体から力が抜け、部屋の片隅の荒莚あらむしろにすわってあぐらをかいた。

「アラム語だなんて夢にも思わなかったよ。日本語で『あらあらかしこ』って書いてあるように見えるけどなあ」

筒井は首を捻った。

「ひらがなに似ているが、れっきとしたアラム文字もじだ」

荒法師はがっくりと肩を落とした。

「なんで落ちこんでるの?」
「いくら俺様が現人神でも、一神教の神には太刀打ちできないのだ。なにしろアラーは自分が唯一絶対の存在だと主張して憚らない。たとえば俺様が昆布を見せると、『それは荒布あらめだ』と言い張って譲らない」
「荒布?」
「褐藻類の多年生海藻だ。波の荒い外洋の低潮線以下に生ずる。何につけてもああ言えばこう言うで、いつか荒目あらめ荒目網あらめあみで生け捕りにしてやりたいと思ってるが、アラーはすばしこくてなかなか捕まえられない」
「現人神は天下無敵だと思ってたけど」
「所詮は多神教の神のひとりだよ。俺様には庶妹あらめいももいるし庶兄あらめいろねもいる。アラーは唯一無二だ。そこがあいつの強みだ。俺様がよろいさねに幅が広い緒をつけた荒目威あらめおどしを身につけて威嚇してもあいつはちっとも驚かない」
「いろいろご不満はあろうかと存じますが――」

僧侶が口を挟んだ。

「ここはひとつ温かい料理でも召し上がって気分転換しませんか」

僧侶は荒布あらめを茹でた出し汁に醬油と砂糖を加えて煮た荒布あらめのふくめを振る舞った。荒武者と筒井は汁を啜った。

「うまい! どこの郷土料理?」

荒法師が訊ねた。

アラモです」
「アラモ?」
「アメリカのテキサス州サン・アントニオ市にあった教会です。シスターたちが考案した精進料理ですよ。デザートにプリン・ア・ラ・モードはいかがですか」
「いただきます」

筒井が一も二もなく返事をした。

2016年12月22日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百二十四回

「ぶわっ」

筒井はコーヒーを吐き出した。

「なんだこりゃ」
「どうしました」

僧侶が自分のコーヒーを一口啜って、ぺっと吐いた。

「……粗醤あらびしおだ」
「あらびしお?」
「下等なひしお、大豆を発酵させた調味料です。誰の仕業だろう……」

僧侶が呟くとドアが勢いよく開き、勇猛な荒聖あらひじりが上がりこみ、「俺様の仕業だ。俺は現人神あらひとがみだ」と宣告し、テーブルをひっくり返してあらびた

アラブ育ちの似非坊主など四天王寺にはふさわしくない。俺様に寺を明け渡せ」

荒聖は倒れたテーブルを踏んづけてあら、「アラファトの弟子は四天王寺から出て行け」と怒鳴った。気狂いかな、と筒井は思った。荒聖は日本古来の銅の製錬の第一工程すなわち荒吹あらぶきで銅鉱石を火で吹き溶かし、銅かわを製する段階の胴のように顔を真っ赤にして怒鳴り続けた。

アラブ首長国連邦しゆちようこくれんぽうの手先は四天王寺から出て行け」
「お言葉ですが、わたしはアラブじんではありませんよ」

僧侶が穏やかに言った。

「嘘つけ! アラブ石油輸出国機構せきゆゆしゆつこくきこうのスパイに決まってる!」

荒聖は群馬県南西部、長野県との境に聳える荒船山あらふねやまのように胸を反らして仁王立ちになり、「アラブ民族主義みんぞくしゆぎのシンパはアラフラかいへ去れ」と声を張り上げた。

「アラフラ海ってどこ?」

筒井が訊ねた。

「たぶんオーストラリア北端とニューギニア島南西岸とのあいだにある浅海です」

教養溢れる僧侶が推測した。荒聖はあらぶるかみのごとくにいきり立った。

アラブ連合れんごうアラブ連盟れんめいの手下はとっととアラビアに帰ってアラベスクの寺院で修行しろ」

荒法師あらほうしは寺務所の中を暴れ回り、死後初めての盆にまつられる死者の霊すなわち新仏あらぼとけをまつった仏壇を壊し、骨壺からあらぼねすなわち風雨に曝らされた骨がこぼれ落ちた。荒法師は乱暴狼藉をやめず、粗彫あらぼりの仏の彫刻を倒し、新盆あらぼんに供える鮭の荒巻あらまきを鷲づかみにしてむしゃむしゃ食い、寺務所を飛び出して耕さずに種をまいただけの荒蒔あらまの畑を蹂躙し、荒柾目あらまさめの木材を肩に担いで再び寺務所に戻ってすわりこんだ。

現人神あらひとがみだと言ったね」

筒井が恐る恐る声をかけた。

「ああ、言ったよ」
「生まれつき現人神なの、それともある日突然神になったの?」
「啓示を受けたのだ」

荒法師は神のお告げを聞いたあらましあらましく語った。話をまとめるとどうやら新興宗教の信者らしい。

「百歩譲って君が現人神だとしよう」
「譲らなくても現人神だ」
「うん、わかった。現人神なら未来を予知できるはずだ」
あらましごとか。朝飯前だ。世の中が将来どうなるかはとっくのむかしにあらましてある」
「じゃあ予言してくれ」
「よかろう。――アメリカの次期大統領はヒラリー・クリントンではなくドナルド・トランプだ」
「トランプはおととい選挙人による投票が実施されて正式に大統領に選出されましたよ」

僧侶が穏やかに教え諭した。

「君はニュースを知らないのか」

筒井は鬼の首を取ったように詰問した。荒法師の額に脂汗が滲んだ。

「ニュースはいつもチェックしてる。おとといはたまたま伊勢の皇大神宮の別宮、荒祭宮あらまつりのみやにいたから知らなかっただけだ」
「君はこの四天王寺を奪いたいんだね」
「ああ。寺を支配してこそあらまほしけれ
「おかしいじゃないか。神が寺を支配するなんて」
「森羅万象神社仏閣、この世の一切合切を掌中に収めてこその現人神だ」
「現人神である証拠を見せてくれないと、とても信じられないなあ」
「よかろう。――もうすぐあらがやって来るぞ」
「あら見?」
「魚群の集来を見張り、魚が来るとこれを急報する役目の人だ」

境内を男がひとり息せき切って走り、寺務所のドアを勢いよく開けて「裏の川に魚の大群が来ました」と告げて走り去った。

「次に荒忌あらみの女が来る」
「荒忌?」
「出産のけがれによるみだ」

ドアが開き、生まれたばかりの赤ん坊を左腕に抱え、右手に新身あらみの刀を握った女が顔を覗かせ、「うちの宿六見かけなかった? あいつ浮気しやがって。叩き斬ってやる」と鼻息荒く言い残して去った。

「ふたつ続けて予言が当たりましたね」

僧侶が驚いて筒井に呟いた。

「偶然だよ」
「偶然かどうか、よく見ろ」

荒法師は「荒御蔭あらみかげよ、来たれ」と叫んだ。

「荒御蔭ってなに?」
「いまにわかる。なにしろ俺様は現御神あらみかみ、つまりあきかみ、つまり人の姿を備えた神だ。京都では大嘗祭だいじようさいの前、陰暦九月晦日にわたしの信者がけがれを除くため紙屋川かみやがわ荒見川あらみがわはらえを行なうのだ。神功皇后が新羅遠征の時に乗船にあらわれた住吉すみのえの大神の荒御魂あらみたま、すなわち荒御鋒あらみさきはわたしの息子だ」

気狂いもここまで来たら立派なものだ――筒井は半ば感心した。すると境内の上空がぱっと明るくなり、女神が降臨した。

「わたしは荒御裂神あらみさきのかみ。男女の仲を引き裂く嫉妬深い女神。別名荒御蔭あらみかげである」

2016年12月21日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百二十三回

目が覚めると大勢の人が木材や石材などの荒荷あらにを庭に運びこんでいる。

「なんの騒ぎです」

筒井は主人に訊ねた。

荒和あらにこはらえだ」
「え?」
六月祓みなづきばらえとも夏越祓なごしのはらえとも言うが、毎年六月晦日に行なう大祓の神事だ」
「いまは六月?」
「もうすぐ正月だが、今年の六月は忙しくてできなかったんだ。おまえさん、腹は空いてないか」
「ぺこぺこです」
「狸汁があるが、食うか」
「いただきます」

筒井は食堂のテーブルで狸汁を食べた。

「うまい!」
「口に合ってよかった。狸の肉にはアミノ酸のアラニンがたっぷり含まれて栄養があるよ」
「狸汁って昔話で聞いたことしかなくて。こんな海辺にも狸がいるんですか」

主人はあらぬ顔をした。筒井は胸騒ぎを覚えて家の中を見回すとラスカルの姿が見えない。らぬおもが胸に去来した。粗糠あらぬかすなわち籾殻が散らばった床を踏みしめて寝室をあらためて覗いてみたが、やはりいない。確かに胸に抱いて寝たはずなのに。食堂に戻ると主人はらぬかたを見て口笛を吹いている。

「この狸汁はまさか……」
「まさかって、おまえさんが連れてきた狸だ」

主人はらぬことを口走った。

「あれは狸じゃない! アライグマだよ! アラーから授かった聖なるアライグマだ!」

主人はきょとんとした。筒井は血の気が引いた。よりによってラスカルを食ってしまうとはらぬこと。食べさしの皿を見た。ラスカルは切り刻まれて煮こまれらぬさまらぬ姿すがたに変わり果ててしまった。主人はど吹く風で、粗布あらぬのの台ふきんでテーブルを拭いた。アラーから授かった聖なる動物を食ってしまった俺は犬畜生に劣る。らぬに消えてしまいたい――。

筒井はがっくりと肩を落とし、主人に小声で一宿一飯の礼を述べ、粗塗あらぬの壁伝いに玄関を出て馬にまたがり、海とは反対方向の荒野あらのを駈けた。悔しさと情けなさで涙が止まらなかった。神を冒瀆した悲しみを俳句に詠みたかったが、山本荷兮かけいが編纂した俳句集『阿羅野あらの』さえ読んだことがない筒井はなんの言葉も思い浮かばなかった。荒野あらのを駈け巡ること一昼夜、筒井は荒陵寺あらはかでら、つまり大阪市天王寺区の四天王寺に着いた。

寺の境内から若い僧侶が木の箱をせっせと表通りに運び出している。

「何をしてるんですか」

筒井は特に興味を覚えたわけではないが人恋しさのあまり訊ねた。

荒筥あらばこを放置する不届き者がいまして」
「あらばこ?」
「祭具や調進具などを納めた木箱です。神社で使うんですよ。ここは寺なのに。――旅のおかたですか」
「ええ」
「喉が渇いてませんか」
「からからです」
「お酒を一杯召し上がりませんか」

筒井は遠慮会釈もあらばこそ、馬から降りて寺務所にずかずかと上がりこんだ。僧侶は猪口に酒を注いで言った。

新走あらばしです」
「あらばしり?」
「今年収穫したばかりの米で醸造した酒ですよ。荒畑あらはたという酒蔵の新酒です」

筒井はぐびりと一口飲んだ。まろやかでこくのある味わいは初めて男と接する女の荒肌あらはだのようだ。

「こんなにおいしい酒は久しぶりだ」
「荒畑酒造は荒畑寒村あらはたかんそんの実家なんですよ」
「どなた?」
「社会主義者です。平民社に参加して赤旗事件で入獄し、日本共産党の創立に加わりました。のちに労農派に転じて人民戦線事件で再び入獄し、第二次大戦後は日本社会党の創立に参加しました」
「へえ」

筒井は酒をがぶがぶ飲みながら境内の一角にある荒畑あらばたけをぼんやり眺めた。荒働あらばたらを終えた日雇い労働者らしき男が賽銭を投げて手を合わせている。

「お坊さんは大阪のかたですか」

筒井が僧侶に訊ねた。

「いいえ」
「やっぱり。大阪弁じゃないから違うと思いました。ご出身は?」
アラバマです」
「アラバマ? アメリカの?」
「はい。ハーパー・リーの小説『アラバマ物語ものがたり』の舞台になった――」
「グレゴリー・ペック主演で映画化されましたね」
「ええ」
「では、アラバマから大阪に?」
「信じてもらえないかもしれませんが、生まれはアラバマで、育ったのはアラビアです」
「アラビア……」
「大学ではアラビア医学いがくを学びました。でも勉強は苦手で、授業はしょっちゅうさぼってアラビアうまアラビアかいの畔を走ったものです。アラビア記数法きすうほうとかはちんぷんかんぷんで。お恥ずかしい」
「じゃあアラビアはぺらぺら……?」
「むかしは話せましたが、いまはもう駄目です。語学よりもアラビアゴムアラビアゴムのの樹液から抽出するほうが好きで」
アラビアじんって、どんな人ですか」
「賢いですよ。なにしろアラビア数字すうじをヨーロッパに伝えたくらいですから。アラビアのりを発明し、アラビア文字もじを考案してアラビアわん一帯に文明を広げました。『アラビアンナイト』はご存じでしょう」
「ええ。学生時代に読みました」
「名前がちょっと似てますが、アラビアンライトも有名なんですよ」
「アラビアンライト?」
「サウジアラビア産の軽質原油です。産出量が多いので中東産原油価格を決める基準になりました。――酔い覚ましにコーヒーはいかがですか」
「いただきます」

筒井は粗挽あらびきコーヒーを啜った。

2016年12月20日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百二十二回

馬が急に立ち止まり、前脚を高く上げて荒立あらだった

「どうした」

筒井が前方を見ると芝居小屋があり、田舎歌舞伎の開場前に概略の動きをつける稽古すなわち略立あらだての最中だった。俳優が筒井に走り寄って訊ねた。

「アラカンさんのマネージャーですか」
「え?」
「アラカンが芝居を観に来て下さると聞いて、みんな楽しみにしているんです」
「アラカンは毒を盛られて……いや、ちょっと遅れるらしいよ」
「そうですか」

筒井は事を荒立あらだてまいとして嘘をついた。馬を降りて楽屋口を覗くと壁に新仏あらぼとけを迎える新棚あらだなが備えられ、横に「今宵のあらたなるつきの色には、げに、なほ、我が世のほかまでこそ、よろづ思ひながさるれ」と源氏物語の一節を書き写した紙が一枚貼ってある。達筆だった。筒井は埃まみれの手で字をなぞった。

「汚い手で触らないで!」

女優が叱った。あらたにもくするものかならかんむりはじ。病的な潔癖症なんだな。女優は決して美人ではないが艶めかしく、粗玉あらたますなわち掘り出したままでまだ磨かぬ玉のようだった。磨けばきっと美しくなるぞ。

「何よ! 人の顔をじろじろ見ないで」
「失礼しました。なんの芝居をやってるのかなあと思って」
新玉あらたま年を迎える歌舞伎に決まってるでしょ」

そうか、もうすぐ年があらたまるのか。筒井は年月が過ぎ去る早さに驚いた。

「あなたはアラカンの関係者ですか」

舞台監督とおぼしき男が来て筒井に訊ねた。

「あ、いや、関係者ってほどの者ではありませんが……」
「でもさっき毒を盛られたとかなんとか……」
「いやいや、あれは勘違いです。ははは」
「どうも怪しい。所持品をあらたのでじっとしていて下さい」

舞台監督は筒井の体を上から下へ触った。ズボンのポケットに入れてあるスマートフォンが着信音を発した。筒井は電話に出た。

「はい、筒井ですが」
「筒井さん! 僕です、稲垣です」
「稲垣!」
「連載第五十二回で阿寒湖に来てからずっと待ってるんですよ」
「忘れてた。でもいまは取りこみ中なんだ。ごめんね」

筒井は電話を切り、舞台監督に芝居の内容を訊ねた。

「襲名披露興行です。尾上丑之助あらた尾上菊五郎」
「田舎歌舞伎にしては立派な名跡だね」
「ご覧になりますか」
「いや、あらためて伺います」

舞台監督が筒井のズボンをあらためるともう片方のポケットから「あらあらかしこ」と書いた便箋が出てきた。

「これは?」
「アラーにもらった手紙です」
「アラー?」
「知りません? イスラム教の唯一神」

舞台監督は眉間に皺を寄せて筒井の顔を見つめた。こいつ、俺を気狂いだと思ってるな。ええい、面倒だ。こうなったら気狂いを演じてやる。

「アラーのお告げを聞いたんだよ。新世あらたよには天変地異があるから気をつけろって。新夜あらたよに星が天から落ちて、人間どもは頭から新血あらちを流す。すると『風の谷のナウシカ』の巨神兵のようなあらが現れて大地を蹂躙する」
「おーい、警察を呼べ」

舞台監督が大声を発した。やばい! 筒井は外に飛び出し、馬にまたがって脱兎のごとく逃げた。山を越え谷を渡り、越前の愛発関あらちのせきを通過して福井県敦賀市南東部の愛発山あらちやまに達した。山は日本海と琵琶湖をあら、つまり分け隔て、眼下には粗造あらづくの掘っ建て小屋が粗土あらつちの上に十数軒並んでいる。筒井は拍車をかけて山肌を駈け下り敦賀市の中心街に向かった。

「おい、邪魔だぞ!」

車の運転手があらっぽく怒鳴った。筒井は無視して馬を走らせ港に突き当たった。ベテランの漁師が粗手あらての網を海に投げ、新手あらての漁師が見よう見まねで投網し、荒手網あらてあみがきれいな円を描いた。その横に若者が弓矢の的らしきものを粗手組あらてくんで荒手結あらてつがいすなわち 正月に行なう賭弓のりゆみの稽古を始めた。海辺に並ぶ家のあらとすなわち入口には粗砥あらと、つまり荒研ぎに使う質の粗い砥石が無造作に積まれ、まだ精錬されていない粗銅あらどうの塊がごろごろ転がり、あれやこれやの荒道具あらどうぐがぞんざいに並び、家の主が庖丁を荒研あらとぎしている。

筒井はどっと疲れが出て猛烈な睡魔に襲われた。馬から降り、アライグマのラスカルを胸に抱いて家の主人に声をかけた。

「すみません、ちょっとお宅で昼寝させてくれませんか」
「え? 荒床あらどこでよければ、勝手に入って寝ろ」

筒井は言葉に甘えて家に上がった。硬く荒々しい寝床だと思ったら畳が新調されたばかりの新床あらどこだった。筒井は畳にごろりと横になった途端に眠眠りに落ちた。荒鳥あらとりすなわち野鳥が大まかに疎取あらどりした木材にとまり、人間の声で「ぬばたまの妹がすべくあらなくに我が衣手を濡れていかにせむ」と啼き、海から荒波あらなみが押し寄せて木材を洗い流すと小鳥は粗涙あらなみだを流してぱっと飛び立ったところを猟師が鉄砲で撃ち落として荒縄あらなわで縛り、魚のあらを煮つけたあらに鳥の肉を混ぜて食う夢を見た。

2016年12月19日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百二十一回

「サイン下さい」

荒稲あらしねすなわち外皮を取り去っていない米を握った農夫が荒野あらしのすなわち休耕中の焼畑を走り、息を弾ませて色紙を差し出した。アラカンは色紙に「あらしうえに月ぞなりゆく、あらしすえの木の葉なりけり、あらしそこにこよひだにねむ、松が根のあらしとこに仮寝して、あらしまえしずけさあらしまくら夢にわかれて」と書いて渡した。すると暴風あらしまかぜが吹き、農家の嵐窓あらしまどすなわち炭竈すみがまの後方の煙出し口に飾ってあった新注連あらしめが吹き飛び、暴風は竜巻に変じて色紙を吹き飛ばし、筒井がアラーに書いてもらった手紙も天高く舞って消えた。

「せっかく書いてもらった色紙が」

農夫が嘆いた。

「お詫びの印にうちに避難して下さい。あんたも来なさい」

農夫はアラカンと筒井を家に招いた。居間の壁に京都嵐山あらしやまの紅葉を描いた絵があり、仏壇に新精霊あらしようりようを迎える米と果物が供えてある。

新所帯あらじよたいなものでなんのお構いもできませんが」

農夫の妻が魚のあらを入れて作ったあらじるを振る舞った。

「新婚さんですか」

筒井が訊ねた。

「ええ。でも仕事は水田の最初の代掻しろかき荒代あらしろしかなくて、しょうがないから女房と真っ昼間から乳繰り合ってます。最近は乳繰り合うほうが専門で、田んぼはらし放題ですわ。ははは」

アラカンはあら汁をごくりと飲んだ途端に「う、うぐうぐ」と呻き、お椀を落として白目を剥いて悶え、ばったりと倒れて気を失った。

「毒を盛ったな」

筒井が驚いて夫婦に言った。夫が答えた。

「安心しろ。殺してはいない。アラカンをあらした母親に用があるだけだ」
「人質にして脅迫する気か」
「脅迫にはあら。正当な金を請求するんだ」
「身代金だろ。どこが正当なんだ」
「稲作では食っていけねえからさ。アラカンは映画で荒稼ぎしているだろ。不公平だ。俺は恨みを晴らすために荒水行あらすいぎようして心身を清めた。身代金をもらわないととても日本では食っていけない。アラスカに移住するしかない」
「とっととアラスカ半島はんとうに行っちまえ」
「なんだと!」

農夫は激昂して壁をどんと叩いた。壁土のつなぎにする粗苆あらすさすなわち細かく刻んだ藁がばらばらと落ちた。

「そういうおまえさんはどこの誰だ」

筒井は名を名乗り、これまでの冒険の粗筋あらすじを語って聞かせた。語り終えるのにたっぷり三時間かかった。

「話が長い!」

農夫は怒って荒炭あらずみすなわちかしを蒸焼きにして湿灰をかけて火気をとって作った炭を筒井に放り投げた。筒井は片手でキャッチして、「ありがとう、ちょうど炭が欲しかったんだ」とあらずもがなのお世辞を言ってアブラナ科の多年草紫羅欄花あらせいとうが咲き乱れる庭に飛び出した。「逃がすものか」新世帯あらぜたいの農夫も庭に出てあとを追った。筒井は銭湯に向かって走りに走った。水田のまわりに奄美諸島から移住した農民が集まって先祖の霊を招き酒や赤飯を供えて新節あらせつの収穫祭をしながら芝居小屋の荒銭あらぜにすなわちその日の売上金を数えていたが筒井の眼には入らなかった。銭湯の前にたどり着くと馬とアライグマのラスカルがおとなしく待っていた。筒井は馬にまたがり、ラスカルを抱いて手綱を引いた。

「作家の筒井先生でらせられるか」

粗麻あらそすなわち粗い麻糸で織った着物を着た男が声をかけた。

「そうだけど」
「やっぱり! お顔を拝見してすぐわかりました。お急ぎのご様子ですが……」
あらそに巻きこまれてしまって」
「もしかして争碁あらそいごですか」
「え? いや、囲碁ではない。たちの悪い連中に追われてるんだ。ところで君は……?」
「嵐寛寿郎のマネージャーです」
「アラカンの? 気の毒だが、毒を盛られて気絶したよ」
「本当ですか? 一歩遅かった。あらそててのちぎりだ」

マネージャーが歯ぎしりすると農夫が走ってきて飛びかかった。「アラカンを助けて欲しかったら一千万円払え」「そんな金はない」二人は組み合って争った。こういうときはあらそものなかからの諺の通り第三者である筒井が漁夫の利を占めるのが筋道だが、血の巡りが悪い筒井はただぼんやりと馬上から喧嘩の様子を眺めるだけだった。マネージャーは農夫を羽交い締めにした。さすがはアラカンのマネージャー、同業者の系統はあらそえない。こいつも荒育あらそだしたのだろう。薄紅色の荒染あらぞめの裾で汗をぬぐいながらマネージャーは膝で農夫の胸を押しつけ一息ついた。

「すごい立ち回りだったね」
「じつはアラカンとは親戚なんです」
「やはりそうか。さすが血筋はあらそわれない
「わたしの霊験があらたであるのがわかったか」

いままでどこにいたのか、荒神がふと姿を現して筒井に言った。

「アラカンは殺されず気絶しただけで済んだ。おまえの命も助かり、農夫は取り押さえられた。すべてわたしの計らいだ」

筒井は驚いて、神に対する畏怖の念をあらにした。

「筒井先生、すみませんが警察を呼んで下さい」
「よし、まかせろ」

筒井はラスカルを胸に抱き、馬に拍車をかけて荒田あらたを駈けた。開墾したばかりの新田あらたを突っ走り、麁𣑥あらたえすなわち織目のあらい粗末な織物を着た農民には目もくれず、荒妙あらたえ藤の花も眺めず、麦田の刈跡を牛を使って荒倒あらだおする百姓たちを無視し、霊験あらたかな荒神の霊力に恐れ入り、鷹狩に使うために捕らえたばかりの若い新鷹あらたかが大空を飛ぶのにも気づかず、あらたき年の初めにはこの冒険を一編の小説に仕立て上げようと心に誓い、馬にさらに拍車をかけると馬の足がカメムシを踏みつけ、昆虫の頭部にある内分泌器官アラタたいが破裂して強烈な悪臭が漂った。

2016年12月18日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百二十回

騒ぎが収まったところに白人の男がやって来て筒井に声をかけた。

「ちょっと道を訊ねたいのですが。フランスはどっちですか」
「フランス? ここは静岡だよ」
「なぜか道に迷ってしまって」
「あなたは……?」
アラゴーです」
「アラゴー?」
「フランスの物理学者で天文学者です。光の波動説を確立しました」
「この道をまっすぐ行って突き当たりを左に折れて、最初の角を右に曲がればフランスだよ」

筒井は適当に返事をし、アラゴーは「ありがとう」と礼を言って去った。

「ところでおまえはなぜ静岡に来たのだ」

荒神が筒井に訊ねた。

「栃木の荒井寛方という画家に会いに行くんです。アラーに命じられました」

筒井はポケットから「あらあらかしこ」と書いた便箋を取りだして見せた。荒神は手紙を見て「うむ、この筆跡はアラーに間違いない」と言った。

「栃木に行くならこの粗漉あらごしを持って行きなさい」

荒神は目の粗いふるいを筒井に背負わせた。筒井が栃木に向かって歩き始めた途端、道の向こうからアラゴーが血相を変えて戻ってきた。

「嘘を教えたな。突き当たりは浜名湖だったぞ」

アラゴーは歌舞伎の荒事あらごとのように荒々しく筒井に飛びかかり、荒事師あらごとしも顔負けの怪力を発揮して筒井の首を絞めた。地面に押し倒された筒井は背負ったふるいで土の塊をあらごなしして細かく砕き、アラゴーの顔に振りかけた。

「うわ」

砂が眼に入ったアラゴーは荒駒あらごますなわち人に乗り馴らされていない馬のようにあらこましく暴れ、粗薦あらこもすなわち粗く編んだ菰蓆こもむしろに足を滑らせてすってんころりんと転んで頭を打ち即死した。

「逃げなさい」

荒神が筒井に言った。

「殺人罪で訴えられるぞ」
「俺のせいじゃない。こいつが勝手に転んで死んだんだ」
「そんな言い訳は通用しない。アラゴンに逃げなさい」
「アラゴン?」
「十一世紀前半イベリア半島北東部に建てられた王国だ。十四世紀から十五世紀にかけてシチリアからナポリにも勢力を広げ、一四七九年カスティーリャ王国と合同してスペイン王国を形成した」

通りの向こうからもうひとり白人の男が走ってきて筒井に訊ねた。

「この辺でアラゴーという人を見かけませんでしたか」
「え? あ、うん。見かけたけど、この通りだよ」

筒井は死体を指さした。

「なんてこった! アラゴーさんが変わり果てた姿に……」
「あなたは……?」
アラゴンです」
「ひょっとしてシュールレアリスム運動を始めたフランスの詩人……」
「ええ」
「大ファンです! わたしは小説家、筒井康隆と言います」

アラゴンの眼がぎらりと光った。

「おまえが悪名高い筒井康隆か。俺様が創始したシュルレアリスムをぱくって下らない小説を書きやがって」
「人の粗探あらさがする暇があったらまともな詩を書け」

筒井は逆ギレした。

「もう誰もおまえの詩なんか読まねえよ」
「なんだと!」

アラゴンは筒井に躍りかかり、二人は組んずほぐれつしてあらすなわち休耕中の焼畑を転げ回った。突然あらしが襲来した。

「こら! 喧嘩はやめなさい」

覆面をした立派な風体の男がやって来て二人のあいだに割って入った。「誰だ」筒井が訊ねた。

あらしだ」
「あらし?」
「嵐といっても島崎藤村の小説『あらし』とは関係ない」

アラゴンがあら息を吐いて身を起こし、男の顔を見て「どこかで見たことがあらし」と呟いた。嵐を名乗る男は仁王立ちになって二人を睨みつけた。形相は物凄く、立っているだけで堂々たるあら、吹き荒れる風が荒潮あらしおとなって男のまわりで渦を巻き、海風が体に吹きつけて粗塩あらしおの結晶が浮かんだ。

「どこかで見た顔だなあ。ブロンテの長篇ゴシック小説『あらしおか』だったかなあ」
「映画俳優の嵐寛寿郎あらしかんじゆうろうだ」

男が覆面を脱いで名乗った。筒井は眼を丸くした。

「アラカン! 大ファンです! 『鞍馬天狗』や『右門捕物帖』シリーズ、『神々の深き欲望』『網走番外地』もぜんぶ観ました」

嵐寛寿郎はユキノシタ科の多年草嵐草あらしぐさを踏みつけ、「ご贔屓ありがとう」と挨拶した。筒井は荒子あらしこすなわち武家に仕えた最下層の使用人のように縮こまって正坐し、アラカンの顔を見上げた。さすがは銀幕のスターだ、実物はスクリーンで観る以上に貫禄がある。粗仕子あらしこすなわち荒削りに使うかんなを持たせたら本職の大工よりも上手に荒仕事あらしごとをするに違いない。大坂の歌舞伎俳優嵐三右衛門あらしさんえもんも名優だったが、アラカンのほうがずっと上だ。

2016年12月17日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百十九回

「これで一安心だ。では失礼」

禰宜は新墾治あらかはりすなわち新たに開墾したばかりの田を眺めながら立ち去った。アライグマのラスカルがキーキーと悲鳴を上げるのが聞こえた。筒井が走って銭湯の前に戻ると刀を差した男がラスカルを捕まえようと手を伸ばしている。

「なんだ、おまえは」
「長崎の貿易商荒木宗太郎が海外貿易に用いた朱印船の荒木船あらきぶねで参った」
「どうやって来たかなんて聞いてない。名を名乗れ」
荒木又右衛門荒木又右衛門
「え? あの有名な剣豪の……」
「さよう。伊賀荒木村に生まれ、柳生十兵衛に剣法を学んだ。大和郡山藩の剣道師範になり、寛永十一年、妻の弟渡辺数馬を助けて数馬の弟源太夫の仇河合又五郎を討った」

又右衛門は胸を張って答えた。

「断っておくが、織田信長に仕えた安土桃山時代の武将荒木村重あらきむらしげとはなんの因縁もない」

又右衛門はさらに胸を反らして荒肝あらぎもの大きさを見せつけようと、懐から紙を一枚取りだしてパッと宙に放り投げ、刀を抜いて「やあ!」と斬りつけると紙は細かく切れて花吹雪になり、筒井の荒肝あらぎもいた

「す、凄い」

荒肝あらぎもひしがれた筒井は眼をぱちくりさせた。

「さすがは伝説の剣豪。――で、アライグマをどうする気だ」
荒行あらぎようを終えたばかりで腹ぺこなのだ」

なんでどいつもこいつもラスカルを食おうとするのか。荒切あらぎした紙吹雪が又右衛門の肩にひらひらと降り積もった。

「ラスカルは俺のペットだ」
「ラスカル?」
「アライグマの名前だ」
「ペット?」
「愛玩動物だよ」
「どうか食わせてくれ。滝に打たれて修行したとき神様が降りて、アライグマを食えとおっしゃったのだ」
「嘘も休み休み言え」

荒神がふわりと飛んできて言った。

「うわ! こ、これは……」
「霊験あらたかな神様だよ」

筒井が得意満面に教えた。

「本物の神様!」

又右衛門は刀を地面に置いて平伏した。

「神様! どうか、どうかわたしを荒木流あらきりゆうの達人にして下さい」
「荒木流?」

筒井が訊ねた。

「荒木無人斎を祖とする柔術だ」
「天下無敵の剣豪なんだから柔道は習う必要はないだろ」
「いやいや、剣道だけでは心細い。備えあれば憂いなし」
「柔道の達人になりたいなら――」

荒神が言った。

「このあらくを、荒地を開墾しなさい」
「修行ですね! わかりました」

又右衛門は着物の裾をたすき掛けにして、散去あら頭髪を振り乱し、せっせと荒草あらくさを抜き始めた。雑草はあっという間に一本残らず刈りとられ、又右衛門は粗櫛あらぐしで髪をくしけずって満足そうに大地を眺めた。

「ご苦労であったな」

荒神が褒めた。

「さぞくたびれたであろう。新口あらくちを馳走してやる」
「新口?」
「新たに醸造した酒を初めて桶から酌み出して飲むことだ」

荒神は酒樽からひしゃくで酒を汲んで又右衛門に渡した。剣豪はがぶがぶ飲み、見る見るうちに酔っ払ってあらくましく鼻息を荒げた。こいつ、ひょっとして酒乱じゃないか――筒井の心配は的中し、又右衛門はあらくもしく酒樽を蹴飛ばしてひっくり返し、「こんな安酒飲んでいられるか!」と暴れ回った。荒神と筒井は剣豪のあらくれに呆れて佇んだ。二人の心配をよそに剣豪は荒塊あらくれすなわち大きな土のかたまりを手当り次第につかんでは荒神と筒井に向けて放り投げ、荒塊起あらくれおこしの田んぼを荒らし放題に荒らした。

「なんとあらくれし

荒神が呆れた。

「こんなあらくれものだったとは」

泥酔した又右衛門があらくれて暴れる騒ぎを聞きつけた農夫がやって来て「あらくろずりが台無しだ」と嘆いた。

「あらくろずり?」筒井が訊ねた。
「小正月に豊作を祈る行事だ。朳摺えぶりすりとも言う」

剣豪は雑草を抜いただけの荒削あらけずの開墾地をあらけなく暴れ回って刀を振り回し、髪の毛が散去あらけるのも厭わず、「もっとうまい酒を持ってこい」と声をあらげた。見るに見かねた荒神は粗粉あらこすなわち粗い微塵粉を剣豪の全身に振りかけて粗籠あらこすなわち編目の粗い籠に押しこみ、荒肥あらごえすなわち厩肥うまやごえなどの肥料を詰めこんで缶詰にした。

2016年12月16日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百十八回

筒井は生唾をごくりと飲んだ。

「イワナを食うのは久しぶりだ。楽しみだなあ」
「ではご注文を繰り返します――カツ丼ひとつとタルタルステーキ三人前。以上でよろしかったですか
「イワナの塩焼きとリゾットだよ」

筒井は呆れた。

よろしかったですかっていう言いかた、やめてくれ。大嫌いだ」
「冗談だよ。わたしは神だ。そなたの注文はちゃんと心得ておる」

荒神が天を指さして呪文を唱えると筒井の眼の前にイワナの塩焼きを山盛りにした皿と巨大な深鉢に入ったリゾットが現れた。

「凄い! いただきまーす」

筒井が食べようとした矢先、細長い大きな箱を担いだ禿頭の老人がやって来て筒井を突き飛ばし、イワナを素手でつかんでがつがつ食べ出した。

「おい、俺のだぞ」
「そなたは……阿羅漢あらかん

荒神が驚いて言った。

「アラカン? 嵐寛寿郎あらしかんじゆうろう?」

筒井が呟いた。

「往年の映画スター、嵐寛寿郎を知っているとはおぬしも古いな」

阿羅漢は自己紹介した。

「わたしは仏教の修行の最高段階に達した者だ。悟りの境地に達し、悟りに悟って、悟りまくりだ」

阿羅漢はイワナの鱗を荒鉋あらかんなで削って食べた。

「悟ったわりには行儀が悪いな。人の食事を横取りしやがって」
「おまえは荒木あらきか」
「荒木? 苗字? 俺は筒井だ。筒井康隆」
「聞いたことがない。有名人ではないな」
「はばかりながら結構有名な小説家だぞ」
「嘘をつけ。おまえのような無名の作家は荒城あらきの手伝いをするのが関の山だ」
「あらき?」
「貴人の本葬をする前に棺に死体を納めて仮に祭ることだ。かりもがりとも言う」
「貴人って誰?」
「ほかでもない、わたしだ」

阿羅漢は担いできた新木あらきの箱を指さした。

「これはわたしの棺だ」
「え? あんた死ぬの?」
「自分の死期を悟った。もうすぐお迎えが来る。この世の名残に最後の晩餐を食いに来たのだ」

阿羅漢はイワナの小骨をぺっぺっと吐き出しながら、新しく開墾したばかりの新墾あらきを指さした。

「あそこに埋葬してくれ。――ああ、酒が飲みたい」

阿羅漢が呟くと荒神は両手を頭上に広げて呪文を唱えた。阿羅漢の眼の前に酒樽が現れた。

「おお、ありがたい。地酒かな」
アラキである。エジプトの酒だ」

荒神が答えた。

「蒸留酒にクローブとシナモン、茴香ういきようで香りをつけた酒だ。アルコール分七十パーセント」
「へえ、珍しい。一口飲ませてくれ」

筒井が樽に手を伸ばすと阿羅漢は「こら!」と怒鳴って手を払いのけた。

「一口くらい、いいだろ」
「駄目だ。わたしの酒だ」
「何を言いやがる! 俺の料理を勝手に食いやがったくせに」
「悟りを開いた者に刃向かう気か」
「悟りを開いた? 煩悩の塊じゃねえか」
「なんだと!」

筒井と阿羅漢は取っ組み合って荒儀あらぎに及んだ。たまたま近くを通りかかった日本画家の荒木寛畝あらきかんぽが二人の様子を見て絵心をかき立てられ、歩みを止めて絵を描き始めた。偶然その場を通った琴古流尺八の演奏家荒木古童あらきこどうが喧嘩を見て尺八でBGMを奏でた。たまさか現場近くにいた軍人でA 級戦犯の荒木貞夫あらきさだおは二人の取っ組み合いに血が騒ぎ「いいぞ、もっとやれ」と焚きつけた。ひょっこりその場に顔を出した日本画家の荒木十畝あらきじつぽは荒木寛畝の絵をちらりと見て「相変わらず下手だな」と憎まれ口を叩いた。筒井と阿羅漢は四人が来たのに気づかず、組み合ったまま新墾田あらきだを転げ回った末にくたびれて地面に仰向けに寝そべった。筒井は土の臭いを嗅いだ。東京都荒川沿岸の荒木田原の土に似た臭いがした。四人は喧嘩が終わるともう用はないとばかりにそそくさと立ち去った。

「埋葬してほしいと申すのはそなたか」

神社の禰宜ねぎらしき老人がやって来て二人に問いかけた。

「わたしです」

阿羅漢が答えた。

「ちょうどよかった。わたしは伊勢大神宮神主の一族、荒木田あらきだだ。わたしが埋葬して進ぜよう」
「ありがとうございます。でもわたしは仏門に入ったので、神社はちょっと……」
「案ずるには及ばぬ。神も仏も一緒くたにするのが日本の伝統だ」
「ではお言葉に甘えます。ついでに、ちょっとお願いが」
「なんなりと申すがよい」
荒木田久老あらきだひさおゆ荒木田守武あらきだもりたけに、生前は大変お世話になりましたと伝えて下さい」
「なんという偶然! 二人とも伊勢内宮の禰宜だ」
荒木田麗女あらきだれいじよにもくれぐれもよろしくお伝え下さい」
「初耳だが」
「江戸後期の文学者です。慶徳家雅の奥さんです」
「心配するな。請け合おう」
「これでもう思い残すことはありません」

阿羅漢は大きな材木を疎木取あらきどにして作った棺の中に横たわり眼を閉じると必須脂肪酸のアラキドンさんが毛穴から滲み出た。禰宜と筒井は棺をあらきみやに納め、禰宜が荒木あらきゆみを厳かに振りかざして弔った。

2016年12月15日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百十七回

「その馬をくれ」

首領が牛から下りて筒井に言った。

「嫌だ。これはアラーから授かったのだ」
「アラーの名を軽々しく口にするな!」

首領が怒鳴った。

「ならば、代わりに新馬あらうまをよこせ」
「あらうま?」
「新たに牧場から引き出した一歳の馬だ」
「なんで馬が欲しいんだ」
「牛に乗ってると尻が痛くて」

首領は尻をさすりながら答えた。

「俺たちの縄張りはシリアとレバノンだが、アジアに布教するために荒海あらうみを越えて日本に来た。布教には金がかかるから荒海障子あらうみのそうじを盗んできたところだ」

部下が四五人、大きな布張りの衝立ついたて障子をどすんと地面に立てた。新井白石がしげしげと見て驚いた。

「これは清涼殿の東の広廂ひろびさしの北にあった障子! 墨絵で、表には山海経せんがいきようによる手長と足長の図、裏には宇治の網代あじろ氷魚ひおを捕る図が描いある。間違いない。どこで手に入れた?」
アラウンパヤーちようの遺跡だ」
「ペルシアか?」

筒井が訊ねた。

「ビルマ最後の王朝だ」
「この荒蝦夷あらえぞめ!」

新井白石が怒り狂った。「あらえぞ?」首領が訊ねた。

「粗野で朝廷に服属しない遠方の蝦夷だ。この野蛮人! 荒夷あらえびす! 荒蝦夷あらえみし!」

新井白石は首領に飛びかかり首を絞めた。

「うわ、うぐ。こ、これをやるから放せ」

首領は石炭を一個手渡した。

「なんだこれは」
「熊本県の荒尾あらお、三池炭田で拾った」
「一文の値打ちもないわ」

新井白石は荒男あらおとなって首領の首をぎりぎりと締め上げた。水田の土を大ざっぱに荒起あらおこしていた農夫が騒ぎを聞きつけてやって来た。

「おまえさんたち、喧嘩はやめろ」

新井白石と首領は組んずほぐれつして荒小田あらおだを転げ回った。

「こら! おらの田んぼを荒らすな!」

農夫が怒鳴った。

新小田あらおだかへすがへすも花を見るべく――新古今和歌集に詠まれた田んぼだぞ」

農夫は粗織あらおりの作業着の袖をまくって喧嘩を止めに入った。

「ビルマの殿あらかに忍びこんで国宝を盗みやがって!」
「知ったことか!」

新井白石と首領は怒り狂ってあらがに夢中になり、農夫はあらが木登きのぼ川渡かわわた、身の危険を察知して飛びのいた。泥だらけになってあらが二人はごろごろ転がって荒垣あらがきに体当たりした。

「里人の言寄せ妻を荒垣あらがきよそにやが見む」

農夫が呟いた。

「新古今和歌集か」

筒井が訊ねた。

「万葉集だ」

ひっくり返った荒籠あらかごを立て直しながら農夫が答えた。新井白石と首領は転がり続けてブナ科の常緑高木粗樫あらかしの幹にごつんと頭をぶつけた。二人が木の根元に来るのをあらかじ予想していたかのように一匹の猿が梢から大きな石を落とし、石は首領の頭に命中して首領は息絶えた。新井白石は身を起こし、アラウィーの部下たちのもとに戻って言い放った。

「見たか! 貴様たちがアジア各地で荒稼あらかせをした罰が当たったのだ。命が惜しいならシリアに帰れ」

粗方あらかたの部下たちは渋々賛成し、すごすごと退散した。最後までぶつぶつ不平を鳴らしていた部下が「お詫びの印に」と山から掘り出したままで精錬していない粗金あらがねを白石に手渡した。

粗金あらがねつちにしては素戔嗚尊すさのおのみことよりぞ起こりける」

白石は粗塗りをしただけの銭湯の粗壁あらかべに身をもたせて古今和歌集の歌を呟いた。すると猛々しい神が現れた。

「あなたは……霊験あらたかな荒神あらがみ!」

白石は眼を丸くして言った。

「うわ、現神あらがみだ」

農夫は仰天してへなへなとうすぐまり、そそくさと拝んですたこらさっさと逃げ去った。

「浅はかな人間はわたしを見るとすぐ現神だ、現人神あらひとがみだと抜かすが、正真正銘の荒神である。わたしの正体を一目で見抜いたそなたはさすがに新井白石だ」
「ありがとうございます」
「褒美に食事を馳走してやる」

荒神は白石に献立表を手渡した。

アラカルトで好きな料理を選べ」

白石は奥秩父の西部、甲武信ヶ岳こぶしがたけに発し、秩父盆地を流れて関東平野に出て、埼玉県の中部を貫く荒川あらかわ荒川あらかわという漁師が捕ったイワナの塩焼きと、粗皮あらかわをきれいに剥いた米で作ったリゾットを注文した。

「荒川さんという漁師は有名な人ですか」
荒川豊蔵あらかわとよぞうの孫だ」
「荒川豊蔵といえば岐阜生まれの陶芸家。岐阜県可児かに大萱おおがやで桃山時代の志野を焼いた牟田ヶ洞むたがほら古窯跡を発見し、志野と黄瀬戸、瀬戸黒の再現に尽力して文化勲章をもらった」
「さよう。イワナは荒川放水路あらかわほうすいろで釣った」

2016年12月14日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百十六回

筒井は疑問を打ち明けた。

「つかぬ事を伺いますが」
「なんだ」
「連載第百五十八回でアッラーに出会ったのですが、アッラーとアラーは同じ神ですか」
「そいつには父親がいなかったか」
「いました」
「スペイン語を話さなかったか」
「話しました」
「にせ者だ。わたしが正真正銘の唯一神だ。その証拠を見せてやる」

アラーは木の枝から地面に下り、小麦粉に重曹を混ぜたあらを頭に振りかけ、海水で髪を洗った。海水面が盛り上がり、大波となって堤防をあら、堤防の内側があらざらのように凹んで海水で満たされた。

「どうだ。恐れ入ったか」
「奇蹟といえば奇蹟ですけど、なんか中途半端だなあ」
「こうなったらあらいざらいぶちまけてやろう。アッラーを名乗る神はわたしの影武者だ」

アラーはあらざらの黒いシャツを脱ぎ、海水であらざらすために石鹸を泡立てて荒石あらいしでごしごしこすった。シャツは洗朱あらいしゆすなわち黄みを帯びた朱色に変わった。

「見ろ、奇蹟だ」
「安っぽいなあ。海を真っ二つにするとか天地をひっくり返すとか、もっと豪快な奇蹟はないの?」
「うるさい! 四の五の言わずにとっとと栃木へ行け」

筒井は馬にまたがり、アライグマのラスカルを抱いてユーラシア大陸を東へ向かった。川幅いっぱいに水流を横切って作った洗堰あらいぜきを越え、荒波が打ち寄せる荒磯あらいそを走り、中国渡来の古代切の一種で濃いはなだ色地に金糸で波に鯉の模様を織り出した織物荒磯切あらいそぎれを行商人が売りつけようとするのを無視し、荒波が打ち寄せる荒磯島あらいそじまを横目で見ながら馬を飛ばし、波間におどる鯉を織り出した荒磯緞子あらいそどんすを売ろうとするセールスマンを相手にせず、荒磯波あらいそなみが打ち寄せる浜辺を疾駆し、洗染あらいぞめすなわち薄紅色の粗板あらいたあらのコンクリートの壁に打ちつけては板の表面をあらひたづり木目をあら大工の作業を横目で伺い、あらのワンピースを着た人相の悪い女があらされて万引きの現行犯で逮捕される瞬間を目撃し、警官が女の罪状をあらてて調書をあらなお、女が涙ながらに余罪をあらなが現場には立ち合う間もなく、気がついたときには慶長六年に徳川氏が浜名湖の西、静岡県浜名郡新居町に置いた関所新居あらいせきにたどり着いた。

旅の疲れを癒やそうと銭湯の前に馬を止め、浴場のあらで体をきれいに荒い、風呂からあがって馬のところに戻ると黒い装束を着たいかめしい男がアライグマをじっと見つめている。

「あなたは……?」
「新井白石だ」
「え!」

筒井は腰が抜けそうになった。

「本物ですか?」
「当たり前だ。江戸中期の儒学者で政治家。名は君美きんみあざなは済美。通称、勘解由かげゆ。江戸に生まれて木下順庵の門人になった。六代将軍徳川家宣、七代家継の下で幕政を主導した。朝鮮通信使への応対変更、幣制・外国貿易の改革、閑院宮家創立などの業績がある。著書も多い。『新井白石日記』『藩翰譜』『読史余論』『采覧異言』『西洋紀聞』『古史通』『東雅』『折たく柴の記』など、枚挙に暇がない」
「略歴をすらすら言えるなら本人に違いない」

筒井は浴室で洗っておいた下着を板切れにあらして皺を伸ばし、あらばんで洗った靴下を板の縁にひっかけて干した。遠くを見ると地元の農夫が籾を水に浸さずにあらしている。新井白石はあら丸太まるたに繋いだ馬の横腹を撫でながらアライグマを物欲しげにじろじろ見て訊ねた。

「そなたが飼っているのか」
「飼っているというか、旅の道連れです。名前はラスカル」
「藪から棒で恐縮だが……譲ってはくれぬか」
「ちょっと無理ですね。アラーから授かった聖なるアライグマなので」
荒忌あらいみの儀式にどうしても必要なのだ」
「あらいみ?」
「祭祀で神事にあずかる者が真忌まいみの前にする物忌ものいみだ。この期間は仏事や弔い、見舞い、肉食などを禁ずる。食えるものはせいぜい水に漬けたあらめしと洗って皮を剥いた荒芋あらいもくらいでな。腹は減る一方であらものや洗濯掃除などの家事は山ほどあり、洗矢あらいやすなわち先端に布を巻きいて銃腔をぬぐうのに使う鉄製の棒の手入れもせねばならぬ。神仏に供えるためにあらよねも清めねばならぬ」
「それとアライグマとなんの関係が?」
「つまり……腹が減っては戦はできぬ……腹ぺこで、お腹と背中がくっつきそうで……頼む! 食わせてくれ!」

新井白石が大声を出したのに驚いて荒鵜あらうの群れがパッと飛び立った。

「アライグマが好物なのだ! よくあらって皮を剥いで味噌と一緒に鍋でぐつぐつ煮るとうまいんだ、これが」

新井白石は目が血走り、よだれをだらだら流してアライグマに手を伸ばした。筒井は奪われまいとして新井白石と格闘した。すると遠くの山の麓から土埃を立てて騎馬集団がやって来た。

「なんだなんだ?」

筒井が眺めて言った。

「あれは……アラウィー

新井白石が呟いた。

「アラウィー?」
「イスラム教シーア派に属する異端派だ」

騎馬集団が近づいてきた。よく見ると馬ではなく凶暴な荒牛あらうしで、ロデオのように暴れる牛をなんとか乗りこなし、あたりの家屋にぶち当たっては壁の下地として最初に荒木田土あらきだつちに砂と藁苆わらすさを混ぜたものを塗った荒打あらうちの土蔵に激突しながら荒馬あらうまのように暴れ回って筒井たちの眼の前にやって来た。

2016年12月13日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百十五回

「ここは私に任せて。さあ行きなさい。早く」

婦人警官は男の相手をした。筒井とアモス、挑文師あやとりのし、妖怪は早足であゆ先を急いだ。四人のあゆまひを見た沿道の人々は競歩の大会だと思いこみ、わらわらと市民が集まり、数百人がひしめき合ってあゆを競った。少年がひとり、挑文師が肩に担いだ筵を背後からさっと奪った。

「あ!」

挑文師は少年の首根っこをつかんで取り押さえ、押し問答の末にあゆ、筵を真っ二つにして半分を与えた。少年は雲を霞と姿をくらませた。

「おい、筵をどうした」

筒井が挑文師のほうを振り返ると群衆はいつの間にか数千人に増え、全員が剣道や柔道のあゆあしのように足を運んで大河のように流れ、どぶ川に渡した歩板あゆみいたにさしかかり、板は群衆の重みに耐えられず折れて人々は次々と川に落下した。筒井は挑文師を探した。筵の不始末をめぐって双方あゆをしたい、あゆりたいと思ってのことだが、一万人近い市民がかたまってあゆものすごい人波に紛れて姿を見失い、どつかれたり引っぱられたりした挙げ句、川に突き落とされた。ドジョウ科の淡水産硬骨魚鮎擬あゆもどを口にくわえた筒井が浅い川の真ん中に立ち上がると、体が動きやすいように袴の膝頭の下を足結あよいで結んだ男の子が岸辺に立って睨んでいる。

「鮎なんかなかったぞ。おじさんの嘘つき!」
「嘘じゃないよ。ほら」

筒井は鮎擬きをつかんで放り投げてやった。男の子は「わーい」と無邪気に喜んで魚を受けとり走り去った。街道をアムステルダム市民の大集団があよようにあよ、腰をくねらせながらあよんでいる。一万人どころじゃない、何万人もいるぞ――筒井はびしょ濡れのまま川から街道に上がり、口の中に鮎擬きのあらが残っていたのをぺっと吐き出した。競歩集団はスズキ科の海産硬骨魚𩺊あらが群れをなして泳ぐ海のほうへ向かっていた。あら鷲が一羽、沖から飛んできて岸辺の木の枝に止まり、黒い影が見る見るうちに人間の形になった。なんだなんだ? まさかあら人神じゃないだろうな。人波はまるで沈没船から脱出するネズミのように堤防から海へなだれ落ち、あとからあら手の軍勢に押されて次から次へと海へ落ちてゆく。

「おい、筒井」

木の枝から声がした。

あら、鷲が口をきいたぞ」
「鷲ではない。アラーだ」
「アラー? ひょっとしてイスラム教徒が信仰する全知全能にして唯一の神?」
「そうだ。わたしがアラービーに見えるか」
「アラービー?」
「エジプトの軍人で政治家だ。立憲制と外国支配の排除をめざし、『エジプト人のエジプト』を唱えてアラービー革命を指揮した。結局敗れてイギリス軍に屈したが、その後のエジプト民族主義運動に大きな影響を与えた。そんな男に見えるか」
「いいえ」

ズボンのポケットに入れっぱなしのスマートフォンがアラーム音を発した。

「なんだ、それは」
「なんでもありません。目覚まし時計を間違ってセットしてしまったみたいで」
「おまえはアムステルダムで何をしている」

筒井はオランダに来た顛末を粗粗あらあら語った。

あらあら、大変だったな。今後の冒険に備えてこれを持って行きなさい」

アラーは「あらあらかしこ」とだけ書いた便箋を一枚手渡した。筒井はひと目見て「なんだよこれ。要らないよ、こんなもの」と荒荒あらあらしく捨てた。

「唯一神の恵みを無下に断るとは不届き千万。腹が減っているだろうから鯉のあらを馳走してやろうと思ったが、やめた」

競歩の集団が雪崩を打って海へ飛びこんでゆく。

荒井あらいさん! 大丈夫?」
「駄目だ。人に押されて身動きが取れない」
「新潟県西部の新井あらい市で落ち合いましょう」
「うん、わかった。新井あらいさんも気をつけて――うわ!」

競歩に参加した二人の市民があら波が打ち寄せる海に落ちた。

「筒井、おまえは小説家だな」

アラーが言った。

「なぜわたしの職業を?」
「わたしは全知全能の神。おまえの素性はすっかりあらげてある。この人たちを見よ」

アラーは樹上から競歩の集団を指さした。

「全員が同じ方向に向かって盲目的に突進し、洗糸あらいいとのように繋がって海へ落ちてゆくではないか。海はまるで洗芋あらいいもが詰まったあらおけだ」
「確かに」
「まるで休眠状態になった蚕種を清水で洗浄して、付着している塵埃や雑物を除去するあらおとではないか」
「よくわかりませんけど」
「全員が同じ方向を向くとき、おまえは違う方向を向きなさい。それが生き延びる道である。――ずぶ濡れではないか。これを着なさい」

アラーはあらのシャツとズボンを与えた。筒井は裸になり、真新しい洗柿あらいがき色のシャツを着た。

「そのシャツはあらかたに注意しなさい。必ずドライで洗うのだ」

アラーはタオルを手渡した。筒井はあらがみのように濡れた髪をタオルで乾かし、洗革あらいかわのズボンを穿いた。身支度を整えた筒井にアラーが言った。

「ではその手紙を持って荒井寛方あらいかんぽうを訪ねなさい」
「あらいかんぽう?」

筒井は便箋を拾い上げて訊ねた。

「栃木県出身の日本画家で本名は寛十郎。仏画を得意とし、インドのアジャンター壁画や法隆寺金堂壁画の模写で有名だ」
「なぜその人を?」
「アラーが命じるからだ。ほかに理由はない。着替えを恵んでやったのに口答えするとは言語道断。――あらぎぬ取替川とりかいがわの川淀のよどまむ心思ひかねつも」
「は?」
「日本の小説家のくせに万葉集も知らぬのか。おい、額から血が出ているぞ。このあらぐすりをつけなさい」

筒井は川に落ちたときに怪我したらしい額に薬を塗った。

「荒井寛方はどこにいるんですか」
「栃木だ」
「アムステルダムから栃木、ですか……。遠いなあ」
「ならば馬に乗っていけ」

アラーが言うと眼の前に洗轡あらいぐつわんだ馬が一頭現れ、背中にあらぐまが一匹ちょこんと乗っている。

「このアライグマは?」
「ラスカルだ。旅のお供に連れてゆくがよい」

2016年12月12日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百十四回

「夢よ、これは夢だわ」

婦人警官は歩道に敷きっぱなしの綾筵あやむしろにへなへなとすわりこみ、植込みの菖蒲あやめを茫然として眺めつつ筵の文目あやめを指で撫でながら呟いた。

「夢じゃないよ。おいら妖怪だ」

婦人警官は目が点になった。挑文師あやとりのしが筵の文様を間近に見て驚いた。

「こ、これは古代の中国から日本に渡来した人のうちで大陸系統の技術による裁縫に従事した女、漢女あやめの手によるもの。国宝級だ。菖蒲合あやめあわせに使う品だ」
「あやめあわせ?」

筒井が訊ねた。

根合ねあわせとも呼ぶが、平安時代、五月五日の端午の節句に左右に分かれて菖蒲しようぶの根の長短を比べたり、歌を詠んだりして勝負をする遊びだよ。菖蒲占あやめうらと並ぶ伝統行事だ」
「あやめうら?」
「端午の節句の日、菖蒲を結んで『思ふこと軒のあやめにこととはむかなはば懸けよささがにの糸』という歌を唱えて事の成就を祈る占いだ。菖蒲の上に蜘蛛ささがにが網を張れば祈願成就の兆しなのだ」

菖蒲襲あやめがさねすなわち萌葱色の装束を着て頭には菖蒲鬘あやめかずらをつけた冠かぶり、腰に菖蒲刀あやめがたなを差し、大きな菖蒲兜あやめかぶとを片手にぶらぶらさせながら、七歳くらいの男の子がやって来た。

「その筵、俺のだ。どけ」

男の子は菖蒲草あやめぐさの模様が描かれた筵を指さして婦人警官に言った。

菖蒲輿あやめごしに使うんだよ。どいてくれ」
「あやめごしってなあに?」
「菖蒲を盛って宮中の御殿のきざはしのあたりに飾る輿だよ。五月五日は菖蒲酒あやめざけを飲んで祝うんだ。俺はまだ子どもだから菖蒲団子あやめだんごを食うんだ」

街路樹の梢で文目鳥あやめどりすなわちホトトギスがテッペンカケタカと啼いた。

「早くどけろよ。端午の節句は屋根に菖蒲をいた菖蒲あやめかどを立てて、菖蒲あやめくるまに乗って菖蒲あやめ蔵人くろうどが集まって菖蒲あやめさかずきを酌み交わすんだ。早くどいておくれよ。菖蒲あやめ節句せつくが始まっちゃうよ。菖蒲あやめつくえの用意はできたし菖蒲あやめまくらも結んである。菖蒲あやめも沸かしたし菖蒲葺あめぶきも軒に挿した。さっさとどけ!」

男の子が叫んだ。アモスには少年の話がちんぷんかんぷんで文目あやめもわかぬ。男の子は長唄の菖蒲浴衣あやめゆかたを鼻歌で歌いながら婦人警官を小突いた。警官は上から目線の洟垂れ小僧に腹が立ち、拳銃を構えてあやめようとしたが筒井とアモスが腕を押さえつけて思いとどまらせた。東風あゆが吹いて街路樹の葉を揺らした。

「おい小僧――いや、君、どうかこの筵を恵んではくれないか」

挑文師あやとりのしが訊ねた。

「もちろんただでとは言わない。あゆをご馳走するよ」
「鮎は大好物だ」
「それはよかった。山ほど食べさせてあげますよ」

挑文師は子どもをおだてて阿諛あゆ追従ついしようを並べ、ご機嫌を窺うさまは『ニッポン無責任時代』の植木等にあゆ。男の子の口からよだれがだらだらと。よだれを流しながらピョンピョン飛び跳ねて喜び、袴の膝頭の下で結んだ足結あゆいの紐が揺れた。

「鮎だけでは失礼だから、本をプレゼントしよう。『脚結抄あゆいしよう』だ。一七七八年、安永七年に富士谷成章なりあきらが出版した語学書だよ」
「俺、本を読むのも好きだ」

男の子は動きやすいように袴の裾を紐で足結あゆとコサックダンスを踊り始めた。

「そんなに喜んでくれるとおじさんも嬉しいよ。あそこの交叉点を左に曲がると魚屋さんがある。主人が店先で鮎を釣るのに使う鮎掛鉤あゆかけばりの手入れをしているからすぐわかるよ。鮎籠あゆかごがたくさん並んでいるから中を覗いてご覧。新鮮な鮎がたくさんあゆよ。主人は鮎汲あゆくの名人で、鮎鮨あゆずしをご馳走してくれるよ。さあ、早く行きなさい」
「うん!」

男の子は勢いよく駈け出して交叉点の左に消えた。

「いまだ! 急げ!」

挑文師は筵を丸めて肩に担ぎ、筒井とアモス、妖怪は一目散に反対方向に駈け出した。なぜか婦人警官もついてきた。

「この筵を売れば一攫千金だ」

挑文師は走りながら興奮して言った。

「あの小僧に見つからないように遠くへ逃げよう」
「どこがいい?」

筒井が訊ねた。

アユタヤはどうだ」
「どこ?」
「タイのバンコクの北」
「アユタヤは一七六七年にビルマに滅ばされたよ」

アモスが言った。

「本当か。では年魚市あゆちに行こう」
「日本か」
「ああ。尾張国愛知郡。名古屋市の熱田神宮付近だ。いまは愛知と書くが」
「愛知って、もとはアユチだったのか」

筒井が驚いて言った。

「うん。むかしは熱田神宮の近くから北西にかけて年魚市潟あゆちがたが広がっていた」

四人はアムステルダムの中心街から海をめがけて走った。

「うげ! いて、いてて」

挑文師が突然立ち止まった。三人がびっくりして様子を見ると、街路樹の枝から釣糸が垂れ下がり、先端の鮎釣鉤あゆつりばりが男の鼻の穴に引っかかっている。

「痛い、痛い」

挑文師が釣針を抜き取ろうとして慌てた拍子に足もとのバケツをひっくり返し、鮎苗あゆなえすなわち放流用の稚鮎ちあゆが車道に流れた。

「こら! 何をしやがる!」

東風あゆのかぜに乗って男の怒鳴り声が聞こえた。

2016年12月11日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百十三回

「ほう、綾取りか」

平安貴族のような出で立ちをした男が通りかかって足を止めた。

「あなたは……?」

筒井が訊ねた。

挑文師あやとりのしだ。律令制で織部司おりべのつかさに属し、錦や綾などの模様の織り方を教える専門家だ。わたしも混ぜてくれ」

男は妖怪と勝負し、糸を巧みに綾取あやどってエッフェル塔を作り上げ、妖怪が手も足も出せないのを見下して「どうだ、恐れ入ったか」と得意になり、指に力を入れて糸をぷつんと切った。

文無あやなや糸を切るとは。文無あやな

妖怪は男の身勝手な振舞いをたしなめ、糸を結び直してあやなし、親指と人さし指だけでアルハンブラ宮殿を作り上げた。

あやに賢き妖怪変化」

男は妖怪に一本取られて生憎あやにく思い、「ちくしょう、僕のほうが絶対上手だ」と地団駄を踏んで生憎あやにくがり生憎心あやにくごころにかられて糸を奪いとり、自分もアルハンブラ宮殿の形を作ろうと躍起になったが何度挑戦しても糸がこんがらかって生憎あやにく思いどおりにならない。「糸のせいだ。こんな糸はこうしてやる」男は生憎あやにくだち糸をぷつんぷつんと千切った。

「何をしやがる」

妖怪は烈火の如くいきり立ち、男が着ている綾錦あやにしき文布あやぬのをびりびり裂いてずたずたにした。丸裸にされた挑文師あやのしは恥ずかしさと悔しさで泣きだした。

「ざまを見ろ。勘弁してやるから踊りを踊れ」

男は涙をこらえて能の綾鼓あやのつづみを踊った。意外なことに男は踊りが達者で、さすがの妖怪変化も感心して訊ねた。

「誰に教わった」
漢織あやはとりだ」
「誰?」
「大和政権に仕えた渡来系の機織技術者だよ。ヒノキの薄板や皮であじろに編んだ綾桧垣あやひがきを舞台装置に見立てて特訓した」
「渡来系の漢人あやひとに習ったのか。羨ましい」
「本職よりも踊りのほうが有名になった。琉球国から薩摩の島津氏に世子嗣立を慶賀するために派遣された使節船の紋船あやぶねで大勢の人がわたしの踊りを見に来た」

男は再び得意げに踊り始めると足がふらつき、筒井があやぶむと足がもつれてあやふやになり、あやふや人形にんぎようのように滑稽な格好ですってんころりんと倒れた。

「ははは。ちょっと褒めたらこのざまだ」

妖怪はけらけら笑いながらお手玉を片手で三個放り投げては片手で次々と受けとめ綾振あやふの芸当を披露した。

「その技は京都府福知山盆地の城下町綾部あやべに伝わる秘伝!」

男は目を丸くした。妖怪は片手でひょいひょいと玉を投げては受け、一瞬手もとが狂ってあやほかど、取りこぼすことはなく芸当を続けた。アモスは歩道に転がっていた木の枝を綾巻あやまきに見立てて、砧で布を打つように地面を叩いて音頭を取った。調子に乗った妖怪が玉を思いきり高く放り投げると空中で二個の玉がぶつかり、一個を受け損なった。

「猿も木から落ちる。妖怪もお手玉のあやまですね」

アモスが気を遣って褒めた。

あやまちてはすなわあらたむるにはばかることなか

妖怪は諺を呟き、気を取り直して玉を投げた。

「あんたたち! ここはお手玉禁止だよ」

婦人警官が来て怒鳴りつけた。

過料あやまちりよう三万円払いなさい」
「え?」

妖怪がきょとんとした。

「この歩道は市の条例で喫煙とお手玉が禁止なの」

四人があらためて歩道を確認すると万国共通の禁煙マークに加えて「お手玉禁止」と赤いペンキで大書してある。

「別にいいじゃん、お手玉くらい」

妖怪は意に介さず玉を放り投げた。

あやまちをあらためざる、これをあやまちという

婦人警官は両手を腰に当てて仁王立ちした。

「アムステルダム市民を楽しませるためですよ」

妖怪が言い繕った。

「スケールの小さい人間に限ってあやまちをかざ
「おいらは人間じゃないよ」
「口答えするんじゃない! あやまちをてここにじんあやまって条例違反を犯するはあやまよ。あやまなさい」

婦人警官は四人にあやま証文じようもんを差し出して署名させた。

「正しい筋道から外れてあやまったときはあやまのが人の道よ」
「だからおいらは人間じゃないんだってば」

婦人警官は見せしめにあやることにし拳銃を抜いて心臓を撃ち抜いた。妖怪は涼しい顔で口笛を吹いた。心臓を撃ったのに死なない――不思議そうな顔をしてあやむる婦人警官を見て筒井とアモスが笑った。

2016年12月10日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百十二回

「やばい。怒りを買ってしまった」
「わたしに任せて下さい」

アモスは綾を畳み芯に麻を加えた綾威あやおどしの鎧を身につけ、綾竹を両手に持って踊り始めた。

「何をしておる」

アモンが怪訝そうに訊ねた。

綾踊あやおどりです。静岡、千葉、和歌山に伝わる民俗芸能。お気に召しませんか」
「召さぬ。綾織あやおりを披露しろ」
「あやおり?」
放下師ほうかしの曲芸だ。数本の竹管を何本か放り上げて手玉に取る技だ」

アモンはアモスに綾織竹あやおりだけを渡し、さあ、やれ、うまくできたら褒美に綾織物あやおりものをやるぞ、さっさと始めろと命じた。アモスは覚束ない手つきで竹筒を三つ同時に放り上げ、三つとも取り損なった。

「下手くそめ。もしもおまえが古代の宮中に仕える芸人だったら、あしぎぬで作った幕、綾垣あやかきの向こうに蹴飛ばされるぞ。ほら、これをかぶってもう一度やれ」

太陽神は綾笠あやがさを与えた。アモスは笠をかぶって再挑戦したが、何度やっても竹筒をキャッチできない。

「不器用だなあ、ははは」

突然妖怪変化が現れてからかった。

「貴様はあやかし

太陽神が驚いて言った。

「そうだよ。海の上に現れる妖怪、あやかりさ」
「ここはアムステルダムの中心街だぞ。粗忽者だな」
「えへへ。おっちょこちょいなんだ、おいら。あはは!」

妖怪は朗らかに笑った。神に皮肉られても動じないとはおめでたいやつだ。俺もこいつみたいに気楽に生きたい。あやかものだなあ。ああ、あやかりたい。筒井は妖怪が羨ましくて歯ぎしりした。妖怪は白い綾絹あやぎぬで織った服をまとい、雅楽の綾切あやぎりを歌いながら竹筒を二三本ひょいと宙に放り上げ、ジャグラーのように巧みにキャッチしては次々と放り投げた。手さばきが見事なだけではなく、雅楽の歌も紋切あやぎれ、すなわち発音が明瞭ではっきりしており、太陽神とアモスと筒井はすっかり感心した。太陽神が褒めると妖怪は調子に乗って沖縄の宮古諸島に伝わる古い民謡の綾語あやぐを歌った。太陽神はご機嫌になり、綾葛あやくずすなわち綾織の葛布くずふ綾絹あやけんすなわち綾織の絹を褒美にとらせた。妖怪はいよいよ調子づいて新潟県柏崎市に伝わる民俗芸能の綾子舞あやこまいを踊った。太陽神はやんやの喝采を送り、あやゴロすなわち綾織のゴロフクレンをくれてやった。

「ん? あや

妖怪が羊毛で織ったごわごわのゴロフクレンを触ってみると大きな穴が開いている。

「不良品じゃないか。神がこんな粗末な品をくれるなんてあやしい

妖怪は太陽神を睨みつけた。

「わたしを疑うのか」

太陽神は威儀を正したが額から冷や汗が流れ、あやしばんだ。妖怪の頭の上にぽっとあやが浮かんだ。

「こいつは太陽神じゃないぞ」

妖怪があやしび、躍りかかってこてんぱんにあやしんだ

「わあ、ごめんなさい」

太陽神は平謝りした。筒井とアモスは神の態度が豹変したのであやしんだ

「わたしはテーベの守護神アモスだ。ただの守護神だったのに、のちの時代の人間が勝手に太陽神と同一視したんだ」

アモスは赤ん坊のようにわあわあ泣きだした。筒井は肩を抱いて「泣くなよ、よしよし」とあやした。アモスは眼から涙をあやした。筒井とアモスはアモンに肩を貸して街路樹の綾杉あやすぎの根元にすわらせ、綾菅笠あやすげがさをかぶらせた。するとアモンの体が見る見るうちに縮んで石化し、綾摺あやずりの文様に彩られた地蔵になった。

「神奈川県の綾瀬あやせで見たお地蔵さんにそっくりだ」

筒井が眼を丸くして言った。妖怪は綾竹あやだけを両手に持ち、尻っ端折りに綾襷あやだすきで踊りながら、彼奴あやつはにせ者の神だと罵った。妖怪は綾槻あやつきすなわち木目が美しいケヤキの板切れ拾い、地蔵の額に板の角でばってん印をつけた。

「なんのまじないだ」

筒井が訊ねた。

綾子あやつこだよ。生まれた子を初めて宮参りさせるとき、おでこに魔除けとして「×」や「犬」や「大」の印を書くのさ。こいつが生まれ変わったときに災難に遭わないように」

妖怪は太神楽の芸人のように板切れを自分のおでこに立ててバランスを取って見せた。あやつが見事だ。筒井は感服した。

「君は手先が器用で踊りも歌もうまいね」
操狂言あやつりきようげんも得意だよ。操座あやつりざで修行したんだ」

妖怪は歌舞伎舞踊の長唄操三番あやつりさんばを歌いながら踊った。

「人形劇の操芝居あやつりしばいではちょっとしたスターだったんだぜ。操浄瑠璃あやつりじようるり操人形あやつりにんぎようの真似ならお手の物さ」

妖怪は人形師にあやつられる仕草をしておどけた。筒井とアモスは手を叩いて喜んだ。「そなたにアヤトラの称号を与えましょう」アモスが言った。

「何それ」
「イスラム教シーア派法学者の称号です」
「イスラム教って、おまえは旧約聖書の人物だろ」

筒井が口を挟んだ。

「旧約聖書はイスラム教と深い繋がりがあるんです。そもそもキリスト教もイスラム教も崇める神は同一」
「へえ」
「わーい、おいら人に褒められたのは初めてだ」

妖怪はぴょんぴょん飛び跳ねてはしゃぎ。三人は地面にすわって綾取あやとをして遊んだ。

2016年12月9日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百十一回

主人は阿弥陀の首根っこをつかまえ、毒入りのあもを無理やり喉の奥に押しこんだ。

「う、うぐ……」

阿弥陀は喉を詰まらせて目を回し、テーブルにばたんと倒れた。

「残るはおまえだな。阿母あもに誓ってあの世に送ってやる」

店主は中国福建省南東部の港湾商工都市廈門あもいから取り寄せたハチ目細腰亜目あもくの蜂から抽出した毒を文字もじすなわち姉と協力して表面に塗りたくった余木あもしぎ、つまり節が多くて用材にならない木片を筒井の口に押しこもうとにじり寄った。筒井は恐怖におののいて立ち上がり、入口のドアに向かって走ると外から扉を開けて男が走ってきた。

「こっちだ、さあ、早く」

男は筒井の腕をぐいとつかんで引きずるようにして表に飛び出した。二人は脱兎のごとく走りづめに走って繁華街の外れに来て立ち止まり呼吸を整えた。

「危ないところだったね」
「ありがとう。おかげで助かりました。ところであなたは……?」
アモスだ」
「ラモス瑠偉?」
「それはサッカー選手だろ。アモスだよ。旧約聖書に登場するんだけど、読んだことない?」
「聖書は学生時代に斜め読みしたくらいで」
「紀元前八世紀のユダ王国の預言者だ。社会正義を説いて回った」
「あの店の主人は何者なの?」
「神や仏や聖なる者を目の敵にする悪魔さ。店の奥で姉と共謀して毒入りの餅搗あもつきをしては神々を殺しまくってる。あいつの足元あもとにはギリシア神話やローマ神話の神々が殺されて死屍累々だ」

アモスは筒井の手を引いて水田が広がる田園地帯に案内した。畦元あもとすなわち苗代周辺部の色のよい苗が青々と茂っている。

「君の足元踏元あもとふもとをまだ聞いてなかったね」
「え?」
「身分や素性さ」
「作家です。小説家。名前は筒井康隆」
「日本人か。日本といえば万葉集にこんな一節があるね。――天降あも天の香具山霞立つ春に至れば」
「よくご存じですね」
「こんなのもあったな。――高千穂のたけ天降あもりし皇祖すめろきの」
「詳しいなあ」

筒井は感服すると同時に己の無知を恥じた。

「日本人に褒められると嬉しいな。本当はね、生物学のほうが詳しいんだ。生物分類上の階級のひとつに亜門あもんというのがあってね、門とこうのあいだに位置する。たとえば脊椎動物門は原索動物亜門と脊椎動物亜門に分けられる」
「へえ。わたしは根っからの文系人間で、理系はちんぷんかんぷん」
「くだらない話はそれくらいにしろ!」

突然太陽が爆発したかのように輝きを増し、神が降り立った。

「我が名はアモン。古代エジプトの神。かつてはテーベの守護神であったが、のちに太陽神ラーと同一視されアモン・ラーと呼ばれるに至ったでござるなりはべれけれ」
「なんか変な言い回しですね」
「言葉のあやだ。人間の分際で言葉尻をとらえるとはおこがましい」
「ごめんなさい」

筒井は素直に謝った。

「おまえはひょってしてあやか?」
「は?」
「古代に日本に渡来した有力な氏族の末裔かと聞いておるのだ」

なんの話かさっぱりわからなかったが、相手の話に合わせるのも一興と、筒井は「はい」と返事をした。

あや! やはりそうであったか!」

アモンはひとりで勝手に感動した。

「一族の者ならば、褒美としてこの綾藺笠あやいがさをやろう」

アモンはを編んで裏に絹を張った笠を進呈した。綾取りの綾糸あやいとのように細い茎が縦横に編み上げてある。筒井は笠をかぶった。

「ついでに綾糸織あやいとおりも褒美にとらせよう」

太陽神は土屋一楽が発明した籐細工の精巧なキセル筒を手渡した。

「どうだ、気に入ったか」
「はい。煙草は三度の飯より好きです」
「隣にいるのは恋人か」
「え? あ、いえ、違います。この人はアモスです。旧約聖書の――」
「そうです、わたしは旧約聖書の――」
「照れるには及ばぬ。仲睦まじく肩寄せ合って歩くのは恋人同士と相場が決まっておる。恋人は結婚するのが道理。折よく今日はあやうだ。暦注の十二直じゅうにちよくのひとつ。造作や種蒔き、婚礼に吉とされる日だ。わたしが結婚式を執り行って進ぜよう」

アモンは二人の手を取って高々と掲げ、祝言を述べようとした矢先、足がつまずいてばたんと前に倒れた。すぐ立ち上がったが足がふらつき、どうもあやうい。どう見てもよぼよぼの爺さんじゃないか。筒井とアモスはあやうがった

「あの、お言葉ですが、わたしどもは恋人ではなく、さっき知り合ったばかりの他人です」
「そうであったか。あやうくそなたたちを夫婦にするところだった。しかしここで会ったも何かの縁。すまないが、危草あやうぐさを摘んできてはもらえぬか」
「あやうぐさ?」
「危険な絶壁に生える草だ。見ての通りわたしは足が弱い。その草のエキスを飲めば若返るのだ。おまえは漢氏あやうじだからよく存じておろう」
「あやうじ?」
「だから古代に日本に渡来した有力な氏族だと、さっき教えただろ!」

太陽神は声を荒げた。

2016年12月8日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百十回

主人は言いくるめられてしゅんとなった。水槽に巻貝の雨降あめふらしが一匹蠢いている。アムステルダム市民は日照り続きにようやく雨降あめふになったので仕事を休み雨降あめふ正月しようがつを祝い町中がお祭り騒ぎである。

「誰かが雨降花あめふりばなを摘み取ってくれたおかげだ」

主人が夜空に輝く牡牛座の中央部分の雨降星あめふりぼしを窓から眺めながら呟き、先ほどは失礼しました、お詫びの印に福引きをと三人に飴宝引あめほうびきを渡した。三人が籤を引くと全員サケ科の硬骨魚雨鱒あめますが当たった。主人は厨房から雨鱒の飴煮を急いで持ってきた。

「わたしは牛が食いたい。できれば毛の色が飴色で斑のある飴斑あめまだらがよい」

神武天皇があめもよの空を眺めつつ主人に言った。

「あいにく牛肉は品切です。雨催あめもよ雨模様あめもようになると問屋がすぐ店を閉めてしまうので」
「ああ、牛が食いたい」

神武天皇はあめやさめ、ひどく涙を流して泣き、涙は天山あめやまとなって渦を巻いた。主人は明の渡来人と言われる阿米屋が作った阿米屋焼あめややきの深皿で涙をすくっては窓の外に掻い出した。

アメヤ横丁よこちようから取り寄せてくれぬか」
「牛肉を? 日本から? いくらなんでも無理です。代わりに飴湯あめゆはいかがですか」

主人は水飴を湯に溶かしてシナモンを少し加えた飲み物を出し、アメラガすなわちマッチを擦ってキャンドルに火を灯した。

「そなたはアメラグの選手になりたいと申したな」
「アメラグ? アメリカのラグビー、アメリカンフットボールですか? なりたいなんて言ってません」
「いや、言った」
「言ったよ」
「確かに言いました」

阿弥陀と筒井が口裏を合わせた。

「アメフトと聞いて心を動かすこともあめり

神武天皇は勝手に話を進めた。

「よい選手になりたいなら本場アメリカに留学しなさい。体の動きはアメリカインディアンに学びなさい。アメリカインディアン諸語しよごを話す人々で、かの国がアメリカ合衆国がつしゆうこくと呼ばれる前から大陸に住んでいる。現地に着いたらアメリカざいで家を建てよ。三度の食事はアメリカ蝲蛄ざりがにを食べなさい。アメリカ白灯蛾しろひとりという蛾が木の葉を食い荒らすから気をつけたまえ」
「あの……」
「話の腰を折るな。体を鍛えたらアメリカズカップに出場しなさい。クラブ対抗の国際的外洋航海ヨットレースだ。優勝者はアメリカ篠懸すずかけアメリカそうで作った冠をかぶり、アメリカ駝鳥だちようにまたがってアメリカ独立戦争どくりつせんそうの英雄のように国内を行脚するのだ。生活はすべてアメリカナイズされるであろう。庭にはアメリカ撫子なでしこを植えてアメリカニズムを堪能せよ。野菜を食べたいときはアメリカねり、すなわちオクラを食べるがよい。街路樹はたいていアメリカふう、つまり紅葉楓もみじばふうだ。木陰のベンチにすわり、セリ科の多年草アメリカ防風ぼうふうの花を愛でよ。ただしアメリカまつで作ったベンチには注意しなさい。樹脂がにじみ出して汚れやすく、割れやすいのだ」
「お言葉ですが……」
「いいから黙って聞け。メキシコ人を差別するでないぞ。アメリカメキシコ戦争せんそうに負けたメキシコはニューメキシコとカリフォルニアをアメリカに奪われ、今も恨み骨髄に徹している。アメフトの試合に勝てばアメリカ労働総同盟産業別組合会議ろうどうそうどうめいさんぎょうべつくみあいかいぎアメリカわにの剥製をプレゼントしてくれる。アムステルダムのしがない定食屋の主人がはるばる大西洋を渡ってアメリカに渡り、アメリカンな暮らしを営み、ついにアメフトの花形選手になる――これぞアメリカンドリームアメリカンフットボールはプロ野球のアメリカンリーグよりも人気がある。アメリカ文学史上、エマーソンやメルヴィル、ポーらが活躍した十九世紀中葉のアメリカンルネサンス時代もアメフトはもてはやされた。どうだ、わかったか」
「よくわからないけど、わかりました」

主人は狐につままれたように言った。

「よろしい。ではアメリシウムを用意しなさい」
「アメリシウム?」
「超ウラン元素だ。元素記号Am、原子番号九十五。いくつかの同位体が知られ、いずれも放射能をもつ。一九四四年核反応により人工的に作られた」
「そんな物騒なものを何に使うんですか」
「アメリカは核兵器の国だ。油断するといつ核攻撃を受けるかも知れぬ。毒をもって毒を制すだ。災難に遭いたくなければ天稚彦あめわかひこに祈るがよい」
「あめわかひこ?」
「日本神話で天津国玉神あまつくにたまのかみの子である。天孫降臨に先だって出雲国に降ったが復命せず、問責の使者きぎし鳴女なきめを射殺し、高皇産霊神たかみむすびのかみにその矢を射返されて死んだ。アメフトの英雄になってオランダに帰国すれば国王夫妻が出迎えて下さるぞ」
「本当ですか。俄然やる気が湧いてきました」

主人は目を輝かせた。神武天皇の話は本当だろうか、主人を喜ばせたい一心であめをしゃぶらせるだけではあるまいかと筒井は思った。神武天皇は飴湯をぐいと飲んだ。途端に「あんじょれほげらば、なめちょんばらりほー」とわけのわからない言葉を発してテーブルに突っ伏し、意識を失った。

アメンチアだ」

主人が驚いて言った。「なんだ、アメンチアって」筒井が訊ねた。

「意識障害です。軽い意識混濁に思考の混乱、支離滅裂な言語表現を伴います。伝染病やアルコール中毒、頭部外傷などが原因」
「貴様、さては毒を盛ったな」
「ばれたか」

主人の目の奥がぎらりと光った。

「ばれてはしかたがない。そこにあるおつまみのアメンドウ、アーモンドにも毒を盛ったぜ

筒井はアーモンドをつまもうとした手を思わず引っこめた。飴湯の入ったコップをあらためて覗きこむと水黽あめんぼが浮いている。

「この店はあめぼうで有名な名店だとばかり思ってたが、飛んだ一杯食わせ物だったか」
「わしはこう見えても紀元前十四世紀エジプト第十八王朝の王アメンホテップの末裔だ。アメンホテップの呪いを受けるがよい」

2016年12月7日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百九回

「本日の前菜です」

主人が人間や獣や草花の形をした飴細工あめざいくをテーブルに並べた。窓にぽつぽつと雨雫あめしずくがしたたりアメシスト色の筋を描き、見る見るうちに雨車軸あめしやじくごと、吹き降りになった。

天知あめしらす神様もお腹がすくんですか」

飴を舐めながら筒井は神武天皇に訊ねた。

「なにしろ天界は暇なのだ。食事が唯一の楽しみだ。簾のような白斑がある牛、黄牛簾あめすだれを一頭丸焼きにして食べるのが好きだ」

店の外は雨台風あめたいふうのような嵐になった。

「本日のメインディッシュです」

主人が鯉に水飴を加えて甘辛く煮た飴煮あめを給仕してテレビをつけると天気予報が始まり、アメダスの映像が映し出された。

「台風が直撃するみたいだ」

飴玉あめだまを舌の上で転がしながら筒井が呟いた。

「アムステルダムに台風が来るとは珍しい」

阿弥陀があめちょこを舐めながら言った。

天地あめつちに怒りが満ちている」

神武天皇が窓から空を見上げた。

雨塊あめつちくれやぶらず。太平の世は雨も静かに降って土を壊さず、草木を培養するもの。この嵐はどうも不穏だ。みんなで天地あめつちうたを歌って神の怒りを静めよう」
「なんの歌?」
天地あめつちことば、平安初期の手習歌ですよ」

阿弥陀が筒井に教えた。

「「あめ(天)つち(地)ほし(星)そら(空)やま(山)かは(川)みね(峰)たに(谷)くも(雲)きり(霧)むろ(室)こけ(苔)ひと(人)いぬ(犬)うへ(上)すゑ(末)ゆわ(硫黄)さる(猿)おふせよ(生ふせよ)えのえを(榎の枝を)なれゐて(馴れ居て)」
「いろは歌か」
「いろは歌よりも古いのです」

阿弥陀は懐から巾着のような袋をひとつ取りだした。

「それは?」
天地あめつちふくろ。女の子が新年に幸福を多く取り入れ、逃がさぬようにと上下を縫い合わせて作る祝いの袋です」

誰しもが幸せを願う。雨が降るときは降る。それが自然の摂理、天地あめつちみちだ――筒井は心の中で呟いた。三人は定食屋で雨露あめつゆを凌ぎつつ天地の歌を唱えた。

「お代を頂戴します――五十万ユーロです」

主人が来て感情を請求した。

「五十万ユーロ? 日本円で六千万円以上じゃないか。ぼったくりだ」

筒井が呆れて言った。

「金がないなら腎臓を売ってでも金にしろ!」

主人は鞭をぴしゃりと床に打ちつけた。あめむちとはこのことか。筒井は猛烈に腹が立った。

「ここにいるおかたを誰と心得る! 天在あめな神武天皇であらせられるぞ」
「天皇だか誰だか知らんが飴煮あめにの代金はびた一文負けないよ。こんな安食堂でもアムステルダム市民に愛されて創業百三十年、あめかみあらかぜくしけずって商売してきたんだ。お客さんがくつろげるようにアメニティにも気を配ってきた。先代が死んだときは店を畳もうかと思ったが、常連のお客さんたちがどうか続けてくれと寄付金をくれて、おかげで今日までやってこられた。あめれて露恐つゆおそろしからず。ちょっとやそっとの脅しには乗らないぞ」
「わたしはあめ子孫、神武天皇である」
「もう聞いたよ」

あめあしが強まった。

「五十万ユーロを支払う代わりに鯇魚あめのうおを進呈したいが、どうだ」
「うお? 魚か」
「琵琶湖のビワマスだ」
「日本の魚か。興味ないね」
あめうみから降り立ったわたしがわざわざ恵んでやると言うのに。神に逆らうとあめおきてにより地獄に墜ちるぞ。地獄に墜ちたらもう二度とあめおしでを、月を眺めることもできなくなるぞ」
「つべこべ言わずにさっさと払え」
「おお、あめしたには守銭奴のなんと多いことか。嘆かわしい。天忍穂耳尊あまのおしほみみのみことが聞いたら嘆き悲しむに違いない」
「誰?」

筒井が訊ねた。

「長崎県壱岐市郷ノ浦町の天手長男神社あめのたながおじんじやに祀られている祭神だ」

あめ手数てかずがいよいよ増した。

天日槍あめのひぼこが聞いたらがっかりするに違いない」
「誰?」
「古事記と日本書紀に登場する新羅の王子だ。あめ御門みかどを訪れあめ御孫みまごと親しんだがあめ宮風みやかぜみやには祀られず、伝説によると遠江とおとうみ小夜さよの中山であめもちを売って歩いた。これを食べて出世したのが雨森あめのもりだ」
「は?」
雨森芳洲あめのもりほうしゆう。江戸中期の儒学者だ。中国語と朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて朝鮮使節と応接した――おい、主人」
「なんだ」
「常連が寄付金をくれたと申したな」
「ああ」
「出資してくれた金は返したのか」
「え? 」
「出資者には配当金を与えるのが筋道だ。雨晴あめはれてかさわす。愚物は災難が去ると、そのときの恩をけろりと忘れてしまう」
「でも……」
「でももへちまもない。天人あめひとに向かって口答えをする気か。雨降あめふって地固じかたまる。閉店の憂き目に遭わずに済んだ恩を忘れるとは言語道断。そんな了見では立派なアメフト選手になれんぞ」
「アメリカンフットボールになんか興味はない」
「馬鹿者! 物の譬えだ」

2016年12月6日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百八回

雨上あめあがとおぼしいアムステルダムは町全体が湿り、雨脚あめあしが激しかったことが伺われる。筒井は地面の雨跡あめあとを眺めながら飴を舐めた。途端に激しく咳きこんだ。

「うぐ、げほげほ。毒じゃねえか」

筒井は石ころを拾ってはアムンゼンに雨霰あめあられと投げつけた。アムンゼンも水飴色の飴石あめいしをぶつけて応戦し、「毒を食わせて俺を殺す気か」「おまえこそ恩を仇で返しやがって」と蛙鳴蝉噪あめいせんそう、そこへ飴色あめいろ黄牛あめうしを一頭引いて「飴いらんかえー」と飴売あめうりの男が通りかかった。

「飴なんか要らねえよ」

筒井はアメーバのように手足を盛んに動かして小石を飴売りにぶつけた。アムンゼンも矛先を転じてアメーバ運動うんどうしながら男に石を次々と投げた。

「うう、く、苦しい」

筒井ががっくりと膝をついて地面に伏し、血便を漏らした。

アメーバ赤痢せきりだ」

アムンゼンが驚いて言った。

「血便の下痢が一日数回、ひどいときは数十回続く。放っておくと慢性化して肝臓に膿瘍ができる。ざまあみろ、くわばら、くわばら」

アムンゼンはわざわざ病状を解説して立ち去った。雨雲が二つに割れ、眼を射るような一条の鋭い光が射しこみ、神が降臨した。

「これはこれは、天圧あめおすかみ

阿弥陀が穏やかな笑みを浮かべて言った。血便を漏らしながら筒井が見上げると後光に目が眩んで正体がわからない。

「誰?」
「神武天皇ですよ」

筒井は茫然とした。古事記と日本書紀に登場する神武天皇が実在するとは。呆気にとられるうちに雨が降り始めた。

「阿弥陀よ、久しぶりだな」
「ご無沙汰しました。あなたはやっぱり雨男あめおとこですね」
「男だからな。雨女あめおんなとは呼ばれない」
「お二人は知り合いなの? 神と仏じゃ水と油じゃないの?」

筒井が訊ねた。

「神と仏が親しく交じり合うのが日本文化です」

阿弥陀が答えた。

「そなたはうずくまっているが、どうかしたのか」

神武天皇が筒井に訊ねた。

「アメーバ赤痢に罹ってしまいまして」
「それは難儀であろう。これを食べなさい」

神武天皇は砂糖を煮つめて作った飴菓子あめがしをひとつ手渡した。

「結構です」
「要らぬと申すか」
「さっき飴を舐めたら赤痢になったんです」
「これは解毒剤だ。舐めてみよ」

筒井が恐る恐る舐めると下腹部の痛みがたちどころに消え、下痢がぴたりと治まった。

「凄い!」
あめした、わたしの霊力が及ばぬところはない。ついでにこの飴粕あめかすもくれてやろう」

神武天皇は飴の材料から飴を絞ったあとのかすを渡した。筒井が犬のようぺろぺろ舐めると雨風あめかぜが強まった。

「どうだ、腹はすいておらぬか」
「ぺこぺこです」
「ではあそこの雨風食堂あめかぜしよくどうで腹ごなしをしよう」

神武天皇は筒井と阿弥陀を引き連れ、菓子や飯、酒などなんでも食べさせる食堂に入った。

「いらっしゃいませ」

長方形の革製の袋、雨風胴乱あめかぜどうらんを腰から提げた店主が三人を迎えた。店の前を大勢の人が男と女の人形を高く掲げてわいわいがやがやと通り過ぎていく。

「なんのお祭りですか」

筒井が店主に訊ねた。

雨風祭あめかぜまつりだよ。農民が雨風の害を避けるために男と女の人形を二体作って町外れに運んで焼くんだ。今日みたいに雨勝あめがな日でも雨天決行、あめろうがやりろうが祭はやめない」

人形をよく見ると体じゅうに「雪」「雲」「霜」「電」など雨冠あめかんむりの漢字がびっしり書きこんである。

「雨が嫌なら神や仏に祈ればいいのに。お二人は雨を降らせるのもやませるのも簡単でしょ」
「朝飯前だ」

神武天皇が答えた。

「白河法皇でさえ雨禁獄あめきんごくをした」
「あめきんごく?」
「法皇が法勝寺へ行こうとしたが雨に降られて三度も妨げられ、怒り狂って雨を器に盛って獄に下したのだ」
「すっげー! 神ってる!」

筒井は思わず二〇一六年流行語大賞に輝いた言葉をあめいた

2016年12月5日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百七回

「少しは気が楽になりましたか」
「おかげさまで」
「江戸時代の漁師は網役あみやく、つまり税金を納めて、仕事帰りにこうして店先で網焼きを食べて一日の疲れを癒やしたのですよ。それが何よりのアミューズメントだったのです」

筒井は鯛をおかわりした。唾液に含まれるアミラーゼが魚肉のグルコースを分解した。魚肉はアミルアルコールのような嫌な臭いがしたが、気にせず食った。体内の組織に灰白質のアミロイドが沈着し、アミロイドーシスにより筒井は肺結核に罹った。

「げほげほ。く、苦しい」

咳きこみながらも筒井は鯛を食べ続け、アミロースアミロペクチンをたっぷり含む澱粉が胃に流れこんだ。

「筒井! 神妙にしろ」

驚いて振り返ると銭形警部が仁王立ちしている。こんなところであみっていたとは!

「とっつぁん、俺、病気なんだ」
「嘘つけ。その手に乗るか」

筒井は咄嗟に極悪人の店に戻り、陳列台のガラス瓶を握って銭形に投げつけた。中身は悪臭を放つアミンで、液体を全身に浴びた銭形は「うわ、くさい」と七転八倒し、その隙に筒井は阿弥陀の手をとってあむが飛ぶように一目散に逃げた。交叉点をいくつも曲がり、追っ手が来ないのを確認すると筒井は立ち止まりぜいぜい咳きこんだ。

「液体をみたあの男はどなたですか」

阿弥陀が訊ねた。

「銭形っていう警部です。最近『日本犯罪大全』とかいう論文集をんだらしい。しつこいやつでね、どこまでも追いかけてくる」
「恋人ですか」
「まさか」
「相思相愛、フランス人が言うアムールではないのですか」
「冗談じゃない」
「アモーレではないのですか」
「俺は長友佑都じゃない。げほげほ、ごほごほ」

筒井の咳がひどくなった。

「肺結核はきれいな川の水を飲めば治りますよ」
「川ったって、この淀川はどぶ川だ。とても飲めたもんじゃない。かといってアムール、黒竜江に行くわけにもいかないし」
アムがわに行きましょう」
「どこ?」
「別名アム・ダリア。中央アジアの大河です。パミール高原に発し、中央アジア数ヶ国とアフガニスタンの境をなし、転じてウズベキスタンとトルクメニスタン両共和国の境界をなし、カラクムとキジルクム両砂漠を流れてアラル海に注ぎます。霊験あらたかな水です」
「でも、どうやって……」
「まかせなさい」

阿弥陀は竹で編んだ目の粗い編席あむしろに筒井をすわらせ、自分は背後に立ち、目を閉じて念ずるとむしろはふわりと宙に浮かび、空飛ぶ絨毯のように大空を飛んだ。上空から淀川を見下ろすとパンツ一丁の子どもたちが川の水をむせ合っている。筵は雲の上を飛び、大都会に着地した。ドイツ語らしき言語が聞こえる。

「ここは……?」
「どうやらアムステルダムですね。ほら、あの建物はアムステルダム・インターナショナル、国際労働組合連盟です」
「なんでオランダに来るんだよ」
「仏も間違いを犯すことがあるのです。ではあらためてアム・ダリアに向かいましょう」

阿弥陀が再び眼を閉じて念じ始めたとき、矢が一本飛んできて筒井の頭をかすめた。「うわ」思わずのけぞって振り返ると、土を山形に築いた射垜あむつちの前に置いた的をめがけてアーチェリーの選手が次々に矢を放つ。「早く飛んでくれ」筒井が叫ぶと筵は天高く舞い上がり、海を越えて別の大都会に着地した。

「ここはどこ?」
「どうやらロンドンですね。ご覧なさい。アムネスティ・インターナショナルの建物があるでしょう」
「ロンドンになんか用はない」
「でも好都合ですよ」
「なんで」
「アムネスティ・インターナショナルは投獄された政治犯の釈放や死刑と拷問の廃止、亡命者の保護などを目的とする国際組織です。お尋ね者のあなたが身を寄せるにはうってつけ」
「俺は肺結核を治したいんだ」
「なんですって? アムハラではなく日本語で話しなさい」
「さっきから日本語でしゃべってるだろ。なんだよ、アムハラ語って」
「エチオピアの公用語です」
「ほらみろ。ちゃんと俺の言葉が通じてるじゃないか」
「うるさいぞ、おまえら」

防寒具を重ね着して雪だるまのように丸々と太った男がそばに来て怒鳴りつけた。

「あなたは……」
アムンゼンだ」
「え? 世界初の南極点到達に成功した、あの探検家……」
「そうだ。おまえこそ何者だ」
「日本の小説家です。こちらは――

筒井は阿弥陀を紹介した。

「阿弥陀様です。あめから地上に降り立った仏様です」

あめがぽつぽつ降りだした。筒井は体が冷えてげほげほと咳きこんだ。

「君はひょっとして結核では?」
「ええ」
「ちょうどよいところで会った。このあめを舐めなさい。あめすなわちアメノウオの身をすりつぶし、大豆を煮だした豆汁あめに漬けこんで固めたものだ。結核の特効薬だよ」

2016年12月4日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百六回

筒井は信者たちが集まっては賽銭箱に次々と小銭を投げ入れ阿弥陀あみだひかりを拝むのを眺めた。

「お賽銭は多いほうがご利益があるのですか」
「もちろん。阿弥陀あみだひかり金次第かねしだいです」

境内に若者が七八人、阿弥陀胸割あみだのむねわりと呼ばれる古い浄瑠璃を上演している。観客の中に念仏行者らしき僧侶が混じっているのは阿弥陀聖あみだひじりだろうか。無病息災を祈願する阿弥陀法あみだほうの儀式を見終えた筒井と阿弥陀は境内をのんびり歩いた。沖縄八重山列島から来た漁師たちが共同収穫の配当である網玉あみだまを数えながら多いだの少ないだのとぶつぶつ言いながら阿弥陀曼荼羅あみだまんだら阿弥陀来迎図あみだらいごうずに手を合わせて拝み、茶屋の編垂あみだれから主人が現れて渋茶を振る舞った。

筒井と阿弥陀は境内を出て町の中心街に向かった。まるでパリの凱旋門のように巨大な阿弥陀像が聳え立ち、そこを中心として大通りが放射状に広がる阿弥陀割あみだわりの区画が物珍しい。道端では漁師が網の上げ下ろしに使う網綱あみづなに太い糸をれて修理している。筒井はスマートフォンのカメラで阿弥陀像を撮影した。ディスプレイで確認すると網点あみてんがたくさん集まった部分が色濃く見える。ついでに道沿いの商店を次々に撮影すると乾物屋の網戸あみどから女主人がひょいと顔を出し、「勝手に撮らんといて」と怒鳴りつけ、編戸あみどをばたんと閉めた。隣の店先にガラス瓶がずらりと並び、中に透明な液体が入っている。

「これはなんですか」

筒井は店主に訊ねた。

アミドや」
「アミド?」
「アンモニアの水素原子をアシル基で置換した化合物や」
「何に使うの?」
網取あみとや。網を張って小鳥を捕るねん。餌にアミドを混ぜると網鳥あみどりが仰山捕れるんやで」
「あみどり?」
「知らんか? ホトトギスや。中国人が爆買いしてくれまんねん。一羽百万円。おかげでビルを七つも建てましてん。笑いが止まらんわ」

野鳥を無断で捕まえて売るとは。筒井は義憤に駆られた。

「腹を立ててもしかたがありませんよ」

阿弥陀がやさしく言った。

網呑舟あみどんしゆううおらす
「え?」
「舟を呑みこむほどの大きな魚が網を飛び越えるように、大罪人はえてして刑罰を逃れるものです」
「ちくしょう。あんなクソじじいがぼろ儲けしやがって」
網無あみなくてふちをのぞくな
「は?」
「充分な用意なしには成功はおぼつきません。努力しないで他人の成功をうらやんではなりません。漁師が網で魚を捕るときは、潮流の影響によってどんな網成あみなりになるかを計算して網を投じ、網縄あみなわを調整します。立派な網主あみぬしになるにはそれ相応の準備が必要です」

阿弥陀は筒井を諄々と諭した。店主はアミノが入った瓶を軒先に並べ、観葉植物のあみのきすなわち栴檀せんだんに水をやった。筒井が腹立ちまぎれに陳列台を蹴飛ばすとアミノさんが入ったガラス瓶が落ちて粉々になった。

「おい、何してけつかるねん」

店主はバケツ一杯のアミノ酸醤油さんしようゆを筒井の体にぶちまけた。

「うわ、この野郎!」
「ざまあみろ。その醬油にはアミノピリンが含まれとる。亜硝酸塩と混ぜると発癌物質を生成するんじゃ。ええ気味や」

店主は簾の背後に隠れ、醬油まみれになった筒井の姿をあみから覗いてけらけら笑った。

「わいの商売はあみから、引く手あまたや。警察に通報しても無駄でっせ、あみかぜとまらずじゃ」

こんな極悪人がなぜ法のあみをくぐるのか。網で捕る魚、あみものみたいに一斉検挙できないものか。警察があみものつまり漁師だったらこんな小魚一匹捕まえるのは朝飯前だろうに。江戸時代ならふんづかまえて重罪人を護送した網乗物あみのりものに乗せて市中引き回しだ。自動車のねずみ取りなんかしてる暇があるならすぐここを網場あみばにしてじじいを逮捕して、網針あみばり編針あみばりで体を刺して痛めつけ、網版あみはんつまり写真を撮って全国に顔を知らせるべきだ。警察は網引あみひして魚を捕る網人あみびとのように悪人を捕まえるのが仕事じゃないか。なんのために俺たちは税金を払ってると思ってるんだ。犯罪者はみんな網船あみぶねに乗せて沖に追放し、あみすなわちおもりと一緒に海の底に沈めちまえ。悪人を一掃すれば女たちも安心して編棒あみぼうで編物ができるし、乙女座の東に輝く網星あみぼしを心ゆくまで眺められる。犯罪者は水田に浮遊して稲に害を及ぼすあみみどろだ。法の網目あみめはセーターの編目あみめよりも細かいほうがいい。平織か綾織の地の表面に別の経糸たていと緯糸ぬきいとを加えて金網状のがらを浮き出させた網目織あみめおりくらいがちょうどいい。網目蜉蝣目あみめかげろうもくの昆虫なら一網打尽だ。警察は網元あみもとを見習え。仕事中に編物あみものなんかしたら許さないぞ。この税金泥棒め。

「さっきから何を考えているのですか」

頭から湯気を立てる筒井に阿弥陀が訊ねた。

「まるで河竹黙阿弥の歌舞伎『網模様灯籠菊桐あみもようとうろのきくきり』の一場面のようにひとりで興奮していますね」
「腹の虫が治まらない」
「おいしいものを食べなさい。心が落ちつきますよ」

阿弥陀は隣の魚屋で鯛の網焼あみやを買い筒井に与えた。筒井は貪り食った。

2016年12月3日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百五回

「ちょっと漢字を知ってるくらいで威張るな」

筒井は逆ギレした。

「天邪鬼なんて鬼の下っ端だろ」
「鬼には上も下もないよ」

天邪鬼は網の目のように粗く縫った網衣あみぎぬを脱ぎ捨て、ボクサーのように両手の拳を構えて「かかってこい」と挑発した。筒井もシャツの袖をまくって両手を構え、二人は殴り合いの喧嘩を始めた。騒ぎを聞きつけた網漁業組織網組あみぐみの連中がわらわらと集まってきた。二人は激しく殴り合い、漁業用の綱や網を収納する高床式の網倉あみぐらの柱に勢い余ってぶつかり、柱が折れて倉が倒壊した。

「こら!」

綱元の下で実際に網漁業に従事する網子あみこが叫んだ。

「商売上がったりだよ」

文様の部分だけ地色と異なった配色糸を挿入し、地の部分と交互に編み進みながら文様を編み出したの着物を着た妻が心配そうに言った。筒井と天邪鬼は人が集まってきたことにも気づかず、組んずほぐれつして闘い続け、漁師の子どもが小鳥を捕まえるために仕掛けたあみさすを蹴飛ばした。

「あーん! せっかく網地あみじを切って自分で作ったのに!」

網襦袢あみじばんを着た子どもが泣きべそをかいた。

「いい加減にしろ!」

漁業組合の組合長が怒鳴りつけた。筒井と天邪鬼はハッとして闘いをやめた。

「おまえたちのような乱暴者は奄美大島から出て行け」

組合員たちは二人に躍りかかって組み伏せ、ロープでぐるぐる巻きにして小舟に乗せた。

網島あまじまに追放だ。船頭、頼んだぞ」
「任せろ」

二人は小舟に揺られて沖を進んだ。

「網島ってどこだろう」

筒井が呟いた。

「大阪市都島区だ。旧大和川と寝屋川の合流点だ。近松門左衛門の『心中天の網島』の舞台として有名じゃないか」

天邪鬼が小賢しく答えた。舟が網島に到着すると網杓子あみじやくしを片手に握ってあみシャツを着た不思議な集団が岸辺を歩いている。

「あの連中は……?」
阿弥衆あみしゆうだよ」

船頭が答えた。

「中世以降時宗じしゆう教団に従属する半僧半俗の人たちだ。妻子を養い、諸芸に従事し、阿弥号で呼ばれるんだ」

船頭は高価な葉巻をくゆらせながら教えた。

「船頭にしては金持ちみたいだな」
「網主に対して配当される収益の網代あみしろを分けてもらえるんだよ。船頭の仕事は趣味みたいなもんだ」

船頭は筒井と天邪鬼のロープをほどき、「どこへでも消え失せろ」と言い放って舟で奄美大島へ去った。淀川の水をみす地元の子どもたちが二人を怪訝そうな顔で見つめた。網を作る網結あみすきたちも網結針あみすきばりの手を休めて二人をちらちら見ながらこそこそ内緒話をする。魚の形を崩さずに煮るのに使う編捨籠あみすてかごを洗う主婦がちらっと二人を見て、目が合うと視線を外す。網をすく材料として用いる麻糸の網麻あみそを手入れする男も作業をしながら二人の様子を窺っている。四面楚歌だ――筒井は心の中で呟いた。

上流から岸辺を男とも女ともつかない人物が歩いてきた。穏やかな笑みを浮かべ、「網島へようこそ」と二人を迎えた。

「失礼ですが、あなたは……」

筒井がおずおずと訊ねた。

阿弥陀あみだです」
網大工あみだいく?」
「大工ではありません。阿弥陀です」
「え? まさか、阿弥陀笠あみだがさとか阿弥陀被あみだかぶりとか阿弥陀ヶ峰あみだがみねとかの語源になった――」
「はい。西方の極楽浄土を司る仏です」
「本物の阿弥陀様ですか!」

筒井は腰を抜かし、思わずうろ覚えの阿弥陀経あみだきようを唱えた。阿弥陀は二人に阿弥陀籤あみだくじを手渡した。

「あなたたちの運命を決める籤です。好きなのを選びなさい」

天邪鬼は右端の線を選んだ。線を辿った先に「網茸あみたけ」と書いてある。

「食用茸が当たりましたね。では召し上がれ」

阿弥陀は天邪鬼に茸を与えた。天邪鬼はぺろりと平らげた途端に苦悶の表情を浮かべて息絶えた。

「残念。毒茸でした」

阿弥陀がこともなげに言った。

「さあ、あなたの番です」

筒井は恐る恐る左端の線を選んだ。指が辿った先には「阿弥陀講あみだこう」と書いてあった。

「おめでとう。わたくしの功徳を讃える法会に参加する資格を得ましたよ」
「どういうことですか」
「あなたには阿弥陀号あみだごうを授けます」
「あみだごう?」
「浄土系の僧侶や仏工、画家、役者などの名の下に『阿弥陀仏』『阿弥』『阿』などをつけた称号です」
「役者も?」
「ええ」
「わたし、俳優なんです。筒井康隆と申します」
「それはちょうどよかった。あの寺をご覧なさい。火を焚いているでしょう」

筒井は指さされたほうを見た。密教の寺らしく、僧侶と信者がいろりのような火を囲んで念仏を唱えている。

阿弥陀護摩あみだごまという儀式です。阿弥陀三尊あみださんぞんを本尊として無病息災や延命を祈願しているのです。全国各地の阿弥陀寺あみだじした祈禱です」

阿弥陀は筒井を先導して阿弥陀堂あみだどうに入った。壁に網棚あみだながしつらえてあり、小さな阿弥陀二十五菩薩あみだにじゆうごぼさつが納められ、信者たちが手を合わせている。

「阿弥陀様……」
「なんですか」
「あの人たちは本物の阿弥陀様が、いま、ここにいることを知っているのですか」
「いいえ」
「教えてあげたほうがよいのでは……」
「教えないほうがよいのです」

阿弥陀は穏やかな笑みを絶やさずに言った。

「あの人たちはイエス・キリストがそばを通っても気がつかないでしょう。悟る者は悟る、悟らぬ者は悟らぬ。それだけのことです」

2016年12月2日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百四回

「逃げろ」

村人たちは踊りをやめて家に走り去った。取り残された筒井は正体を訊ねた。

あま邪鬼じやくだよ」
「あまんじゃく?」
天邪鬼あまのじやくか」
「なんでも望みをかなえてあげるよ」
「本当か」
「嘘だよ」

天邪鬼はおいしそうな木の実を差し出した。筒井は天邪鬼にあまんじるのは不本意だったが、せっかくの好意を無にするのは失礼だと思い、あまんずることにした。

「これは?」
アマンドだよ」
「アマンド? アーモンドか」

筒井は木の実をぽりぽり食った。すると空から大きなあみが落ちてきて全身をすっぽり覆った。。細かい網の目には小さなエビのような醤蝦あみがびっしり詰まっている。もがけばもがくほど網が絡みつく。

「た、助けてくれ」
阿弥あみを唱えればほどけるよ」
「あみ?」
「中世以降、浄土系の坊さんや画家や能役者が名前の下に阿弥陀仏とか阿弥とか阿とかの号をつけたんだ」
「なんだかわからんが、唱えればいいんだな。――あみ、あみ、あみ」

網はいっそう絡んだ。

「その発音はフランス語のアミだから駄目だよ、ははは」

網はどんどん絡まり、まるで編上靴あみあげぐつのようになった。

「おい、なんとかしてくれ」
「無理だよ。おいら、アミアンに用事があるんだ」
「アミアン?」
「フランス北西部、ソンム川沿いの都市だよ。繊維工業が発達して、十三世紀に建設された大聖堂はフランス最大で世界遺産だ」
「お忙しいところ恐縮ですが、助けてくれませんか」

まるで金網を張った網行灯あみあんどんのようになった筒井は懇願した。

「いいよ」

天邪鬼は漁網のおもりにする大きな網石あみいしを四つ、網の四隅にどすんと置いた。

「おい、かえって身動きがとれないじゃないか」

天邪鬼は罪人や戦死者、負傷者を運ぶのに用いる長方形の板を台にし、竹で編んだ縁をつけ、竹でつるした編板あみいたを持ってきた。手足をばたつかせればばたつかせるほど網が編み物の網糸あみいとのようにこんがらかり、筒井はアミーバのようにもぞもぞ動くばかりである。

「金網を封じ込んだ網入硝子あみいりがらすみたいだな。ははは」

天邪鬼がけらけら笑った。

「さてと、アミアンに行くか。あばよ」
「待て、待ってくれ」
「待てないよ。アミールと会う約束がある」
「アミール?」
「イスラム王朝の君主」
「ずいぶん偉い人と知り合いなんだな」
「当たり前だ。こう見えても神様だぞ」
「本当に神様なら人間を哀れに思ってくれ」

投網とあみを打って魚をとる網打あみうに仕留められたようにがんじがらめになった筒井は涙ながらに訴えた。

「助けてやってもいいけど、そのかわり網打場あみうちばに連れて行ってくれ」
「網打場? 漁港か?」
網人あみうど、漁師なんかに興味はない。江戸深川の遊郭だ」
「女郎を買いたいのか。引き受けた。連れて行ってやる」

天邪鬼は返事をしない。筒井が網の目から様子を窺うと何やら本を読んでいる。

「何を読んでる?」
アミエルの『日記』だよ」
「え?」
「フランス系スイスの哲学者で文学者だ。おまえ作家のくせに知らないのか」

筒井はぐうの音も出ない。細かく切った漁網を緯糸よこいとに交ぜて織った網織あみおりの塊のようになった筒井は、漁師が新調の網を初めて使う網卸あみおろのときもこんな風にからまった網をほどくのだろうかと思った。

「おまえ、メキシコのレストランで無銭飲食しただろ」

天邪鬼が鋭い声で言った。筒井はハッとした。言われてみればたしかに連載第四十八回あたりで無銭飲食した気がする。ちくしょう、こんなところであみがるとは。このままあみりて臭い飯を食うのだろうか。

「安心しろ。もう時効になったよ」
「本当か!」
「嘘だよ」

天邪鬼は漁網を干す網垣あみがきに体をもたせて笑いながら編笠あみがさをかぶった。天邪鬼はまさしく編笠一蓋あみがさいつかい、ほかになんの所持品もなく身軽だ。筒井は羨ましく思い歯ぎしりした。編笠尻あまがさじりすなわち尻が細く弱々しい牛が一頭のそのそとそばに来てモーと鳴いた。俺に乞食がもらうほどのわずかな編笠銭あみがさぜにがあれば天邪鬼を買収できるのに。編笠草あみがさそうすなわちエノキグサと編笠茸あみがさたけが茂る藪を網の目から覗きこみながら筒井はため息をついた。ところでこいつはなんで編笠をかぶってるんだろう。

「その編笠は……?」
編笠茶屋あみがさぢややに行ってきた人からお土産でもらったのさ」
「え?」
「遊郭に通う人に顔を覆う編笠を貸す茶屋だよ。江戸新吉原の大門の外にある。おいらを連れて行ってくれるんだろ?」
「おお、そうだった。案内するよ」

天邪鬼はこんがらかった網をほどいてやった。編笠餅あみがさもちのように丸まった筒井はやっとの思いで手足を伸ばした。傍らに編笠百合あみがさゆりの黄色い花が一輪、その下に紙切れが一枚ある。拾い上げて見ると「置罪罕」と書いてある。

「なんだろう」
「わからないのか」
「わからん」
罔頭あみがしらだよ」
「え?」
「漢字のかしらだ」

なるほど。「四」みたいな部分はあみがしらと言うのか。

「罔頭も知らないとは小説家とも思えないな。せいぜいで編物をするのがお似合いだ」

天邪鬼はケタケタ笑った。

2016年11月29日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百三回

「人間の家で雨を凌ごうか」

あまみきよが言った。

「嫌よ。どうせ雨漏あまもりがひどい天屋あまやでしょ」
「でも俺たちが顔を出せば、神様のご入来だって大喜びするぞ」
「人間をあまやかすのはよくないわ。京都の楽焼らくやきの祖阿米屋あめやが死んだあと妻の妙慶が焼いた尼焼あまやきをありがたがるような連中よ」
「でもどこかで雨宿あまやどしないと」
「雨雲の上に行けばいいんじゃない?」
「そうか。俺たちは神だもんな」

あまみきよと天女はふわりと宙に浮かんだかと思うと雲の彼方へ飛び去った。

「俺も連れて行ってくれ」

筒井が叫んだ。

「人間の分際で神にあまるとは図々しい」

あまみきよの声が遠くへ消えた。雨夜あまよにぽつんとひとり取り残された筒井は大きな葉っぱを傘に見立てて雨除あまよにしてかりそめの雨装あまよそをほどこした。そういえば源氏物語にこんな雨の夜の話があったぞ。たしか光源氏の所で頭中将とうのちゆうじようたちがさまざまな女の品評をする段だ。雨夜あまよ品定しなさだとかなんとか言ったっけ。学生時代に読んだだけだからうろ覚えだが。俺は奄美大島で一体何をしてるんだろう。思えばレイチェルを探しに旅を続けてきたのだ。レイチェルに会いたい。会いたいが雨夜あまよつき雨夜あまよほしで、どこでどうしているか皆目見当がつかない。俺の命運もこれまでか。

「何をひとりでごちゃごちゃ抜かしておる」

突然眼の前に神が降り立った。

「あなたは……?」
雨夜あまよみことだ」
「あまよのみこと?」
「盲人と琵琶法師の守護神だ」

神は糸のよりかたが緩い甘撚あまよの着物を風にはためかせて名乗った。

「おまえは雨が嬉しくないのか」
「え?」
「まわりを見ろ。雨喜あまよろこをしているではないか」

筒井があたりを見渡すと農民たちが日照り続きの末にようやく雨が降ったのでお祝いに仕事を休み、ヒユ科の園芸植物アマランサスが咲き乱れる畑で踊りながら酒らしきものをぐびぐび飲んでいる。

「あれは地酒ですか」
あまりだ」
「は?」
「酢だ。酢は発酵する途中でいったん甘くなる。だから『あまり』と呼ぶのだ」
「初耳だなあ」
「小説家のくせに」

なんで俺の職業を知ってるんだ? あ、神様だからか。なんでもお見通しなんだな。

「小説家ですが、食品関係のことはあまり知らなくて」
「おまえはレイチェルという黒人女を探しているのだろう」
「そうです!」
「さぞかし会いたいであろうな」
「一目でいいから会いたい」
「おまえの心中は察するにあま
「会わせて下さい」
「困ったときの神頼みとはあまごと、虫がよすぎる。天女に命を助けてもらい、あまりさレイチェルに会わせろとは片腹痛い。あまちやの一杯も馳走せず神に向かってああしろこうしろとはあまりて自分勝手」

雨夜の尊が「えい!」と念ずると筒井の足がうしろに滑って顔面からぬかるみに倒れた。

あまりとえばあまりにもひどい仕打ち」

筒井は泣きべそをかいた。

「自分の運命は自分で切り拓け。助けが必要なら余戸あまりべの人たちに頼むがよい」
「あまりべ?」
「大化改新のあとに成立した律令制で五十戸を「里」と呼んだが、それに満たなかった小さな村のことだ。さっき漁師に教わったばかりだろ」

雨夜の尊は呆れて姿を消した。筒井は踊っている農民に近寄り、あまものでいいので何か食べ物を恵んでくれませんかと訊ねた。

「なんだおまえは。せっかくのお祝いに水を差しやがって。このあまものめ」
「どうか、どうかお恵みを」
「ならこれを食え。ちょうど一匹余ったところだ。あまものふくありだ」

男は角がなく尾が細く全身が青黄色のトカゲのような大きな生き物を放り投げてよこした。

「これはなんですか」
雨竜あまりようだ。竜だよ」
「竜? 実在するんですか」
「するんですかって、眼の前にいるだろ」
「竜はちょっと……食べられません」
「文句ばかり言いやがって。葉っぱでも食え」

男は熱帯アメリカ産のヒガンバナ科ヒペアストラム属の数種をもとに交雑したアマリリスの葉を束にして投げ与えた。筒井は空腹に耐えかねてむしゃむしゃ食ったが味がまずくてとても食えたものではなく大半があまった

「皆さんは何を生業にしているのですか」
アマルガムだ」
「え?」
「水銀とほかの金属を溶かして混合する」
「奄美大島にそんな技術が……」
「田舎だと思って馬鹿にするなよ。水銀を使って金と銀を抽出するアマルガムほうアマルナ時代じだいから伝わってる」
「アマルナ時代?」
「古代エジプト第十八王朝の一時期、紀元前十四世紀だ」
「そんな昔から?」
「どうせこんな余部あまるべに古代エジプトの技術があるわけないと思ってるんだろ」
「余部って、余戸あまりべのことですよね」
「そうだ。余目あまるめとも呼ぶ」

「おまえたち、さっきから何をぐだぐだしゃべってるんだ」

空からあま邪鬼じやくが飛んできた。

2016年11月28日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百二回

橋の真ん中で思いあぐねていると雨がやみ、雲を払う雨晴あまらしが吹いて雨晴あまはになった。長雨が続いたのは地元民があまひきすなわち雨乞いしたからに違いない。

「ヤッホー」

筒井は晴れ晴れとして大声を出した。

「ヤッホー」

天彦あまびこ、つまり山彦が返ってきた。足もとにニョロニョロとムカデのような生き物が這ってきた。しゃがんでよく見ると雨彦あまびこすなわちヤスデだった。

「誰かいるかー」
「いるよー」

ん? 山彦が返事をしたぞ。

「誰だー」
天彦あまびこおとづれじとぞ今は思ふ――古今和歌集だよ」

空を見上げると、髪を尼削ぎにした尼額あまびたい天人あまびとすなわち天女がひとり優雅に舞いながら飛んできて筒井の眼の前に降り立った。橋の下では海人あまびとが海にもぐって貝を漁っている。

「あなたは……?」
尼姫君あまひめぎみです。浜松中納言物語中に登場する人物ですよ――というのは真っ赤な嘘。天女よ。おほほ」

天女は首から肩に垂らした天領巾あまひれをひらめかせて笑いながら、ポケットの口の上につけた雨蓋あまぶたを開いて半球型の雨蓋瓦あまぶたがわらを取りだし、筒井の頭にゴツンとぶつけた。

「いて! 何するんだよ」
「まあ、天女に向かってタメ口をきくとは。尼船あまぶねに乗せて尼崎に追放しちゃうぞ。それとも海人船あまぶねに乗せて漁師ともども海に沈めちゃおうかしら」
「やれるもんならやってみろ」

筒井は天女に躍りかかったが天女はひらりと身をかわして橋の向こうへ走り去った。筒井があとを追いかけて陸地に上がるとそこは小さな集落だった。筒井は漁網の手入れをしている男に訊ねた。

「ここはどこですか」
余戸あまべだ」
「あまべ? 聞いたことがないな」
「大化改新のあとに成立した律令制で五十戸を「里」と呼んだけど、それに満たなかった小さな村のことだ」
「こんなちっぽけな村で生きていけるんですか」
「馬鹿にするもんでねえ。こう見えてもわしらは海部あまべだ」
「は?」
「大和朝廷で直轄領の海岸を管理し朝廷に海産物を納める品部しなべだよ。――おまえさん、ひょっとしてお尋ね者の筒井康隆ではないかね」

ギョッとした。なんで俺の名前を知ってるんだ?

「神様の酒を盗んだそうだな。尼法師あまほうしともうひとり、阿部知子とかいう女をぐでんぐてんに酔わせたって聞いたぞ」

男は甘干あまぼしの柿をもぐもぐ食べながら筒井を睨みつけ、村人たちがわらわらと集まってきた。やばい。雨間あままに逃げたほうがよさそうだ。

空に一陣の風が吹き起こり、天女が屋形を唐破風からはふとしてひさしを作った牛車、雨眉あままゆくるまに乗って現れた。

「早くお乗りなさい」

筒井はわけもわからず牛車に飛び乗った。天女は巧みに操縦して大空を駈け巡った。眼下に広がる海をこわごわ眺めながら筒井は行き先を訊ねた。

奄美あまみよ。この柿、甘味あまみが少ないわ」

天女はいつの間にか漁民から奪ったらしい干柿を吐き出してポイと捨てた。前方に奄美大島あまみおおしまが見えてきた。

あまみきよと仲良しなのよ」
「あまみきよ?」
「沖縄開闢の神。。海のかなたのニライカナイから稲の種子をもたらして稲の栽培法を教えた神よ」
「さすがは天女だ」

牛車は奄美諸島あまみしよとうに向かって急降下し、大島に着陸した。牛車から降りると大地は雨水あまみずでぬかるみ、筒井は足をとられてすってんころりんと転んだ。

「大丈夫か。待っていたぞ」

あまみきよが甘味噌あまみそを舐めながら筒井を見下ろして笑い、天女を出迎えた。

「お久しぶり。元気だった?」

天女が挨拶した。

「見ての通り元気だよ。相変わらず尼御台所あまみだいどころに手を焼いてるがね」
「大臣や大将、将軍の妻で尼になった人たちね。わがままなのよね、あの女たち」

泥の中から身を起こした筒井が空を見上げると東の空に天満月あまみつつきが昇り、見る見るうちに天満星あまみつほしが満天に輝きだした。夜のとばりが下りたと同時に天然記念物の奄美あまみ黒兎くろうさぎが岩陰からぴょこぴょこ出てきて跳ね回った。村の青年たちが家々を訪れて何やら祝言を述べて回り始めた。

「あの人たちは?」
火斑剥あまみはぎだよ」

あまみきよが筒井に教えた。

「小正月の夜の行事だ。能登半島の風習がこの地に伝わったのだ」
「尼さんになった例の皇女、尼宮あまみやは最近どうしてるの?」

天女があまみきよに質問した。

「あのろくでなしか。あまめを、フナムシを見つけては足で踏んづけてるよ。殺生は御法度だというのに」

海辺に海女あまめが七八人、ヒルムシロ科の海産多年草甘藻あまもを摘み取っている。ひとりは乳飲み子に甘物あまものすなわち甘葛あまずらの湯を飲ませている。空が雨催あまもやになってきた。

あまもよだ」
「やっと晴れたと思ったら雨催あまもよ雨模様あまもよう。いやねえ、まったく」

あまみきよと天女が空を見上げてため息をついた。

2016年11月27日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百一回

「うまい酒だなあ」

筒井は天野樽あまのだるから酒を汲んでは飲み、汲んでは飲んだ。不思議なことに飲めば飲むほど頭が冴える。俺は哲学者でカント研究家の天野貞祐あまのていゆうに匹敵する頭脳を授かったのではあるまいか? 神々は酔ってぐっすり眠っている。知子も副会長もすやすや寝息を立てている。よし、今のうちに全部飲んでやるか。

酒を飲み干すとあまが開き、夜空に煌めくあま戸河とがわの瞬きを背に受けて神が仁王立ちした。

「勝手に飲んだのはおまえか」
「あなたは……?」
「天地開闢のときに現れた天常立神あまのとこたちのかみである」
天富命あまのとみのみこと?」
「違う。天富命は天太玉命あまのふとだまのみことの孫だ」

闇夜の海をあま鳥船とりふねが滑るように沖から岸へやって来た。

「おまえは伊弉諾いざなぎ伊弉冉いざなみ滄溟あおうなはら を探ったあま瓊矛ぬほこを盗むつもりだな」
「とんでもない」
あま詔琴のりごとあま羽車はぐるまあま羽衣はごろもも盗んで天橋立あまのはしだてに逃げるつもりだろう」
「誤解です。わたしはただこちらの神様にお酒をご馳走になっただけで」

筒井が樽の横を見ると、さっきまで眠っていたはずの神々がいつの間にか姿を消し、知子と副会長だけが泥のように眠っている。

「わたしに嘘が通用すると思うのか」
「嘘ではありません」
「おまえはあま羽袖はそでをひらめかす天女に惑わされて、素戔嗚尊すさのおのみことが大蛇を斬った剣であるあま羽羽斫ははきりと、天若日子あめわかひこが天神から賜り、神武天皇と饒速日命にぎはやひのみことが天孫民族の証としたあま羽羽矢ははやあま羽羽弓ははゆみを奪う気だろう」
「滅相もありません。おい、助けてくれ」

筒井は知子と副会長の体を揺さぶったが、まるで死んでいるかのように動かない。

「おまえは樽酒を勝手に飲み、その女どもにも飲ませて泥酔させた。あまはらで悪事を働くとは言語道断」
「誤解です」
「天岩屋戸の前で天香山あまのかぐやま真榊まさかきを取り、玉と鏡と和幣にきてをかけ、天照大神の出現を祈った天太玉命あまのふとだまのみことが聞いたらただでは済まないぞ」
「そんな……」
「天照大神の子天忍穂耳命あまのおしほみみのみことの子である天火明命あまのほあかりのみことが聞いたら即座に首をはねるぞ」
「ど、どうか命だけは……」
素戔嗚尊すさのおのみこと天照大神あまてらすおおみかみ()の誓約うけいの際に生まれた天穂日命あまのほひのみことが聞いたら八つ裂きにするぞ」

筒井は恐れおののいてがたがた震えた。

「日本の人民が増し栄える、あま益人ますひとであるのは我ら神々のおかげだ」

夜はいつか白々と明け、海女たちが海人あま両手肩まてがたで海水を汲んで両肩に桶を担いで運んでいる。

「天照大神が天岩屋戸にお隠れになったとき、刀や斧などの祭器を作った天目一箇神あまのまひとつのかみが聞いたら――」
「さっきから黙って聞いてりゃ神の名前をずらずら並べやがって」

筒井は逆ギレした。

「神が本当にいるなら当人が出てこい」
「よかろう」

天の岩屋の背後にある宮殿、あま御蔭みかげから神々がぞろぞろ現れて自己紹介した。

天之水分神あまのみくまりのかみです。水分神みくまり‐のかみとも言います。流水の分配をつかさどる神です。よろしく」
「僕は天御中主神あまのみなかぬしのかみ。天地開闢のはじめ、高天原たかまのはら)に最初に出現して、天の中央に座して宇宙を主宰しました。よろしく」

別の神が、材木の長さを測るあま御量みはかりを右手に持ち、左手には剣を握って、あま御柱みはしらからひょいと現れて言った。

「わたしは天御柱神あまのみはしらのかみ。風神です。どうぞよろしく」
「その剣は?」
天叢雲剣あまのむらくものつるぎ素戔嗚尊すさのおのみこと八岐大蛇やまたのおろちを退治したとき、尻尾から出たんです」
「わたしは天野元之助あまのもとのすけ。中国農業経済研究者です。満鉄調査部に勤め、中国各地で実態調査を行ない、のちに大阪市立大学と追手門学院大学で教授を務めました。主な著書は『支那農業経済論』と『中国農業史研究』です」
「なんで人間が出てくるんだよ」

筒井と神々は天野を睨んだ」

「――お呼びでない? お呼びでないね。こりゃまた失礼しました!」

天野は尻尾を巻いて退散した。海へ注ぐあまやすかわが朝日を受けて煌めき、あま八十蔭やそかげすなわち同じ宮殿から小柄な男が現れ、まるであま八衢やちまたで迷子になったかのようにきょろきょろあたりを見回して挨拶した。

「わたしは天野屋利兵衛あまのやりへえ
「ん? 神様っぽくない名前だな」
「江戸前期の大坂の商人ですねん。赤穂義士に武器を調達して自首したら追放されてしもうた」
「人間かよ!」
「実在したかどうかわからんと言う人がおりますけど、現にこうして存在してまんねん。当人が言うんやさかい、こんなに確かなことはあらへん」
「とっとと失せろ」

筒井はあま余所よそとばかりに追い払った。

「さて、おまえの裁きだが……」

天常立神あまのとこたちのかみは筒井に宣告した。

「罰として、クリームパン買ってこい」

なんてこった。ギリシア神話のアポロンは菓子パン、天照大神あまてらすおおみかみはメロンパン、そして今度はクリームパン。神様はどうして甘いものが好きなのだろう。

甘海苔あまのりじゃ駄目ですか? ほら、海にたくさん生えてますよ。取ってきましょうか」
「つべこべ言わずにクリームパンを買ってこい。これを着て行け」

筒井は雨羽織あまばおり雨袴あまばかまを着てとぼとぼ海岸を歩いた。地面は雨吐あまばき雨疏あまはけがよく歩きやすい。岸から遙か沖まで続く天橋あまはしを渡ると橋の向こうから兜の目庇まびさし雨走あまばしりを輝かせた男がやって来た。筒井は駄目元で訊ねた。

「すいません、つかぬ事を伺いますが、この辺に菓子パンを売ってる店はありませんか」
「さあ。わたしは天馳使あまはせづかいですので、あいにく存じません」
「あまはせづかい?」
「宮廷の神事や雑役に従事する者です」
「雑用係ですか」
「雑用って言うな! 神に仕える立派な仕事だ」

男は栗の甘肌あまはだを剥きながら怒鳴った。

「クリームパンなら雨畑あまばたが有名だよ」
「雨畑?」
「山梨県の南西部、南巨摩郡硯島村。雨畑石あまばたいし雨畑硯あまばたすずりの産地だ」
「ありがとう」

筒井は礼を言って別れたが、すぐ立ち止まった。菓子パンを買いに天草諸島に行くべきか、それとも山梨に行くべきか。

2016年11月26日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第二百回

「わたしも尼さんになりたい!」

知子が駈け寄った。

「よいところで出会いましたね。わたしは全国にあまね知られる『尼さん友の会』の副会長です」
「なんてラッキー! ――木末こぬれあまね色づきにけり」
「万葉集ね」
「はい」

太陽の光が大地にあまねはしあまねはった

「どうしても尼になりたいのですか」
「はい」
「ではわたしと一緒に天野あまのに来なさい」
「どこ?」
「大阪府河内長野市。金剛寺があります」
「わたし阿部知子と申します。こちらは旅の道連れの筒井康隆さん」
「どうも」

筒井は軽く会釈した。知子は副会長の名前を訊ねた。

天野あまのです」
「まあ、まるで天橋立や天岩戸のあまみたい」

三人が山道を降りると眼下に海が広がり、漁師が灯す海人あま漁火いさりが見えた。

「このあたりは海犬養あまのいぬかい一族の土地で、万葉歌人の海犬養宿祢岡麻呂あまのいぬかいのすくねおかまろあまいのちを授かった故郷です」

副会長が説明した。

「あの船をご覧なさい。あま磐樟船いわくすぶねです。伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冉尊いざなみのみことがあの船に子の蛭子ひるこを乗せて流しました」

筒井は耳を疑った。日本神話の船は実在するのか? 口をあんぐりと開けた筒井をよそに副会長は説明を続け、遠くを指さした。

「あれがあま岩倉いわくらです」
「まさか、高天原たかまがはら皇孫すめみまが住んでいたという――」

筒井は絶句した。この調子だとあま磐戸いわともこの辺にありそうだぞ。

「あの洞窟は天石門別神あまのいわとわけのかみのお住まいです。あま磐船いわふねに乗ってこの土地に来られました。ほら、あそこがあまの岩屋いわやですよ。その向こうがあま浮橋うきはし

副会長はあま岩屋戸いわやとを指し示した。

天照大神あまてらすおおみかみ素戔嗚尊すさのおのみことの暴状を怒って籠もったため天地が常闇とこやみになったという」

筒井が驚いて言った。

「ええ」
「神々が相談していろんな物を飾り、天児屋根命あまのこやねのみことが祝詞を奏し天鈿女命あまのうずめのみことが舞ったところ、大神が出てきて世が再び明るくなった」
「よくご存じですね」
「むかし古事記を読みました。たぶん北半球で冬至に太陽の力が弱まり復活するタイプの神話だと思うけど」
「学者はそう解釈するようですね。学者には天忍日命あまのおしひのみことの偉大さがわからないのでしょう。ニニギノミコトの父である天忍穂耳命あまのおしほみみのみことも空想の産物だと思っているに違いありません。でも岩屋戸の横をご覧なさい」

剣が一本地面に突き刺さっている。

伊弉諾尊いざなぎのみこと迦具土神かぐつちのかみを斬った剣、天尾羽張あまのおはばりですよ」

三人は山道を下りて海岸に出た。案摩あまおもてと呼ばれる長方形の仮面をかぶった女たちが舞楽を舞っている。筒井の脇腹をヒュッと矢がかすめた。

あま加久矢かくやです。鹿狩りに使うのよ」

副会長は後ろを振り返って言った。

「いま下りてきたこの山が天香山あまのかぐやまです。海に面しているでしょう。古今和歌集の『幾代しもあらじわが身をなぞもかく海人あま刈藻かるもに思ひ乱るる』はこの風景を詠んだものです。平安末期に成立した擬古物語『海人あま刈藻かるも』の元になりました。夜になればあまがわがはっきり見えますよ。アマノガワと言っても大阪府枚方市禁野の天之川あまのがわではありませんよ、ほほほ」
「仏門に入ったのに日本神話にお詳しいんですね」

知子が驚いて訊ねた。

「日本の本質は神仏習合です」

副会長がきっぱりと言った。

「あそこの川があま河原かわらです。天久米命あまのくめのみことが水浴びしました」

川原で海人あますなわち漁夫の子たちがカニと戯れている。

天児屋命あまのこやねのみことが実在したとは……」

筒井は言葉を失った。

「お会いできたのはあまさいわです!」

知子が感激して副会長の手を握った。漁夫たちが拍手しながら何やらしゃべっているが海人あまさえずで聞きとれない。

「どうやらあま逆手さかてのようだわ」
「なんですか」
「呪術です。誰かを呪っているらしい。ほら、鉾を逆さまに立てているでしょう。あま逆鉾さかほこといって、悪魔を招く儀式です。きっと天探女あまのさぐめを呼び寄せる気だわ」
「誰?」
「天照大神の詔を受けて天稚彦あめわかひこを問責するために降ったきぎしを天稚彦に射殺させた女です。のちの天邪鬼あまのじやくですよ」

漁夫たちは銘酒天野酒あまのざけを酌み交わしつつ呪文を唱えた。

「やっぱり天邪古あまのざこを呼んでいる。江戸時代の国学者天野信景あまのさだかげの書物で読んだ通りだわ」
「あまのざこってなんですか」
天邪鬼あまのじやくよ。天邪鬼あまのじやことも呼びます。あそこのあま透垣すいがきに隠れて様子を見ましょう」

三人は垣根に身を潜めて儀式を見守った。漁夫が乗り捨てた海人あま捨舟すてぶねがぷかぷか浮かんでいる。

「何者だ」

突然背後から男の声がした。筒井が驚いて振り返った。

「あなたは……?」
あま関守せきもり。関所の番人だ。名を名乗れ」
「えーと、えーと……」
天野宗歩あまのそうほの子孫です」

副会長が咄嗟に答えた。

「なに? 江戸後期の棋士、近代将棋の祖と言われる天野宗歩か」
「はい。わたくしどもは旅のお供でございます」
「これはこれは、あま高市たけちへようこそ」

番人の態度ががらりと変わって歓待ムードになった。

「おい、天野宗歩のご子息が訪ねて来たぞ」
「本当か」

怪力の持ち主、天手力雄命あまのたぢからおのみことが天の岩屋戸を開けて現れ、あとに続いて天種子命あまのたねこのみことも姿を現した。

「こんなにめでたいことはない。あま甜酒たむさけで祝おう」

筒井と知子、副会長は神々と盃を交わし、満ち足りたあま足夜たりよを過ごした。

2016年11月25日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百九十九回

「わたしは天照大神の系統をあま日嗣ひつぎした瓊瓊杵尊ににぎのみことである。おい、そこの男」
「はい」
あま神籬ひもろきを用意しなさい」
「ヒモロキってなんですか」
「山や森や老木などの周囲に常磐木ときわぎを植えめぐらし玉垣で囲んで神を迎える御座に決まっておる」

中空に浮かんだままのニニギノミコトのまわりを首から肩にあま領巾ひれを垂らした天女が三人舞い飛んだ。筒井は雨粒あまつぶ交じりの汗を拭いつつ答えた。

「あいにくそのようなものはここに……」
「ないと申すか! けしからん!」

空が再び雨雲に覆われ、あまかざの大嵐になった。

天津麻羅あまつまらとここで待ち合わせをする手筈なのだ。見かけなかったか」
「マラ? 陰茎ですか」
「馬鹿者。天照大神が天岩屋戸あまのいわやとにお隠れになったとき、刀や斧などの祭器を作った天目一箇神あまのまひとつのかみだ。天皇の遠祖、あま御祖みおやのひとりであるぞ」
「見かけませんが」
「いるはずだ。一緒にあま御門みかど、すなわち皇居に出向いてあま御食みけを食べる約束なのだ。あま御子みこ、つまり天皇も同席する。会食に使う座敷はあまみことすなわち天照大神の名前で予約済みである」

あまみずと呼ばれる雨が激しくなった。

「あいにくわたしはただの人間でして、なんのお話だかさっぱり……」
「おまえは筒井康隆だな」

どきっとした。なんで俺の名前を知ってるんだ」

高天原たかまがはらあま水影みずかげにおまえの姿が映っていた。一年ほど前から世界各地で悪さをしているようだな」
「悪さなんて一度も――」
「嘘をつくな! 五体満足でいられるのはあま御量みはかり、つまり天の神のはからいであるぞ。ありがたく思え」

筒井はぽかんとした。眼の前にいるのは本当にニニギノミコトなのだろうか。

「ニニギノミコトさま、天にはあまみやと呼ばれる宮殿があると聞きましたが、本当にあるのですか」

知子が訊ねた。

「もちろんある。その宮殿を現世で模したのがあまやしろすなわち神社だ」

三人の天女が案摩面あまづらと呼ばれる仮面をかぶって宙を舞いながら舞楽を踊った。知子はさらに質問した。

「わたしは尼さんになりたいんでけど、どこか尼寺あまでらを紹介してくれませんか」
「神に向かって寺を紹介しろとは筋違いも甚しい! 尼寺五山あまでらござんへ行け」
「どこですか」
「京都の景愛寺、通玄寺、檀林寺、護念寺と恵林寺だ。あるいは鎌倉の太平寺、東慶寺、国恩寺、護法寺、禅明寺だ。どこでも好きな所に行け!」

嵐がぴたりとやみ、あたりが天照あまてららす光に包まれた。筒井と知子は目を射るような眩しい光に眼がくらんだ。薄目を開けて見ると眼の前にもうひとり神が現れた。

「わたしは天照大神あまてらすおおみかみである」

うわ、本物かよ!――筒井は目を疑った。

伊弉諾尊いざなぎのみことの娘であり、高天原高天原の主神である」

天照あまて光が天照神あまてるかみの姿を背後から照らした。

天照あまてるるや日のに干しさひづるやから碓子うすにつき」

知子が感に堪えて呟いた。

「そなたは阿部知子だな」
「はい」
「万葉集を心得ているとはなかなか学識がある。そなたに折り入って頼みがある」
「なんでございましょう」
雨樋あまどいを修理してはくれぬか」
「は?」
「天の宮殿は雨漏りがひどくてな」
「あいにく手先が不器用なもので」
「わたしが修理しましょうか」

筒井が話に割って入った。

「余計な口を挟むな! メロンパンを買ってこい」

筒井は唖然とした。アポロンに続いて天照大神も菓子パンを買えとは。神様はみんな甘党あまとうなのだろうか。

「これを着て行け」

天照大神は筒井と知子に雨胴服あまどうふくを与えた。二人はユリ科の多年草甘野老あまどころが咲き乱れる山野を歩き出した。天飛あまと小鳥が雨を喜んで縦横無尽に飛び回る。

天飛あまとぶや雁のつばさの覆羽おほひばのいづく漏りてか霜の降りけむ――万葉集よ」
「君は本当に詳しいなあ」

小鳥は雨鳥あまどりすなわちアマツバメだった。

甘菜あまなが食べたいわ。お腹すいちゃった」
「甘菜ってなに?」
「甘い味がする葉っぱ。ナズナとか」
「どこかで腹ごしらえしようか」
「うん」

二人はあまなと食べ物がないかあたりをキョロキョロ見回した。運よく甘夏あまなつの木を見つけ、もいでむしゃむしゃ食べた。

「口が酸っぱくなっちゃった。ああ、甘納豆あまなつとうが食べたい」
「こんな山の中にあるわけないだろ」
「カボチャの甘煮あまにでもいい」
「カボチャか」

二人はカボチャを探したが、そもそも畑がなかった。見つかったのは亜麻仁あまにすなわち亜麻の種ばかりで、種は亜麻仁油あまにゆを絞る以外に使い途がない。二人が途方に暮れて溜息をつくと、山道の向こうから髪を剃って仏道に入った尼入道あまにゆうどうがやって来た。

2016年11月24日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百九十八回

「身ぐるみ脱いで置いていけ。さもないと数多返あまたかえ襲撃するぞ」

首領が宣告した。

「わたしを天田愚庵あまだぐあんの娘と知っての狼藉か」

知子が言った。アマゾネスたちは驚いて思わず後ずさりした。

「なに? 出家して万葉調の歌を詠み、正岡子規に影響を与えたという、あの天田愚庵!」
「そうよ。子規は数多度あまたたび我が家へ遊びに来て、天棚あまだなつまり二階の客間に寝起きしました。住所は東京日本橋室町一丁目の尼店あまだなよ。『天飛あまだ軽のをとめ』という古事記の一節の意味を子規に教えたのはわたしの父です。わたしが万葉集の『大君の御寿みいのちはながく天足あまたらすしたり』を覚えたのも父のおかげ」

アマゾネスたちはその場にすわりこんだ。どうやらインテリに弱いらしい。女たちがかぶった兜から雨垂あまだがしたたり落ち、肩を覆う獣の皮が雨垂あまだになって雫が腕に流れていった。

「天田先生の娘さんとは知らなかったわ。驚かせてしまってごめんね」

首領はあまたるい声で知子の機嫌を取った。兜からしたたる雨垂あまだ雨垂あまだいし穿うがの諺通りに地面に穴を開けた。

「お詫びの印に唄を歌います。――駄目な駄目な~本当に駄目な~いつまでたっても駄目なわたしね~♪」

アマゾネスたちは雨垂あまだ拍子びようしのリズムで敏いとうとハッピー&ブルーの『よせばいいのに』を歌った。

「そんなあまちこい唄でごまかすつもり? 甘茶あまちやくらいご馳走しなさいよ」
「ごめんなさい。なにしろ山奥なのでお茶はなくて。甘茶蔓あまちやづるでは駄目?」
「草なんかもらったってしょうがないでしょ! あまちゃんね。あなたたち本物のアマゾネスなの? もしかしてアマチュアじゃないの?」
「本物よ。アマチュアリズムなんてあまっちょろい考えはこれっぽっちもない」
天津あまつ神に誓いますか」
「誓います」
あま磐境いわさかに誓う?」
「磐境ってなに?」
「神様が鎮座する場所」
「誓います」
あまえだに誓いますか」
「なんだかわからないけど誓います」
「天つ枝は親王のことよ。あま少女おとめに誓いますか」
「天女だね。誓います」
あまかぜに誓う?」
「天を渡る風だね。誓う誓う」
あまかみに誓いますか」
「さっきも誓ったじゃん!」
あまかみ御子みこに誓う?」
「天の神の子ってことは天皇だね」
「そうよ。天の神様が天皇を祝福した言葉があまかみ寿詞よごと。天皇陛下はあまきみだ。あまくにから、あま雲居くもいから降臨なさった。アマゾネスがどんなに勇敢でもあまくらいには太刀打ちできないよ」
「よくわかりました」

女親分は白菜の淡漬あまづけを知子に進呈した。知子はぽりぽり食べた。

「ふん、あまひとりにへいこらして 、親分のくせにみっともない」

子分が呟いた。首領は子分をぴしゃりと平手打ちした。

「事もあろうに天田愚庵の娘さんを尼っ子呼ばわりして、あまつさ親分も馬鹿にするとは。おまえは天の国の越えてはならない境界線、あましるしを越えてしまったね。破門だ」
「あーん、ごめんなさい」
「ごめんで済んだら警察は要らないんだよ!」

子分はわっと泣きだした。知子は見るに見かねてそばに寄り、あまそでのような服の袖で涙をぬぐってやった。

「親分、赦してあげなよ。あまそらの神様もきっと赦して下さる。――天伝あまづた来る雪じもの往きかよひつついや常世まで、渡らふ月の惜しけども隠らひ来れば天伝あまづた入日さしぬれ。万葉集だよ」
「意味はさっぱりわからないけど、ありがたいお言葉だ。赦してやるよ」

親分ありがとう――子分はあまったるい声であまったれた。親分は知子に行き先を訊ねた。

「天草諸島よ。菓子パンを買いに行くの」
「近道を教えてあげる。あそこに甘土あまつちが見えるでしょ」
「あまつち?」
「ほら、耕地の表面を人工的に改良した、あそこ」
「ああ、あの小作地ね」
「あたしたちは甘土権あまつちけん、つまり小作権を握ってるんだ。あそこを通れば早道だよ」
「ふん、堅気のあまっちょに抜け道を教えるなんてアマゾネスの名折れだ」

別の子分が不平を漏らした。

「だからおまえは考えがあまっちょろいんだよ!」

親分が怒髪天を衝いて叫んだ。

「いま恩を売っておけばあとで倍になって返ってくるんだ。いまは雨続あまつづだけど、やまない雨はない。少しは世の中の仕組みを勉強しろ」

知子と筒井はアマゾネスたちに見送られて旅を続けた。道すがら筒井は知子に訊ねた。

「君は天田愚庵の娘なの?」
「なわけないでしょ! 愚庵は十九世紀の人だよ」
「だよね……」
「ああでも言わないとアマゾネスたちに身ぐるみ剥がされてたわ」
「しかし神様のことに詳しくてびっくりしたよ」
「常識よ。日本の伝統はみんな高天原たかまがはらから続いてきたあまつぎてだもん」
「高天原なんてふつうの人は知らないぞ」
「無知は罪よ。あまつみだわ。さっさと歩きましょう。雨障あまつつみで身動きが取れなくなったら困るし」
「歩き続けるのは退屈だね」
あま祝詞のりとでも唱えなさい」
「知らないよ、そんなもの」

雨燕あまつばめが二羽、地面をかすめて飛び去った。すると雨雲がさっと二つに割れ、あますなわち太陽が顔を覗かせた。筒井は雨粒あまつぶに濡れた顔を手でぬぐって空を見上げた。眩しい日光を背に受けて神々しい人影が降りてきた。

「わたしはあまひこ天津彦彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこほのににぎのみことである」

ニニギノミコト? 天照大神あまてらすおおみかみの孫じゃないか!

2016年11月23日 Part 2


語尾取り15周年

語尾取りが本日めでたく15周年を迎えました。こうなったら20周年をめざして語尾を取ってくんなまし。

2016年11月23日 Part 1


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百九十七回

天衣あまごろもだわ」

知子が民家の庭の松の枝を指さした。薄い衣が一枚ぶらさがっている。

尼衣あまごろも?」
「ううん、尼さんじゃなくて」
雨衣あまごろも?」
「合羽じゃないわ」
海人衣あまごろも?」
「あなた、わざと間違えてるでしょ。羽衣よ。天女が着る」
「天女なんか実在するわけないだろ」
「でもさっきアポロンとアフロディテに会ったばかりじゃない」

知子の言う通りだった。これまでにも何度か伝説上の人物に遭遇し、あまさギリシア神話の神々にも出会った。天逆様あまさかさまつまり不合理なことが次々と身にふりかかってきたではないか。天女がいたって不思議じゃない。

天離あまざか鄙に五年住まひつつ――」
「もしかして万葉集か」
「そうよ」

農民が未墾地で甘作あまさくと呼ばれる焼畑を行なっている。炎を見つめる筒井はたらふく飲んだ甘酒あまざけの酔いが回ってきた。

甘酒饅頭あまざけまんじゆういらんかえー」

道端の小さな小屋の中から女が声をかけた。天井から炉の上に吊るした天皿あまざらに饅頭が並んでいる。小屋の前にも棚があり、饅頭が雨に濡れている。

「おばさん、雨曝あまざらじゃないか」
「片づけたいけど、こう激しく降られちゃ雨障あまさわりで外に出られなくて」

女は口をもぐもぐ動かしながら答えた。

「何を食べてるの」
亜麻子あましだよ。亜麻仁あまにとも言うけど」
「おいしいの?」
「いとあま
「嘘だろ。亜麻仁は油をとる種だ。うまいわけない」
「食べ物に難癖つけると天路あまじの罰が当たるよ」

女が声を荒げた。

「あまじ?」
「天へ上る道だ」

女は種に甘塩あまじおをふりかけてもぐもぐ食った。全身がいぼやこぶの余肉あまじしだらけで、雨雫あましずくが軒から滝のように流れるのに雨支度あまじたくもせず小屋の中にじっとすわって雨滴あましだりを見つめ、雨仕舞あまじまいもしないから壁は雨染あまじに汚れ放題で、棚も皿も雨湿あまじめで、売れ残ったあまものの饅頭はびしょびしょである。

「あれまあ、尼将軍あましようぐんだ」

女が道の向こうを眺めて言った。

「あましょうぐん?」
「北条政子だ」
「北条政子って、源頼朝の妻か」

筒井が驚いて振り返ると北条政子が現れ、抱えてきた雨障子あましようじをどすんと小屋の前に置き、中に入って雨装束あましようぞくの水滴を手で払い、筒井を睨んで訊ねた。

「どこへ行きなさる」
甘食あましよくを、菓子パンを買いに天草諸島へ」

政子は雨に濡れた饅頭の山を見て、「食べ物をあまとはもったいない」と呟き、甘酢あまずをかけて食べ始めた。

「酢なんかかけて、おいしいですか」
甘酸あまずっぱくておいしいよ」

政子は山盛りの饅頭をあますところなく食べ尽くし、壁にはう甘葛あまずらすなわちツタの葉を一枚ちぎって口元を拭った。

「そなたも天草へ行くのか」

政子は知子に訊ねた。

「はい。でも本当は尼さんになりたいんです」
尼前あまぜになりたいと申すか。ではこの雨装束あまそうぞくを着て行きなさい」

政子は装束を脱いで知子に与え、はるか彼方の山を指さした。

「島原へ行くにはあの天削あまそぎ、高い峰を越えねばなりません。ただし魑魅魍魎が跋扈するからくれぐれも気をつけて」
「ありがとうございます」
「尼さんになったら肩から背のあたりで髪を切り揃えて尼削あまそぎにするのですよ」
「はい」

筒井と知子は再び旅路についた。政子は雨注あまそそがざあざあ流れる軒先で見送った。雨空あまぞらの下、二人はてくてく歩いて山を登った。するとどこからか山賊のような女の集団がわらわらと集まってきた。

「なんだ、おまえたちは」

筒井が身構えて言った。

アマゾンだ」
「アマゾン? ネットの小売業の?」
「馬鹿者。ギリシア神話の女武者だ」
「あ、アマゾネスか」

なんでギリシア神話の登場人物ばかり出てくるんだ。

「アマゾネスってアマゾンがわ流域に住んでるんじゃないの?」
「たわけ者め。我らの住まいは小アジアだ」

女たちの胸元に美しい緑青色のアマゾンせきで作ったペンダントが輝いている。筒井と知子は数多あまたの女武者に取り囲まれた。こんなことになるならさっきの小屋であまだの甘酒饅頭をもらっておくべきだったな。饅頭をやれば命は助けてくれるだろうに。

「おまえは天田あまだか」

首領とおぼしき女が筒井に訊ねた。

「え? 名前ですか? 筒井です。筒井康隆」
「嘘をつくとためにならんぞ」

首領はあまだいすなわち裁縫用の針箱から針を取りだし、左手でつかんだ甘鯛あまだいにぶすぶす刺しながら筒井を睨みつけた。女たちは数多重あまたえに二人を取り囲んだ。

2016年11月22日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百九十六回

「パンを買うなら天草あまくさにいらっしゃるとよいですよ」
「天草? 熊本の?」
「はい。パンの生地に甘草あまくさを練りこんで天草石あまくさいしの石窯で焼くのです」
「熊本においしいパンがあるとは」
天草一揆あまくさいつきで生き残った隠れキリシタンが製法を伝えました」
「島原の乱ですか」
「ええ。天草諸島あまくさしようとうは菓子パンの王国ですよ。益田時貞の名にちなんだ天草四郎あまくさしろうというあんパンがおいしくて、天然砥石の天草砥あまくさどと並んでお土産の人気ナンバーワンです。天草陶石あまくさとうせきの石窯で焼くと風味が増すのですよ。「天草あまくさらんに由来する由緒正しいパンですから、アポロンもきっとお喜びになるでしょう」
「本当にそんなに歴史があるんですか」
「十六世紀末にキリシタンが出版した天草版あまくさばんに調理法が載っていますから間違いありません。天降あまくだしたアポロンへの貢ぎ物にぴったりですよ」
天降あまくだの神様にふさわしいわね」
「確かに天降あまくだびとに似つかわしいな」

筒井と知子は口々に言った。

天降あまくだったアポロンは甘口あまくちだから、あんパンを買いましょう」

壁際にちょこまかとネズミが這い出てきた。

「あら、甘口鼠あまくちねずみだわ」

巫女が手で追い払った。

「ハツカネズミですか」
「ええ」
「ではさっそくパンを買いに天草へ行くことにします。恐れ入りますが雨靴あまぐつを貸してもらえませんか」
「どうぞ」

巫女は玄関の靴箱から雨靴を二足出した。靴箱の上に立派な刀が飾ってある。

「この刀は」
天国あまくにの作です」
「あまくに?」
「日本刀剣の祖と言われる伝説上の刀工です。江戸亀戸天神の宝剣の作者とも言われ、抜くと必ず雨が降るそうです」

筒井と知子は刀を見つめた。天井を見上げると柱の上にだけ組物くみものを置く疎組あまぐみ様式である。穏やかに棚引いていた天雲あまぐも雨雲あまぐもに転じた。

「ご出発の前に甘九文字あまくもじをもう一杯いかがですか」
「甘酒ですか。もうじゅうぶん頂きました。ご馳走さまでした」
天雲あまぐもたゆたふ心我が思はなくに」

巫女は雨曇あまぐもの空の下で万葉集の一節を唱え、天国の門人で同じく伝説上の刀工である天座あまくらが作ったとされる刀を天に向かって突き上げ道中の無事を祈り、旅のお供にと甘栗あまぐりを持たせた。

筒井と知子は天草諸島に向かって出発した。筒井は甘栗を剥いてもぐもぐ食べた。

「まるで甘栗あまぐり使つかいね」
「え?」
「新しく任命された大臣の大饗たいきようのとき、朝廷から賜わる栗の実を大臣の邸に持参する勅使よ」
「君は歴史に詳しいんだな」
「雨がたくさん降ると栗の出来がいいのよ。反対に日照りが続くと柿の出来がよくなるの。雨栗日柿あまぐりひがきと言うのよ」

道端で男が小豆か何かを入れた細長いざるを左右に揺らして、ざざざ、ざざざと音を立てている。何をしているのかと筒井が訊ねた。

雨車あまぐるまです」
「あまぐるま?」
「芝居の効果音を練習してるんです。雨が降っているように聞こえませんか」
「ああ、確かに」

雨黒燕あまくろつばめが一羽、地面を掠めるように飛んで行った。甘気あまけの多い栗を食べながら筒井は雨気あまけの空模様を眺めた。雨景色あまげしきの中、甘気付あまけづいた知子は雨気付あまけづいた頃からとろんとした眼で筒井を見つめ、体をぴったりくっつけて歩いた。

尼子あまこさん! 尼子さんじゃありませんか?」

サケ科の魚ビワマスの幼魚天魚あまごを籠に山盛りにして抱えた男が知子を呼びとめた。

「わたしは阿部知子ですけど」
「あれ? 人違いか。さっき雨乞あまごしようと雨乞あまごうたを歌って雨乞あまごおどりを踊ったら近所の人が来て、尼子さんが来るよって言うもんだから、てっきりあんただと思ったよ」
「このあたりでは雨乞いの儀式をするの?」

筒井が訊ねた。

「ええ。小野小町が雨乞いのために詠んだ雨乞小町あまごいこまちを歌うのが習わしだよ。むかしは祈雨使あまごいのつかいがわざわざ京都から来てくれたもんだ」

雨乞虫あまごいむしすなわちアマガエルがぴょんぴょん跳ねて行った先に十四五人の女が白装束を着て歩いている。

「あの人たちは?」
尼講あまこうだ。女の信者の集会だ」
「こんな雨の中をどこに行くんだろう」
「たぶん阿媽港あまこうだな」
「あまこう?」
「マカオだ」
「マカオまであまコートを着て歩いていくのか?」
「脚が丈夫なんだ。みんな尼子勝久あまこかつひさの子孫だからな」
「誰?」
「戦国時代の武将だ。永禄十二年尼子氏再興をめざして出雲で挙兵したが、後に毛利氏の攻囲をうけて自刃した。マカオに行く前に京都の尼五山あまござんに詣でるんだよ」
「健脚なんですね」
「なにしろ尼子十勇士あまこじゆうゆうしの血筋を引いているからな。全国各地の尼御所あまごしよに仲間がいる。尼御前あまごぜは逞しいよ。だからわしらは尊敬して尼御前あまごぜんと呼ぶんだ。室町後期の武将尼子経久あまこつねひさが伝える天語歌あまことうたを歌いながら戦国時代の武将尼子晴久あまこはるひさの遺徳を偲んで海女さんたちとお籠もりをするよ。海人籠あまごもと言うんだ」
雨隠あまごも三笠の山を高みかも――」

知子が万葉集の一節を呟いた。男は雨隠あまごものにもめげずに魚を売って歩いた。

2016年11月21日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百九十五回

甘御九献あまおつこんを召し上がれ」

雨音あまおとに混じって天少女あまおとめのような巫女の声が聞こえた。

「あまおっこんってなんですか」

知子が訊ねた。

「甘酒です」

筒井と知子は甘酒の馳走になった。巫女は海少女あまおとめのような肌の浅黒い娘で、海人小舟あまおぶねに乗って海人小舟貝あまおぶねがいを採るのが似つかわしい風貌だ。雨はやむ気配がなく、二人は巫女に雨外套あまがいとうを借りた。雨蛙あまがえるが嬉しそうに足もとをピョンピョン跳ねて、子どもが作ったらしい雨蛙あまがえるいえに入った。化粧をしない尼顔あまがおの巫女はいかにも利発で、馬鹿だの間抜けだの尼媽あまかかだのといった罵声を浴びたことは一度もないに違いない。

「中へどうぞ。甘柿あまがきがありますよ」

二人は社殿に入り雨隠あまがくして雨掛あまがを脱いだ。壁に天翔あまがけカラスの絵が飾ってあり、横に雨笠あまがさが三つある。筒井は巫女の出身地を訊ねた。

尼崎あまがさきです」
「兵庫ですか」
「はい」

巫女は黒塗りの尼崎台あまがさきだいに載せた天目茶碗を二人の膝の前におずおずと差し出した。筒井が茶を飲むと背後にのそのそと何かが動く気配がする。

「うわ、ヘビだ」
「猛毒の雨傘蛇あまがさへびです」

巫女は涼しい顔でヘビの頭に短刀を突き刺して退治した。

「慣れてますね」
「新潟と長野の県境の雨飾山あまかざりやまで修行をしたときによく退治しました」
「そんな山奥で修行を」
「奈良県高市郡明日香村豊浦の甘樫丘あまかしのおかでも修行しました」

筒井は甘酒のコップの底にたまった甘糟あまかすを呑みこんだ。

「曽祖父は甘粕事件あまかすじけんで暗殺されました」
「え! 関東大震災の戒厳令下で無政府主義者の大杉栄たちが殺された、あの事件ですか」
「ええ」

雨風あまかぜが窓を打った。巫女は窓の外を眺めながら「天数あまかぞ大津の子が逢ひし日におほに見しくは今ぞ悔しき」と呟いた。

「万葉集ですね」

知子が口を開いた。

「よくご存じですね」
「学生時代に読みました」
「このあいだ知ったかぶりをする人が、ああ、古事記の天語歌あまがたりうたですねって」
「知ったかぶりはいけませんね」
「本当に」

二人に対面する形で正坐した巫女の背後を筒井が見ると両腕を水平に伸ばした子どものような人形がある。

「その人形は?」
天児あまがつです。はらえに子どもの傍に置いて形代かたしろとして凶事をうつし負わせるために使います」
雨合羽あまがつぱを着てますね」
「雨に濡れるといけないので」
「手に何か握っている」
蜑金あまがねです」
「あまがね?」
「鮑などを岩からはがすのに使う道具です」

雨はいつしかやんで、西の空があまべにの夕焼けになった。知子は筒井にもたれかかって腕を甘噛あまがした。

「よせよ。みっともない」

巫女は見て見ぬふりをして、雨よけに使う油紙の雨紙あまがみを縁側から外し、お腹がすいていませんか、鶏肉と大根の甘辛あまから煮がございますがと訊ねた。

甘辛あまから料理は大好きだ」
甘辛煎餅あまからせんべいもございますよ。中国広東省の天川あまかわ、いまで言うマカオから取り寄せた品です」

筒井と知子はたらふく食べた。巫女は甘栗の甘皮あまかわを剥いて二人に食べさせた。軒先に雨皮あまかわと呼ばれる雨覆いをかぶせた牛車を引いた男が現れ、天川から渡来した極上の天川珊瑚珠あまかわさんごじゆを巫女に手渡して去った。

「いまの人は?」
雨皮持あまかわもちです。貴人の行列のとき雨皮を管理する従者です。ユキオさんと言います」
「ユキオ? どんな字を書くんですか」
雨冠あまかんむりの雪に、男」
「雪男ですか。珍しいですね」
「ごほん、ごほごほ」

知子が咳をした。

「どうした」
「雨に濡れて風邪をひいたみたい」
「それはいけません。ちょっと待って」

巫女は庭に出て甘草あまきすなわちカンゾウをむしり取った。

「カンゾウは咳に効くんですよ。福岡県中部、筑紫平野北東部の甘木あまぎに住んでいたころ、よく煎じて飲みました」
「お巫女さんは全国各地をご存じなんですね」
「それほどでもありませんが――」

巫女は雨着あまぎを畳んで片づけながら言った。

「伊豆半島中央部の天城山あまぎさんに弟が住んでいるので、天城峠あまぎとうげを越えてときどき会いに行きます」

巫女は雨衣あまぎぬを片づけ終わると二人に来意を訊ねた。

「菓子パンを買いに来たんです」
「わたしは……頭を丸めて尼さんになりたいんです」
「まあ、尼君あまぎみに?」
「はい」
「菓子パンと尼さん……お話がどうもよく呑みこめませんが」
「ごもっともです。信じてもらえないかも知れませんが、じつはギリシア神話のアポロンに菓子パンを買ってこいと命じられまして」
「まあ、神社でギリシア神話のお話をするなんて面白い」

巫女はおほほと笑って「天霧あまぎらふしぐれをいたみ……天霧あまぎらし雪も降らぬか」と呟いた。

「万葉集ね」

知子がすかさず言い当てた。夕焼けはいつの間にか暗くなり、小雨のような雨霧あまぎりがあたりに立ち籠めた。突然庭の向こうからシュッと矢が飛んできて壁に突き刺さった。

案摩切斑あまきりふだわ」

巫女が矢を引き抜いて言った。

「あまきりふ?」
「案摩のおもての羽に似た切斑の矢羽です。今日のように天霧あまぎ日は雨具あまぐを着た地元のやくざ者がときどき悪さをするんです。甘九献あまくこんをもう一杯いかが」
「甘酒ですか。いただきます」

筒井と知子は甘酒をおかわりした。

2016年11月20日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百九十四回

「痛い」

家の中で知子が呻く声がする。筒井が駈け寄ると床にうつぶせになって苦しがっている。

「どうした」
「わからない」
アポトーシスです。心配はいりません」

アフロディテが穏やかに言った。

「アポトーシス?」
「細胞の死の様式のひとつです。個体発生の過程で特定の細胞が特定の時期に死んで、ある形態を形成するときに見られます。たとえば手は初め平たいへらのようなものですが、将来の指と指とのあいだの細胞が死ぬことによって指の原基が形成されるのです」
「なんだかわからないけど、命に別状はないんだな」
「ええ。どうしても心配なら阿菩大神あぼのおおかみに祈りなさい。大和国の香具かぐ畝傍うねび耳成みみなし三山の争いを仲裁するため出雲国から来たが、争いがやんだので播磨にとどまったという神です」
阿呆あほらしい。あんたは女神だろ。なんでわざわざ別の神様に祈らなくちゃならないんだよ」
「ギリシアの神と出雲の神のどちらに祈るべきかは古来解決できない難問、アポリアなのです。ちなみにオーストラリアの先住民アボリジニはフランスの詩人で評論家のアポリネールによるとギリシア神話の神アポロに祈りを捧げるそうです」

阿呆陀羅経を歌いながら踊り狂っているアベルの足もとにウーパールーパーが一匹這い出てきた。

「珍しいな。こんなところにウーパールーパーが」
「それは俗称です。正しい呼び名はアホロートル
「正しい呼び方なんか知りたくない」
「口答えは許しませんよ」

アフロディテは声を荒げた。

「アメリカの月探査計画、アポロ計画はギリシア神話のアポロに由来します。ニーチェは調和的統一と端正な秩序を持つ主知的傾向をアポロてきと名づけました」
「それがどうした」
「まだわからないのですか。アポロニウス、正しくはアポロニオスですが、古代ギリシアの数学者で、アポロニオスのえんは平面上で二定点への距離の比が一定の点の軌跡が作る円のことですよ」
「俺は根っからの文系人間だから数学はちんぷんかんぷんだ」
「いい加減にしろ」

雲が真っ二つに割れてまばゆい光が地を照らし、ギリシア神話の神アポロンが降臨した。

「我が名はアポロン。ゼウスとレトとの子であり、アルテミスとの双生の兄に当たる。音楽、医術、弓術、予言、光明の神であり太陽である。アポロはローマ神話での呼び方である」

あまから地に降り立ったアポロンは誰に頼まれたわけでもないのに丁寧に自己紹介した。

「アポロン様、わたしをあまにして下さい」

うつぶせに倒れていた知子ががばっと起き上がって懇願した。

「人間の分際であまになりたいとは図々しい」
「海ではありません」
「では魚や貝をとる海人あまか」
「違います」
「讃岐国志度の浦の海人が藤原淡海と契って生んだ子の房前ふささきを世に出すために命を捨てて竜宮から宝珠を取り戻したという伝説を脚色した能の『海人あま』のことか」
「全然違います」
「雅楽の案摩あまか」
「まるで違います」
「アマ科の一年草亜麻あまか」
「植物になりたいわけがないでしょ! 尼さんです。出家したいんです」
「ほう。プロの出家信者になりたいと申すか」
「プロ? 尼さんにプロもアマもないと思いますけど」
「おまえは髪の毛が豊かではないか」
「はい」
「頭を丸めるのはもったいない。阿媽あまになれ」
「え?」
「東アジア諸国に住む外国人の家庭に雇われる現地の女中または乳母だ」
「外国人のお世話なんかしたくありません。出家したいんです」

アベルが踊り出したころから雨がぽつぽつ降ってきたが、アヘン中毒のアベルは雨の最中さなか雨間あまあいもお構いなしに踊り続けた。この分だと雨上あまあがりも踊り続けるに違いない。雨脚あまあしが早くなった。

「天つ神のみ子のみ命はの花のあまいのみしまさむ」

アポロンは古事記の一節を唱えたが意味を解する者はひとりもいなかった。

あまものが食べたいわ」

アフロディテが言った。

「うむ。人間どもに貢がせてあましるおう。――筒井康隆、阿部知子」
「はい」
「はい」
「菓子パン買ってこい」

パンを買えとはまるで中学生のかつあげだ。

「あいにくお金がありません」
「わたしも一文なし」
「ならば亜麻糸あまいとでも売って現金に換えろ。亜麻糸がなかったら腎臓を売れ」

悪徳業者の口ぶりである。筒井と知子は菓子パンを買いに出かけた。神社の入口に天犬あまいぬすなわち狛犬が一対、亜麻色あまいろの地肌が雨に濡れ、社殿の雨承あまうに落葉がたまっているのを雨承あまうばなの知子が見上げた。軒端のきばの雨が落ちて打ち当たる雨打あまうちが丸くへこみ、そばに甘瓜あまうりの実がなっている。

「ねえ、神様なんか放っといてわたしと逃げない?」

考えにどこかあまがある知子が筒井にしなだれかかって言った。筒井はあまえいたくてきまりが悪くなった。

「ねえ、いいでしょ?」

知子は筒井の腕にやさしく歯を立ててあましてあまれた

あまえっだなあ、君は」

筒井は甘海老あまえびのように頬が桃色に輝く知子のあまえる様子に鼻の下を伸ばし、社殿の雨縁あまえんに連れこんだ。あまえんぼうの知子は雨覆あまおおいをかぶせた雨押あまおさの板に腰かけ、軒から雨落あまおちにしたたり落ちる雨の雫を見つめた。雨落には板がへこむのを防ぐ雨落石あまおちいしが据えてあり、ぽつりぽつりと落ちる雨だれが雨落拍子あまおちびようしを刻む。

2016年11月19日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百九十三回

「わたしはギリシア神話の女神アフロディテ。あなたの母親はイヴですよ」

アフロディテがやさしく教え諭した。

「母さんひどいや! 僕を認知してくれないなんて」
「だからあなたは旧約聖書の――」
「僕、野球の試合に出たんだよ。五打数三安打。アベレージ六割。イチローよりも打率が上なんだよ。試合のあと阿片あへんを吸いに阿片窟あへんくつに行ったら阿片戦争あへんせんそうが勃発して阿片煙草あへんたばこは品切で買えなかった。でも阿片中毒あへんちゆうどくの知り合いがこっそりくれたんだ。おかげでご機嫌さ。えへへ、えへえへ」

アベルはよだれをだらだら流しながら夢中になって語った。呆れたアフロディテは、はいはいそうですか、よかったわねとあへんどを打って話の調子を合わせた。

阿母あぼ!」

アベルは母親を親しみ敬っていう敬称で呼んだ。

「わたしの話をきちんと聞きなさい。あなたの母親はイヴです。だいたいわたしにアポもとらないで会うなんて非常識ですよ」
「アポ?」
アポイントメント。面会の約束です」
「親と会うのに事前に予約するなんておかしいだろ。阿房あほう!」
「まあ! 女神をアホ呼ばわりするとは聞き捨てなりません。地獄の獄卒阿防あぼうにたっぷりお仕置きをさせますよ」
「ふん! ギリシア神話の女神がなんだい。すぐ男に手を出して阿房芋あほういもみたいに子どもをポンポン産みやがって。だらしないよ。阿房あほうったようだ」
阿房烏あほうがらすみたいに憎まれ口ばかり叩いて。秦の始皇帝が渭水いすいの南に築いた宮殿阿房宮あぼうきゆうに閉じこめてやりますよ」
「阿房宮は未完成だよ。未完成の宮殿に閉じこめるなんて阿房臭あほうくさ。馬鹿、間抜け、すっとこどっこい」

アベルは阿房口あほうぐちを叩きまくった。

「ギリシア神話の神はみんな阿房狂あほうぐる、女狂いだ。色気違い、色情狂、クルクルパー」

アベルは阿房桁叩あほうげたたたいて笑った。

「気狂いは豆腐の角に頭をぶつけて阿呆死あほうじすればいいんだ。――あれ? こいつはなんだ?」

アベルは樹の幹にぐるぐる巻きに縛られた筒井を見た。

「ははは。いい気味だ。でもロープが緩んでるぜ」

アベルは阿房力あほうぢからを発揮してロープをぎりぎりときつく縛り直し、「ざまあ見ろ、ははは」と阿房面あほうづらを見せた。空の彼方から信天翁あほうどりが一羽飛んできた。アベルは小石を拾って鳥に投げたが届かない。高い空に届くわけがないのに拾っては投げる。阿房あほうけるくすりなしだ。

「おい、おまえ、代わりに投げろ」

アベルは筒井に命じた。ぐるぐる巻きにされてるのに石を拾えるわけがないじゃないか。阿房あほう足下あしもとづかいとはこのことだ。阿片でラリってるんだな。こいつはきっと食事をするときもお汁を三杯もおかわりする阿房あほう三杯汁さんばいじるだぞ。餓鬼のくせに鼻毛を伸び放題に伸ばしてよだれを垂らして、阿房あほう鼻毛はなげ蜻蛉とんぼをつなぐだ。

「おい坊主。この人はギリシア神話の女神じゃないぞ。イヴだ」
「やっぱり! ――お母さん!」

ははは。馬鹿は阿房あほうはなしぐいで、人から聞いた話をすぐ信用する。阿房あほうひとおぼだ。

「筒井康隆。あなたはわたしを愚弄する気ですか」

アフロディテが睨んだ。

「あ、いえ。ちょっとからかってみたくなっただけで」
「神をからかうとは無礼千万。阿房払あほうばらの刑に処します」
「阿房払い?」
「江戸時代の刑罰の一種です。裸にして追放するのです」
「真っ裸で追放だなんてあんまりだ。謝ります。ごめんなさい。お詫びの印にどんな命令にも従います」

筒井は阿房律儀あほうりちぎに答えた。

「ではアボカドを取ってきなさい。お腹がすきました」

女神は筒井のロープをほどいてやった。

「ありがとう。――アボカドですね。どこに生えてるんだろう」
「自分で探しなさい。くれぐれも言っておきますが、アボカドですよ。アボガドロではありませんよ」
「アボガドロってなんですか」
「イタリアの物理学者です。アボガドロ定数ていすうアボガドロの法則ほうそくで有名」
「果物となんの関係もないじゃないか」
「汝アボカドとアボガドロを混同するなかれ――アポクリファに記された箴言ですよ」
「アポクリファ?」
「聖書の外典です」

筒井のまぶたの奥のアポクリンせんが急に腫れあがり、表面に細胞質突起が生じた。アベルは三つ以上の波長の光について色収差を補整したアポクロマートというレンズをポケットから取りだして虫眼鏡のようにして筒井の顔をまじまじと覗き、思わず声をあげた。

アボジ!」

アボジ? ひょっとして朝鮮語の「お父さん」のことか?

「お父さん!」
「俺はアダムじゃないぞ」
「違うの? じゃあ、もしかして平城天皇の子、阿保親王あぼしんのう?」

誰のことだかわからないが、相手はヤク中だから理窟を言っても通じまい。ここは話を合わせておいたほうが無難だろう。

「……ああ、そうだ」
「なんですって? あなたは筒井康隆ではないのですか?」

アフロディテが詰問した。

「あ、いえ、筒井ですけど、話を合わせたほうが得策だとアポステリオリに学んだもので」
アポストロはキリストの十二人の直弟子ですよ」
「は?」
アポストロフィは英語でよく使う記号ですよ」
「はァ?」

話がてんで通じない。アベルは二人の会話をよそに阿呆陀羅経あほだらきようを唱えながら踊り始めた。まさに阿呆垂あほたである。

2016年11月18日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百九十二回

アフロディテは髪を逆立てて『栄華物語』の一節、「東宮の御事あべかめる」を呟いた。

「あべかめる? どういう意味ですか」
「自分で調べなさいと申したではありませんか。――アフリマンよ」
「なんだ」
「そなたは静岡市西部を流れる安倍川あべかわに行きなさい。寛永年中に安倍山中から出るこうぞ紙で作製し駿府の新谷町で売り出した安倍川紙子あべかわかみこ安倍川餅あべかわもちを土産に持ち帰りなさい」

アフロディテが命ずるとアフリマンの姿がスッと消えた。

「あなたは作家でしたね」
「はい。小説家です。筒井康隆と申します」
「では訊くが、大江健三郎がノーベル文学賞を受賞する前に安部公房あべこうぼうが受賞するべきだったとは思いませんか」
「え? えーと、そうですね、あの、えーと」
「安部公房のほうが先輩で大江健三郎よりも普遍性があるのに大江が受賞するとは話があべこべだとは思わぬか」
「あー、はい、普遍性ありました。でも大江さんも普遍的な作品を……」

筒井は即答できずまごついた。

「あなたの返答は隔靴掻痒の感があります。『あべき限り絵に書きたる』――」
「あべき?」
「だから『栄華物語』の一節だと申しているではないか。何度同じことを言わせるのか」

筒井はしゅんとなった。

「そこの女」
「はい」
阿部将翁あべしようおうをご存じか」
「ええ。盛岡生まれの江戸中期の本草学者です。諸国を巡って薬草を採集して蝦夷えぞも探索しました。代表作は『本草綱目類考』です」
「よくご存じですね」

この女、何者だ? 筒井は目を丸くした。

「ならば安倍神道あべしんとうもご存じですね」
「あ、知ってるぞ」

筒井がしゃしゃり出た。

「安倍政権の閣僚の多くが所属する神道政治連盟」
「違います」

女が訂正した。

「近世の神道の一派で、土御門神道つちみかどしんとうとも言います。土御門泰福が山崎闇斎の教えを受けてその理論を体系づけ、門人保井算哲によって大成しました。陰陽道と神道を習合したものです」
「その通りです」

筒井は顔が真っ赤になり、穴があったら入りたい気持ちになった。

「女よ、あなたとはおいしいお酒が飲めそうです。――アフラマズダよ、食前酒を用意しなさい」

かしこまりましたと言ってアフラマズダはアペタイザーを二つのグラスに注ぎ、アフロディテと女に手渡した。

「あなたの名前はなんと申す」

女神が女に訊ねた。

「阿部知子です」
「ひょっとして江戸幕府暑気の老中、阿部忠秋あべただあきの子孫……」
「はい」
「道理で教養が豊かなはず」

女神と知子は酒を酌み交わしながら柑橘類の阿倍橘あべたちばなを食べた。

「お酒のあとは静岡の安倍茶あべちやが飲みたいわね。――それにしてもアフリマンの帰りが遅い。アフラマズダよ、迎えに行きなさい」

アフラマズダの姿が雲散霧消した。、おほほ、うふふと仲睦まじく語らう女神と知子はまるで同性同士のアベックのようだった。話の輪に入れない筒井は歯ぎしりした。畜生、なんで俺だけ話について行けないんだなんとかして守勢を挽回してアヘッドしたい。

「何をぶつぶつ申している」
「いえ、別に……」
「そなたは阿部知二あべともじと交遊がありますか」
「誰?」
「岡山生まれの小説家です。東大を卒業し、知的な手法と自由主義的な態度で『冬の宿』『風雪』などで昭和十年代の知識人の実態を描きました。あなたは本当に小説家なのですか」

アフロディテは筒井を睨んだ。

「三文文士ですけど、これでも一応小説家の端くれです。――ところで、女神はなんのご用でここへ……」
安部磯雄あべいそおを探していると最初に申したではないか」
「そうでしたね」
「あそこのアベニューで待ち合わせをしていたのです」

女神は窓の外の大通りを指さした。大通りのはるか彼方にはイタリア半島を縦走するアペニン山脈のような山並みが広がっている。

「こんな片田舎の道で会うよりも、大阪市南部の阿倍野あべのあたりでデートしたほうがいいと思うけど」
「誰がデートをすると申した!」

アフロディテが叱りつけた。

「わたしには阿部右大臣あべのうだいじんという許嫁がいるのですよ」
「誰ですって」
「竹取物語でかぐや姫に求婚する人です。あなたは竹取物語も知らないのですか」
「子どもの頃一度読んだきりなので」
「では安倍貞任あべのさだとう安倍晴明あべのせいめい阿倍仲麻呂あべのなかまろ阿倍比羅夫あべのひらぶ阿部信行あべのぶゆき安倍宗任あべのむねとう安倍保名あべのやすな安倍頼時あべのよりときが登場するのもお忘れか」

そんなにいろんな人が登場したっけ? 筒井は訝しげに女神を見上げた。

「この調子だとエチオピアのマラソン選手アベベも登場しそうですね」
「神をからかう気ですか」

女神は激昂し、筒井の胸ぐらをつかんで庭に引きずり出し、ブナ科の落葉高木あべまきの幹にロープでぐるぐる巻きにした。居間に戻ったアフロディテは知子と打ち解けて語らい、幕末の老中阿部正弘あべまさひろの遺徳を偲んでアベマリアを歌い、松山生まれの哲学者安倍能成あべよししげやフランスのスコラ学者アベラールの話題に花を咲かせ、アペリチフの最後の一滴を舐めた。

「お母さん!」

突然男の子が庭にやって来て女神に叫んだ。

「誰ですか」
「僕だよ! アベルだよ」

樹に縛られた筒井は唖然とした。旧約聖書の創世記に出てくるアダムとイヴの息子じゃないか!

2016年11月16日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百九十一回

ゾロアスター教の善の神アフラマズダと悪の神アフリマンが睨み合った。

「わたしは――」

アブラハムがキョロキョロして呟いた。全員アブラハムを見つめた。

「お呼びでない? お呼びでないね。こりゃまた失礼しました」

アブラハムは雲を霞と逃げ去った。風雲急を告げるのに恐れをなした油売りの男もすたこらさっさと尻尾を巻いて逃げた。

「神様、戦う前にあぶものを召し上がりませんか」

女は焼き魚があふ皿を高々と差し出した。

「うむ。腹が減っては戦はできぬ」

アフリマンが一匹食べた。

「おまえは悪の神をおだててあふのか」

アフラマズダが女を詰問した。

「いいえ。でもあぶった魚はおいしいですよ」

女は魚があぶれれそうな皿を差し出しつつ言った。

「神様同士が戦って世界が滅びたら元も子もありません。ゴルフで勝負してはいかが」
「ほう、ゴルフか。趣向が変わって面白い」
「確かに」

善の神と悪の神は互いを見つめてこくりとうなずき合い、アテストされたスコアカードにアプルーブの署名をした。

「ゴルフ場はどこだ」

アフラマズダが女に訊ねた。

「この辺にはありませんよ」
「ゴルフ場もないのにゴルフで勝負ができると思うか」
「殺してしまえ」

アフリマンが女を殺そうとした。筒井が割って入った。

「あの、クイズ大会はいかがでしょう。わたしが問題を出します」
「クイズか。よかろう」
「うむ」

神々はうなずいた。

「では第一問。『黄金のろば』を書いたローマ帝政初期の作家は誰でしょう」
「キケロ」

アフリマンが答えた。

「ブー」
アプレイウス

アフラマズダが答えた。

「ピンポーン。正解! では第二問。第一次大戦後、フランスを中心として興った文学上、芸術上の新しい傾向をなんと呼びますか」
「ヌーヴェルヴァーグ」

アフリマンが答えた。

「ブー」
アプレゲール

アフラマズダが答えた。

「ピンポーン。正解! では第三問。映画やテレビで画面だけを先に撮影し、後から声や音を録音することをなんと言いますか」
「アテレコ」

アフリマンが答えた。

「ブー」
アフレコ

アフラマズダが答えた。

「ピンポーン。正解!」

アフラマズダの口から正しい知識があふ。一問も正答できないアフリマンは悔しさのあまり歯ぎしりしてあぶもののように暴れ回った。クイズ大会はさらに続き、アフラマズダは知識と教養があふ、アフリマンは落ちこぼれてあぶれた。悪の神はアフロがアフリカ系を指す接頭語であることを知らず、アラビア語とヘブライ語がアフロアジア語族ごぞくに属することも知らず、恥をかいた腹いせに女を手籠めにしてやろうとアプローチして尻を追いかけた。女は逃げ惑った。すると屋根が真っ二つに割れて吹き飛び、天空から女神が降臨した。

「あなたは……」
「まさか……」

善の神と悪の神は目を疑った。

「そうです。我が名はアフロディテ。ギリシア神話の美と恋愛と豊穣の女神」
「ゾロアスター教の神々にギリシア神話の女神まで集まるとは、この家はいったいどうなってるんだ」

筒井が驚いて見上げるとアフロディテはアフロヘアだった。

「そのヘアスタイルは?」
「これはかつらよ」

女神はかつらを脱いだ。

「ゾロアスター教が支配するこの土地になんの用だ」

アフリマンが怪訝そうに訊ねた。

安倍あべを探しているのです」
「安倍? 安倍晋三ですか」

女が問いかけた。

「そんな俗物に興味はありません。――あ、漢字を間違えました。探しているのは安部あべです」
「アベ? ふつうは阿部あべと書くけど」

筒井が呟いた。

「女神に口答えするとは図々しい。『あべい事ども仰せらるゝに』という栄華物語の言葉を噛みしめるがいい」
「意味がわかりません」
「自分で調べなさい。――わたしは安部磯雄あべいそおを探しているのです」
「誰?」

女が首をひねった。

「福岡生まれの社会運動家で政治家です。同志社大学を卒業し、アメリカ留学後、同志社大学と早稲田大学の教授を歴任。キリスト教ユニテリアン派の思想に拠る社会主義者で、社会民主党と社会民衆党、社会大衆党に参加し、代議士をつとめました。野球の振興にも貢献しました」
「ひょっとして阿部一族あべいちぞくの一員?」

筒井が知ったかぶりをした。

「『阿部一族』は森鷗外の小説です。あなたは日本人のくせにこんなことも知らないのですか」
「お恥ずかしい限りです。それにしてもよくご存じですね」
「神を侮るとは何事ですか! わたしはアペイロン、つまり限界なき者、無限者ですよ」

2016年11月15日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百九十回

「何をしに来た」

アブラハムが訊ねた。

「揉め事を解決するためである。わたしは機械の軸受面に彫りこんだ油溝あぶらみぞに塗る潤滑油のように係争当事者のあいだに入って事を丸く収める」
「コウモリを退治したいんですけど」

女が天井を指さして言った。

「お安い御用だ。――コウモリよ、去れ」

天井を埋めつくしていたコウモリの群が忽然と消えた。

「凄い! さすが神様」
「この程度なら朝飯前である。――油虫あぶらむしよ、出でよ」

家の中がたちまちゴキブリだらけになった。女が悲鳴をあげた。

「ゴキブリは気に召さぬと申すか。では、油女あぶらめよ、出でよ」

居間の床にアイナメの群が現れ、ピチピチ跳ねた。

「調理する際は鱗に気をつけよ。鯛のように硬いぞ。油目鑢あぶらめやすりでゴシゴシ削るがよい」
「ありがとうございます。お礼に油物あぶらものを召し上がりませんか」
「油で揚げたものは苦手である。好物は油桃あぶらももだ」
「桃の一種ですか」
「さよう。ネクタリンとも言う」
「あいにく果物は何もなくて……」
「なんだと! 礼儀をわきまえぬ女め。罰として中務なかつかさ省に属して宮中の灯火のことをつかさどる女官油守あぶらもりになれ」
「嫌でありんす」

女は歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃いせおんどこいのねたば』に登場する遊女油屋あぶらやこんのような口ぶりで不平を鳴らした。

「神に逆らうと申すか。京都室町通の呉服問屋、油屋太兵衛の店で売り出した油屋絹あぶらやぎぬを献じるまでは決して赦さぬ」
「わたしを無視するのもいい加減にしろ」

すっかり蚊帳の外に置かれたアブラハムが油焼あぶらやした魚の干物を腹立ちまぎれにアフラマズダに向かって放り投げた。アフラマズダがひょいとかわすとアブラハムは西アフリカ原産の油椰子あぶらやしの実と、特に脂の多い油魚あぶらようを次々に投げつけた。家中油汚あぶらよごでギトギトである。アフラマズダはひょいひょいと巧みに攻撃をかわした。

「ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の聖者アブラハムといえども所詮は人の子。神に刃向かうなど千年早いわ」

アフラマズダは整髪料として油に沈香じんこうや丁字香などを入れて綿にひたした油綿あぶらわたを頭髪に塗りつけながら一喝した。壁と柱の塗料であるあぶらワニスが溶け出して異様な匂いが家に充満した。

「おっとこんなところであぶらってる暇はない」

神と聖者の戦いを尻目に、油売りの男がそそくさとその場を立ち去ろうとした。

「どこへ行く」

アフラマズダが詰問した。

「商売に」
「おまえは油売りだろう。油売りならわたしにあぶらして応援するのが筋ではないか。この馬鹿者めが」

男はさんざんあぶらしぼられた

「こうなったらどっちかが死ぬまで戦え」

筒井が火にあぶらそそいだ

「死ぬまで戦えだと? わたしが神と知ってのことか。神が死ぬとでも思っておるのか。このたわけ者」

アフラマズダは筒井の首根っこをつかまえてぎゅうぎゅうあぶらをとった。筒井は窒息寸前になり、体から力が抜けた。家の中はあぶらながしたように静かになった。

「神様って実在するのね」

女が感に堪えて言った。

「さよう。神はアプリオリに存在する」

アフラマズダが誇らしげに答えた。

「ゾロアスター教はアフリカでしたっけ」
「ペルシアだ。いまのイランだ」
「では神様はアフリカーンスは話せないんですね」
「何を申す。神に不可能はない」
「じゃあアフリカ開発銀行かいはつぎんこうに働きかけて融資をお願いしてくれませんか。こんな油でギトギトの家にはとても住めない。引越したいけど、先立つものがなくて……」

女は可憐なアフリカすみれのようにしおらしく懇願した。

「まかせなさい」

アフラマズダはアフリカぞうのようにパオーンと鳴いて答えた。

「ただし、現地に赴くにはアフリカ大地溝帯だいちこうたいを越えねばならぬ。アフリカ東部を南北に縦貫する大きな地溝帯だ。幅五十キロメートル、深さ二千メートル、延長六千キロメートルに及ぶ。二列の正断層に挟まれた中間部分が陥没して生じ、その中に多数の火山や湖がある。ここを中心として地殻が東西方向に分裂しつつある。過酷な旅になるぞ。覚悟はよいか」
「はい」

こいつら馬鹿じゃないのか――筒井は思った。金の融資なら電話一本かければ済む話だろ。

「おい、おまえ。いまわたしを馬鹿にしたな」

筒井の心を読みとったアフラマズダが睨みつけた。

「え? いいえ、とんでもない」
「電話一本で済むわけがなかろう。そんなことをしたらアフリカ統一機構とういつきこうが黙ってはおらん。アフリカのつのが必ず抗議する」
「アフリカの角?」
「アフリカ大陸北東部、サイの角状に突出する地域のことだ。エリトリア、ジブチ、エチオピア、ソマリアから成る。住民の民族的、宗教的構成が複雑で、一朝一夕には参らぬ」
「お礼に何かプレゼントしてはどうですか。世界最大のカタツムリ、アフリカ蝸牛まいまいとか」
「アフリカ蝸牛は農作物に甚大な被害をもたらす害虫だ」
「では……アプリケはどうですか」
「アプリケ? アップリケのことか」
「ええ」
「そんなもので融資を受けられると思うのか」
「じゃあ……コンピューターのアプリケーションはどう? スマホのアプリとか」
「おまえはアフリカ開発銀行の人々をなんだと思っているのだ。炭火の上に伏せて置き、着物を乾かしまたは温めるのに用いる竹籠のあぶをプレゼントしてもアプリコットすなわち杏を恵んでも喜ぶ連中ではない」
「ではあぶはどうですか。俺が小学生の頃は年賀状にミカンの汁で見えない文字を書いて、受けとった人が火で文字をあぶして遊びましたよ。楽しかったなあ」
「子ども扱いされて喜ぶ人たちではない。くれぐれも言っておくが、あぶ豆腐どうふすなわち焼豆腐など恵んでも無駄だぞ」
「いつまでしゃべってる気だ」

突然鬼のような形相の神々しい人物が宙に現れた。

「おまえは――」

アフラマズダが呟いた。

「ふふふ。貴様の宿敵、ゾロアスター教の悪神アフリマンだ」

2016年11月14日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百八十九回

油砥石あぶらといしはないか」

筒井が女に訊ねた。

「何に使うの」
「コウモリを捕まえるんだよ」
「砥石なんか役に立たないでしょ」
アフラトキシンをばらまこう」

男が口を挟んだ。

「強い発癌性があるカビ毒よ。そんなもの撒いたらわたしたちも死んでしまう」

女は鏡を見ながら脂取あぶらとで顔の脂を拭き取った。

「庭の向こうに油菜あぶらなが咲いてるね。大根やわさびも油菜科あぶらなかなんだぜ」

男が窓の外を眺めて言った。コウモリの群は騒ぎ疲れたのか天井からぶら下がったまま動かない。室内は海面が油を流したように平坦になった油凪あぶらなぎのように静まりかえった。

「羽にあぶらニスを塗ろうか。油まみれになって飛べなくなるかも」
「逆効果だよ」
「やってみないとわからないだろ」
「わかるさ」
「なんだと」
「この野郎」

男と筒井はあぶらみずで意見がまるで食い違った。

「喧嘩しないで。お腹すいたでしょ? 朝ご飯にしましょう」

女は油抜あぶらぬした油鼠あぶらねずみを皿に盛った。

「なんだこれは」
「鼠よ。油で揚げたの。狐を釣る餌よ」
「俺たちは狐じゃないぞ」
「なによ、せっかく料理したのに文句ばかり言って! 油燃焼器あぶらねんしようきで焼き殺すわよ」

女は髪を逆立てて油粘土あぶらねんどの塊を筒井の顔に向かって投げつけた。筒井はひょいと頭を引っこめ、粘土は男の顔にぶち当たった。

「いて! 俺を誰だと思ってやがる! 先祖代々主油司あぶらのつかさだぞ」
「何よ、主油司って」
「律令制で宮内省に属し、諸国からの調みつぎの油脂の保管と分配をつかさどった役所だ」
「なんだ、ただの役人じゃない。いまの公務員でしょ」
「そうだけど」
「おまえたちはさっきから無駄口ばかり叩きおって」

突然窓から一条の光が射しこみ、浅黒い肌をした神々しい男が天から舞い降りた。

「あなたは……?」

筒井がびっくりして訊ねた。

「我が名はアブラハム
「アブラハムって、聖書に出てくる――」
「そうだ。生まれは紀元前二千年。旧約聖書ではイスラエルの民の祖。コーランではイブラーヒームの名で現れ、最初のムスリムである。唯一神信仰とすぐれた人格によりユダヤ教とキリスト教、イスラム教において厚く尊敬される」
「なんのご用ですか」
「そこの女」
「はい」
「よりによって客人に鼠を食わせるやつがあるか。食わせるなら魚だ。魚よ、出でよ」

アブラハムが言うと皿の上に奇妙な生魚が山盛りになった。

「これは?」
油鮠あぶらはやだ」
「見たことも聞いたこともありませんが」
「コイ科の淡水産の硬骨魚だ。川の上流で多く採れる。アブラモロコやドロバエとも呼ぶ。味はまずい」
「なんだ、まずいのか。ちぇっ」

筒井が舌打ちした。

「貴様、文句があるのか。油火あぶらびで火あぶりにしてやるぞ!」
「わあ、ごめんなさい。お詫びに油引あぶらひかずを差し上げます」

筒井はシャツの胸ポケットから煙草を取りだした。

「なんだと」
「上等の刻み煙草です」
「ほう。煙草か。では一服するか」

アブラハムは紫煙をくゆらせた。

「うむ、なかなかうまいな。油引あぶらひの刑に処してやろうと思ったが、煙草に免じて赦してやろう」
「では、わたしはお茶をてましょう」

女は手際よく茶器を整え、柄杓のしずくを上下に振って落とした。

「馬鹿者! それは油柄杓あぶらびしやくといって茶道では御法度である」
「本当?」

アブラハムは機嫌を損ね、油火箭あぶらひやすなわち火をつけた矢を放った。

「きゃー、助けて」

女は居間を逃げ回った。矢は皿に盛った魚の脂鰭あぶらびれに突き刺さった。アブラハムは筒井を睨みつけた。

「おい、おまえ」
「はい」
油札あぶらふだはどうした」
「え? 油札ってなんですか」
「川札とも言うが、江戸時代に大井川などで川越しを取り締まった川会所が発行した手形だ。人足を雇うのに必要な油紙でできた油札と、輦台れんだいに乗るための台札とがある」
「それがどうかしたんですか」
「馬鹿も休み休み言え! おまえは川人足だろうが!」
「違いますよ。作家です」
「嘘をつくな! 脂肥あぶらぶとのうつけ者めが」
「嘘じゃありません。筒井康隆、小説家です」
「天井にコウモリがびっしりぶら下がってる家の中で油まみれになって大騒ぎする小説家などがこの世にいると思うか!」
「思うかって、現にいるんだからしょうがないでしょ。それにここは俺の家じゃないし」
「アブラハムに向かってタメ口をきくとは言語道断。 罰として油船運上あぶらぶねうんじようを払え」
「は?」
「江戸時代の冥加金みようがきんの一種だ。船一艘につき一定額を賦課する。税金だ」
「俺は……いや、わたしは船乗りじゃありません」
「四の五の抜かすとためにならんぞ」

アブラハムは筒井の顔にあぶらペイント油紅あぶらべにを塗りたくった。

「おい、そこの男」
「はい」
「おまえには別の魚をやろう。魚よ、出でよ」

アブラハムが天に向かって両腕を高々と差し上げると皿の上に大きな魚が山盛りになった。

「これは?」
油坊主あぶらぼうず。ギンダラ科の海産の硬骨魚だ。脂肪分が多いから食べ過ぎると下痢をする」
「まともな魚はないんですか!」
「食べ物を恵んでやったのに文句を言うのか!」

玄関の扉が開き、神々しい男が現れた。

「何者だ」

アブラハムが訊ねた。

アフラマズダである」
「アフラマズダ? まさか……」
「さよう。古代ペルシアのゾロアスター教の最高神である。一切の善と正義、慈悲、秩序、光明の源泉である」

アフラマズダは松の木のやにの多い部分である油松あぶらまつで作った松明を掲げ、羊肉だろうか、脂肪の多い脂身あぶらみを食いちぎりながら名乗った。

2016年11月13日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百八十八回

「お生まれは?」
油掛あぶらかけです。京都市伏見区の南部。父は油糟あぶらかすを商っていました」
油糟あぶらかすって聞いたことがある。俳句か川柳の本」
「松永貞徳の付句集ですね」
「そうそう!」

二人は話に花が咲きあぶらが乗ってきた。女は油紙あぶらがみに包んだ油瓶あぶらがめを戸棚から取りだし、灯油ともしあぶらに火をつけた。二人の顔が炎に照らされた。庭にはカヤツリグサ科の多年草油茅あぶらがやが茂り、トウダイグサ科の落葉高木油木あぶらぎが聳え、キク科の多年草油菊あぶらぎくの花が浅緑色に咲いている。女は油絹あぶらぎぬの笠をかぶり庭に出て油桐あぶらぎりの幹に身をもたせた。

「誰かわたしをモデルに美人画を描いてくれないかしら」
「描きます、描きます」

男があぶらぎった顔をてからせて即答した。膏薬あぶらぐすりでも塗ったのか、額がてかてか光っている。それにしても調子のいい男だ、さっきから油口あぶらぐちのすべるのにまかせてペラペラしゃべりやがって。筒井は油気あぶらけの多い男の顔を睨み、野菜炒めに入っていた油揚あぶらげをひとつつまんで男の顔に投げつけた。

「何をする」
「おまえの油子あぶらこみたいな顔が気にくわねえんだよ」
「油子?」
「アイナメだよ。そんなことも知らないのか」

窓から油蝙蝠あぶらこうもりの群が飛びこんできた。女が慌てて庭から戻り、麻糸を染めて油をひいた油扱あぶらこを振り回して捕まえようとした。

「そんな糸じゃ無理だよ」

筒井が言うと女は逆ギレして油漉あぶらこの中身の油をぶちまけた。

「もったいない! 中世の油座あぶらざの人たちが見たら逆上しますよ」
「うるさいわね。わたしの勝手でしょ」

女は油尺あぶらさしでピシャリと男の顔を叩いた。男は油差あぶらさをぶんぶん振り回して応戦した。窓の外から油鮫あぶらざめが一匹飛びこんできた。

「うわ」

驚いた筒井が飛びのいた拍子に油皿あぶらざらをひっくり返した。

「なんでサメが」
油絞冥加あぶらしぼりみようがかも」

男が答えた。

「え?」
「江戸時代の冥加金みようがきんです。油船一艘につき一定額を賦課したんです」
「なんの説明にもなってないぞ」

油染あぶらじみた床をサメがのたうち回った。コウモリの群が飛び交いサメが暴れ回り、家中しっちゃかめっちゃかになった。

「これじゃ油締あぶらしができないわ」
「なんだって?」
「旧暦十一月十五日に油搾木あぶらしめぎ種油をしぼる風習があるのよ」
「いまはそれどころじゃないだろ」

脂性あぶらしようの男が足を滑らせて転んだ。油障子あぶらしようじはコウモリがぶち当たって穴だらけになった。

「ああ気持ち悪い! 家中油まみれじゃないか」

筒井が叫んだ。

「まるで江戸時代の油証文あぶらじようもんね」
「は?」
「子どもが約束を破らないように髪の脂を指につけて柱に押したのよ」

サメが暴れて肉野菜炒めの皿が吹っ飛び、脂肪が多い鶏肉の脂尻あぶらじりが筒井の額に貼りついた。女は菜種油をしぼる麻袋の廃物を利用した漆喰用の油苆あぶらずさをサメの口に押しこみ、庭に生えている油薄あぶらすすきを引っこ抜いてこれも押しこみ、煮冷ました胡麻油に味噌と醤油を加えた煮汁の油清汁あぶらすましをサメの眼に塗りこんだ。サメは苦しんで眼が油墨あぶらずみのように黒ずみ、ぐったりした。庭に油蝉あぶらぜみが鳴きだした。

「サメはなんとかするから、あんたたちはコウモリを退治してちょうだい」
「まかせろ」

男は水面に浮かぶ油球あぶらだまのように瞳を輝かせ、庭に下りてクスノキ科の落葉小高木油瀝青あぶらチャンの枝をポキンと折り、居間に戻って枝を盲滅法振り回すと油坏あぶらつきにつまずいてすってんころりんと仰向けに倒れた。

「こんなところに油注あぶらつを置きやがって」

三人の男女がコウモリとサメと格闘するうちに日は傾き、月の光が水蒸気のためとろんとして、あたかも月の周囲に油を流したように見える油月あぶらづきが東の空に昇った。サメは油尽あぶらつきて火消ひきるがごとく息絶えた。あぶらづいた男が女に訊ねた。

油漬あぶらづけはないか」
「何?」
「ニシンとかイワシ、マグロの魚肉を加熱してオリーブ油やコーン油に漬けこんだ料理だ」
「ないよ」
「コウモリの餌にしたいんだが。何かあぶらっこい食い物はないか」
油土あぶらつちならあるけど」
「あぶらつち?」
「オリーブ油を混ぜた粘土よ。彫刻に使うの」
「粘土なんか食わないよ」
油筒あぶらづつはどう?」
「油を入れる筒? だから食わねえよ。車の油差しに使う油角あぶらつのもダメだぞ」

油角鮫あぶらつのざめがピクリと動いた。女が油壺あぶらつぼで頭を思いきり殴るとサメは再び動かなくなった。

「このサメ、どこから来たんだろう」

筒井がコウモリと格闘しながら呟いた。

油壺あぶらつぼじゃない?」
「どこ?」
「神奈川県三浦半島の南端よ。当代臨海実験所や水族館、ヨットハーバーがあるの」

男は脂手あぶらでを大きく開いてコウモリを捕らえようと必死である。いつの間にか夜が明け、空は風がなくじりじりと蒸暑い油照あぶらでになった。

2016年11月12日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百八十七回

「何を調べたいの」
アプト式鉄道しきてつどう。アプトっていう人が発明したんだけど、フランス人かスイス人か忘れちゃって」

女が背伸びして本棚の高いところに手を伸ばし事典を引き抜こうとした。本棚ががたりと揺れた。

あぶ!」

筒井は思わず声を漏らした。本棚がぐらぐら揺れる。

あぶあぶ!」

女はお構いなしに百科事典を引っぱる。本棚ががたんと前に傾いた。

「倒れるぞ」
「大丈夫よ。自分の家のことはよくわかってる。あなたはお客さんだからゆっくり紅茶を飲んで。わたしは事典を取るわ。銘々があふなあふな、分相応に振る舞えばいいの」

女はぐいと力任せに事典を引き抜いた。

あぶない!」

本棚がドスンと前に倒れ、女は下敷きになった。筒井は本棚をどけて女を助けた。

「大丈夫か」
あぶないはしわたっちゃった
「怪我をしなくてよかった」

本棚に隠れていた壁を見ると女の肌をあらわに描いた美人画が一枚飾ってある。

「絵があるぞ」
「あら、危絵あぶなえだわ」

女はまた背伸びして額縁に手を伸ばすと足もとがふらついた。筒井はあぶながった。女はあぶなく転倒しそうになったが爪先に力をこめて体をかろうじて支えた。あぶあぶなっかしい。筒井は椅子を踏み台にしたらどうだと提案したが「椅子なんかあぶもので頼みにならないわ」と断られた。じゃあ俺が肩車してやろう。筒井は女の股ぐらに頭を突っこんだ。

「何するの! このアブノーマル! 変態!」

女は筒井の横っ面を思いきりひっぱたいた。女の体に触れず絵も下ろせず、虻蜂取あぶはちとらずに終わった筒井は不機嫌になった。

「客を殴るなんてソ連の女性詩人アフマートヴァだったら考えられないぞ」
「あんたこそ女の股の下に首を突っこむなんてアラブ系のイスラム神学者アフマド・イブン・ハンバルなら絶対しないわよ」

馬がいななく声が聞こえる。二人が窓から外を窺うと、玄関の前で馬上の男があぶみから足を外して地面に下りた。男は頭の後ろが妙に出っぱった鐙頭あぶみがしらで、鐙を鞍に吊り下げる鐙革あぶみがわを手で丹念にしごいてから鐙瓦あぶみがわらの下に立った。右手に握っているのはどうやら雑草を刈る鐙鍬あぶみぐわらしい。男は玄関のチャイムを鳴らした。

「なあに」女がドアを開けた。

「この辺に獣医はいませんか」
「どうしたの」
「馬の鐙骨あぶみこつが」
「え?」
耳小骨じしようこつです、耳の中の骨が折れたみたいで」
「獣医はいないわ」
「困ったなあ」

男は馬の脇腹の鐙があたる鐙摺あぶみずりを撫でながらため息をついた。使い古してボロボロになった鐙釣革あぶみつりかわが頼りなさげに揺れている。

「これから大阪府高槻市にある阿武山古墳あぶやまこふんに行かなくてはならないのです」
「あなた、ご商売は?」
あぶらです」
油揚あぶらあ屋さん?」
「いいえ」
油揚本あぶらあげぼん屋さん?」
「いいえ。――油揚本ってなんですか」
「洒落本よ。江戸時代の」
「違います。ふつうの油を売ってます」

男は脂足あぶらあしらしく、靴の中で指をもぞもぞ動かし、「困ったなあ」としきりに呟いては額に脂汗あぶらあせを滲ませている。

「お腹すいてない? よかったら食事を差し上げるわ。麻の実の油を混ぜた油飯あぶらいいがちょうど炊きあがったところなの」
「いいんですか? ではお言葉に甘えて」

男は家に入った。女は「おかずはこんなものしかないけど」と、鯛釣りの餌としてイカを油漬けにした油烏賊あぶらいかを皿に取り分けて男と筒井に振る舞った。

「古墳になんの用事があるの」
油石あぶらいしといって、黒くて艶のある石の産地なんです。油だけじゃ食うのもやっとなので、石も売ろうと思って」
「イカだけじゃ淋しいわね。ちょっと待ってね」

女は台所に行き野菜と肉の油炒あぶらいたを作った。

「あそこに井戸がありますね」

肉野菜炒めを食べながら男が窓の外を箸で指した。

「ええ。油井戸あぶらいどよ」
「え! まさか、地下の油層から石油を汲み取るために掘った井戸」
「そう」

男は頬張った油熬あぶらいが喉に詰まってゲホゲホむせた。

「慌てて食べるからよ」

女が背中をポンポンと叩いた。男の顔色が菜種油のような油色あぶらいろに変わった。

「石油を掘り当てたんですか」
「うん」
「うんって……わたしども油売あぶらうりにとって石油は喉から手が出るほど欲しい」
「そうなの? わたしは油絵あぶらえにしか興味がないの」

女は四方の壁にかかった絵の数々を示し、油絵具あぶらえのぐがついたパレットを見せた。女に変態扱いされて殴られた筒井はあぶられて身を縮ませている。

2016年11月11日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百八十六回

「大丈夫?」

仰向けに倒れた筒井が眼を開けると女の顔がじっとこちらを覗きこんでいる。

「ああ」
少ないけど、これ、差し上げます」

三十代とおぼしき女は一万円紙幣を三枚筒井の手に握らせた。

「金を恵んでくれるのか」
「困ってるんでしょ。援助交際して稼いだ泡銭あぶくぜにだから、いいの。どうせ悪銭身につかずよ」
「援助交際って十代くらいの女の子がするものだと思ってたけど」

女はしくしく泣きだした。

「あ、ごめん。年齢は関係ないよね」
「ううん、違うの。ドナルド・トランプが勝ったの」
「え?」
「おとといアメリカ大統領選挙があって、きのう開票されたのよ。トランプが勝った」
「トランプって、あの不動産王のトランプか」
「うん」
「民主党は?」
「ヒラリー・クリントンが立候補して、当然勝つと誰もが予想したけど、大差で負けちゃった。もう悲しくて……阿武隈川あぶくまがわに身を投げたい」
「おいおい、アメリカの選挙だろ。なにも日本人の君が自殺しなくてもいいじゃないか」
「日本人でしょってよく言われるけど、アメリカ国籍なの」
「そうなのか」

筒井はなんとかなだめようとした。

「気持ちはわかるが、早まるのはよくないよ。阿武隈川は遠いし」
「すぐそこよ」
「ほんと? ここはどこ?」
阿武隈高地あぶくまこうち。あっちが宮城県南部、ここが福島県東部、あっちは茨城県北部」

いつの間に阿武隈変成帯あぶくまへんせいたいに来たんだろう。気を失ってからどのくらい時間が経ったのかもわからない。遠くの山の中腹で登山者が急斜面をアプザイレンすなわち懸垂下降でゆっくり下りているのが見える。

四方よもの人をもあぶさうはずめぐみたまへば」

女が山のほうを見つめて呟いた。

「なに?」
「なんでもない。万葉集よ。――あなたはどこから来たの?」
「それが……わからないんだ」
「記憶喪失なのね。これを飲んで。気つけ薬よ」

女はニガヨモギを香味料にしたリキュールのアブサンを小瓶から飲ませてやった。

アブシジンさんといって、植物ホルモンがたっぷり含まれてるのよ」
「ありがとう」
「わたし……アブジャに亡命したい」
「どこ?」
「アフリカ南西部、ナイジェリア連邦共和国の首都。――まあ、あなた埃まみれね。お風呂に入るといいわ」

上体を起こした筒井は自分が一軒家の居間らしき部屋に寝そべっていたことがわかった。女は「こっちよ」と言って筒井の腕を肩に回し、浴室に連れて行き、手際よく服を脱がせて熱い湯を体にぶせた。体を丁寧に洗い、洗い立てのバスタオルで体についた水滴をあぶさず拭き取った。筒井は湯から上がって急に悪寒を感じ、小さく丸まった。女は筒井の体をあふずくみて、つまり股にかけて越えて男物の下着と服を棚から引っぱりだして着せた。二人はリビングルームに戻った。四方の壁にアブストラクトな絵画がいくつも掛っかている。アプストレーすなわち抽象美術の愛好家なのだろう。

「ピカソとかブラックが好きなの?」

筒井が訊ねた。

「ええ。抽象画こそ絵画の最高峰よ。アブソリューティズムだわ」
「そこにカンバスがあるけど、自分で絵も描くの?」
「ええ。このカンバスはアプソルバンといって、布地に膠質の染料だけを施してあるの。これが油絵の具の油を吸収して絵の光沢を消すのよ」
「へえ。――唇に白い斑点があるね」
アフタよ」
「病気?」
「うん。口腔粘膜の円形白色の偽膜性炎症。周囲に充血や発赤を伴って、痛いの。援助交際の罰が当たったのよ」
「そんなことはないだろ」
「ううん、きっとそう。頞浮陀あぶだに落ちたの」
「あぶたってなに?」
「仏教の八寒地獄の一つ。ここに落ちた人は寒さのために体がただれて痘痕あばたを生ずるのよ。アフターには毎回ちゃんと消毒したのに」
「きちんとアフターケアすれば治るよ」
「だといいけど。わたしってついついアフターサービスをやりすぎちゃうの。客に踊れって言われればすぐ踊るし」

女はラジカセのスイッチを入れ、アフタービートに乗って腰をくねらせて踊りだした。

「おいおい、やめろよ。俺は客じゃない」
「そうだったわね。――アフターファイブの予定は?」
「予定なんか何もないけど」
「あなた……もしかして……」

女は筒井の顔をまじまじと見つめた。

「……筒井康隆さんじゃない? 小説家の」
「うん」
「やっぱり! どこかで見た顔だなあって思ってたのよ」
「読んでくれたんだ、小説」
「ううん、読んだことない」

筒井は露骨にがっかりした。

アプダイクのファンなのよ」
「アプダイクって、アメリカの小説家」
「そう。『走れ、うさぎ』が大好き。――喉が渇かない?アフタヌーン・ティーはいかが」
「ありがとう」

二人は熱い紅茶を啜りながら雑談した。アブダビはアラブ首長国連邦の構成国の一つで首都の名もアブダビであることや、よだれかけをあぶちゃんと呼ぶ地方があること、馬の両脇につける小荷物を鐙付あぶつけと呼ぶこと、鎌倉中期の歌人に阿仏尼あぶつにという人がいたこと、十九世紀のエジプトでアブドゥフというイスラム神学者が活躍したことなど、話題は尽きなかった。女は本棚の百科事典を取ろうとして筒井の体をあふどこあふどこ、つまりまたいだ。

2016年11月10日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百八十五回

阿毘羅吽欠あびらうんけん、阿毘羅吽欠……」

托鉢の僧侶が通りかかった。

「念仏ですか」
「密教の真言、胎蔵界大日如来の真言です。地、水、火、風、空の五大を象徴する。この真言を唱えると一切のことが成就します」
「どんな望みも叶うのか。こいつはありがたい。あびらうんけん、あびらうんけん……」

筒井は真言を唱えながら僧侶のあとをついて歩き始めた途端、石につまずいて転び、足首を捻挫した。

「いてて。願いなんて叶わないじゃないか」
アビリンピックに出場する夢が叶ったではないか」
「アビリンピック?」
「身体障碍者の全国技能競技大会。一九七二年に第一回が開催されました」

家鴨あひるが一羽ヒョコヒョコと歩いて来た。筒井は挫いた足首をかばうように立ち上がった。体は埃まみれで、一風呂びたくなった。家鴨あひる文庫ぶんこ背負せおうたような尻の大きい女が堂島型で低く歯の間の狭い表つきの家鴨下駄あひるげたをカラカラ鳴らして足早に通りすがった。背が低い女が尻をふって急いで歩くさまはまさに家鴨あひる火事見舞かじみまだ。着物の丈が短くてちんちくりんなのも家鴨あひる脚絆きやはんだ。筒井は空腹に耐えかねてアヒルを食ってやろうと追いかけた。

「あなたはアヒンサーに背くのか」

僧侶が雷を落とした。

「アヒンサー?」
「生き物に対する不殺生、非暴力、同情です。インドの全宗教、特にジャイナ教の重んずる徳目で、マハトマ・ガンディーの基本理念です」
「俺はインド人じゃない」
「愚僧もインド人ではない。しかしガンディーの思想は人類普遍です」

クソ坊主め。俺に説教する気か。しかしこいつの言うことをきけば食い物にありつけるかも知れない。ここはひとつ下手したてに出てみるか。

「お坊さん。わたしはあなたを亜父あふとしてお慕い申し上げます」
「ほう、阿父あふすなわちご尊父についでわたしを尊敬すると申すか」
「はい。どうか弟子にして下さい。あなたの爪の垢を煎じて飲ませて下さい」

筒井は阿附あふ迎合した。

「ならば、あのあぶを捕まえなさい」

筒井は言われるがまま、ぶんぶん飛び回る虻を一匹捕獲した。

「では、その虻をあぶに埋めなさい」
「どこ?」
あぜだ。畦道だ」
「殺生は御法度では?」
「わたしの弟子になりたくはないのか」
「なりたい」
「では言われたとおりにしなさい」

筒井は狐につままれたような心もちで、浜辺の近くの畑に行き畦道に小さな穴を掘って虻を埋めた。

「よろしい。では問題を出す。答えなさい。――アファーマティブアクションとはなんだ」
「は?」
「わからぬと申すか。積極的差別是正措置だ。一九六四年公民権法成立以後、アメリカ政府が雇用や教育の場で人権や性による差別を解消するために採用した被差別集団に対する優遇政策だ。では次の問題。アファナーシエフとは何者だ」
「人名ですか」
「これもわからんのか。ロシアの民俗学者だ ヤコブ=グリムを範としてさまざまな文献から六百余編の民話を集め、『ロシア民話集』を編んだ」

問題が難しすぎて手も足も出ない。今度は何を訊かれるのだろう。筒井は内心ひやひや、はらはら、あぶあぶした。

「では第三問。アフィン幾何学きかがくとはなんだ」
「数学は苦手で。根っからの文系人間です」
「ユークリッド幾何学から合同公理を除いた公理系により構成される幾何学だ。では第四問。アブーバクルとは誰か」
「……見当もつきません」
「イスラムの初代正統カリフだ。ムハンマド死後の混乱を収拾した。では最後の問題だ。アフェランドラとは何だ」
「なんのことやらさっぱり」
「キツネノマゴ科の熱帯植物だ。熱帯アメリカに約二百種ある。その一種は高さ三十センチから四十センチメートル。濃緑色卵形の大葉を対生し、頂部の穂状花序に、ほうの間から淡黄色管状の花を出す。観賞用に栽培する。――残念だが、あなたは落第だ」
「お坊さんはまるで歩く百科事典ですね」
「知識の量が人を偉大にするのではない。あなたは無知の知というソクラテスのアフォリズムを知らぬか」
「無知の知?」
「自分は何も知らない、しかし『自分は何も知らない』ということだけは知っている。真理に到達するにはこの覚悟から出発せねばならぬ」

筒井は目からうろこが落ちた。

「すごい! お坊さんはどこで真理を学んだのですか」
アフガーニーの書物から学んだ。といってもあなたには誰のことだかわからんだろうが。近代イスラムの思想家て革命家だ。イランに生まれてアフガン出身を自称し、イスラム改革と汎イスラム主義を提唱した。中東やインド、ヨーロッパ各地で西洋帝国主義への抵抗を主張した。――わたしはこれからアフガニスタンへ布教に行く。一九七九年末のソ連によるアフガニスタン侵攻しんこう以来、彼の地は戦乱が絶えない。わたしはアフガンの人々を救いたいのだ」
「お供に連れて行って下さい」
「駄目だ。試験に落第したではないか」
「でも……」
「現地の娘たちはアフガンの名手だ。手編みの一種で、棒針編みと鉤針かぎばり編みを組み合わせ、棒針の先に鉤のついた針を使い、往路と復路の動作を繰り返して一段を編む」
「どうか、どうかわたしをお供に……」
「ならぬ!」

僧侶が叱り飛ばすとどこからかアフガンハウンドがワンワン吠えながら筒井に突進した。筒井は体が吹っ飛ばされて気を失い、意識があぶくのように消えた。

* * * * *

2016年11月9日


16周年

すっかり失念しておりましたが、10月6日に当サイトは開設16周年を迎えました。ネットの世界は2010年頃からLINEにFacebook、Twitter、InstagramなどのSNSばやりで、この傾向はスマートフォンの普及によって拍車がかかり、個人のウェブサイトは今や絶滅危惧種です。しかしながら当サイトは時流にあえて逆らって、昔から変わらない〈路地裏の定食屋〉の孤塁を守る所存です。長続きするのもひとえに皆さまのご愛顧の賜です。これからもどうかよろしく。

2016年11月8日 Part 2


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百八十四回

「人の命ははかないなあ」

あばれた掘っ建て小屋の中で筒井が呟くと黒人の集団が馬に乗って押しかけてあば、安普請の扉が外れた。

「なんだ、おまえたちは」
「助けて下さい。アパルトヘイトで南アフリカを追われ、命からがら逃げてきました。アパルトマンに匿ってくれませんか」
「嘘をつくな。アパルトヘイトは一九九三年に廃止されたぞ」

あばが静まりかえった。

「嘘をつくわけないでしょう。さてはあなたも黒人差別主義者だな」

あばうまがヒヒーンといなないた。

「こいつは俺たち黒人の敵だ。あばがわに沈めてしまえ」

黒人たちは筒井に躍りかかった。

「うわ、やめろ。誤解だ」

筒井は叫びながら部屋の片隅を見ると団子が山積みになった盆がある。

「腹が減ってるだろ。これを食え」

黒人たちは空腹に耐えかねたと見え、団子をあばした。騒々しく乱暴な様子はさながら歌舞伎のあば丹前たんぜんで、あっという間に食い尽くしかと思うと「たったこれっぽっちか。もっとくれ」と再びあばまわったあばものたちがあばれるだけ暴れて掘っ建て小屋は倒壊した。

「家が台無しじゃないか! 弁償しろ」
「でも俺たちは一文なしで」
「だったらアパレル関係の仕事をして稼げ」

筒井はスマートフォンで人材派遣会社に電話をかけた。あばれんぼうたちは申し訳なさそうにおとなしくなった。筒井は電話を切って黒人たちに告げた。

アバンギャルドなデザインで有名な業者に話をつけてやったぞ。ちょっとアバンゲールで古めかしい会社だが、しっかり働いてくれ。若い社員が大勢いるらしいからアバンチュールも楽しめると思うぞ」

黒人たちは言われるがまますごすごと退散した。筒井は沖を眺めた。アビ目アビ科の阿比あびがカモメと入りまじって飛んでいる。さっきはまるで地獄絵、阿鼻あびだったな。家もろとも潰されるかと思ったぜ。しかしあの黒人たちは本当に南アフリカから来たのだろうか。肌が浅黒かったから南太平洋サモアの首都アピアあたりから来たんじゃないのか。女も何人かいたが、妙に艶めかしくてセックス・アピールがあったな。

沖を行く汽船があびきすなわち波を起こしながら水平線の彼方へ消えていった。海辺では漁師たちが網引あびきして魚を獲っている。漁村の景色はあくまでも平和で、先ほどの阿鼻叫喚あびきようかんは幻のようだった。漁師が網引あび姿を眺めながら筒井はむかし千葉県北西部の我孫子あびこで川遊びしたのを思い出した。我孫子の地名はたしか阿毘古あびこという古代の氏に由来すると聞いた覚えがある。

「ああ、喉が渇いた」

漁師が仕事の手を休めて、足もとのペットボトルを拾い上げ中身の液体をごくごく飲んだ。

「あ! それは飲んじゃだめだ。亜砒酸あひさんだ。殺虫剤だよ」

少し離れたところにいた漁師の妻らしき女が飛んできた。漁師は阿鼻地獄あびじごくに落ちたかのように「うぐ、うげ、うぐぐ」とうめき、体をわなわなと震わせたかと思うとバタリと倒れて息絶えた。筒井は思わず駈け寄った。

「ご主人ですか」
「ああ。アビシニアで知り合ったんだ」
「アビシニア?」
「いまのエチオピアだ。おらを残して死んじまうなんて。家にはアビシニアンが一匹いるだけだ」
「ご愁傷様です。これからどうするんですか」
「もうこんな町にいてもしかたがないから旅に出る。コートジボワール南部の港湾都市アビジャンに行くよ」
「そんな遠くへひとりで? 大丈夫ですか」
「見損なうな!」

妻は声を荒げた。

「女だからと思って甘く見るなよ。おまえみたいな男尊女卑はくたばれ」

妻は暴言を浴びせ、筒井はたじろいだ。

「でもひとり旅は危険ですよ」
「余計なお世話だ! アビシニアにもひとりで行ってちゃんと帰国したんだ。黙ってろ、この唐変木、ろくでなし、うすら馬鹿」

妻は罵詈雑言をびせけた。筒井は頭に来て妻の首根っこを押さえつけたが、妻は見かけからは想像もできない怪力の持ち主で、筒井の体にのしかかると相撲の浴びせ倒しで筒井を砂浜に押し倒した。

「おらと勝負するなんて百年早いわ! このすっとこどっこい」

妻は勝ち誇って悪言をびせた

「おらはアビジャンでアビタシオンを借りて、仏の教説を理論的にまとめた阿毘達磨あびだつまを勉強して、スペイン中部、旧カスティーリャ地方のアビラでバカンスを過ごすわ。じゃあな」

妻は吐き捨てるように言って立ち去った。

2016年11月8日 Part 1


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百八十三回

筒井は上体を起こして海を眺めた。あばすなわち未婚とおぼしき女が網端あばつまり漁網の縁辺部につけて水面に浮かせる浮きの具合を確かめている。

「だいぶ弱っているようだな。わしのアパートに来なさい」

男は筒井の体をあばうようにして抱きかかえたが腕に力が入らず筒井の頭はするりと抜けて地面にゴツンとぶつかった。男はアバウトな性格らしく、そのまま歩き出した。筒井は頭をさすりながら後を追った。アパートはあはきで組み立てられた木造で、二階のベランダから海岸を見下ろすと先ほどの女が網の上縁につける網端木あばぎと呼ばれる浮木を修繕している。

「おまえさんは釈迦を名乗ったらしいな」

男が突然筒井のペテンをあばした

「とんでもない」
「とぼけても無駄だ。お尋ね者だろ。人相書がある」

男は筒井の似顔絵が描かれた紙を見せ、これまでの罪状をあばてた

「これにはわけがあるんだ」
「神妙にしろ」

男がベランダから大声を出すと町中の人がやって来て部屋に雪崩れこんだ。

「おいおい、押すな。これ以上はあばかぬ。入りきれないぞ」
「旧悪をあばのは楽しいな。あは、あはあはあは」

いかにも頭の弱そうなあばけものがよだれを垂らしながら笑った。筒井はもみくちゃにされて心身がぐったりしアパシーに陥った。

「こういう悪人は網走あばしり刑務所に入れよう」
「似顔絵に比べると本人はなかなかいい男だね。あたしも一緒に入獄したい」

あばずれ女が痘痕あばただらけの顔を歪めて言った。痘痕あばたえくぼと言いたいが、この女ばかりは二目と見られぬ醜女だった。

「網走なんて手ぬるいぜ。イラン南西部の港湾都市アバダンに追放するべきだよ」

アパッシュすなわち無頼漢風の男が大声で言った。

「それよりもアメリカ先住民のアパッチ族に引き渡して八つ裂きにしてもらおう」

満員電車のように上下左右から圧迫された筒井はアパテイアに陥ったまま感情を失った。突然ドシンと音がして床が縦に大きく揺れた。

アパトサウルスだ!」

誰かが叫んだ。

「なんだって」
「恐竜だ」

アパトサウルスは前脚を高々と上げてアパートの屋根を踏みつけた。アパートは一瞬のうちにぺしゃんこに潰れた。筒井は瓦礫の山から身を起こし、命からがら逃げ出した。助かったのは筒井と海辺で助けてくれた男の二人きりだった。

「おい恐竜。田の畦を崩しやがって。畔放あはなは大罪だぞ」

アパトサウルスは人間の言葉が通じるらしく、しまったという顔をして、「あばよ」と言い残し足速あはやに立ち去った。男が恐竜を見送りながら「う、うう」と胸のあたりを押さえて膝を突いた。

「おい、大丈夫か」

筒井が駈け寄った。

あばらが折れたようだ。あそこのあばらなる小屋に連れて行ってくれないか」

筒井は男の肩腕を肩にまわして支え、雑草があばらに生えている海岸の掘っ建て小屋に男を引きずって行った。壁の荒障子あばらしようじがいかにもみすぼらしい。荒簾戸あばらすどすなわち破れた簾戸を開けて筒井は中に入り男を畳に寝かせた。

「わしは若い頃はアパラチア山脈さんみやくを登るほど逞しかったが――」

男は息も絶え絶えに問わず語りに語った。

「――どうやら年貢の納め時のようだ」

男は肋骨あばらぼねが折れ、骨の突端が皮膚を突き破って外に出ている。

「こんな荒屋あばらやで最期を迎えるとは情けない。アパラチア山脈でアバランシュに巻きこまれたほうがましだ」
「アバランシュって、雪崩か」
「ああ」

男は小さく頷いて静かに息を引き取った。筒井は破れ障子から海を眺めた。女が網針あばりを磨いている。

2016年11月7日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百八十二回

「うわ、あれは何だ」

筒井が声をあげた。見慣れぬ牛の群がドドドッと地響きを立てながら家のほうに向かってきた。

アノアだ」

アンデルセンが呆気にとられつつ答えた。

「牛じゃないのか」
「水牛の一種です。インドネシアのセレベス島北部にしか棲息しません。徳島にいるわけがないし、奈良県吉野郡西吉野村の賀名生あのうにもいない」
「どういうことだ」
「地軸が変化したのかも知れない。あるいはアノードが変調をきたしたのかも」
「アノード?」
「電流が流れ出すほうの電極です。電解槽や真空管では陽極、電池では陰極を指す」

アノアの群が押し寄せてきた。

「逃げる暇がない。阿耨観音あのくかんのんに祈りを捧げましょう」
「聞いたことないぞ」
「三十三観音の一つです。岩上に座して海を望む姿に表されます。海上で竜魚や諸鬼に会うとき、この観音を念ずるとその難を逃れ、波浪にも没しない」
「でも、ここは海じゃないぞ」
「つべこべ言ってる場合じゃないでしょう! 早く祈らないと阿耨達池あのくだつちに沈められますよ」
「どこ?」
閻浮提えんぶだいの中央にあるという想像上の池です。竜王が住み、四つの河が流れ出し、閻浮提に注ぐという。さあ、みんなで祈りましょう。阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみやくさんぼだいの境地を目指しましょう」
「なんの境地?」
「あなたは自分が釈迦だと偽っておきながら、こんな基本的なことも知らないのか」

阿難が声を荒げた。

「最高の正しい悟りの意味で、仏陀の悟りを指す」

天地がひっくり返るような轟音とともに水牛の群が家に体当たりし、家屋が木っ端微塵に吹き飛んだ。

* * * * *

筒井が我に返るとあたりは瓦礫の山で死屍累々として横たわっている。どうやら助かったのは俺だけらしい――ほっとして遠くを見ると小さな人影が見える。子どもだろうか。は誰だろう。筒井は立ち上がり、人影に向かって歩き出した。近づいてみるとごと男の子で、筒井をちらりと見てから遠くを指さし、「さんは誰」と言った。

「え?」
「あの人は誰」

筒井は周囲を眺め回した。人っ子一人いない。

「誰もいないよ。君はこの辺に住んでるの?」
安濃津あのつ
「どこ?」
「三重県津市の港だよ」
「三重から来たのか。名前は?」

男の子は口をつぐんだ。筒井はあのこので名前を聞き出そうとしたが男の子は口を真一文字に結んで貝のように押し黙った。どこからか足音あのとがひたひたと近づいてくるのが聞こえる。

あのね

男の子が口を開いた。

「なんだい」
「……なんでもない」

また口を結んでしまった。筒井はののものと頻りに訊ねたがうんともすんとも言わない。筒井の顔のまわりをハエ目カ科の昆虫アノフェレスが飛び回った。どうも様子がおかしい。俺とこの子しかいないのに足音が聞こえる。この子もどことなくこの世のものではない雰囲気だ。もしかして人々の日々の行動を秩序づける共通の価値や道徳が失われて無規範と混乱が支配的になった社会の状態すなわちアノミーなのだろうか。

だよ」

突然男の子が呟いた。

「なんだって?」
世千日よせんにちこの世一日よいちにち
「諺かい」
「うん。死後の千日の楽しみよりも、現世の一日の楽しみのほうがいい」

不思議な言葉を言い残して男の子の姿が砂のように消えた。

* * * * *

「おまえさん、大丈夫かい」

筒井がはっとして目を覚ますと地面に寝そべっており、傍らにアノラックを着た男がすわっている。

「ここは……?」
安乗崎あのりざきだ」
「……あのりざき?」
「三重県志摩半島の東の岬だ」

2016年11月6日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百八十一回

筒井は腰が抜けそうになった。

「か、勘弁してくれ」
「では、姉御あねごがいることを認めるのだな」
「認める」
姉御前あねごぜ姐御肌あねごはだで、姉崎あねさき家に嫁いだのだな」

ん? さっきと話が違うぞ。

「夫は宗教学者の姉崎正治あねさきまさはる
「なんか違う気がするけど」
「自分の姉様あねさまのことも知らんのか。このボケナス! 貴様のような馬鹿は姉様事あねさまごと姉様人形あねさまにんぎようと戯れていろ」
「ねえ、あねさん

あねさんかぶをしたあねさん女房にようぼう風の村の女が別の女に囁いた。

「なに」
「変だと思わない、この人の話」
「どこが」
「さっきは姉小路家に嫁いだって言ったのに、今度は姉崎家だって」
「そういえば、変だね」
「文句があるか!」

ひそひそ話を耳にしたアヌイが怒鳴りつけた。

「さっきの話はわたしの勘違いだ。正しくは姉崎家だ」

アヌイの剣幕に圧倒されて女たちは黙りこんだ。

「筒井のあねじゃひとは借金を抱えて苦しみ、姉姑あねじゆうとすなわち夫の姉を誘って吉原に身を売り、泥水稼業に身を沈めた。姉姑を姉女郎あねじようろうと呼んで慕い、女郎屋のアネックスすなわち別館に住まわせた」
「聞くも涙、語るも涙だねえ。弟のくせに助けてやらないなんてひどい」

村人たちは気の毒がって涙を流し、筒井を睨みつけた。

「助けるもなにも、俺には姉なんか――」
「まだ白を切る気か! 貴様のようなやつは亜熱帯あねつたいに住む資格はない!」
「はァ?」
「温暖な亜熱帯気候あねつたいきこうに住む資格などない! 亜熱帯高気圧あねつたいこうきあつのおかげで豊かな亜熱帯林あねつたいりんに恵まれたこの徳島に住むなど百年早いわ!」

そうだそうだ、と一同はやし立てた。どこからか鼻腔をくすぐる芳しい香りが漂ってきた。アヌイは胸一杯に芳香を吸った。

「これは分子式C10H12O芳香族エーテルの一種、アネトールだな」
「鼻が利くんだね」

姉女房あねにようぼう風の女が感に堪えて言った。

「この香りは宮城県栗原市金成姉歯にあった姉歯あねはまつで嗅いだことがある。わたしが姉分あねぶんとして慕った女性が、姉婿あねむこと一緒に連れて行ってくれたのだ。アネモネの香りにそっくりだからよく覚えている。風が強い土地で、アネモメーターすなわち風速計がくるくる回っていた」

またしても玄関の扉ががらりと開き、白人の男が現れた。

「あなたたちの話にはうんざりだ」
「誰だ」
アネルセンです」
「誰だろう」
「さあ」

一同首を傾げた。

「デンマークの詩人で作家。長編小説『即興詩人』、連作短編集『絵のない絵本』、自伝『わが生涯の物語』のほか、『火打箱』『親指姫』『人魚姫』など百五十篇を超える童話を書きました」
「親指姫や人魚姫はアンデルセンだぞ。おまえは偽物だ」

筒井が得意がって言い放った。

「アンデルセンはドイツ語読みです。デンマーク語の発音ではアネルセン」
「そうなの?」
「ただし、正しくはアナセン」
「どういうことだ」
「デンマーク語の発音に忠実なカタカナ表記はアナセンまたはアナスンです。『広辞苑』第五版にはアネルセンと書いてありますが、第六版ではアナセンに改められました」

筒井は出鼻を折られて顔が真っ赤になったが、すごすごと尻込みするのはプライドが許さなかった。

「なんの用だ」
アネロイド気圧計きあつけいを探しているのですが、この辺で見かけませんでしたか」
「何それ」
「薄い金属製容器の内部を真空にし、それが気圧変化によって膨らんだりへこんだりするのをで指針に伝える気圧計です。辺にあったはずなのですが」

アンデルセンは窓の外を指さした。

2016年11月5日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百八十回

座が静まりかえった。

「先生は……本当に釈迦ですか、それともイエス・キリストですか」

阿難の兄嫁あによめが訊ねた。

「俺は……いや、わたしは釈迦だよ」
「では、もしも主人が死んだら、わたしを主人の弟と再婚させますか」
「え?」
兄嫁直あによめなおです」
「ご主人は病気なのか」
「いいえ。阿仁銅山で元気に働いています」
「じゃあ心配は無用じゃないか」
「仮の話です」
「えーと、えとえと……うん、再婚させる」
「ちょっと待って下さい」

阿難が口を挟んだ。

「弟はこのわたしですよ。わたしには妻がいる。先生、一体どういうつもりですか」

まずいことになった。筒井はすっかり酔いがさめ、脂汗が額に滲んだ。

「先生が本物の釈迦なら、アニリンをご存じですよね」
「アニリン? えーと、たぶん化学物質だね。詳しいことはど忘れしたけど」
「分子式C6H5NH2。代表的な芳香族アミンです。先生が教えてくれたんですよ」
「おお、そうだった。うん」
「この服もアニリン染料せんりようで染めて下さいました」
「うんうん、そうだったね」
「嘘です! アニリン染料で染めたのではない。アニリンブラックだ」

一同ざわめいた。筒井は素性をごまかしきれなくなりまごついた。すると表の扉ががらりと開いて白人の男がずかずかと土足で上がりこんだ。

「おまえたちの話には呆れ果てて物も言えぬわ」
「誰だ」

阿難が訊ねた。

アヌイだ」
「アヌイ? ひょっとして、フランスの劇作家の」
「そうだ。社会の不純と対立する純粋な人間の悲劇を精妙な作劇法で描くのを得意とする。代表作は『アンチゴーヌ』と『ベケット』だ」
「なんの用だ」
「きさまたちの台詞は陳腐極まりなくて反吐が出る。劇作家として許せん」
「余計なお世話だ」
「大体こいつが筒井康隆であることは火を見るよりも明らかではないか」

一同ぎょっとした。

「釈迦でもイエス・キリストでもない。当たり前だろ。こいつは作家の筒井だ。その証拠にわたしはさっき筒井のあねに会った」
「俺に姉はいない」

筒井は否定したがアヌイはお構いなしに話を続けた。

姉上あねうえは君のことをとても心配しているぞ」
「だから俺にはあねなんかいないよ」
「嘘をつくな。さっき姉御許あねおもとと親しく話をしてきたばかりだ。たしかお姉さんは結婚して苗字が姉小路あねがこうじに変わっただろ。旦那さんは幕末の公家、姉小路公知あねがこうじきんともの子孫だ」
「知らないよ」
「室町時代の語学書、姉小路式あねがこうじしきの研究者だぞ」
「だから知らないって」
「姉小路家は長男よりも長女が年上だから、姉に婿養子を迎えて跡継ぎとする姉家督あねかとくを採用している」
「それがどうした」
「お姉さんは結婚して滋賀県東浅井郡を流れる姉川あねがわの畔に暮らしている」
「何遍同じことを言わせるんだ。俺に姉貴あねきはいねえよ」
姉君あねぎみの存在を否定するのか」
「黙って聞いてりゃさっきから姉さん姉さんってつまらないアネクドートばかり抜かしやがって」

筒井は声を荒げ、アヌイの逆鱗に触れた。

「このペテン師めが! きさまのような死に損ないはアネクメネに追放してやる」
「どこ?」
「地球上で人類が居住しない、または一時的にしか居住しない領域だ」

2016年11月4日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百七十九回

「先生! お久しぶりです」

見知らぬ男に呼びとめられた。

「誰だ」
阿難あなんです」
「え?」
「お忘れですか。提婆達多だいばだつたの弟。先生の従弟ですよ。先生は釈迦でしょ?」
「ん? お、おう、俺は……釈迦だ。君にはあにがいるのか」
あになからんや。あにいもわたしも先生の弟子ではありませんか」
「ああ、そうだったね。兄上あにうえは達者か」
「おかげさまで」

筒井は行きがかり上話を合わせたが、阿難は猜疑心にとらわれた。

「なんだか先生らしくありませんね。アニオンが少ない気がする」
「アニオン?」
「陰イオンですよ」
「イオンって、ジャスコ?」
「スーパーのイオンじゃありませんよ。負の電気をもつ原子です」
「そんなものが君には見えるのか」
「釈迦の弟子なら当たり前です。先生、本当にお釈迦様ですか?」
「も、もちろんだ。兄貴あにきは――いや、兄君あにぎみは、兄御あにごは、兄御前あにごぜは元気か」
「元気ですってさっき答えたでしょ。アニサキスの研究に余念がありません」
「アニサキスってなんだ」
「カイチュウ目の線虫です。クジラなどの海産哺乳類を最終宿主とする線虫です。アニサキスが寄生した魚を食べると急激な胃痛や吐き気に襲われるんです。アニサキスしようと言います」
「ほう。ではあにさんは海洋生物学者なのだな」
「ええ。でもあにじゃひとは仏教の修行もちゃんとやってます」
「それはなにより。――う、うう」
「先生、どうなさいました」
「なんだかわからないが、胃が痛む」
「ちょうどよかった。アニスをお飲みなさい」

阿難は懐から液体の入った小瓶を取りだした。

アニスは健胃剤です」
「ありがとう」

筒井はアニス油をごくごく飲んだ。

「いい香りだね」
「芳香族エーテルの一種、アニソールが含まれています」
「色も綺麗だ」
亜二あにチオンさんナトリウムが含まれています」
「化学物質に詳しいんだな」
兄弟子あにでしに教わりました。いまは秋田県北秋田郡の阿仁銅山で働いているはずです。そんなことよりも、先生! 今日はわたしが先生に弟子入りしたアニバーサリーですよ」
「そうなの?」
「お忘れですか? ちょうど十年前の今日です。お祝いしましょう」

豈図あにはからんや。こいつは俺を本物の釈迦だと思いこんでいやがる。少しは人を疑うがいいじゃないか。しかし教祖として扱われるのも悪くない。こうなったらペテンを貫き通してやろう。

阿難は筒井を立派な屋敷に招き入れた。阿難を兄分あにぶんとして慕う村人たちが集まり、酒宴を催した。美酒に酔った筒井はアニマが天に昇るような心地になり、アニマートで「オー・ソレ・ミーオ」とイタリア歌曲を歌った。酔いが回るにつれ、自然界の事物に霊的な力や生命力が秘められているというアニマティズムの信仰に目覚め、同時に、既成道徳を排斥して動物的本能のままに生きることを主張する文学上の主義すなわちアニマリズムの正しさを悟った。ぐでんぐでんに寄った筒井はアニマルのように四つん這いになって室内を這い回った。自然界のあらゆる事物は具体的な形象をもつと同時にそれぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的存在を有するというアニミズムは決定的に正しいのだ。悟りを得た筒井は喜びのあまりアニメの登場人物のように縦横無尽に動いた。

「まるでアニメーションだ」

村人たちは驚いて見守った。

「まるで子羊だ」
「まさに神の子羊。アニュスデイだ」
「てことは……先生はイエス・キリスト?」

2016年11月3日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百七十八回

「熊だ」

全員蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。一歩逃げ遅れた筒井の背中に熊が飛びかかり、あっという間に筒井は倒され、胸元をぐいぐい押さえつけられた。

「た、助けてくれ」
「騒ぐな」
「うわ、熊が……熊が、しゃべった」
「俺は熊ではない。穴山あなやまだ」
「……え?」
穴山梅雪あなやまばいせつだ」
「誰だって?」
「戦国時代、甲斐国武田氏の武将だ。母親は武田信玄の姉。駿河江尻の城主」
「でも、どこから見ても熊じゃないか」
「神の怒りに触れて熊に姿を変えられてしまった。辞書には『武田滅亡の後、徳川家康とともに上洛し、本能寺の変のとき帰国の途中で一揆勢に殺された』と書いてあるだろうが、殺されたというのは嘘だ」
「じゃあ、戦国時代からずっと熊?」
「うむ。しかも後脚に深手を負った」

熊は筒井を放し、足悩あなゆんでびっこを引きながら歩き回った。いったん逃げたテレビ局のスタッフたちが戻ってきてプロジェクターのような機器を熊に向けて設置した。

「筒井さん、どいて下さい」
「それは?」
アナライザーです。本物の熊かどうかを分析する機械です」
「俺は人間だ」

熊が叫んだ。

「その証拠に竹取物語の一節を諳じておる。――駿河の国にあなる山のいただきに」
「うるさい。アナリシスは俺たち専門家に任せろ」
「おまえみたいなテレビ局員がアナリストなわけないだろ」
「いいから、黙ってじっとしていろ」

アナライザーから七色の光が放射され、熊の全身を照らすと液晶パネルに文字が浮かんだ。

「なに? そんな馬鹿な……」
「どうした」

筒井が訊ねた。

「こいつの正体は……阿那律あなりつです」
「なに?」
「釈尊の従弟ですよ。釈尊十大弟子のひとりです」
「なんだって? じゃあ、俺の親戚じゃないか」
「は?」
「信じてもらえないと思うが、俺は釈迦だ」

今度はスタッフたちが驚いた。

「驚くのも無理はない。二千年の歴史を飛び越えて現代に蘇ったのだ」
「じゃあ、この熊はあなたの従兄」
「そういうことになるな」
「この熊はアナルコサンディカリスムの闘士だったじいさんを殺したんだぞ。おまえも同罪だ」

雲行きが怪しくなってきた。

「おいおい、ちょっと待て。俺に罪を着せるのはちょっとどうかと思うぞ。――あ、そうだ。これをやるから見逃してくれ」

筒井はアナログ式の腕時計を外してスタッフに差し出した。

「デジタル万能のご時世に、こんなアナログ計算機けいさんきなんて一文の価値もない」
「いやいや、時計は人生のアナロジーだぞ。時は金なり。いのち短し恋せよ乙女」
「なにわけのわからないことをほざいてるんだよ。おまえのせいで番組収録がちっとも進まないじゃないか。スポンサーからもらう制作費は限られてるんだ。穴をあけたらどう責任をとるつもりだ」
「そうやってなんでも人のせいにするからテレビマンは駄目なんだ」

筒井は業界人のあな穿うがった
「なんだと。赤字になったらどうやってあなめるつもりかって聞いてるんだよ」
「知るか」

筒井は一目散に駈け出した。野を越え山を越え海を渡り、走りづめに走って徳島県東部、那賀川下流にある阿南あなんにたどり着いた。

2016年11月2日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百七十七回

「おお、パイナップルの匂いはもあなに。おお、美しい。美哉あなにえや

アナトール・フランスはみずみずしい果実の香りと色を讃えた。

「喜んでいやがる。あなにく。これでも食らえ」

筒井はパイナップルを盲滅法に投げつけた。「ああ、美しい。美哉あなにやし」アナトール・フランスは相変わらずご満悦だ。

「ちくしょう。貴様なんか孔貫盤あなぬきばんで顔に穴をあけてやるぞ」
「やれるものならやってみろ。わたしは余裕綽々でこの場を立ち去り、競馬の穴狙あなねらで大金を稼ぎ、枕を高くして寝るわ」

いくら脅しても一向にひるむ様子のないアナトール・フランスの顔を筒井はあなのあくほど。古代ギリシアの三賢人といいフランス人作家といい、この土地はどうやら歴史上の人物と遭遇できる穴場あなばらしい。筒井の顔のまわりをブンブン耳障りな音を立てながら穴蜂あなばちが飛び回った。両手で払いつつのけぞった拍子に筒井は櫓から真っ逆さまに地上に落ちた。

「大丈夫ですか」

女の声がした。俯せに倒れた筒井が顔を上げるとやんごとない身分であろう貴婦人が眼の前にすわっている。

「はい、どうにか。あなたは……?」
穴織あなはとりです」
「あなはとり」
「はい。応神天皇の時代に阿知使主あちのおみらが呉国から連れ帰った伝説上の織女です」

女が自己紹介を終えると同時にかたわらの地面が歌舞伎の回り舞台のように回転し、下から作業員の穴番あなばんが顔を出した。

「穴織さん! 出番はまだですよ!」

プロンプター役の穴番が注意した。「あら、ごめんなさい」穴織はあなひらすなわち足の甲についた埃を手で払って立ち上がった。途端に足もとがふらつき、ばたりと地面に倒れた。

「あ、持病のアナフィラキシーだ」

穴番が叫んだ。

「アナフィラキシーってなんだ」
「アレルギーの一種です。抗原抗体反応により急激なショック症状を発し、最悪の場合は死に至ります。穴織さんはパイナップルがアレルギーなんです。どこのどいつだ、こんなにパイナップルをばらまいたのは」
「えーと、俺だけど」
「おまえか。なんてことをしてくれたんだ。罰として穴塞あなふさの刑に処す」

回り舞台の下から歌舞伎の裏方たちがぞろぞろ這い上がってきた筒井の体をかんじがらめにし、落とし穴に落として上に大きな板をかぶせて蓋をした。

穴塞あなふたにするなんてひどいや。この穴に落とされるのは三度目だぞ」

あなぼこの底から筒井がわめいた。

「いい気味だ。ざまあみろ。ぬははは」

「墓穴を掘るっていうのはここか」

地上から聞き慣れぬ老人の声がした。

「ああ、穴掘あなほじいさん。もういいんだ。やつが勝手に自分で墓穴を掘って落ちたよ」
「なんだ、せっかく一仕事して穴掘あなほざけの馳走にあずかろうと思ったのに」
「でもじいさんは穴掘あなほ大工だいくだから、ほかにも仕事はいっぱいあるだろ。それにしてもいい体してるなあ。筋肉隆々」
「アナボリックステロイドを飲んでるからな」
「え?」
「灰白同化薬。ドーピングで使う筋肉増強剤じゃ」
「まるでアスリートだな。昔からか」
「若い頃は社会主義の運動家じゃった」
「初耳だよ。なあ」

裏方たちがみんな頷いた。

「こう見えてもアナボル論争ろんそうではひとかどの人物だったのじゃ」
「なんだい、アナボル論争って」
「アナルコサンディカリスムとも言うがな。すべての政治権力を排除し労働組合の指導による社会を目指す主義だ。一九二〇年代を中心にスペイン・フランス・イタリアなどで盛んになった。日本では大杉栄らが主唱して、大正時代の労働運動の組織をめぐってボリシェヴィズムとの間にアナボル論争を展開したのじゃ」
「じいさん、インテリじゃないか」
「なあに、若気の至りさ」

裏方たちとじいさんの足もとに、秋の彼岸を過ぎても穴に入らない蛇が穴惑あなまどしている。

「墓掘りのじいさんがインテリとは傑作だ」
アナムネーシスの勉強もしたぞ」
「また横文字が出た。いったいなんだい、それは」
「日本語では想起と呼ぶ。プラトン哲学では精神がこの現象界に生まれる前にイデアの世界で得ていた直観を想起するのが真の認識だと考えたのじゃ」
「じいさんの口からまさかプラトンの名前が出るとは驚いた。じゃあ、哲学や思想の勉強をしてから墓掘りになったのか」
「墓掘りの前は漁師をやった」
「へえ」
穴布あなめというコンブ科の海藻を採ったものじゃ」

冷たい北風がじいさんの顔に吹きつけた。

「ああ、あなめ。眼が痛い」
「どうした」
「風が目に染みる」
「こんなところに突っ立っていると風邪をひくぞ。ほら、あそこに熊のいる穴がある。入口に穴止木あなめきが立ててあるだろ」
「ああ」
「あそこに入って風をしのげ」
「でも、熊がいるんだろ」
「いや、さっき確認したが、中は空っぽだ」

じいさんはしゃがんで穴の奥に身を潜めた。入口にもう一枚立木があり、「穴守稲荷あなもりいなり」と書いてある。穴は熊が開けたにしては手の込んだもので、築地ついじと石垣などを切りあけて造った低く小さい穴門あなもんである。

あなや! ぎゃっ!」

穴の奥からじいさんが叫ぶ声がした。奥からじいさんの死体をくわえた熊がぬっと顔を出した。

2016年11月1日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百七十六回

筒井が眉をひそめると「あれが見えるか」とアナクサゴラスが遠くの樹木を指さした。幹の一部が削りとられている。

穴印あなじるしだ。漁師が熊の穴を発見した印につけたのだ」
「熊が出没するのか」

動物が苦手な筒井は足末あなすえがぶるぶる震えた。テレビ局のカメラマンがやって来て、アナスチグマートと呼ばれる非点収差を補正したレンズを取りつけたカメラを構えて樹木に狙いを定めた。

「熊を撮影する気か」
「ええ。正確に言うと熊に襲われるあなたを撮影したいんです」

俺を釈迦とも知らずに見くびり馬鹿にしたくてあなずらはしいのだな。俺をあなずとはいい度胸だ。北西から吹きつけるあなぜが身を切るように冷たい。熊がいるならおびき出して、逆にカメラマンを餌食にしてやろう。

「何か食べ物はないか。果物でも菓子でもなんでもいい」
「リンゴならありますけど」

筒井はカメラマンからリンゴをもらい、樹木の近くにこんもりと盛り上がった土にあいた穴に入れて穴施行あなせぎようした。彼方あなたから寒風が吹き降りてくる。カメラマンは撮影をやめて筒井の顔をまじまじと見た。

貴方あなたは……ひょっとして作家の筒井康隆さんでは」
「人違いだ。俺は……釈迦だ」

地平線に広がる山脈の彼方面あなたおもてがキラリと光った。

「ほら、見えただろ光が。俺が釈迦である何よりの証拠だ」
「偶然でしょ」

山の彼方方あなたがたが再び輝いた。

「また光った。これでも偶然だと言うのか」
「三回続けて光ったら信用します」
貴方方あなたがたテレビ局の人間は自分だけが偉いと思って他人を信用しない。もっと正直に生きろ」

筒井とカメラマンは彼方様あなたざまをじっと見つめた。五分経っても十分経っても光は見えなかった。

貴方任あなたまかにして時間を無駄にしちまったぜ」

カメラマンはぶつぶつ文句を言ってシャツの埃を払うと横っ腹のところに穴が開いていた。筒井は裁縫セットを貸してやった。カメラマンは針を器用に操り穴継あなつした。山の彼方から鳥が飛んできた。

「カラスかな」
穴燕あなつばめだよ。この辺には多いんだ。冬になるとあそこの池が凍って、地元の人が穴をあけて釣糸を差しこんで穴釣あなづする」

カメラマンが教えた。燕は近づくにつれて体が大きくなった。

「おい、あれは鳥じゃないぞ」
「本当だ。飛行機だ」

鳥かと思われた物体は大きな飛行機だった。機体の横に「穴門あなと」と書いてあるのが読めた。

「穴門ってなんだろう」
「たぶん関門海峡の古い呼び名でしょう」

航空機は轟音とともに着陸し、筒井たちの眼の前でピタリと止まると同時に、スピーカーから雅楽の一つである「あなとう」が流れ出した。タラップが開き、雅な音楽に乗せて白人の男が降りてきた。

「君は筒井康隆だね」

男が言った。

「あなたは……?」
アナトール・フランスだ」
「え? ノーベル賞作家の、あの」
「そうだ。軽妙な皮肉と辛辣な諷刺を得意とする。思想的には懐疑的合理主義だったが、ドレフュス事件以後、晩年には社会主義を支持した。代表作は『シルヴェストル=ボナールの罪』『タイス』『赤い百合』だ」
「で、わたしになんの用ですか」
アナトキシンを探しておる」
「薬品か何かですか」
「ご明察。病原菌の毒素にホルムアルデヒドを加え、抗原性を保たせたまま無毒化したものだ。ジフテリアん破傷風などの予防注射や治療に用いる」
「でもわたしは化学や医学の分野は門外漢で」
「とぼけるな。わたしはあなどを受けると相手を殺す主義だ」
「無茶苦茶だよ」
「そのかわり、アナトキシンを渡してくれたらお礼にアナトリアの統治権を与えてやる」
「アナトリア?」
「小アジアの別称ですよ」

カメラマンが囁いた。

アナトリア語派ごはの民族を手中に収めることができるのだぞ。さっさと薬品を渡せ」
「わたしはは根っからの文系だ。理系はちんぷんかんぷん」
「わたしをあなどと赦さぬぞ」

アナトール・フランスは短刀を抜いて筒井に迫った。筒井はキョロキョロあたりを見回すと火の見櫓のような塔があり、急いで麻柱あなないを駈け登った。ずるっと片足を滑らせたが、カメラマンが手助けして下から尻を押し上げてあなないた。櫓のてっぺんにはアナナスと呼ばれるパイナップルが積んである。筒井はパイナップルをつかんではアナトール・フランスめがけて次々に投げつけた。

2016年10月31日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百七十五回

「くそ、またボタンが取れた。おーい、誰か縫ってくれないか」
「世話の焼けるやつだ。ほら、自分でやれ」

穴の上から顔を覗かせた局アナが裁縫セットを落としてやった。

筒井は慣れぬ手つきで針に糸を通し、穴かがりした。

「助かったよ。恐惶あなかしこ

縫い物を終えると一息ついた。俺は穴の底でいったい何をしているんだろう。でも妙に居心地がいい。地上は冷たい風が吹き荒れているが、ここは暖かい。落とし穴に嵌まったのは間抜けだが、あなが悪いことばかりでもなさそうだ。昼寝でもするか。

穴の隅に背中をもたれて少し眠ろうとした矢先、穴の上が騒々しくなった。筒井は穴の底から空を眺めた。テレビ局のスタッフだろうか、「やかましいぞ、あなかまあなかまたまえ」と聞き慣れぬ言葉を大声で発している。なんの騒ぎだろう。空を見上げながら、「空」という漢字はなぜ穴冠あなかんむりなのだろうと筒井は不思議に思った。

「どけどけ、わしをアナクサゴラスと知っての狼藉か」
「誰だって」
「古代ギリシアの哲学者だ。無数の元素の混合によって万物が生ずると説き、最初の混沌状態から秩序ある世界を創造した原動力としてヌース、すなわち精神を考えたのがこのわしだ」

どうやら地上ではスタッフとギリシア人哲学者が一悶着起こしたらしい。耳をそばだてていると穴の上からまたしてもロープが垂れ下がった。

「そこの御仁、つかまりなさい」

声に従って筒井がロープにしがみつくと、先ほどと同じようにするすると引き上げられた。いかにも哲学者らしき白髪の老人が三人いる。

「助けてくれてありがとう。あなたは……?」
「わしはアナクサゴラスだ。こちらはアナクシマンドロスだ。古代ギリシアのミレトス学派の自然哲学者。万物は不生不滅で、アペイロンという何らの限定ないものから出て、またそれに帰ると考えた」
「初めまして」
「そしてこちらはアナクシメネス。同じく古代ギリシアのミレトス学派で、万物の根源は空気だと考えた」
「なぜ助けてくれたんですか」
「人を穴の底に落として穴熊あなぐまみたいに扱うのは不当だからじゃ」
「ですよね! 一生穴蔵あなぐらで過ごすなんてご免だ」
「恩に着せるわけではないが、助けてやった礼としてアナグラム遊びの相手をしてくれんか」
「アナグラム? 言葉の綴りを入れ替えて別の語句を作る、あれですか」
「さよう。ではわしから行くぞ。――silent。英語の『沈黙した』だな。これを並べ替えてlisten。『聴く』だ。では君の番だ」
「えーと、えとえと。急に言われても咄嗟に思いつかないな。うーん……駄目だ。全然思い浮かばない。ああ、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。――ん? 馬鹿らしい? バカラシイ? カイバシラ! 『馬鹿らしい』のアナグラムは『貝柱』だ」
「見事じゃ。ギリシアの抒情詩人アナクレオンも真っ青の出来映えだぞ」
「お褒めにあずかっておきながらこんなことを言うのもなんですが、さっきから古代ギリシア尽くめで、アナクロだね」
「なに? わしらがアナクロニズムだと申すか」
「だって、いまは二十一世紀だし」
「人を馬鹿にしおって。せっかく穴子あなごの天ぷらを馳走してやろうと思ったのに。恩を仇で返すとはこのことだ。貴様はまだ自己紹介しておらんな。何者だ」
「俺は……釈迦だ」
「釈迦だと? ならば阿那含あなごんとは何か、よく存じておろう」
「え? あなごん?」
「知らぬと申すか。仏教の修行階位の一つで、声聞しようもん四果の第三位だ。つまり阿羅漢果の前位。欲界の煩悩を断じ尽くして再び欲界に生を受けない位のことだ。こんな基本的な知識もないくせに釈迦を名乗るとはおこがましい。貴様などアナコンダに食われてしまえ」
「ど忘れしただけだよ。そうやって人の欠点をあら探し、穴探しするのはよくないぞ」

あなじと呼ばれる北西から吹く冷たい風がアナクサゴラスの髪をなびかせた。

「あ、痛い、いてて」

アナクサゴラスはうずくまった。

「どうした」
穴痔あなじじゃ。冷たい風が吹くと痔が痛むのだ」

空はいつしかどんよりと鈍色に曇り、雨かみぞれでも降りそうなあなじけの雲行きになった。

穴杓子あなじやくしがあれば助かるのだが」
「穴のあいたお玉か。何に使う」
「疣痔を当ててぐりぐり尻を動かすと気持ちがいいのじゃ」
「不潔だなあ」

2016年10月30日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百七十四回

「また落とし穴に落ちました。これで八人目です」

男がマイクを片手に上から穴を見下ろして言った。どうやらローカルテレビの局アナらしい。「助けてくれ」筒井が穴の底から叫んだ。

「おめでとうございます。賞金一万円差し上げます」
「え?」
「ドッキリ番組ですよ。穴に落ちたら一万円」
「金をくれるのか。あなうれし」
「あれ? ひょっとして作家の筒井康隆さんでは?」
「ああ」
「指名手配の」
「え?」
アナーキーな活動をして国際的に手配されている」
「俺はアナーキストなんかじゃない」
「でもインターポールによるとアナーキズムを世界に広めた罪で手配中」
「濡れ衣だ。金をやるから助けてくれ。頼む」

筒井はポケットをまさぐった。アドニスがくれた孔明あなあせんの金貨が一個残っていた。

「ほら、これをやるから、引き上げてくれ」
「そんな端金はしたがねをもらったってしょうがない。テレビ局は給料いいんですよ」
「何か欲しいものはないか」
穴明あなあまゆ
「なんだって?」
「寄生虫の蛆虫に食われて穴が開いた繭です。高値で売れるんですよ」
「そんなもの持ってるわけないだろ」
「言うことをきかないと穴上あなあから首を吊ってもらいますぜ」
「恐喝か。生放送中なんだろ? 穴上げってなんだ」
「鴨居にある凹みです。戸を外したりはめたりするところ」
「いいか、よく聞け。俺は筒井康隆ではない。釈迦だ」
「お釈迦様?」
「そうだ」
「ちゃんちゃらおかしい。あなたが釈迦なら、わたしはさしずめアナール学派がくはの学者だ」
「嘘ではない。その証拠に涅槃に案内あないしてやる」
「本当に釈迦なら、天名地鎮あないちを読めますね」
「あないち?」
「神代文字の一種。鶴峯戊申しげのぶがその存在を主張したもので、ヒフミヨイムの順に排列した四十七の表音文字と一、二、三などの数字とから成る」
「聞いたことないけど、見ればたぶん読める。とにかく、ここから出してくれ」

局アナがスタッフに目配せすると穴の上からロープが垂れ下がった。筒井がしがみつくとスルスルと地上に引き上げられた。

「ありがとう」

道端で子どもが四五人、地面に開けた小さな穴に硬貨を放り投げて遊んでいるのは穴一あないちというむかしの遊びではなかろうか。筒井はシャツのボタンが取れて穴糸あないとがだらりと下がり、頭のてっぺんから足の先まで土埃に覆われた。ああ、みっともない、あな。落とし穴から穴兎あなうさぎがひょっこり顔を覗かせた。ウサギなど珍しくないのか、子どもたちは相変わらず穴打あなうちに夢中だ。

「では、涅槃とやらに案内してもらいましょうか」
「うん、えーと、えーと」

筒井は窮地を脱する策を練るために口ごもって時間を稼いだ。

「案内はしてやるけど、生放送中だろ」
「今どきバラエティー番組を生放送するわけないでしょう。収録ですよ」

局アナはスタッフに向かって左手をあげ、カメラを止めさせた。

「えーとね、えーと……あ、そうだ。涅槃よりもっといいこと教えてあげる」
「なんですか」
穴馬あなうまだよ」
「穴馬って、競馬?」
「ああ。ダークホースだ。単勝に百万賭けろ。数千万円稼げるぞ」
「本当ですね」
「請け合う」
「もし負けたら穴埋あなうして下さいよ」
「ああ」

筒井は靴を脱ぎ、足裏あなうらにこびりついた砂を払った。アナウンサーはJRAに電話をかけ、オッズがいちばん高い馬券を百万円で買い、テレビモニターで競馬中継を見た。「いよいよ最終レースです」と場内アナウンスが響く。ところがレースの開始が近づくにつれてダークホースのオッズが見る見るうちに下がった。

「おい筒井、いや、釈迦。オッズが低いじゃないか」
「おかしいなあ。きっと競馬評論家か誰かが大穴だと宣伝したんだろう。アナウンス効果こうかだよ」

レースが始まった。大穴の馬は下馬評どおり最下位だった。

「ちくしょう! おいこら筒井、じゃなくて釈迦! 百万円をドブに捨てちまったじゃねえか。どうしてくれる!」
「申し訳ない。あながあればはいりたい
「なら入ってろ」

アナウンサーが筒井の背中を蹴飛ばすと、筒井の体は再び落とし穴の底に落ちた。

2016年10月29日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百七十三回

勢いよく啖呵を切る跡見の口ぶりに筒井は感心した。

「君とは末永くつき合いたい。アドレスを教えてくれ」
「住所ですか」
「うん」
「さっき名刺をあげたでしょう」
「あ、そっか」

筒井はズボンのポケットをまさぐった。ない。どこかに落としたのだろうか。

「うう、ぬおおおお」

さんざん馬鹿にされたアトラスの顔が見る見るうちに上気し頭から湯気が立ちのぼった。

「さてはアドレナリンが出たな。筒井さん、そこの花を摘んで下さい」

筒井は車から降りて道端の花を一輪摘んだ。

「これは?」
「チョウセンアサガオです。根と葉にアトロピンというアルカロイドが含まれているんです。摂取すると中枢神経を刺激して興奮し幻覚を起こしますが、やがて体温が下がり昏睡に陥る」
「これを食わせれば……」
「あいつは寝た子も同然です」

筒井はT型フォードの屋根に登り、アトラスの口をめがけて花を放り投げようとした途端、後輪あとわがガタンと音を立てて脱輪し、筒井はすってんころりんと地面に転がり落ちた。

「天罰だ。思い知ったか」

アトラスが勝ち誇ったように言った。はいはい、そうですよ、と筒井は腰をさすりながら迎合あどった。アトラスは巨大な足を持ち上げた。東京ドームくらいの広さがある足の裏が車の上に迫り、車体を影が覆った。

「うわ」

跡見が慌てて車から降りた。どーんという音とともに足の裏がT型フォードをぺしゃんこにした。

「ヤバいぞ」

筒井と跡見は逃げた。アトラスがあとあとかくさねば殺される。どうにかしてあとをくらませたい。しかし一面アネモネ畑だ、身を隠す場所がない。どうしよう?

「筒井さん、わたしがやっつけます。あとを黒んで下さい」

跡見がぴたりと立ち止まり、アトラスを下から睨みあげた。

「後を黒む?」
「戦いで背後を守ることです。後方支援ですよ」
「支援ったって、武器も何もないぞ」
「貴様、このわたしに刃向かうとはいい度胸だ」

アトラスが吠えるように言った。

「貴様のようにわたしと勝負を試みる命知らずがあとたない。全員踏みつぶしてやったがな」
「おい、跡見。やめておけ。殺されるぞ」

筒井が跡見に呼びかけると跡見の姿が消えた。ん? いつの間にあとったのだろう。筒井とアトラスはまわりをキョロキョロ見渡した。

「そなたたち、無益な殺生は御法度である」

空を覆っていた黒雲が割れ、一条の光が大地を照らし、菩薩があとれた

「こ、これは……菩薩」

アトラスが思わず恐れ入って尻込みした。

「また何か悪さをするのではないかとそなたのあとをつけてきたが、案の定このザマだ。控えおろう」
「ははぁ」

アトラスは土下座した。

「今日のところは勘弁してやる。さっさと天界に帰れ。あとにごではないぞ」
「ありがたき幸せ」

アトラスはすごすごと退散した。

「菩薩ってすごいなあ。ギリシア神話より立場が上だとは」

筒井は感歎した。

「あまり褒めるでない。照れるではないか。大男をやっつける気分は最高だぞ、ついついあといて我ながら困る」
「じつはわたくし、釈迦なんですが」
「おお、釈迦であったか」
「ええ。あなたのあとみたいなあ。神通力を分けてくれませんか」
「弟子はとらない主義だが、釈迦のたっての望みとあらばしかたがない。あとまもと誓うか」
「誓います、誓います」
「よかろう。ではそなたを跡継ぎに任命する」
「わーい」

躍り上がって喜んだ筒井は背後に開いていた大きなあなに落ちた。

2016年10月28日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百七十二回

T型フォードが入国ゲートを通過しようとした矢先、前方から軍隊が押し寄せてきた。指揮官とおぼしき大柄な男が大きなかけ声をかけて軍勢をあども。部下が二人ライフルを構えて運転席の跡見と助手席の筒井に狙いを定めた。

「釈迦だと偽るのはおまえか」

指揮官が訊ねた。

「偽りじゃない。本物だ」
「おまえはアホか。釈迦は二千年以上前に死んだぞ。貴様が釈迦なら俺はイエス・キリストだ」

部下たちがどっと笑った。

「でも本物だもん。当人が本物だと言ってるんだから、これほど確かなことはないだろ」
「その口調からして全然釈迦っぽくない。引き返さないとためにならぬぞ」

険悪なアトモスフェアになった。跡見は舌打ちして車を反転させ、来た道を後戻あともどした。

「残念ながらカリオストロ公国には入れません」
「え? あそこはカリオストロ公国だったのか」
「はい。わたし、今年は後厄あとやくでして、物事がなかなかうまく行かなくて」
「悔しいなあ。ゴート札を手に入れたかったのだが」
「パスポートを偽造するしかありませんね」
「どうやって」
「広告業界に入る前、ちょっとヤバい仕事をしてましてね。いまは知り合いが後役あとやくとして仕事を引き継いでいるので、連絡してみましょう。ちょっと写真を取らせて下さい」

跡見はスマホで筒井の顔を撮影し、知人に電話をかけて事情を説明した。十五分も経たぬうちにさっそく知人がバイクで駆けつけ、出来立てほやほやの偽造パスポートを筒井に渡して疾風のように立ち去った。

「ずいぶん仕事が早いな」
「器用な男なんですよ。以前は後山あとやまといって、切羽きりはから石炭を搬出する鉱夫をやってました。その前は後槍あとやりといって、戦場で槍を持って後陣に立ってました」
「ふーん」

筒井はパスポートを開いた。顔写真の横に氏名が記されている。

アドラーって書いてあるぞ」
「ええ。アルフレッド・アドラー。ウィーン生まれの精神医学者です。神経症の原因は劣等感だと主張しました」
「じゃあ、俺はアドラーを名乗ればいいのか」
「はい。わたしのことはあなたの弟子ということにして。ゴート札を手に入れたら少しでいいので分け前を下さいね」

跡見は卑屈な顔をしてあとら、再びエンジンを吹かして入国ゲートに車を寄せた。

「おいおい、また釈迦が来たぜ」

係員が呆れた。

「釈迦ではない。アドラーだ。ちゃんとパスポートもある」

筒井は窓越しにパスポートを渡した。

「どれどれ……アドラー?」
「ああ。オーストリア生まれの精神医だ」
「さっきは釈迦だと抜かし、今度は精神医か。ふざけるのもいい加減にしろ」
「滅相もない」
「ひょっとして芸人か? 何かのアトラクションのつもりか? 芸人だとしたらなかなかアトラクティブだけどな」
「俺は医者だ」
「貴様がオーストリアの医者なら俺はアインシュタインだ」

係員と同僚たちが笑った。

「おまえたち、さっきから何をごちゃごちゃ抜かしておる!」

突然稲光が走り、大地が鳴動して、雲つくばかりの大男が現れた。

「うわ。誰だ」

筒井がのけぞった。

「わたしはアトラスである」
「アトラス?」
「地球の西端に立って天を支えるギリシア神話の巨人だ」
「俺になんの用だ」
アドラツキーを見かけなかったか」
「え? 誰?」
「ソ連のマルクス主義者だ。マルクス、エンゲルス、レーニンの著作を編集、刊行した。アメリカ南東部ジョージア州の州都アトランタに逃げたという噂を聞いたのだが」
「だったらアトランタを探せよ。図体ばかりでかくて頭は空っぽのようだな。どうせ脳味噌は筋肉でできてるんだろ。ははは」
「とっくに探したわ! 見つからないからアトランダムに世界各地に出没して捜索しておるのだ。わたしを馬鹿にするとアトランティスのように貴様を海の底に沈めてやるぞ」
「アトランティスを沈めたのはあなたでしたか」

跡見が興奮して言った。

「西洋建築の柱の様式にアトランテスっていうのがありますね。柱のデザインがあなたそっくりの男子像」
「よく存じておるな」

感心したアトランティスの左肩にスズメ目アトリ科の獦子鳥あとりが一羽とまった。

「そのアドラツキーとかいう男、たぶんアドリアかいにいると思うよ」

筒井は当てずっぽうを言った。

「アドリア海? アドリアノープルの近くか?」
「ギリシア神話の登場人物のくせにアドリア海も知らないのか」
「いや、いやいや、ど忘れしただけだ」

アトラスは恥ずかしさに顔を真っ赤にしてうろたえた。

「さては知らないんだな。おい、跡見。こいつ、やっぱり馬鹿だぜ」
「らしいですね。アトリーをご存じですか」

跡見がアトラスに訊ねた。アトラスは口を真一文字に結んで一言も発しない。

「アトリーはね、イギリスの政治家だよ。1935年から55年まで労働党の党首をつとめた。じゃあ、アトリウムってなーんだ」

跡見は続けざまになぞなぞを出した。

「……わからん」
「古代ローマ都市の住宅における中庭だよ」
「わたしはギリシアの神だ。ローマのことなど知らぬ」
「負け惜しみを言ってやがる。おまえみたいな独活うどの大木はアトリエで絵でも描いて、アドリビトゥム、つまりアドリブで鼻歌でも歌ってろ。そのあと少しは勉強しろ。ドイツの哲学者アドルノの『否定的弁証法』を読め。どうせ一文字も理解できないだろうけどな。読んだらアドルムを飲め。シクロヘキセニール・エチルバルビツール酸カルシウムの商品名だぞ。睡眠剤だ。三年寝太郎とはおまえのことだ」

2016年10月27日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百七十一回

亀裂の向こうを見ると男の子が相変わらず後枕あとまくらに煉瓦と紙の束を敷いてぐうぐう寝ている。天変地異だというのに暢気なやつだ。

「そこのあなた、このロープにつかまりなさい」

筒井の背後から声がした。ふりかえると後丸あとまるというのだろうか、かかとの部分を丸く作った駒下駄を履いた男がロープを放り投げた。筒井がロープにつかまると男はぐいぐい引っ張り、筒井の体は亀裂に一瞬落ちたがスルスルと持ち上げられ無事引き上げられた。

「助かったよ。ありがとう。あなたは……?」
「挨拶は後回あとまわにして、早く車に乗りなさい」

筒井は言われるがままT型フォードに乗った。車が発車すると同時にゴゴゴと再び地鳴りが響き、さっきまで筒井が立っていた尖塔型の地面が崩壊し奈落の底に消えた。

「命の恩人だ。あなたは?」
アドマンです」

男は広告業者の名刺を手渡した。

「なんの広告を?」
跡見あとみです」
「あとみ?」
「茶会のあと、別の客が茶の道具を拝見する茶会です。簡単な茶を振る舞います」

筒井は名刺の氏名をあらためた。「跡見あとみ鷺男」と書いてある。

「アトミ・サギオさんですか」
「はい」
「詐欺師みたいな名前だな」
跡見花蹊あとみかけいの孫です」
「聞いたことがない名前だけど」
「摂津生まれの教育家です。跡見女学校を創立しました」
「跡見学園女子大学の前身かな」
「そうです。父も跡見女子大の教授で、アトミズムを教えていました」
「原子論か。哲学者だな」
「ええ。でも、これからはアトミック・エイジだ、原子力時代だとか言い出して、哲学とは関係のない話ばかりして首になりました」

T型フォードはブレーキをかけて検問所らしき建物の前で止まった。

「失礼ですが、小銭をお持ちですか」
「少しならあるけど」

筒井はアドニスからもらった銀貨を二枚差し出した。

「ここはアドミッションが要るんです」
「アドミッション?」
「入国料です」
「入国? 外国なのか」

検問所から係員がやって来て、T型フォードのボンネットを開け、エンジンルームにコードを差しこみ何やら作業を始めた。

「何してるんだ」
アドミッタンスを調べているんです」
「アドミッタンス?」
「電流回路において電流の流れやすさを示す量です。インピーダンスの逆数ですよ。単位はジーメンス」
「なんでそんな点検を」
「不法入国者を取り締まるためですよ。最近は車を爆破させるテロリストが多いんです。先日もアドミラルが、つまり海軍提督が爆死しました」
「物騒な国なんだな」
「しかも最近は爆薬を使わず、アトムそのものを操作して爆発させる」
「アトムって、原子か」
「はい」
「原爆じゃないか。原子爆弾を車に積んでいるのか」
「まったくひどい世の中ですよ。――お茶を一杯召し上がりませんか」

広告業者は運転席の下から茶道具を引っぱりだした。

後昔あとむかしがありますよ」
「無知をさらしてお恥ずかしい限りだが、『あとむかし』って何?」
「『のちむかし』とも言いますが、お茶の銘柄です。江戸時代に将軍家が用いた極上の宇治茶で、湯引き法による青色系のものです」

車の点検を終えた係員が運転席のドアにやって来た。広告業者が窓を開けると係員は車内に首を突っこんで訊ねた。

「パスポートを拝見します」

男はパスポートを示した。係員は助手席にいる筒井の顔を覗きこんだ。

「そちらのかたは」
「俺は……釈迦だ」
「え?」
「釈迦だよ」
「お釈迦様?」
「ああ」
「……本物ですか」
「そうだよ」
「あの、パスポートを……」
「釈迦がパスポートなんか持ってるわけないだろ」
「ですよね」

係員は車内の後目あとめすなわち後部座席を見た。さまざまな茶器で埋め尽くされている。

「入国の目的は?」
後妻あとめを娶るためだ」

筒井は口から出任せを言った。

「あとめ?」
「後添いだ。後妻ごさいだよ」
「運転していらっしゃる、このかたは?」
「俺の跡目あとめだ」
「跡継ぎですか」
「うん。跡目論あとめろん、つまり相続争いの最中でね。いろいろ大変だよ、釈迦がこんなことを言うのもなんだけど」

2016年10月26日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百七十回

「おいら、後引あとひ上戸じようごなんだ」
「後引き上戸って、ふつうは大酒飲みのことだぞ」
「酒も金も大好きさ」
「生意気だな」

男の子は目がすわって筒井にじりじりとにじり寄る。筒井はあとびさりした。少年は筒井の額にぺたりと紙切れを一枚貼った。

「なんだ、これは」
跡札あとふだだよ」
「え?」
「出棺したあとの室の入口や四方に貼るお札さ。お葬式のまじない。青森県の風習だよ」

さっきの行列は葬列だったのか。アドニスは釈迦の出迎えだと言ったぞ。でも素通りしてしまった。待てよ。ひょっとして、俺は死んでいるのか……?

「もっと阿堵物あとぶつをおくれよ」
「金か」
「うん。アトピーを治したいんだ」
「両親はいないのか」
「いない。後懐あとふところに育てられたんだ」
「あとふとくろ?」
「実の親にかわって子どもを大切に養育することだよ」

餓鬼のくせに難しい言葉を知っていやがる。

「金はもうない。さっさと病院に行け」
「でも後船あとぶねはあしたにならないと来ないんだ」
「船で行くのか」
「うん」
「あしたまで、どうするつもりだ」
「ここで寝て待つよ」

男の子は道の真ん中に大の字になって寝そべった。脚辺あとへのあたりに跡部あとべというのだろうか、ざらざらした分厚い紙を何枚も重ねてある。枕のつもりか。枕なら頭の下に敷けよ。馬鹿な餓鬼だ。筒井が鼻で笑うと男の子は懐から粘質の土を焼かずに天日だけで干し固めたアドベすなわち煉瓦を一個取りだして頭を乗せた。高枕とは生意気だ。

「往来のど真ん中に寝そべるなんて邪魔だぞ」
「うるせえよ! おいらは好きなところで寝るんだ」

どうやら言い出したらあとかないたちらしい。筒井は冒険の続きをあとまわして一休みして、餓鬼の性根を叩き直すことにした。

「おい、起きろ」

上から睨みつけて怒鳴ったとたん地響きがして足下の大地に亀裂が走った。ゴゴゴと地獄の底から沸くような音とともに周囲の地面が崩れ去り、、筒井は陸の孤島のようにぽつんと取り残され、あとへもさきへもかぬ仕儀となった。いったい誰の仕業だ。あとへもさきへもらぬとは、俺様を釈迦と知っての狼藉か。

「おーい、アドニス」

筒井は亀裂の外にぽつんと立っているアドニスを呼んだ。

「おまえの仕業か」
「わたしにはこんな神通力はない。罰が当たったのだろう」
「罰? 俺はなにも悪いことなんかしてないぞ」
「天はすべてをお見通しだ。いまさら命乞いしても足偏あとへんだ」
「あとへん?」
「後の祭りと申すのだ」
「助けてくれ。頼む」
「せいぜい苦しむがいい。冒険小説の主人公らしくて、いいじゃないか」
「こんなアドベンチャーは真っ平御免だ」

背後から、えっほえっほとかけ声をかけながら駕籠かきがやって来た。先棒の男も後棒あとぼうの男も頬っ被りをして素性が知れないところから察するにどうやらチンピラらしい。

「おい、あれは筒井康隆じゃねえか」
「あ、本当だ」
「人気作家だからきっと金をたんまり持ってやがるぞ。ちょっと脅かして強請ろうじゃねえか」
「合点承知之助。後棒あとぼうかついでやるぜ」

駕籠かきは筒井めがけて足を速めた。筒井の姿しか眼に入っていなかったのであろう、二人は、あっ、と声をあげて奈落の底に落ちた。

「おい、アドニス。いまの二人はなんだったんだ」
アドホックな登場人物だよ」
「え?」
「その場限りの人物さ」
「死ぬためにわざわざ出てきたのか。ご苦労なこった。ははは」
「安心するのはまだ早いぞ。歌舞伎ならこのへんで次に演じる後幕あとまくが始まる頃だ」

2016年10月25日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百六十九回

筒井はハッとしした。

「お釈迦様って、たしか生まれたときに三歩半歩いたんですよね」
「そうだ。正確には四方に七歩ずつだが」
「で、天と地を指さして『天上天下唯我独尊』と言った」
「ああ」
「さっき生まれた赤ん坊が同じことをしたんです」
「本当か」
「ええ、三歩半歩きました」
「歩数が違うぞ。四方に七歩ずつだ」
「じゃあ、あの子は……」
「偽物だ。本物の釈迦はそなただ」
「マジかよ」

筒井は目を白黒させた。

「その赤子はペテン師だ。あとかりさきになるの譬えもある、ぼやぼやしてると先を越されるぞ」

筒井は心の中で来し方をふりかえった。俺はほんのあとつきまで一介の三文文士だった。それがどうだ。いまや釈迦だ。仏陀だ。あとがあまねく世界に伝わるぞ。

「釈迦よ、あとでおくつろぎください」

アドニスが言った。

「あとのま?」
「次の間です」
「次の間って、ここはアネモネ畑だけど」
「部屋はないが、あるつもりで、どうかお平らに」

筒井は道の真ん中に腰を下ろしてあぐらをかいた。

「俺はこれからどうすればいいのだ」
「身分を隠しなさい。あなたの命をつけ狙う者が必ず現れます。命を奪われてはあとまつり
「じゃあ、世を忍ぶ仮の姿として小説家のふりをしよう」
「そうしなさい。――これはつまらない阿堵あとものだが、取っておきなさい」

アドニスは金貨と銀貨を筒井の手に握らせた。一本道のはるか後方から長い行列がやって来た。

「あなたが釈迦である証拠に、ほら、お迎えが来ましたよ」

馬に乗った後乗あとのが行列のしんがりをつとめていた。先頭の男が足をつまずかせた。下駄の後歯あとばが割れたらしい。

「長い距離を歩くなら下駄はやめたほうがいいですよ」

アドニスがアドバイザー役を買って出た。

アドバイスありがとうございます」

男は礼を述べた。行列は何事もなかったかのように再び進み、あっという間に地平線の彼方にあとはかなく消えた。――と思ったら道端に後箱あとばこが一個落ちている。行列の後ろのほうにいた男が担いでいた調度品を入れた挟み箱らしい。筒井は歩み寄って箱を持ち上げた。中身はなんだろう。開けたとたんに白い煙がもくもくあがっておじいさんになりました、なんてことになったらいやだな。でも確かめたい。こうなったらあととなれやまとなれだ。筒井は箱の蓋を開けた。突然下腹部に鋭い痛みが走った。

「いて、いてて」

思わずへなへなとくずおれた筒井にアドニスが言った。

後腹あとばらだ」
「あ、あとばら……?」
「産後の腹痛です」
「産後って、俺は男だぞ」
「さっき赤ん坊を産んだと言ったではありませんか」
「いや、生まれたと言ったんだ。俺が産んだわけじゃない」
「産婦人科に入院費を払いましたか」
「払うわけないじゃないか」
「悪いことは言わない。後払あとばらでいいから支払いを済ませなさい」

ちくしょう。せっかく命が助かって釈迦になれたのに腹痛に襲われるとは、後腹あとばらめるとはこのことだ。

ドーンという地響きが鳴った。

「うわ、なんだなんだ」

筒井がアネモネ畑を眺めると一部が陥没している。

あとばらしだ」アドニスが言った。

「何それ」
「石炭を掘ったあとにできる空洞を埋めないでそのまま放っておくことです。落盤事故や地表陥没の原因になる」

筒井が視線を空に向けるとアドバルーンが浮かんでいる。今どき珍しいな。ひらひらと揺れる細長い布に文字が書いてあるぞ。なになに――「観念しろ、ツツイ」?

「何者かがアドバルーンをげたんでしょう」
「そんなこと、言われなくたって見ればわかるよ」
「いやいや、世間の反響や相手の出方をうかがうために意図的に声明や談話を流すことを『アドバルーンを揚げる』と言うのです。『観測気球をあげる』とも言います」
「へえ」
「こんなことも知らないなんて、あなたはやっぱり三文文士だ」
「うるさい。俺はこう見えても人気作家だ。小説の新作を発表すればたちまち後版あとはんが出るんだ」
「そんなに面白い小説なら読んでみたい。一冊売ってください」
「あいにくいまは手許にない」
アドバンスを払いますので」

アドニスは手付金としてさらに金貨を数枚渡した。

「予約購入させてください」
「いいよ」

アドバルーンの真下にあたる畑の真ん中から大きな炎がめらめらと燃え上がった。

「今度はなんだ」
「どうやら後火あとびです。嫁行列か葬式の出たあとに焚く火です」

炎から逃れるように小さな男の子が走ってきて筒井の輿にすがりついた。全身に湿疹が見られる。

「坊や、どうしたんだい? もしかしてアトピー?」
「うん」

重度のアトピー性皮膚炎せいひふえんを患う男の子はしくしく泣きだした。筒井は気の毒になった。

「ほら、泣かないで。おじさんがお金をあげるから、お医者さんに診てもらいなさい」

筒井はアドニスにもらった銀貨を一枚手渡した。男の子はもっとおくれと手を出した。もう一枚やるとさらにねだる。たちの悪い後引あとひだ。

2016年10月24日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百六十八回

「た、助けてくれ」

道端に男がひとり腹ばいになって倒れ、筒井のほうに腕を伸ばした。

「どうしました」
「わたしが死ぬと後絶あとたえてしまう」
「え?」
「王家の血筋が絶えるのだ」

王家? ここはイタリアだぞ。イタリアって王国だったか?

「イタリアは共和国ですよね」
「ああ。しかし王家の血は連綿と受け継がれてきたのだ。わたしが唯一の子孫だ。助けてくれたら菩薩が跡垂あとた
「あとたる?」
「仏や菩薩が衆生済度のために、仮に神となって現れるのだ」
「なんだか話がさっぱり呑みこめない」
「あれを見ろ」

男は廃屋と荒れ果てた庭を指さした。

「王宮の跡地あとちだ」
「ただのぼろ屋にしか見えないけど」

男はどう見てもペテン師としか思えない。でも、もし本当だったら? あのとき助けてやればよかったと後悔しても下種げす後知恵あとぢえだ。

「わたしの跡継あとつになってくれぬか」
「わたしが? いいんですか? ただの通りすがりですよ」
「構わん」

男はポケットから白い紙を出した。

「ここにサインしてくれればいい」

筒井は言われるがままに「Yasutaka Tsutsui」と署名した。

「これでそなたは正式な跡継ぎだ」

すると客を乗せた馬の尻に荷をつけた後付あとつの馬が足早に通りかかり、荷物から本が一冊落下したのにも気づかずに走り去った。筒井が本を拾ってページをめくると後付あとづけに「ゴート札の秘密」と書いてある。ゴート札? どこかで聞いたことがあるぞ。――そうだ、宮崎駿の名作アニメ『ルパン三世/カリオストロの城』に登場する偽札だ。馬が戻ってきて客が筒井に言った。

「いよッ、旦那。すごいねどうも」
「何がすごいんだ」
「どうもあァたという人はすごい。一杯ご馳走にあずかりたいですな」

口調が跡付あとづけすなわち太鼓持そっくりである。

「あいにく忙しいんだ」
「さいでげすか。では失礼」

客は再び馬を走らせて去った。筒井はもう一度本を斜め読みした。ゴート札が実在するなら是非とも跡付あとづけたい

「わしは後連あとづに先立たれて以来天涯孤独だった。あとのことは頼んだぞ」

男は息を引き取った。筒井は道端に穴を掘って足跡の墓を作り跡訪あととふた。俺はイタリア王国の継承者になってしまった。俺みたいな三文文士が王国を受け継いでいいのだろうか。いいのだ。読者は忘れているだろうが、かつてエチオピア大使をつとめた俺だ、いいに決まってる。眼の前で死んでしまったこの哀れな男をあととして、俺は王国を再建するぞ。アッシリア王国を復活させる夢は後回しだ。そうと決まったら何があっても跡留あととまねば、つまり生きながらえねばならぬ。そしてゴート札を見つけるのだ。筒井は本をめくった。「ゴート札はカリオストロの城にあり」と書いてある。一儲けできるぞ。いひひ。

前方から老人がトラクターを運転してやって来た。あの、ちょっと道をお尋ねしますが、と筒井は跡尋あととめた

「カリオストロの城へ行くには……」
「カリオストロの城かね。この道をまっすぐ行った突き当たりだ」
「ありがとう」

筒井は一本道を意気揚々として歩き始めた。道端で餅をつく夫婦がいる。夫が杵を振り上げると妻がすかさず餅を後取あととする。イタリアでも餅を食うとは知らなかった。いやいや、そんなことに感心している暇はない。俺は王国の跡取あととなのだ。筒井はてくてく歩き続けた。見渡す限りの平原で跡無あとな人っ子一人いない。なぜか気分が晴れ晴れして子どものようにあどなくスキップした。突然空から轟音がとどろき渡ってヘリコプターが降下してきた。

「おまえはヤスタカ・ツツイか」

拡声器から甲高い声が聞こえた。どうやら警察らしい。

「ちがいます」

筒井は咄嗟に嘘をついた。

「さっき男が差し出した紙に署名しただろ」
「いいえ、跡無あとなごとです」
「では、そこで何をしている」
「ただ放浪するだけの跡無あとなびとです」
「本当に跡無あとなものか?」
「本当です」

ヘリコプターが平原に着地した。最初に降りてきたのは拡声器の男で、体組織が弛緩したアトニーを患っているのか、体がぐにゃぐにゃ曲がっている。そのあとからまるで嫁入り行列を出したあとに催す酒宴の後賑あとにぎやかしのように警官がぞろぞろ降りてきた。

「もう一度訊ねるが、本当に旅人なんだな」
「ええ。神に誓います」
「ならばよろしい。度の無事を祈ってやろう」

警官たちは旅中の平安を祈って後賑あとにぎわしの酒宴を催した。筒井は警察沙汰に巻きこまれるのはごめんとばかり足を速めて城に向かった。周囲はアネモネが咲き誇っている。突然空から王子が舞い降りた。

「うわ、なんだなんだ」

筒井は思わずのけぞった。

「わたしはアドニス
「アドニス?」
「ギリシア女神アフロディーテに愛された美貌の王子。野猪のため非業の死を遂げました。その血潮からアネモネが咲いたのです」
「お気の毒ですね」
「そなたはこの一本道をひとりで歩いておられるが、足跡が消えずに残っているところから察するに、そなたは跡主あとぬしではあるまいか」
「あとぬし?」
「釈迦如来です」
「わたしが? 釈迦如来?」

2016年10月18日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百六十七回

赤ん坊は男の子だった。生まれるや三歩半歩いて天と地を指さして言った。

「天上天下唯我独尊」

おまえは釈迦か。筒井は心の中で呟いた。「お月さんいくつ、あとさんなんぼ♪」。近所の児童たちがわらべ唄を歌うのが聞こえる。

「あ、ああ」

麗知恵瑠が苦悶の表情を浮かべたかと思うとそのまま静かに息を引き取った。

「かわいそうに。跡式あとしきはすべてこの子のものだな」

ホームレスの男が言った。

「跡式って財産のことか。どうせ遺産なんかないだろ、ホームレスなんだし」
「痩せても枯れても藤原家の末裔だぞ。真相がばれたら跡式争論あとしきそうろんで世間の人は目の色を変える」

男は懐からナイフを取りだして筒井ににじり寄った。

「財産は俺が頂く。きさまには死んでもらうぞ」

筒井は恐れをなして後退あとしざした。男も筒井もまるで能狂言の後仕手あとしてのようにすり足で一定間隔を保ちながら移動する。筒井はパッと後ろをふりかえり脱兎の勢いで走り出した。男は追いかけようとして駈け出した拍子に石につまずいて転びうつぶせに倒れ、「うぐ、うぐぐ」と苦しげな声をもらして動かなくなった。筒井が体を仰向けにするとちょうど心臓のところにナイフが突き刺さっていた。

「命を粗末にしやがって」

筒井は川原に穴を掘り遺骸を埋めた。死体の後始末あとしまつが済み、ほっとして川原に腰を下ろした。岸辺は亜土壌あどじようと言うのだろうか、母岩の分解が不十分で、土壌と岩石の中間のような丸い石がごろごろ転がっている。

「殺したのはこいつだぞ」

ホームレスたちが筒井のもとに集まってきた。筒井は再びじりじりとあとじょうりした。すると川面に跡白浪あとしらなみを立たせながら小舟がやって来た。筒井はじゃぶじゃぶと川の中を突き進んで勝手に舟に乗りこんだ。

「なんだおまえは」
「筒井康隆と申します。決して怪しい者ではありません」
「じゅうぶん怪しいぞ」
「この舟はどちらへ」
「吉原だよ」
「吉原? 遊郭ですか」
「ああ。いいぞ吉原は。遊女が居並ぶ見世と勝手とを仕切って襖を立てた後尻あとじりなんざァ乙なもんだ」
「連れて行ってください」
「金はあるのか」
「一文なしです」
「誰がただで乗せるもんか」

船頭は筒井を川へ蹴落とした。対岸に後脚が白い馬が一頭草を食んでいる。筒井は這いつくばって岸に上がった。うしろ脚が白い馬はたしか後白あとじろといって神馬に選ばれるはずだ。筒井は馬にまたがり、「ハイヨー、シルバー」と雄叫びを上げると馬はヒヒーンと啼いてふわりと宙に浮かび、天を駈け巡ってギリシア北東部、アクティ半島のアトスに着いた。後先あとさきも考えずに馬を飛ばしたら北半球の裏に来られたぞ。窮すれば通ずとはこのことだ。――筒井は修道院の前に馬をとめて中に入るとそこはビザンチン美術の宝庫だった。

「何かご用ですか」

思わぬ眼福を得てしばし茫然として佇む筒井に修道士が声をかけた。

「あ、いえ、旅の者です。絵が素晴らしいですね」
「さては泥棒だな」

修道士は袂から短剣を取りだした。筒井はまたしてもあとずさりした。背中がごつんと部屋の片隅にぶつかる。後窄あとすぼまりだ。

「このところ美術品がいくつも盗まれる。そなたの仕業か」
「とんでもない。人違いです」

後ろに下がりたくても後窄あとすぼでにっちもさっちも行かない。修道士が構えた短刀が眼の前でぎらりと鈍い光を放つ。

「あの、えーとえーと、わたしは泥棒なんかじゃなくて……後刷あとずりの職人です」
「後刷?」
「初めに刷った版木を使って、木版画などをあとでもう一度刷るんです」
「版画家ですか」
「はい」
「本当ですね」
「ええ」
「念のためにもう一度伺いますが――」
「は?」 「藤原家の末裔を殺して後世あとせすなわち相続人の地位を狙った犯人ではありませんね」

全身に脂汗がわいた。なんでギリシア人が知ってるんだろう。

「インターポールが国際指名手配をしているのですよ」
「そんな事件があったんですか。初耳です。物騒ですねえ」
「まったく油断も隙もない世の中ですよ」

修道士は疑いが晴れたらしく短刀を袂におさめて言った。

「あなた、チェスはできますか」
「ええ」
「退屈しのぎに相手をしてくれませんか」
「いいですよ」

二人はチェス盤を囲んですわり、筒井が後攻あとぜになった。修道士は話にならないくらい下手くそで、筒井は難なくクイーンを奪った。

「あ! クイーンを取るなんてひどい」
「ひどいったって、あなたが取れと言わんばかりに置くのが悪い」
「でも、いいもん! 後備あとぞなはたくさんあるんだ」

修道士は逆ギレして袂から新しいクイーンを取りだし盤に置いた。

「ずるいぞ!」
「いいだろ! これは俺の盤だ。俺様のルールでやらせてもらう」

急に言葉づかいが乱暴になった修道士は白生地に織り上げたあとで染色加工した後染あとぞの法衣の中からキングを一個出して盤に置いた。

「おい! どこの世界にキングを二個も使うチェスがある!」
「だって、負けるの大嫌いなんだもん」
「ええい、やめだやめだ」

筒井は盤をひっくり返した。

「こうなったらジャンケンで勝負しよう」
「望むところだ」
「行くぞ――ジャンケン……ポン!」
「ポン!」

筒井がグーを出したのを見定めてから修道士はパーを出した。

後出あとだしじゃねーか。ずるいぞ」
「うるさい! 文句があるなら後太刀あとたちでその首をちょん切ってやる」
「後太刀?」
「刀で人を斬るとき、先太刀さきだちの次に手を下すことだ。東洋人のくせにそんなことも知らないのか」
「おいおい、なんの騒ぎだ」

修道院長とおぼしき老人がやって来た。

「いいところに来てくれた。こいつジャンケンで不正をするんだぜ」
「本当か? 神に仕える身でありながらルールを守らないとは言語道断」
「まったくだ。たっぷり油を搾ってやってください」
「心得た」

筒井は修道院長に後頼あとだのして外に飛び出した。

2016年10月15日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百六十六回

「レイチェルって……君は日本人だろ」
「そうよ。レイはうるわしいの『麗』、チェは『知恵』、ルは瑠璃の『瑠』」
麗知恵瑠レイチェル……キラキラネームじゃないか」
「余計なお世話だ」

背後からえっほ、えっほと掛け声が近づいてきた。筒井が後方あとかたをふりかえると、駕籠かきが二人、息を揃えてやって来た。後ろの棒をかつぐ後肩あとかたが石につまづいて転んだ拍子に駕籠が爆発した。ニトログリセリンでも積んでいたのか。駕籠は跡形あとかたもなく破壊され、駕籠かきは二人とも即死した。麗知恵瑠が破片を後片付あとかたづすると駕籠は跡形無あとかたな消えた。

「俺はレイチェルという女を捜して旅を続けてきたんだ。アメリカ生まれの黒人だ」

筒井が女に言った。

「そんな女のことなんか忘れて、あたしと一緒に楽しく暮らそう」

それもそうだと筒井は相槌を打って迎合談あどがたりした。

「夫婦になった以上は、あんたのものはあたしのもの、あたしのものはあたしのものだよ。いいね?」

麗知恵瑠はじりじりと筒井ににじり寄った。眼をぎらつかせ、おどろおどろしい形相に変わった。こいつは俺の尻の毛までむしりとる気だ――筒井は身の危険を感じた。もうあとがない

「夫婦になったと言うけれど、まだ婚姻届を提出していないじゃないか。結納金ももらってないぞ」
「結納金?」
「ああ。後金あとがねでいいから払ってくれ」
「あんた、誰に向かって口をきいてるんだい」
「え?」
「あたしは藤原鎌足の血筋を引く後姓あとかばねだよ」
「藤原家の末裔なのか」
「相続の対象となる跡株あとかぶの特権を持ってるんだ」
「由緒ある家柄じゃないか。なんでホームレスになったんだ」
「なったっていいじゃないか。あたしの勝手だ。夫の生き血を吸うのが生き甲斐なのさ」

女は筒井の首根っこにがぶりと噛みついた。

「うわ、やめろ」
「おまえの後釜あとがまはいくらでも見つかる。観念しろ」

麗知恵瑠は吸血鬼だった。筒井は暴れ回って女を振り払った。すると川原の段ボールハウスからホームレスの仲間があとからあとから押し寄せ、まるでアメリカのゾンビ映画の一場面のような様相を呈した。

「ちょっと待ってくれ。俺の後替あとがわはいくらでもいるって言ったよな」
「言ったよ。それがどうした」
「てことは、俺の血を吸わずに別の男の血を吸えばいいじゃないか」
「夫の血を吸うのが生き甲斐だっつーの! 心配するな、おまえを殺して出棺するときは坊さんを呼んで後浄あとぎよしてやるから、安心して成仏しろ」
「冗談じゃない。後金あときんの結納金さえもらってないんだから法的はまだ夫婦じゃないぞ。後腐あとくさなく、このまま別れよう」

女は筒井の理窟に抗弁できず、いかにも後口あとくちが悪そうにぶつぶつ口ごもった。

後月あとげつ以来、一口も血を吸ってないんだ。腹ぺこなんだよ」

女が妙にあどけなく弱音を吐いたのを見て筒井は安堵し、婚姻届を出す前に相手を夫扱いするのは法に反すると後講釈あとこうしやくした。

「藤原家の子孫ならじゅうぶん食っていけるだろ。世が世なら前輿と後輿あとごしがかつぐ輿に乗せてもらえる身分じゃないか」
「そうなんだけどね」

麗知恵瑠はうずくまってしくしく泣きだした。筒井は川原の大きな石にあどこびてあとこえて、つまりまたがって、能舞台の正面の後座あとざに控える役者のように威儀を正した。

「おーい、藪井竹庵先生のところには参ったか」

土手の上から鬢のうしろが下がって見えるように月代を剃った先ほどの後下あとさがりの侍が声をかけた。

「もう大丈夫でーす」

女の代わりに応えた筒井は後先あとさきのことを考えた。俺はレイチェルを捜して旅を続けてきた。そして眼の前には麗知恵瑠レイチェルという女がいる。これは偶然なのか? 同一人物なのか、それとも別人なのか。しっかり見極めないと後先無あとさきなになる可能性が大きい。同一人物なのに別人だと思いこんでしまうと事が後先あとさきになる後先見あとさきみなんてヘマは犯したくない。筒井は川の向こう岸を眺めた。収穫を終えた畑に農夫がカボチャか何かの野菜を後作あとさくしている。

「おぎゃー」

突然赤ん坊の泣き声が聞こえた。筒井がふりかえると麗知恵瑠がいつの間にか赤子を産んだ。

「妊娠してたのか」
「あんた、夫の癖に気づかなかったのか」

ホームレスの男がなじった。

「だから夫じゃないってば。何度も同じこと言わせるな」

麗知恵瑠は胎児を分娩し、胎盤が子宮壁を離れ卵膜とともに胞衣えなとして娩出される後産あとざんを迎えていた。

2016年10月11日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百六十五回

「ちくしょう! 後後あとあとまで呪ってやる!」

乞食は唾を吐きながら言った。

「ホームレスになってから長いのか」

筒井が訊ねた。

「二ヶ月だ。こう見えても後後月あとあとげつは財閥の御曹司と結婚したんだ。その証拠に、ほら、後音信あといしんがある」

女は懐から黴の生えた餅をひとつ取りだした。

「何それ」
「婚礼の翌日に嫁の里から送る餅だ」
「財閥の御曹司と結婚したなんて、ちょっと信じられない」
「どうせでたらめだと思ってるんだろ。でも後入あとい先出法さきだしほうとは何か、夫に教わったよ。おまえさん、知ってるか」
「なんのことだかさっぱり」
「棚卸資産の評価法の一種だ。あとから仕入れた原材料で作った製品や商品から先に払い出されたとみなして、期末に残った原材料や商品などの有高ありだかを評価する方法さ」
「うーむ、ちんぷんかんぷんだ」
「ははは。ざまあみろ。どうだい、おまえさんも阿党あとうにならないか」
「あとう?」
「仲間だよ。ホームレスにならないか」
「冗談じゃない」
「でも一文なしなんだろ」
「うん」
「家はあるのか」
「自宅は長野にある。でもタイムトラベルを繰り返してるから、いまもあるかどうか……」
「なんだ、金もない家もないなら正真正銘のホームレスじゃないか」

言われてみるとたしかにそうだ。

「あたしをあとふてくれないか」
「え?」
「妻に迎えてくれ」
「結婚しろと言うのか」
「一人口は食えないが二人口は食えるってむかしから言うよ」
「しかし――」
「気楽でいいよ、ホームレスは。税金払わなくて済むし」

女は乞食生活の利点を縷々説明した。女の話は妙に説得力があり、筒井はふんふん、たしかになあ、いいかもなあ、と相槌を打って迎合談あどうがたりに花が咲いた。

「話は決まったね。おまえさんは夫、あたしは妻だ。お祝いにひとっぷし歌うよ」

女乞食は箏曲の後歌あとうたをうたった。

「おまえさんも箏曲ぐらいは知ってるだろ」
「え? あ、うん、そりゃあ、もちろん」

本当は何も知らないのだが、筒井は知ったかぶりをしてあどうった

「よし。仲間に紹介するよ」

女は筒井を狭い河川敷に連れて行った。段ボール箱でこしらえた家がずらりと一列に並んだ眺めはまるで新興住宅地の団地のようだ。

「ケンちゃん」
「よう、ねえさん」
「あたし結婚したよ」
「マジかよ?」

ケンちゃんと呼ばれた男は段ボールハウスの入口にすわり、何やら陶磁器に絵を描いている。筒井は興味を引かれた。

「何をしてるんですか」
「ん? これか? 後絵あとえだよ」
「あとえ?」
「本窯で焼きつけた陶磁器に、さらに錦窯きんがまで絵付けするんだ」

別の男が土手の上から降りてきて、背中に背負った後笈あとおいから陶磁器を一つずつ取りだしてはケンちゃんの眼の前に並べていく。

「絵付けできるなんてすごいな。どうしてまたホームレスに?」
「この人はね、死んだ奥さんのあとを追いかけて後追あとお心中したんだけど、死に損なったのさ」

女は――というよりいまや筒井の妻と言うべきだが――黙して語らないケンちゃんの代わりに事情を説明した。

「奥さんはどうしてお亡くなりに?」
「産後の肥立ちが悪くてね。ケンちゃんは秋田の人なんだけど、秋田では後遅あとおくと言って、妊婦がほかの産婦を見舞うのを忌む風習があるんだ。出産が長引くという迷信でね。ところが東京から来た若い娘が風習のことなんか知らずにケンちゃんの奥さんを見舞っちまった」

突然土手の上を大名行列が通りかかった。しんがりに控えた後押あとおさが筒井たちを見下ろして叫んだ。

「おーい、そこのおまえたち、すまないが荷車の後押あとおを頼みたい」
「肉体労働か。いいけど、いくらくれる?」

女が大声で訊ねた。

「礼金はたっぷりはずんでつかわす。アドオン方式ほうしきで計算するから安心しろ」
「アドオン方式ってなんだ」

筒井が女に小声で訊いた。

「貸付金の返済を割賦で行うとき、元金に利率と期間をかけて利息額を計算して、この利息額と元金との合計額を均等に分割返済させる方式だよ。元金が割賦返済されていくのに利息額は元金が減らないものとして計算されるから、実質金利は表面金利より高くなるんだ」
「礼金となんの関係もないじゃないか」
「ああ。あの侍、あたしたちを小馬鹿にしてるのさ。――お侍さん、手伝ってあげますよ」

女は土手を駆けのぼり、荷車を力任せにぐいぐい押した。すると足がすべって後ろ向きに後覆あとがえを打って倒れた。

「あいたた」
「大丈夫か」

侍が女を介抱した。

「そなたに頼んだのが間違いだった。しかし約束通り礼金は払う。受け取れ」

侍は女の手に一文銭を十枚握らせた。

「もし怪我がひどければ、この手紙を持ってこの先の藪井竹庵先生を訪ねなさい」

女は手紙の文面を見た。後書あとがきにはたしかに「藪井竹庵先生」と書いてある。痛む腰をさすりつつ女は土手を降りてきた。冷たい川風に雪が舞い始めた。

跡隠雪あとかくしゆきだ」

女が呟いた。旧暦十一月二十三日から二十四日にかけて大師講に降る雪だった。

「この晩に家々を回って歩く大師の足跡を隠すために雪が降るのさ」
「へえ。――ところで、君の名前をまだ訊いてなかったが」
「そうだったね」
「夫婦になったのにお互いに名前を知らないなんて」
「まず自分から名乗るもんだよ」
「筒井だ。筒井康隆。小説家だよ」
「作家先生か。――あたしの名前はね、レイチェル」

レイチェル! 筒井は腰が抜けそうになった。

2016年10月10日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百六十四回

「筒井さん、すぐスタジオに行って下さい」

操縦士が促した。

「スタジオ?」
「ええ。映画のてレコです」
「当てレコって、日本語吹替版か」
「はい。筒井さんは小説家であると同時に俳優業も」
「うん」
「俳優なら声優の仕事もできますよね」
「経験はないが、やれと言われればやれないこともない」

筒井はセスナ機を降りた。傍らにスタジオらしき建物がある。中に入ると顔中が腫れあがった男に出迎えられた。

「筒井さんですね」
「ええ」
「お待ちしておりました。ではさっそくお願いします」
「あの、そのお顔は」
アテロームです」
「アテローム?」
「粉瘤とも言いますが。毛囊や皮脂腺の貯留嚢胞です。皮膚の下に生じて、中身は脂肪や角化表皮から成る粥状物質で、炎症を伴います」
「お気の毒に」
「では吹替を」
「ギャラはいくらですか」
「申し訳ございませんが、今回はノーギャラということでひとつ」
「冗談じゃない。オーストラリアくんだりまで呼びつけておいてただ働きか」
「なにしろ中小企業なもので」
「いやだ」
「筒井さん以外に頼める人がいないんです」

筒井が立ち去ろうとすると男は筒井の首根っこをつかまえて背負い投げし、柔道のわざを繰り出した。

「うわ、いてえ。やめろ」

這々ほうほうの体で逃げ出した筒井はセスナ機に飛び乗り操縦士に命じた。

「飛行機を出せ」
「どちらへ」
「どこでも構わん」
「どこでもいいんですか」
「ああ。早くしろ」

セスナ機はエンジン音も高らかに離陸し、アラビア半島南西端の港湾都市アデン上空にやって来た。

アテンション、プリーズ」

いつの間に乗りこんだのか、後ろの座席にスチュワーデスがいる。

「本日は当機をご利用下さりありがとうございます。わたくしがお客さまをアテンドいたします」

スチュワーデスは一言ひとことを丁寧に、アテンポのリズムで言った。機体の背後から戦闘機が近づいてきた。

「サービスはあとにしてくれ。何だか知らないが追われているみたいだ」

戦闘機がミサイルを発射した。ミサイルはセスナ機の右翼をかすめてジェット噴流のを空に残して消えた。

「着陸してくれ」
「了解」

セスナ機はアデンの港近くに着地した。筒井が飛行機から降りると背後からコツコツと足音あとが近づいてくる。誰か俺の命を狙っているのか?――筒井が意を決して振り向くと頭陀袋をかぶったような女乞食だった。

「旦那さま、阿堵あとを恵んで下され」
「アト?」
「お金です」
「あいにく一文なしだ」
「あんたも乞食か」

女乞食は百京分の一秒すなわちアト秒の間も置かずに訊ねた。

「まあ、似たようなものだ」

女は乞食のつらさを切々と訴えた。筒井は相手の話に合わせて、そうだよねえ、いやまったく、渡る世間は鬼ばかりだよはははと迎合迎合を打った。アデンの港は網所あどすなわち良い漁場らしく、漁師がせっせと網をたぐり寄せている。

「ここで会ったも何かの縁。あんたのアドを教えておくれ」
「アド?」
「アドレスだ」
「メールでよければ」

筒井は自分のメールアドレスtsutsui@gmail.comを教えた。

「ほう、Gmailを使ってるのか」
「うん。スパム広告のフィルターが優れもので重宝する」
「まったく悪徳業者のアドは迷惑この上ないね。――で、おまえさん、これからあど生きていくつもりかね」
「え?」
「どうやって食っていくつもりかね」
「当てはないんだ」

鬢の後ろが上がって見えるように月代さかやきを剃った後上あとあがりの侍が現れた。狩りでもしたのか、死んだ兎の後脚あとあしを右手で握ってぶら下げている。

「貴様たち、兎を食うか。兎の肉は後味あとあじが格別だぞ」
「旦那さま、恵んで下さるのか」
「嘘だよーん。誰が食わせてやるものか」

侍は女乞食の顔面に兎の死体をごつんとぶつけて、後脚あとあしすなをかけるように立ち去った。

2016年10月4日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百六十三回

見ればたしかにまな板だ。

「いかがなされた」

平安絵巻から抜け出したような貴人あてびとが見目麗しい艷人あでびとを伴ってフロントガラス越しに運転手に声をかけた。

「なんだか知らないが、まな板が」
「ガラスが粉々でござるな」

貴族はあてびて袂から一枚の紙片を取りだした。

「修理せねばなりますまい。この宛文あてぶみを持ってあそこの修理工場に行きなさい」
「あなたは」
「踊り手だ」
「ダンサーか」

筒井が身を乗り出した。

「さよう。どんな音楽でも踊れる」
「本当か」

筒井は「チャンチキおけさ」を歌った。貴族と婦人はで踊った。筒井はイーグルスの「ホテル・カリフォルニア」を鼻歌で歌った。二人は体をくねらせて舞った。見事だ――と思ったのも束の間、二人は突然ばったりと地面に倒れた。運転手が車を降りて体を調べた。

「マラリアだ」
「さすが医学部卒だけのことはあるな」
アテブリンを注射すれば助かります」
「アテブリン?」
「マラリアの特効薬です」

運転手はトランクを開けた。中はがらくたの山だ。なぜか鍛造工具のがある。運転手は邪魔な工具を外に放り投げた。すると柔道着を着た通りがかりの男の頭にゴツンと当たった。

「いて! この野郎」

男は運転手ににじり寄り、拳や肘、足先で急所を突いた。柔道の乱取りや試合では禁止されている危険なだった。運転手は気を失って倒れた。男は倒れている三人を見下ろし、婦人の顔を見て驚いた。

「こ、これは……貴宮あてみやではござらぬか」
「あてみや? 知り合いか」

筒井が訊ねた。

「宇津保物語の登場人物。絶世の美女で東宮妃となり、大勢の求婚者を失望させたおかただ。――ではここでものです」
「あてもの?」
「クイズだ。宇津保物語はいつの時代の話でしょう」
「わからんが、たぶん平安時代じゃないの」
「正解。あなたは鋭い人だ。きっと売買をするごとに利益をおさめる物屋ものやになれるでしょう」
「商売には興味がない。俺は文筆家だ」

昏倒した貴宮の体がピクリと動いた。発作的な動きなのにあてやかで、あでやかな着物が衣擦れの音を立てた。

「大丈夫ですか」筒井が声をかけた。
「わたしはもう駄目です。ではごきげんよう。アデュー

貴宮はなぜかフランス語で別れを告げて静かに息を引き取った。すると空から一本の糸が垂れ下がって筒井の鼻先にぶらぶらと揺れた。

「なんだ、これは」
てよまだ」
「あてよま?」
「夜漁をするとき、魚群の動静を探るために海中に垂らす糸だ」
「そんなものが、なぜ空から」
「きっと神さまの仕業に違いない。神に逆らうととんでもない目に遭うぞ」
「どうすればいいのだ」
「引っぱればいい」

言われたとおりに筒井が糸を握ると逆に糸に引っぱられて体がぐんぐん天高く登り、ぴゅーっと空を飛んで山あいの地面に叩きつけられた。

「こ、ここはどこだ」
阿寺断層あてらだんそうだよ」

地元民らしき女が顔を覗きこんで答えた。
「あてらだんそう? 日本か」
「当たり前だ。長野と岐阜の県境に北西、南東方向におよそ七十キロメートルにわたって走る活断層だ。――あれ? ひょっとして小説家の筒井康隆さん?」
てられてしまったか」
「わあ、本物だ。サインちょうだい」
「でも色紙もペンもないし」
「あるよ」

女は懐からサイン帳を取りだした。

「有名人のサインを集めてるんです」

筒井はページをめくった。

「どれどれ……高知東生、清原和博、ASKA、内田裕也、清水健太郎、押尾学、萩原健一、桑名正博、小向美奈子、岩城滉一、酒井法子、いしだ壱成、槇原敬之、長渕剛、美川憲一、錦野旦、勝新太郎……」
「共通点をててごらん」
「クスリで捕まった人ばかりじゃないか」
「ピンポーン♪」
「ピンポーンじゃねえよ。俺はクスリなんかやってない」
「細かいことはいいのよ。わたしにててサイン書いて。お願い」
「わかったよ。で、名前は」
「名前はね――」

女が名乗ろうとした瞬間、山の彼方からセスナ機が飛んできて筒井の脇に着地した。キョトンとして眺める筒井に操縦士が叫んだ。

「早く乗って」
「え?」
「さあ、早く」

藪から棒で何がなんだかわからないが、筒井は飛行機に乗った。セスナ機は轟音をとどろかせて離陸し、太平洋を飛び越え、オーストラリア南部、セント・ヴィンセント湾に臨む港湾都市アデレードに着陸した。

2016年10月3日


広辞苑小説『言葉におぼれて』第百六十二回

「おばあちゃーん、郵便でーす。宛名広告あてなこうこくだよー」

戸口で配達人が呼んだ。

「またダイレクトメールか。で盲滅法送りつけやがって」

老婆が戸口から外に出た途端、猛スピードでやって来た自動車が配達人と老婆を撥ねて走り去った。

「おばあちゃん!」

娘が駆け寄るともう一台自動車が来て撥ね飛ばし、した。筒井が外に駈け出すと二人は息絶えていた。家の中では核酸を構成するプリン塩基の一つであるアデニンが崩壊しつつある紋次郎が苦悶の表情を浮かべている。筒井は紋次郎をぬのごと肩に担いで外に運び出した。タクシーが通りかかった。筒井は手をあげて停め、後部座席に乗りこんだ。

「どちらまで」
アテネまで頼む」
「アテネ? どこです?」
「ギリシアの首都に決まってるだろ」
「あ、はい」

タクシーは急発進した。運転手はルームミラーで筒井と紋次郎の顔をちらちら見比べる。

「病人ですか」
「ああ」
「もしかしてアデノイドでは」
「アデノイド?」
「増殖性扁桃肥大症です。小さな子どもがよくかかる病気で、鼻づまりを起こし、口呼吸や閉塞性鼻声、難聴、睡眠障害、注意力散漫、記憶力減退などを起こすんです」
「妙に詳しいな」
「今でこそタクシー稼業に身をやつしていますが、これでも大学の医学部を卒業したもんで」
「う、うう……」
「おい、紋次郎。しっかりしろ」
「顔が青ざめてますね。ひょっとするとアデノウイルスでは」
「アデノウイルス?」
「人のアデノイドから分離されたDNAウイルスですよ。プール熱とかの上気道感染症、流行性結膜炎などを起こします。一説によるとアデノシンが特効薬だそうですが、わたしが習った範囲ではアデノシン一燐酸いちりんさんアデノシン三燐酸さんりんさんアデノシン二燐酸にりんさんも効き目がありません」
「とにかく、アテネまで早く」
「わかりました。――酒、飲んでもいいですか?」
「え?」
「アル中でしてね。酒を飲まないと手が震えて運転できない」
「物騒なタクシーだな」
「その代わり、飲めば震えがピタリと止まります」
「わかった。勝手に飲め」

運転手は酒屋の前で車を停め、筒井に訊ねた。

「酒代は――」
「俺が払ってやる」
「ありがとうございます」
「店の人に代金はあとでまとめて払うと伝えろ」

運転手はビールと日本酒、ウイスキーを山ほど抱えて車に積み、筒井が代金を払ってくれるのをいいことにしながら車を発進させた。ビールをぐびぐび飲むと運転手は手の震えが止まり、表情が穏やかになり、どこかあてはかな上品な顔立ちになった。

「お客さんにご馳走してもらうなんて、なんだか申し訳ないなあ」
「こっちこそいい面の皮だ」
「人生、はずはつきものですよ」
「こっちのセリフだ」

運転手の言葉は筒井にはままった。俺の人生は当てが外れっぱなしだ。瀕死の病人を連れて、あてばむ運転手のタクシーで日本からアテネに向かうことになろうとは夢にも思わなかった。紋次郎は虫の息だ。こいつの人生を俺にめて考えれば、俺だったいつなんどき病に倒れないとも限らない。

「うぎゃっ」

運転手が叫んだと同時にフロントガラスが粉々に砕けた。運転手は急ブレーキをかけた。助手席に大きな分厚い板が転がっている。

「空からばんが降ってきた」
「あてばん?」
「まな板ですよ」

2016年9月27日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百六十一回

老婆は狩衣に着替えて宛腰あてごしを絞め、猟銃を肩に担いだ。

「腰が曲がったばあさんが猟をするとはお慰みだ」

筒井がこすを言った。

「老人だと思ってこすると承知せんぞ」

老婆は地獄耳だった。筒井はことを慎み、ことのビーフストロガノフをいただきたいのですがと尋ねた。

「わしにけちをつけるような御仁には食わせねえだ」

こと畚褌もつこふんどしさきからはずれるとはこのことだ。老婆は猟銃を構えて筒井の眉間に狙いを定めた。

「うわ。こと。命ばかりはお助けを」
「この村に何しに来た」
「あの、えーとえーと……アッシリア王国を復活させるためです」
「嘘ではあんめいな」
「はい」
「殺してやる。神妙にしろ」
「なんでですか」
「死んだじいさんの遺言だ」

老婆は茶箪笥のいちばん上の抽斗から「ばあさんへ」と宛名あてなが書かれた遺言書を取りだして読み上げた。

「『アッシリア王国復活を目論む男が来たら問答無用で撃ち殺すべし』」
「そんな――」

うろたえた筒井は話題を変えれば銃を引っこめるだろうとんで孫の話を切り出した。

「可愛いですねえ、お孫さん。お名前は」
「ピカチュウだ」
「ピカチュウ? どんな字を書くんですか」
「『光』に宇宙の『宙』だ」

光宙ぴかちゅうのキラキラネームだ。

「もっとましな名前をつけたらどうです」
「余計なお世話だ」

老婆は尻に当てる当尻皮あてしかの皺を伸ばしてすわり直し、「お命頂戴つかまつる」と記した宛状あてじようを筒井の前に放り投げた。その時、けたたましい警報が鳴り響いた。老婆は掘っ建て小屋の片隅に設置してある怪しげな機械を操作した。

「なんですか、それ」
アデスだ」
「アデス?」
「Automated Data Editing and Switching Systemの略称だ。気象資料自動編集中継装置だ。気象・地震・津波・火山・海洋などについての資料を自動処理によって国の内外と交換し配信するオンライン・リアルタイム方式のコンピューター・システムだ。もうすぐ津波が来るぞ」
「嘘でしょ。こんな廃屋に最新鋭の機械があるはずがない。どうせ旧式の通信機だろ」

筒井が推量ずいりようで憎まれ口を叩くと入口に艶姿あですがたの娘が現れた。

「おばあちゃん、津波が来るよ」
「ああ、わかってる。おらも逃げるところだ」
「あんたたち、からかってるのか」

筒井はだんだん腹が立ってきた。

「ここは海から遠いじゃないか。津波が来るわけがない」
「せいぜいてずっぽうをこいていればいい。溺れ死ぬぞ」
「おばあちゃん、あたし、ゴルフ大会で優勝したのよ」
「本当か」
「うん。見て」

娘は記録係がプレーヤーのスコアを点検し署名してアテストしたスコアカードを示した。

「あんれまあ。ホールインワンを二度も。たいしたたまげた」
「どうせパークゴルフだろ」

筒井がに言った。

けがましいわね。そうよパークゴルフよ。悪い?」
「おい、こんなところで油を売ってちゃダメだぞ。早く避難しなくちゃ」

若い男が来て娘を抱擁し、けるように接吻した。

「津波が来るかどうか、てっこしようか」
「うん」

若い恋人たちは「来る、来ない、来る、来ない」と呟きながらカーネーションの花びらを一枚ずつ抜いた。本当に津波が来るのだろうか。筒井は逃げたくてもがない。

「おい、紋次郎。どうしよう」
「うむ……」

それまでひとことも口をきかなかった紋次郎の様子がおかしい。体の動きがぎくしゃくする。老婆がそばに来て全身を触った。

アテトージスだ」
「は?」
「身体の一側または両側に見られる不随意運動だ。不規則・粗大・持続的で、頭部や四肢末端をゆるやかにくねるようにうごかすところを見ると、大脳基底核の病変が原因だ」
「近くにお医者さんは」
「いねえ。でも安心しろ」

老婆は紙切れに何やら宛名あてなを書いて筒井に渡した。「アテナ」と書いてある。

「アテナってなんですか」
「ギリシア神界最大の女神に決まってるでねえか。大神ゼウスの頭から生まれたといわれ、学問・技芸・知恵・戦争をつかさどる。アッティカの守護神だ。早くアテナイに行け」
「アテナイ?」
「ギリシア共和国の首都だ」
「そんな遠くに行けるわけないでしょ」
「お呼びですか――?」

突然白人の男が戸口に現れた。

「誰だ」
アデナウアーです」
「え?」
「ドイツの政治家です。第二次大戦後キリスト教民主同盟を組織し、一九四九年から六十三年までドイツ連邦共和国、通称西ドイツの首相をつとめました。西ドイツを復興させ、ヨーロッパ共同体やNATO加入など西側の一員とするために尽力しました」
「人違いだ」
「そうですか。では失礼」

男は立ち去った。

2016年8月31日


『カタカナ新語辞典』を出版しました

学研からもう一冊辞書を出版しました。学研辞典編集部編『用例でわかる カタカナ新語辞典 第4版』(学研プラス)。収録語数3万6千語。

タイトルに〈用例でわかる〉と書いてありますが、厳密に言うと間違い。というのも辞書の世界では〈用例〉とは古今東西の文献で実際に用いられた例をさすからです。この辞書の用例はわたくしを含めた項目執筆者が自分で考案した例文ばかり。ですから正しくは〈作例〉あるいは〈例文〉と称するべきです。

2016年8月25日


漫画家デビュー

なんとこのたび漫画の原作者としてデビューしちゃいました。学研辞典編集部編『小学生のまんが類語辞典』(学研プラス)。四コマ漫画で学ぶ類語辞典です。絵心がまるでないわたくしはあくまでも原作を、つまりネームを考えただけでございまして、絵はプロの漫画家さんが描いていらっしゃいますからご安心ください。採用されたネタは下記の22作品です。

  1. わたし
  2. 兄弟姉妹
  3. 見る
  4. 美しい・汚い
  5. 話し合う
  6. 読む
  7. 食べる・飲む
  8. 歩く
  9. 立つ
  10. 眠る・寝る・起きる
  11. 守る
  12. 投げる
  13. 強い
  14. 広い
  15. 暑い
  16. 考える
  17. 覚える
  18. 高い
  19. まじめな
  20. 嫌い
  21. うれしい
  22. 悲しい

2016年8月20日


広辞苑小説『言葉におぼれて』第百六十回

「アディオスって、たしかスペイン語だよな」
「うむ」
「イスラム教の神がなんでスペイン語を話すんだ」
「拙者にもわからん」

筒井と紋次郎は茫然と立ち尽くした。アッラーとその父は本物の神なのだろうか。これが黄金ならいしすなわち試金石を使って真贋を試すことができるが、神の真贋はどうやって見極めればよいのか皆目見当がつかない。

「そこのおふたりさん。ちょっとものを伺うが」

白人の男がやって来て声をかけた。

「なんですか」
「わたしはアディソンという者だが」
「アディソン?」
「イギリス生まれの詩人で随筆家です。というよりはスティールとともに『スペクテーター』紙を創刊したジャーナリストとして、世間にちょいと知られた者です」
「で、なんのご用でしょう」
「トーマス・アディソンとここで待ち合わせする約束なのだが、見かけませんでしたか」
「その人もイギリス人ですか」
「ええ。アジソン病を発見した病理学者です」
「誰も見かけませんが」
「そうですか」

亜低木あていぼくの茂みからヒヒーンと馬の鳴く声がした。

うまだ」

アディソンが断言した。

「当て馬って、よく聞くけど、どんな馬なのか考えたこともなかったなあ」筒井が呟いた」
牝馬ひんばの発情を検査し、あるいは促すための牡馬ぼばですよ」
「へえ~」

アディソンの眼がギラリと光った。腹に一物ありげな顔つきである。トーマス・アディソンと待ち合わせするというのは作り話で、俺と紋次郎をうまにして自分だけ旨い汁を吸うつもりではあるまいか。筒井は踵で地面に線を引き、骸骨の絵を描いた。「死」の寓意を悟らせるためののつもりだったが、アディソンはひと目見て腹を抱えて笑った。

「何がおかしい」
「だって、田辺誠一画伯の『かっこいい犬』そっくりじゃないか!」

アディソンは笑い転げた。すると馬に乗った武士が通りかかり、筒井に向かって怒鳴った。

「貴様はこの土地の者か」
「え? ――いえ、違います」
「この土地が欲しいか」
「くれるんですか」
充行あておこないして進ぜよう」
「アテオコナイってなんですか」
「所領や禄物を給与することだ。ここに充行状あておこないじようがある。署名しなさい」

筒井は渡された筆ですらすらと署名した。

「よろしい。この土地はそなたのものだ。ふたりで統治をおこなのだぞ」

武士は狩衣の宛帯あておびをギュッときつく締め直し馬を飛ばして去った。宛行あてがいってのはどうやら土地を与えることらしい。充行状あてがいじようにサインしたから、この土地は紛れもなく俺のものになったのだ。宛行扶持あてがいぶちにしてはずいぶん広大な土地だ。どんな宛行様あてがいようをすればよいのかわからんが、もらえるものはもらってしまえ。――そうだ。ここにアッシリア王国を再建しよう。国民には田畑をあてがい、俺に手紙を送る人には宛書あてがきに「アッシリア国王陛下」と書かせる。俺は国王になるのだ。

「紋次郎、アッシリア王国を復活させるぞ」
「ここでか」
「ああ。こんな広大な土地をあっさり手に入れたんだ、棚からぼた餅じゃないか」
「しかし、勝手に国を建ててよいものか」
「なに、構わん。俵万智の歌にもあるだろ、『この土地がいいねと君が言ったから/今日はアッシリア王国建国記念日』」
「字が余りすぎてる」
「細かいことは気にするな。よし決めたぞ。俺は今日から国王だ」
「おめえさんたち、うるさいぞ」

腰の曲がった老婆がやって来て叱った。

「いや、これは失礼。ちょっと興奮したもので」
「おらの家に来ねえか」
「なんで?」
「ビーフストロガノフをたくさん作りすぎてな、余って困ってるんだ」

筒井と紋次郎は腹ぺこだったのを思い出し、老婆の家に行った。家とは名ばかりの掘っ建て小屋だった。

「狭くて窮屈だろうが、まあにすわれ」
「当て木?」
「囲炉裏端のことだ」

二人は囲炉裏を囲んで腰を下ろした。室内を見回すと壁は薄いベニヤ板一枚で、ところどころに穴が開いているらしく、補修用のが貼ってある。

「結構なお宅ですね」

国王になって鼻高々の筒井はくちを言った。よだれかけをした赤ん坊が這い這いして囲炉裏にやって来た。

「こら、あっち行け。が燃えたらどうする」

どうやら当て子とはよだれかけのことらしい。

2016年8月17日


コスタリカで狂言はいかが?

今月23日と24日、コスタリカの首都サンホセの国立劇場(Teatro Nacional)で野村萬斎さんが狂言を上演します。演目は『棒縛ぼうしばり』と『くさびら』。わたくしスペイン語字幕を制作しました。コスタリカのお客さまに大いに笑っていただきたい。当日サンホセにいらっしゃるご予定のかたは是非劇場に足をお運びください。

2016年8月5日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百五十九回

全員その場に横一列にひれ伏した。

「道草を食った罰として、おまえたちに何かご馳走をあつらぞ」
「あつらう? あつらのことですか」

さくらが天を仰いで尋ねた。

「その通りだべえ。フランス料理が食べたい」
「フランス料理? あるよ」

渥美清がトランクの中からテリーヌを取りだして膝の前にうやうやしく差し出した。

「おお、これはおあつらだ。感心感心」

目には見えないアッラーはあつらもののテリーヌをぺろりと平らげたらしく、テリーヌは一瞬のうちに消えた。

「他にも何かあつらえたいべえ」

「食い意地が汚いんだな、アッラーは」

あつらかな毛皮を着たアッティラが陰口を叩いた。すると頭の上から物凄い圧力あつりよくがかかり、アッティラの体はあっという間にぺしゃんこに潰れた。

「わあ」

驚いて飛びのいた筒井はつぶれたアッティラを見た。まるで長時間圧力釜あつりよくがまで煮こんだようにアッティラの体は小さな肉の塊になり果てた。圧力計あつりよくけいがあったらとんでもない数値を記録したに違いない。流体が流れている際、その中の一点の圧力を流体の単位面積の重量で割った値をたしか圧力水頭あつりよくすいとうと呼ぶが、そんなことはいまはどうでもいい。筒井は急に腹が立ってきた。アッティラは血も涙もない男だが、ちょっと悪口を呟いただけで殺すことはないじゃないか。

「紋次郎」
「なんだ」
「寅さん、さくらさん」
「なんだい、あんちゃん」
「なあに」
圧力団体あつりよくだんたいを結成しないか」
「圧力団体?」

紋次郎が尋ねた。

「アッラーに対抗するのさ。だって、ひどいじゃないか。いきなり殺すんだぜ。赦せるか、こんなこと」
「赦せないわ」

さくらが膝を乗り出した。

「俺みたいなやくざ者も仲間に入れてくれるのかい」
「当然ですよ、寅さん。あなたは国民的英雄だ」
「拙者も入れてくれ」

紋次郎が応じた。

「よし! アッラーを倒すぞ!」

筒井が鼻息を荒くした途端、渥美清とさくらの体が圧力鍋あつりよくなべで煮こんだ豚の角煮のように小さくつぶれた。

「うわ」

筒井はひるんだ。アッラーの力は圧倒的だった。もしも圧力秤あつりよくばかりがあったらヘラクレスといい勝負だ。

「次はおまえだべえ」

アッラーは大地が揺れるほどの声で筒井に圧力あつりよくけた。筒井は体が火照るのを感じた。暑い。あつれて気を失いそうだ。まさかアッラーとのあいだに軋轢あつれきが生じるなんて夢にも思わなかった。歌舞伎で使う厚綿あつわたを着こんだかのように額から汗がぽたぽた落ちる。筒井はじりじりと後ずさりした。三歩後退したところで角材にけつまずいて転んだ。

「大丈夫か」

紋次郎が駆け寄って角材を手に取った。真ん中あたりが硬くなっている。

あてだ」
「あて?」
「木材の欠点を指す名称だ」

突然空が真っ暗になり、「また悪さをしておるのか」という声が響いた。

「その声は……あて!」

アッラーが叫んだ。

「パパが来るなんて、が外れちゃったなあ」
「ちょっと待ってくれ」

筒井が口を挟んだ。

「アッラーの父親だと? 唯一絶対の神に父がいるなんておかしいじゃないか」
「馬鹿者」

アッラーの父が怒鳴った。

「貴様のような賤しいやつにあてなる神の何がわかる」
「たしかにあてはしがない難波の商人でおます」

筒井はなぜか怪しい関西弁を使った。

「せやさかい、神さまのことはなんもわからん。でもここだけの話、ええ女子おなご紹介しまっせ。あで姿の京美人なんてどないでっしゃろ。アッラーさんとお父さんに部屋を一つずつして差し上げますわ。あ、勘違いせんでくださいよ。なにもてしくするつもりはあらへん」

「おまえの気持ちはよくわかった」

アッラーの父が貴貴あてあてしい声で答えた。

「しかしわたしは阿弟あていと会う約束がある」
「アテイ?」
「弟だ」
「一神教の神さまに弟が?」
「では、これにてさらば」
アディオス!」

アッラーの父とアッラーはどこかに消えたらしく、それきり声は聞えなくなった。

2016年8月1日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百五十八回

「お兄ちゃん? ――ちょっと待て。寅さんの妹はさくらだろ」

不審に思った筒井が口を挟んだ。

「千代は世を忍ぶ仮の名、本名はさくらだよ」
「なんで世を忍ぶんだ」
敦実親王あつみしんのうの子孫だからさ」
「敦実親王?」
「さくら、俺にまかせろ」

渥美清が口上を述べた。

「宇多天皇の皇子。母は藤原胤子。宇多源氏の祖。六条宮、八条宮、のちに入道して仁和寺宮と称された。鷹、馬、蹴鞠、和歌、特に和琴わごんと琵琶の名手で、源家音曲の祖といわれた」
「寅さんって、天皇の系統なの?」
「見上げたもんだよ屋根屋のふんどしと言ってもらいたいねえ。渥美半島あつみはんとうに先祖の墓がある」
「貴様たち、さっきから何をごちゃごちゃ抜かしておる!」

蚊帳の外だったアッティラが大声を発した。

「この人は日本を代表する俳優の――」
「うるさい! つべこべ言わずにここに集まれ」

アッティラは怒鳴って四人を集むと、渥美清は鞄の中から丼鉢を五つ出して素麺を茹で始めた。

「なんだ、それは」
熱麦あつむぎ、にゅうめんみたいなもんだな。さあ、遠慮なくやってくれ」

五人は温かい素麺を食べた。つゆは魚や野菜を味噌で煮たあつじるだった。食い物は偉大だ。見ず知らずの者たちを一ヶ所にあつめめる力がある。猫舌の筒井はあつものが苦手で、熱いつゆにふうふう息を吹きかけて冷ました。草原にはところどころ黄色い花が咲いている。園芸品種の菊、いわゆる厚物あつものかなと筒井は思った。

「ほら筒井、遠慮しないで、これも食え。なかなかいけるぞ」

渥美清はトランクの中からワケギのぬた和えを出して勧めた。熱い素麺にふうふう息を吹きかけていた筒井は和え物にもふうふう息をかけた。

あつものりたるものあえとはこのことだな」

渥美清が言うと一同どっと笑った。

「ほら、なますだ」

渥美が鱠を渡すと筒井はまたしてもふうふう吹いた。

あつものりてなまえくを地で行く男だな」

一同ゲラゲラ笑った。

「笑うな! 俺は……俺はこう見えても敦盛あつもりの末裔だぞ」

悔しまぎれに筒井が言い放った。

「敦盛? 何者だ」アッティラが尋ねた。
「平敦盛に決まってるだろ」
「同じアツモリでもせいぜい熱盛あつもり、熱くした蕎麦盛りだろ」

渥美が茶々を入れ、一同またしてもどっと笑い合った。筒井は歯ぎしりして傍らに咲いているラン科の多年草敦盛草あつもりそうを一輪摘みとってさくらに手渡した。

「あら、お兄ちゃん、花を頂いちゃったわ。何かお礼を差し上げないと……」

渥美は厚焼あつやき玉子をトランクから出した。

「ああ、旅から旅でくたびれた。熱湯あつゆで一っ風呂浴びてえなあ」

筒井がふと紋次郎の顔を見るとすっかり青ざめてがくがくぶるぶる震えている。

「おい、どうした? 大丈夫か」
「病があつえるばかり。拙者はもうダメだ」

空からひらひらと一枚の厚様あつようすなわち雁皮紙が舞い落ちてきた。筒井が手にとってみると「圧抑あつよく」の二文字が太い筆書きの文字で書いてある。

「なんだこれは」

一天にわかにかき曇り、雷鳴が轟いたかと思うと稲妻がすぐ近くに落ちた。

「うぎゃー」

一同が腰を抜かすと天から野太い声が響いた。

「おまえたち、いつまで道草を食うつもりだ」
「誰だ?」アッティラが負けずに怒鳴った。
アッラーだべえ」
「アッラーって、ひょっとしてイスラム教徒が信仰する全知全能にして唯一の神?」
「当たり前だ、このアカポンタン!」

2016年7月24日


広辞苑小説『言葉におぼれて』第百五十七回

女の話によれば弾圧は悲惨な圧尾あつびを遂げ、生き残ったのはわずか二人だったという。

「先祖を敬うそなたの心がけに余はいたく感銘を受けたぞ。褒美にどこか風光明媚な所に連れて行ってやる。どこか行ってみたい所はないか」
アッピア街道かいどう
「おお、アッピア街道といえばローマから南東へ向かう街道、余が何度も戦った憎っくき古代ローマの軍道。ローマ帝国と戦火を交えたのは一度や二度ではない。ついに滅ぼすには至らなかったが、相当苦しめてやったものだ」

アッティラはガッツポーズして筋肉の大きさをアッピールした。

「ローマ軍には一度手ひどい仕打ちを受けたことがある。火攻めに遭ったのだ。しかし熱火子あつびこはらの諺に従って幼い息子を火勢のほうに払いやって余は我が身の安全をはかった」

平安時代の男がかぶった厚額あつびたいのような帽子をかぶり直してアッティラは得意げに語った。髪は頭の中央から額にかけて狭く剃り落とした厚鬢あつびんである。

「ご迷惑でなければ拙者も同行したい」

紋次郎が口を挟んだ。

「え? 俺たちはアッシリア王国を復活させる仕事があるじゃないか」筒井が咎めた。
「ローマには生き別れた妹がいるのだ」
「よかろう。一緒に来るがよい。おい女、名前はなんと申す」
「千代だよ」
「おまえは」
「紋次郎」

アッティラは紙切れに同行者の名前をリスト・アップした。

「で、おまえは?」
「筒井です。筒井康隆」
「来るのか来ないのか」
「えーとえーと」
「さっさと答えろ」

業を煮やしたアッティラは筒井の首根っこをつかまえてぽーんと放り投げ、筒井は川に落下した。あっぷあっぷする姿を見て王は弱い者を圧伏あつぷくする快感に酔った。

「い、行きます」

全身ずぶ濡れになった筒井が川から這い上がりながら答えた。アッティラはしりがい胸懸むながい面懸おもがいなどの馬具に厚く垂らした厚総あつぶさをかけた馬にひらりとまたがった。千代は後ろ髪をアップスタイルにまとめ、一行四人はアップダウンの激しい原野をローマ目指して進み始めた。筒井はズボンのポケットからスマートフォンを取りだし、Googleマップで道順を検索した。

「なんだその機械は」アッティラが馬上から尋ねた。
「スマホです。スマートフォン」
「ふん。平民のくせにアップツーデートな装置を持ちやがって」
「便利ですよ、これ。音楽も聴けるんです」

筒井はアップテンポの音楽を再生した。アップビートが効果的なノリノリのダンス・ミュージックで、アップライトピアノのソロが叙情的な雰囲気を醸し出す。千代はアップリケをあしらったエプロンをスカートに見立ててひらひらさせながら踊った。

「その機械は誰が拵えたのか」
「メーカーですか。アップルです」
「思い出した」

千代が懐からアップルパイを取りだした。

「お腹すいたでしょ。食べましょう」

アッティラと千代、紋次郎、筒井は草原に車座になってすわり、林檎のパイを食べた。筒井は食べる前にスマホでパイを撮影した。

「何をしておる」
「写真をツイッターにアップロードしようと思って」

草原の彼方から白人の男がやって来た。

「おくつろぎのところ恐縮ですが、日本に行く道をご存じありませんか」
「さあ……俺たちはローマに向かうところだけど。あなたはどなた」筒井が尋ねた。
「エルンスト・アッベと申します」
「ご職業は」
「物理学者です」
「学者さんか」
「ツァイス社の光学機器の開発と経営に参加しました」
「ツァイス? ひょっとしてレンズで有名なカール・ツァイス?」
「そのとおりです」

アッベはあつぼったい唇を開いて答えた。

「日本なら反対、あっちだよ」

筒井はあづまを指さした。

「ありがとう。ところで皆さんはなんのあつまですか」

アッベは四人の顔を見た。どう見てもあつまぜい、烏合の衆である。

「どういう目的であつまろうが、きさまには関係ない!」

アッティラが立ち上がり、胸のあつを強調して怒鳴りつけた。アッベは尻尾を巻いて退散した。西の彼方から別の男がやって来た。らくだ色の腹巻きにベージュ色のダブルのスーツ、茶色の中折れ帽に焦茶の大きな鞄を提げている。まるで寅さんだ。

「よう、筒井。相変わらず馬鹿か?」
「え? あなたは――」
渥美あつみだ」
渥美清あつみきよし!」
「お兄ちゃん!」

千代が叫んだ。

2016年7月18日


広辞苑小説『言葉におぼれて』第百五十六回

筒井は男たちの腕をふりほどいてもぐさを払い落とした。うなじに触ってみると火傷のため圧痛点あつつうてんが痲痺して何も感じない。

「ひどいじゃないか」

思わず声を荒げると男が刺身を盛った皿を差し出した。

「これを食え。お詫びの印だ」

見るとマグロを分厚く切った厚作あつづくだ。

アッツとうから直送したマグロだ。おまえさんはあちこち旅をしてひもじい思いをしたこともあっつろう。さあ、食え」

厚手あつでの皿に盛りつけられたマグロを筒井は二つ三つ食った。

「ところでおまえさんは何しに来た」
「アッシリア王国を再建するのだ」
「ああ、アッティカか」
「違う。アッシリアだ。アッティカはギリシア南部だろ。アッシリアはメソポタミア北部だ」

うわ、来たぞ、逃げろ――男たちは筒井を尻目に蜘蛛の子を散らすように四方へ去った。なんだなんだ、いったい何事だ――戸惑う筒井の前に野性的な男が現れた。

「きさまは何者だ」
「え? 筒井と申しますが、あなたは……?」
「見てわからぬか。アッティラだ」
「アッティラ? ひょっとして中央ヨーロッパを血の海に染めた、あの……」
「そうだ。フン族の王、四三四年頃首長となり、カスピ海からライン河畔に至る地域を支配し、しばしばローマ帝国と戦った」

筒井はがたがた震えた。血に飢えたアッティラは筒井の首根っこを片手でふんづかまえ、ぎりぎりと握りしめた。首の圧点あつてんが刺激されて痛いのなんの。まるで圧電気あつでんきに感電したかのように首がしびれた。アッティラが腕を高く持ち上げると筒井の体はあっという宙に浮かび、あっとわせる早業で地面に叩きつけられた。筒井は王の腕力に圧倒あつとうされた。

「うーむ、圧倒的あつとうてきな力だ」

紋次郎が他人事のように呟いた。

「おい紋次郎、ぼーっと見てないで助けてくれ」
「心得た」

紋次郎はどこから調達したのか、厚床あつどこすなわち畳を一枚アッティラに放り投げた。王はひょいと体をかわした。

「馬鹿野郎。畳が武器になるわけないだろ。腰に差してる刀を使えよ。野球で言うならおまえの打順、アットバットだ」
「下手に攻撃するとやぶ蛇になる」

紋次郎は畳の上にきちんと正坐し、「アッティラさん、なんのお構いもできませんがおひとついかがですか」とやさしく声をかけ、筒井が食べ残した刺身を勧めた。アッティラは妙に素直に応じてすわり、ふたりはアットホームな雰囲気でくつろいだ。王はマグロをアットランダムに食った。

「旨い魚だな」
「いけるでしょう」
「野菜も食いたい。野菜はないか」
「何がお好みですか」
アツニだ」
「アツニ?」
「アイヌ語でオヒョウのことだ。日本人のくせして知らないのか」

アッティラはイライラしてあたりを見回し、雑草をむしり取って口の中に圧入あつにゆうし、むしゃむしゃ食った。まるで金属に穿孔工具で穴を穿ったあとに鋼球を押しこむ圧入仕上法あつにゆうしあげほうのような食いっぷりだった。

あっぱに会いたい」

王が遠い目をして呟いた。

「あっぱ?」
「東北や長崎、種子島で母のことだ」
「日本に詳しいんですね」
「あっぱは中央ヨーロッパのアッパー・クラスに所属している」
「アッティラの母親が上流階級? まさか。ははは

筒井が思わず笑った。アッティラは立ち上がり、顎にアッパーカットをお見舞いした。筒井は目を回して地面にぶっ倒れた。

「……で、陛下の今後のご予定は」

紋次郎が王の機嫌をとろうと顔色をうかがった。

アッバースちようを滅ぼすつもりだ」
「他民族を滅ぼすのがお好きなんですね」
「異人どもを圧迫あっぱくするのが三度の飯より好きだ」
「あんたたち! さっきから往来のど真ん中で何をしてるんだい」

あっぱっぱを来た女がやって来て怒鳴った。

「なんだ、貴様は。こともあろうにアッティラに向かって怒鳴るとは言語道断」
「あたしかい? 熱原法難あつはらほうなんで生き残った先祖の子孫だよ」
「熱原法難?」
「一二七九年静岡の熱原で日蓮宗の信者が受けた弾圧だよ。農民ニ十人が捕まって三人が首を切られて残りは監獄にぶちこまれた」
「貴様の先祖は生き残ったと申すか」
「そうだよ」
「でかした、天晴あつぱれ

アッティラの瞳が熱火あつびのようにギラギラ輝いた。

2016年7月15日


「オレは誰?」

最近愛知県内で不審なパトカーをよく見かける。運転席と助手席のドアにこんなステッカーが貼ってあるのだ。

「オレは誰?」

Googleの画像を見ていただきたい。このようなパトカーが日夜愛知県を走り回る。目にするたびにわたくしは思う。

「ちょっとヤバいんじゃないか」

考えてもみてほしい。このパトカーは自分が何者であるかについて疑問を抱えながら道路を突っ走るのだ。いや、わたくしは馬鹿ではない。馬鹿ではないから、このステッカーがいわゆる〈オレオレ詐欺〉の予防を促す警告であることは承知だ。しかし、もし予防したいなら「オレオレ詐欺に気をつけよう」とか「オレオレ詐欺に注意」と書いてくれたほうがずっと直接的でわかりやすい。「オレは誰?」という疑問文を素直な心で読めば、発話者が自分を見失っていると解釈するほかない。さらに汚れを知らない純真な子どものような心でこの疑問文に接すると、「オレ」はパトカーを運転する警察官を指しているとしか思えない。

パトカーを運転する警察官は自分が何者であるかを知らない。記憶喪失もしくは認知症を患っているに違いない。記憶喪失もしくは認知症にかかった人物が昼も夜も愛知県内の至る所で車を運転中で、しかもその人物は警察官だ。これほど恐ろしい事態があるだろうか。

もっと恐ろしいのは運転手の性別だ。言うまでもなく警察官は男性に限らない。女性警官もパトロールする。そして女性警官が運転するパトカーにも「オレは誰?」のステッカーが貼ってあるのだ。自分のことを「オレ」と呼ぶ女だ。別に呼んだってかまわない。「オレ」と呼びたければ好きなだけ呼べばいい。しかし、女が自分を「オレ」と呼ぶのはきわめて例外的だし、少なくとも常識には反する。つまり非常識な人間が白昼堂々車を乗り回すのだ。

記憶喪失もしくは認知症にかかった人物と常識をわきまえない人物が警察官としてハンドルを握るという、日本の歴史上例を見ない事態が愛知県で進行しつつある。愛知県にお越しのかたはどうかくれぐれも身の安全に気をつけてほしい。

2016年7月10日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百五十五回

筒井は膝を乗り出した。

「よし、アッシリア王国を復活させよう。善は急げだ、チグリス川へ行くぞ」

筒井は立ち上がったが紋次郎は地べたにすわったまま、腰が抜けたように動かない。

「どうした」
「持病があつしれてきたようだ」
「病気が悪化したのか。なんの病気だ」
「ふとした病でござんす」
「意味がわからないよ」
「胸をあつすればよくなる。すまぬが、胸を思いきり押して下さらぬか」

紋次郎は地べたに仰向けになった。筒井はまたがって両手で胸をぐいぐい押した。

「ああ、だいぶ楽になった。ありがとう」
「どういたしまして」

遠くから十人くらいの人々がわあわあ言いながら近づいてきた。

「軍部の圧制あつせいにいまこそ抵抗しよう!」
「おおー!」

どうやら軍事政権による圧政あつせいに苦しむ無辜の人民であるらしい。

「あの、そこの旅のおかた。どうか話を聞いて下さい」
「ん? 俺か」
「ええ。わが国の公務員はどいつもこいつも税金泥棒で、互いにサイドビジネスを斡旋し合ってるんです」
「それって斡旋収賄罪あつせんしゆうわいざいじゃないの?」
「おっしゃるとおりです。なのに朝臣あつそんは見て見ぬふり」
「アッソンってなあに」
「有力な皇子や皇孫のことです。こんな不正がまかり通っていいと思いますか」
「いや、いいとは思わないが、でも俺はアッシリア王国を再建する使命があって忙しいのだ」
「もしかして熱田あつた出身のかたですか?」
「熱田?」
「名古屋市にある門前町です」
「日本のことに詳しいんだな。俺は長野生まれだ」
「そうですか。王国を蘇らせるのは大仕事ですね。お呼び止めしてすみませんでした。どうか道中ご無事でありますように」

あつたみのある言葉に見送られて筒井と紋次郎は旅立った。筒井はあつたかい気持ちになった。名古屋市の門前町はたぶん熱田神宮あつたじんぐうのことだろうな。まさかインド北部で地元民の口から熱田という地名が飛び出すとは思わなかった。心があつたまった筒井は意気揚々と歩き出した。

「さ、寒い……」

紋次郎ががたがた震えだした。

「どうした」
「急に寒気が……」

筒井は紋次郎に抱きついて体を撫でさすりあつためた

「かたじけない。あっしはもう長くはもたないかもしれん」
「よせよ。可惜あつたら若い命を捨ててはいかん」
「いかにも。命あっての物種」

紋次郎は立ち上がり、歩き出すと見せかけて懐から短刀を抜き出し腹に突き立てようとした。驚いた筒井が腕をつかんで短刀を取りあげた。

「馬鹿野郎! 自殺するやつがあるか。命あっての物種って、いま自分で言ったばかりじゃないか。可惜あつたらくちかぜひかすとはこのことだ。命にまさる可惜物あつたらものはないんだぞ」
「あっしのような病人が生きていては他人様に迷惑がかかるばかり。世の中に申し訳ない」
「お互いさまだ。今度弱音を吐いたら痛い目に遭わせるぞ。――さてと、チグリス川はどっちかな」
彼方あつちだと思われる」

紋次郎が細い人指し指をさした方角に向かってふたりはアッチェレランドで走り出した。彼らは旧アッシリア王国の土地を目指しているのだが、街道は安土あづちに続く道であることは知る由もなかった。道端に彼方織あつちおりのポンチョのような外套を着た女がいる。

「すいません。チグリス川はあっちですか」

筒井は道を訊ねた。

アッチカ? アッチカはギリシャだよ」
「え? ああ、アッティカのことじゃなくて、川です、チグリス川」
「この道まっすぐ行け」
「ありがとう」

ふたりは歩いた。どんどん歩いた。いくつもの彼方国あつちくにを通り抜け、海を渡り、どういうわけか安土時代あづちじだいの琵琶湖東岸にたどり着いた。

安土城のまわりは記録的な猛暑のため大勢の民衆が熱死あつちじにして死体がごろごろ転がっている。にもかかわらず浄土宗と日蓮宗の僧侶は人々の苦しみには目を向けず、安土宗論あづちしゆうろんという論争に明け暮れていた。義憤を覚えた筒井は道端の男に訊ねた。

「なぜ坊さんたちは論争ばかりしてるんだ」
「さあね。安土法論あづちほうろんとか言って、難しい話をしてるようだよ。ところで、おまえさんの左の手首に巻きついてるものはなんだね」
「腕時計だ」
「腕時計? 彼方物あつちものか?」
「なに?」
「舶来のものか」
「いや、日本製だよ」
「嘘つけ。日本にそんなものはねえ。おまえさん、ひょっとして彼方者あつちものか」
「え?」
「異国の人かって訊いてるんだ」
「日本人だよ。俺をよく見ろ。どこから見たって日本人だろ」
「どうもうさん臭いやつだ。灸を据えて懲らしめてやる。おまえたち、抑えろ」

仲間が四五人集まり筒井の手足を押さえつけた。女は筒井のうなじにもぐさを山ほど乗せて火をつけた。

あつつ!」

2016年6月30日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百五十四回

北海道を目指した船がなぜインドに着いたのか。いくら考えてもわからないが、アッサムといえば紅茶の産地、あたりを見渡すと広大な茶畑が広がり、アッサムティーでくつろぐのも悪くないな――筒井は旅の目的をあっさり忘れた。涼しい風が大地に吹き通う。あつわすれてかげわすれるとはこのことだ。厚岸草のことなんか放っておけばいい。薄情だと思われたって構うもんか――

突然巨大な岩石が空から落ちてきた。咄嗟に身をかわして圧死あつしは免れたが、岩石は球体で、まるで筒井を追いかけるように茶畑をごろごろ転がり出した。筒井は両腕をぴんと伸ばして岩石を抑え、かろうじて遏止あつしした。そこへ木枯し紋次郎のような風来坊が通りかかった。

「岩が天から降ってきたが、おまえの仕業か」
あつしには関わりのねえことでござんす」

風来坊はアイヌが常用するオヒョウの樹皮から採った糸で織ったアツシを身にまとっている。

「あっしのせいにするとは面の皮あつし。それにしても今年の夏はいとあつ。病弱なあつしはいとあつ

木枯し紋次郎は厚地あつじの上衣を脱いだ。

「つかぬことを聞くが、君は旅人か」筒井が訊ねた。
「さよう。アッシジへ参るところだ」
「え?」
「イタリア中部、ウンブリア州の都市。聖フランチェスコの生地」
「アッシジの聖フランチェスコが生まれた、あのアッシジか」
「いかにも」
「何をしに行くんだ。巡礼か」
アッシュを求めに参る」
「アッシュ?」
「ヨーロッパ産のトネリコだ。材質は硬くて弾力に富み、家具やバットやスキー板などに用いる」
「へえ。どうでもいいが、この岩が邪魔で。助けてくれないか」
圧縮あつしゆくすればよかろう」
「圧縮?」
「どけ」

風来坊は筒井を荒々しくはねのけ、両腕を広げて岩石を抱え、ぐいぐい力を入れると岩の塊はまるで圧縮機あつしゆくきにかけられた気体のように小さくすぼんだ。

「すごいな。君は魔術師か」
「しがねえ風来坊でござんす」
「おーい。圧縮記帳がまだ済んでないぞー」

地元民らしき老人が遠くから走ってきて風来坊に呼びかけた。

「あっしには関わりのねえことでござんす」
「大いに関わりがあるよ。固定資産の帳簿価額を実際の取得価額より低く記帳することを認める税法上の規定だ。国庫補助金を受けた際などに適用され、課税延期の効果をもつんだぞ。節税したいなら早く記帳しろ」

紋次郎はおにぎりを握るように両方の掌を半分丸めて重ね合わせた。すると掌の中に高圧の圧縮空気あつしゆくくうきが生まれ、パッと両手を離した途端にかめはめ波のようなエネルギーの塊が噴射され老人が地平線の彼方に吹っ飛んだ。

「どう見ても君は魔法使いだ」
圧縮空気機械あつしゆくくうききかいの原理を応用したまでのことでござんす」
「その能力があれば圧縮空気機関あつしゆくくうききかんは不要だ。億万長者になれるぞ」
「金銭には興味がない」
「でも、圧縮酸素あつしゆくさんそを作れば医療に役立つし、圧縮あつしゆくポンプ圧縮率あつしゆくりつを自由自在に変えれば世の中のためになる」

紋次郎は圧縮空気の塊を筒井に向かって圧出あつしゆつした。筒井の体が十メートルくらい飛んだ。

「いてて。おー、いて」

腰をしたたかに地面に打ちつけた筒井はようようのことで立ち上がった。

「ねえ君、政治家にならないか」
「政治には関心がない」
「食わず嫌いはいけない。君なら大衆がみんな味方してくれる。政治家になってくれたら世界中どこでも好きなところに連れて行ってやるぞ」
「それはまことか」
「まこと、まこと」

筒井は口から出任せを言った。身近に置いておけばいつか役に立つだろうとの魂胆だった。

「じゃあ、ここに署名してくれ」

筒井はズボンのポケットから紙切れを取りだし、鉛筆で「私は政治家になります」と書いて渡した。紋次郎は血判を押した。出来上がった押書あつしよを丸めて再びポケットに押しこんだ筒井は「これで選挙に出れば圧勝あつしよう間違いなしだよ」と請け合った。

茶畑の横に果樹園が広がっている。果樹と花木の枝をそのまま土に導き、埋没した所から根を出させて苗木を採る圧条あつじようという方法を採用しているようだった。筒井は風来坊を脅して無理に書かせた圧状あつじようをポケットの奥に押しこんだ。紋次郎が古銭のような硬貨をひとつ筒井に手渡した。

「なにこれ? 礼金か」
厭勝銭あつしようせんでござんす」
「え?」
「吉祥の文句や特殊な図像を鋳出し、縁起物や護符とする銭です。通貨ではござらん。中国では漢代から用いられ、日本では多く室町から江戸時代に流行りました」
「ふーん。なんだかよくわからないけど、ありがたくもらっておくよ。――さてと、さっそく世直しだ。どこががいいかな」
アッシリアがよかろう」
「アッシリア? そんな町あったっけ」
「町ではござらん。西アジアのチグリス川中流、アッシュールを中心とする地方です。紀元前十九世紀頃から紀元前七世紀にわたって古代オリエント最初の世界帝国であるアッシリア王国がこの地方を中心に栄えたが、紀元前六一二年カルデア・メディア連合軍によって滅ぼされた」
「滅亡したのか。それじゃダメじゃん」
「いやいや、復活させるのです」
「古代オリエント最初の世界帝国を復活させる――面白そうだな」

2016年6月29日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百五十三回

「銀行で円に両替してもらえ」

筒井は冷たく言い放った。女はぶうぶう文句ばかり言う。ただでさえ肥えている上にふくれっ面で見るからに暑苦あつくるしい。出し抜けに女が足払いを食わせ、筒井はどんと尻餅をついた。呆気あつけに入る筒井の顔を見下ろして女は炎天下の暑気あつけで額に汗が吹き出るのを頻りに拭う。何か悪計あつけいを企んでいる表情である。

「ポンド紙幣は要らねえ。その代わり、厚岸草あつけしそうを採ってきたら赦してやる」
「アッケシソウ? 植物か」
「んだ。北海道の厚岸付近と四国の海岸の海浜湿地に稀に群生するアカザ科の好塩性一年草だ。高さは十センチから三十センチくらい、茎は節の多い円柱形。紅色を帯びて小枝がたくさん生える。節の部分に小さな花が咲く。ヤチサンゴともハママツとも呼ぶ。採ってこい。嫌だと抜かしたら殺す」

厚化粧あつげしようの女が上から睨む。筒井は文字通り蛇に睨まれた蛙だった。

「わかったよ。採ってくる」

予想外の呆気あつけない返事に女は呆気あつけにとられた

「北海道か四国に生えてるんだな。じゃあ北海道に行く。厚岸は釧路の近くだ。知人が阿寒湖にいるから案内してもらえる。楽勝、楽勝。楽しみに待ってろ。ははは」

筒井はあっけらかんと答えた。

「筒井さん、こんなところで何をしてるんですか」

セバスチャンがやって来た。

「俺は北海道に行く。おまえはさっさとアセアンの会議に行け」
「北海道? なんで?」
「この女が厚岸の花を摘んでこないと承知しないって言うもんだから。でも向こうに行けばこっちのものだ。要するに逃げるのさ」
「なんだと!」

女が大声を張り上げた。

悪見あつけんでおらを騙すつもりか。このろくでなし、あんぽんたん、すっとこどっこい」

女は悪口あつこうを繰り出した。

悪行あつこうは必ず報いがある。馬鹿たれ、あほんだら、いかれぽんち」

悪口雑言あつこうぞうごんを浴びせられても筒井は平気な顔で受け流し、冬の厚岸は川に厚氷あつごおりが張ってさぞ寒いだろうなと暢気に考えた。

「おらとの約束を忘れないように、これを持ってけ」

女は短冊のような紙切れを手渡した。

「なになに……くるみ色といふ色紙の厚肥あつごたるを――なんだ、これは」
「枕草子だ。そんなことも知らねえのか」

女はあつ二センチはありそうな封筒も手渡した。

「ほかにも短冊いろいろ入ってるから読んで勉強しろ」

炎天下のあつが耐え難く、筒井は軽いめまいを覚えた。あつあただろうか。ぎらつく太陽の光が皮膚を圧砕あつさいするかのようだ。しかし俺は北海道に行く。向こうは涼しいぞ。避暑にもってこいだ。

「でっかいどう北海道、でっかいどう北海道♪」

筒井は小躍りしながらアレグロ・アッサイで歌った。すると歌声に反応したわけではあるまいがゴゴゴという大音響とともに地面が割れ、圧砕岩あつさいがんの断層がせり上がった。厚咲あつざの菊やダリアは根こそぎ倒れた。まるで地底に埋まった機械が大地を下から圧搾あつさくしたかのように一方が沈み、片方が盛り上がる。天然の圧搾機あつさくきは動き続け、地響きが止まらない。地中のどこかで圧搾空気あつさくくうきが膨張したのか、ドドーンと地面が破裂した。腰を抜かした筒井は地べたにぺたりとすわりこんだ。ここにいたら命がいくつあっても足りない。あつさむさも彼岸ひがんまでというが、天災は彼岸も何もお構いなしに襲いかかってくる。思い立ったが吉日、あつしのを兼ねて厚岸に行こう。

「ちょっと、あんた。こんなときに出かけたら災難に遭うよ」

女が心配して声をかけた。

「余計なお世話だ」

筒井は女の親切を圧殺あつさつして熱海の海岸から船に乗り北海道に向かった。船は大海原を進み、大きな河を遡上して着いた先はインド北東部のアッサム州だった。

2016年6月28日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百五十二回

難民たちがすすり泣いた。涙を手で拭いながら妻が筒井に言った。

「この人は厚飼あつがいの名人でした」
「厚飼?」
「一定の蚕座に標準頭数より多くの蚕を飼育することです」
「養蚕は日本でも盛んだ。生きていれば商売ができただろうに」
「芝居を観るのも好きだったのよ。異国の劇場で息をひきとったのも何かの縁だわ。いいあつかぐさができました」
「お葬式はどうします」
「お墓はイギリスにあるけれど、いまは祖国を追われた流浪の身。日本に骨を埋めます」
「お葬式のご用命はわたくしにお任せ下さい」

突然見知らぬ男がやって来た。

「なんだ、おまえは」筒井が訊ねた。

「仏さま関係のあつかしゆです」
「え?」
「早い話が葬儀屋です。葬儀のことならなんでもあつかずくあつかは同業他社に負けません。この道一筋のあつかあつかにんが揃っておりますからご安心下さい」
「要するに死体をあつかプロだと、そう言いたいのか」
「さようでございます」

老人は芝居小屋の裏で荼毘に付された。一同燃え上がる火の熱にあつかひ、げほげほごほごほとむせた。炎の勢いが激しく、筒井は皮膚の奥まで焼かれるような圧覚あつかくを感じた。

アッカドでもこんなふうに火葬したのだろう」

難民の男が呟いた。筒井はめらめらと燃える炎を見上げながら、老人が遺してくれた貨幣製造機のことを考えていた。貨幣をじゃんじゃん作れば大儲けできるぞ。ただし悪貨あつか良貨りようか駆逐くちくするからいずれ経済は大混乱になるだろうが、いまはとにかく目先の金がほしい。あつかましいと思われたって知るものか。

荼毘に付した老人の遺骨は町外れの墓地に埋葬された。墓石がないので厚紙あつがみに氏名を記して木の杭に貼りつけた。

「しかし暑いなあ」

難民たちはあつがりらしく、しきりにあつがった。いまごろのイギリスはきっと涼しいんだろうな。そんなことより金だ。俺は金がほしい。たとえ厚皮あつかわと言われようが構わん。

「ところで、例の機械はどこですか」筒井は難民に訊ねた。
「劇場の入口の前に置いてきましたけど。邪魔であつかはしいので」

筒井は芝居小屋に駈け戻った。真夏の太陽がギラギラと照りつけ、あつかはしいことこの上ない。筒井は厚皮面あつかわづらで貨幣製造機をためつすがめつして眺めた。北半球の裏側から運んできたとは到底思えない、傷ひとつない逸品だった。試しにスイッチを入れてみると、電池が内蔵されているのか、静かに作動し始め、見る見るうちにポンド紙幣が刷られた。本物の紙幣が次々に印刷される様子は圧巻あつかんだった。

機械が動くのをうっとりと眺めていると、難民の男の子がやって来て勝手にスイッチを切った。

「おい、何をする」
「これは俺のものだ」
「生意気な餓鬼め。おまえは何者だ」

顔をよく見ると悪漢あつかんと呼ぶにふさわしい人相の悪い子供だった。

「別にあやしい者じゃないよ。そんなことより、おっさん、熱燗あつかんで一杯やらないか」

餓鬼はどこからくすねたのか日本酒の入った徳利とお猪口を差し出した。大人を酒で籠絡するとは図々しい。筒井は少年への悪感情あつかんじようが高まった。

「おい坊主、名を名乗れ」
「ラサロだよ。ラサリーリョ・デ・トルメスって呼ばれるけど」
「ラサリーリョ・デ・トルメス? スペインの名高い悪漢小説あつかんしようせつの主人公じゃないか」
「そうらしいね。親父が名づけてくれたんだ」

餓鬼の目は悪気あつきに満ちていた。こいつ、ただ者ではないな。悪鬼あつきに違いない。まともに相手をしたら尻の毛までむしり取られるぞ。機械を奪われたら目も当てられない。なんとかして追い払おう。

厚木あつぎっていう町を知ってるか」
「知るわけないだろ。イギリスから来たばかりだ」
「それもそうだな。神奈川県中部の市だ。相模川中流西岸に臨み、商業と工業が盛んで、西部に飯山温泉があり、東方の綾瀬市には米軍の厚木航空基地がある」
「それがどうした」
「米兵を相手にすれば大儲けできるぞ」
「本当か」
「ああ」
「嘘を言うと承知しないぞ」
「信じる者は救われるって言うだろ。ほら、さっさと行け」

餓鬼は妙に素直に厚木に向かって去った。厚着あつぎしていた筒井は服を一枚脱いだ。

悪鬼貝あつきがいいらんかね~」

行商人の女が通りかかった。炎天燃えるような真夏だというのに綿を入れた厚衣あつぎぬを羽織って汗だくになっている。あつにご苦労なこった。

「食えるのか」
「中身は食えるよ。殻は魔除けにするといいよ」
「一個くれ」
「毎度」

筒井は刷りたてのポンド紙幣を渡した。

「なんだね、これは」
「金だ」
「こんな金見たことねえだよ」
「イギリスのポンドだ」
「馬鹿こくでねえ。日本の金で払ってくんろ」
「あいにく持ち合わせがない」
「泥棒! 盗っ人!」

女は悪口あつくを浴びせた。

2016年6月26日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百五十一回

国家元首か。権力を握ってみるのも悪くない。

「よし、学力調査を受けよう」
「では第一問。あちかおしの意味を答えなさい」
「は?」
「『は?』ではなく、ちゃんと答えろ」
「わからん」
「地名の値嘉ちかにかかる枕詞だ。では第二問。阿直岐あちきとは何か」
「簡単だ。『あちきは嫌でありんす』とか花魁が言うのに使う一人称だ」
「残念。正解は古代の百済からやって来た渡来人だ」
「問題が難しすぎる」
「この程度で音を上げるようでは国家元首にはなれないぞ」
「くそー」
「第三問。彼方此方あちこちとは何だ」
「あちらとこちら」
「正解! 第四問。彼方此方あちこちするするとはどんな意味か」
「あっちにやったり、こっちにやったりすることじゃないのか」
「正解!」
「急にやさしくなったな」
「では最後の問題。阿知使主あちのおみとは何か」
「アチノオミ? えーと、えーと……」
「ブー。時間切れだ。正解は応神天皇の時の渡来人。後漢の霊帝の曾孫とも言われる。残念だな」
「悔しい。もう一度だけチャンスをくれ」
「往生際が悪いな」
「頼む、もう一問」
「じゃあ、あと一問だけだぞ。では問題。阿茶あちやとは何か」
「あちゃー。わからん」
「ダジャレを言ってる場合か。正解は長崎で唐人すなわち中国人を親しみをこめて呼んだ呼び名だ。おまえに国家元首の資格はない。ではこれにて失礼」

アダン・ド・ラ・アルは立ち去った。筒井はがっくりと肩を落とした。

「筒井さん、元気を出しなさい。よかったら来年の夏も芝居に出て下さい。今度はあちゃらかをやるつもりです」座頭が言った。
「アチャラカ芝居か。楽しそうだな」
「きっと出て下さいよ」

座頭は蓮根と大根、筍、蕪を細かく刻んで唐芥子を加え、酢と酒と醤油に漬けた阿茶羅漬あちやらづけをボリボリ食いながら念を押した。小屋の外が騒がしくなった。

「ん? 彼方あちらに見えるのは誰だろう」

正面入口に大勢の人が押し寄せ、楽屋口や裏口など彼方此方あちらこちらに群衆の声が聞こえる。一座は扉を内側から閉めたが手が足りず、正面入口を封鎖すると裏口から人々が入り、裏口を防ごうとすると正面から雪崩れこみ、あちらてればこちらがたぬ

「なんだ、おまえたちは」座頭が怒鳴った。
「イギリスから来ました。どうかかくまって下さい」

見ると群衆は老若男女、大半は白人だが中には黒人やアラブ系と思われる人もおり、東洋人もいる。

「イギリスから……? あっ、そういえば昨日国民投票があったね」
「ええ。わたしたちはEU残留派なのですが、国民投票で敗れた途端に離脱派の連中から非国民呼ばわりされて国外追放処分を受けました」
「気の毒だなあ」筒井が溜息をついた。
「何も追放することはないじゃないか」
「ごもっともです。しかし離脱派のあつが強くて歯が立ちません。『非国民に石を』と叫びながら本当に石をぶつけてくるんですよ。どうか助けて下さい」
「どうぞどうぞ」

座頭はイギリス人一行を招き入れた。

「飲まず食わずで北半球の反対側からやって参りました。みんな腹ぺこで死にそうです。何か食べ物を恵んでくれませんか」
「いいとも。厚揚あつあでよければいくらでも食べなさい」

イギリスから来た難民たちは厚厚あつあつの厚揚げを頬張った。

「火傷しないように気をつけて。揚げたてで熱熱あつあつですから」

飢えを凌いだ難民たちは涙ぐんで筒井たちに握手を求めた。

「ありがとうございます。皆さんのあつご厚意は決して忘れません。それにしてもこの劇場は中があつですね」
「壁がぜんぶ厚板あついたでね、熱がこもるんだ」座頭が答えた。
「お礼に圧印機械あついんきかいを差し上げたいのですが」
「なんの機械?」
「貨幣やメダルを製造する機械です」
「貨幣を? そいつはありがたい。なにしろこの町には産業と呼べるものがなくて、いまだに厚臼あつうす穀物や豆をごりごり挽いて製粉してるんだよ。圧印機械があれば貨幣を作り放題だ」
「はい。ご厄介ついでと言ってはなんですが、ここにひとり篤癃あつえひとがいるのですが」
「え?」
「重病人です」

屈強な男ふたりに抱えられて瀕死の老人が運ばれてきた。息も絶え絶えの老人は最後の力を振り絞って言った。

「圧印機械を操作するときは……圧延あつえんに注意するのだぞ……」
「圧延ってなんですか」
「回転する複数のロールのあいだに……常温または加熱した金属素材を通して……げほげほ……板状に引き伸ばし……材質を均質化させることじゃ。圧延機あつえんきを正しく使わないと……」

老人の病状がにわかに悪化あつかした。

「正しく使わないと、どうなるんですか」
「……悪貨あつかができるのじゃ。だから機械のあつかにはくれぐれも……う、うう……」

老人は息をひきとった。

2016年6月25日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百五十回

「もうすぐ芝居が始まります。劇場はこちらです」

主人は筒井の手をとって芝居小屋に急いだ。小屋はお世辞にも立派とはいえず、むしろ廃屋同然だが、筒井は「歴史を感じさせる佇まいですねえ」とあたさわのない態度を貫いた。楽屋口がある裏手に回ると大工が墨縄で羽目板にあたずみで線を引いている。建て替えか、それとも補修作業だろうか。

「勘平とお軽はどうした! お客さんが待ちくたびれてるぞ! おい小道具係、こんなところに金槌を置くな! 転んで怪我でもしたらどうする!」

座頭の男があたらしている。

「お待たせしました」

主人が詫びた。

「ああ、やっと来たか。で、お軽は?」
「わたくしがつとめます」

筒井が挨拶した。

「どこのどなたか存じませんが……」
「筒井康隆さんですよ」

主人が呟いた。

「本当に? 本物? ありがたい! 今年はあたどしだ。――おーい、誰かあたばこを持ってきてくれ」

裏方の若者が硯箱を持ってきた。座頭は大きな半紙に墨で黒々と「出演 筒井康隆」と大書して入口に張り出した。

「あなたが出演してくれるなら成功間違いなしだ」
「でも芝居というものは生ものですから、あたはずがあるかと……」
「心配無用。さっそく始めよう。幕を上げろ」

素人芝居の忠臣蔵が始まった。筒井は女装してお軽を演じた。飛び入り出演とは思えない渾身の演技に客席は大いに盛り上がった。

芝居は大成功をおさめた。楽屋に戻ると座頭があたばちで胡麻をすっている。筒井が声をかけた。

「こんなところで料理ですか」
「いやあ、おかげさまで今年の演し物は大成功、今日はあただから、腕によりをかけてご馳走しますよ」

観客が帰ってがらんどうになった芝居小屋の客席を俄仕立ての宴会場にしてあた振舞ぶるまいのもてなしが始まった。座長は終始ご機嫌であたぼうを刀に見立てて妙ちきりんな踊りを披露した。

「料理の腕前も大したものだが、踊りも嗜むとは」筒井が感心した。
あたまえですよ。この男は放蕩三昧で親に勘当されたんです」主人が耳打ちした。

主人の囁きが耳に入った座頭はあたまなこで睨みつけ、擂り鉢のあたを鷲づかみにして主人の顔にぶちまけた。

「うげ、ごほごほ」
「いい気味だ。ぬははは」

座頭はさらにあたりめすなわちスルメを主人の口に押しこんだ。

「んぐ、んぐんぐ」

主人は目を白黒させた。

「それにしても今日はあたものだった。あなたは我が町始まって以来のあたですよ」
「いやあ、それほどでも」
「謙遜しなさんな。あなたのお軽はあたやくだ」

突然芝居小屋の入口の扉が開き、白衣を着た男が三人、あたりをはらいながらずかずかと乗りこんできた。

「お楽しみのところまことに失礼ではありますが、研究所からアダリンが持ち逃げされたという情報がありまして」
「アダリンってなんだ」座頭が訊ねた。

「ジエチルブロムアセチル尿素の商品名です。臭いのない白い結晶性粉末で、催眠剤に使われます」

男が言い終わらぬうちに主人が泡を吹いて倒れ、意識を失った。

「あ、所長、口の中を見て下さい。スルメです。スルメにたったんです」

若い研究者が言った。

「このスルメは誰が用意したのですか?」
「この人です」座頭が筒井を指さした。
「え? いや、俺じゃないよ。違います」
「いいや、俺ははっきり見た。あんたが口にスルメを突っこんだ」
「濡れ衣だ」
「失礼ですが、あなたのご職業は?」
「作家です。俳優の仕事もしてます」
「俳優? どうせアダルト関係だろ」
「は?」
アダルトビデオの男優だろ」
「侮辱するな! 俺は舞台やテレビドラマに何度も出演した、れっきとした俳優だ」
「本当かどうか、この当り棒で占ってみるか」

所長は擂粉木すりこぎを手で支えてまっすぐ立てた。

「あなたのほうに倒れたらあなたの話は真実、わたしのほうに倒れたら嘘。あたるも八卦はつけあたらぬも八卦はつけ

所長が手を離した。棒は所長のほうに倒れた。

「ほら見ろ」
「こんなのはペテンだ」

筒井は頭に血がのぼり、あたるを幸いテーブルや床に転がっているものを手当たり次第につかんでは所長に投げつけた。しかし所長は慌てず動じず、ひょいひょいと顔を左右に動かして次々とかわすものだから筒井がいくら暴れても徒業あだわざに終わった。ならば濡れ衣を着せた座頭を標的にしよう――と思ったが、あまりにも大人げがないのであだおんむくいることにして、怒りをぐっと堪えた。しかしはらわたが煮えくりかえる。筒井は辛抱たまらず擂粉木を座頭の鼻っ柱にぶつけた。

「いて! 鼻血が出た。せっかく料理を振る舞ったのにあだをなすとは。あたんをなす者は地獄の底まで追いかけてやる」

筒井が咄嗟に客席を見渡すと片隅に亜炭の山があった。すかさず炭を片っ端から投げて宴会は滅茶苦茶になった。舞台装置として使ったタコノキ科の熱帯性常緑低木阿檀あだんも根こそぎ倒れた。

「なんだ、この騒ぎは!」

いきなり入口から白人の男が乱入した。

「おまえは誰だ」筒井が訊ねた。
「アダン・ド・ラ・アルだ」
「は?」
「知らぬと申すか。フランス中世の詩人で劇作家で音楽家だ。代表作は諷刺と幻想に満ちた『葉蔭の劇』、牧歌風の楽劇『ロバンとマリオンの劇』」
「知らねーよ。彼方あち行け」
「お見受けするところ、そなたはまともな躾も教育も受けとらんな」
「余計なお世話だ」
アチーブを受けなさい」
「え?」
アチーブメントテストだ」
「なにそれ」
「学力検査の一形態だ。学習到達度を客観的に検査、測定するもの。一九四九年以降の高校入試で使用され始めた」
「この歳で学力調査なんか受けるつもりはない」
「そうか。残念だな。国家元首になれるチャンスなのに」
「なんの話だ」
「検査で満点をとった者はアチェー王国の王として即位できる」
「アチェー王国? 聞いたことがないぞ。どこにある」
「インドネシア、スマトラ島西端のイスラム教国だ」

2016年6月24日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百四十九回

筒井は再び船頭と協力してアダムの死体を担ぎ、婦人が教えてくれた葬儀屋を訪ねた。

「いらっしゃいませ。毎度ありがとうございます」
「毎度って、今日はじめて来たんですけど」
「あ、そうですか」
「最新式の棺桶をひとつ、誂えてほしいんだが」
「かしこまりました。ではドローンはいかがですか」
「ドローン?」
「はい。遠隔操作で空中を飛び、どこにでも移動できます。霊柩車が要らないのでお得ですよ」
あたらしがりの葬儀社だな」
「ええ。なんでもあたらしがるのが好きなんです。ところで、お亡くなりになったこのかたは……」
「アダムだ。神さまが創った最初の人間。人類の祖先だよ」
「これはこれは、惜しい人を亡くしました」

葬儀屋は可惜あたらしがった

「棺桶はすぐお作りしますが、少々時間がかかりますので、よかったらこちらのパンフレットをご覧下さい」

葬儀屋は筒井にカラフルなパンフレットを渡した。

「なにこれ」
あたらしきむらのご案内です」
「新しき村?」
「はい。武者小路実篤が調和的な共同体の理想実現のために大正七年宮崎県児湯郡木城村に建てた生活共同体の村です。昭和十四年に埼玉県入間郡毛呂山もろやま町に分村移転しました」
「これが、どうしたの」
「移住してみませんか? この世の楽園ですよ」
「興味がない」
「そうですか……」

葬儀屋は肩を落として溜息をついた。可惜あたらしぶ男の様子を見て筒井は少し気の毒になった。

「そんなに気を落とすことはないじゃないか」
「ひとり移住するごとに手数料収入があるんですけど、まだひとりも応募者がいなくて」

男はまた歎息して可惜あたらしんだ。筒井は話題を変えた。

「新し物好きの葬儀屋なんて珍しいね」
「そうですか。でも愛媛県の宇和島では葬具店のことを新屋あたらしやって呼ぶんです。民間の忌み言葉です」
「へえ、知らなかった」
「それにしてもアダムさんはお気の毒でしたねえ。可惜身命あたらしんみよう、命あっての物種なのに」

男はあたらずさわらずの悔やみを言った。

「つかぬことを伺いますが、ひょっとして……あなたたちが殺したんですか」
「え? いや、まさか、とんでもない、ははは」

筒井はどぎまぎした。俺たちが殺したわけではない。しかし俺たちに出会わなかったら死ななかったかもしれない。あたらずといえどとおからずだった。

「本当に惜しい人を亡くしました。可惜身あたらみとはこのことだ。ああ、可惜物あたらものだ」

男はしつこく残念がった。筒井はだんだん腹が立ってきた。外はいつの間にか夜のとばりが下りて月が昇った。

可惜夜あたらよですねえ」

葬儀屋が月夜を眺めて呟いた。

「どうでもいいけど、さっさと棺桶を作ってくれないか」
「そうでしたね。すぐお作りします」

男が店の奥に姿を消すと筒井は船頭に耳打ちした。

「ずらかろう」
「え?」
「死体になんか構ってられるか」
「逃げるんですか」
「逃げるも何も、アダムなんて親類縁者でもなければ知り合いでもないんだぜ」
「それもそうだ」

ふたりは表に飛び出した。

「このあたに宿はないかな」
「あるよ」

別れたはずの婦人がなぜか葬儀屋の前にいた。
「なんだ、待ってたのか」
あた。あそこに宿があるよ。狭くて汚いけどね」
「雨露を凌げればいい。ありがとう」

筒井は船頭と宿に入った。

「こんばんは。泊めてほしいんだが」
「はいはい」

奥から老人が出てきた。

「予約はしてないが、一泊したい。ふたりだ」
「部屋はあるが、あいにく料理人が病気で満足な食事をさしあげられないが」
「いいよ。なんでもあたりのものを適当にみつくろってくれ」

老人に案内されて廊下を歩くとあたあたに三畳間くらいの小さな部屋がびっしり並び、まるで蜂の巣である。廃屋同然の割には宿泊客が多く、あたあたの身分や職業の者がそれぞれ部屋であたいもを食っている。突然カーンカーンとあたりがねが鳴り響いた。

「なんの合図だ」
「へえ、今夜はお祭りでして、素人歌舞伎をやるんです」 「村芝居か」

廊下の突き当たりは台所で、女があたすなわち擂粉木すりこぎで芋か何かをすっている。

「ご主人も芝居に出るのか」
あたりきよ。今年はあた狂言きようげんの忠臣蔵で勘平をやります」

あた近所きんじよが騒がしくなった。町民が芝居に出かけるらしい。じきにあた近辺きんぺんはひっそりと静まりかえった。

「お客さん、籤引きだ。一本お引きなさい」

老人が籤の棒が入った六角形の筒を差し出した。筒井は一本引いた。

「あれまあ、あたくじだ」
「景品はなんだ。宿代が安くなるのか」
「違うよ。芝居に出られるんだ。勘平の妻、お軽の役だ」
「女形か。じつは俺は俳優なのだ」

作家であり俳優でもある筒井は初めて身分を明かした。

「お客さん、お名前は……」
「筒井康隆」
「え! あの、作家の筒井さん?」
「そうだよ」

老人は神仏に出くわしたかのようにあたぐるしき様子で二三歩引き下がった。

「これはお見それしました」
「芝居は得意中の得意。女形はあたげいだ」

宿の主は接客のあたざまが一変した。

2016年6月22日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百四十八回

「約束だぞ」
「はい」
「では、さらば」

アタナシウスの姿が忽然と消えた。

「あんた、本当に出家するのか」
「するわけないだろ」
「じゃあ嘘をついたのか」
「嘘も方便。ああでも言わないと命が助からない。ぼやぼやしてるとまた現れるぞ。頼む、できるだけ遠くに逃げてくれ」
「合点だ」

舟は若狭湾から日本海を南下し、関門海峡を渡って瀬戸内海に入り、紀伊半島を巡り太平洋を東に進んで熱海あたみに着いた。ここまで逃げれば大丈夫だろう。もしまた会ったら正々堂々あたんで勝負してやる――筒井は意気揚々と波止場に降り立った。見知らぬ男が通せんぼした。

「なんだ、おまえは」
アダムだ」
「アダム? 妙な名前だな。日本人か」
「なわけないだろ! 旧約聖書読んだことない?」
「旧約聖書? ――まさか!」
「そのまさかだよ。神が創造した最初の人間」
「たしか禁断の知恵の実を食べてエデンの園を追放されたんだよな。食べちゃダメだぞって神さまに言われたらふつう食わないよ。世界初の馬鹿だな、おまえは」
「うるさい。――ところでアダムシャルと待ち合わせしてるんだけど、見かけなかった?」
「アダムシャルって誰だ」
「ドイツのイエズス会士だよ。漢名は湯若望。一六二二年中国に渡って明と清両朝に仕え、天文と暦法をつかさどり、望遠鏡や大砲を製造した男だ」
「知らないな。見ての通り、舟には俺と船頭しかいない」
「じゃあアダムズは?」
「アダムズ・ファミリーか?」
「それは映画だろ。ウィリアム・アダムズだよ。日本に来た最初のイギリス人だ。慶長五年オランダ船リーフデ号の水先案内、按針あんじんとして豊後に漂着、徳川家康に仕え、外交顧問を務めた。幕府から相模国三浦郡逸見へみの地を与えられた。

「按針? 三浦? ひょっとして三浦按針か」
「そうだよ」
「だから俺たちふたりしかいないって言ってるだろ」
「じゃあジョン・アダムズは?」
「今度は誰だ」
「アメリカ合衆国第二代大統領に決まってるだろ」
「知らねえよ」
「イギリスの天文学者アダムズは?」
「おまえ何人のアダムズと待ち合わせしてるんだよ」
「余計なお世話だ。海王星の存在を推論した偉人だぞ。アメリカの女性社会事業家ジェーン・アダムズも来るはずなんだけど、遅いなあ」
「何をした人だ」
「婦人国際平和自由連盟の総裁でノーベル平和賞を受賞した人だ……あ、うう」

突然アダムが苦悶の表情を浮かべ、全身が痙攣してばたりと倒れ意識を失った。

「うわ、どうしたんだ」
「ちょっとわしに見せろ」

船頭がアダムの様子を調べた。

「どうやらアダムスストークス症候群しようこうぐんだ」
「病気か」
「ああ。心搏動の急激な不全の結果、脳の虚血を来し、意識消失、痙攣などの症状が出る。刺激伝導系に異常があるんだ」
「じいさん、医学の心得があるのか」
「船頭だと思って馬鹿にするなよ。こう見えて医大を卒業した。とにかく早く病院に連れて行かないと命にかかわる」

船頭は舟底からロープを取りだしアダムの体に巻きつけた。

「ぼーっとしてないで手伝え。あまりきつく結ぶなよ。徒結あだむすにしろ」
「医大生だったとはお見それした」
「医学部に入る前は経済学部でスミスの古典派経済学を学んだ」
「スミスってアダム・スミスか。『国富論』の」
「そうだ」

船頭と筒井はアダムの頭と足を両手で支え、熱海の中心街に向かった。どこかに病院はないか、ふたりがキョロキョロすると、婀娜あだめく妙齢の婦人に出くわした。

「あんたたち、何してるの? 誰だい、そのぐるぐる巻きにした男」
「アダムだ」
「アダム? 変な名前。どう見ても死んでるよ。人の命は徒物あだものだねえ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

婀娜者あだものの婦人が念仏を唱えるとアダムが「うう」と再び呻いた。筒井は焦った。

「念仏はやめてくれませんか」
「なんで」
「この人、ヤハウェが創造した最初の人間なんです。仏教徒じゃないので」

ヒュッと筒井の頬を何かがかすめた。慌てて首をすくめるとヒュッ、ヒュッと矢継ぎ早に矢が飛んできた。幸いどれも徒矢あだやで、命中しなかった。

「近くにアダムの命を狙う一味がいるようだ」

船頭が目を凝らしてあたりを睥睨した。

「この世に生まれた最初の男をあだおろに扱うわけにはいかない」
「アダヤオロカ? それを言うならあだおろそかだろ」
「どっちでも同じことだ。――ご婦人、この人はあたゆまいでな」
「なんだい、あたゆまいって」
「急病だ。この近くに病院はないかのう」
「ないよ」
「うう」

アダムの口から最期の息が漏れて、体が石のように動かなくなった。

「命を助けてやりたかったのに徒夢あだゆめに終わってしまった。あたら若い命を捨ててしまった」

筒井と船頭はアダムの死体を地面に置きしばし茫然とした。船頭はなぜか達観したような顔つきだった。

「眼の前で人が死んだのに、よりによってアダムが死んだのに、よく落ちついていられるな」
アタラクシアは大切じゃよ」
「え?」
「乱されない心の状態だ。ヘレニズム時代の人生観、特にエピクロスの処世哲学で、幸福の必須条件だ。しかし、死体をこのままにしておくのは可惜あたらあたらしい棺桶に入れて鄭重に弔いたいものじゃ」
「棺桶ならこの町にいい葬儀屋があるよ。早桶作りの名人がいる。3Dプリンターで作るんだよ」

婦人が助け船を出した。

「そいつはありがたい」
「社員は全員女なんだ」
「へえ、すごいな」
あたらしいおんなだよ」
「え?」
「因襲を打破して新しい地位を獲得しようとする女。明治四十四年に女流文学者の集団集団青鞜せいとう派が婦人解放運動を起こした頃から流行り出したんだ」
「せっかくだから最新式の棺桶を作ってもらおう」
あたらしいさけふる革袋かわぶくろに入れるって言うしね」
「そのたとえは違うんじゃないか。アダムは歴史上いちばん古い人間で、棺桶は最新式だから、古い酒を新しい革袋に――」
「細かいことはどうでもいいじゃないか!」

婦人が突っぱねた。

2016年6月21日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百四十七回

「いきなり殴るなんてひどいじゃないか」

筒井が口を尖らせた。アタナシウスは聞く耳を持たず何度も拳骨を食らわせた。筒井はじっと堪えた。いくら殴っても効き目がない。頭打あたまになったアタナシウスは筒井の横っ面を思いきりひっぱたいた。腫れ上がった頬を撫でながら筒井はアタナシウスを毅然として見据えた。さすがのアタナシウスも筒井の石の堅固さにあたまがらなくなった。こいつを懲らしめるにはどうすればいいのか――いくら考えても妙案が浮かばずあたまいた。俺はむかしからあたまかた。人間ひとり懲らしめられないとは情けない。あたまれるアウグスティヌスの爪の垢を煎じて飲まねば。

頭部を殴られっぱなしの筒井が両手で頭を覆った。頭隠あたまかくのつもりか。しかし頭隠あたまかくして尻隠しりかくさず。アタナシウスは筒井の尻を力一杯蹴り上げた。一部始終を見ていた船頭はアタナシウスの執拗な懲罰にあたまがった

「アタナシウスさん、わしも加勢するよ」
「おお、そうか。頭数あたまかずを揃えたほうが何かと都合がいい。ではこの男を羽交い締めにしろ」

船頭は言われた通りに筒井を両腕でがんじがらめにした。船頭は小さな図体に似ず頭勝あたまがで、アタナシウスが筒井を殴ろうとすると船頭の頭が邪魔で手が届かない。

「おい、いったん離れろ」
「かしこまりました」

あたまひく船頭は素直に従って身を引きながら「あなたはキリスト教徒の頭株あたまかぶですか」と訊ねた。

「いや、頭株というほど偉くはないが。それになにしろ生まれが三世紀だから、あたまふるくて現代人の考えにはなかなかついてゆけん」
「三世紀生まれ? どうせ嘘っぱちだろ」

筒井はあたまから相手にしない。

「嘘つき呼ばわりするとは言語道断。これを食らえ」

突然稲妻が筒井の体を貫いた。あたまからみずびたように筒井はぞっとした。

「あーん、ごめんなさい。もう赦して。体罰はこりごりだ。罰金刑にして下さい。頭金を払います」
「金を払えば済むと思ったら大間違いだ」

アタナシウスはあたまくだしに一喝した。

「貴様はこれから一生徒枕あだまくらで過ごすのだ」
「アダマクラってなんですか」
「愛する人から離れてひとりむなしく寝ることだ」
徒寝あだねのことだね。いい気味じゃ。ひゃひゃひゃ」

船頭が頭越あたまごに笑った。

「あんたのやりかた理不尽すぎる!」

怒り心頭に発した筒井があたまごなしに怒鳴りつけた。頭から湯気が立ったせいか、頭虱あたまじらみがわいて痒くてたまらない。頭をぼりぼり掻いた。

頭剃あたまそるよりこころれ」

アタナシウスがたしなめた。

「あ、ごめんなさい。聞いてなかった。 もう一度言ってくれない?」
「手数のかかるやつだな」

アタナシウスは自分の発言を録音したテープを巻き戻して頭出あたまだして再生した。

「アタマソルヨリココロヲソレ」

音声を聞きながら筒井は初めてアタナシウスの顔をまじまじと見つめた。白髪に白鬚を蓄えた老人の姿だが、妙に頭付あたまつがでかい。正真正銘のあたまでっかちだ。あたまでっかちしりすぼまりという諺があるぞ。いまでこそ威張っているが、そのうち気勢をそがれるに違いない。しかもよく見ればよぼよぼの老人じゃないか。あいつに較べれば俺はまだまだ若い。腕力だってある。筒井はアタナシウスの老齢をあたまれて、起死回生のチャンスを窺った。

それにしても――と筒井は思った。なんで若狭湾の沖でキリスト教徒の偉人にいじめられなくてはならないのか。レイチェルのことがあたまうかんだ。それもこれもレイチェルのせいだ。あの女と出会ってしまったばかりにこんなひどい目に遭ったのだ。筒井はあたまあたまがのぼったあたまうえはえわれぬこの俺がレイチェルの面倒なんか見られるわけがない。魔性の女だ、魔性の女――筒井はあたまのかかりを繰り返して呟いた。家の中の物をかすめとる者をあたまくろいねずみと言うが、あんな女に関わると身ぐるみ剥がされるぞ――

「何をさっきからゴチャゴチャ抜かしておる!」

アタナシウスが筒井のあたまさらに空手チョップを食らわせた。物凄い衝撃にあたま天辺てつぺんからあし爪先つまさきまで痺れ、筒井はあたまなかしろくなったあたまはちが割れそうに痛い。

「罰金を払うと申したな」
「ええ」
「ならば、その船頭と頭割あたまわにしていますぐ払え」
「わしは何も悪いことはしとらんぞ」

船頭があたまげて抗議した。

「うつけ者めが! 舟で逃がそうとしたおまえも同罪だ」
「でも、金は持っとらん」

同じく一文なしの筒井もあたまかかえた。どうしよう、どうしよう、とあたふたするうちに、足下のアタッシェケースに気がついた。なんだ、金はあるじゃないか。俺もそそっかしいなあ。あたまきながら筒井はアタッシェケースを開いた。百ドル紙幣の束がぎっしり詰まっている。ざっと見て数億ドルはありそうだ。これで命は助かるだろうか。もし足りないと言われたらどうしよう。頭を絞る筒井の横から船頭があたまんだ

「こいつはたまげた。幾らある」
「わからないけど、数億ドルかな。これで足りると思うか」
「わからん」

あたまなやます二人にはお構いなしにアタナシウスは手を伸ばして札束をむんずと握り、あたまをはねた

「あ、泥棒」
「これは頭金として頂いておく。今後は毎月同額を支払え。よいな」

筒井は歯噛みした。大金をむざむざ手放すのは業腹である。何かよい知恵はないものか。頭をひねる筒井に「ここはおとなしく引き下がったほうが得策だ。あたまやそう」と船頭がなだめた。筒井は一計を案じた。

「アタナシウスさん、提案があります」
「なんだ」
「わたしはあたままるめます
「ほう、出家すると申すか」
「はい。あなたの威光に触れて目が覚めました。これからは宗教家として歩んで参ります」

名案があたまもたげた筒井は少年のように澄んだ瞳でアタナシウスを見つめた。

2016年6月20日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百四十六回

「やめろ。待ってくれ。なんでも言うことをきくから。添い寝でもなんでもする」

筒井は口から出まかせを言ってなよなよと徒付あだついた

「ほう、手籠めにされてもいいと申すか。ではまずわしから――」
「いまだ! 逃げろ」

筒井はセバスチャンに声をかけて一目散に山に向かって駈け出した。山を駈け上がると中腹に登山隊のアタックキャンプがあり、二人はテントにの中に身を潜めた。

「おまえがアタッシェか」

テントの奥にいた男が訊ねた。

「え?」
「おまえがコロンビア大使館の専門職員なのかと訊いてるんだ」
「……ああ、そうだ」

筒井は咄嗟に身分を偽った。

「約束の金はここに用意してある」

男はアタッシェケースを筒井の眼の前に置いた。

「ブツを渡してもらおうか」
「ブツね。えーと、ブツは、うーんと、あれ、どこだったかな」

まごつく筒井の眼をじっと見つめたまま、男は望遠レンズのようなアタッチメントをカメラに取りつけた。それはレンズではなく銃口だった。「殺される!」瞬時に悟った筒井はあたってくだけよとばかりにアタッシェケースを奪いとり、「これ、頂くわね。では失礼」と婀娜あだっぽく言い残してテントを飛び出した。

「ああん、置いていかないで~」

なぜかセバスチャンも徒妻あだづまのようなセリフを吐いて外に飛び出し、二人は山野を駈け巡った。走りづめに走って辿り着いた先は若狭湾だった。波止場に小さな舟がある。

「筒井さん、あだてですよ」
「アダテってなんだ」
「江戸時代に九州沿岸で使われた荷船です。ほら、船首が箱型の戸立とだて造りでしょう。枕箱とも呼ぶんです」
「渡りに船とはこのことだ。よし、乗れ」

二人はほかに逃げるあだてもないのでずかずかと船に乗りこんだ。

「おまえさんたち、どこへ行くつもりだ」

船頭が訊ねた。

「どこでもいいから連れて行ってくれ」
「さては女に追われてるな。徒名あだなを馳せたバチがあたったんだろ」

船頭は独り決めにして舟を沖へ向かって進ませた。

「おまえさん、名前は」
「筒井です」
「そっちのかたは」
「セバスチャン」
「セバスチャン? 渾名あだなか」
「いいえ、本名です」
「ふーん。どうでもいいが、人の命はあだないものだなあ」
「何かあったんですか」
「いやあ、さっき港に戻ってくる途中で女を舟から落っことしてしまってなあ」
「でも、助けたんでしょう」
「ブクブク沈んで、あっという間に海の藻屑と消えたよ」
「なんで助けないんですか」
「俺は泳ぎを知らんのでのう」
「ひどすぎる!」

義憤に駆られたセバスチャンがまるで親の敵に出くわしたかのように船頭を睨んであたなふ

「うわ、何をする。命だけは助けてくれ」
「おまえのような人でなしは生かしておけない」
「頼む。徒名草あだなぐさを分けてやるから、勘弁してくれ」
「なんの草だ」
「桜だよ」
「こんな真夏に桜が咲くわけないだろ」
「どうか徒情あだなさをかけてくれ」
「殺してやる」

セバスチャンが船頭の首を両手でぐいぐい締め上げた。船頭が断末魔の叫びを上げたかと思うと一天にわかにかき曇り、雷鳴が轟き、雲間から一条の光が射しこんで舟の舳先を照らした。舳先にはいつの間にか白髪の老人が立っていた。

「わあ、誰だ」
「わたしはアタナシウスである」
「アタナシウス?」
「うむ。初期キリスト教の教父。アリウス説に反対し、ニカイア公会議で三位一体について教会の正統的信仰を確立した。――おまえはセバスチャンだな」
「そうですけど」
「丸腰の老人にあだなすとは不届き至極。おまえは地獄に墜ちるぞ」
「そんな……」

それまで穏やかだった若狭の海に徒波あだなみが立った。舟は前後左右に大きく揺れた。

「た、助けて下さい! 死ぬまでずっと独り寝の、徒寝あだねの人生を送ったとしても文句は言いません!」
「いいや、許さん。おまえは阿太あだ大野おおのに追放だ」

あたかぜが吹き、セバスチャンの体がふわりと宙に浮かんだかと思うと、そのまま奈良県五条市東部の原野に吹っ飛ばされた。

「むかしからあだ火宅かたくとはよく言ったものだ。まことに現世ははかなく苦しい」

船頭が感に堪えて呟いた。筒井はいま目にしたことが信じられず茫然と立ち尽くした。アタナシウスは筒井に言った。

「おまえもあだ悋気りんきを起こしたら承知しないぞ」
「なんですか」
「自分に直接関係のない他人の恋をねたむなと申すのだ」
「もちろんです! 助けてくれてありがとう、阿吒縛伽あたばかさま!」
「馬鹿者! 阿吒縛伽といえば大元帥明王たいげんみようおう、キリスト教とは無関係だ!」
「あーごめんなさい。ありがたくて嬉しくて、つい神さま仏さまと……」
「おまえの人生はとんだ徒花あだばなだったようだな」
「まさか、まさかわたしを殺す気では……」
「案ずるには及ばん。あだなさけと申すではないか。いくらわたしを憎んでも、わたしはおまえを許してやる」

ありがとうございます、と筒井が頭を下げた途端になぜか急に腹が痛み出した。

あたはらを起こしたか。よし、徒弾あだびで慰めてやろう」

アタナシウスは琴を奏でた。その場にいた他人あだびとすなわち船頭も楽の音に聴き入った。

「まさに天上の音楽じゃ。わしはもう一生徒臥あだぶしで過ごしても悔いはない」

老人が感極まって涙をこぼすのを見たアタナシウスはあたふたと琴のアダプターを調節し、一度弾き終わった曲にアダプテーションをほどこしてもう一度演奏し始めた。即興でアダプトするとは大したものだ――筒井は徒惚あだぼした女のようにうっとりとアタナシウスを見つめた。

「いよ、名調子! 大統領!」
「神にも等しい余に向かって大統領と言うやつがあるか」

アタナシウスは拳骨で筒井のあたまをごつんと殴った。

2016年6月18日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百四十五回

筒井は心底恐ろしくなった。

「たぶん冗談ですよ。だって、ほら、あたたかい風が吹いているじゃありませんか。死んでたら暖かさを感じられるわけがない」
「だよな」
「植物帯の分布と気候との関係を示すあたたかさの指数しすうを考案したのは川喜田二郎と吉良竜夫ですよ」
「なんの話だ」
「いえ、『あたたけし春の山辺に』っていう夫木和歌集の歌を思い出しただけです」

頬を撫でる風を感じながら筒井は心があたたまった。俺は死んでなんかいない。現にちゃんと意識がある。両足でしっかり大地に立ってるし、隣にはセバスチャンがいる。

「よし、敵討ちに加勢するぞ」
「でも、あたたざけが飲みたいなあ」
「酒ならあとでいくらでも飲ませてやる。燗酒だろ」
「ただの酒じゃありません。陰暦九月九日、重陽の節句に飲むんです。この日に温かい酒を飲むと病気にならないんですよ」
「わかったわかった。その日になったらたっぷりあたためてやるから心配するな。さてと、武器はなにかないかな」
「これを使え」

義士の一人が弓を手渡した。

「陸奥安達郡、いまの福島県に産する安太多良真弓あだたらまゆみだ。大切に使えよ」
「アダタラ? そんな名前の山があったような気が」
「うむ。安達太良山あだたらやまだ。福島県北部、吾妻山の南東にある火山だ。標高は一七〇九メートル。麓の温泉はスキー客で賑わう」
「ところであなたは……?」
「申し遅れた。安達あだちと申す」
足立あだち?」
「いやいや、東京二十三区の足立ではない。高い安いの『安』に友達の『達』だ」
「ああ、安達さんですか」
安達景盛あだちかげもりの末裔でござる」
「立派な名前ですね。戦国武将ですか」
「鎌倉初期の武将だ。源頼家に仕え、実朝の死を悲しんで高野山に入った。のちに北条時頼の外祖父として権威をふるい、三浦氏を滅ぼした」
「へえ。よくわからないけど、すごいんだなあ」
「この弓は安達太良山の東に広がる原野、安達ヶ原あだちがはらで作られたものだ。あそこは鬼の住処として名高い」
「おい、おまえたち。うるさいぞ」

もう一人の武士が叱責した。

「ごめんなさい」

筒井が謝った。

「あなたは……?」
「ん? わしか? わしは安達謙蔵あだちけんぞうの子孫だ」
「やっぱり戦国武将ですか」
「たわけ者! 安達謙蔵は熊本生まれの政治家だ。閔妃殺害事件に連座し、立憲同志会、憲政会、民政党の領袖として『選挙の神様』と呼ばれた男だ。満州事変に際して興した強力内閣運動は若槻内閣崩壊につながった」
「で、お隣のあなたは……?」
安達式あだちしきの家元である」
「安達式?」
「知らぬと申すか。華道の流派だ。安達潮花が大正初期に東京で創始した」
「生け花の先生がなんでまた仇討に?」
「貴様には関係のないことだ。いいからさっさと安達あだち真弓まゆみを持て」
「はーい。ところで誰の仇を討つんですか」
安達泰盛あだちやすもりだ」
「どなた?」
「鎌倉中期の武将だ。執権北条氏の御内人平頼綱と争い、一族もろとも滅ぼされた」
「ちょっと待って。鎌倉時代の仇をいま討つの? 八百年近く前の人でしょ? なんでいまごろ……ははは」
「笑ったな! 貴様、さてはアタチュルクのシンパだな」
「アタチュルク?」
「とぼける気か。トルコ共和国初代大統領。一九二〇年のセーヴル条約に反対する祖国解放運動を成功させ、大国民会議を招集して帝政を倒し共和国を樹立した」
「知りませんよ、そんな人」
「しらを切るつもりか! 隣の男はトルコ人だろ!」

義士はセバスチャンを指さした。

「おまえ、トルコ人なの?」
「えへへ。実はね、そう」
「共和主義者は我らが主君の敵だ。成敗してくれるわ!」

義士たちは筒井とセバスチャンに対峙して「行くぞ、アタック!」と叫び、襲いかかった。

2016年6月17日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百四十四回

「あ、いえ、こっちの話です」
「あたしを口説く気じゃないの」
「滅相もない」
「なんだつまらない。男心と秋の空はあだ
あだってなあんですかあああ」

筒井が朗々と響くアダジオで尋ねた。

「形容詞の語幹じゃ」
「え?」
「うわ、あだ塩辛じおがらくてとても食えん」

洟垂れ婆は往来のど真ん中でイカの塩辛を食いつつ言った。

「むかしから言うだろ。あだおとことかあだおんなとか」
「お恥ずかしながら聞いたことがないんですけど。おまえは?」

筒井はセバスチャンに水を向けた。

「浮気っぽい男や女のことかな」
「おお、おまえさんは学があるのう」

老婆は相好を崩した。

「しかし、ずいぶん浅黒い肌だね。日本人ではないな」
「はい。東南アジア出身です」
「さてはあだぐさがあって日本に来たな」
「アダシグサってなんですか」
「災いの元だ。敵討ちをしにあだくにに来たんじゃろ」
「ばあさん、一口でいいから塩辛を恵んでくれないか」

腹ぺこだった筒井が尋ねた。

「やだね。おらのもんだ」

たかが塩辛を独り占めするとはあたじけない老婆である。気分を損ねた筒井が遠くを眺めると火葬場らしき高い煙突からあだけむりがゆらゆらと昇っている。人はいずれ死ぬのだ。自分だけは死なないと誰もが思いがちだが、死は平等に誰にも訪れる。筒井はレイチェルを探す旅への興味が薄らぐのを感じた。レイチェルのことなんか忘れてしまえ――あだしごころが芽生えた。一度きりの人生だ、どこにいるのか見当もつかない女なんか放っておけ、もっと楽しいあだごとにうつつを抜かしたっていいじゃないか。

「なにをぶつぶつ呟いてる」
「いえ、別に」
「いえ、別に、とはあだ言葉ことばだなあ。どうだい、あたしといいことしないかい」
「いいこと? いいことって、まさか……」
「ふふふ」

老婆が妙にあたしたたるい声を出した。

「ほれ、ここにちゃんと枕も用意してある」

洟垂れ婆はこともあろうに道端で出会ったばかりの筒井とあだ手枕たまくらを共にしようと言うのである。筒井は眉間に皺を寄せた。据膳食わぬは男の恥とむかしから言うが、あだちぎをうっかり交わしてあだが世間に広まったりしたら目も当てられない。だいたいこの婆はなんだ。いい歳をして洟を垂らしやがって。色目まで使いやがる。どうせあだなさだろうに。

「僕たちは徒野あだしのに用事がありますので」

セバスチャンがタイミングよく話題を変えてくれた。

「ほう、嵯峨の奥、小倉山の麓だね。火葬場がある」
「はい」
「道理でなあ」

老婆はなぜか独り合点した」

「最初に見たときからこの世の人ではないと思ったよ」
「え?」

筒井にはなんのことだかわからない。

「おまえさんたちに会ったことは秘密にしておくから安心しろ。あだびとには言わないから」
「なんの話ですか」
「いやあ、人生ははかない、あだとはまことじゃのう」

老婆はにっこり微笑み、塩辛に上白糖をたっぷりかけて食い始めた。あだみやびと呼べば聞こえはいいが、なんのことはない、ただのゲテモノ食いである。眉を顰めて遠ざかる筒井とセバスチャンには一向に構わず、「ああ、人生は夢の如しじゃ、ツンツンテトテトシャン」とあだをはかなみつつ、口から出任せに徒浄瑠璃あだじようるりを鼻歌で歌った。

老婆の歌声が合図だったかのように暗雲が空をあだした

あだぞ!」
「おう!」

赤穂浪士のような侍が十数人、仲間の仇討をするらしく気勢を上げた。

「仇討なら俺にまかせろ」

自由奔放に生きることに決めた筒井があたぜいばって名乗りを上げた。

「何者だ、貴様は」
「筒井康隆と申す」
徒銭あだぜにが目当てならお門違いだ。失せろ」
「金目当てと思われてはあただ心苦しい。助太刀してやると言うのだ」

七月三十一日の京都は真夏にしては暑いというよりもあたただった。

「わたしも助太刀します」

セバスチャンも乗り気になった。

「生きて帰れると思うなよ」

筒井が念を押した。

「百も承知です。さっきおばあさんに言われたこと、覚えてますか」
「そういえば、なんか妙なことを言ってたな。俺たちがこの世の者ではないとかなんとか」
「そうです」
「ん? え? ――まさか、俺たちは、死んでるのか……?」

2016年6月16日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百四十三回

筒井はセバスチャンと船を降り、温泉街に向かった。浴衣を着た妖艶な婦人がすれ違いざま筒井に声をかけた。

「ちょいと遊んでいかない?」

あだ女の物腰がなまめかしい。

「すまないが商売女には興味がないんだ」
「まあ失礼ね。あたくし、こう見えて堅気よ」

女はセバスチャンと筒井の顔を交互に見た。

「商売女どころかそもそも女に興味がないのね」
「いや、違う。勘違いしないでくれ」
「言い訳しなくてもいいわよ」

二人が徒口あだくちを叩き合っているところに托鉢の僧侶が「南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、南無大師遍照金剛」と徒口念仏あだくちねんぶつを唱えながら通り過ぎた。女と筒井は別れるでもなく、かといって肩を並べるでもなく、何となくあだくねを胸に抱いたままぽつねんと佇んでいた。日を遮っていた徒雲あだぐもがはかなく消えた。

「遊ぶの、遊ばないの、どっち」
「レイチェルという女を探してるんだ。知らないか」
「なんだ、女好きじゃないか」
「勝手に決めつけるなよ。君だって男と見れば誰にでも声をかけるんだろ」

女と筒井は互いに浮気心があるのではないかと徒比あだくらした。用心しろよ。こういう女に手を出すとろくな目に遭わない。鼻の下を伸ばしてタクシーを飛ばしていそいそと女のもとに通っても肘鉄を食らってタクシーは徒車あだぐるまになるのが関の山だ。

安宅あたけだ」

セバスチャンが沖を指さして声を張り上げた。

あだ?」
「いやいや、徒げははかなそうなこととか、もろそうなことでしょ。船ですよ。ほら」

筒井が沖を眺めると櫓が八十梃はあろうかと思われる安宅船あたけぶねがぐんぐん岸に近づいてくる。

「室町末期から江戸初期に活躍した軍船ですよ」
「おいセバスチャン、なんでそんなに詳しいんだ」
「船乗りになるのが夢だったんです。あ、今度は安宅丸あたけまるだ」

さらに巨大な軍艦がその後ろから姿を現した。

「たしか寛永十二年に完成した船です。ほら、外側がきらきら輝いているでしょう? 銅板で覆ってあるんですよ。櫓は百梃、二百人で漕ぐ。米を一万俵積める」
「おまえは船の博士だな」
「ああ、乗りたいなあ。乗りたい、乗りたーい!」

セバスチャンは地べたに寝転がって手足をばたつかせてあたけた

「乗りたきゃ勝手に乗るがいい」
「さっきの人、レイチェルって言いましたっけ」

浴衣の女が口を開いた。

「うん」
「ふと思い出したんだけど、愛宕あたごにそんな名前の人がいたような」
「愛宕?」
「ええ……」

女は溜息をついて目を閉じた。

「あら、ごめんなさい。あたしったら、むかしの徒恋あだこいを思い出してしまって」

女は路傍の丸い大きな石に草履をこすりつけた。石は愛宕苔あたごごけで覆われている。

「むかし愛宕に男がいたのよ。おもちゃにされて捨てられちまった。徒心あだごころしかない男だったわ」
「愛宕って、ひょっとして愛宕山あたごさんのことか」
「そうよ、京都」
「そうだ、京都行こう」

筒井はどこかで聞いたことのある徒言あだごとを思わず口にした。

「行っちゃうの? なんだつまらない。徒事あだごとね」

女は立ち去った。セバスチャンは接岸した安宅丸に駆け寄り船員と何やら話をして筒井のもとに戻ってきた。

「筒井さん、京都まで乗せてくれますよ」
「本当か」
「ええ」

二人は再び馬に跨がって安宅丸に乗りこみ、熱川温泉を出発した。紀伊半島をぐるりと巡って堺で下船し、馬を飛ばして京都に向かった。愛宕鳥あたごどりすなわちウグイスの鳴き声が聞こえる。

愛宕に着くと物凄い人混みだった。

愛宕あたご千日詣せんにちもうでですよ」

セバスチャンが解説した。

「七月三十一日、もとは陰暦の六月二十四日ですけど、愛宕神社で火伏せの行事が行なわれるんです。この日お詣りすると千日分の功徳があると言われる」
「浅草の四万六千日みたいなものか」
「幸先がいいですね」
「なんで」
「だって年に一度の縁日ですよ。きっと見つかりますよ、レイチェルさん」
「本当か」
「絶対です。愛宕白山あたごはくさんに誓ってもいい」

神社ではちょうど愛宕火あたごびが焚かれるところだった。セバスチャンは火祭りを見物しながら呟いた。

愛宕百韻あたごひやくいんを思い出すなあ」
「なにそれ」
「一五八二年、明智光秀が信長を本能寺に襲う直前、愛宕山で催した連歌の会の百韻です」
「おまえはいったい何人なんだ。ふつうの日本人でも知らないぞ、そんな話」
「嬉しいなあ、思いがけず愛宕詣あたごまいができて」
「浮かれてる場合じゃないぞ。レイチェルを探さねば」
「きっと愛宕山あたごやまの近くにいますよ」

神社の境内に徒桜あだざくらが咲いている。

「おい、なんで真夏に桜が咲いてるんだ」
「そんなこと急に言われてもあたしは知らないよ」

洟を垂らした老婆が突然口を挟んだ。

2016年6月15日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百四十二回

筒井は馬から降りた。フェリーには黒い車が何台も積んである。一台ずつ中を覗いてゆくと大きな男にどんと肩がぶつかった。

あた無作法な、あた不行儀」

見上げると雲を衝くような大男で、仮名手本忠臣蔵の芝居から抜け出たきたような風体である。

「失礼しました」
「ここで会うたが百年目。あだを晴らさでおくものか」

大男は脇差しを抜いて振りかざした。

「わあ、ごめんなさい。このとおり」
あだのことならともかく、いきなり体当たりとは言語道断。肩を斬ってやるから覚悟しろ」
「勘弁してください」
「肩だけで済ませてやろうと言うに、せっかくの好意をあだにするやつがあるか」
「これこれ、そのくらいで勘弁してやりなさい」

女房だろうか、大男の背後から婀娜あだな女が口を挟んだ。

「いいや、勘弁ならん」
「おやめと言ったらおやめなさーい♪」

女房はオペラ歌手のようにアダージェットで歌い上げた。

「おまえがそれほど言うならば、ぐっとこらえてつかわそう♪」

大男もアダージョで歌いつつ返事をした。突然近くの車が爆発して炎上し、熱くたぎったオイルが大男の顔に降り注いだ。

熱熱あたあた

顔に大やけどを負った大男を尻目に筒井はそそくさとその場を立ち去ろうとした。

「どこへ行く? 命を助けてやったのに礼も言わぬとは徒徒あだあだ。堪忍袋の緒が切れた。貴様を奴隷商人に売り飛ばしてやる。どうせあたいは二束三文だろうが構わん。故郷の豪族のあたいに売るぞ」
あたいも賛成。あたいえならもっと高く買ってくれるよ」

女房が請け合った。すると鞍に跨がったままだったセバスチャンが馬に拍車をかけて突進し、大男と女房を突き飛ばした。二人はサッカーボールのように船室の奥に吹っ飛んだ。

「でかしたぞ、セバスチャン! 賞賛にあたいする機転だ。まさに価千金あたいせんきん
「じゃあご褒美にあたいなきたからをおくれ」
「なにそれ」
「評価できないほど尊い宝」
「よしわかった。だが少し待ってくれ。まず例の女を探そう。話はそれからだ」
「あの二人、死んじゃったかな」
「どうでもいいだろ。どうせ徒命あだいのちだ。女が見つかったら余はそなたに褒美をあたぞ」
「わーい」
あた限り船の隅々を探すのだ」
「了解。わーいわーい嬉しいな、ご褒美もらえる、嬉しいな」

セバスチャンはふざけてピョンピョン飛び跳ねあだばかりである。馬に吹っ飛ばされた大男と女房が戻ってきた。

「主君に乱暴狼藉をはたらいた仇討あだうちを致す。神妙にしろ」
「仇討? まるで仇討狂言あだうちきようげんだな。ははは」
「貴様、いますぐここで殺されるか、あたえに売り飛ばされるか、ふたつにひとつだ」
「やれるもんならやってみろ。逃げも隠れもしないぞ。隙をあたえてやるからかかってこい」
「俺を誰と心得る」
「知らねえよ」
「我が名は武蔵坊弁慶」
「弁慶? 本物?」
「嘘偽りは申さん」
「じゃあ、ひょっとしてこの女房は……」
「女房は世を忍ぶ仮の姿。このおかたこそ我が主君、誰あろう源義経だ」
「マジかよ! あーん、ごめんなさい。命だけは助けて。ご恩は徒疎あだおろそに致しません」
安宅あたかで富樫に屈辱を嘗めたばかりと言うに、まさかアゾフ海でまたこのような屈辱に会うとは。許さん。憎っくき仇敵あたかたき
「ちょっと待った。安宅って、あの有名な安宅あたかせきのこと?」
「当たり前だ」
「歌舞伎の名場面じゃないか。大好きなんだ。安宅松あたかのまつを踊ってくれないか」
「踊ってやってもよいが、条件がある」
「なに」
アタカマの胴が欲しい」
「アタカマ?」
「知らぬと申すか。南米チリ北部に広がる砂漠だ。硝石と胴の産地として名高い」
「お安い御用だ。チリには友人知人が大勢いる」

筒井はあたか南米に詳しいかのような口を利いた。

あたかもよし。では一差し舞って進ぜよう」

弁慶が踊りを披露するうちに船は東に進み、いつしか静岡県伊豆半島東岸の熱川温泉あたがわおんせんに着いた。

2016年6月13日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百四十一回

生意気な女だ。筒井は鼻っ柱をくじかれたのが悔しくてたまらない。

「どうだ、俺のあそとぎにならないか」
あそ友達ともだち? そこにいるじゃない」

女はセバスチャンをちらりと見て言った。

「それともわたしを遊鳥あそびどりにするつもり?」
「アソビドリ?」
「端女郎よ」
「ハシジョロー?」
「下っ端の女郎よ! なんにも知らないのね、あなたって。てっきりあそにんだと思ったのに。あそ半分はんぶんで人をからかうのはやめてちょうだい」

近くの寺から遊人あそびびとが奏でる妙なる調べが聞こえてきた。

「そんなに遊びたいなら鬼ごっこしましょ。あなたが鬼よ。捕まえられるものなら捕まえてごらんなさい。ほほほ」
「よーし」

筒井とセバスチャンは女とあそひろげた。女はどことなく典雅で優美なところがあり、古代の朝廷で大喪の際などにもがりの神事に奉仕した遊部あそびべを思わせた。童心に返ってあそほうけた三人はわあわあきゃあきゃあ騒いでくたびれ、地べたにぺたりと尻をついて笑い合った。

黒光りする車が通りかかって眼の前にピタリと止まり、中から人相の悪い男が四人下りた。

「いい女だな。よう姉ちゃん、遊女あそびめにならないか? がっぽり稼げるぜ」

男たちは四人がかりで女をがんじがらめにした。

「やめろ」

筒井が思わずすがりつくと背がいちばん高い男が筒井の首根っこをつかんで宙に持ち上げ、地面に叩きつけた。

「放して! あそものにしないで!」
「おい、こいつは上玉だぜ。遊者あそびものにぴったりだ」
「やめて! やめないと承知しないよ! 助けて、お姉ちゃん! レイチェル!」

なに? レイチェル? じゃあ、こいつはレイチェルの妹なのか? 腰をしたたかに打って立ち上がれない筒井が地べたにへたりこんだまま男たちを見上げた。女はあっという間に車に押しこまれ、エンジン音もけたたましく車は港のほうへ去った。

「大丈夫ですか」

セバスチャンが筒井を介抱した。

「ああ。腰を打っただけだ。あの女はレイチェルの妹だ」
「本当ですか」
「間違いない」
「あいつらきっとあそ宿やどに売る気ですよ」
「こうしちゃいられない」

筒井はどうにかこうにか立ち上がった。タクシーで追いかけたいが早朝のアテネ市街は火が消えたように静まりかえっている。ふと後ろを振り返ると金物屋の店先に馬が一頭繋いである。

「馬で追いかけよう」

セバスチャンは気を利かせて馬の横に片膝をつき、両方の掌を上に向けて指を絡ませ筒井の左足を乗せてぐいと持ち上げ馬に跨がらせ、自分もその後ろにひらりと跨がった。手綱を通す七寸みずつきをつける遊輪あそびわが錆びついている。

「ずいぶん手慣れてるな」
「馬は子どもの頃よくあそわざ乗ったんです。宙返りもできますよ。技を披露してみましょうか」
「いや、あそ暇はない。車を追え」

セバスチャンは手綱を握り拍車をかけた。馬は猛スピードで駈け出し、車のあとを追った。車と馬は追いつ追われつしてギリシャから東に向かい、黒海北部のアゾフかいに到着した。海岸にたどり着くとなぜか車を見失った。

「どこに消えやがった」

筒井がきょろきょろまわりを見た。

「あの人に聞いてみましょうか。――あの、すいません」

セバスチャンは近くにいた男に声をかけた。男はどこから見ても平安貴族そっくりだった。

「なにか用か」
「いま、ここを真っ黒の車が通りませんでしたか」
「さあ、知らんな」
「あなたはひょっとして平安貴族ですか」

筒井が横から口を挟んだ。

「よくわかったな。朝臣あそみだ」
「その服装を見れば一目瞭然ですよ」
「車というのは、あれのことか」

朝臣が指さすと港に接岸していた船に黒い車が乗船するところだった。

「あれだ。あの船の行き先は?」
「たしかアゾレス諸島しよとうだよ」
「アゾレス諸島……太平洋北部、ポルトガルの西か」
「わたしはこれから藤原の朝臣あそんと面会があるので、ではこれにて失礼」

朝臣は立ち去った。筒井とセバスチャンは馬を走らせて桟橋から船に乗りこんだ。

2016年6月12日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百四十回

筒井と褐色の男はアテネの繁華街に向かった。

「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな」
「セバスチャンです」

褐色の男は答えながら前方を指さした。

「いい雰囲気の酒場がありますよ。ちょいと一杯どうです」
「いいね」

二人は酒場に入り、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをしてあそかした。酔うと童心に返り、「瀬戸わんたん、日暮れ天丼、夕波こな味噌ラーメン♪」と幼い頃によく歌ったあそうたが口をついて出てきた。流しのギター弾きが来て即興で伴奏した。ギリシャにも遊男あそびおがいるとは驚きだ。ちょいどいいあそがたきに恵まれた筒井は調子に乗って「上海帰りのリル」や「湯の町エレジー」などの懐メロを片っ端から歌った。

夜が明けた。

「お客さん、そろそろ店を閉めますので、これをお願いします」

酒場の主が勘定書きをテーブルに置いた。

「金か。これから毎晩来るからツケにしてくれ。月末に耳を揃えて払う」

筒井はセバスチャンを促して逃げるように店を出た。

「毎晩通えるお金があるんですか。あ、そうか、銀行口座にあそがねをたんまり預けてるんですね」
「一文なしだ」
「え?」
「からっけつだよ」
「無銭飲食? マジっすか? やべーよ。捕まっちゃうよ」
「なにか金目のものを探して売ろう」

筒井とセバスチャンはあたりをキョロキョロ見回しながら明け方のアテネ市街をほっつき歩いた。歩道に革張りの立派な本が一冊放置されているのを筒井が見つけた。拾い上げるとギリシャ語の本で内容はまるでわからない。表紙をめくった。見返し紙と本文とのあいだに挟まれた白いあそがみに万年筆でアルファベットが書いてある。

「R-a-c-h-e-l。Rachel。――レイチェル!」
「どうしたんですか」
「女だ。俺が探してる女の名前だ」
「ただの偶然でしょう」
「偶然なわけがない。ギリシャ語の本のここにだけはっきりアルファベットで書いてあるんだぞ。きっとアテネにいるんだ。俺はレイチェルに会うために西へ東へ旅を続けてきた。ついに会えるんだ」

筒井は『母をたずねて三千里』のマルコ少年のように胸が高鳴った。

「しかし、こんなひどい格好で会うのは気が引ける」
「あそこに紳士服店がありますよ」
「おお、おあつらえ向きだ」

二人はたまたま鍵が開いていた裏口から店に忍びこみ、あそを脱ぎ捨ててタキシードに着替えた。店の前は並木道で、俗に言う遊草あそびぐさすなわち柳の木の葉が朝の風に揺れている。東の空が白み始めた。

「こんな時間にアテネの街をタキシードでうろうろするなんて夢にも思いませんでした」
「夢にも思わぬことが起きるのが人生というものだ。いいあそぐさじゃないか」
「こんなふうにいつまでもあそびくらたいなあ」

交叉点にさしかかった。角の建物が早朝から工事中で、ベルトコンベアが一台けたたましい音を立てている。ベルトのゆるみや振動を防いだりベルトの方向を変えたりするのに使うあそぐるまが突然外れた。

「機械が故障したぞ。ははは」

筒井が笑った。

「なにも笑うことはないじゃない。ひどい人ね」

いきなり女に話しかけられた。見ると女は小さな椅子に腰かけ、目の前にキャンバスを置いて工事現場をせっせと写生している。襟足に垂れたあそが妙になまめかしい女だ。

「他人の不幸を喜ぶたちなもんでね。君こそこんな朝っぱらから何してるんだ」
「見ればわかるでしょ。油絵よ。あそごころで絵を始めたの」
「絵は結構だが、なにもベルトコンベアを描かなくたってよさそうなもんじゃないか」
「なにを描こうとわたしの勝手でしょ!」
「あ、ええ、うん……」

筒井は女の剣幕に押されてあそ言葉ことばをもごもごと口にするのが精一杯だった。まるで将棋の盤上にあって攻守に役に立たないあそごまになった気分だった。

「あなた、仕事は」
「え?」
「職業」
「作家だ。小説家だよ」
あそ仕事しごとね」

女は鼻で笑った。

「素人はよくそう言うけど、原稿料だけで生活するのは大変なんだぞ」
「だって、どう見てもあそよ。絵に描いたようなあそじゃない」
「どうして」
「こんな時間にタキシード着て歩くなんて堅気の男のすることじゃないわ」

筒井はぐうの音も出なかった。

「そんなに遊びたいなら、あそこにあそでらがあるわよ」
「遊び寺ってなんだ」
「人が信仰のためではなく遊興のために集まる寺に決まってるじゃない。小説家のくせにそんなことも知らないの?」

筒井は完全に女のあそ道具どうぐと化した。

2016年6月10日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百三十九回

筒井と褐色の男がアテネに到着して三週間以上が経過した。

「やっと冒険が再開したぞ」筒井が安堵の溜息をつきながら言った。
「三週間、飲まず食わずでしたよ」
「生きていられたのは奇跡だ」
「なんでこんな目に遭ったんでしょう」
「作者のせいだ」
「作者?」褐色の男が訊ねた。
「うん。俺たちに冒険をさせておきながらほったらかしにしやがった。どうせアセンブリーにうつつを抜かしているんだろう」
「アセンブリーってなんですか」
「正しくはアセンブリー言語げんごと言うんだが、コンピューターのプログラム言語だよ」
「その作者っていう人がコンピューターを使ってるの?」
「ああ、そうだ。いまもキーボードをカタカタ叩いて俺たちのセリフを書いてるに違いない」
「じゃあ、わたしたちが生きるのも死ぬのも作者の思うがままってことですか」
「そういうことだ」
「ひどい!」

褐色の男が怒り狂った。

「身勝手にも程がある! もし本人に会ったら阿仙薬あせんやくを口に詰めこんで窒息させてやる」
「アセンヤク? なにそれ」
「インド産のアカネ科植物の水エキスを濃縮して作る褐色の生薬です」
「薬かよ! 殺すなら毒だろ」
「薬だって適量を超えれば毒ですよ」
「それもそうだが」

いたいけな少女が近づいてきて筒井に声をかけた。

吾兄あそは日本人か」
「え? うん、日本人だけど。なにか用?」
阿蘇あそへ参らんとする途中なり。この道は阿蘇に通ずるや否や」

妙に時代がかった口調である。

「阿蘇ならまずギリシャを出て日本に向かわないといけませんよ。お嬢ちゃん、名前は?」
麻生あそうと申します」
「麻生……。そういえば九州の福岡あたりは麻生財閥のお膝元だな」
「阿蘇へ連れて行ってくんなまし」
「なぜ花魁口調なのか不可解だが、急に言われても無理だよ」
「お礼はたんと弾みます」
「いくらくれる?」
「一万円紙幣を阿僧祇あそうぎ
「アソウギ?」

筒井にはなんのことだかわからない。

「目玉が飛び出るほどの額ですよ!」

褐色の男が興奮して叫んだ。

「そうなの?」
「ええ。もとはサンスクリット語ですけど、仏教で阿僧祇といえば数え切れない数をさすんです。一説によると10の56乗、別の説によると10の64乗」
「てことは、10のあとにゼロが64個も並ぶのか」
「そうです」
「そんな大金が日本に存在するのだろうか。――お嬢ちゃん、麻生さんと言ったね、お父さんはお金持ちなの?」
麻生久あそうひさしです」
「聞いたことがないなあ」
「社会運動家で政治家です。大分生まれで東京大学を卒業して、日本労働総同盟の幹部になりました。日本労農党と社会大衆党を結成しました」
「社会主義者じゃないか。金持ちなわけがない」
「父上を侮辱すると承知しませんよ」

少女はアゾ化合物かごうぶつを溶かしたオレンジ色の液体を筒井にぶちまけた。

「わらわを阿蘇あそくじゅう国立公園こくりつこうえんに連れて行っておくれ」
「お嬢ちゃん」

褐色の男が口を挟んだ。

彼所あそこに船が見えるだろ」
「ええ」
「あれに乗ればきっと阿蘇山あそさんに行けるよ」
「それはまことか」
「ああ、本当だ」

筒井が口から出任せを言って請け合った。

「あの船はね、迷子を家に送り届けるアソシエーションが運営してるんだ。君くらいの子どもが大勢乗ってるよ。みんなでアソシエーションフットボールをして遊ぶといいよ」
阿蘇神社あそじんじやにも行けるか」
「行けるってば。しつこいなあ」
「しつこいとは何事か」

少女はアゾ染料せんりようを溶かした真っ赤な液体を筒井に浴びせた。

「お主、さては文筆家だな」
「え? そうだけど。よくわかったね」
あそそに気づいておりました。文学者という人種は気位ばかりが高くて鼻持ちならない」
「悪かったな」
「で、そなたたちはどこにお行きあそばすのか」
「じつは、どこにも行く当てはないんだ。三週間も飲まず食わずで」
あそばせうたを歌ってくれたら褒美になにかご馳走して進ぜるぞ」
「知らないよ、歌なんか」
「あ、そう。ではこれにて失礼します。ごめん遊ばせ」

少女は一人でスタスタと港へ去った。

あそばせ言葉ことばを使う餓鬼なんて、初めてお目にかかったよ」筒井が呟いた。
「なんのつもりだったんですかねえ」
「どうせあそだろう。あそび相手あいてが欲しかったんだよ、きっと」

2016年6月9日


四字熟語6000件

みんなで作る四字熟語が6000件に達しました。栄えある6000件目はたこ焼き村さんの「半値越権」です。

2016年6月1日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百三十八回

御殿に行くならこれを着なさいと、農夫が汗取あせを一着手渡した。

「直接肌につけて汗を吸い取らせる肌着だよ」
「ありがとう。おや、これはアセテート繊維だな。分子式CH3COCH3、無色透明のアセトンが原料だ」
「ついでにこれもかぶりなさい」

農夫は兜を差し出した。頬当ての下底に穴が開いている。

汗流あせながと言ってな、汗が穴から落ちる仕組みだ」
「よくできてるな。でも兜をかぶる必然性がないと思うが」
「それもそうじゃのう」

農夫は再び田んぼに戻りあせになって田植に精を出した。仲間の農夫が田んぼの土を鋤で畦に壁のように塗りつける畦塗あぜぬに余念がない。

「秋には稲が豊かに実のだろうなあ。まさにあせ結晶けつしようだ」

褐色の男が田植仕事を眺めていると、突然地響きがして大地がぐらぐらと大きく前後左右に揺れた。

「うわ、なんだなんだ」

筒井が腰を抜かしてその場にへたりこんだ。

アセノスフェアに異変が起きたのかもしれない」

褐色の男が呟いた。

「アセノスフェア?」
「地球のマントル内の深さ百キロメートルから二百キロメートルないし数百キロメートルまでの比較的流動性のに富む層だ。アイソスタシーを保つための流動が行なわれ、楯状地以外では上部は地震波の低速度層をなす。プレートと地球内部との潤滑の役目を果たすのだ」

てことは天変地異じゃないか。筒井の手のひらがあせばんだ。町中の人が蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、校倉の周囲のように木を重ね合わせた校羽目あぜばめに身を潜めた。高さ三メートルに達するツツジ科の常緑低木馬酔木あせびがゆっさゆっさと揺れる。

畦引あぜひきの前に田んぼが壊滅したら洒落にならん」

農夫がしゃがんだまま呟いた。

「アゼヒキ?」筒井が訊ねた。
「検地の際に畦の傍一尺を除いて測量し、その分の租税を減免することだよ」

大地の揺れがおさまらない。畦挽あぜびと呼ばれる鋸を使って民家の敷居や鴨居に溝をつけていた大工が梯子から落ちた。畑の境の目印としてアセビを植えた馬酔木境あせびぎりが次々に倒れる。落下した大工が腰に結わえつけておいた汗拭あせふで顔の汗をぬぐって畑を見つめた。

「こりゃてえへんだ。馬酔木あせぼが倒れる」

直後にアセビの大木が根こそぎ横倒しになった。褐色の男は汗疹あせぼが痒くてたまらず体中を爪で引っ掻いた。農夫は立ち上がり、大地が揺れるのもものともせず田植の仕事を続けた。

「おい、危ないぞ」筒井が見かねて声をかけた。
「なあに、心配無用だ。畔跨あぜまたには慣れっこだ」
「アゼマタギ?」
「稲作は田んぼ一枚終わるごとに一休みするのが習わしだが、休まずに仕事を続けることだ」

あせまみれになって苗を植える農夫の背後で仲間が畦道に大豆を植え始めた。地面がぐらぐら揺れ続け、畦道に亀裂が走った。

「あ」

仲間は亀裂に落ちて奈落に姿を消した。

「せっかくの畦豆あぜまめが」

農夫が悔しがった。

「大豆なんかどうでもいいだろ。早く安全な場所に避難しろ」

汗水あせみずたらして働く農夫に筒井が怒鳴った。農夫は汗水漬あせみずくになって苗を植え続けた。命あっての物種なのに汗水あせみずながにも程がある。

地の底から大音響がとどろいた。通りかかった荷馬車の馬が驚いて前脚を高く上げ、両股のあいだにある汗溝あせみぞから汗がしたたり落ちた。畦道あぜみちは寸断され、あせみどろになった農夫はさすがに命の危険を感じて筒井のそばにやって来た。褐色の男は相変わらず汗疹あせもに爪を立てて体中を引っ掻き回している。

「ほれ、シッカロールを塗れ」

農夫が小さな瓶を渡した。

「ありがたい。痒いところに手が届く人だな」
「水呑み百姓をあせらかしたって何も出ないぞ」

地の底で大爆発が起き、筒井はまたその場にへたりこんだ。どこかに逃げなくては――。あせがつのる一方で、どこに逃げたらいいか皆目見当がつかない。校倉が次々に倒壊した。

あぜりが倒れてはもうおしまいだ」

死を覚悟したのか、農夫は妙に穏やかな口調で言った。筒井は逃げ場を探してあせばかりで、しかし腰が抜けて動けず、顔色は見る見るうちにせた

アゼルバイジャンに行こう」

褐色の男が提案した。

「アゼルバイジャン? どうやって」
「すべての道はローマに通ずだ。さあ、早く」

褐色の男は民家の軒先に繋いであった馬を二頭奪ってまたがり、もう一頭に筒井がまたがった。

「ハイヨー、シルバー」

男が拍車をかけると馬は音速かと思われるスピードで野を駈け、山を越えた。

アゼルバイジャンは話せるのか」

併走しながら筒井が訊ねた。

「話せないけど、どうにかなるさ」

道端にアセローラの赤い実がなっている。途中で一休みしてあせ、川の水であせなが、日本海を船で渡ってユーラシア大陸をひたすら西へ向かった。大地の揺れはユーラシア大陸でも感じられた。地球は滅びるのではないか。筒井は思わずあせにぎった。走りづめの馬もあせんだ。視線の彼方にアゼルバイジャンとおぼしき都会が見えてきた。

「やったぞ、着いた」

褐色の男が叫んだ。筒井は都市の入口の看板を見て唖然あぜんとなった。

「おい、アセンズ(Athens)って書いてあるぞ」
「え?」
「アテネじゃないか」

二人はいつの間にかギリシャに到着した。

2016年5月18日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百三十七回

吾兄あせは何をなさりをれるや」

店の裏に広がる田んぼのあぜから褐色の肌をした女が現れた。

「うるさい、いま忙しいんだ」男が応えた。
「でもあぜが見当たらず難儀してをります」
「アゼってなんだ」
「機織り機の経糸たていとを上下に分け、緯糸よこいとを通す隙間を作る道具です」
「知るか」
あぜそのような言いぐさを」
「だから、いま忙しいんだよ」

男は汗膏あせあぶらを流しながら筒井と格闘を続けた。

「早くしないとアセアンの会議に遅刻してしまいますよ」
「しまった。忘れてた」
「アセアン? おまえ、東南アジア諸国連合の関係者なのか」筒井が驚いて訊ねた。
「見くびるな。俺は現代の亜聖あせいと呼ばれた男だ」
「アセイ? 小林亜星の親戚か」
「阿呆か。聖人に次ぐ賢人のことだ。古くは孟子を指した」
「兄上、綜糸あぜいとも見当たりません」
「放っておけ、そんなもの」
「そういうわけには参りません。会議にはお土産に畦織あぜおりを持参する約束です」
「うーむ。困った」

汗搔あせかの男は額の汗を手で拭い、畦に生えているカヤツリグサ科の一年草畔蚊屋吊あぜがやつりをむんずとつかんで引っこ抜き妹に手渡した。

「かわりにこれを持っていこう」

兄妹はアセアンの会議に出席するべく歩き出した。途端に男が校木あぜきにけつまずいて転んだ。

「いい気味だ、ざまあ見ろ」

筒井がはしゃいで手を叩いた。

「兄上、汗臭あせくさですよ」

男はあせぐむ額を手の甲でごしごし拭った。滝のように流れる汗が眼に入って前が見えない。校倉あぜくらにごつんと鼻先をぶつけた。

「いてぇ! なんでこんなところに校倉造あぜくらづくりがあるんだ。こんなもの燃やしてしまえ」

男がマッチを擦って火を放とうとすると田んぼで畦越あぜこ田植たうえをしていた農夫がすっ飛んできてマッチを叩き落とした。

「おめえさん、なんてことするだ! 火事になったらどうする」
「うるさい、俺は不機嫌なんだ」

褐色の男は顎の先から汗雫あせしずくをぽたぽた滴らせて言った。

「あんた、ひどい汗っかきだなあ。この汗襦袢あせじばんをやるから、着ていけ」

農夫は和服の下に着る汗取りの肌着を恵んでやった。男は褐色の肌に襦袢をまとった。生地はたちまち汗染あせじみた

「たまげたなあ。まるで水を含んだ海面だ。これを肌に濡れ」

農夫はシッカロールを手渡した。

「なんだこれは」
汗知あせしらずだ。この粉を肌につけると皮膚が乾燥して爽やかになるよ」
「ありがとう。このご恩は忘れない。アセアンでアセスメントの会議があるから、あなたのことを参加者に伝えるよ」
「アセスメントってなんだべ」
「自薦調査に基づいた評価のことだ。アセタール樹脂じゆしが環境にどのような影響を与えるかを調査しているのだ。ではさらば。額にあせして田植を続けなさい」

褐色の肌をした兄妹が立ち去り、農夫は田に戻って田植を再開しあせだくになった。田の向こうには綜竹あぜたけが密生している。

「つかぬ事を伺うが」

一部始終を茫然と見つめていた筒井のそばに豪奢な着物を着た男が着て呼びかけた。

「なんですか」
「わたしはご覧の通り按察使あぜちだが」
「ご覧の通りって……どなた? アゼチってなに?」
「奈良時代、諸国の行政を監察した役人である」
「お役人さんが何のご用で」
庵室あぜちを探しておるのだが」
「またアゼチ? 探してるってことは、どこかの場所か人ですか」
「江戸時代の奈良で手習所のことだ」
「ちょっと待ってくれ。奈良時代の役人が江戸時代に用があるなんて変だろ」
「お役目とあらばどんな時代にも出張する。それが立派な役人のつとめだ。――たしかこの辺に畔内あぜちがあると聞いたのだが」
「またアゼチかよ! なんだよ、アゼチって」
「北陸地方や岐阜県で分家のことだ」
「ここは北陸でも岐阜でもないぞ」
「ならばここはどこだ」

筒井は返答に窮した。言われてみれば自分がいまどこにいるのかわからない。悔しまぎれに筒井は話題を変えた。

「その畔内とかいう所に何の用があるんだ」
アセチルを不法に合成している悪党がいるという噂である」
「アセチル基? おまえ、さては詐欺師だな? 奈良時代にそんなものが存在したはずがない」
「たわけ者めが。アセチル基は酢酸から水酸基を取り除いた原子団だ。酢酸も水酸基も太古の昔から地球に存在している。ただ、それを指し示す言葉がなかっただけの話だ」

筒井はぐうの音も出なかった。

「さては貴様、化学に疎いな」
「ばれたか。俺は筒井康隆、小説家だ」
「文士か。化学に弱いのも道理だ。分子式C6H4COOHの意味も知らんだろう」
「ちくしょう……わからん」
アセチルサリチルさんだ」
「聞いたこともない」
「おまえはアスピリンを知らないのか」
「知ってるよ、馬鹿にするな」
「アセチルサリチル酸の医薬品名はアスピリンだ」
「そうなのか」
アセチルセルロースも貴様にはなんのことか見当がつくまい」
「くそー」

筒井は歯ぎしりした。

「セルロースの酢酸エステルだ。人造絹糸や不燃性フィルム、プラスチックなどに使う。アセチレンはどうだ」
「あー、なんか聞いたことがあるぞ」
「天然ガスや石油を高温で熱分解して作る。酸素と混ぜて鉄の切断や溶接に使う」
「ふーん」
「ふーんとはなんだ、ふーんとは。わざわざ講義してやっているのに」
「だって興味ないんだもん」
「文士のくせに向学心のない奴だな。どうせ三文文士だろ」
「余計なお世話だ」
「分子式CnH2n-2はなんだ」
「まるで見当がつかない」
アセチレン系炭化水素けいたんかすいそだ。アセチレン溶接ようせつは摂氏約三千度の高温の炎による溶接なんだぞ」
「それがどうした」
「それがどうした? 画期的な技術ではないか! 貴様は文明の恩恵をありがたく思わないのか。その靴下は見たところアセテートレーヨンだな」
「知らないよ」
「自分が身につけているものの素材にさえ無頓着とは嘆かわしい。分子式C6H5NHCOCH3はなんだ」
「理科の試験かよ!」
アセトアニリドだ。解熱剤や鎮静剤に使うんだぞ。分子式CH3CHOはなーんだ」
「降参です」
アセトアルデヒドだ。有機合成の材料として重要だ」

筒井は辟易した。話題を変えたい。キョロキョロあたりを見回すと田んぼの向こうに小さな御殿が見える。

「あんたが探してるのは、あの御殿じゃないのか」
「なに? ――おお、あれは汗殿あせどのではないか」
「なにそれ」
「伊勢の斎宮が月経時にこもった御殿だ」

2016年5月15日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百三十六回

「いきなり殴ることはないじゃないか」

筒井がぶつぶつ文句を言うのを尻目に女は琴を抱えて近くの四阿あずまやに引っこんだ。入口の左右に陶器を並べた棚があり、「吾妻焼あずまやき」と墨で書かれた白い紙がぶら下がっている。店の中を覗くと女と目が合った。女は「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。店主とおぼしき禿頭の男が筒井に訊ねた。

「何をさしあげましょう」
「いや、別に欲しいものはないんだが、吾妻焼というのは……?」
「へえ、旭焼あさひやきとも言いまして、京都府宇治市朝日山の名産です」

筒井は思い出した。連載百五回で朝比奈という男が朝日焼だと言って見せてくれた皿が Made in China だった。筒井は店内にうずたかく積まれた皿をひとつ手にとって裏返した。Made in Azumayasanと書いてある。

「Azumayasanって、どこ?」
四阿山あずまやさんは長野県北東部、群馬県との境にある山です」
「京都の名産っていうのは嘘っぱちか」
「言いがかりです。いまではどこでも作ってるんですよ。瀬戸物だってもとは愛知県瀬戸市の焼き物でしょう。でも全国各地で作ってます」
「なるほど」
「ごめん!」

突然褐色の肌をした異人が店に入ってきた。

「へい、いらっしゃい」
「歌舞伎座はどこだ」
「歌舞伎座? 芝居小屋ですか」
「そうだ。吾妻与次兵衛あずまよじべえを上演中のはずだ」
「あずまよじべえ?」

筒井が呟いた。

「タイトルですか」
「日本人のくせに知らないのか。大阪新町の遊女藤屋吾妻と山崎浄閑の息子与次兵衛が主人公の狂言だ」
「芝居小屋ならこの道の先に一軒ありますけど」

店主が遠くを指さした。

「このあたりでは見かけないお顔ですが――ご出身は?」
アスマラだ」
「アスマラ?」
「アフリカ北東部、エリトリア国の首都だ。イタリア風の町並で知られる」
「ずいぶん遠方からいらっしゃったんですね。わざわざ歌舞伎を見に?」
「まさか。人を探している。この手紙を渡したいのだ」

男は懐から手紙を取りだした。

東孺あずまわらわから預かった」
「アズマワラワ?」
内侍司ないしのつかさの女官だ。行幸のときに馬に乗ってお供をする役人だ」
「行幸って、天皇陛下ですよね」
「当たり前だ」
「エリトリアにも天皇がいるんですか」
「いるわけないだろ!」

男は呆れて声を荒げた。

「女官がたまたまエリトリアにお越しになったのだ」
「で、なぜ芝居小屋に?」
阿曇あずみが芝居を観に来ると聞いたからだ」
「アズミ? 人の名前ですか? それとも安曇野あずみの?」
「人名に決まってるだろ! 阿曇比邏夫あずみのひらぶだ」
「はて、聞いたことがない」
「古代の武人だ。西暦六六二年、新羅と唐とに攻められた百済を救うために水軍を率いて出征し、翌年白村江で東軍に敗れて帰国した」
「そんな大昔の人がいまの時代に生きているわけないだろ」

筒井が思わず口を挟んだ。

「いちゃもんをつける気か。貴様は何者だ」
「筒井康隆。小説家です」
「三文文士か。難癖をつけるとアスモデを招喚するぞ」
「アスモデってなんだ」
「ユダヤ教に伝わる悪魔だ。旧約聖書外伝トビア書を始め、スペインの劇作家ルイス・ベレス・デ・ゲバラの『びっこの悪魔』や、これを模倣したルサージュの悪者小説、モーリアックの戯曲などに登場する。文学者のくせに知らないのか」

褐色の男は阿修羅あすらのような恐ろしい形相で天を仰ぎ、両手を高く掲げて「来たれ、アスモデよ」と大声を発した。すると一天にわかにかき曇り、雷鳴が轟き、天地がひっくり返るような轟音が轟き渡って店の前にドスンと巨大な建物が天から落ちてきた。

「なんだ、これは」筒井が腰を抜かした。
アスレチッククラブだ」
「なんで?」
「貴様は見るからに運動不足だからだ。アスレチックスで体を鍛えろ」
「余計なお世話だ」
「逆らうのか。ならばアスロックで殺してやる」
「アスロックってなんだ」
「対潜水艦ミサイルだ。ロケットの先端にホーミング魚雷を装備し、艦艇から発射して潜水艦を攻撃する兵器だ」
「海でしか通用しないだろ。ここは陸地だぞ」
「あ、しまった!」
「馬鹿だな。けけけ」

筒井は鼻で笑った。

「赤っ恥をかかせた罰として、貴様をアスワンダムの底に沈めてやる」
「アスワンダム? エジプトだな。ナイル川までのこのこついて行くとでも思ってるのか。やれるものならやってみろ」
「減らず口をききおって。アスンシオンまでぶっ飛ばしてやる」
「アスンシオン?」
「南米パラグアイ共和国の首都だ」
「おもしろい。ぶっ飛ばしてもらおうじゃないか」

二人はあせだくになりながら組んずほぐれつして格闘した。

2016年5月11日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百三十五回

「これだから西国の人間は嫌いだよ」

そばで一部始終を見ていた女が江戸っ子らしい東声あずまごえを響かせて言った。女は着物の上にコートを羽織っている。

「素敵なお召し物ですね」
「安物のあずまコートよ」
「東コートって言うんですか」
「おまえは東コートも知らないのか。明治の中頃に流行した女の和装用コートだ」

家老が横から口を挟んだ。女は地べたに正坐して東琴あずまごとを爪弾きながら、東路あずまじを下る人間にろくな者はいないと断言した。

「いやあ、あずましいなあ」

通りかかった職人風の男が琴の音を聞いて津軽弁で愉快そうに言った。女は褒められて機嫌がよくなり、在原業平を気取った東下りの男が吉原の遊女との後朝きぬぎぬの別れを惜しんで舞いを舞う様子を描いた箏曲の吾妻獅子あずまじしを奏でた。

「ん? なんの曲だ? ひょっとして吾妻浄瑠璃あずまじようるりだべか」
「違いますよ、おほほ」

吾妻育あずまそだの女は片手を口にあて楚々として笑った。

「さすがあずまは上品だなあ。おらみてえな田舎者とは大違いだ」
「たしかにええ女子おなごや。おい、わしの女になれ」

家老が出し抜けに女を口説き始めた。

「いやなこった」
「まあそう言わんで。ほら、この東綴あずまつづをやるから」

家老は手荷物から女物の帯地を取りだして見せた。

「栃木県足利市の名産や。きっと似合う。遠慮せんでええから受けとれ」
「ふん、そんなものに目が眩むとでも思ってるのかい。東人あずまどを馬鹿にすると承知しないよ」

女は終始一貫東訛あずまなまりのきつい言葉を投げつける。家老は女の鼻っ柱が強いのがたまらなく魅力的に見えるらしく、まるで吾妻錦絵あずまにしきえに描かれた美人画を眺めるように鼻の下を伸ばしながら、道端に生えた野生の東根笹あずまねざさを引っこ抜いてはパンダのように笹を食う。

「てえへんだ、てえへんだ」

時代劇から飛び出してきたような若者が大声を出して走ってきた。

「どうした」職人が尋ねた。
吾妻橋あずまばしで身投げだ。心中だよ」
「なに、心中? こうしちゃいられねえ」

職人は着物の裾をサッとまくって東端折あずまばしよにしたかと思うと一目散に駈け出した。

「男ってのはどうしてすぐ野次馬根性を出すのかねえ」

女は長唄の吾妻八景あずまはつけいを歌いつつ、物見高い東人あずまびとに呆れて溜息をついた。

「ところでおまえさん、商売はなんだい。東百官あずまひやつかんかい」

筒井は思いがけず女に話しかけられてまごついた。

「小説家です。――東百官ってなんですか」
「関東の武士が京都の朝廷の官名を真似して名乗った職名だよ。多門とか左膳とか」
「そんな立派な身分じゃありません」
「小説家なら芸事には詳しいんだろ? あそこで東舞あずままいをやってるけど、もう見たかい」
「アズママイ?」
東遊あずまあそびさ」
「あ、はいはい、さっき見物しました」
「おまえさん、見たこともない格好してるけど、旅でもしてるのかい」
「そうなんです」
「じゃあ、いい物をあげる。お守りだよ」

女は懐から守り袋を取りだした。輪を左右に出して中を三巻きにした東結あずまむすで口のところを紐で結んである。気位の高い京都の女とは違って東女あずまめは気さくだ。筒井はありがたくお守りを頂戴した。

「この本もあげる」

女は表紙に吾妻問答あずまもんどうと書いた本を一冊手渡した。

「なんの本」
「室町時代の連歌書だよ」
「助かります。金に困ったらブックオフに売れる」
「なんだって? こんな貴重な本を売るつもりかい? この罰当たり!」

女は筒井の横っ面を思いきりひっぱたいた。

2016年5月1日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百三十四回

絵に描いたような平安貴族が六人、高麗笛こまぶえ篳篥ひちりき和琴わごんを奏で、笏拍子しやくびようしを打ち鳴らして唄を歌い舞い踊っている。東遊あずまあそびだ。そばに見物人の男が五六人、これまた手拍子を打って歌い踊っているが、言葉に北関東あたりの訛りがある。恐らく万葉集第十四巻や古今和歌集第二十巻の東歌あずまうたに詠まれた東人あずまうどであろう。京都の人は東国の人を東夷あずまえびすと呼んで蔑んだらしいが、むかしから東男あずまおとこに京女の諺があるとおり、気っぷの良さは江戸の男に限る。

よく見ると男だけでなく女も踊っている。

「あの女たちは……?」

筒井は足下にうずくまったまま悲嘆に暮れている男に尋ねた。

あずまをどりだよ」
「東をどり?」
「東京新橋の芸妓組合が毎年春に新橋演舞場で催す舞踊公演だ。大正十四年に始まった」
「でもいまは平安時代でしょう?」
「何を寝ぼけているのだ。あいつらは映画のエキストラだ」

映画の撮影現場か。本物の東男あずまおのこ東女あずまおみなだとばかり思ったぞ。

「じゃあ、着物の裾をからげて帯にはさんでるあの人も……?」
「あの東折あずまおの男か。エキストラだよ」

俺は二十世紀の日本に戻ってきたのか。

「君はさっきから暇そうだな」
「ええ、暇というわけでもないんですが、特に用事はありません」
「ではすまないが、これを運ぶのを手伝ってくれ」

男は傍らに積んである本の山を指さした。筒井が数えると全部で五十二冊ある。

「なんの本ですか」
吾妻鏡あずまかがみだ」
「アズマカガミ?」
「鎌倉時代の後期に成立した歴史書だ。鎌倉幕府の事跡を変体漢文を使った日記形式で記したもので、源頼政の挙兵から前将軍宗尊親王の帰京に至るまでの八十七年間を克明に記録した重要史料だ」
「どこに運ぶんですか」
「ブックオフ」
「売るの? 売っちゃうの? こんな歴史的な文献を?」
「しょうがないだろ。手許不如意なんだ。背に腹はかえられぬ」
「だからってブックオフに売り飛ばすなんて。国宝級でしょう」

着物の裾を帯に挟んだ東絡あずまからの小男が脇からひょいと顔を出して第三巻をくすね、そのまますたこらさっさと走り去った。

「あ! おい、待て。この東烏あずまがらすめ」

男は小男のほうへ腕を伸ばしたが、足腰が弱っているのか、あるいは女と別れた悲しみに暮れるあまり体に力が入らないのか、ただ腕を伸ばすだけで立ち上がろうともしない。

「全巻揃ってないとブックオフでは買い取ってくれない。――君、追いかけてくれ」

筒井はしかたなく走り出した。群衆のあいだを掻き分けて走る小男が何やら甲高い声で叫んでいるのが東雁あずまかりの鳴き声に聞こえる。筒井は猛スピードで駈け出した。すると大きな体の男にぶつかった。

「こら! 無礼者!」
「あ、すいません」
「すいませんですむなら警察は要らん。わしを誰と心得る」
「さあ」
「さあ? 我こそは東家老あずまがろうだ」
「画廊の経営者ですか」
「馬鹿者! 西国大名の江戸詰の家老だ」
「あなたもエキストラですか」
「エキストラ? なんの話だ。わしは東艦あずまかんの点検に来たのだ」
「なんですか、アズマカンって」
「おまえはそれでも日本人か。慶応三年江戸幕府がアメリカから買い入れたフランス製の軍艦に決まっておる」

道端に高さ二十センチくらいのキク科の多年草東菊あずまぎくが咲き誇っている。

「西国出身ですか。いわゆる東下あずまくだってやつですね」
「やつとはなんだ、やつとは!」

家老は懐から婦人物の東下駄あずまげたを取りだして筒井の頭をひっぱたいた。

2016年4月28日


義捐金

熊本地震で被災した人たちへの一助となるよう、Yahoo!基金が支援金を募集中です。本日19時44分現在、寄付金の総額は3億3951万2761円に達しました。ほかにもさまざまな団体が同様の趣旨で募金を集めておりますので、すでに寄付済みのかたも多いでしょうが、「まだだよ」というかたはぜひ。

2016年4月19日


天災は忘れる暇もなくやってくる

熊本地震の被害に遭ったかたがたに心からお見舞い申し上げます。現地は予報どおり雨が降り始めたそうで、天の仕打ちはあまりにもむごい。どうかひとりでも多くの人が救われますように。救援作業に励む人たちに感謝。活断層だらけの日本列島はいつどこで大地震が起きても不思議ではありません。あすは我が身。

2016年4月16日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百三十三回

筒井の腹が鳴った。

「腹が減ってるのか」
「ええ」
「これを食べなさい」

ウィリアムはジャケットの内ポケットから茹でたアスパラガスを取りだして筒井に渡した。

「いつもポケットに入れてるんですか」
「まさか。さっき道端で拾ったんだ。アスパラギンアスパラギンさんをたっぷり含んでいるから体にいいぞ」

筒井はアスパラガスをむしゃむしゃ食った。

「君は何をしにアステカに来たんだ」
「アシュアリーのもとでイスラム神学の修行を積むはずが、なぜかここに」
「イスラム神学ならアズハル大学だいがくがお勧めだ」
「場所は?」
「カイロだ。イスラム最古の最高学府だよ。西暦970年に設立されたモスクから発展した。エジプトだけでなく全イスラム世界から留学生が集まる」

ウィリアムは説明しながらアスパラガスに白い粉をふりかけて食べた。

「なんですか、それ」
アスパルテーム。人工甘味料だよ。アスパラギン酸とフェニルアラニンの二つのアミノ酸が結合した構造で、甘さは砂糖の二百倍だ」
「いつも持ち歩いてるんですか」
「なわけないだろ。さっきあそこの家の女にもらったんだ」

突然アスパラガスが爆発してウィリアムの頭が吹っ飛んだ。首から上を失ったウィリアムの体がばたりと地面に倒れた。白い粉は甘味料ではなく爆薬だった。筒井は怖気をふるった。明日あすだ。死体の首からアスピーテすなわち楯状火山の溶岩のようにどす黒い血がどくどく流れている。どてっ腹にも穴が空き、肉や魚の出し汁にゼラチンを加えて作るアスピックのように透明な体液がゼリー状になってあたりに飛び散っている。

筒井は頭が痛くなった。アスピリンが欲しい。しかしここは古代アステカ、どこで頭痛薬を手に入れればいいのか。ふと道の向こうを見ると地面にチョークで絵を描いてあす七八歳の少女がいる。筒井は藁にもすがる思いで駆け寄った。地面はアスファルトで固められ、歩道もアスファルト・コンクリートで覆われている。古代文明なのにまるでアスファルト・ジャングルだ。沿道の民家も屋根にアスファルト防水ぼうすいが施され、この時代に早くもアスファルト・ルーフィングの技術が発展していることに筒井は驚いた。

「お嬢ちゃん」
「なあに」
「頭痛薬を持っていないか」
「ないよ」
「頭が痛くてたまらないんだ」
アスペクトを変えれば治るよ」
アスベスト?」
「それは石綿でしょ。違うよ、アスペクトだよ」
「なんだい、アスペクトって」
「局面とか様相とか状況のことだよ」
「ずいぶん難しいことを知ってるんだね」
「おじいちゃんが教えてくれた」
「アスペクトを変えると頭痛が治るのか」
「うん。自分がいる状況を変えてしまえばどんな病気も治るよ」
「そうか。で、どうやったら変えられるの」
「おまじないを唱える」
「どんな」
「ちちんぷいぷい御世ごよ御宝おたから、だよ。痛いところをさすりながら唱えるの」
「そうか。ありがとう」

筒井は礼を述べ、頭を両手でさすりながらまじないを唱えた。

「ちちんぷいぷい御世の御宝!」

少女の動きがぴたりと止まった。風にそよいでいた木々の葉も動かなくなった。まわりを見渡すと眼に映るものすべてが写真のような静止画になった。目を凝らしてみると周囲の風景は鏡に映った像だった。恐る恐る鏡面に手を伸ばすと指先が鏡に触れるはずなのにまるで水面のように指先が鏡の向こうにすっと入りこんだ。筒井はそのままずんずん鏡の向こうに入っていった。鏡を通り抜けると足下に男がうずくまり、「吾妻あずま、吾妻よ」と悲しげに呼んでいる。

「あの、おとりこみ中すみません……ここはどこですか」
あずまだ」
「アズマ?」
日本武尊やまとたけるのみことが東方の敵を征伐した帰りに碓日嶺うすひのみねから東南を眺めて妃弟橘媛おとたちばなひめの身投げを悲しみ、『あずまはや』と嘆いたことに由来する日本の東部地方だ」

俺は日本に戻ったのだ。アスペクトが変わったのだ。筒井は欣喜雀躍した。

2016年4月13日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百三十二回

人家の入口にことごとく「*」のマークが刻まれてある。アステリスクにどんな意味があるのだろう。不可解だ。不可解といえば大きな弧を描いて空を飛んできたが、飛んでいる最中に体が何度も小さく回転したのが奇妙だった。半径aの円の内周に沿って半径a/4の小円が滑らずに転がるとき、小円上の一点(P)が描く曲線をたしかアステロイドと呼ぶはずだ。軌道は直交座標によりx2/3+y2/3=a2/3で示される。俺はきわめて数学的な軌跡を描いて中米に来たのではないか。奇跡と言っていい。こんな奇跡が起きたからにはグアテマラの小説家ミゲル・アンヘル・アストゥリアスに会えるかも知れない。代表作『大統領閣下』は俺の愛読書だ。会いたい! 是が非でも会いたい!

「うるさいよ! 赤ん坊が寝られないじゃないか」

民家から女が出てきて怒鳴りつけた。女は動物の毛皮を身にまとっている。

「ごめんなさい」
「でかい声で独り言を言うのは気狂いだ」
「気狂いではありません。すてきなお召し物ですね。なんの毛皮ですか」
アストラカンに決まってるだろ」
「え?」
アストラハン地方の名産、カラクール種の子羊だ」
「アストラハンってどこですか」
「ロシア連邦の西、カスピ海から十キロくらい上流のヴォルガ川三角州にある都市だ」
「カスピ海ならついこのあいだ行きました。連載百十二回で」
「連載? 百十二回? なんの話だい」
「あ、いえ、わたしは小説の登場人物で、世界各地を冒険してる最中でして……」
「やっぱり気狂いだね。とっととお帰り」

女は収斂性の化粧水アストリンゼンを顔に塗りながら家に入って扉に鍵をかけた。扉の横に胴でできた円盤がある。周囲は時計のように目盛りが刻まれ、太い針が回転する仕組みだ。中世天文学で最も重要な天文観測器械アストロラーベだった。古代アステカ文明にこんな精巧な機械があったとは。歴史を書き換える大発見だ。筒井は嬉しくてぴょんぴょん小躍りした。

「何をはしゃいでいる」

突然男が声をかけた。

「あなたは……?」
「ウィリアム・ジョージ・アストンだ」
「アストン?」
「イギリス生まれの外交官で日本学者だ。元治元年駐日公使館通訳として日本に行き、明治二十二年帰国して日本文化を研究した。日本書紀を英訳し、『日本文化史』『日本語文法』『神道』などの著書がある」
「アストンさんはなぜアステカに」
「ウィリアムと呼んでくれ」
「え?」
「ファーストネームで呼んでくれ。ファミリーネームだと物理学者フランシス・ウィリアム・アストンと誤解されてしまう。同じイギリス人だがあいつは質量分析器を考案した物理学者で、同位元素を発見してノーベル賞を受賞した。ただし東洋の文化にはなんの興味もない、了見の狭い男だ。――ところで君はこの木の由来を知っているか」

ウィリアムは道の両側の並木を指さした。

「これは……翌檜あすなろかな」
「そうだ。なぜ『あすなろ』と呼ぶかご存じか」
「わかりません」
「『明日はヒノキになろう』という意味だ」
「言われてみれば葉っぱがヒノキに似てますね。――さっきの質問に戻りますが、なぜアステカに?」
「わからんのだ。気がついたらここに来ていた」
「わたしもです。これからどうするんですか」
明日あすことえばおにわら。あすなろの別名を知ってるか」
「いいえ」
明日あすひのきだ」
「あすなろの話はもういいです。これからどうするか考えましょう」
「この世は変わりやすく明日はどうなるかわからない。明日あす淵瀬ふちせと言うではないか」

2016年4月12日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百三十一回

アスクレピオスは天界から地上に舞い降り、筒井の眼の前に立った。

「杖に触ってもいいですか」
「どうする気だ」
「いつか実物に触ってみたいなあと思いまして」
「よかろう。ただし一時あずだぞ。あとでちゃんと返せ」

神が筒井に杖を手渡すと、餅を食っていた男がそばに来て耳打ちした。

「おい、儲け話に一口乗らないか」
「え?」
「その杖を売れば大金が手に入る」

アスクレピオスの眼がぎらりと光り、男を睨みつけた。

「何を企んでおる」
「あ、いえ、何も」
「噓をつけ。おまえの魂胆は見え透いている。預合あずけあいするつもりだろう」
「預合? なんの話かわかりませんが」
「株式会社の発起人が銀行または信託会社と結託して株金の払込みを行なわないのに行なったように装うことだ。商法によって禁じられている」
「お言葉ですが、痛くもない腹を探られては黙ってるわけにはいかない。わたしは株式会社の発起人なんかじゃありません。銀行には預金をあずれるだけのごく普通の預金者です」
「こいつは悪党です」

筒井が口を挟んだ。

「神様、聞いて下さい。この男はわたしの財布を没収したんです」
「嘘だ」
「数百億円の借金、つまりあずがねがあるのは本当ですが、この男は信じてくれず、財布を無理やり取り上げた上にあずじようを眼の前でビリビリ破り捨てました」
「根も葉もないことを言うな。わたしは預地あずけちに用があるから、これにて失礼」
「逃げるな!」
「二人とも黙れ」

神の鶴の一声に筒井と男はびっくりして息を呑んだ。

「神をたぶらかすとは言語道断。裁判にかけてやる。どのような判決を下すかについてはあの裁判官にあずける
「裁判官?」
彼所あすこアスコットタイを締めた男がいるだろう」

見るとたしかにスカーフ風に結んだ幅広のネクタイを締めた男が立っている。アスクレピオスは筒井から杖を奪い返して天高く飛び去った。

「では裁判を始める。――二人とも死刑」

アスコットタイの男が宣告した。

「ちょっと待て。二人とも被告なのか。じゃあ原告は誰だ。しかも死刑って、ひどすぎるじゃないか」

筒井が口を尖らせて抗議した。

「不満があるなら袖の下を使え」
「袖の下……賄賂か。何が欲しい」
アスコルビンさんをくれたら無罪放免にしてやる」
「アスコルビン酸?」
「ビタミンCだ」
「サプリメントなんか持ってるわけないだろ」
「ならば死刑だ」
「あーごめんなさい! 探します。探しますから、ちょっと待って下さい」

筒井はあたりをキョロキョロ見回した。ノウゼンカズラ科の落葉高木あずさが茂っているのを摘まみ取って差し出した。

「どうぞ」
「梓は利尿剤の原料だ。そんなものは要らぬ」
「ごめんなさい! じゃあ長野県の梓川あずさがわに行く許可を下さい。必ずビタミンCを手に入れます」
「必ずだな。嘘を申すとためにならんぞ」
「約束します」
「ではこれを持っていけ」

裁判官はあずさちりばめて表紙に「罪人言行録」と書いた本をこしらえ筒井に渡した。

「ではさっそく行ってきますが、交通手段は……」
「心配するな。梓巫あずさみこが万事整えてくれる」

裁判官が目配せすると背後から梓弓あずさゆみを持った女が現れ、弓を筒井の袖に突き刺して満月のように引き絞って放つと筒井は矢に乗って大空高く飛んだ。上空から地上を見下ろすとキク科ノコンギク属のアスターが生い茂っているが、葉の色が褪せているのは放射性元素のアスタチンによる汚染のせいではないかと思われた。弓を射るときは的の背後に土を山形に築いてあずちを設けるのが慣わしだが、なにしろ弓は天に向かって放たれたから筒井の体は弧を描いて大空を飛んでいった。空を切りながら筒井は我が身を呪った。なんの因果で空を飛ぶ羽目になったのか。俺はゆっくり朝寝がしたい。上が狭く底が広い垜の形に似た台の上に小さな括り枕を乗せた垜枕あずちまくらで眠りたい。地上には屋根の上を平にして土を乗せた垜門あずちもん垜屋あずちやが見える。筒井の体は大きな弧を描いて大地に落下した。そこは十四世紀メキシコ盆地のアステカ王国だった。

2016年4月11日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百三十回

男は妙に高飛車で筒井はだんだん腹が立ってきた。

「あとでちゃんと返してくれるんだろうね」
「ん? なんの話だ」
「だから、俺の財布」
「財布? あずからぬ
「いま没収したじゃないか」
あずかした覚えはない。さてと、わしは預地あずかりちに用があるから、これにてご免」
「ふざけるな! ここにあずか手形てがたがある」

筒井は証文をひらひらかざした。男は証文を奪い、びりびり破った。

「あ! 何をする」
「これで証拠は消えた。文句があるなら預所あずかりどころに言え」
「アズカリドコロってなんだ」
「領主の代理として荘園を管理する役人だ」
「でも、俺の財布のあずかにんはおまえだろ」
「なんの話だか」
「おまえがあずかぬしだろ。財布を取り上げたじゃないか」
「しつこいぞ、このあずか百姓びやくしようめ」
「俺は百姓ではない。小説家だ」
「三文文士か」
あずかまえは必ず返してもらうぞ」
「戯作者の相手をする暇はない。これから天皇陛下に意見をあずかもう。では失礼」
「こら! あずかものを私物化するとは卑怯だぞ」
「しつこい男だな。これをくれてやる」

男は自分の専用として風呂屋に預けておくあずか浴衣ゆかたを投げつけた。

「浴衣なんかでごまかすな。財布を返せ」
「わたしのあずかところではない。これ以上騒ぐと貴様の命をあずかるぞ」

男は刀を抜いた。

「待て、早まるな。――わかった。じゃあ財布の代わりになるものをくれ」
「これをやる」

男は小豆あずきが詰まった袋を手渡した。

「小豆なんて二束三文じゃないか」
小豆あずきアイスを作れば高く売れるぞ」
「アイス? 飛鳥時代にアイスクリームがあるのか」
「馬鹿にするな。アスキーだってあるぞ」
「アスキー?」
「アメリカ情報交換用標準コード、わかりやすく言えばデータ通信のための符号体系。コンピュータで文字を扱う際の標準コードだ」

男は小豆色あずきいろの瞳を輝かせて自慢げに語り、小豆織あずきおりの着物の裾をポンポンとはたいて道端の民家に赴き、兎などの害を防ぐために敷地のまわりに小豆を植えた小豆垣あずきがきにもたれかかって小豆粥あずきがゆを食べ始めた。男の足下を見ると飛鳥時代のくせにオランダ渡来の小豆革あずきがわの靴を履いている。着物のデザインは赤と藍の格子縞の小豆縞あずきじまで、遠くから見るとイギリスの政治家で自由党総裁をつとめたアスキスを髣髴させる。男の様子を眺める筒井の首筋に虫が這った。手で払いのけるとそれはマメゾウムシ科の甲虫小豆象虫あずきぞうむしだった。民家の庭には高さ八メートルはあろうかと思われるバラ科の落葉高木小豆梨あずきなしが聳えている。

「粥に梅干しもなければ漬物もないとは味気ない、いとあずきなし

男が呟いた。民家から小豆鼠あずきねずみの着物を着た女が外に出てきた。顔のまわりに小豆虫あずきむしがたかるのを手で追い払いながら「ひとつ召し上がりませんか」と男に小豆飯あずきめしを振る舞った。

小豆餅あずきもちもございます。お口に合いますかどうか」
「これはかたじけない。頂戴つかまつる」

男は粥の入った茶碗を女にあずが早いか、小豆飯と餅をむしゃむしゃ食った。

「そちらの旦那さんも、よろしかったらどうぞ」

女は筒井に声をかけた。空腹だった筒井は言葉に甘えて相伴に預かった。突然空に稲光が走り、白い服を着た神が天高く現れて筒井に言った。

「おまえはいったい何をしているのか」
「あなたは……?」
アスクレピオスだ」
「アスクレピオス……どなた?」
「神に向かって『どなた』という奴があるか。ギリシア神話の医術の神。アポロンの息子である」

神は蛇が巻きついた杖をついている。

「あ、その杖なら見たことがあります。たしか医術のシンボル」
「ほほう、三文文士にしては学があるな。これぞ正真正銘アスクレピオスのつえである」

2016年4月9日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百二十九回

由緒があるかどうかは知らないが、梁山泊のような巣窟ではあるまいなと筒井はいぶかった。

「飛鳥井雅親は書道の飛鳥井流あすかいりゆうの祖だ。よい機会だから書道も習いなさい」
「わかりました。でもどうやって飛鳥へ」
「風に乗って行け」

一陣の風がさっと吹いたかと思うと筒井の体がふわりと天高く浮かび、気流に乗った。これが飛鳥地方に吹くという噂の明日香風あすかかぜか。渡り鳥のように風に乗って上空から見下ろすと飛鳥川あすかがわが見えてきた。風は地上に向かって吹き下ろし、ふわりと着地するとそこは飛鳥京あすかきようの真ん中だった。

飛鳥浄御原律令あすかきよみはらりつりようの編纂はまだ終わらぬか」

豪華な着物で着飾った男が部下らしき男を叱りつけている。

「一所懸命作業に励んでおります」
「早く完成させなさい」
「かしこまりました」

平身低頭する部下に筒井が訊ねた。

「あの、すいません。いま怒鳴っていたのはどなたですか」
「言うまでもない、天武天皇陛下であらせられる。」
「いまは何時代ですか」
「そなたは寝ぼけているのか。飛鳥時代あすかじだいだ」
「本当ですか」
「嘘だと思うならあれを見ろ」

男は明日香村の安居院あんごいんを指さした。

飛鳥大仏あすかだいぶつの建造の真っ最中である」
「なるほど。――じつはお願いがあるのですが」

筒井は男を頼ることにした。天皇の家臣ならあずかってちからがあるに違いない。

「飛鳥井さんという人の家を訪ねたいのですが」
「おお、それなら飛鳥寺あすかでらの裏手だ。寺の伽藍は塔を中心に三つの金堂を配置した飛鳥寺式あすかでらしきで、近くには飛鳥板蓋宮あすかのいたぶきのみやがある」
「お屋敷ですか」
「皇極斉明天皇の皇居だ。舒明斉明両天皇の皇居である飛鳥岡本宮あすかのおかもとのみやもあるぞ。斉明天皇の皇居飛鳥川原宮あすかのかわらのみやもあるし、天武持統両天皇の皇居飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやもある」
「皇居だらけなんですね」
「石を投げれば皇居に当たる。皇居銀座と呼ばれておる」
「さすがは飛鳥京あすかきようだ」
「なにしろ世界に誇る飛鳥文化あすかぶんかの中心地だからな、はっはっは。――で、そなたは飛鳥部あすかべさんの家に行くのだな」
「いいえ、飛鳥井あすかいさんです」
「ん? たしか飛鳥部常則あすかべのつねのりと申したはず」
「言ってません。そんな人知らないし」
「そんな人とは何事だ! 平安中期、村上天皇の宮廷の絵師をつとめた御仁だぞ。貴様のような不届き者は飛鳥山あすかやまがお似合いだ」
「飛鳥山って東京都北区王子の桜の名所じゃありませんか。近くに東京外国語大学のキャンパスがある」
「たわけ者めが! 外語大のキャンパスはとっくの昔に府中に移転したぞ。そんなことも知らないのか。貴様、本当に日本人か」
「日本人です。名前は筒井康隆。小説家です」
「小説家? 戯作者か。うさん臭い奴め。身分証を見せろ」
「身分証? これしかありませんが」

筒井は財布から運転免許証を取りだして渡した。

「どれどれ。――運転免許証? なんだこれは。意味がさっぱりわからぬ。あとでゆっくり調べることにする。ひとまずこれはあずかりとさせてもらう」
「困ります。返して下さい」
「ならぬ。財布を見せろ」
「見せてもいいですけど、中身は空っぽですよ」
「無一文か。さては借金まみれだな」
「お恥ずかしい」
あずがねはいくらだ」
「え?」
「借金はいくらだ」

筒井は頭の中でざっと計算した。冒険を初めて以来、世界各地で何億ドルもの借金をしてきた。日本円に換算したらいくらになるだろう。

あずきんはいくらだ。申してみろ」
「正確な金額はわかりませんが、数百億円に達すると思います」
「数百億? 円? そんな通貨はこの世に存在しない。貴様は嘘吐きだ。この財布は預所あずかりしよで没収するから、この預り証に判を押せ」
「ハンコは持ってません」
「ならば血判でも構わぬ」

筒井はしかたなく右の親指の腹に歯を突き刺して血を滲ませ、あずか証券しようけんに捺印した。

「このあずか証文しようもんは控えだ。紛失しないよう注意しろ」

2016年4月8日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百二十八回

遊女屋は玄関の左が広く右が狭いアシンメトリーな造りで、二階からどんちゃん騒ぎの音がひっきりなしに聞こえてくる。女将が来て筒井に声をかけた。

「お客さん、いいが揃ってますよ。どの娘がいいですか」
「遊びに来たわけじゃないんだ。すまないがちょっとここで休ませてくれ」
「あらそう。別にいいけど、明日あすまで居続けたりしちゃダメよ」
「うん。人捜しをしてるだけだ」
「どなた」
「言ってもわからないと思うけど。アシュヴァゴーシャっていう人」
「あら、二階にいるわよ」
「え!」
「ちょっと待ってね。――アシュヴァゴーシャさーん、お友だちですよー」

女将が手をポンポンと打って二階に声をかけた。

「なんだよ、せっかく盛り上がってきたところなのに」

白髪の老人が広い階段を下りてきた。筒井は腰を抜かした。まさかインドの仏教詩人が遊郭で遊んでいるとは。川の水が涸れてように、筒井は詩人への尊敬の念が消えた。しかし一流の人間は何事にせよ奥義を究めるものである。俗欲をとことん追求して突き抜けた先に聖なるものが現れるのではないか。そうに違いない。筒井はアシュヴァゴーシャを敬う気持ちで心をした

「君は筒井康隆だね」
「はい」
「阿闍梨から話は聞いてるよ。来るのを待ってた」
「女郎屋でですか」

アシュヴァゴーシャは酒を飲み過ぎて気分が悪くなったのか、顔色がて青くなった。

「大丈夫ですか」
「ああ。先ほど近くの崩岸あずで転んで頭をぶつけてしまったものでな」
「アズ?」
「崖の崩れたところだ。ところで君はアシュアリーのもとでイスラム神学の修行を積みたいそうだな」
「ええ、どうしてもっていうわけではないんですが、なぜか行きがかり上、そういうことになりまして」
「ではアシュアリーを紹介してあげよう」
「ありがとうございます」
明日明後日あすあさつてには会えると思うよ。とりあえず飛鳥あすかに行きなさい」
「アスカ?」
「知らないとは言わせないぞ。日本人だろ」
「まさか、奈良の……」
「もちろんだよ。飛鳥に着いたら飛鳥井あすかいさんを訪ねなさい」
「アシュアリーに会いたいんですが」
「飛鳥井さんの家に居候してるんだよ」
「なんだかすごく意外です。偉大なイスラム神学者が居候なんて」
「事実なんだからしょうがないじゃないか。家には男が四人住んでいる。まず飛鳥井雅有あすかいまさあり
「どういう人ですか」
「鎌倉末期の歌人だ。二人目は飛鳥井雅親あすかいまさちか。室町中期の歌人で書家だ。三人目は飛鳥井雅経あすかいまさつね。鎌倉初期の歌人だ。四人目は飛鳥井雅世あすかいまさよ。室町中期の歌人だ」
「時代がバラバラですね」
「いろんな時代から有名人が集まる、由緒あるお屋敷なのだ」

2016年4月7日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百二十七回

「では失礼」

足代弘訓は別れを告げて孫と一緒に去った。筒井を乗せたおんぼろ馬車はがたごとと橋を渡った。川の対岸は葦若あしわかが青々と茂った草原で、馬車は葦分あしわけしながら進んだ。川には葦別小舟あしわけおぶねが一艘、生い茂った葦の中を漕ぎわけている。

「おじさん、見て」

道端で少女が手を使わず足で鞠をついている。まるでサッカー選手のような足業あしわざだ。草原は葦綿あしわたがそよ風になびき、葦原あしわら全体が海原のように揺れている。

ところで俺は何をしに来たんだっけ。そうだ、アシュヴァゴーシャに会うのだ。ここに来ればアシュヴァゴーシャが俺をアシュアリーに紹介してくれるはずなのだ。そしてイスラム神学の修行を積むのだ。阿闍梨はたしかにそう言った。でも、どこにもいないじゃないか。このままあしげてべきか。せっかく修行しようと思ったのに。しがない小説家稼業からあしあらって、深遠なイスラム神学の世界にあしれたい

少女が鞠を思いきり強く蹴り上げると馬車の馬の脳天にぶつかり、当たり所が悪かったのか、馬は気を失ってばたりと横倒れになった。なんてこった、あしうばわれてしまった。しかたがない、あしかぎりにに歩こう。

筒井が歩き始めると、葦の陰でこそこそとあしかさねてそばだてて男がいる。わらじの鼻緒にあしわれたのか、しきりに足下を気にしているが、ニヤニヤ笑っている顔が無気味だ。

「誰だ、そこにいるのは」

筒井が呼びかけた。男は不審がられるのが面白くてたまらないらしく、あじめて葦の茂みから顔を覗かせては引っこめる。

「用があるなら出てこい」

筒井は苛立って茂みの奥へずんずん分け入った。すると背後に別の男が近づいてきたかと思うと筒井のズボンのポケットにさっと手を入れてスマートフォンを奪い取った。

「あ!」

油断した筒井はあしをすくわれた。男は脱兎の勢いで逃げた。筒井はあし擂粉木すりこぎにして追いかけた。スマートフォンがないと稲垣に連絡がとれない。あしそら慌てふためいて駆け回ると、葦の茂みがごそごそ動いている。そこにいたか。あししたな。隠れても無駄だぞ。男は茂みから顔を出した。

「すみません、ほんの出来心です。お返しします」

男は神妙な顔をしてスマートフォンを持った手を高く上げ、「お詫びのしるしに一杯どうですか」と、腰に提げた瓢箪の酒を勧めた。こいつ、酒で俺とあしける気だな。その手は桑名の焼き蛤だ。筒井は男に忍び寄った。すると泥沼にあしられて身動きがとれなくなった。男はこれ幸いとあしいて駈け出した。筒井はぬかるみから這い出てあしばし、再びあしをはかりに追跡した。あしはこんだ先は遊郭で、「ちょいとお兄さん、遊んでかない」と女郎が筒井の腕をとって店に引きずりこもうとする。

「やめろ、あしな」

筒井は女と格闘した。天高くあしをふくむかりが一羽飛んでいる。

「俺は人捜しをしてるんだ。スマートフォンを持った男だ」
「あら、その人ならうちに来てるわよ」
「本当か」

筒井は女郎屋にあしれた。一階と二階をあしぼうにして捜したが男の姿はどこにもなかった。茫然として表に出ると、先ほど足業で鞠を操っていた少女が店の前に立っている。

「おじさん、これ。落とし物だよ」

少女がスマートフォンを手渡した。

「おお、探してたんだ。ありがとう。お嬢ちゃんの家にはあしけてられないよ」

安堵の溜息をついた筒井は再び女郎屋に入り、上がり框に腰を下ろしてあしやすめた

「電池が切れそうだったから充電しておいたよ」
「え? いつの間に」

年端もゆかない子供にしてはあじをやるなあと筒井は感心した。

2016年4月6日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百二十六回

「何か揉め事か」

アショーカ王がにじり寄った。まずい。関わり合いになったらどんなひどい目に遭うか知れたものではない。筒井は咄嗟の判断でびっこを引いた。

「哀れな足弱あしよわでございます。薬品を運んでいたユダヤ人にぶつかってしまったのです」
「ほう、それは気の毒だ。わしの車に乗りなさい。足弱車あしよわぐるまだが」

思いも寄らぬあしらいを受けた筒井は面食らった。このペテン師、人をあしらう術を心得ているな。言葉に甘えておんぼろのな馬車に乗った。たしかに車輪の軸が緩んでがたぴしと上下左右に激しく揺れる粗末な車だ。小さな橋にさしかかった。欄干は「亞」の字を刻んだ亜字欄あじらんで、川原を見下ろすと子供が四五人、片足をあげて片手でその足首を握り、もう片方の足でぴょんぴょん飛び跳ねて競う足漕あしりこぎをして遊んでいる。小柄な子供が二歩跳んだだけですってんころりんと転んだ。

「やーい、下手くそ。たった二歩しか跳べないのか。悔しかったらここまでおいで」

大柄のガキ大将がアジると少年は顔を真っ赤にして反論した。

「ふん、アシルの化学式も知らないくせに」
「アシルキ?」
「化学式はRCO-だ」
「おまえは理系オタクだから女の子にモテないんだよ」

少年は悔し涙を袖でごしごし拭きながら橋の上に駆け上がり、筒井の車の真横に立ちすくんだ。

「君、名前は?」
足代あじろです」
「足代君か」

子供たちが遊んでいるすぐそばの瀬に竹の杭が何十本も一列に並び、魚を獲るための網代あじろが設けられている。岸辺には網代編あじろあの漁師が穴の空いた網を修繕して網代打あじろうする作業に余念がなく、重労働で汗のしたたる顔を網代団扇あじろうちわで扇いでいる。漁師は汗にまみれた網代織あじろおりの着物を脱いで網代垣あじろがきにかけて天日にさらした。堤の上を網代駕籠あじろかごがエッサエッサと走ってきた。網代笠あじろがさをかぶった先棒の駕籠かきが「あっ」と叫んでつまずいた。駕籠が土手を転がり落ちて網代木あじろぎにぶち当たって粉々に砕け、破片が網代組あじろぐにからまった。堤の上をもう一台、今度は網代車あじろぐるますなわち牛車が通りかかった。網代輿あじろごしにすわっているのはおじゃる丸のような平安貴族だ。牛が道を踏み誤って土手から真っ逆さまに川に落ち、おじゃる丸はもんどりうって網代簀あじろすにからめとられた。輿の網代天井あじろてんじよう網代戸あじろどは崩れ、網代乗物あじろのりものは木っ端微塵になった。

「摂政になって初めて網代車に乗る網代始あじろはじめだったのに」

網にからめとられたおじゃる丸が悔しそうに言った。

「これだから網代張あじろばの車は嫌じゃ。網代庇あじろびさしくるまはこりごりだ」

夜に篝火かがりびをたいて網代の番をする網代人あじろびとが呆気にとられておじゃる丸を見つめた。輿の中に積んであったらしい網代屏風あじろびようぶがぶくぶくと川底に沈んだ。

筒井と足代少年は橋の上から一部始終を見ていたが、橋の向こうから老人がやって来るのを見た少年が「あ、おじいちゃん」と声をかけた。

「君のおじいちゃん?」
「うん」
「この子が何か粗相をしましたか」

老人が筒井に訊ねた。

「いいえ、あそこの川原でいじめられていただけです」
「そうですか」

老人は眼光が鋭く常人にはないオーラに包まれている。

「失礼ですが、あなたは名のあるおかたとお見受けしますが」
「いやいや、つまらん者です。足代弘訓あじろひろのりと申します」
「どこかで聞いたことがあるような、ないような……」
「国学者で歌人です。伊勢神宮外宮の神官をつとめました」
「思った通りだ」
「おじいちゃんはね――」

少年が口を挟んだ。

「天保の飢饉のときに財産をなげうって被災者を救ったんだよ」
「こらこら、身内の自慢をする奴があるか」
「だって本当だもん」

川上から竹を編んで作った網代帆あじろぼに風をはらませた舟が下ってきた。篝火の準備をしていた網代守あじろもりが急にそそくさと道具を片づけて土手を駆け上がり姿を消した。

「どうしたんでしょう」
「あの舟にいる男は役人でな、魚を獲る網代に対する網代役あじろやく、つまり税金の取り立て人じゃ。夜と徴税役人は必ず戻ってくる」

老人の言葉はあじわい深かった。筒井は含蓄をあじわった

2016年4月5日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百二十五回

修行なんて真っ平だ。筒井が無視して立ち去ろうとすると阿闍梨は首根っこをつかまえて引きずり、川原に無理やりすわらせ、二人並んで足湯あしゆに浸かった。

「悪いことは言わない。密教の修行を積みなさい」
「嫌だ。密教も仏教も興味はない」
「ならばアシュアリーを紹介しよう」
「誰だ」
「イスラム神学者。スンニー派の正当神学アシュアリー学派の祖だ。ギリシア哲学の影響を受け、思弁的な理論と啓典を調和させてイスラム神学を確立した」
「哲学か。面白そうだな」
「話は決まった」

阿闍梨は筒井の両足を太い紐で縛った。足結あしゆいでがんじがらめになった筒井はまるでテーブルクロスが落ちないように脚に結びつける足結あしゆいくみのように身動きがとれない。阿闍梨は筒井の体を抱きかかえて舟に投げ入れ、船頭に「阿州あしゆうまでやってくれ」と言った。

「阿州? どこだ」筒井が歯ぎしりして訊ねた。
「阿波国に決まっている」
「徳島か。なんで徳島なんかに」
アシュヴァゴーシャが待っている」
「誰?」
馬鳴めみようだ」
「メミョウ?」
「インドの仏教詩人だ。バラモン教から仏教に帰依し、カニシカ王の保護を受けて仏教の興隆に尽力した人だ」
「ちょっと待て。イスラム神学の話はどうなったんだ」
「話を最後まで聞きなさい。アシュヴァゴーシャはアシュアリーの友人だ。先方に行けばちゃんと紹介してくれる。ただし阿輸迦王あしゆかおうを名乗る男には用心しろ」
「なんで」
「ペテン師だ。阿輸迦王、つまりアショーカ王は紀元前三世紀インドのマガダ国に君臨したマウリヤ王朝第三代の王だが、そんな男がいまも生きているはずがなかろう」
「そりゃそうだ」
「さあ、行きなさい。アシュヴァゴーシャに阿閦あしゆくの奥義を学ぶのだ」
「アシュク?」
「密教の金剛界五仏の一つ、東方に住む仏だ」
「でもイスラム神学は――」
「つべこべ言わずにさっさと行け」

阿闍梨が怒鳴りと船頭は舟を漕ぎ出した。舟は瀬戸内海を進み四国の港に到達した。港はイディッシュ語を話す白人たちでごった返している。

「この人たちは……?」筒井は船頭に訊ねた。
アシュケナジムですよ」
「アシュケナジム……」
「離散したユダヤ人です。中世以降ドイツや東欧に移住して、一部はナチスのホロコーストの犠牲になりました。一命をとりとめた人たちは東の果て日本の徳島に逃れたんです」

筒井は舟を下りた。桟橋に巨大な阿修羅あしゆらぞうが聳えている。阿修羅といえば古代インドの悪神だ。嫌な予感がする。

「貴様は何者だ」

般若のような強面の大男が頭ごなしに怒鳴りつけた。

「あ、あの、筒井と申します。小説家です。あなたは……?」
「わしは阿修羅王あしゆらおうだ。阿修羅道あしゆらどう、つまり阿修羅の住む争いの絶えない世界を統率する王だ」

悪い予感は的中した。

「むかしプロレスラーに阿修羅はらっていう選手がいたんですけど、ご存じですか」
「知らぬ」

筒井は雰囲気を少しでも和らげようと軽口を叩いたが失敗に終わった。

「何をしに来た」
「アシュヴァゴーシャに面会に来ました。哲学の修行をするためです」
「殊勝な奴だな。アシュヴァゴーシャの弟子はみんな亜相の地位を得るぞ」
「アショウってなんですか」
「大納言だ」
「てことは、つまり大臣ですね」
「そうだ。中には亜将あしようになる者もいる」
「アショウ?」
「大将に次ぐ近衛中将、近衛少将だ」

ユダヤ人が通りかかり、石につまずいて転んだ拍子に手に持っていた数本の瓶が割れて、中身の亜硝酸あしようさんが空気と反応して硝酸になり飛び散った。

「うわあ」

硝酸を全身に浴びた阿修羅王が見る見るうちに溶けた。すんでのところで液体をかぶりそうになった筒井は咄嗟に身をかわして難を逃れた。

「危ないじゃないか! なんだ、その液体は」
亜硝酸あしようさんアンモニウム亜硝酸塩あしようさんえん亜硝酸あしようさんカリウム亜硝酸菌あしようさんきん亜硝酸あしようさんナトリウムです」
「化学薬品か。割れやすい瓶に入れて持ち運ぶ奴があるか。気をつけろ」
「すいません」
「うるさいぞ! 何の騒ぎだ」

いかめしい顔をした男が大声を発した。

「あなたは……?」筒井が訊ねた。
「見てわからんのか。アショーカおう、阿輸迦王だ」

阿輸迦王! こいつにだけは用心しろと阿闍梨が言ったペテン師だ。

2016年4月4日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百二十四回

筒井は興奮した。

「こんなところでお目にかかれるなんて夢のようです」
「君は何者かね」
「筒井康隆と申します。小説家です」
「同業者か」
「はい。SF小説もたくさん書きました。先生の『銀河帝国の興亡』はSFの教科書です」
「二週間前に日本に来たのだが作家に会うのは初めてだよ。ちょうどよかった、教えてくれないか。阿遮あしやとは何だね」
「アシャ?」
阿遮羅嚢多あしやらのうたの略ですよ」

船頭が答えた。

阿遮羅あしやらとも言います。不動明王のことです」
「不動明王か。なるほど、これで謎が解けた」

なんの話だかわからない筒井は会話に参加できず唖者あしやのように黙りこくった。川原に葦で屋根をいた粗末な葦屋あしやがある。

「先生はこちらにお住まいですか」船頭が訊ねた。
「いやはや、お恥ずかしい。小説が売れなくて鳴かず飛ばず、すっかり零落してしまった」
「先生ほどの大作家は豪邸に住むべきです。芦屋あしやの高級住宅街がふさわしい」筒井が熱弁をふるった。
「芦屋には船頭仲間がいる」船頭が耳寄りの話を持ち出した。
「本当か」
「へえ。苗字は蘆屋あしや。代々網代家あじやを営んでいる船元です」
「口から出任せではあるまいな」

筒井は不動明王が左眼を閉じ右眼を見開いて睨む阿遮一睨あしやいちげいのような目つきで船頭を睨みつけた。

「とんでもない。天の神様に誓って嘘は申しません」
「じゃあ芦屋にお連れしよう。芦別に行く前に芦屋に寄ってくれ」
「わしは構わねえが旦那さんはいいのか。北海道に行くのが遅くなるが」
「俺のことなら心配するな。よし、話は決まった。――さあ先生、乗って下さい」

筒井はアシモフに手を差しのべて舟に乗せた。

「すまないが、この荷物も頼む」
「これは……」
「近所の農夫がプレゼントしてくれた。芦屋釜あしやがまとかいうらしいが、これも芦屋にまつわる品なのかな」
「同じ芦屋でも福岡県芦屋町の名産ですよ」

船頭が教えた。

「君は博識だね。ついでに教えてくれ。阿闍世あじやせとかいう人はいつの時代の人だい」
「古代インドです。マガダ国王頻婆娑羅びんばしやらの息子です」

舟はあっという間に芦屋に到着し、看板に「蘆屋」と書かれた船元の桟橋に止まった。三人は桟橋に上がった。

「このお宅はご先祖様が蘆屋道満あしやどうまんです」船頭がアシモフに説明した。
「有名人なのか」
「平安時代の陰陽師です。安倍晴明と力比べをしたほどの腕前だったとか」
「そういえば竹田出雲の浄瑠璃に蘆屋道満大内鑑あしやどうまんおおうちかがみという作品があったね」
「さすが先生、よくご存じですね。この界隈はいろんな伝説がありまして、蘆屋菟原処女あしやのうないおとめが住んでいたという言い伝えもあります」

ふたりの会話に加われない筒井は悔しまぎれにパンツ一丁になり、「安心して下さい、穿いてますよ」と、とにかく明るい安村の真似をしてみたが、あじゃらは空振りに終わって何の反応もなかった。

「今日は戯講あじやらこうだよ! ほら、ふたりとも脱いで!」

筒井がひとりではしゃいでみせたが、いかにもあじゃらしいので船頭もアシモフも見て見ぬふりをした。そこへいかにも徳の高そうな阿闍梨あじやりが通りかかって半裸の筒井をいぶかしげに見つめた。

「あなたは何をしているのか」
「え? あ、いえ、別に何も」
「昼日中から素っ裸で騒ぐとは気狂い沙汰だ」
「正気です」
「正気で素っ裸になるとはなおさらたちが悪い。アジャンターで修行しなさい」
「スジャータ?」
「違う。アジャンターだ。インド西部、マハーラシュトラ州北部にある仏教石窟群だ」

2016年4月3日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百二十三回

筒井は芦別行きの小舟に乗った。足骨あしぼねが少し痛むが気にしてはいられない。年老いた小柄な船頭がを川底にぐいと突き立てて舟を漕ぎ出し、「アジホンプショー、アジホンプショー」と呟いた。

「何かのおまじないかい」
「へえ。阿字本不生あじほんぷしようです」
「何それ」
「梵語、つまりサンスクリット語ですが、最初の文字の『阿』は万物の根源を意味して、万物は一切が空であるという真理をさす言葉です」
「哲学者だね」
「滅相もない」

船頭は「ちょいとごめんなさい」と断って、すわっている筒井の足間あしまに片足をさしこみ、踏んばって櫓に力を入れた。舟は葦間あしまを滑るように進んだ。

「船頭さん、名前は」
「へえ、安島あじまと申します」
「珍しい苗字だね。船頭一筋かい」
「若いころは足参あしまいをしてました」
「アシマイリ?」
「お公家様の足を揉みさする仕事です」
「じゃあ朝廷に出入りしてたのか」
「へえ。むかしの話です。その後はあちこちを足任あしまかに歩いて旅から旅へ。葦枕あしまくら、つまり葦の生えているほとりに野宿したりしました」

川岸に高さ十メートルはあろうかと思える棕櫚シュロのような大きな並木が見えてきた。

「ヤシの木かな」
檳榔あじまさです」
「アジマサ?」
「いまは蒲葵びろうと呼ぶのが普通ですが。アジアの熱帯地方、ニューギニア、オーストラリア、九州、沖縄、小笠原に生える木です」
「九州沖縄? 俺は北海道に行きたいんだが」
「安心しなされ。この舟は芦別行きだ。余計な口を挟むもんでねえ。足纏あしまとだ」
「これは失礼。しかし船頭さん、ずいぶん博識だね」
「大したことはねえだよ。先祖が安島直円あじまなおのぶだ」
「恥ずかしながら誰だかさっぱり」
「江戸時代の和算家だ。いまで言う数学者だな。円の面積や球の体積の計算法を編み出した」
「学者の血筋か」
「ところで腹減ってねえか」
「じつはペコペコで」
「煎餅食え」

筒井は煎餅をばりばりあじまんだ

「ちゃんと食べ物を用意してるんだね」
「毎朝あしまめに市場に買い出しに行くからな。藊豆あじまめもあるぞ。食え」

筒井はフジマメを食べた。ふと足回あしまわを見ると馬酔木あしみすなわちアセビの葉が舟底にちらばっている。船頭がともから舳先へさきのほうへあしすると舟は狭苦しいしみにさしかかり速度が落ちてきた。筒井はアセビの葉を口に運んだ。

「こら、やめろ」
「え?」
「その葉っぱは食い物じゃねえ」
「ちょっと味見あじみしようと思って」
「アセビの葉は毒薬だ。防虫剤の原料だぞ」
「知らなかった」

川幅がどんどん狭くなり船路はしみすばかりである。畔には䳑群あじむらすなわちアジガモの群が水草をあさっている。

「人さはに国には満ちて䳑群あじむら去来かよひは行けど」

船頭が和歌を呟いた。

「葉っぱが食いたいならこれを食え」

船頭は味藻あじもすなわちアマモの束を筒井に渡した。食べてみるとあじ素っ気そつけ足下あしもとにはうまそうなアセビの葉がたくさんある。思わず一枚拾って食べようとした途端、足下あしもとかる船頭が駆け寄って取り上げた。

「毒草だって言ってるだろ! 何を考えてるんだ」
「そんなにやいのやいの、足下あしもとからとりように怒らなくてもいいでしょ」

突然空から足下瓦あしもとがわらが落ちてきて筒井の頭にごつんと当たった。

「いてぇ!」

頭から血を流しながら筒井が呻いた。

「わしの忠告を聞かないから罰が当たったんだ。ざまあみろ。おまえさんはどうも足下種姓あしもとすじようが悪い御仁だな」
「なんだと! 下手したてに出てりゃ足下あしもとやがって」

筒井は船頭に躍りかかった。老人は小柄なわりに屈強で、筒井はたちまち羽交い締めにされた。瓦がもう一枚頭に落下した。泣きっ面に蜂で足下あしもとがついた筒井は懸命にもがいたが腕力は老人の足下あしもとにもおよばず、あっけなく背負い投げを食らった。その拍子にともの短い柱の足下貫あしもとぬきがぽっきり折れて櫓と棹が流された。船頭の顔が真っ青になった。

「どうしてくれる! おまえのせいだぞ。足下あしもとあかるいうちに北海道に行くつもりだったのに」
「こっちの台詞だ! 旅の客だと思って足下あしもとやがって
「こらこら、そこのおふたり。喧嘩はおやめなさい。味物あじものでも食べて仲直りしなさい」

黒い眼鏡をかけた白人の男が岸辺から声をかけた。

「誰だ、おまえは」筒井が怒鳴った。
「アイザック・アシモフだ」
「え? ――アシモフ先生!」

2016年4月2日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百二十二回

神様はふんぞり返って威張った。原っぱには牛馬が食うと麻痺するというツツジ科の常緑低木馬酔木あしびが生い茂っている。

「罪深い男よ。おまえの職業はなんだ」
「作家です。小説家です」
「ならば『馬酔木あしび』を読んだことがあるな」
「アシビ? 本のタイトルですか」
「伊藤左千夫が明治三十六年に発刊した短歌雑誌だ。知らぬと申すか。さては作家というのも嘘だな」
「本当です」
「いや、嘘に違いない。神をたぶらかすとは言語道断。炎に焼かれろ」

神様は蘆刈りの人が暖をとるために刈った葦を燃やす葦火あしびに筒井の体を放りこんだ。

「ぎゃあ」

炎に包まれた筒井を眺めて神様は「足引あしひき山田を作り山高み下樋したびわしせ」と古事記の一節を唱えた。

「足が、足が燃える!」
「足の病には火がいちばんの薬だ。――わが聞きし耳に好く似る葦のうれの足痛あしひくわが背勤めたぶべし」

めらめらと燃え上がる炎のまわりを神様が足拍子あしびようしをとって踊った。空から紙切れが何枚もはらはらと落ちてきた。神様が手にとって見るとアジビラで、「偽物の神に鉄槌を」と書いてある。

「根も葉もない中傷をするのはどこのどいつだ。アジピンさんを喉に突っこんでやるぞ」

神様は足韛あしふいごを踏んで葦火に風を送り、炎が天を焦がさんばかりに燃えさかった。ピーヒョロロと葦笛あしぶえが鳴り、もうひとり神様が現れた。

「おまえは……」
「さよう、少彦名神すくなびこなのかみだ。貴様が偽りの神であることはお見通しである」
「なんだと」
「日本の国土は大国主命とわたしが協力して完成させた。そして医療の法を定めたのはわたしだ」
「しまった」
「悪魔よ、目障りだ。うせろ」

神を騙った悪魔はすごすごと退散した。少彦名神が大きく息を吐き出すと炎はたちまち消えた。筒井は体のあちこちを触った。どこにも火傷がなく、脇腹の傷も癒えた。

「筒井康隆よ、無事でなによりだ」

「ありがとうございます。おかげさまで助かりました。でもなぜ火傷をしなかったのでしょうか」
「わたしは医薬の神だ。どんな怪我や病もたちどころに治せる」
「命の恩人です」
「どうだ、わたしの家来にならないか。きびだんごをやるぞ」
「なります、なります」

筒井は桃太郎に従う猿のように喜んできびだんごをもらった。

「足が灰まみれだぞ。この布で拭き取りなさい」

筒井は足拭あしふして灰を落とした。少彦名神は葦葺あしぶの小屋に招き入れた。

「ものは相談だが、わたしは膝から下の毛が白い足駁あしぶちの馬を一頭所有している。これを金銭に換えたいのだ。すまないが都へ行って売ってくれないか」
「いいですよ。でも都へはどうやって」
「あそこに葦舟あしぶねがある。あれに乗りなさい。褒美はたんと弾んでやるぞ」
「わーい」

筒井は大喜びで表に出たが、神様が金を欲しがるとは妙な話だと思い至って足踏あしぶした。

「どうした? 何か不満でもあるのか」

空から再び紙片がはらはらと舞い落ちてきた。手にとって見るとアジテーションとプロパガンダを兼ねたアジプロで、「少彦名神を名乗る詐欺師にご用心! 詳しくはWEBで」と書かれてある。筒井は忍び足で葦辺あしべに行った。舟が一艘もやってあり、岸辺で地元の娘たちが不思議な踊りを踊っている。

「お祭りか何かですか」
蘆辺踊あしべおどりだ」
「アシベオドリ?」
「大長か道頓堀の大阪演舞場で毎年春に南花街組合が催す芸妓の舞踊公演だ」
「つかぬことを伺いますが、この舟は都に行きますか」
「いいや、芦別あしべつだ」
「アシベツ?」
「北海道の中央部、空知川中流の市だ」

思った通りだ。少彦名神とやらいうのはやっぱり偽物の神だ。俺の眼は騙されないぞ。こんな所にいたら命がいくつあっても足りない。よし、北海道に行こう。北海道には稲垣がいる。読者はすっかり忘れているだろうが、あいつは連載第五十二回でメキシコから阿寒に行ったのだ。筒井はズボンのポケットから稲垣のスマートフォンを取りだして電話をかけた。

「もしもし、稲垣です」
「稲垣、俺だ、筒井だ」
「筒井さん! いまどこですか」
「よくわからないが、これから北海道に行く」
「待ちくたびれましたよ。あ、いただいた電話で恐縮ですが、漢字を教えて下さい」
「漢字?」
「足跡の『跡』とか道路の『路』とかって、何偏なにへんって言いましたっけ」
「偏とつくりの偏か。足偏あしへんだろ」
「そうでした。ありがとう」
「ではこれから北海道に向かう」
「お待ちしています」

2016年4月1日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百二十一回

医師は筒井のあしこうあしつのを絞って作った墨で「深くのみ思ふ心はあしわけても人にあはんとぞ思ふ」と書いた。

「なんですか」
「カルテだ」
「カルテって、ふつう英語とかドイツ語では」
「素人に何がわかる。これでいいのだ」

筒井は救急車に乗せられて芦ノ湖に向かった。「お腹が空いてるでしょう。これを食べなさい」救急隊員があし葉鰈はがれいすなわちメイタガレイの煮つけを差し出した。筒井が箸をつけると隊員はもう片方の足の甲に「難波人御祓すらしも夏かりのあし一夜ひとよに秋をへだてて」とマジックペンで書いた。

「何をするんです」
「カルテだよ」
「本当ですか。たしか救急隊員は医療行為が認められないはず」
「文句があるなら窓から放り出すぞ」
「あーごめんなさい」

救急車が芦ノ湖の病院に着くと何か災害でもあった直後なのか、正面玄関の前には救急車両が次々にやって来て医師や看護師が走り回り、通路には患者を乗せたストレッチャーや医療機器が所狭しと並んであしもない。周囲は野原で、葦の穂が毛羽立って綿のようになったあし穂綿ほわたがそよ風に揺れている。

ストレッチャーに乗せられた筒井は病院本館の隣の葦でいた粗末なあし丸屋まろやに担ぎこまれた。当直の医師が筒井の足を見るなり血相を変えた。

「重病だ。すぐこれを飲みなさい」

医師は皿にあじの素を山盛りにしてコップ一杯の水と一緒に差し出した。

「味の素で脚気が治るんですか」
「素人は専門家の言う通りにすればいいんだ。生半可な知識をもった患者くらい傍迷惑な存在はない」

筒井は味の素を口に放り入れて水でごくんと呑みこんだ。開けっ放しの窓から突然葦の茎で作ったあしがビュッと飛んできて医師の首に刺さった。

「ぎゃあ!」

医師は断末魔の叫びをあげたかと思うとばたりと倒れて息絶えた。

「なんで吹き矢が飛んでくるんだ」筒井が驚いて言った。
「きっと葦屋菟原処女あしのやのうないおとめの呪いだわ」看護婦が唇を震わせて答えた。
「ウナイオトメ?」
「むかし兵庫県芦屋市のあたりに住んでいた乙女よ。妻争い伝説の人物で万葉集にも歌われたの」
「なんでそんなむかしの女に呪われるんだ」
「わかりません。でもここにいればあなたも命を狙われる。芦ノ湯あしのゆに行って下さい」
「芦ノ湯って、箱根の?」
「ええ。足の病気には温泉が一番です。温泉に入れる病院がありますから」

筒井は再び救急車に乗せられて神奈川県箱根町に運ばれた。現地に着くと病院は改装かはたまた耐震補強工事か外壁に足場あしばが組まれ、作業員が鉄材を扱う音が騒々しい。正面玄関の前に黄色を帯びた葦花毛あしはなげの馬が一頭、背中に見覚えのある男がまたがっている。筒井はストレッチャーから降りて声をかけた。

「あなたは……ホテルのご主人」
「筒井さん! ご無事でしたか」
「ああ、見ての通りだが。トルクメニスタンに帰ったんじゃないのか」
「ええ。首都のアシハバードに戻ったんですが、家の戸口で転んで大腿骨を折ってしまって」
「それは災難だなあ」
「こちらに名医がいると聞いてやって来たんです」
「骨折の治療にはるばるトルクメニスタンから箱根に」

突然六階の足場丸太あしばまるたが落下して主人の頭を直撃した。

「う、うぐぐ」

主人はあっけなくあの世の人となった。筒井は身の危険を感じて足早あしばやにその場を去り、葦原あしはらに逃げこんだ。周囲には高い建物がない。

「ここなら安心だ」

原っぱの真ん中に突っ立っていると、いきなり柔道の足払あしばらを食らってすってんころりんと地面に倒された。大きな男が仁王立ちして言った。

悪祓あしはらえだ」
「はあ?」
「罪深い者に罪を払わせる祓えだ」
「俺は罪人ではない」
「嘘をつけ。わたしを誰と心得る」
「どなたですか」
葦原醜男あしはらしこおである」
「ぜんぜん心当たりがないんですけど」
「おまえは古事記も知らないのか。大国主命おおくにぬしのみことだ」
「え!」
葦原あしはらくにを完成させた神だ」
「信じられない」
「疑うのか。葦原の国は葦原あしはら千五百秋ちいほあき瑞穂みずほくにとも言う」
「そうなんですか」
「または葦原あしはらなかくにとも呼ぶ」
「へえ」
葦原あしはら瑞穂みずほくにとも言うぞ」
「知りませんでした」
「どうだ、恐れ入ったか」

2016年3月31日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百二十回

蘆名は手のひらの指を揃えてひと振りすると手品のトランプのように名刺が現れた。

あじ真似をするわね」
あしなえでびっこを引いてますが手先は器用なんです」

弁護士はしゃがんで、踵の部分がなく足の前半分だけを覆った草履足半あしなかの鼻緒をきつく締め直した。不自由だという足が妙に長い。

「ずいぶん足長あしながなのね」
「独活の大木ですよ」
「早く病院に連れて行ってくれ」

筒井がしびれを切らして言った。

「あらごめんなさい。すっかり忘れてた。この辺に病院はないかしら」
足長あしながおじさん募金に協力をお願いしまーす」

中学生の男女が五六人並んであしなが育英会の寄付金を募っている。女は百円寄付して質問した。

「この近くに病院ある?」
「ありますよ。あそこです」

女の子が指をさした。白い建物が見える。筒井が女の肩に腕を回して歩き出すと首筋に何やらもぞもぞと動くものがある。

「ぎゃー!」

足長蜘蛛あしながぐもだった。両手でばたばたと首をはたくと足長蜂あしながばちの大群が襲いかかってきた。脇腹から血を流しながら脱兎の勢いで走り出し、石につまづいて転んだ。巨大なミミズが鼻の穴に入ってきた。

「うぎゃー!」

よく見ると足無あしな井守いもりだった。手ではたき落とすと足無あしな蜥蜴とかげが背中を這い上ってきた。

「ひぇ~!」

筒井はひとりでのたうち回り恐慌を来した。なんで俺だけが襲われるのか。記紀神話に登場する出雲の国つ神大山祇神おおやまつみのかみの子足名椎あしなずちの祟りだろうか。

大暴れしてイモリとトカゲを退散させひと息ついて歩き出した途端、三つ足のついた足鍋にけつまずいてまた転んだ。筒井はべそをかいた。

「何をひとりで大騒ぎしてるの」

後を追ってきた女が呆れて言った。

「ちゃんと足並あしなみを揃えて歩かなくちゃダメじゃない。ほら、足並あしなみ血が噴き出てる」
「わたしの先祖は蘆名盛氏あしなもりうじ。戦国時代の武将で会津黒川城主です」

弁護士が問わず語りに言った。

「先祖の話なんかどうでもいいから肩を貸して」

筒井は女と蘆名に挟まれて両腕を二人の肩に回し病院に行った。応対した医師は筒井をひと目見て言った。

「傷は大したことない。それより足馴あしならしをしたほうがいい」
「足は何ともないんですけど」
「いやいや、足腰を鍛えて損はない。裏の小川に小さな舟があるでしょう」
「ええ」
脚荷あしにを積みなさい」
「アシニ?」
「舟の喫水を深くして重心を下げて復原力を増すために舟底に積む重荷です。専門用語ではバラストと呼ぶ」
「重労働じゃないですか」
「つべこべ言わずに葦荷あしにを運びなさい」

筒井はしかたなく言われるがままあしまかせて荷物をせっせと小舟に積んだ。

「うるさいぞ! ここは病院だ!」

患者の男が叫んだ。筒井は音を立てないよう足抜きして作業を続けた。荷物を積み終えて足拭あしぬぐし、川の水で冷えた足を足焙あしあぶで温めた。

「ここもかしこも葦根延あしねはう下にのみこそ沈みけれ」

様子を見に来た医師が呟いた。

「先生も和歌をたしなむんですか」
「ちょっとね」
「なぜかわたしのまわりには和歌に詳しい人ばかり集まるんです」
「君は和歌に興味がないのか」
「興味はありますけど才能が」
「才能は無関係だ。煩悩を捨てなさい。阿字あじ一刀いつとうだ」
「え?」
「一切万有の真理を含む阿字の意を悟って、仏の智慧によって煩悩を断ちきるのだ」
「真理を悟るなんて無理です。わたしはしがない三文文士でして」
「最初から諦めてはダメだ。――我が聞きし耳によく似るあしうれひく吾が背勤めたぶべし。どうだ、煩悩から解放されればこんなふうにスラスラと歌が詠める」
「あ、いてて」

筒井は急に足に痛みを覚えてしゃがみこんだ。

「どれどれ、見せなさい。――ああ、あしだ」
「アシノケ?」
「脚気だよ。しかも重症だ。さては重労働したな」
「先生がやれって言ったでしょ」
「うるさい。脚気なら芦ノ湖あしのこに名医がいる。紹介してあげるからいますぐ救急車で行きなさい」

2016年3月29日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百十九回

「いまこそ立ち上がりましょう!」

筒井が外に出てみるとアジテーターは乙武洋匡だった。参議院議員選挙に自民党から立候補したらしい。

「立ち上がるって、おまえ、足ないじゃん」筒井が野次を飛ばした。
「誰ですか、心ないことを言うのは? ――あ、筒井康隆さんですね」
「そうだよ」
「悪筆で有名な」
「余計なお世話だ」
「どうせ平安時代に生まれていれば葦手書あしでがきが評判になるとでも思ってるんでしょ」

図星をさされた筒井は一瞬ひるんだが、反撃に打って出た。

「おまえ、五人の女と不倫したそうだな」
「それがどうした。こう見えても俺はモテモテなんだ。悔しかったら足手限あしてかぎ女をナンパしてみろ」

乙武はふんぞり返った。自信に満ちあふれた足手影あしてかげ――といっても手足はないから単に姿と言うべきかもしれないが――が筒井を見下していた。

「たしかに俺は悪筆だ。もし平安時代に生きていたとしても葦手形あしでがたがみっともないとからかわれるのが落ちだ。しかし俺は傑作小説をたくさん書いた。作品の質と字の巧拙は無関係だ」
「せいぜい負け惜しみを言ってろ、このうすのろ」
「なんだと、このちんちくりん」

乙武は演説台から飛び降りて筒井に襲いかかった。

「放せ! 足手搦あしてがらなんだよ、おまえは」
「手足はないけど無病息災、足手息災あしてそくさいだ」
「ちゃんちゃらおかしいわ!」

乙武はさやに葦手の模様をほどこした葦手あしでけんを抜き出して筒井に斬りかかった。

「離れろ! 足手あしてまといだって言ってるだろ!」
「おまえの手足をちょん切って葦手文字あしでもじを書けなくしてやる」
「やめろ、放せ」

乙武が筒井の脇腹を剣で突き刺した。するとどこからか女が現れて筒井の腕を引っ張り走り出した。

「なんだ、あなたは……」
「いいから黙って。アジトに隠れましょう」

女は草深い藪の奥にある小さな小屋に招き入れた。筒井の脇腹から流れる血を見て女は言った。

アシドーシスだわ」
「え?」
「酸血症よ。血液中の酸とアルカリの平衡が破れて血漿けつしようが酸性に傾いている。糖尿病の末期症状」
「そんなことが一目見ただけでわかるのか」
「当たり前よ。医者だもの。悪い血をぜんぶ抜かないと助からないわ。でも道具がない。象に踏んづけてもらえば助かるけど」
「象ならいるよ」
「どこ?」
「山下公園の足止あしどま
「急いで行きましょう。早く」

筒井は女に支えてもらって山下公園に向かった。途中で道路工事にぶつかり足留あしどを食らった。

「すみません。急病人です、通して下さい」

女は懇願したが作業員たちは足留あしどきんをもらったと見えて意に介さず作業の手を緩めない。

「お願いです、この足留あしどぐすりを差し上げますから」
「何それ」
「染色の速度を遅らせて染色のむらを防ぐ薬です」
「なんの話だ? 俺たちは道路工事してるんだ、染め物の薬なんか要らねえよ」
「一刻を争うんです。お願い」
「じゃあそこの斜面を通れ」

女は筒井を支えながら足留あしど丸太まるたを渡った。筒井が丸太を渡りきろうとしたとき女が足を滑らせて転び、その拍子に女の手が筒井の両足をつかみ、筒井は足取あしとりを食らった力士のようにバタンと倒れた。

「ちょっとあんたたち! 歩行者にこんな丸太を歩かせるなんて危ないでしょ!」

女は危うい足取あしどで作業員に詰め寄った。作業員は平気の平左で、株の売買に夢中らしくタブレットで株式相場の足取表あしどりひようをチェックしている。

「裁判に訴えるわよ!」
「裁判ならお任せ下さい」

見知らぬ男が声をかけた。

「あなたは誰?」
「弁護士です。蘆名あしなと申します」

2016年3月28日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百十八回

足軽はぴょんぴょん跳ねてはしゃぎ、勢い余って欄干から海に落ちた。

「あ!」

驚いた三人が欄干から下を覗くと足軽はすでに海の藻屑と消えた。

「人生はあしたつゆ。人間の命ははかないものです」

芦田が感に堪えて言った。

あしたものを召し上がる天皇陛下もいつ何時命を落とさないとも限らない。明日葉あしたばを喉に詰まらせて窒息するかもしれない。明日は明日の風邪を引く」
「それを言うなら明日あした明日あしたかぜふくだろ」

船は横浜港に着いた。波止場に男がひとり、船に向かって手を振っている。

「おじさん!」

芦田が叫んだ。

「親戚か」
「ええ。芦田均あしだひとしです」
「知らないなあ」
「政治家ですよ。第二次大戦後民主党の総裁を務めました」

筒井と主人、芦田は象を引き連れて船を降りた。

「わたしはおじさんに用があるのでここで失礼します。では」

芦田はおじと一緒に去った。

「わたしもホテルに戻らないと。女房と子供が心配している」
「どうやって帰る」
「この船で」
「そうか。達者でな」
「筒井さんもお元気で」

主人は再び船に乗った。ひとりぼっちになった筒井は象の背中にまたがり、とぼとぼと山下公園を歩いた。足首の飾りにつけた足玉あしだまをきらきら輝かせた少女が筒井を仰ぎ見て何やら言っている。

「なんだい」
足溜あしだまはあそこだよ」
「アシダマリ?」
「象を休ませるところだよ」

筒井が前方を見ると、なるほど象が五六頭並んで餌を食っている。山下公園に象がいるとは意外だ。少女は空を指さした。

足垂あしたぼしだよ」
「え?」
「蠍座の尻尾」

空を見上げると水平線ぎりぎりのところに九つの星が煌めいている。

足序あしついに寄っていかない?」
「お嬢ちゃんのうちに?」
「うん」

筒井は足溜りに象を休ませて少女の家を訪ねた。少女の母親が琴の糸の端を結ぶあしを調整している。父親は人情浄瑠璃の足遣あしづかで、人形の足付あしつきの稽古にふけっている。庭には小さな池があり、池のまわりの石に数珠藻じゆずもなどの葦付あしつきがびっしり苔生こけむしている。

「なんのお構いもできませんが」

母親が足継あしつに乗って茶箪笥から羊羹を出し、足付折敷あしつきおしきに乗せて振る舞った。足付あしつけすなわち足をつけた盆で菓子を振る舞われるのは初めてで、筒井は恐縮した。

「自家製ですが、味付あじつはいかがでしょうか」
「おいしいです」
「よかったら味付海苔あじつけのりもどうぞ」

羊羹と味付海苔。予想もしない組み合わせだ。

「できればご飯をいただきたいのですが」
味付飯あじつけめしでよければ」

母親は五目飯を茶碗によそって差し出した。畳の上に薄皮のようなものが落ちている。

「これはなんですか」
葦筒あしづつです」
「アシヅツ?」
あしの茎の中にある薄い皮です。――難波潟なにわがた刈り積む葦の葦筒あしづつひとへも君を我や隔つる」

和歌だ。どうして俺のまわりには和歌に詳しい人間ばかりが集まるのか。

葦角あしづのも古来歌に詠まれております」
「アシヅノ?」
「葦の新芽です」

筒井にはなんの話かわからない。だんだん腹が立ち、足手あしてがわなわなと震え始めた。俺は和歌俳諧のたぐいが苦手だ。そもそも字が汚い。大人になっても悪手あしでで何度も恥をかいたものだ。平安時代に生まれていたら、おまえの字はなかなか面白い葦手あしでだ、味わい深い葦手絵あしでえだと褒めてくれる人がいるかもしれないが。

「国民の皆さん! 今こそ立ち上がろうではありませんか!」

突然家の外でアジテーションが始まった。

2016年3月26日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百十七回

筒井は高らかに宣言した。

「そんなの甘えですよ」

主人が反論した。

「あなたには信念というものがないんですか」
「え?」
「読者がいようがいまいが冒険を続けたければ続ければいい。読者を頼りにするなんて甘えです」
「そうかな」
「そうですよ。連載百十六回なんていう中途半端な回数でやめるとは情けない」
「じつは俺も心の中では情けないなあと思ってる」
「ほらみなさい。続けましょう。信じる道を突き進むべきです」

主人は十六羅漢の阿氏多あしたのような穏やかな笑みを浮かべて言った。

「あなたの言う通りだ」

見知らぬ男が話に割って入った。

「あなたは……?」
芦田あしだと申します」

芦田は足駄あしだの鼻緒を締め直して言った。

「突然横から口を挟んで失礼とは存じますが、ご主人は正しい」
「あなたもそう思いますか」
「はい。筒井さんにはぜひとも古代インドの聖なる山阿私陀あしだまで旅を続けてほしい。命ある限り旅を続けてほしい!」

芦田は音楽のアジタートのように激しく、熱情的に訴えた。

「俺も同感なのだ。しかし何事も先立つものがなくては――」
「金ですか? 足代あしだいなら任せて下さい」

芦田は大きな蟇口からドル紙幣をつかんで渡した。

「恵んでくれるのか」
「いくらでも用立てますよ」
「ありがとう。ところで君は何者だ」
芦田恵之助あしだえのすけの孫です」
「芦田恵之助?」
「ご存じありませんか。兵庫生まれの国語教育者で、小学校の教諭を長く務めるかたわら国語読本の編集に携わりました。綴り方教育や読み方教育に独自の理論を打ち立てました」
「国語学者の孫とは心強い。『言葉におぼれて』にぴったりだ。それにしても足が長いな」
「ええ」

足高あしだかの芦田はこれ見よがしに長い足をブラブラさせて見せた。

「子供のころのあだ名は足高蜘蛛あしだかぐもでした」
「いつも足駄を履いているのか」
「どこへ行くのも足駄掛あしだがです」
「健脚だな」
「静岡の愛鷹山あしたかやまに登るくらい朝飯前ですよ」
「標高は?」
「一五〇四メートル」
「大したもんだなあ」
「一緒に登りませんか。インドの聖なる山に登る練習を兼ねて」
「しかしここはエチオピアだ」
「とりあえず日本に行きましょう」
「筒井さん、あなたはエチオピア大使なんでしょう?」

主人が口を挟んだ。

「おお、そうだった。自分でも忘れていた。では港に向かおう」

筒井と主人、足軽、芦田の四人は象にまたがりアデン湾の港に行った。浜辺に鹹草あしたぐさすなわちアシタバが生い茂り、足駄を履いたように床下を高く作った足駄蔵あしだぐらが建ち並んでいる。芦田の足丈あしたけは尋常ではなく、象の背中にまたがっても足先が地面につくほどだった。

港には大きな城門があり、見上げると渡櫓わたりやぐらの床に設けられた足駄狭間あしださまから石礫いしつぶてが次々と落下して筒井たちの頭に当たった。敵兵と思われたらしい。

「やめろ! 俺はエチオピア大使だ」

筒井が叫ぶと石の落下はぴたりと止まった。一行は大きな客船に乗り日本に向かった。

葦田鶴あしたずだ」

芦田が沖を指さした。鶴が一羽ゆうゆうと飛んでいる。

「君に恋ひいたもすべ無み葦田鶴あしたずねのみし泣かゆ朝夕あさよひにして」
「どいつもこいつもなぜ和歌に詳しいんだ」

筒井は自分の無知をよそに腹が立った。象を貨物室の足立あしだに閉じこめてから四人はデッキに立った。

「筒井さん、明日天気あしたてんきで遊ぼう」

足軽が出し抜けに言った。

「明日天気?」
「子供のころやらなかった? 履物を放り投げて表が出れば晴れ、裏なら雨。占いだよ」
「おお、やったやった。懐かしいな」

筒井は右足を大きく振って靴を放り投げた。靴は手すりを越えて海に落下した。

「あ」
「あひゃひゃ」

足軽は手を叩いてはしゃいだ。

「この野郎。人の不幸を笑いやがって。おまえなんか朝所あしたどころの会食に俺が招かれても絶対連れて行かないぞ」
「筒井さん、世の中は無常ですよ」

芦田がなだめた。

「諺にも言うではありませんか。あしたには紅顔こうがんありてゆうべには白骨はつこつとなる
「靴を片方なくしただけだ。別に死ぬわけじゃない」
「いいえ、これが人生の摂理です。摂理さえ理解できればこの世に未練はない。あしたみちかばゆうべにすともなり
「あーでも靴が片方しかないと不便だなあ。畜生」
「切迫して先のことが考えられないんですね。まさにあしたゆうべをはからず
「うるさい」

2016年3月25日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百十六回

「居酒屋ってこんなに遠いのか」筒井が主人に訊ねた。
「おかしいなあ。目と鼻の先のはずなのに」
「目と鼻の先って、カスピ海の東からアフリカまで来ちゃったんだぞ」
味耜高彦根神あじすきたかひこねのかみの思し召しです」足軽が答えた。
「なんだって」
大国主命おおくにぬしのみことの子です。その証拠にあれをご覧なさい」

指で示されたほうを筒井が見ると、天皇の大喪に用いる葦簾あしすだれが風に翻っている。

「ここは古事記や日本書紀の世界なのか」
「間違いない。こう見えてもわたしは日本神話に詳しい。ここから先はわたしが先導する。あなたはアシスタントになってくれ」

足軽が宣告した途端サッカーボールが飛んできて顔に当たり、足軽は象の背中から地面に落ちた。

「おっさん、ちゃんとアシストしろよ。この下手くそ」

褐色の肌をした少年がボールを拾って悪態をついた。

「おい小僧」主人が怒鳴った。
「なんだよ」
「おまえはサッカーみたいな軟弱なスポーツが好きなのか」
「悪いか」
「悪い。男と生まれたからには相撲だ。俺と勝負しろ」

主人は象の背中からひらりと飛び降りて少年と足相撲あしずもうをとった。相撲をとらせれば右に出る者のない主人はあっさり勝った。少年は足摩あしずして悔しがった。

「思い知ったか」
「うん。負けを認めるよ」
「じゃあ足摺宇和海国立公園あしずりうわかいこくりつこうえんへの道順を教えろ」
「え?」
「高知県と愛媛県にまたがり、足摺岬あしずりみさきを中心として宇和海、竜串たつくしなどの海中公園や滑床なめとこ渓谷を含む国立公園だ」
「どこの国の話?」
「日本だ」
「なんだ、日本ならアデン湾から直行便の船があるよ」
「エチオピアのことなら俺に任せろ」

筒井が話に割って入った。

「信じてもらえないかも知れないが、俺はエチオピアの大使だ」
「筒井さん、寝言はやめて下さい」
「いや、本当だ。連載第七十回で俺はエチオピアに来たのだ。正確に言うとエチオピアの前身のアクスム王国だが」
「じゃあ、前に一度ここに来たことがあるのか」
「その通り」
「畜生! 俺が先導しようと思ったのに」

話を聞いていた足軽が足摩あしずって悔しがった。

「来たことがあるなら最初からそう言えよ」
「言おうと思ったが、ちょっと気になることがあって」
「何が」
「俺の冒険は連載第百十六回を迎えたが、読者の反応がないのが気がかりなのだ」
「読者? なんの話だ」
「君たちは気づいてないが――」

筒井は象の背中にまたがったまま、地面に突っ立っている主人と足軽に語りかけた。

「俺たちは小説の登場人物なのだよ」
「登場人物? 馬鹿々々しい。俺は正真正銘の足軽だ」
「わたしだってホテルの主人だ。妻もあれば子もある」
「そんなことは何の証明にもならない。俺たちは作者が創造した虚構の人物なのだ」
「じゃあ、わたしたちの行動を黙って見つめている人がいるのか」
「そうだ。でも何の反応もない。暖簾に腕押し、糠に釘。このまま冒険を続けていいものかどうか」
「せっかくエチオピアまで来たんだ。続けましょう」

主人が鼓舞した。

「俺も続けたいとは思ってるのだ。古代インドの聖なる山、阿私仙あしせんに行ってみたいし、陰暦五月五日の賀茂かも競馬くらべうまの前の朔日に馬を試乗する足揃あしぞろもやってみたい。一八五五年にイギリスの病理学者アジソンが発見したアジソンびようの患者を見舞いたい」
「そんな難しい話は明日あしたにしましょう」
「いや、いまが潮時だ。俺は読者の反応があるまで冒険を中断しようと思う」
「どういうことです」
「読者が粗忽第二共和制意味なし掲示板にひとこと感想を書いてくれたら冒険を続ける」
「ひとことでいいのか」
「うん。読んでますよ、とか、つまらないぞ、とか、なんでもいい。誰かひとり、たったひとことでいいから反応があったら続ける」

2016年3月23日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百十五回

足軽は仰向けになり足の裏で茶筒をくるくる回した。

「小さな茶筒で足芸あしげいとは味気あじけない。もっと大きい物を回してみろ」

筒井が吐き捨てるように言うと玄関のドアを突き破って黄色と白の混じった葦毛雲雀あしげひばりの馬が乱入しエントランスホールで暴れ出した。

「殺される!」足軽が叫んだ。
「逃げろ」主人が言った。
「どこへ」
彼処あしこだ」

三人はカウンターの奥から勝手口を出て裏に逃げた。小川が流れ、葦五位あしごいすなわちヨシゴイが群をなして泳いでいる。

「助かった。日ごろ足腰あしこしを鍛えておいてよかった」

足軽が安堵の溜息をつきながら草鞋の紐をきつく縛り直して足拵あしごしらした。ドドドっと地響きがして馬が裏口から顔を出した。

「うわ」
「まるで闘牛だ」
「ここにいたら殺されるぞ」
「象で逃げよう」筒井が言った。
「どこだ」
彼処許あしこもとだ」

筒井は二人を引き連れて表口に回り、三人揃って象の背中にまたがった。追いかけてきた馬は巨獣に恐れをなしておとなしくなった。

「命拾いしたよ」
「ありがとう」

主人と足軽が口々に礼を言った。筒井は鼻高々であたりを見下ろした。ホテルの前の広場は紫陽花あじさいの花が咲き誇っている。

「お礼に味酒あじざけをご馳走しましょう」
「アジザケ?」
「うまい酒のことです。裏の川沿いに居酒屋が」

筒井は象を操って川沿いを歩いた。チドリ目カモメ科アジサシ亜科の鰺刺あじさしが空中から急降下して水中に突入し魚をとった。

「見事だ」足軽が感心した。
「俺の象の操りかた、足捌あしさばも見事だと思わないか」筒井が自慢げに訊ねた。
「象なんか子供でも操れる」

足軽がざまに言った。

「春鳥のねのみ泣きつつあじさわう夜昼知らずかぎろひの心燃えつつ 歎く別れを」

主人が呟いた。

「和歌ですか。教養があるんですね」筒井が感服した。
「先ほども申しました通り、トルクメニスタンに来てから日本の伝統文化に俄然興味をもちまして」

象の足触あしざわが変化した。川岸の柔らかい土を踏んでいるのに石ころか何かが足障あしざわになって象がときどき立ち止まる。

「居酒屋はどこですか」
「この先です。若いころは足繁あししげ通いました」

葦茂あししげ川の流れはいつ果てるとも知れず地平線まで伸びている。川の両側は見渡す限りの草原で、対岸に火の見やぐらのような建物がぽつんとひとつだけあり。上り下りする足代あししろは朽ち果てている。足軽はさやの帯取の足金物を銀で作った足白の太刀あしじろのたちを後生大事に握って象の背中で揺れている。

「居酒屋は」
「この先です」

主人と筒井が何度も同じ言葉を交わしながら進んで行くと、アフリカ北東部エチオピア連邦民主共和国の首都アジスアベバに着いた。

2016年3月22日


広辞苑小説『言葉におぼれて』 第百十四回

筒井は降参した。

「相撲、強いですね。まるで足柄山あしがらやまの金太郎だ」
「秋から冬にかけて蘆刈あしかりの作業をして足腰を鍛えてます」
「蘆刈……たしか能にそんな話があったような……」
「世阿弥の作品ですね。難波の葦売りに落ちぶれた日下左衛門が立身して探しに来た妻とめでたく再会する」
「相撲だけでなく能にも詳しいとは」
「トルクメニスタンに来てから日本の伝統文化に目覚めました。刈りとった葦は葦刈小舟あしかりおぶねで運びます」

ホテルの入口が騒々しくなった。二人がロビーに行くと時代劇から抜け出したような足軽あしがるがひとり、肩で息をしながら足軽具足あしがるぐそくの汚れを手ではたいている。

「どうしました」主人が訊ねた。
「わたしは足軽大将あしがるだいしようだが――」
「足軽大将?」
「弓組や鉄砲組、槍組など足軽の部隊を指揮する者だ」
「なんのご用ですか」
足革あしがわを拝借したい」
「アシガワ?」
「刀の足金物あしかなものにつけて帯取を通す革だ」
「見たことも聞いたこともありません」
安治川あじかわに向かう途中で道に迷い、転んだ拍子に足革が切れてしまったのだ」
「安治川は大阪、淀川の分流ですよね。ここはトルクメニスタンですよ」
「だから道に迷ったと申しておるではないか」
「道に迷って日本からトルクメニスタンに来るとはずいぶん粗忽ですね」
「無礼者!」

足軽は激昂した。

「今でこそ足軽に身をやつしてはおるが、もとは密教の僧侶。万物の根源である阿字を観想する阿字観あじかんの修行を積んだ。貴様を呪い殺してやるぞ」
「ああ、ごめんなさい。お詫びの印にこのお酒をどうぞ。味利あじきして下さい」
「酒など要らぬ。お命頂戴つかまつる」

足軽は刀を抜いて構えた。

「無茶を言わないで下さい。――じゃあこうしましょう。ア式蹴球あしきしゆうきゆうで勝負しませんか」
「ア式蹴